蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

失望させるのがわかっている

2021-11-16 | 暮らし
長女のお婿さんは、完璧なイクメン。
わたしがウチでの合同夕食の準備に間に合わない時間に外出先から帰ってきたら、もう作りかけてくれている。
わたしはお皿やらなんやらを用意するのみ。
助かること、この上ない。
しかも、好き嫌いなく、食品ロスも生じさせず無駄なく食材を使い、気持ちよく食べてくれる。
満点!

次女のお婿さんは、超グルメ。
探究心も半端ない。
で、気を使うこと、この上ない。
ウチで集まって食卓を囲むにしても、わたしの、下手で手抜き料理はとてもオススメできない。
困り果てた挙句には、、、てんやものに逃げる可能性がある。
あるいは、お酒の会にして、あまり食べないとか。
いや、美味しいものを肴にしてお酒は飲むものだろう。
掃除もしなければならないし、アタマが痛い。
むしろ、即、帰っていただきたいぐらい、、、
それ、コミュニケーションを取るにあたって本末転倒だし、、、
別に彼が嫌いなわけではなく、、、敷居が高いというか、やりにくいというか、めんどくさいというか、、、
彼がわたしに慣れるか、わたしが彼に合わせて頑張るか、、、
後者(がんばるわたし)はあり得ないので、たぶんおそらく距離感が生じることだろう。
まあお互い、ライフスタイルが確立しているので水と油は致し方ない。
できるだけそっと摩擦を生じないよう、接しないように接する。
次女は大変だろうけれど、彼女はわたしほど手抜きではないし、まだ若いし、わたしとは世代も違うから、大丈夫だと思う。
(とりあえず)夫婦だから。

わたしたち夫婦は、仕事オフ、プライベート時の暮らしぶりにおいては、リラックスモード全開。
お互いのリラックス基準が違うため、お互いが快適に暮らせるよう調整している。
調整は長い時間をかけて行われているが、娘たちのダンナさんたちとの調整は苦行になる。
お互いに。
慣れるしかない。
いっしょに暮らすわけではないから、まあよいか。

特に、我々夫婦の場合、外から受けるイメージより、内情がかなりユルい。点数が低い。
それは、期待や想像を失望、落胆に変えることがよくわかっている。
なので、気が重い。
徐々に失望していってもらおう。
だって、わたしたち、もう歳も歳だからぁ〜。
と、歳に逃げる、最悪のパターン。
ストレスを抱えるよりは、年齢のせいにする最悪のパターンのほうがマシ。
人からの評価より、自分軸。
だが、ある程度、いいカッコもしたいところに墓穴を掘る原因が潜んでいる。
自分軸の中には、人からある程度良く思われたいと思う承認欲求が含まれている。
そのバランスをどう取るか、どう闘うかである。

とかなんとか、自分の力で補えないものは、ちゃっかりアウトソーシング、外注して穴埋めして全体の粗を整える。
全て自分でしようと思うから無理が出るのだ。
任せられるところは任せて、自分しか出来ないところだけの要を自分でする。
結局、何にもなかったりして、、、点だけだったりして、、、
点だけでも良いと思っている。
それは芯だから。

そう言いながら、いかに手抜きして体裁を整えようかと策略を練っている。


蜘蛛の巣

2021-10-15 | 暮らし
庭に大きな蜘蛛の巣。
2階のベランダからも蜘蛛の糸が長く高く繋がっていた。
空に舞い上がる凧のよう。

蜘蛛が「自宅、兼、仕事場」を作っていた。
しかし、不法侵入。
我が家の敷地内に借地権もない蜘蛛に、賃貸を頼まれたわけでもないし、許可したわけではないのに、蜘蛛が無断で入ってくる。
しかも、勝手に巨大な蜘蛛の巣を作る。
で、蜘蛛の巣と格闘した。
広々とした空間にのびやかに作られた、なかなか大きな蜘蛛の巣。
獲物もゲットされていた。

住む人がマメにチェックしないと、庭など、すぐに蜘蛛の巣が張る。
家の中も、掃除してもしても、また蜘蛛の巣。
蜘蛛との闘い。
なんと、よく働くこと。
わたしより頑張られると、わたしが蜘蛛の仕事の後から蜘蛛の巣を次から次へと潰すハメに陥り、まるで誰も住んでいない家のような気になって、気分が良くない。
蜘蛛の巣が張る家は、無人の荒廃した廃墟イメージだ。
お化け屋敷。
無人だと映れば、近所の悪ガキなどには遊び場として目をつけられそうだ。(が、最近の子はそういう遊びはしないかも)

ちなみに、蜘蛛は害虫を食べてくれるから、悪くはないと言われる。
そんなに直接、害もないのだが、蜘蛛そのものが気持ち悪いし、第一、イメージが悪すぎる。
庭の木にはもうひとつ隣の木に大きな蜘蛛の巣が張っている。
蜘蛛の巣屋敷か?

