気ままに

大船での気ままな生活日誌

三鷹ゆかりの文学者たち

2010-12-16 18:06:33 | Weblog

原宿の太田記念美術館で忠臣蔵の浮世絵展を見終えて、さて、次は何処へ行こうかと原宿駅のホームで考えた。第一候補は、横浜に戻り、やはり討ち入りの日に、歴史博物館の忠臣蔵浮世絵展をみようかと思った。第二候補は、せっかくここまで来たんだから、わが故郷、三鷹でやっている”三鷹ゆかりの文学者たち”展にしようかと思った。どちらにするか迷った。そうだ、山手線のどちらか早く来た方にしようと、考えた。人生はギャンブルだ。で、ほとんど同時だったけど、わずかに新宿回りが早く止まったのだ。

駅前の三鷹市美術ギャラリーで、市制施行六十周年記念展として「三鷹ゆかりの文学者たち」が開催されていた。三鷹市も、還暦になったのだ。ぼくが、ものごころついてからは、ずっと市だったから、三鷹町、三鷹村なんて時代があったなんて考えてもみなかった。明治22年に神奈川県北多摩郡三鷹村が誕生して、4年後に東京符に編入されたとのことだ。

展示室に入ると、まず、だれでも知っている、三鷹村、三鷹町民が待っている。三木露風、山本有三、武者小路実篤、太宰治の四横綱だ。ぼくにとっては、実篤と山本有三が思い出に残る小説家だ。実篤の”馬鹿一”の初版本はじめいくつかの馴染みの本が展示されていた。山本有三は路傍の石くらいしか覚えがないが、井の頭公園に向かう道なりに、ぼくの子供の頃からあった山本有三記念館(むかしは図書館といっていたような気がする)に、自転車でよく行ったものだ(結構、本好きだったのだ、えへん)。ついでに公園も(結構遊び好きだったのだ、えへん)。井の頭公園は最寄駅は吉祥寺だから武蔵野市と思っている人が多いが、大部分は、わが三鷹のものです。えへん。

 そして、辻井喬。四歳から十一歳までの少年期を三鷹で過ごした。自伝的小説”暗夜遍歴”などに、この時代の記憶が書かれているという。”週に一度、父が旧市内の家からやってくる日を除けば、三鷹での生活は、母と妹の三人だけの、鳥や虫や植物たちの営みに囲まれた、閉ざされた世界だった”(彷徨の季節の中で)。

瀬戸内寂聴も離婚後、京都を離れ、小説家を目指して、上京し、はじめての下宿が三鷹だった。東女の同級生がみつけてくれたそうだ。ぼくは、この展覧会場がわからず、連雀通りの方まで行ってしまったが、どうもその辺りに住んでいたようだ。当時の、木々の生い茂る道の写真が出ていた。当時はりんご箱を机にして少女小説を書いたそうだ。津村節子もそうだった。

吉村昭は大学の文芸部で津村節子と知り合い、結婚する。おしどり夫婦で知られる。吉村は何度も芥川賞候補になったが落選ばかり、奥さんは一発で、先に芥川賞をとってしまったそうだ。夫は内心、どんな気持ちだっただろうか。 吉村昭は太宰治賞をとっているので三鷹に引っ越したのだろうか(笑)。昭和44年に移ってきたとのことで、ぼくはもう川崎市民になっている(関係ないけど)。

詩人、大岡信も三鷹の上連雀に住んでいた。”折々のうた”は、よくぼくも図書館でみる。息子さんの大岡玲も小説家として活躍されている。芥川賞、三島賞もとっている。上連雀はぼくの通った小、中学校の校区だから、もしかしたら同窓かもしれない。

ぼくの少年時代の遊び場に、国際基督教大学ができて、大学のゴルフ場(現在は野川公園になっている)までできて、遊び場はつぶされ、当時のぼくらはうらんでいたんだけれど、そこの卒業生、高村薫と平田オリザも、三鷹ゆかりということで、紹介されていた。

