蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ウズウズとの闘い

2022-05-26 | 暮らし
上に上があり、下には下がある。
自分はどうしたいか?

向上したい?
現状維持?
下がらないように時々、チェック?
ひゅ〜んと下がる?
スクラップandビルド?
(一旦壊して一から再生?)

成長期ではないので、今の林住期ならではの答えがある。
ひとつには、自然法則として(学校で理科の授業で学習する)、生まれてから亡くなるまで、生物は成長衰退の放物線を描く。
理系、生物の法則とは別に、人としての内面、行動面での生き方を模索する。

わたしは社会的な面から見ると、幸せな過去、生い立ち、環境である。
精神的にもそう。
これからも続くと予想する。
そう言ってしまえば、ブログは一瞬で終わる。

ブログにも色々。
餃子食べ歩きブログを書く人、読む人にとっては、わたしのブログなど、一瞥の興味も接点もない。
当たり前。
わたしは気分次第でたまたま餃子ブログを読むと、美味しい餃子を食べたような気にはなった。
興味がないわけでも、嫌いなわけでもない。

人には好き嫌いがお互いにあって当然。
ない方が怖い。
だから、何?
いえ、べつに、、、

優越感も劣等感も、能力や環境、置かれている立場から生まれる。
客観的な指標のようなものも政府が示したりすることもある。
世間では普通、並。
それに比べると自分は、、、
となるが、政府の数字から一喜一憂するのではなく、自分の毎日があまりにも辛いとか、味気ないとか、虚しいとか、マイナス感情に苛まれた時に、公表されたデータなどで、自分の状況の答え合わせをする。
プラスの状況の時は、あまり世の中の動きは気にならないのではないのではないだろうか。
楽しい時間を満喫することに貪欲で、他の人はどうなんだろう?などと、どうでもよいのでは。
で、、、だから?
いえ、べつに、、、

歯切れが悪い。
入れ歯のせいか?(嘘です。入れ歯してません)

長々と何が言いたい?
今、わたしは浮かれている。
有頂天になっている。
自慢したくてウズウズしている。
だが、、、わざわざ人に言いたい自分を抑えたい自分がいる。
厄介です。ウズウズちゃん。
ウッ(鬱)ちゃんより、マシ。

そもそも、わたしはウッちゃんとは無縁。
こころが、強い。
ナイーブ、繊細ではない、無神経、デリカシー不足。
しかし、もっともっとこころが強い人々もいる。
人の気持ちを解さない、寄り添わない。
人に全く沿わない。
そんな人にはウッちゃんは近寄りもしないだろうが、そのかわりに周りの人にウッちゃんは、やってくる。
大変。

わたしはウッちゃんとは仲良しではないが、無気力くんが巣食っている。
ウッちゃんとの違いは、内向的、消極的なくせに、いたって明るい。
悲しい時もあるが、定着しない。
気分屋なので、突然、ウッちゃんがやって来ても不思議ではないのだが、ウッちゃんとはソリが合わない。
おそらく、生まれつきのものだろう。
健康な身体と、強い精神を持っているようだ。
それは親に感謝しなければならない。
ありがとね。こんな風に産んでくれて。

さて。
今日は、自慢ウズウズちゃんとの対決で、ウズウズちゃんは、コーヒーブレイク休憩のよう。
ああよかった。
自慢しなくて。
その瞬間は発散出来ても、後で気分が悪くなる、難儀な性格のわたし。
文字に表さず、脳内だけで、ウズウズちゃんと戯れよう。



実家

2022-04-09 | 暮らし
gooブログの皆さんのアピールチャンスが楽しい。
写真が綺麗、目を引く、だとか、タイトルがインパクト大で興味津々だとか、、、
最も大きな理由は、わたしの気分がアピールチャンスにアップされているブログを読みたい気分だったこと、なんだけど。
たまたま、というもの。

だが、「たまたま」ほど、大切なことが詰まっているものはない。
意図しないことに、運命の出会いがあったり、真理を見つけたりする。
と、大袈裟に書いてみた。

たまたま、今回のアピールチャンスで、東北最先端の県にお住みの、豪雪に見舞われたブロガーさんの記事を拝読した。
そもそもアピールチャンスにアップされていたのは、その豪雪の記事ではなく、山にお花を見に行く、美しいお花の写真オンパレのものだった。
パラパラと他の記事も読んでみて、親近感を覚えた。
それは、、、実家の雪下ろしや草刈りをはじめとする、ご実家の維持に精を出しておられるところ。
お母さんは施設に入られ、実家は今は空き家になっているが、まだ新しいキレイなかんじの家屋である。
市内からご実家に通われている様子。
あの豪雪、地域の方々は親ごさんが住まなくなり空き家になった後も住まわれるのだろうか。
住みやすい市内などに、引き続き住むのか、実家に引っ越すのか、夫婦別居となるのか、別荘がわりに使うのか、その人の事情によるだろう。

