マリヤンカ mariyanka

日常のつれづれ、身の回りの自然や風景写真。音楽や映画や読書日記。手づくり作品の展示など。

京都市長選挙

2012-01-27 | Weblog
テレビ東北各地を襲う津波の映像を初めて見た時、
恐ろし過ぎてとても本当のこととは思えませんでした。
でも事実なんだと何度もこころの中で繰り返し、ただ茫然と見ているだけでした。
直ぐに福島の原発のことが浮かびましたが震えながら「まさか…」と思いました。

原発事故の報道を最初に訊いた時に多くの人が思ったのも「まさか!」だったのではないでしょうか、
そして、「まさか、こんなにひどいことになるなんて…」
危険を承知でお金と引き替えに原発を誘致して来た地元の人の多くもそう思ったに違いありません。
原発近くの立派な施設群は全て放射能に汚染され誰も使うことのできない廃墟になってしまいました。


「危険」とはそういうものだと思います。
起きるまでは「まさか」なのです。


福島の事故は、若狭にたくさんの原発を抱えて住む私たちにとって、
人ごとではないはずなのに、
「まさか、そんなことはありえない」と多くの人が思って、忘れて暮らしています。
でも福島で「まさか」の事故が起こったのです。

若狭で明日「まさかの事故」が起こる可能性は充分あるのです。
「まさか」の原因で!


若狭で福島のような事故が起これば、琵琶湖の水は使えなくなります。
滋賀のお米も野菜も京野菜も食べられなくなります。
観光都市、京都は壊滅するでしょう。

「まさか、電力会社は嘘をつかないだろう」
「まさか、国は私たちをだましたりしないだろう」
福島でそれらの思いはことごとく裏切られました。


福島を見ながら「まさか若狭の原発が…」と言ってしらんぷりしているなら、
今、唯一のハンドルを切りかえるチャンスを捨ててしまったら、
京都はいつか、地獄へ落ちていくかもしれません。

脱原発を明言している市長候補者に大切な1票を投じたいと思います。
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「除染」は「移染」

2012-01-27 | Weblog
何も「収束」などしていません。
膨大な量の核物質が福島の原発の4号機のプールの中で危機一髪の状態です。
2号機、3号機の中で核燃料がどんな状態なのかまったくわかっていません。
原発の事故はいまだ進行形です。

一方、テレビなどで「除染」という言葉を聞く度に気になります。

運動場や田畑の表面を全部削ってもその土は消えるわけではないし、
ホースで水をかけてジャージャー流して「除染」した、とか、
放射能の除染などあり得ないわけで、
どこかに移動、というより放射能を拡散させるだけのこと。「移染」です。
たとえ30年経ってセシウムが半減したって半分になるだけのことで、消えるわけではないのに、
「除染」はまるで放射能を除くような、無くすような意味に聞こえる言葉です。

学校や幼稚園の庭や運動場の表面を削り、田畑の表面を削り、その土をどっかに持って行くより、
安全な場所にちゃんとした施設を作る方がよっぽど早いのではないかと思います。
学校や幼稚園、住宅、公園、商業施設、田畑や牧場や様々な公共機関を新しく築き、あるいは移動させて
安心して生活できる場所を確保するのは最低限のことだと思います。
勿論その責任は東電そして国にあります。
でも実際はみんなバラバラに縁故や友人を頼って各地に移住し、
行くところのない人は毎日不安な思いをしながら暮らしています。
そうやって時が立ち、様々なことを水に流し!!雲散霧消することを東電や国は待っているとしか思えません。




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大豆パン

2012-01-25 | グルメ
大豆入りのパンを初めて作ってみました。
大豆は缶詰の茹で大豆をバターで香ばしく炒めて、
荒びき黒コショウを振りさらに炒りごまをたっぷり混ぜこみます。
粉は強力粉285グラムにきな粉を15グラム混ぜて使いました。
うまくできるか心配でしたが、
発酵も順調に出来て、中はふわふわで外は少しかみごたえがある美味しいパンになりました。
クリームチーズや蜂蜜がとてもよく合います。


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煙突のある風景

2012-01-20 | Weblog
煙突を見ると嬉しくなって写真を撮りたくなります。
もう使われていない物が殆どですが、
お風呂屋さんの煙突などたまに「もくもく」煙が出ています。
西陣の町中の大きな煙突はかつて染物工場だったのでしょうか?
エアコンや換気扇の無い時代、民家でも屋根の上の煙出しや風呂の焚口の煙突は必需品で
きっと大小様々な煙突がちょうどテレビアンテナのように林立していたのでしょう。
そこで仕事をして、生活している人の暮らしが煙突の煙でわかったかもしれません。
長いブラシを肩に捲いて自転車で走っている「すす払い」の人を見かけたのはいつだったかなー。