引っ越し魔の村上春樹も、三鷹に住んだことがある、”村上朝日堂”に三鷹時代のことが書いてあると、紹介されていたので、家に帰って読んでみた。”自分は日記をつけない人なんだけど、どういうわけだか、三鷹時代だけはつけている”、とある。”1971年のことだけど、夕刊は15円で、平凡パンチは80円、ハイライト80円だった。一月三日に、三鷹大映(ぼくもよく行った、封切り館でないので、当時は東映の時代劇なんかもやっていた)で山下耕作の”昇り龍”(良い映画である)と渥美マリの”いいものあげる”(良いタイトルである)の二本立てを観ている。五日には新宿の京王名画座で”イージーライダー”を観ている。イージーライダーを観たのはそれで三回目だった” ぼくは、村上春樹の本は、小説よりエッセイの方が好きである。

三鷹のことを書くときりがないんだけど、当用漢字に”鷹”の字を入れないのは、元三鷹市民としては、けしからんと思う。鷹を入れないなら、鷲もいれないでほしい。鶏(酉)は是非残してください。ぼくの干支ですから。虎や兎はどうでもいいです。

 

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いざ討ち入り!浮世絵忠臣蔵

2010-12-16 11:17:06 | Weblog

赤穂浪士の吉良邸への討ち入りの日、12月14日、まさにその日に、”いざ討ち入り!浮世絵忠臣蔵”をみてきました(汗)。原宿の太田記念美術館です。昨日は、横浜の神奈川歴史博物館の”浮世絵*忠臣蔵”展をみて、その足で、泉岳寺で赤穂浪士のお墓にお参りしてきました。連日の忠臣蔵参りです(滝汗)。順を追って、日々報告したいと思います。

元禄15年に”赤穂事件”がおこり、その当時から”忠臣蔵”の物語として語り伝えられてきたが、その約50年後に、その事件は、幕府の手前、”太平記”の世界に模した格好にした物語”仮名手本忠臣蔵”がつくられ、浄瑠璃や歌舞伎で盛んに演じられるようになる。だから、浮世絵も、”仮名手本忠臣蔵”に即していて、大石内蔵助は大星由良之助で、浅野内匠頭は、塩治判官、吉良上野介は高師直として出てくる。

いきなり、鎌倉の八幡さまの絵が出てくる。えへん、えへん。仮名手本忠臣蔵が大序(初段)から始まり、11段目まであるのだ。その大序は、太平記に模してあるから、足利尊氏は戦死した敵方、新田義貞の冑を八幡宮に奉納するために弟に代参させる。奉納に反対する高師直は御馳走役、若狭之助と対立する。とりなす塩治判官により、なんとか収まる。義貞の冑捜しに、塩治判官の妻、顔世御前(あぐり)が選ばれるが、高師直が彼女に横恋慕する。その場面を出したいが、太田美術館は、今回は図録も絵ハガキも出していないので、残念ながら八幡宮の鳥居の入った浮世絵はおみせできません。歌川豊国、”浮世絵忠臣蔵初段の図”、それとわが北斎、”仮名手本忠臣蔵初段”があった。

こうして、二段、三段と物語に沿って、いろいろな浮世絵師の絵が並ぶ。仮名手本忠臣蔵がわからない人は、どんな場面かわからないでしょうがが、心配ありません。わかったふりして、みていけばいいと思います。誰でもわかる、七段目の、内蔵助が仇討を隠すために祇園一力で遊んでいる場面や、十段目の天野屋利平のところや、とくに、十一段目の討ち入りはたくさんの浮世絵が待っています。二階の展示場に行くと、討ち入り場面がたくさん観られます。夜討ちですから、吉良邸の侍はふんどし姿です。これでは勝てるわけないですね。小屋から引き出されて、斬られる場面も。そして国芳の本懐を遂げ、両国橋を渡る図、そして3枚つづきの、内匠頭の墓で焼香する場面も、ついほろり。

忠臣蔵を演じた、歌舞伎役者も出てきます。今話題の海老蔵のご先祖さま、”五代目市川団十郎の大星由良之助”、北斎が描いています。パロディーもあり、国芳の”蝦蟇手本ひょうきんぐら”シリーズ(爆)。顔が蝦蟇ガエルになって、うふふのふでした。