暫定的に住まい方を選んでいても、やがて、歳をさらに取り、また違う選択をすることもある。
健康、時間、気力、お金。
これらがキーとなる。
必須優先順序をつけるとすると、1.お金、2.健康、3.時間、4.気力、といったところか。
リタイアしていればまだマシだが、現役のまま介護付きで実家通いの皆さんもいる。

わたしの知人もそうだった。
関西在住、家族も勤務地も大阪。
ご実家は九州。老いたご両親だけで住まわれていた。
見守り、生活補助や介護が必要になり、最初はお父さん、次にお母さん、と、次々順番に遠距離サポートし、お見送りされた。
当時は仕事と掛け持ちだったから、かなり大変そうだった。
第二の就職は途中で辞めてあきらめ、サポート一本化となった。
奥さんは大阪で教師をされていたので、着いていくわけにもいかなかったが、できる限りの協力をされていた。

あの九州のだだっ広いご実家に、今はゆとりの滞在をされている。
時たま、海や山、畑の自然を満喫されている写真を送って来られる。
あのまま、あの地に永住されるのか、二つの家を行ったり来たりか、、、
わたしと似たような世代(あちらは少し上)なので、動向を見守っている。
南の地なので、暖かい陽光が伝わり、ご実家は過ごしやすい終の住処となることだろう。
(ただし、自立できる間は)

自立できなくなるギリギリまでは好きな所で過ごし、自立できなくなったら介護施設か家族と同居ということになる。
(今は介護施設が充実しているから、そちらのほうが一般的かも知れない)
これはどの地域に住んでいてもだが。
在宅のままこの世を去るのは、理想的な場合と、理想的ではない場合がある。
それまでの生き方の延長に、終焉がある。

どういう生き方をしたいかは、各自の選択。
中には選択出来ない人もいるかも知れないが、こころは自由。
こころが自由なうちに選択したい。
ちなみに、こころが不自由って、、、?

積極的に人生を謳歌している人々を見る。
ある方は、ご本人は暇にならないよう、無理矢理スケジュールが空白にならないように何かしらを詰め込んでいる、とおっしゃる。
が、わたしには積極的な姿勢に見える。
嫌々、渋々、詰め込んでいるようには思えない。
たとえ渋々でも、わたしの目には好ましく映るから、わたしのような人が寄ってくるだろう。
類は友を呼ぶ、、、。吸引力、あり。
健康な身体に健康な魂が宿る。

もし、健康を害しても、その時はまたその時。
別のフェイズに展開された精神に移行していることだろう。
拗ねたり絶望したりせず、「来たか」とジタバタせず受け入れたならば優等生だが、そうは行かないだろう。
とりあえず、今日の健康と幸せに感謝し、明日も続くよう祈るしかない。

とは言え、何も考えなくても明日は来る、、、んだけど。
なるようになる。
ならないようにならない。

毎日、いつも同じことを言っている、、、わたし。


骨董

2022-03-16 | 暮らし
まずは、お礼というかなんというか。
蝶ブログをお褒めいただきありがとうございます。
二人(だけ)で盛り上がっているのも悪くないとは思うものの、、、。 
ちょっと閉ざされた、closeメンバーになりますが、嬉しいです。

このcloseメンバー同志は、人数は膨らんでいかない。
メンバーはお互いで、合計2人。
closeで完結している。
お互い、両手を繋いでいる。
片手なら、どんどん輪が広がるのだが。
だが、closeの相手は一人ではない。
別に何人も、それぞれcloseの相手がいる。
多くの人と自分の全体(総合)を同時に共有しているのではなく、自分を幾つにも細分化させ、各パーツ同士で繋がっている。
総合商社ではなく、専門店みたいなものか。
専門店が集まり、何かを為す、作る、産む。
全体相関を図で表すとわかりやすいと思い、紙に描いてみたが、よけいわかりにくくなった。
さらに文章を加筆すると、ますますわかりにくくなった。

まあ何しろ、わたしは複数の人々と同時にコミュニケーションを取るのが下手である。
というか、出来ない。
難儀な不器用人間だ。

ではあるが、closeであろうが解放されようが、相手をとことん応援する。
頑張って欲しい、活気ある日々を送って欲しい、楽しくイキイキやって欲しい。
他意はない。ただ、単純にそう思うだけだ。
遠くから送ったテレパシー、届いたかな?