それはそうと、
ご近所に、ゴミ屋敷になりそうなちょっと要注意の家がある。
草木は生え放題、草ぼうぼう、敷地内も手入れは全くされず、インターホンは切られている。
ついには玄関前にまで、段ボール箱が家の中からはみ出し置かれるようになった。
60代〜70代のご兄妹が住まわれているはずなのだが。

ご近所の荒れた家や草だらけの土地が、最近売られて二コイチ(2分割)で家が建つようになった。
新しい若い世代の家はエネルギーを感じる。
若い世代でなくても、新たに土地を購入して自分の家を建てようという人は、こだわりや、今までの軌跡を感じる。
荒れた家や土地より、新しい動きがあるほうが活力がある。
お馴染みさんであろうが、長い付き合いであろうが、皆さんの事情で、住民の出入りがある。
高齢と若い世代の入れ替わりが目の前で次々と行われている。
そして、家(一戸建て)を見ると外からでも経済状態や健康状態がまるわかりだ。
維持の仕方に、住む人の内情や近況が現れる。

時の移り変わりを感じずにはいられない。

いい加減な家庭教師

2021-10-05 | 暮らし
孫、小学生男子チーム、面白い。
小1孫。
宿題のプリントに取り掛かる。
まず1枚目は、ひらがなをカタカナにする。
一つ一つの言葉の上に、人気アニメキャラクターが印刷されていて、子供の気を惹こうと苦心が見える。

「ソ」と「ン」。
何度書いても「ン」が「ソ」になる。
そうじゃない、って。
ばあちゃんは(わたし)「ン」と「ソ」の違いを説明する。
正方形を上下左右4つ並べて四マスを作り、その中にどう収まるか書いてみる。
「ソ」は、細長い。
「ン」は、横幅が広い。
2画目は、上から下に向かって下すか、下から上に向かって跳ね上げるか。
一生懸命、真面目に丁寧に説明した。

小1孫、全然聞いてない。
あいかわらず同じ字を書いては消し書いては消しして、プリントは、しわくちゃ。
ゴシゴシ消しゴムで力任せに消す。
そんなに何度も同じところを消すと破れるよ、と、わたし。

「ん、わかった」
と言うものの、やっぱり同じ間違いを繰り返す。
「ソとンは、似てるから難しいね」と、わたしがサジを投げる。
いい加減な無責任家庭教師だ。

「ム」がわからない、と言う。
ム、、、ム、ねえ、、、
なんか良いヒントはなかろうか。
思いつかない。
教えてしまうのは実に簡単だ。
しかし、答を教えては勉強にならない。
考えさせないと。
何か良い案はないかと、それまで読んでいた情報誌をパラパラめくる。
どうしたものかと適当に考えていると、たまたま「ム」が入ったタイトルを目にした。
「ここ、『ム』って入ってるよ」
と、なんのことはない、ヒントどころか答を示しているのと全く同じ。
頭を使わないばあちゃんである。

2枚目は、算数。
定規が要ると言う。
時計の絵が描いてあって、今何時か、かっこの中に書く問題と、何時何分を時計盤に描く問題。
引き出しから、娘が就学前、幼稚園で貰ったピカピカの(新古品)定規を出してくる。
役に立つ時を迎えるのは、なんと30年以上も後!
ちなみに同じ場所に、わたしの小学生の時の木の定規も入っている。
拙い字で自分の旧姓フルネームを裏に書き込んである。
物持ち、良すぎ。

と、それはよいとして、、、
何時何分と考えてから書くのがいちいちめんどくさいらしく、先に全部のかっこの空欄に、「じ はん」と書き込んでいた。
時計盤を見るとどれも、長い針は6を指してて、半だった。
これは、兄孫も、そう。
先に式の後に=(イコール)だけ書き込んでおく。
ちょっとでも考える際に立ち止まる手間を惜しむにしても、ユニーク。
大人もそんなふうにしているかも?

その日は、彼らの夕食を担当しているが、小3兄ちゃんが、また食べることには貪欲で。
公平に分けていても、少しでも多いほうを取ろうとする。
ピザに乗せたトッピングのパイナップルにすごく執着して大事に大事にする。
なぜか、前々からぜんざいを強くリクエストされ、ご期待に沿うと大喜びされる。
トーストサンドも、弟の分までパクリ。
食い気に走る。
が、よく食べてくれて気持ちいい。
ベビーの頃から食いしん坊で、食器の底が見え始めると泣き、満腹中枢が故障しているのではと心配されたりしていた。
食べないより食べるほうが良いのだが、、、4番目孫もこの傾向がある。
皆、健康でいてくれるのが何よりだ。

5番目孫は、びーびこ、びーびこ、ギャーギャーと1日中、実によく泣き、次女を悩ませ相変わらずだが、まああと1週間で、さようなら。
濃密な赤ちゃん密着暮らしだった。

一人一人、成長してくれ、どんどんわたしの手から離れていくことは、今は嬉しいの一言だが、後に何年も何十年も経って、あれがわたしの1番充実した時期だったなあ、なんて懐古するかも知れない。

秋深し、、、には、まだまだ季節はずれに近いほど暑いが、そのうちにどっぷり秋になり冬になり、、、と季節の変遷を感じることだろう。

どの時期も、その時その時の時期が1番楽しかったと思いたい。

ズカズカ入ってくる

2021-09-08 | 暮らし
親戚から不祝儀お供えに対してお礼の電話があった。
我々夫婦は、日頃、潤滑なコミュニケーションが行われていないため、細かい報告を受けていないことが多い。
電話は常に留守番対応設定にしているが、先日、「○○(夫の実家の地域)の○○(親戚)ですが、、、」と留守番電話から声が聞こえてきた。
こりゃいかん、電話に出なければ!と、急いで受話器を取った。

