

国立新美術館で”ゴッホ展/こうして私はゴッホになった”が開かれている。ゴッホはそれほどのフアンということではないが、大画家のひとりだから、みないわけにはいかない。小林秀雄も”ゴッホの手紙”を書いていて、ゴッホの遺作となった”鳥の群れ飛ぶ麦畑”にひどく感動したことを、その冒頭に書いている。その絵が来ていればいいな、と思っていたが、麦畑の絵はあったけど、画面に鳥は飛んでいなかった。向日葵の絵もみたいな、と思っていたが、ひとつもなかった。
でも生涯、50いくつも描いたいう自画像は2枚展示されていて、そのひとつが、会場に入るとすぐに、あいさつ代わりに飾られている。写実的で肌もきれいで、そのあと出てくるちらし絵を飾る代表作の、いかにもゴッホらしい渦巻のように燃え上がるタッチで描かれた”自画像”より美男子だった(笑)。
炎のようなゴッホに変貌するまでの過程が、影響を受けた同時代の画家の作品と共に展示されていて、第1章ではクルーベ、ルソー、ミレーの作品、それにゴッホの変貌を示す1884年作の”秋のポプラ並木”と6年後の”曇り空の下の積み藁”が並べて展示してある。なるほどと思う。
第二章以下、”こうして私はゴッホになった”が示されていく。ミレーがよくモチーフに選んだ、農夫をはじめとする働く人々の素描や、庶民の生活を描く、若き日のゴッホが紹介されていく。ほとんど初めてみるようなものばかりだった。第4章では、”パリのモダニズム”というタイトルで、ここではモネとかシスレー、ピサロとかのぼく好みの絵(一息させてもらって;笑)に混じって、もうひとつのゴッホの自画像(灰色のフェルト帽の自画像)が登場する。いわゆるゴッホらしい作品がこの年代くらいから始まってくる。
そして、第5章で南仏のアルル時代の作品がずらりと並ぶ。有名な”アルルの寝室”もここにある。実際の寝室を写生したもので、展示横のスペースに、写生をもとにした寝室が再現されていた。なんだか窮屈そうな寝室だった。じゃがいもやら糸杉やら玉ねぎの絵の他、ゴッホが蒐集していた浮世絵の展示もあった。広重、歌川国芳、国周、国貞の作品だ。浮世絵をとても気に入り、自分の絵にも浮世絵の大胆な構図などを取り入れたりもしたそうだ。
さらに日本にあこがれの気持ちさえ抱いていた。小林の”ゴッホの手紙”にこんな一節がある。”アルルの薄紫の山を背景にして、葡萄畑のすばらしい赤土の拡がり。雪の様に輝く空を負う白い山の頂を臨むこの雪景は、日本人の描いた雪景そっくりだ”ゴッホの手紙には日本のことが良く出てきて、”黄に紫に咲き乱れる花をみて「日本の夢」だ、アルルは日本の様に麗しい”とまで書いてる。”日本びいきのゴッホ”だったのだ。
そんなゴッホも、ゴーギャンと2年間ほど一緒に住んだあと、片耳を切り落とすなど、精神的な病に罹り、療養所に入る。ここでは病室からの庭の風景や若いときの習作を見直したりし、病床で多くの作品を残した。そして1890年、37歳の若さで自殺する。昨日から放映再開した”坂の上の雲”でも子規は病床で多くの作品を残し、34歳の若さで亡くなるが、今、ふと、ふたりが重なった・・どちらも、短い生涯で後世の人々に多大な影響を与えて逝った。”わだばゴッホになる”、棟方志功もその一人だった。
こうして、とくに好きな作品がなくても、一人の画家の一生を絵を通して垣間見られるのも、美術観賞の楽しみである。

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小林秀雄が感動した”鳥の群れ飛ぶ麦畑” (本展覧会には展示されていない)

その時は、ただ一種異様な画面が突如として現れ、僕はとうとうその前にしゃがみこんでしまった。熟れきった麦は、金か硫黄の線條の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小路の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剥き出ている。空は紺青だが、嵐をはらんで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原のようだ。全管弦楽が鳴るかと思えば、突然休止符が来て、鳥の群が音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向こうに消えた・・僕が一枚の絵を鑑賞していたということは、あまり確かではない。寧ろ、僕は、在る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。(小林秀雄/ゴッホの手紙)