で、話はころっと変わる。
変わりすぎて、別の記事にしたらよいとは思うが。
まあよい。

最近、メル○リでの「ドレス」熱はひと段落し、代わりに、「骨董品」ファンになっている。
設定済みの検索カテゴリーは、骨董品。
毎日毎日、色んな品々がアップされる。
30年ぐらい前に実母からもらった新品コーヒーカップ&ソーサーが売られているのをつい最近、見つけて、びっくり!
ありゃまあ、、、。
1客13500円ぐらいだったか?
5客あるから、13500✖️5=67500円?
まあこれはメル○リでの売値だから、あくまでも参考に。
わたしは売る気も買う気もなく、たんなるお遊びで見ている。
この陶磁器は、1995年の阪神淡路大震災で、姉が貰った分は全部割れたそうだ。
うちのは、ほぼ新品、キレイなままである。
震災当時は、貰ったまんま開封せず、1客ずつ桐箱に入れられた状態でそれぞれ保管していたので、難を免れた。
使ったのは、娘達の学友達がうちに遊びに来た時と、娘(長女)婿のご両親がお見えになった時。
あとは飾って楽しむだけ。
コレクションである。

メル○リでは、夫の実家にあるような品がゾロゾロ売られていて、実に面白い。
箱があると価値が上がるようだ。
あくまで素人が売買するサイトで、ちゃんとした骨董屋ではないため、いい加減なものも多いが、中には、おや!というものもある。

ちょっと気になり、今の家を建て直した時に貰ってきたモノをごそごそ取り出してみた。
漆塗りのお椀。
木の箱には、舅が生まれる2ヶ月前の日付が毛筆で記してあった。
100年近く前のモノだったのかーー。
この世に出たのは、お椀は舅より少しだけ先輩。
買った人の名前として、舅の祖父の名前が書かれていた。
当時はまだ買う力があったようだ。
舅の祖父は、明治7年生まれ。
明治、大正の品々は、この人が買ったと見られる。
昭和末期に舅が購入した茶箪笥は、舅の趣味だが、わたしの趣味ではない。
わたしと舅は、趣味が合わない。
わたしは線の細い繊細で優美なテイストが好きだが、舅はどすんとした太いテイストが好きなよう。
それ以前の人々が買ったものは、わりと優しい光を放つものや、やはり、どすんと土っぽいものなど、様々。
舅は、還暦頃に、蔵の品々を点検、整理したので、キレイに保管されている。
が、鑑賞する余裕はなかった。
でも、ちょいちょいと、お気に入りのものを引っ張り出して、実生活に使っていた。
それをわたしがまた、実生活に使うのはまあよいとしても、重い盆栽の鉢植えの下に敷くとは、せっかくの漆塗りが傷む、勿体無いではないかと、ちょこちょこ持ち帰って来たりして、舅との隠された水面下のバトルが繰り広げられていた。
その点、姑も夫も、まったくお道具には興味がないので、喧嘩にならなくて、話にもならなくて、すーすーに何の引っかかりもなくて、とても良かった。

舅は見た目とは全く違い、取り揃えられた文学全集も愛読し、文系色の性質を持っていた。
姑はバリバリの理系、夫も、夫の姉も、バリバリの理系。
わたしは、どんより文系。
子供たちは、コース的には文系2人、理系1人。
ではあるが、中味的には、文系混じりの理系と、理系混じりの文系と、普通に文系。
上手く混ざったものだ。
そこに、娘婿たちは、理系。
これまた、良い具合に混ざった感じ。
面白いものだ。

と、まあそれはそれとして。
価値観は各自異なり、モノに何の価値も見出さない人が存在するのは当たり前で、蔵ごと叩き売る人がいても、それはそれで、その人の人生。

わたしも歳を取り、骨董趣味が出てきた。
が、食器は、他人の骨董品は使う気がしない。
どこの誰が使ったかも知れないものに、食べ物を乗せるのはどうも抵抗がある。
先祖達が使ったモノや、超新古品ならまだしも。
それに、メル○リに出ている骨董品は、結構、ひどい。
わたしなら、絶対買わないようなものがゾロゾロ出品されている。
わたしの基準は、、、骨董品と言えど、経年劣化によるクスミはまあよいとして、カケ、ヒビはNG。
接着剤で修理もNG。
転売する気はないため、箱は無くてもよいが、窯元の名なり、作者の名前なりが入っているものがよい。
が、名入りでも贋作ももちろんある。
仮に贋作でも気に入っていれば、それでよい。

夫の実家でちょこちょこ見つける、興味深い品々はカケていたり張り合わせられていたりするものもあるが、何の価値もなく換金性はゼロであっても、わたしに取っては大事な時代の物証である。
愛おしく感じたり、くすっと笑ったり、
人知れず隠してたんだろうなあ、、、と想像したり。
遠い遠い昔の、喜怒哀楽の日々を彷彿させられる。



おまかせパック

2022-03-07 | 暮らし
こころの相続。
良い言葉、心地よい響きだ。
断捨離反対!の記事を紹介いただいた中で、五木寛之さんの書かれたものに思いを寄せた。

やはり、インテリは違うなあ、と。
わたしはヒステリックに感情に任せて叫ぶだけだが、五木寛之さんぐらいの大御所にもなると重みがある。
そもそも断捨離は禅の教えを用いているらしいが、仏教ではまた違う見方もある。
自分にとって良いとこ取りをしよう。

