蝶ブログへのアクセス足跡から辿ったブログ。
いつもありがとうございます、の、お得意様であるが、お墓やお葬式のことが綴られていた。
・・・で、急にそういう類のことが書きたくなった。
わたしは、宗教にはあまり興味がなく、嫌々、渋々、家の宗教と、お付き合いしている。
摩擦を少なく生きるためである。
宗教は、そもそも、戦争や、病、貧困などの苦しみから身を救うためにある。
今の平和な日本は、戦争もないし福祉も整っている。
わたしは、苦しみから逃れるために、つまりマイナスを排除して、明るい光や希望を求めて生きるために、宗教とお付き合いしているわけではない。
今までの慣習を破る気力、勇気、英断がないだけである。
強い逆風に刃向かい、打ち勝つ苦行より、従うほうが楽だから、軟弱なほうを選んでいる。
お寺さんなどに、ばんばん多額の寄付する義母たち。
どうぞどうぞ。それであなたの気が済むなら。
至らぬ嫁のアラを探す時間や気力を、宗教に向けてもらったほうがマシ。
じつのところ、わたしは、ミジンも宗教など信じていないのである。
が、みなさんが、それで安心して暮らせるのなら、あえて反対はしない主義。
ただ、強制されると、がらりと顔色が変わる。
お寺さんは、商売であり、信者や檀家からお布施だかなんだか、いろんなお金をもらって生業を行っている。
どこの宗教家が無料で、宗教活動を行う?
寄付があってこそ。
無料のものは、効き目がない。ご利益がない。
おカネを払うと、これで守ってもらえる、と自己満足するのだろう。
こころの安心をおカネで買う人を咎める気持ちはさらさらないし、止める気も非難する気もない。
僧さんと信者、両者、合意の上で、幸せを分かち合うとよい。
さて、こういうマインドのわたしではあるが、わたしの墓は、もう何十年も前から決定されている。
樹木葬とか、できそうもない。
よほどわたしが、声を大にして子ども達に伝えるのなら、望みも叶うだろうが、
わたしも子ども達も、めんどうだろうから、子ども達がやりやすいようにしてくれたら、それでよい。
わたしがあの世に行ったあとも、そのまま吹きっさらしで放置して、カラスや犬の餌にはしないと思う。
たぶん、後のトラブルを考えると、めんどうくさいから、火葬後、今のお墓に納骨、埋葬することだろう。
なんでもいい。
わたしは、その時は、この世にいないんだから。
残った人々に、お任せである。
お参りは、してもしなくてもいい。
お墓や仏壇には、他にたくさん眠っている人々がいるので、手を合わせると、否応なく、ついでにわたしのことも参ってくれることになる。
お経を唱える時に、「仏壇やお墓にいる人の中で、スローさんだけ除外しますね」なんて、わざわざ、いちいち、めんどくさいことは思わないだろう。
何人も何人も、顔も名前も知らない人々を月命日だのなんとか命日だの、ことあるごとに、わたしは延々と拝む気にはなれない。
そもそもわたしは、血がつながっていない。
言うならばアカの他人である。離婚したら、ほんとうにアカの他人である。
生前、ほんの少しでも接触があれば別だが、アカの他人のことをこころを込めて延々と拝む気はまったくしない。
そもそも仏教は先祖崇拝なので、そういう信教なのだろう。
イエを存続させるには、もってこいの宗教である。
かといって、わたしは、ずらずら並ぶ位牌を蹴っ飛ばすかというと、決して蹴っ飛ばさないし、丁寧に扱う。
現実に信じている人がいるのに、人の宗教は否定しない主義である。
わたしのお葬式は、遺された人々がやりたいように執り行うお葬式でよい。
いっそ葬式なし、でもいいのだが、遺された人々の社会的な顔もあるだろうし、おそらく、無難なお葬式になるだろう。
要は、なんでもいい。わたしは、この世にいないのだから。
じつに自己チューの権化であるが、わたしは、もう自分の人生の中での役割を放棄してもいいと考える。
あえて放棄せずに、今まで通りやっている。選択して、放棄しないだけだ。
子供を自立させた後は、もう、完全に余生の人生だと捉えている。
なので、もう、いつ幕が降りたとしても、思い残すことはない(はず)で、それはそれで突然の完結であり、それも人生である。
とかなんとか言って、
仏壇に向かい手を合わせ、「少しでも長生きさせてください」、と拝んだりして。
そういう日がもし来たら、確実にあの世からのお誘いが迫っていることだろう。