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雑草を見ながら思ったこと

2012-01-18 | Weblog
川の土手は定期的に行われる草刈りのせいなのか、
草の種類が少なくなりました。
虫も減りました。
刈られても踏まれても寒くても負けない丈夫な草が元気に真冬の光を浴びて輝いています。
赤い色は葉を護るためでしょうか。

道路わきのムラサキカタバミも丈夫な草です。
たくさんのつぼみがほころび始めています。
カタバミの葉にはシュウ酸が含まれているので、10円玉にこすりつけると10円玉がピカピカになります。
シュウ酸を含む植物はたくさんあってほうれん草などにも含まれているそうです。
ゆでたりしてアクを取ってから食べたものですが、今はサラダほうれん草とかサラダ菊菜とか、、、
草を食べるのなんかも流行っていて、そういうのは大丈夫なのでしょうか?

植物図鑑を見ていると毒を含んでいる植物の多いのに驚きます。
昔の人は干したり、さらしたり、煮たり、焼いたり、発酵させたり、工夫して毒を取り除いて、
食べられるものは全部食べて来たんだなとつくづく感心します。
そしてその中から長い時間をかけて栽培野菜を作りだして来たわけで、
いつでも、スーパーに行ったら様々な野菜がそのまま食べられるなんて想像もつかなかったことだと思います。
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毛糸のバッグ

2012-01-15 | 手づくり
娘と一緒に四条へ出かけた時はフジイダイマルへ寄ります。
コーナーバーゲンは昔と同じようにおしゃれな若い人たちでにぎわっていました。
手編みのバッグが幾つか目に止まり、
編みたくなりました。
先日図書館で借りた編み物の本でスタークロシェを覚えたので、
早速やってみました。
しっかりした編み地なので、バッグに向いています。



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高瀬川沿い、五条あたりを散歩する

2012-01-12 | Weblog

今日は河原町五条を少し南へ下がった所にある「ひとまち交流館(京都市の複合施設)」へ行ってきました。モダンな大きなビルです。
その「ひとまち交流館」の裏は高瀬川です。
高瀬川に沿って今でも茶屋や置屋や旅館があって、
川と川べりの木々が古い建物と溶け合い、良い風情です。
所々に小さな橋がかかっていて、どれも渡ってみたくなります。
中には肩幅くらいしかない橋もあって、渡ってみたらぐらぐらしてビックリしました。
木々には名前を書いた木の札がぶら下がっています。
「カエデの仲間」とか「柿の木」とか「みかんの仲間」「クロガネモチ」「モチノキ」などと書いてあって心がなごみます。




高瀬川は元は水運のために作られた運河ですが、
その後水運に利用されなくなって、暗渠にしようという計画があったそうです。
強い反対運動があり、とり止めになったそうです。
暗渠にならなくてよかった!

「ひとまち交流館」は菊浜小学校の跡地だそうです。
以前このあたりに「五条楽園」と書いた看板がありました。
バスの中からも見えました。
「楽園」の名はかつての遊郭、その後の赤線地域が、
1956年に買収防止法で廃止されて茶屋や置屋やバーになってからつけられた名前だったようです。
ネットで調べてみたら、なんと2010年!売春防止法違反で責任者らが逮捕されて、
「楽園」の看板が降ろされ、現在茶屋などは休業中だそうです。
暴力団の抗争などもあるそうで、近代的なビルの裏に実際に裏社会が存在しているわけです。
すごい所に小学校があったんだ、とおどろきましたが、
たくさんの子供たちがここで学びここで遊んで育っていったのです。

今日は鴨川と高瀬川沿いに河原町正面から四条まで歩きました(木屋町通り)。
鴨川に架かる五条大橋は幹線道路で車がびゅんびゅん走っていて、渡るのも大変、
でも欄干にはギボシがちゃんとあります。
そのあたりから雰囲気が変わります。
次の橋は松原橋。牛若丸と弁慶の話に出て来る五条大橋は松原橋らしいです。
いずれも何度も大水で流されては掛け替えられた橋だそうです。

(松原橋から北の方を見ると、遠くの山が白く輝いていました、写真では残念ながら雲と区別がつきにくくなってしまいました)
団栗橋まで来ると、橋のそばに駄菓子さんがあったり、小さな祠があったり、
街のまん真ん中とは思えない生活感のある道になっています。
そのまま橋を渡って歩いて行きたい気持ちになりましたが、今日は渡らずそのまま高瀬川に沿って、木屋町通りを北へ、
しゃれたレストランや、カフェ、高級そうな料理屋が軒を連ねています。
曲がって流れる高瀬川に沿ってそれぞれの建物が工夫して建てられています。
四条からは河原町の方へ出て、バーゲンの店を覗きながらぶらぶら歩いて、休日をめいっぱい楽しみました。
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原発のアンケートをとるのなら