前述の北斎、豊国、国芳のほか、広重、、歌麿ら錚々たる絵師が忠臣蔵を描いています。当時、どんなにこの演目に人気があったかが、よくわかります。

子供の頃の、絵本をみるような、紙芝居をみるような、楽しい展覧会でした。これをみた後の、神奈川歴史博物館の、浮世絵・忠臣蔵、さらに面白かったです。こちらの図録は買いましたので、広重のいくつかが、共通に展示してありましたので、それらを以下に載せます。

広重 忠臣蔵十一段目一”夜打押寄”

広重 忠臣蔵 夜打二 乱入 (弓の弦を切り、戸をはずす)

広重 忠臣蔵 夜打三 本望 吉良にとどめを刺している場面

広重 忠臣蔵 夜打 引取

 

 

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ひと/HITO展

2010-12-15 10:54:16 | Weblog

八幡さまの境内にある、神奈川県立近代美術館で表記の展覧会が開かれている。文字通り、ヒトの絵画、彫刻展で、5部に分けられ、順に、かお、からだ、生きているひと、死と向き合う、HITOとは、のテーマで同館所蔵品を展示している。ここの所蔵作品展は初めてみるので、ひとのうちにはじめて招待され、部屋の様子などをみせてもらうような気持ちで、少しわくわくした。

岸田劉生、佐伯祐三、藤田嗣治、浅井忠、萬鉄五郎、高村光太郎など著名な画家・彫刻家の作品もあり、またぼくにとっては、”著名でない”画家でも、面白い作品も結構あり、楽しく覗き見してきた。結構、おかねもちなんだと思った。

岸田劉生の麗子像は、いつもと同じ、こってりした顔をしていたが、隣りにあった”村娘”は、はじめて観たが、麗子より可愛かったし、関西風の薄味で甘い、きつねうどんの汁のようだった。劉生に怒られるだろうか(笑)。萬鉄五郎は、以前、茅ヶ崎で鉄五郎展をみたが、そこには来ていなかった”日傘の裸像”というのがあった。頭でっかちで、その上、日傘をさしている。こっけい味はあるが、部屋に飾りたいとは思わなかった(爆)。

中川一政の”青山二郎像”は、ぼくも写真をみたことがあるのでわかるが、よく似ていた。小林秀雄、白洲正子の骨董の先生だ。中川一政の美術館が真鶴にある。佐伯祐三、麻生三郎の自画像も、この近くにあった。

藤田嗣治の”二人裸像”は、いかにも藤田という感じで白い女が白いカンバスにはりついていた。恩地孝四郎は、三部の”生きる人”のコーナーに”母性”という抽象画が展示されていた。ぼくには、どこが母性なのかさだかにはわからないが、ほんわかした温かみを感じた。おっぱいをのんでる赤ちゃんだろうか、と勝手に想像した。詩人でもあるそうだから、一度”恩地孝四郎展”をみてみたい。

高村光太郎の彫刻が見当たらない、どこどこ?、と捜したら、20センチくらいの小さな小さな裸婦坐像がいた。これくらいなら、机の上に飾れていいな、と思った。米粒くらいの裸婦坐像もつくってもらい、虫めがねでみるのも面白いかもしれない(笑)。

ちらし絵の佐藤敬の”少年像”。ぼくははじめ、絵をみたとき少女かと思った。そしてピンク地に縦縞模様に、どこかでみたようだな、と思って頭をくるくるさせたら、茅ヶ崎の速見御舟展でみた、氷室椿園の花子さんをモデルにした”花の傍”だった。花子さんの和装の柄が似ていると思った。家に帰って調べてみたら、縞模様は空色と黒だった。でも椅子の柄は白地にピンクの縦縞模様だった。椅子と着物の縞を入れ替えれば、同じになるのだ。それに、少年は黒猫を抱き、花子さんの前には白い犬がいる。それで、ぼくは似ていると思ったのだ。いい絵だと思った。

飯田善国のHITOというブロンズの彫刻は、ぼくにはよく分からないが、堀内正和のウインクするMiMiちゃんはかわいいと思った。でもウインクしているようにはみえなかった(笑)。

所蔵品展もいいものだ、と思った。

・・・・・

佐藤敬の”少年像”      萬鉄五郎”日傘の裸像”

恩地孝四郎の”母性”    堀内正和のウインクするMiMiちゃん

 

