みどりの一期一会

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平和なくして平等なし◇女性が政治を変える 元参院議員・市川房枝さん/九電・川内原発再稼働

2015-08-23 16:39:49 | ほん/新聞/ニュース
このところ、毎日新聞の記事を紹介する頻度がけっこう高いのですが、
夕刊の「特集ワイド」や連載も読みごたえがある記事が多いです。
かならず読むのは毎週火曜日に連載の「読書日記。
先週の筆者は、上野千鶴子さんだったので、ブログでも紹介しました。

8月20日の「特集ワイド」は川房枝さんの記事でした。

毎日新聞を購読している人が少なくて、
夕刊までとっている人はさらに少ないのがちょっとザンネン。

記事がネットにアップされていたので紹介しますね。

  特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/9 平和なくして平等なし 元参院議員・市川房枝さん  
毎日新聞 2015年08月20日

 ◇女性が政治を変える 元参院議員・市川房枝さん(1981年死去、享年87)
 安全保障関連法案が衆院本会議で可決された7月16日夜、「市川房枝記念会女性と政治センター」事務局長の久保公子さん(65)は、国会周辺で抗議する数千人の熱気の中にいた。「戦争法案今すぐ廃案、国民なめんな」。若者たちのシュプレヒコールが響き渡る。ゲストスピーカーとして登壇した野党議員が「ご協力よろしく」と頭を下げたのを見て思った。「市川さんが生きていたら、ここでマイクを握っていたでしょうね。ゲストなんかじゃなく、『ストップ・ザ・汚職議員!』の時のように市民と一緒に新しい政治運動を起こしていた」。その晩年に公設秘書を務めた久保さんの脳裏に、街頭でビラを配る市川さんの姿がよみがえった。

 汚職議員の落選運動は1979年、市川さんが女性団体に呼びかけた市民運動だ。大型疑獄のロッキード事件とダグラス・グラマン事件を巡り収賄容疑で逮捕されたり、両社から巨額の政治資金を受け取ったりした政治家の選挙区に乗り込み、投票しないよう有権者に訴えた。名指しされたのは田中角栄元首相や松野頼三・元防衛庁長官ら大物ばかり。「選挙区に来たら、お命もらいます」と脅迫電話があり周囲は緊迫したが、市川さんはユーモアを交えて街頭でこう訴えた。「やりたいことがまだまだあるので、もう少し生かしてほしい」(自伝映画「八十七歳の青春」)。

 男性の普通選挙が導入される6年前の1919年から婦人参政権運動を始め、戦後は金のかからない理想選挙を訴えた。ひたむきに進む市川さんのニックネームは「野中の一本杉」。飾らない笑顔と庶民的な人柄から「しわくちゃの十円札」と呼ばれたこともあった。

 「独特の肌触りの政治家でしたね。ちっとも偉そうなところがなくて、一見すると普通のおばあちゃん。でも近づくと、オーク材のような固い芯がありました。自立した個の確立が徹底していたんでしょうね」。初の衆参ダブル選挙となった80年6月、市川さんと同じ参院全国区で当選した作家の中山千夏さん(67)は言う。無党派市民の票を奪い合うと見られていたが、中山さんは街頭で「私がいやな人は市川さんに投票して」と訴え、市民派票の上積みに努めたとのエピソードが残る。

 だが、市民政治は80年ごろをピークに下降しているのではと中山さんは懸念する。「国会の外でどれだけ声を上げても、政治が動かない。参院まで政党政治に支配され、個性的な議員が少なくなったからかなあ……」

 市川さんがこの時、高齢の身体にムチを打って5期目に挑んだのは、訳があった。国際婦人年から10年にあたる85年を目標に、国連の女子差別撤廃条約を締結するよう政府や国会に働きかける狙いがあったのだ。

 「平和なくして平等なく、平等なくして平和なし。私ども婦人は、このことを心に銘記して取り組むべきだと思います」。他界する3カ月前の80年11月、市川さんは48女性団体が集った大会の基調報告で、そう述べた。「平等」と「平和」はコインの裏表、切り離せないものだという信念を初めて明らかにした。また「軍備増強を巡り改憲論議など、戦争へのきなくさい臭いが漂っています」と警鐘も鳴らした。これが、公の行事で発した最後の言葉になった。