「お供えをいただきありがとうございます」
そう受話器を通して、お礼を述べられた。
とっさに初盆にお供えいただいたことに対する、こちらからのお礼(粗供養)へのお礼かと思い、
「こちらこそありがとうございます。
わざわざご丁寧にお電話いただきまして」
と返答した。
すると「お家、リフォームされているみたいですね。
どなたか、お住みになられるんですか?」
と、いたっていきなりプライバシーの核心を突く質問を受けた。
わたしはどう答えていいのか返答に困り、
「うーーん、そうですね、、、住むというかなんと言うか、、、今のところは住まないです、、、」
と答えたかなぁと。(はっきり覚えていない)

あとで調べてみると、その親戚Aさんは初盆のお供えをいただいていない人だった。
とすると、去年にいただいたお供えにこちらがお返ししたこと(満中陰志)に対するお礼(ややこしい、、、)なのかなと思っていたが、どうやら違っていた。
つい最近、その親戚Aさんの高齢のお母さんが亡くなり、夫が香典を供えたという。
そのお礼の電話だった。

一年前のことを持ち出してそれを口実に、溢れる好奇心からリフォームのことを聞こうとしているのかと思ったが、そうではなかった。
いくらなんでも、そこまではしない、、、だろうと、自分の思い違いに照れ笑い。

しかし、夫の実家のご近所の皆さん、リフォームにかなり関心があるようで、じーっと立ち止まって見る人や、車を超低速にしてじっくり見ていく人、親戚のとある人を探している風を装って(本当に探しているかも知れないが)、毎日のようにズカズカ入ってくる人など(しかも数人、別々の人らしい)、強者揃い。
毎日、作業のためにリフォーム現場に通うリフォーム会社の担当者が、驚きながら話してくれた。

リフォームする時に、裏扉側の窓を設置するのをわたしが躊躇していた理由がわかったようだ。
近所の人がどんどん勝手に入ってくるのだ。
だから、食堂の椅子に座っていると窓の外から頭が見えたりして、落ち着いて座っていられない。
座ってなくても、玄関に鍵をかけていてもいなくても裏に回り、人がホイホイ通るため、プライバシーが確保しにくい。
で、大きな窓をつけることにあまり積極的ではなかった。

リフォーム担当者は、それを配慮して窓の位置や形を最適のものにしてくれた。
やや高めの位置に設置された細長い窓から見える緑も目に美しく、隣家の、瓦が乗った趣のある土塀も良い演出効果を醸し出してくれている。

ご近所さんたちは、都会ではない地域ならではの住民間の距離感の近さ。
これは実は、わたしが最も苦手とするものである。
冷蔵庫の中までは見られないにしても、敷地内には平気でズカズカ入ってくる。
わたしが、夫の実家に寄り付かない最大の原因はここにある。
お年寄りたちが足腰弱り外に出なくなると、次の世代の人は、同じようにまたズカズカと入ってくるのだろうか。
それとも、次世代の人々はそんなことはしないのだろうか。

地域特性か、たんなる好みの問題だが、世の中には、いろんな人がいる。

追われる1週間

2021-08-10 | 暮らし
今日は台風のため、無駄足。
出かける前から無駄足、出かけてからも無駄足。
つまり、時間と労力とお金を無駄にしたということ。
出かけようか出かけまいか、朝から悩み、半日悩み、やっと勇気を振り絞って出かけたら、なんと台風で全てがアウト。
やっとたどり着いた目的会場は閉鎖。あちゃー。
帰りの電車の復旧を待つ間に、出先の大型スーパーで、食糧品を買ったが、、、出先のため、家まで遠く、重い。
くたびれもうけ。
まあそんな日もある。

帰路電車のホーム出入り口の手すりにぶら下げた、食糧品をぱんぱんに詰め込んだエコバッグを忘れて帰らないことを自分に祈るのみ。
信頼おけない自分だが、信じなければ、食糧品を駅のホームに置き去りにすることになる。
よほどのアクシデントでもない限り、エコバッグの持ち手を手すりから外すのを忘れないはず。


それにしても、食糧調達係は疲れる。
常に食糧を調達しなければならない。
主婦って、大変なんだなあと、今頃になって思う。
次女が母乳育児で日に大量の母乳を創り出すものだから、その母乳創りのための食糧が必要。
蒸気機関車の石炭。
燃料は、車ならガソリンか電気だが、そんなにスマートに供給される感はない。
えっちらほっちら、供給係も汗をかく。

次女は結構、食べるのである。
さらにめんどくさいことに、出来合い既製品お惣菜が苦手。
栄養バランスも重視し、野菜も欲する。
夫だけなら、買ってきたお惣菜で済ませられるのに。
わたしは外出すると、いつもいつも両手に食糧品が詰まったエコバッグ。
生協個別宅配も今月からスタート。
自分が食べるのは楽々だが、人に食べさせるのは、しんどい〜。
同居家族、もう一人一人は大人なんだから、個人個人が好きなものを手に入れて食べてくれたら楽なんだけどなあ、、、
そして、エンゲル係数うなぎのぼり。

フライパンも一度にたくさん調理するため、溢れ出て不便で、大型の中華鍋を奥から引っ張り出してきた。
中華鍋なら対応容量は十分で料理しやすくなって、やれやれ。
かつて、子供3人が10代食べ盛りで、毎日お弁当だった頃を思い出した。
あの頃は、週に一度、スーパーに買い物に行くと一回一万円を下らなかった。
子供に運搬は手伝ってもらっていた。
スーパーのカゴ二つ山盛り。
あの頃はマイカー移動だったから、まだマシだったが。