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三鷹に貸本屋さん

2010-12-14 22:06:21 | Weblog

もう、ぼくは貸本屋さんなんか、消え失せてしまっていたと思っていた。ぼくの子供時代は”ゲゲゲの女房”時代だから、貸本屋全盛時代。本は借りて読むのが普通だった。それが、あの朝ドラにあったように、次第に漫画月刊誌が売れるようになってきて、さらに週刊誌の時代へと移行するにつれて、街の貸本屋さんは次々と消えて行った。さらに、公立の図書館も充実してきたし、ブックオフみたいな古本屋さんもあるし、もう、どこにも貸本屋さんは居場所がなくなっていたものと思っていた。

それが、ぼくの故郷、三鷹の中心街で貸本屋さんをみつけ、おったまげたのだ。さすが、わが故郷、三鷹。♪みたか聞いたか あの啖呵 粋な小政の 粋な小政の旅姿♪ 、 ♪時世時節は 変わろとままよ 吉良の仁吉は 男じゃないか♪

 今日は赤穂浪士、討ち入りの日。で、原宿の、太田記念美術館で、”いざ討ち入り、浮世絵忠臣蔵”展を観てきました。大石蔵之助みたいな気持になって、わが故郷、三鷹に、本懐を遂げた報告をと、訪ねたのです。本当のこと言うと、ただ、”三鷹の文学者展”を観に来たでけですが(汗)。このとき、”時世時節は 変わろとままよ 吉良の仁吉は 男じゃないか店”を目撃したわけです。浮世絵忠臣蔵の、吉良の上野介は女のくさったような男でした。す、すいません。ぼくのブログにおいで頂いている女の方は、くさっても鯛です。いや金魚くらいかな。

・・・・・

帰り、大船で、ちらりと、2,3分間だけ雲間に、上弦の月プラス1日のお月さまを目撃しました。片目でしたが、森の石松のようにいい男です。

♪腕と度胸じゃ 負けないが 人情からめば ついほろり 見えぬ片眼に 出る涙 森の石松 森の石松 よい男♪

そうそう、三鷹の国立天文台で”ふたご座流星群を眺めよう”キャンペーン(2010年12月13日夜~16日朝)をやっています。この間の真夜中、一度でもみたいと思っています。今日はちょっと、無理かな。

 

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村上豊展

2010-12-14 10:36:01 | Weblog

今日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日だけど、それとは対極の、ほのぼのとした展覧会のことを書こうと思う。講談社野間記念館の開館10周年記念”村上豊展”である。12月4日、ぼくらは近くのホテルに泊まって、ぶらりと散歩がてらに出かけた。美術館の入り口の紅葉が、今や盛りと華やかに出迎えてくれた。

館内でチケットを買うと、売り場の方が、今日は先生がおいででございます、と。ええっ、ラッキーと、振り返ると、身体の大きな、そして、彼の絵のように優しさがにじみ出ているお顔の村上豊画伯がいらしていた。村上さんと講談社とは深いつながりがある。61年に講談社挿絵賞を受賞、翌年”小説現代”の表紙絵を担当し、現在まで続いている。

この展覧会では、新聞連載小説の挿絵、絵本の原画、雑誌の表紙絵、さらに、日本画など、合計228点が展示されている。ぼくとしては、初めての村上豊展で、楽しくみさせてもらった。

第1室には、日本画の大作が並んでいる。ちらし絵にもなっている”日月”。月は東に日は西に、だろうか、上弦の月と夕陽が画面の左右に。その間に広々した大地に、木々が生い茂る、里山の風景が。雄大な絵だ。”悠久”もよかった。優艶な女体に農村の風景が描きこまれている。女の顔がうっとりとしている。”月光”も、女の裸体に森と半月が入りこみ、お日さまは女の手でお手玉のようにもてあそばれている。二曲一双仕立ての作品もよかった。”のどか”、”安らぎ”、”舞子・正月”、”ほっぺ”、題名からもわかるように、ほのぼぼとした作品が多い。ぼくと同じように、お月さまが好きらしく、たびたび画面に現れてくる。

二室は”夢幻の情景”。そのテーマ名のように、”村上ワールド”の雰囲気にうっとりしてしまう。秋雪、南風、晩秋、春の川、岩手山。”あかとんぼ こんにちわ”シリーズ(絵本原画、8点)の幼き日の情景も良かったなあ。”相性の松”は、水墨画風。邪鬼は、賛の入った可愛い邪鬼。