精神面を説くならわからないでもないが、、、なぜなら、こころの内面は人それぞれだから、どの教えを取り入れて肉付けしても構わない。
が、行動に移す場合は、ああしろ、こうしろ、とパターン化されたものを指図されるのは、わたしはかなり鬱陶しさを感じる。
どこからどう手をつけて良いのかわからない、だとか、具体なやり方が全くわからない、だとか、方向性や道筋を決めた上でのノウハウならまだしも、
道も決めていないのに、あるいは、違う道を選んでいるのに、こうしろ、ああしろ、は暑苦しい。


戦前生まれのおばあさんが、ゴミを溜め込むのは賛成しない。
誰がどう見てもゴミとしか思えないようなモノを捨てないで取っておくのはどうかと。
が、今は環境汚染の観点からペットボトルなどを使い捨てせずに、マイボトルやマイ箸を持ち歩き、エコ志向も広まっている。
ペットボトルや缶は分別ゴミ箱へ。
できる限り使い捨てではなく、繰り返し使い、捨てないための工夫が課題とされている。
企業も環境を考慮した上での材料に切り替える努力をしている。

と、話の流れが何やら変わってきている。
いつものことだが。

モノに詰まった思い出、モノから溢れ出る豊かな感情、モノという物理的な目の前に実在する実感で、無意識に眠っていた思いが掘り起こされる。
嫌な思い出に触れたくない場合は、捨てるとよい。
二度と見たくない、触れたくない。
次第に嫌な感情は薄まり忘却に向かうことだろう。
だが、モノが実在しようが、しなかろうが、消えない思いはある。
「モノ」で一括りには語れない。


無機質な何もない部屋。
究極のミニマリストは、机も椅子もベッドもない。
引っ越ししたばかりでまだ荷物が届いていないような状態の部屋。
がら〜ん。
本人が快適なら他人の口出しする幕はない。
だが、その価値観を他人に押し付けられてはたまったものではない。
ましてや時代の風潮ともなると、古い価値観を持つ人には息苦しい世の中になる。

わたしの子供達は、今風の感覚。
特に親であるわたしが、こんなのだから(断捨離抵抗派)、尚更、モノがない贅沢を堪能している。
贅沢=空間。
モノで埋め尽くされた空間は、限りなく不快。
というわけだが、実家(わたしの家)に四季の服や今はとりあえず着ない服などを置いて、季節ごとに入れ替えている。
ベビーの成長に伴って不要になったものや、今から必要とするものを置いている。
実家はレンタルボックスか。
そのせいで、ただでさえゴチャゴチャぐちゃぐちゃなのに、2階はまるまる収納庫となっている。
自分の家はスッキリで快適だろうけれど、はみ出した贅肉担当、引き受け係としては、どうかと。
さらに、夫はどこかで貰ってきたのかどうしたのか知らないが、自宅トレーニングマシーンやら、かさばるものを放置。
トレーニングしているところは、一度たりとも見たことがない。
地元地域密着フリーペーパーに告知して、「取りに来ていただいた方に無料でさしあげます」とでも出せばよいのだろうけれど、面倒くさい。
なんでもかんでも、面倒くささが先に立つ。
するとどんどん処理が後回しになり、気づけばガラクタの山。
断捨離にわたしは抵抗しているのは、好きなモノでも捨てよ、ということに関して。
要らないモノ、ガラクタはとっとと捨てたらよいのだが、いかんせん、お尻が重い。
頭にずしっと漬物石が載っているところに、断捨離断捨離と騒がれると古傷が痛むように、「わかってるって! 今からしようと思ってたの! ああ、またやる気が萎えたー」などと、親に勉強しろ!と頭ごなしに怒られる中学生の気分。
自主性を尊重してよ、と相手の包容力や待つ力、忍耐力を半ば強要し、自主性などいつ育つのかも予定が立たない言い訳ばかりで、現在の自分の怠惰を人のせいにしたがる。
この場合の相手とは、家族でもなければ世間でもなければ、自分なので厄介だ。
自分と向き合い対峙するには時間がかかる。
(て、たんなるサボり)

要るモノと要らないモノを分けるという意味では、ゾーン分けされている。
2階のAゾーンとBゾーンにあるものは不要物である。
Cゾーンにあるものは必要と不必要が混じっている非分離グレーゾーン。
Dゾーンも混じっている。
とすると、AゾーンとBゾーンだけをとりあえずゴッソリ捨てたら、不要物破棄に拍車がかかかるかも。

ちなみに、わたしは「断捨離」とは言わない。
「不要物破棄」と言う。
同じことかも知れないが、精神的な意味合いが違う。
考え方を少し取り入れるのは悪くないが、まるまる教科書のように、教祖様の教えのように、アタマから真似するのは嫌だ。
変なところに反骨精神が芽生える。
いったん知ったとしても、吸収すべきところはあるのかないのか、自分には合っているのか、自分なりの判断、解釈の上、自分流アレンジを生み出したい。
何も考えない思考停止、まるまるおまかせパックは、10年後以降かなと。