今も購入量は似たようなもの。
当時、買い物直後は冷蔵庫がいっぱいで暗く、ため息が出ていたが、だんだん少なくなると、またため息が出ていた。
満杯でも、がら〜んでも、ため息。
食糧調達に追われていた。
子供たちもそれぞれ独立し、年寄り二人の、冷蔵庫スカスカ状態でいい調子だったのだが、、、。

ミルク製造機のミルクタンクが現れただけで、一気に食糧事情が変わった。
彼女は今はまだベビーが産まれたばかりで買い物に出ないので、買い物が分担できない。
そこへ、小学生チーム孫の夏休み引き受けホームステイ。
昼も夜も、となると、なんやらかんやら食べ物が要る。
そこへ大人のパパママが加わると、、、
わたしの少ない料理レパートリーに、見栄も入って頑張る。
たいしたことはないけれど。


生協の食糧品が届いて、冷蔵庫はギッシリになった。
またまた減らす苦しい1週間。
それの繰り返し。
苦しいうちがハナか。
楽になるときは、お花畑が近づいているときか。
どっちもgoodかな、と。
なんでもいいのだ。




溢れ出るニオイ

2021-05-17 | 暮らし
理屈ではない哀しい話を書く。
夫は、わたしのような、ぼーっとした女性を妻にして、満たされた生活を送っているかというと、そうでもない(はず)。
劣等生妻のわたし。
そんなわたしに、平穏無事な生活を送らせてくれている夫には感謝してもしきれない。
と、これはアタマで考えていること。
そんなことを(わたしが結婚した時に嫁入り道具のひとつとして親に買ってもらった)椅子に座って、今、ブログを綴っている。

クサい、におう、、、。
怪しい、、、の意味ではない。
椅子から、ニオイがする。
わたしのニオイではない。
わたしが嫌いなニオイ。
生物としての、動物や昆虫、植物からニオうような、その個体が放つニオイ。

そもそも加齢臭というのは、親きょうだい間で、タブーを破って子供が出来た場合、血の濃い子供は遺伝子的に先天的によろしくない子供が生まれる確率が高いらしく、父子ソウカンにならないために、人類が自然に生み出した防衛的なものらしい。
禁忌。

その、悲劇を生まないための防衛的であるはず加齢臭が、新たな悲劇を作っている。
夫婦なのに、夫の加齢臭が堪える。
こんな悲劇、どうすればいい?

他の男性になびかないため、他の男性には加齢臭を付加させる、神様の計らいならわかる。
本来、仲良くし、素晴らしい家庭を作り上げなければならない夫から加齢臭がしたら、、、。

まずは消極的対策。
○鼻をつまむ。
○マスクをする。
○生活備品や衣類に薬品をふりかける。
○精神的に克服する。

積極的対策
○洗濯をまめに、自分が納得できるぐらい繰り返す。
○においを抑える石鹸や香水、薬品等の使用。
衣類、あるいは身体に直につけてもらう。
○いつもいつもいつもシャワーを浴び、洗濯したての服に着替えてもらう。

カンタンで、一早い方法は、、、
そのニオイがする椅子から離れる。
椅子にタオルやカバーをかけて、しょっちゅうタオルやカバーを洗濯して取り替える。
そんなかんじか。

フェロモンと真逆の効果を撒き散らす加齢臭、、、。
男性だけではなく、女性にもある。
バスなどに乗ると近くにいる女性から、ニオってくる。
若い女性は芳しいニオイだが、正反対のニオイ。
汗臭いような、お風呂に長い間、入っていないような、髪を洗ってないような、衣類に染み込んでいるような。
性別を通り越して、男性だけでなく女性にも。
体臭だろうか。
口臭もあるし、生きているといろんなニオイがする。
まあ、そういうものなのだが、過敏に神経質に抗菌だの除菌だのは、コロナ対策分野だけで、わたしは十分だ。
嫌なら自分で防衛、防御すること。
ニオイを発する人を憎んではいけない。

しかしまあ、生物とは不思議なものだ。
異性と子供まで作っておきながら、年がいくとニオイが嫌!だなんて。
そう思うと、椅子だけでなく、ここかしこにニオってくるような気になる。
洗濯回数増加という、家事労働の頻度や量を、自分の鼻のせいでむやみやたらに増やすことになる解せなさ、腹立たしさ、情けなさ。
気にならなかったニオイが気になる、、、(かたや、ニオイを発する)、、、歳を取るというのはこういうことか。
よほどの愛情や思い遣り、配慮、感謝をもって日々を過ごさねばならない。
黄金のしあわせな思い出でニオイを消臭、帳消しにしなければ、、、。
しかし、なんでもかんでも、「○○ねばならない」と自分を縛るのは慎まなければならない。
と、ふつーに、いつも「ねばならない」は顔を出すが。

平和すぎて、しわあせすぎて、飽和、溢れるあまり、不満の引っ掛かりでも嗅ぎ回っているのだろうか。
だが、歳を重ねるにつけ、嗜好の変化はよくあること。
最近、すごい勢いで自分の脳の衰えを感じる。
我ながら情けないを通り越して、その下降ぶりには眼を見張るものがある。(マイナス要素の場合は、こういう表現はしないか、、、)
おぞましき下降ぶりに、仰け反る。
わたしは割と順応性があるほうなので、しばらくすると、新しい、マイナスのわたしにも慣れるだろうけれど。
今、いっときに、おまとめセールのように一気に脳の劣化が襲って来ている。
その少し後で、体の劣化が追い打ちをかける。
新しいわたし、こんにちわ!なのであるが、慣れて受け入れるスピードより劣化スピードのほうが速くて、あたふたしている。
待っておくれ、わたし。
もうちょっと、ゆっくりお願いします、ねー。