そして、第三室は”芸術世界/夢の話”。ここでは絵本の原画がずらりと並んでいる。かぐやひめ、はだかの王様、虫めづる姫、等々。テレビ時代劇”江戸を斬る”のタイトルバックの原画もあった。

四室は”村上豊の芸術世界/こどもたちの夢”。”きずだらけのリンゴ”挿絵16点ほか、きんたろう、ももたろう、おままごと、等、童心に帰るような挿絵原図の作品のほか、襖絵”月に遊ぶ”の大作もある。そして”ファミリス”表紙原図、27点も見事なものだった。

十分、楽しませてもらった。先生もおられたことだし、サイン入りの、月の絵でも買いたかったけど、年金暮らしでは、節約しなければと我慢した(汗)。高額所得者で子供手当を貰っている方は、お子さんに買ってあげてくださいね(笑)。

・・・・・

悠久

秋雪

岩手山と月光

邪鬼

さあ、これから忠臣蔵の浮世絵を観にいこう。この日しかない、おのおの方討ち入りでござる(長谷川一夫のものまねで)。雪が降らなければいいけど。

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上弦の月はみえなかったけれど

2010-12-13 21:51:31 | Weblog
今夜は”上弦の月”のはず。でも小雨が降っていて、午後9時現在でもみえていない。夕方頃、薄曇りになって、ちらっとでも、みせてほしかったのに、とても残念だ。”上弦の月”というと、ぼくは吉田拓郎の”旅の宿”の一節を想い出してしまう。♪部屋の灯をすっかり消して 風呂あがりの髪いい香り 上弦の月だったけ ひさしぶりだね 月見るなんて♪
上弦の月はみられなかったけど、結構、面白いものをみせてもらえた一日だった。
玉縄図書館に行く途中、柏尾川で、ユリカモメの大群をみた。雨が降っていたけれど、”雨にも負けず、風にも負けず”、元気にとび回っていた、カモメのうつくしい飛翔に目を奪われてしまった。
そして、大船の”宮沢賢治シェフ”(笑)の山猫料理店も、うつくしいクリスマスリースを飾っていた。
六地蔵さまも、うつくしい花飾りをしてもらっていた。
山茶花もサザンオールスターズのように?満開だった。
図書館から帰る頃、まだ雨空だった。上弦の月はみられなかった。でも、大船仲通りには星が輝いていた。
資生堂の前には、三色の星雲が輝いていた。
ななななんと、ブックオフの前には上弦の月が輝いていた。
図書館で借りて来た本。森繁さんらしい、ユーモアあふれる、友人との交際についてのエッセイ。原節子さんも結構、森繁さんのエロ話(爆)にものってきたり、賭けごともきらいじゃないらしい。ますます好きになった(汗)。”小早川家の秋”など三つの映画で共演したとのことだ。
お月さまも、森繁さんの本の題名のようだな、と思った。明日は顔をみせてね、お月さま。
♪浴衣の君は ススキのかんざし 熱燗とっくりの 首つまんでもう一杯いかがなんて妙に 色っぽいね♪
熱燗とっくり、もう一本、いこうかな。



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吾妻山のうさぎ

2010-12-13 10:56:40 | Weblog

二宮の吾妻山には三つの昇り口がある。二宮駅に近い入り口のほか、そこより小田原寄りの海側から、そして、その反対側の山側からの口である。頂上の広場で、富士山と菜の花を見物したあと、いつものように駅方面への坂道を降りようとすると、岐路で”動物園こちら”の立て札をみつけた。”うさぎだけです”、との案内があった。どうしようかと迷ったが、来年は兎年だし、あいさつしてこようと、山側の道を降りた。

駅から昇る道より、こちら側の道の方が、いかにも自然林といった雰囲気があり、ここち良かった。ぼくの故郷、三鷹の”武蔵野の雑木林(ぼくらは山と言っていた)”、そして、中学2年から住み始めた、川崎の多摩丘陵の雰囲気にもよく似ていた。誰ひとり、歩いていない。落ち葉を踏みしめる音だけがやさしく耳に届いた。