そう言って何も手を付けず、結局、強制おまかせパックになるのかも知れない。




朝晩のお仕事

2022-01-07 | 暮らし
朝から楽しいブログ記事を読んだ。
「老婆の、わたし」
どなたかが引っ張り出して来てくださった過去記事。

少し過去のわたしに、笑わせてもらった。
少し過去のわたしは、とても遠くの近未来のわたしを想像して書いている。
書いた日から時は過ぎ、まだ近未来の老婆のわたしにはなっていないものの、たった2年で自分の想像した老婆に近づいていて、笑った。
えらいぞ、わたし!
なかなかクールでシュール、現実的な想像をしている。

雨戸の開け閉めにかかる「2時間」を、雨戸を開け閉めしないで使う、、、その発想が面白い。

夫の実家のリフォーム後、雨戸は今はタイマー予約で開閉される。
朝は6時?に(起きていないから目視していないが)開き、夜は20時に、ざざざーと閉まる。
スーパーの閉店時の如く。
中にお客さんがいても閉まる?
あ、もう20時か、と時間の接近に気づく。

前回、皆んなが来た後、予約通りに雨戸が開かないからどうなったかと夫が心配していたら、娘婿が気を効かして鍵をかけてくれたらしい。
鍵がかかると、開かないシステムになっている。
無事、鍵を開けていつも通りに、人が居ようが居なかろうが雨戸は開閉される。
高倉健主演の映画「幸福の黄色いハンカチ」のように、安否確認の役目はないが、まあ効率的ではある。
居ても居なくても、生きていても生きていなくても、故障しない限り雨戸は永遠に開け閉めされるって、、、雨戸の開閉が仕事のスタートと終わりだった昔のおばあさんたち、生活の始まりと終わりだった皆さんは、どう感じているだろう。

しかし、リフォーム後はいたって快適ではあるが、新品ピカピカの真っ白いキッチンは緊張すること、この上ない。
新品の傘を雨が降っても使いたくないかの如く。
使い易くなったころは、汚れ放題なんだろうなあ、、、。
この記事を読んで、あんなに新キッチンに気遣いしていた頃もあったのか、と、また近未来のわたしが笑うことだろう。


贅沢

2021-12-21 | 暮らし
蝶ブログ。自分の何年も前の過去記事を引っ張り出してどなたかが読んでくださる。
その経緯から過去タイトルを見つけて、自分の記事を読む。
かつては、ドキドキしていた。
どんな変なことを書いているのだろうと、自分のヘマに気づかずアップしているのではないかと。
今は違う。 
安心して読める。
自分の過去記事に自分が励まされる。
過去のしっかりした内容(自分比)に触れ、今の安らかな衰えを感じる。
一時、流行った鈍感力というものだろうか。

それと、、、
お読みになる方がわたしの年齢が上がるのと同時に、歳を重ねる。
わたし同様、若くないと思われる。
なので、ピックアップ記事が上がった年齢に相応しい内容のものになる。
その年齢でこそ感じること。
その2つの側面から、安心して過去記事が読めるのだと思う。

かつての、今より若い年齢の時は、お読みになる方もわたし同様に若く、記事内容もそれなりに若い。
老境が理解出来ない年齢のもの。
痛々しかったり、けしからん内容だったり、今に比べると、若気の至り。
世の中の若者を嗜めるより、自分の若い時は最もわかりやすい「来た道」の実況見本だ。

しかし、過去の自分に、現在の自分が励まされたり、諭されたりするなんて、思いもしなかった。
ブログの想定外の副作用だ。
将来の自分もまた過去の自分から見て拍手されたり、労われたりするのかも知れない。
過去の自分を見ては、こんな元気な時もあったなあ、、、と懐かしむのだろう。

過去のわたしから今のわたしに「頑張ったね!」と。
今のわたしから過去のわたしに「頑張ったでしょ!」と。
将来のわたしから今のわたしに「若いね」と。
今のわたしから将来のわたしに「年とったね」と。


わたしは、人生100年時代だというのに、まだ3分の1も残っているというのに、、、
朝、好きな時間に起きることの贅沢に酔いしれている。
夜、好きな時間に寝ることもまあ、悪くない。
最近は寒くなってきたので、あまり夜更かししない。
ゆっくりお風呂に入って体を温めて寝ると更に幸福感は増すのだが、一人だけお風呂の湯を張るのになぜか抵抗がある。
たんなる気分屋なのだが。
もっともっと寒くなると、自分だけのためであってもお風呂を沸かすだろう。

一日中自由な時間をまったり満喫している。
これは最高に満ち足りた気持ち。
好きな時に好きなものを飲み、食べる。自分だけのために。
自分の好きなTV番組を自由にのびのび、熱心に見る。
しかし365日これだと、絶対に退屈するだろう。
目前に控える年末年始、家族大移動がアタマをよぎる。
タオルはどうしよう?こちらからある程度、持って行こうか?
シーツ、布団はだいたいはあるものの、大丈夫か?
食品はオーダー品の他に、うちから持ち運ぶものや、むこうで買うもの、あれこれ。
調味料も一つ一つ、ケータリングのように持っていかなければ。
正月のお飾り、設は??
・・・・・
アタマの隅っこでチラチラし始めている。
が、テコでも動かず、自由時間を無理矢理満喫しようとしている自分がいる。
追い詰め、切羽詰まらないと動かない。
前倒しで毎日少しずつ準備したら、楽だし、忘れたり失敗もないのに。
でも動かないわたし。
さすがに、じわじわお尻が熱くなりそうな気配。
だが、無理矢理、今日もまったりするぞー!!と、へんに自分にハッパをかけている。
全く優雅でもなんでもない。
宿題をしないで無理無理、苦しそうに遊んでいる小学生孫のようだ。

