京都でも道幅が狭く、ぐねぐねと曲がっていて、所々に軒の低い古い家があると
表示がなくても、ここは旧街道かな、とわかりました。
こちらでも、車で、県道や国道を走っていたのに、
急に、ちょっと違う場所に迷い込んだような気がすることがあります。
民家が道沿いに並び、所々にとても古そうな家や倉やお寺があったり、
立派な常夜灯が立っていたりします。
伊勢本街道は、京、大阪、奈良と伊勢を結ぶ道です。
ここは、伊勢神宮まで約30~40キロ、あと一日、という所でしょうか。
西だけでなく、東からも北からも大勢の人が伊勢へとやってきました。
伊勢湾を船に乗って渡ってくる人も大勢いたそうです。
東から来た人たちは、ついでに!ということで、
伊勢街道を通って、奈良へ、大阪や堺へ、京へと足を延ばしたそうです。
庶民の「旅」が許されなかった時代、
「お参り」は口実(通行手形のため)で、人々の心の中に「旅に出たい」「外の世界を見たい」という思いが募っていたのではないでしょうか。
旅はもちろんすべて歩き!藁草履で、山道も、川も、海辺の砂浜も・・・
女性でも一日30~40キロ歩いたそうです。
伊勢参りにはさまざまな形態があったそうですが圧倒的に多いのが御師(おし・おんし)が斡旋するツアーだったというのですから驚きです。
御師は伊勢の他「熊野」「富士山」「出雲大社」「出羽三山」などでも活躍したそうです。
日本各地に檀家を持ち、宿や道中の案内をしたそうです。
そして御師の経営する宿などが並ぶ伊勢本街道は右へ左へと行きかう人が絶えることがありませんでした。
とくにおかげ参りの時は、
道中に芝居小屋や見世物小屋なども立ち並び、御師による握り飯や餅の施、
さらに半紙や手拭いや草履や笠、杖、煙草、膏薬、飴、麦こがし、などが露店に並び
今では考えられないほどの賑わいだったそうです。
御師は日本で初めて精巧な紙幣を擦り、
その紙幣は、伊勢での買い物や遊興に利用出来たそうです。
(講によって伊勢参りに来ることが出来た人も多く、
講の仲間へのおみやげは大切でした。)
御師は圧倒的な経済力と通信網を持っていましたが、
明治政府によって解体されました。
下の写真は
「門脇俊一(1913年~2006年)」による「おかげ参り、抜け参り」の絵巻物の一部です。
細密で丁寧な絵です。
今、実際に古い街道を歩いても、当時の様子を想像するのはなかなか難しい。
このような図があると、空想の手掛かりになります。
御師が握り飯の施を行っている様子。
見世物小屋などの様子。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/0d/a0287cf81cd2c4452b52ebd404f878e6.jpg)
日本の各地の言葉が行きかっていただろうな、楽しかっただろうな!
山の中での野宿の様子。
『伊勢参宮詣・式年遷宮』
門脇俊一/著
S49、監修・伊勢神宮 印刷・大塚工芸社