さて、と。
部屋内、場所を変えても変えてもニオイがしてくる。
今週はずっと雨のようなので、大物カバーなどの洗濯は出来ない。
梅雨明けまで待つのは長すぎるので、雨が止んだ頃合いを見計らって、洗濯しよう。

ちなみに、連日、ニュースでお目にかかる菅総理も尾身茂会長も、家の中ではニオイがしているかも知れない。
普通のこと、当たり前のことなんだろうけれど。
そんなことより、はやく緊急事態宣言が開けますように。

コロナついでに追加。
今日もワクチン接種予約日時スタート前からスタンバイし、混み合うインターネット予約に挑んだが、アウト。
何度やっても繋がらない。
やっと1回目、2回目の予約にこぎ着けられたかと思いきや、「○時○分は予約できません、やり直してください」と。
結局、予約できず予約は満杯完了となり、1時間の労苦はストレスと化した。

貧乏くさい

2021-04-05 | 暮らし
さてと。
好きなことを書く。
ウケは全く狙わない。

「貧乏」と、「貧乏くさい」は違う。
このセオリー、たいへん、よくわかる。
武士は食わねど高楊枝。
腐っても鯛。
太った豚より、痩せたソクラテス。

清貧という言葉には潔い美しさを感じる。

わたしの場合、「貧乏」か、「貧乏くさい」、どちらに属するかというと、貧乏くさい「貧乏性(びんぼうしょう)」。
靴下に穴が空いていると大変恥ずかしく思うが、靴を脱がない場合は穴空き靴下をドキドキしながら履く。
穴空きが恥ずかしいなら、穴空きでない靴下を履けばよいのに、ストックは山ほど持っているのに、見えないからいいか、、、と穴空きで敢行する。
インナーマッスルトレーニングの時などの、足を投げ出して靴下がトレーナーさんの顔近くに来そうな時は、一番綺麗な靴下を履く。
尚、綺麗な靴下はインナーマッスル用にキープしておかなければならない。
これは、見栄以外のなにものでもない。
こういう感覚、心情、行いが、貧乏くさいのではないだろうか。

真性貧乏ではないが、正真正銘の貧乏性である。
貧乏性の特徴は、きっぷがいい、の真逆で、きっぷが悪い。
大盤振る舞い、しない。
奢る場合は、最少限度。
モノを人にあげる場合も、最少限度。
なんでもかんでも貰うのが好き。
なにかにつけ、ケチ。
正札の値段を見ると、値切らずにはいられない。
(が、デパートや食べ物には、値切ったりしない)
1円でも安く手に入ると満足する。
逆に、得をし損なうと落ち込む。
せこい。
浅ましい。
増えても大して何も思わないのに、減るとやたらキリキリする。
(体重に関しては、この逆)
欲のカタマリ。

良いことは一つもない。
生まれ月?から見る気学では「七赤」という、ドケチの星。
(生まれ年では別の、継続、忍耐の星)
姑は自分で嫁のわたしの星を九星で見て、納得していたようだ。
(姑は、わたしとは正反対の性質)

無理やり良いことを探しほじくり出すと、、、実情、実際のところは貧乏ではない、ということか。
しかしながら、貧乏ではないのにケチ、というのが一番貧乏くさい。
こころが浅ましい。
性格、性質だから仕方ない。
貧乏くさいのが嫌で自分で、納得できない値段のものにお金を出すと、、、気持ちが下降して気分が悪くなりムカムカ、ストレスが溜まる。
では、、、自分の嫌な性格と向き合い改善の努力をするのと、多大なストレスに見舞われるのと、どっちがマシ?
良いように考えると、倹約家。
無駄はしない質素倹約を美徳とする。

何ごとも自然派のわたしは、天然の性格を無理やり捻じ曲げず、そのままそっとしておく。
温存派。
治療でいうと、対処療法の西洋医学ではなく、自力で根本治癒の東洋医学。(もちろん、例外はある)
人に迷惑かけなければ、自然に任せて好きにしておく。
わたしのケチケチ根性は誰にも邪魔されずに益々のびやかに成長し、エコ精神をはるか上回っている。

例えば、水道の蛇口はちゃんとキチッと締める、
照明は必要ない時は消す、
紙や布は、最後まで使い切る、
食材は極力無駄をしない、、、
そんなかんじなのだが。
いつも夫とバトル。

夫は照明が大好きで、日本語では「就寝」時間のことを「消灯」時間ともいうにもかかわらず、眠りについても寝室の電気は付けっ放し。
真昼間の明るい時もトイレの電気をつける、
あちこち、電気を付けっ放し。
かたっぱしから、わたしは消して回る、後始末係。
姑がそうだったので、DNAと育成環境の影響だろう。
(わたしのケチは九星気学の一部からだとしても)
姑は、厳しい舅に躾けられて、表面上は改善された。
舅の母親(姑の姑)も、姑にとっては悲しいかな、わたしと同じタイプ。
が、人は生まれつきの性質は変わらないので、舅亡き後は、本来の姿に戻っていた。

稼ぎ手の人がケチだと悲惨。
(わかりやすい凡例を出すと、通常、大黒柱であることが多い世の夫たち)
家の中をくまなくチェックし、これが無駄、あれが無駄、といちいちけちをつけられると、稼がない側で家で家事をする人(凡例としては大黒柱ではない世の主婦たち)にとっては嫌だろう。
逆に、稼がない側がケチで、稼ぐ側にケチケチ文句を言うと、稼ぐ側が仮にかなり稼ぐ人の場合、
なんでやねん!オレはたっぷり稼いでいるのに、光熱費ぐらい好きに使ってもいいじゃないか!
と不満が噴出するだろう。