10分も降りて行くと、紅葉の向こうに小屋らしきものが見えた。ここがそうかなと、小路を入ると、門が閉じていた。でも、鍵が開いているので、扉を押して、中に入った。

そこには、金網に囲われた、粗末の小屋があった。その中を覗いてみておどろいた。2,30匹もの、それもさまざまな色模様の毛皮をつけたウサギたちがたむろしていた。めったに人が来ないらしく、ぼくの姿に気づき、一匹が動き始めると、次々と動き始め、飛び跳ねるのもいた。しばらく眺めていた。野うさぎのような感じのもいた。”うさぎの眼”のような、西大寺の善財童子さまをみてきたばかりだが、本当に兎の眼はかわいい。疑うことをしらない眼だ。

”動物園”というよりは、ただの、”うさぎ小屋”だったけど(笑)、来た甲斐があった。きっと来年は、うさぎ年で人気の動物園になることだろう。

山路を降りながら、動物園に何故、兎だけなのだろうと考えた。あっ、と思った。二宮駅の南口の広場に”ガラスのうさぎ”の像があるのだ。女の子がガラスのうさぎを抱いている像だ。二宮・吾妻山とうさぎが結びついた。

少女の母と妹は東京大空襲で命を失うが、その焼け跡にガラス工場を経営していた父がつくったガラスの兎が残っていた。少女はそれを形見に持ち帰る。その後、父親も疎開先の二宮で少女の目の前で、米軍の飛行射撃で命を落とす。少女(高木敏子)はのちに、この悲しい経験をもとに”ガラスの兎”を著し、大きな反響を呼ぶ。NHKの銀河テレビ小説にもなった。ワイフの元職場の先輩が、敏子さんと同い年で、”ガラスのうさぎ”のことをよく話していたわと、昨日の夕飯のとき話題になった。

反対側の二宮駅南口に行ってみた。少女はいつものように、ガラスのうさぎを抱いていた。兎はやさしい目をしていたが、少女の目は悲しげに遠くをみていた。

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二宮・吾妻山 もう菜の花

2010-12-12 18:33:04 | Weblog

東海道線下りに乗っているとき、車窓から富士山がきれいにみえていた。大磯に行くつもりだったが、ひとつ先の二宮駅で降りた。ここに富士見の絶好なポイントがあるのだ。吾妻山という標高130メートルくらいの山で、頂上からの眺めは素晴らしい。菜の花の季節には必ず来る。

山を登り始めると、坂道途中の日本水仙が一部、咲き始めている。なんとレンギョウまでもひとつ、ふたつ咲き始めている。ふと、この調子なら、頂上の菜の花もひとつふたつ、咲いてる可能性もなくはない、と期待が膨らんでくる。富士山だけでなく、菜の花までみられれば、こんなうれしいことはない。ぼくの足は自然と早まる。

そして、頂上の広場に到着。まず、シンボルツリーのエノキの向こうの、菜の花畑に目をやる。ななななんと、黄色い花がぼくのぱっちりした(爆)眼に入る。やったぜよ、龍馬さん。(なんで龍馬が出てくるの、”菜の花の沖”は 高田屋嘉兵衛じゃなかったっけ?)水仙だけでなく、菜の花も咲いていたのだ。

それに、ななななんと(これはある程度予想はしていたけど、♪娘心はよ 山の天気よ♪という歌もあるし、変わりやすいから少し心配もしていたのだ)、雲ひとつない富士山が、あの小さな、富士山に似た金時山の向こうにそびえているではないか。

富士山をみて、菜の花をみて、丹沢の山々をみて、相模湾をみて(真鶴半島、伊豆半島、三浦半島、房総半島、伊豆の島々がみえる)、四方八方見どころ満載、まるで天国のような処で、ぼくは一時間ほど、ぼーとしていた。いつもぼーとしているけど、今日のぼーは最高ランクのぼーだった。

とても、満足した一日だった。

菜の花畑

菜の花越しの富士山

金時山越しの富士山

丹沢の山々

エノキ越しの相模湾

日本水仙

菜の花とまゆみ

神奈川美林50選のひとつ

今度は菜の花が満開のときに、ふたりで来よう。

 

 

 