 「戦争が起きたら、女性運動も人権もすべてが抹殺される。戦争を経験した市川さんは、土台が崩されるような危機感を持ったと思います」。公設第1秘書を務めた国際婦人年連絡会の世話人、山口みつ子さん(79)は、そう解説する。大会前、原稿執筆の時にこもる富士山麓(さんろく)の山荘で市川さんが言った言葉が忘れられない。「平和問題で何かあって声明を出す時、個人の資格で加われる女性は誰だろうね」と問いかけてきたのだ。複数の女性リーダーの名前を挙げると、真剣な表情で小さな手帳にメモしていた。

 市川さんは戦時中、女性運動で大きな挫折をしている。満州事変後の31年11月、自ら発行する機関誌「婦選」で、国際平和を願う女性の意思が政治に反映されていないと批判し「今こそ婦人参政権を」と主張した。その後、同誌は発禁に。政府に「ある程度協力」(「市川房枝自伝」)して女性運動継続の道を選んだが、その戦争責任を問われ戦後、3年余にわたり公職追放された。「自伝」には「消極的にしろ協力した責任を今更ながら痛感する」とある。

 「戦争する政府に協力して女性の地位が向上することなどあり得ないと、身をもって体験したのが市川さん。戦時中のことはあまり語らなかったから推察ですが、女性運動が戦争遂行のために政治利用されるのは二度とごめんだと。だから戦後は反戦を貫いたのでしょうね」。市川さんを取材したことのある元毎日新聞記者、関千枝子さん(83)は「平和なくして平等なし」を痛恨の遺言と受け止める。

 あれから35年。今年の終戦記念日に靖国神社を参拝した閣僚3人はすべて女性。自民党の女性リーダー、稲田朋美政調会長は戦争責任が裁かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)を検証する組織を党内に設置する方針を示した。過去の歴史を修正するかのような動きが加速する。「市川さんが見たら怒りますよ」。関さんは断言する。

 女子差別撤廃条約は85年に批准され、86年には男女雇用機会均等法が施行された。しかし市川さんが訴えた残業規制や男女平等法は実現せず、女も男並みに働く競争社会になった。安倍晋三政権は「女性活躍推進法案」で企業や公務員の女性幹部登用率3割を目指すが、女性労働者の5割を超える非正規雇用はカヤの外だ。安倍首相は3年間の育児休暇推進を「抱っこし放題で職場復帰」と発言、リアル感のなさが反発を買った。

 「競争社会は男社会そのもの。その構造のまま女が協力しても、女の生き方を変えることにはならないよね」。中山さんは競争社会で「輝く女性」の役割に根本から疑問を投げかける。

 生協幹部から91年、筑紫野市議(福岡県)に転身した辻本美恵子さん(66)は、女性議員が少ない環境で、市川さんのビデオ教材を見て政治を手探りで学んだ。「社会から置いてきぼりにされた女性たちに『政治を変えられる』と光をともしたのが婦人参政権。競争社会で勝つ女性を増やすことではない」と話す。

 市川さんが揮毫(きごう)を求められ、よく書いた言葉は「権利の上に眠るな」。権利は使わなければなくなると叱咤(しった)激励する言葉だ。今だったら、こう言うだろうか。「平和の上に眠るな、平等の上に眠るな」。もっともっと広げなければ、権力の枠組みにからめとられるぞ、と。【堀山明子】=つづく

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 ■人物略歴
 ◇いちかわ・ふさえ

 1893年生まれ。愛知県出身。小学校教諭、名古屋新聞(現・中日新聞)記者を経て1919年に平塚らいてうと「新婦人協会」を設立。婦人参政権獲得運動のリーダーとなる。参院議員5期。71年に一度落選したが、市民運動の推薦を受け入れ74年に復帰した。母子保護法、売春防止法の制定などにも尽力した。


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「記者の目:川内原発再稼働」も見つけました。
この記事もとってもおもしいです。

  記者の目:九電・川内原発再稼働/上=鳥井真平(東京科学環境部)
毎日新聞 2015年08月19日 

 ◇新基準に「隙」はないか
 「これから、どうなる?」。2011年3月、テレビ画面を見ながら、私は無意識にノートに走り書きをした。そのとき画面には東京電力福島第1原発が水素爆発する瞬間が映っていた。当時、勤務していた群馬県で計画停電も経験した。目に見えない放射性物質の恐怖も加わり、言いようのない不安感に襲われた。13年春に原子力規制委員会の担当になって以降、その経験と「この国は福島の原発事故から何を学んだのか」という問いが、再稼働を目指す原発の安全審査を取材する際の原点になっている。