いや、お金の問題ではない。
稼いでいるんだから自由にさせろ、と言われても、地球のエネルギー意識の問題だ。
持続可能な地球未来が今はテーマとなっている世の中で、明らかに理屈に合わない無駄は避けたい。
というわけで、家事をする側がケチなのは、意外にうまく家の中が回っていくと思うのだが。
少々不自由でも。

ちなみに、娘の家は徹底している。
地球エネルギーの未来のために、よくまあ、夫子供を教育したものだと感心する。
わたしは、あそこまでは到底出来ない。
年寄りには酷である。
姑が、舅の他界後、我々と同居したくなかった理由がよくわかる。

あれこれ書きたいことが次々に浮かんできた。
続きは、またの機会に。


時代は変わる

2021-03-21 | 暮らし
梅が咲いていた。
100年は悠に経っている庭の古い苔むした梅の幹に真新しい枝が生えて伸びていた。
深い、、、。

さて、昨日は彼岸で墓参りをした。
姑の初彼岸お供えを親戚からいただいた。
19年前の、舅の初彼岸の時は17件お供えをいただいたが、今回は1件のみ。
時代の移り変わりを感じた。

というか、初彼岸お供えが少なかったのは、姑が晩年は自宅ではなく高齢者施設で過ごしたことも遠因としてあるだろう。
舅が亡くなった時は、姑は今思えばバリバリ健在。
姑が自宅で舅を看ていた。
舅、最期の瞬間も病院ではなく自宅。
その様子を親戚や近隣の人々もよくご存知で、労いの意味や、今後、未亡人になる姑への応援の気持ちもあったのでは、と想像する。
それから19年、姑は(優雅な)独居生活を送った。
優雅すぎて、随分前に姑が持ち出していた、我々との同居案もいつの間にか立ち消えになった。
その気持ち、とてもよくわかる。
自分の最期までの数年は除いたとして、姑は配偶者亡き後は黄金の時期だったと思う。
向かうところ敵なし。
今のわたしと同じだ。

わたしもあと15年ほどは黄金期?
いや、大事なことを忘れていた。
わたしは、まだ未亡人ではない。
未亡人としての黄金期はちょっと延期され、今は普通の、ただのリタイア時期。
黄金期の後にはお一人様プラチナ期があり、わあわあと人生の締めくくりを満喫するのも束の間、やがて終焉に向かう。

まあそれはそれとして、初彼岸お供えが激減したことに驚いたが、わたしはちっとも落胆せず、むしろ有り難い気持ちだった。
皆さん、生活などにお金も要るし、もう不祝儀関連の出費は卒業されたらよいと考える。
いただくほうも、(わたし個人の感想としては)全く嬉しくも有り難くもない。
時代錯誤だと感じる。
しかし、律儀な方々が大変多く、自分の親などの時にいただいた限りは、またお返ししようとする。
延々と繰り返されるわけだが、、、
繰り返さなくていいとわたしは思っている。
だが、地域に拠点を置いている限り慣習を無視するわけにはいかない。

ちなみに、白洲次郎は潔い。
戒名無用!

それはそうと、香典辞退します、と皆さんにお伝えしても、実際には別の形でなんやらかんやら弔意を表してきていただく。
そのお返しがまたまた手間がかかる。
が、そんなことを言うとバチが当たること間違いなし。
わたしは罰当たりの嫁である。

同じお墓に入りたくないという思いは、今はなくなった。
自分の遺骨を放置したら、生きている皆さんに迷惑かと思って。
遺族がやりやすいようにしてもらうとそれでよい。
わたしは反骨精神はあるものの、実行力が伴わないので、ただの文句垂れということになる。
ぐちぐち愚痴のクレーマー。
それはわたしの理想ではない。
真逆。
行動と精神は統一すべし。
何もしないなら、何も言うな!である。
口出し手出しにも通じるものがある。が、難しい。
船頭が多いと、航海は困難。
また、やったことが良かったかどうか、時代を経てから功績の評価がおりる。

しかしまあ、お一人様のプラチナ期を首を長くして待つより、プラチナは諦め、黄金期を充実させるほうが得策と考える。
プラチナ期はなんといっても自分も高齢になるし、出来ることや楽しめることが、狭まってくる。
それなら、黄金期に夫婦仲良く暮らしていくのが理想かも知れない。
今は医療も発達し、夫婦で長生きするかも知れないので、お一人様プラチナ期の期間はたぶん短い。
お二人様黄金期を良い時期とするためには、意味のない反骨精神は横に置いて、意味のある協力体制を築いたほうが自分のためになる。
決して人のため、とか、夫や家族のため、とか、そんな他人軸ではない。
あくまでも自分軸。
これが、自分を幸せにする、わたしの基本スタンスである。
他人を幸せにするために自分を犠牲にして自分が不幸になるのは、本末転倒。
自分を犠牲にして幸せを感じる人もいるかも知れないが、仮に自分がそうだからといって、他人にも強要するのはいかがなるものか、、、。

