おはようございます。寒い朝ですね。今日は、久しぶりに溜まっている展覧会記事です。
すでに終了しているが、平塚市美術館での遠藤彰子展を見てきた。たしかどこかで彼女の個展を見ているはずと、過去ブログを調べてみたら、2014年に上野の森美術館で遠藤彰子展/魂の深淵をひらくを見ている。そのときのブログ記事を再掲してみる。”四季シリーズでは、人間存在の暗い深淵に差し込む微かな光を頼りに描き上げたかのような、どちらかというとコワイ風景が続いたあとに、一転、次の部屋には明るい楽園風景の絵がずらりとあったり、また、会場から入ってすぐの”街シリーズ”の絵では不思議な立体空間にぼくらの頭をくらくらさせられる。青空を下に覗き込むような絵があったり、螺旋階段がずっと下までつづいていて、まるでバベルの塔をひっくり返したようなものとか。と、ある。
あれから、7年経過した。回顧展であるので、当然、前述の重要作品は重複して展示され、楽園シリーズや街シリーズもある。遠藤は、1989年からは500号 (248.5×333.3cm) をひとつの単位とする大作のシリーズを始めた。2000年代に入ると、500号を結合し、1000号、1500号となる更なる大型作品を発表している。今回はその超大作シリーズや本展のために作成したという新たな作品もあり、豪華な展覧会となっている。
写真撮影が、いくつかの作品のみ許可されているので、それらを掲載して、遠藤ワールドを再度、ブログ上で楽しみたい。それぞれの絵について作者自身の思いが綴られている。なるほどと合点のいくものばかりではない。でも、それはあたりまえのことで、ぼくの感性が足らないか、違うだけのこと。コメントにはぼくも知らなかったアインシュタインの言葉まで出てきたりして、どれもとても面白い。
街(たそがれ)(1982)黄昏のイメージは、私にとって終末のイメージであると同時に、最も美しい風景に感じられる(遠藤自身のコメント、以下同様)
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楽園の住人たち(1974)芸術的イメージとは、つねに比喩できることを想うと、普遍的なものの中に価値を見出さなければならないはずである(遠藤)。
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部屋(1976)このコメントは長いので、貼り付ける(笑)。
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私の街(1981) 迷路のような街の中で、絵の中の人物たちと一緒に旅を始めた。心のように見えないものを、象徴や寓意として表にあらわすことを考え始めた(遠藤)
私は来ている 此処に何度も(1990)
鐘 (2007-8) バロックの静物画のように、卓上から溢れかえる食物たち。果てしなく饗宴の鐘は鳴り響く。
雪・星ふりしきる(2020) 次のアインシュタインの言葉がこの絵の原点になっている。
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眸ひらく明日(2016) 明々と灯る都市の窓。カーニバルは噴水のように咲き開き、時が刻まれてゆく。
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ことば響くあたり(2019年)大樹は時間そのもので、枝を限りなく広げてゆく。今、花咲き誇るとき、その根方と水の辺にはさまざまな言葉が満ち溢れている。そして夕日はそれを静かに見つめている。
黒峠の陽光(2020)白い絵(ことば響くあたり)に対し黒い絵と呼ばれる。両者が並ぶ図。
炎樹(2017)
展示風景
本展は12月12日で終了しました。
遠藤彰子 1947 東京生まれ / 1969 武蔵野美術短期大学卒業 / 1986 安井賞展安井賞受賞 / 1986 文化庁芸術家在外派遣研修 / 2007 平成十八年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞 / 2014 紫綬褒章受章
とても面白い展覧会でした。
それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!