罪の意識からか、罪滅ぼし、免罪符効果を無意識に求めてか、今朝は夫のシーツや枕カバーを洗濯した。
こんなことで、サボりが紛れるならあまりにも自分の存在意義を軽視しすぎか。
わたしは軽いからそれでいいのだ。
今日はシーツ洗濯したから、100点!
(洗濯機がやってくれる。水だってはるばる運ばなくても、蛇口を捻ると出る)

とは言いつつ、贅沢な自由時間というものは、制約があってこその贅沢だということ、、、小学生孫だってわかる。

幸せになりたい人が読む本

2021-12-20 | 暮らし
子供たちは皆、自立、独立してくれてわたしは、こころから安堵している。
わたしだけが、取り残された、昭和の蜘蛛の巣が張った古城に籠城している。(はい、老嬢ですから)

時代は変わり、令和になっている。
もしわたしが令和生まれなら、生きて行けない。
かつての亡霊たちと共に過去の価値観を引きずっているからこそ、令和になってもどうにか生きている。

どこがどう生きて行けないか。
自立力の無さだろう。
今はまだどうにかやっていけるが。
それまでの蓄積を切り崩して。

自分なりに頑張ればよいが、頑張らない、頑張れない。
それを時代のせいにしようとする姑息で卑怯なわたしがいる。
昔昔大昔でも自立心旺盛な頑張り屋さんは存在する。

女性は女性らしく。 
自立していなくても家庭に入っていれば生きていけた。
今なら「おかあさん、何をしているの?」と厳しい娘たちの声が聞こえてくるようだ。
夫に従っていれば、夫は喜ぶし、何の問題もなく平和で安泰の毎日、、、

なのにもかかわらず、、、夫には従わない、協力もしない、むしろ反逆。
で、その分、自分は何かをしているのか?
(ここで、娘たちの厳しく怖い効果音が響く)
・・・何もしていない。
実践を伴わない理想なんて、持たないほうがスマートである。
自分の身を削らないで差し出す要望なんて、、、わたしには権利はあるのか?

自分の身の丈の分だけ、享受すべき。
だが、身の丈以上に、享受しているし、更にもっともっとと欲張る。
全てを手放して、凍てつく寒空に自身の身を投げ出す気もないくせに、やたら反省したりする風を装い気分だけを味わって、何かしたような気になっている。
実際は何もしていない。

花嫁修行中、家事(家業ではない)手伝いという、今はなきカテゴリー。ポジション。
自分でしたことで現在も活きていることと言えば、、、DNAを継承しただけだ。
(それでも一応、若き当時、道選び、岐路で究極の選択をした結果)
それはこの世でたった一人、わたしだけのDNAを活用している。
(長女も仕事上の選択岐路に立った時に似たようなことを言っていた)
だが、世の中の皆さんのように同時進行して色々仕事を成した、だとかならまだしも、、、、、、

人生100年時代に突入し、まだ実親も存在する中、わたしはお役目終わりでリタイア。
生き甲斐を失う人もいるようだが、それはバリバリなんでも活動する、やる気満々の人の場合だと思う。
わたしは、リタイアをこころの底から喜んでいる。
ただし、今は。
これが、誰にもあてにされず、役割も与えられず、一人ぽつんとしていたら、生きる屍となるかも知れない。

面白いことに、わたしの子供たちの日常シーンには、まだまだ若い彼らであるが、家族メンバーにお互い役割を創設している。
姉妹の夫たちにも、気まずくならないように、シーンシーン毎に役割をプラン、用意されている。
若くても、義理の間柄でも、ポジションや役割は、人間関係や日常生活をスムーズに運ぶには欠かせないもののようだ。
リタイアした人間だけのものではないと感じて、なんだか変に納得している。

さて。
先日、大手書店で立ち読みした著書。
「幸せになりたい人にオススメの、自分を生きる方法」みたいな内容だったが、パラパラ読んでびっくり。
すべて自分が思っていること、していること。
何ひとつ目新しいことは発見できなかった。
わたしは、ある意味、自分では無意識で幸せを手に入れているのかも知れない。




失望させるのがわかっている

2021-11-16 | 暮らし
長女のお婿さんは、完璧なイクメン。
わたしがウチでの合同夕食の準備に間に合わない時間に外出先から帰ってきたら、もう作りかけてくれている。
わたしはお皿やらなんやらを用意するのみ。
助かること、この上ない。
しかも、好き嫌いなく、食品ロスも生じさせず無駄なく食材を使い、気持ちよく食べてくれる。
満点!