あまりにもワガママは受け入れられないが、ある程度のワガママは生きる上での必要不可欠な要素だと思う。
自分に厳しい人は他人にも厳しさを強要する傾向があると感じる。
が、人それぞれなんだから、自分のモノサシを無理やり通用させようとすると、軋みを生じる。
自分と他人、、、真ん中あたりまで歩み寄り、お互いを認めるようにしたいと願っている。
妥協と言ってしまえば、それまでだが。

他人を許容する優しさを求めている。





近隣事情

2021-03-17 | 暮らし
我が家の2筋前の家と、斜め後ろの家のお年寄りが、相次いで亡くなった。
顔も名前も知らないし、家の位置は近いからわかるものの、どんな玄関で、どんな家の形状だったか、さっぱり記憶がない。
家の前は通っても見ていないということか。無意識。
お二人ともお葬式は事後報告。
自治会に葬儀を事前報告すると、参列する義務が生じる場合がある。
身内で終えて事後報告するのが昨今の風潮のようだ。
皆さん、まるく収まる。

まあそれはそれとして、その代わりと言ってはなんだが、、、
我が家の、道を隔てた斜め前の家、取り壊されて更地になって数年経っていたが、この度、ほぼ同時に2軒、新たに家が建築される。
2軒ともお若い世帯。
1軒は、お子さんが、わたしの2番目孫(今春から小学新1年生)と同級生らしい。
まさに、世代交代、入れ替わり。
1軒分の敷地が、ニコイチ、2つに分割されて家が建つ。
おのおの別々のハウスメーカーなのだが、敷地は左右に真っ二つ、半分。
それぞれの特徴のある家が建つことだろう。
2軒とも住まわれるのはお若い方々なので、自治会にぜひとも入会していただき、若返りが期待される。
(その一方で、老世帯は、続々と自治会を脱会している)

1軒の老世帯の後に2軒の若い世帯。
二分割されているため、土地金額も半分なので、若い人には手が出やすい。
住民が若くなって活気が出て言うことなしである。
が、あまり良い顔をしない住民もいる。
保守的な前々から先に住んでいるお年寄りならいざ知らず、ほんの少し前に入ってきた若い世代なのに。
しかも、ニコイチ組。
街並みや街の雰囲気が変わるのは嫌なんだそうだ。
なぜなんだろう?と、無理矢理、理由を想像すると、、、(推測、憶測に過ぎないが)。
多分、土地価格の低下による不公平感。
同じような土地を高く買うか安く買うか。タイミングによる。
ほかには、、、土地の広さ。
一軒分の分譲土地面積が、同じ町内、同じ丁でも番地によって、ほんの少し違う。
しかし、ほんの数十坪の差、ささいな違いである。
ちょっとの違いは、ほぼ同じだとわたしは見なしている。
だが、綿密にいうと、数十坪広い敷地に家々が建ち並ぶ街並みではあるが、それぞれがプチ豪邸。
少しの例外はあれど、そこそこがプチ豪邸揃いとなっている。
街並みが崩れるのが嫌だという感想は、そのことかなあ、、、と。
プチ豪邸跡に、プチプチハウス。
三分割、サンコイチの家もちらほら見かけるようになった。

豪邸通りとされていた家々も、引っ越ししたり、別の人が住んだり、取り壊されたり、新しい家が建ったり、駐車場になったり、その駐車場がニコイチ住宅になったり、、、わたしが住み始めてから30数年の間には、移り変わりがある。
第一、土地の価格は半分〜3分の1近くに落ち込んでいる。
新たに入る住民、出て行く住民、それぞれの時期によって売買価格が違う。
そして、昔のニュータウン(おかしな表現)なのだから、各土地そのものには歴史差はなく、均一的、金太郎飴的で似たり寄ったり。
入った時には土地は同じ、一斉にスタートは同じでも、
入居時にそれぞれの背景は違っても、50年近く経つと、またそれぞれの背景は違ってくる。
若い時に移り住んだ人々も、認知症の年齢になっている。
子供の世代もすでにリタイア年齢の世帯もあるし、子供世帯と二世帯住宅にしているところもあるし、高齢者施設に入居を控えているような人もいる。

アップダウンのない、いつまでも同じ水準をキープできる暮らしが幸せだとわたしは思う。
成り上がったり、落ちぶれたり、激動の推移は疲れる。

お年寄りの中に、新たな若い世代の流入により、街に活力が生み出されるのは好ましいと感じる。
停滞する街に、若い芽吹き。
若い人が入ってきやすいように、さらなる促進政策も作ってほしい。
そのためにも魅力ある街づくりが望まれる。
ニュースをテレビの向こう側に見てではなく、自分の暮らしの足元から実際に高齢化社会を実感する。

ちなみに、、、
時代の移り変わり、変遷を肌感覚で感じる。
負の遺産も処理代に結構な費用がかかる。
遺産を受け継ぐ世代には、当たり外れがある。
と、この話を書き始めると長いので、またの機会に。

今回は市役所の広報誌みたいな内容になってしまった。
面白くないということ。
そのせいもあり、なかなか筆が進まず、何日も抱えたままアップしない状況が続いた。
次に進まないので、とりあえず、アップする。

写真は娘婿からバレンタインデーのお返し。
一個食べたところで、娘に「写真撮らなくてもいいの?」と言われ、食い気に走りすっかり忘れていて、あ、そうそう、と撮影。
Sadaharu Aoki.超売れっ子のチョコ。
わたしがあげたチョコの10倍?ぐらいしそうで、お高くついて誠に申し訳ない、、、




言い訳無用

2021-03-09 | 暮らし
イーチャン、仏出版、応援してます。
それと、パワハラではなく、影響、です。
啓蒙啓発でもある。
往復書簡ブログ内やりとり、なんか楽しい。