2012-01-11 | Weblog
今日は2012年1月11日、大災害からちょうど10ヶ月経ちました。
原発関連の本を図書館で借りてきては読んでいます。
事故前に書かれた物やその後に書かれた物など、
図書館にもたくさん入っています。
知らなかったことだらけですが、
知ろうと思えば知ることが出来たこともたくさんあります。

最近、原発を継続することに賛成か否か、アンケートを取ろうという動きがちらほらありますが、
その際に一文付け加えるべきだという記述がありました。

それはたった8文字、「あなたの住む町に」という言葉です。

私がさらに付け加えるなら、「原発があなたの町から10キロ離れているのならいいですか?」
「あなたの住む町から30キロならいいですか?」「…50キロなら…」
これこそが原子力発電の本質であり、個人個人に問題を突き付けることになると思うからです。

都会に住む人の便利な生活、豊かな暮らしを維持するために、
過疎の村に危険を承知で押し付けて来た原発のことを、
差別構造の上に成り立ってきた原発のことを、
4次5次下請けの原発ジプシーと言われる使い捨ての労働者のことを、
今こそ一人一人が考えなければならないと思います。
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石油の枯渇…

2012-01-09 | Weblog
1970年代のオイルショックの頃、石油はあと30年位で枯渇する、などと言われました。
娘が小学生の頃も、あと30年位と言われたそうです。
ネットで調べていたら、いつの発言かわかりませんがあと43年と書いてありました!
それらの発言をしてきた人はどこへ行ったのでしょう。
さぞかしたくさんの言い訳が聞けることでしょう。
今考えると、穴だらけのそんな話を本当のことのようにみんなが思ったのが不思議です。
石油の埋蔵量は産油国の自己申告だそうです。
石油の価格の調整のためにどのようにも言えるものだったのです。
一番の大元は石油企業のさらなる儲けのための喧伝だったと思います。
それは原子力発電導入の布石だった、わけです。
まんまと騙されました。

石油が無くなると発電できなくなって、ガソリンが無くなって大変、という話はたくさん聞きましたが、
プラスティック(合成樹脂、石油製品)が無くなれば、
車の車体も作れないし、道路もアスファルトがなければ作れません。
冷蔵庫も、洗濯機も、風呂も、屋根や壁など建材の多くも、繊維も、
現代の生活の必需品のそれはそれは多くの物が無くなりますが、そんなことはあまり聞いた記憶がありません。
ウランやプルトニウムでは何も作れません、
核兵器か、原発で核分裂の時の熱を利用して発電する以外にどうしようもないのです。
使用済みの核物質を無毒化することはもちろん、捨てることすらできません。

温暖化問題も同じような、下心あっての世界規模、国家規模のキャンペーンかもしれません。
原子力発電によって金儲けを企む電力会社や大企業の宣伝と考えるとつじつまが合うのです。
産業革命以前から地球規模の温暖化が始まっていたというデータは隠されています。

現在間氷期ですが、その間氷期のどのあたりなのか誰も解りません。
確かに短い期間の人間による環境破壊はすさまじいですが、
その環境破壊の元凶が巧みにすり替えられています。
また植物を育てる二酸化炭素(動物はその植物に養われている)と直接生物の命を奪う放射能とは全く違います。

チェルノブイリやフクシマのようなことが起こってもまだ原発を止めようとせず、
さらに核物質を堀出し続けるなら、地中から、地獄の冥王(プルトン)の笑い声がますます大きく響いてくるに違いありません。
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ユリカモメ

2012-01-07 | Weblog
鴨川で冬に普通に見られる鳥ですが、
私が子供の頃はいませんでした。
1970年代に突然現れました。

けれども、古典文学に書かれている都鳥はミヤコドリではなく、
ユリカモメのことだろうと言われているそうです。
ユリカモメにもいろいろな事情があったのでしょう。
夜は毎日、滋賀県の琵琶湖まで帰って湖の上で寝るそうです。
そして夏はシベリアへ帰り営巣するそうです。
シベリアでは、ユリカモメは夏の鳥なわけです。
おもしろいなー。

夕方、鴨川から飛び立ち段々大きな群になり旋回しながら空高く舞い上がって
どんどん小さくなって、とうとうたくさんの点々になって消えていく様子は素晴らしくて、
ユリカモメがまた鴨川に来てくれてよかったなと思います。

ぷっくり丸い身体に細い足、
大抵同じ方向を向いて休んでいますが、
この時は近くに来てあっち向いたりこっちむいたり、
パンを撒きに来たオジサンかと思われたみたいです。

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