次女のお婿さんは、超グルメ。
探究心も半端ない。
で、気を使うこと、この上ない。
ウチで集まって食卓を囲むにしても、わたしの、下手で手抜き料理はとてもオススメできない。
困り果てた挙句には、、、てんやものに逃げる可能性がある。
あるいは、お酒の会にして、あまり食べないとか。
いや、美味しいものを肴にしてお酒は飲むものだろう。
掃除もしなければならないし、アタマが痛い。
むしろ、即、帰っていただきたいぐらい、、、
それ、コミュニケーションを取るにあたって本末転倒だし、、、
別に彼が嫌いなわけではなく、、、敷居が高いというか、やりにくいというか、めんどくさいというか、、、
彼がわたしに慣れるか、わたしが彼に合わせて頑張るか、、、
後者(がんばるわたし)はあり得ないので、たぶんおそらく距離感が生じることだろう。
まあお互い、ライフスタイルが確立しているので水と油は致し方ない。
できるだけそっと摩擦を生じないよう、接しないように接する。
次女は大変だろうけれど、彼女はわたしほど手抜きではないし、まだ若いし、わたしとは世代も違うから、大丈夫だと思う。
(とりあえず)夫婦だから。

わたしたち夫婦は、仕事オフ、プライベート時の暮らしぶりにおいては、リラックスモード全開。
お互いのリラックス基準が違うため、お互いが快適に暮らせるよう調整している。
調整は長い時間をかけて行われているが、娘たちのダンナさんたちとの調整は苦行になる。
お互いに。
慣れるしかない。
いっしょに暮らすわけではないから、まあよいか。

特に、我々夫婦の場合、外から受けるイメージより、内情がかなりユルい。点数が低い。
それは、期待や想像を失望、落胆に変えることがよくわかっている。
なので、気が重い。
徐々に失望していってもらおう。
だって、わたしたち、もう歳も歳だからぁ〜。
と、歳に逃げる、最悪のパターン。
ストレスを抱えるよりは、年齢のせいにする最悪のパターンのほうがマシ。
人からの評価より、自分軸。
だが、ある程度、いいカッコもしたいところに墓穴を掘る原因が潜んでいる。
自分軸の中には、人からある程度良く思われたいと思う承認欲求が含まれている。
そのバランスをどう取るか、どう闘うかである。

とかなんとか、自分の力で補えないものは、ちゃっかりアウトソーシング、外注して穴埋めして全体の粗を整える。
全て自分でしようと思うから無理が出るのだ。
任せられるところは任せて、自分しか出来ないところだけの要を自分でする。
結局、何にもなかったりして、、、点だけだったりして、、、
点だけでも良いと思っている。
それは芯だから。

そう言いながら、いかに手抜きして体裁を整えようかと策略を練っている。


蜘蛛の巣

2021-10-15 | 暮らし
庭に大きな蜘蛛の巣。
2階のベランダからも蜘蛛の糸が長く高く繋がっていた。
空に舞い上がる凧のよう。

蜘蛛が「自宅、兼、仕事場」を作っていた。
しかし、不法侵入。
我が家の敷地内に借地権もない蜘蛛に、賃貸を頼まれたわけでもないし、許可したわけではないのに、蜘蛛が無断で入ってくる。
しかも、勝手に巨大な蜘蛛の巣を作る。
で、蜘蛛の巣と格闘した。
広々とした空間にのびやかに作られた、なかなか大きな蜘蛛の巣。
獲物もゲットされていた。

住む人がマメにチェックしないと、庭など、すぐに蜘蛛の巣が張る。
家の中も、掃除してもしても、また蜘蛛の巣。
蜘蛛との闘い。
なんと、よく働くこと。
わたしより頑張られると、わたしが蜘蛛の仕事の後から蜘蛛の巣を次から次へと潰すハメに陥り、まるで誰も住んでいない家のような気になって、気分が良くない。
蜘蛛の巣が張る家は、無人の荒廃した廃墟イメージだ。
お化け屋敷。
無人だと映れば、近所の悪ガキなどには遊び場として目をつけられそうだ。(が、最近の子はそういう遊びはしないかも)

ちなみに、蜘蛛は害虫を食べてくれるから、悪くはないと言われる。
そんなに直接、害もないのだが、蜘蛛そのものが気持ち悪いし、第一、イメージが悪すぎる。
庭の木にはもうひとつ隣の木に大きな蜘蛛の巣が張っている。
蜘蛛の巣屋敷か?