わたしは脳内は実にスッキリしているのだが。
一面、お花が咲いているだけだから。
その分、モノが多い。
断捨離は、ブルトーザー破棄が良いと、こころから思った。
残土処理とかは業者にお任せしよう。
あ、リアル美術品は例外。

さて。
災害に見舞われた人々の10年にわたる暮らしを特集している番組を昨夜、NHKテレビで見た。
三人のお年寄り男性。
お二人は80歳を超えてから亡くなったが、お一人は、84歳で今も漁師を現役続行中。
厳しい自然と向き合う職業って、過酷ではあるが光り輝いていると感じた。
海と向き合う。
家族も皆んな、強い。強くなる。

わたしは絶対に無理だから、尚更そう思う。
へなちょこなので第一次産業従事者にはなれない。
もし、農家や漁師の家に生まれていたら、、、?
実際に生まれていないので、なんとも言えない。

農家の人々なら子供の頃、周りにたくさんいた。
どちらかというと、諍いもなく親戚たちは、のんびり、ゆったりしていた。
わたしが子供で親に保護されて大人の世界を知らなかっただけかも知れないが。
土地に種を蒔き育てるには、時間がかかり、持久力がいる。
豪快な漁師さんとは気性が異なる。
多分、水と油。
農業従事者と漁業従事者が結婚すると、キリスト教とイスラム教ぐらい、性質に違いがあるかも知れない。
が、宗派は違えど、根本は同じ。
考え方や表現方法、体現の仕方、見え方が違うだけだ。
さらに、第一次産業以外の従事者はまた違う。
当たり前だ。
業種、勤労形態や内容も時代とともに、移り変わる。
その家族もまた変遷する。

「サラリーマンの妻」というのを、「奥さん」と言った時代があった。
外で仕事をせずに奥に引っ込んでいるかららしい。
今も妻のことを「家内」なんていう男性がいる。
「愚妻」という表現もあり、愚妻の皆さんはカンカンになって怒っている。
外に向かってこともあろうに愚妻だとお??
という憤り。
しかし、愚妻は哲学者を育てる。
ソクラテスは悪妻に悩まされて、大きくなった。
愚妻と悪妻は微妙に違うのかも知れないが。
人を育てるのも大事だが、自分を育てるのも大事。
悩みながらも両方育てばウインウイン。
が、今時、「奥さん」なんていないかも、と思いつつ。
ただし、家の中でじっとしているのはツマラナイから外に出て思いっきり遊ぶ「奥さん」もいるが。

そういえば、先週末、いつも乗る路線バスは、女性の運転手さんだった。
運転手席から発するアナウンスが女性っぽい声だなあと降り際にちらとお顔を拝見すると、楚々としたマスク美人だった。
あんな大型バスをあんなか細い女性が、、、
わたしは運転が限りなく下手なので、女性とわかった瞬間、尊敬してしまった。
女性ドライバーのタクシーには何度か乗車したことがあるが、路線バスは初めてだった。
男も女もない、性差はないとしみじみ感じた。
あの私鉄系バス会社の女性運転手はおそらく彼女が(わたしが知っている限り)一人目なのではないかと想像する。
別の走行ルートでは女性運転手さんも配属されているかも知れないが。
すごいなあ、、、地図が読めない、空間位置関係が把握できない、わたしは、ひっくり返っても出来ない、、、。

しかし、この地図解読、不得意分野にも、性差はないかも知れないが。
封切りされたばかりの韓国映画「野球少女」からも、同じようなメッセージを受け取った。
女子だから、家計が苦しく家族から反対されているから、そういう自分の能力以外の逆風のせいで出来ないと言い訳は見苦しい。
出来ないのは、自分に能力がないからだ、と。

わたしは小学高学年の時に嫌というほど、その現実に向かい合った。
家が裕福な子も、権威者の親がいる子も、ルックスが良い子も、スポーツができる子も、人気がある子も、性格が良い子も、勉強レースでは同じ条件下に置かれていた。
勉強だけを切り取り、他の条件は一切カット。
点数のかさ上げにはならない。
家が裕福な子などは、かえって惨め。
家庭から逆風が吹いていないにもかかわらず、教育ママゴンが、頑張って!と、紅茶とケーキを勉強部屋に差し入れても、本人は頑張れない。
出来ない外的理由があるほうが救われる。
全ての条件をリセットして、一つの分野だけで競うというのは、自分と向き合う以外に方法はない。

まあそういう過酷なレースに、わたしは10歳あたりから揉むに揉まれ、結果的には落ちこぼれたのだが。
落ちこぼれると知識は身には付かなかったが、知恵が身に付いた。
何も価値観は一つではない。
なんでもやっていけるということだ。

というわけで、自分の能力にとっくの昔に見切りを付けているわたしなので、女性なのに、大型バスの運転手業務を立派にやっておられる人を見ると、賞賛、応援したくなる。
もちろん、男性であっても、だ。
皆んな、頑張っている。

頑張ってないのは、わたしだけだが、人の迷惑にならないよう頑張っている。
まあ人には人の道がある。

て、今日のブログ、終盤になってきた。
そろそろ〆ないと。
皆さん、それぞれに頑張っていて、その様子を知ると勇気や活力をいただく。
人々の姿を見て感動してしまう、単純なわたしだ。
10歳のレース体験の後、色んな変遷を経て、脳内にはお花がいっぱい咲いている。
これも不思議な光景である。