敬愛する人が交通事故死した。
姑の亡くなった翌日に。
まだまだ若い、子供さんはまだ2人とも大学生。
誰もが悪い冗談だと思った。
今の今まで元気でいた人が急に居なくなる、、、
こんな残酷なことはない。
本人は即死で苦しんでいないとは思うが、一瞬は恐怖だっただろう。
妻子のことが頭をよぎっただろう。
まだお若いご両親のことまでは、気にかける余裕はなかったと思う。
あっという間に此の世を去る、、、遺された人はどうする?
罪作りだ。
当人は事故被害者であり、本人のせいではないにしても。
話は変わるが、、、
父の臨終の時、残された我々家族が一斉に父の顔を覗き込んだ。
それぞれ各人が、父を呼んだ。
あの時、わたしは父に呼びかけなかった。
気が回らなかったことと、一瞬、自分が横たわる父の体に成り代わって仰向けの状態で自分を覗き込む皆んなの顔を見ているような錯覚に陥った。
2箇所から2つのアングルで同時撮影するようなイメージ。
スマホカメラでは一瞬の作業になる。
カメラの被写体対象が自撮りに逆転して、自分が去っていく人、逝く人になったような気がした。
不思議と呼びかけられる側となってしまったわたしは、そのシーンを俯瞰から見ているような、またまた複雑な、映画監督の立場になっていた。
「はい!
ここで呼びかけて!」
「はい!
ここで瞼を閉じて」
監督の声。
亡くなるってどういうことなんだろう。
父の時は、父の死を受け入れられなかった。
悲しくて、、、ではなく、もう高齢だったし(今、思えば少しだけ平均寿命より若かったが)、遠くに離れて住んでいたので、ただたんにピンと来なかった。
ではあるが、今回の事故死の人に対しては、死が現実離れして全く信じられない悲しさを通り越した思い。
その人を想うと涙が溢れ出る。
肉親には流さない涙を、血が繋がっていない人には、泣ける、、、どういうことだ?
わたしは父が嫌いではなかったし、尊敬していた。
父が健在で健康な時、父をふと思い出したりして元気をもらっていた。
やはり死を迎える旬というものがある。
旬ではない人に対しては、生木を裂かれるような(この表現が正しいのかどうかは別として)、別離の苦しみがある。
早すぎる別れには、心残りや無念さがある。
死と向かい合ったのが、血が繋がらない人が最初だったというのは、今まで不幸に見舞われなかったということだ。
というか、命の大切さをよく知らないで今日まで来たのだろう。
というより、祖父母や父、義祖母、舅、姑の死に面したが、涙が出たのはほんの一瞬だけ。
祖母や舅には涙すら流さなかった。
高齢という年齢と家族による看護や介護に長い時間を割いていたからだろう。
しかしながら、若い人が、ある日突然は、あまりにも衝撃的で周りを悲しみのどん底につき落とす。
災害などで親愛なる人を突然、失う人の気持ちはこういうものなのだろう。
身に迫る悲劇が、いまだに想像の世界であるわたしは、人の痛みを理解できなかった痛い人である。