それはそうと、
ご近所に、ゴミ屋敷になりそうなちょっと要注意の家がある。
草木は生え放題、草ぼうぼう、敷地内も手入れは全くされず、インターホンは切られている。
ついには玄関前にまで、段ボール箱が家の中からはみ出し置かれるようになった。
60代〜70代のご兄妹が住まわれているはずなのだが。

ご近所の荒れた家や草だらけの土地が、最近売られて二コイチ(2分割)で家が建つようになった。
新しい若い世代の家はエネルギーを感じる。
若い世代でなくても、新たに土地を購入して自分の家を建てようという人は、こだわりや、今までの軌跡を感じる。
荒れた家や土地より、新しい動きがあるほうが活力がある。
お馴染みさんであろうが、長い付き合いであろうが、皆さんの事情で、住民の出入りがある。
高齢と若い世代の入れ替わりが目の前で次々と行われている。
そして、家(一戸建て)を見ると外からでも経済状態や健康状態がまるわかりだ。
維持の仕方に、住む人の内情や近況が現れる。

時の移り変わりを感じずにはいられない。

いい加減な家庭教師

2021-10-05 | 暮らし
孫、小学生男子チーム、面白い。
小1孫。
宿題のプリントに取り掛かる。
まず1枚目は、ひらがなをカタカナにする。
一つ一つの言葉の上に、人気アニメキャラクターが印刷されていて、子供の気を惹こうと苦心が見える。

「ソ」と「ン」。
何度書いても「ン」が「ソ」になる。
そうじゃない、って。
ばあちゃんは(わたし)「ン」と「ソ」の違いを説明する。
正方形を上下左右4つ並べて四マスを作り、その中にどう収まるか書いてみる。
「ソ」は、細長い。
「ン」は、横幅が広い。
2画目は、上から下に向かって下すか、下から上に向かって跳ね上げるか。
一生懸命、真面目に丁寧に説明した。

小1孫、全然聞いてない。
あいかわらず同じ字を書いては消し書いては消しして、プリントは、しわくちゃ。
ゴシゴシ消しゴムで力任せに消す。
そんなに何度も同じところを消すと破れるよ、と、わたし。

「ん、わかった」
と言うものの、やっぱり同じ間違いを繰り返す。
「ソとンは、似てるから難しいね」と、わたしがサジを投げる。
いい加減な無責任家庭教師だ。

「ム」がわからない、と言う。
ム、、、ム、ねえ、、、
なんか良いヒントはなかろうか。
思いつかない。
教えてしまうのは実に簡単だ。
しかし、答を教えては勉強にならない。
考えさせないと。
何か良い案はないかと、それまで読んでいた情報誌をパラパラめくる。
どうしたものかと適当に考えていると、たまたま「ム」が入ったタイトルを目にした。
「ここ、『ム』って入ってるよ」
と、なんのことはない、ヒントどころか答を示しているのと全く同じ。
頭を使わないばあちゃんである。

2枚目は、算数。
定規が要ると言う。
時計の絵が描いてあって、今何時か、かっこの中に書く問題と、何時何分を時計盤に描く問題。
引き出しから、娘が就学前、幼稚園で貰ったピカピカの(新古品)定規を出してくる。
役に立つ時を迎えるのは、なんと30年以上も後!
ちなみに同じ場所に、わたしの小学生の時の木の定規も入っている。
拙い字で自分の旧姓フルネームを裏に書き込んである。
物持ち、良すぎ。

と、それはよいとして、、、
何時何分と考えてから書くのがいちいちめんどくさいらしく、先に全部のかっこの空欄に、「じ はん」と書き込んでいた。
時計盤を見るとどれも、長い針は6を指してて、半だった。
これは、兄孫も、そう。
先に式の後に=(イコール)だけ書き込んでおく。
ちょっとでも考える際に立ち止まる手間を惜しむにしても、ユニーク。
大人もそんなふうにしているかも?

その日は、彼らの夕食を担当しているが、小3兄ちゃんが、また食べることには貪欲で。
公平に分けていても、少しでも多いほうを取ろうとする。
ピザに乗せたトッピングのパイナップルにすごく執着して大事に大事にする。
なぜか、前々からぜんざいを強くリクエストされ、ご期待に沿うと大喜びされる。
トーストサンドも、弟の分までパクリ。
食い気に走る。
が、よく食べてくれて気持ちいい。
ベビーの頃から食いしん坊で、食器の底が見え始めると泣き、満腹中枢が故障しているのではと心配されたりしていた。
食べないより食べるほうが良いのだが、、、4番目孫もこの傾向がある。
皆、健康でいてくれるのが何よりだ。

5番目孫は、びーびこ、びーびこ、ギャーギャーと1日中、実によく泣き、次女を悩ませ相変わらずだが、まああと1週間で、さようなら。
濃密な赤ちゃん密着暮らしだった。

一人一人、成長してくれ、どんどんわたしの手から離れていくことは、今は嬉しいの一言だが、後に何年も何十年も経って、あれがわたしの1番充実した時期だったなあ、なんて懐古するかも知れない。

秋深し、、、には、まだまだ季節はずれに近いほど暑いが、そのうちにどっぷり秋になり冬になり、、、と季節の変遷を感じることだろう。

どの時期も、その時その時の時期が1番楽しかったと思いたい。