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黒とかげブルーライトのヨコハマで

2010-12-12 10:43:41 | Weblog

蕪村の講義を聴くようになってから、なんでもかんでも、575にしてしまう(汗)。今日のタイトルも、一応、575です。全く意味がわからないって?それをこれから説明します。

神奈川近代文学館に”文芸映画を観る会”というのがあって、ぼくはここの会員になっていて、ときどき興味のある作品を観にきている。この日は”黒蜥蜴”だった。ちょうど、”三島由紀夫を中心にした文学展(以前ブログで紹介した)”もやっている最中なので、関連の映画が企画されたのだろう。

 1962年大映で、監督:井上梅次、原作:江戸川乱歩、劇化:三島由紀夫、脚本:新藤兼人、音楽:黛敏郎。すごいメンバーでしょ。ご存命なのは新藤兼人さんくらいかな。そしてキャストは、緑川夫人(実は黒蜥蜴)に京マチ子、明智小五郎に大木みのる、その他、叶順子、川口浩、三島雅夫と、これまた懐かしい俳優さんたち。歳をだいぶ重ねた人(笑)には、俳優さんの顔が浮かぶと思います。

”美しき怪盗のワナの中で仕組んだ名探偵のワナ/乱歩の奇想/三島・新藤の才気”のキャッチコピーそのままの、面白い映画でした。妖艶な歌と踊りも入り、大人の探偵小説映画と言ったところでしょうか。

名探偵明智小五郎、怪人二十面相、少年探偵団、最近、現れませんね。定年退職して、ぼくみたいに遊びまわっているのかな(笑)。

そして、帰りは元町通りに降りて、ブルーライトヨコハマを楽しんだというわけです。

 

 

 

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保田春彦展

2010-12-11 10:44:26 | Weblog

 

八幡さまに近い鎌倉街道沿いに、神奈川県立近代美術館鎌倉・別館がある。そこで”保田春彦展/白い風景シリーズとクロッキー”が開催されていたので、覗いてきた。ぼくには馴染みのない彫刻家(画家でもある)であったので、どんな彫刻と絵が並んでいるのか、楽しみであった。

展示室に入って驚いた。裸婦のクロッキーが、部屋の壁の端から端までずらりと並んでいるのだ。80点もある。そして、展示室の中央あたりに、得体の知れない白い、物体(彫刻なのだが)が7点ほど置いてある。

まず、裸婦のクロッキーをはじめから、ひとつひとつみてゆく。様々な姿態の裸婦が写実的に、単純な線で描かれている。背中や胸や足の筋肉まで描きこまれているので、ボディービルをやっていたモデルさんの裸婦のようだった(笑)。はじめの頃のは顔の細部は描かれていなかったが、後半のはモデルさんの顔がかなりはっきりとしていた。必ずしも、美人とはいえないし、スタイルだってそういいわけではない。

ぼくはいつも、先入観が入るから、解説のパネルは後から観るようにしている。裸婦裸婦裸婦、何故そんなに描き続けたのか、説明を読んでほろりとした。2000年に伴侶の同じ彫刻家のシルビアを亡くしてから、すでに”白い風景”の彫刻家として名をなしていた保田は2007年、突如、裸婦のクロッキー1000点を目指す。そして、2008年に1300点を完成させるが、厳選して700点にしぼり、残りは若き日を過ごしたパリのモンパルナスで描くことにする。多彩な個性をもつモデルさんがいたことを思い出したからだった。もう80歳を目前にしたときだった。しかし、途中、病気をして帰国、現在も療養中だとのことだ。

裸婦シリーズのほか、”闘病シリーズ”というのもある。病院内の治療風景や、自身の姿、を日記帳のように文章も画面の余白に入れている作品である。これも、また戯画をみるようで面白かった。ご自身はつらい思いをされているはずなのに、自分を客観視し、作品を作り続ける。子規の”病床六尺”を想い出してしまった。86年から大磯に住んでいるので、その近くの病院かもしれない。若い時は世田谷区に住んでいたためだろうか、来年は世田谷美術館に巡回するとのことだ。

小冊子のような図録を買ったので、その中からいくつか作品を載せておく。

”裸婦シリーズ”

 

”闘病シリーズ” 右側の絵、脳梗塞自画像と書かれている

”白い風景シリーズ” イタリアの田舎で出会った民家に想を得たそうだ。

 

 

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