 九州電力川内(せんだい)原発1号機(鹿児島県薩摩川内市)が11日に再稼働した。福島事故の教訓から、安全対策が強化された新規制基準に基づく初の稼働だ。審査開始当初は規制委も電力会社も事故が起きた事実を重く受け止めているように見えた。「事故を二度と起こさないように」という言葉を何度も耳にした。しかし、取材を続けるうちに違和感が大きくなっていった。

 ◇電力会社になお「なれ合い体質」
 審査を終えた今年5月、原子力規制庁幹部は「九電にはメモの取り方から教えた」と明かした。規制庁と九電の非公開の面談で、まず規制庁からの指摘事項のまとめ方を指導したという。ひとたび事故を起こせば国を滅ぼしかねない原発を運転していた電力会社が、そんなレベルから再出発していた。事故前に電力会社が主張していた原発の安全とは何だったのかと想像すると、ぞっとした。

 13年7月施行の新基準は事故前の基準を大きく変え、既存の原発にも最新の安全対策を求めることになった。原発を運転するには東日本大震災クラスの地震や津波も含め、考えられる最大級の対策を講じるのが前提となった。ところが、電力会社が示した地震や津波の想定は、規制委から何度も「甘い」と再検討を迫られた。それに対し、電力会社は「審査が厳しすぎる」と不満を漏らした。

 私は電力会社の担当者に「なぜ厳しい審査が問題なのか」と質問した。その一人は電力の安定供給の重要性とともに「昔はこうではなかった」と力説した。福島事故を見てもなお、安全最優先の意識を欠いたままなのか。国会の事故調査委員会が「規制の虜(とりこ)」(規制される側が情報を独占し、規制する側をいいなりとする状態)と批判した、事故前の規制当局と電力会社のなれ合い体質の名残に見えた。

 ◇火山対策棚上げ、見切り発車に
 規制委の姿勢にも疑問を持った。川内原発の火山噴火対策について、たった1回の審査で九電の「運転期間中に周辺火山が巨大噴火を起こす可能性は十分に低い」とする主張を妥当とし、巨大噴火の兆候を把握できるとの説明も認めた。ところが、事実上の合格証「審査書案」を示した約1カ月後の14年8月、規制委は火山対策に特化した有識者会議を設置した。「(火山対策の検討は)遅かったかもしれない。基準を決める議論の中で検討すべきだった」と認める規制庁幹部もいた。

 一方、日本火山学会が「巨大噴火の観測例が少なく、兆候の把握は困難」として、同年11月に審査基準の見直しを求めてまとめた提言を、規制委の田中俊一委員長は「火山学会が今更(見直しを)言うのは本意ではない」と突き放した。こうした一連の対応を見ると、今回の再稼働が「見切り発車」と指摘されても仕方ないと考える。

 私が原発審査の取材で覚える違和感は、原発関係者が安全について語る「理想」と、理想に達していない発展途上の「現実」とのギャップにある。審査開始から2年以上がたち、電力会社が既に終わった別の審査をまねて、「規制委が一度良しとしたのだから問題はないはずだ」と主張するような「慣れ」も目に付く。重要な会合で審査官が眠そうに目をこする場面も珍しくない。安倍政権が「世界で最も厳しい」と評する新基準作成に関わった明治大の勝田忠広准教授(原子力政策)は「新基準の神格化は危険。最低最小限のルールに過ぎない。再び『想定外』が起きる可能性は大いにある」と指摘する。

 今年7月末、原発事故の影響で福島県双葉町から前橋市に避難している女性(38)から「群馬に永住することになりました」とメールが届いた。事故3カ月後に誕生した娘は4歳になった。夫は福島第1原発で事故収束作業にあたり、離ればなれの生活を続けるそうだ。この家族のように、古里を追われた避難者は現在も十数万人に上る。事故からわずか4年5カ月で再稼働を迎えたが、新基準を「守っておけばよい」という新たな「隙(すき)」は生まれていないか。原発関係者は、いまだに理想に至る途上にあることを忘れてはいけない。福島の事故はまだ終わってはいない。  


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