雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

深山がくれの

2024-11-12 08:15:06 | 古今和歌集の歌人たち

     『 深山がくれの 』


 かたちこそ 深山がくれの 朽木なれ
         心は花に なさばなりなむ

          作者  兼芸法師

( 巻第十七 雑歌上  NO.875 )
        かたちこそ みやまがくれの くちきなれ
                こころははなに なさばなりなむ


* 歌意は、「 私の姿は 奥山に隠れている 枯れ木のようなものですが 心の中には恋の花を 咲かそうと思えば咲かせますよ 」といった、法師とは思えないものです。この歌の題に「 女どもの見て笑ひければよめる 」とありますから、おそらく宮中あるいは上流家庭の女房を相手に詠んだ戯れ歌でしょう。


* 作者の兼芸法師(ケンゲイホウシ)については、詳しい情報は伝えられていません。生没年も未詳です。
父は、伊勢少掾古之の次男としている参考書が多いのですが、この古之という人物についての情報が伝えられていません。また、少掾(ショウジョウ)というのは、「守・介・掾・目(カミ・スケ・ジョウ・サカン
)」と置かれた国司のうちの三等官で、大国などには「大掾、少掾」が置かれたようです。中央官と地方官を単純に比べるのは正しくないかも知れませんが、官位にすれば七位程度の官職にあたります。下級官吏と言えますが、一般庶民とは格段に上位にあったのでしょう。

* しかし、古今和歌集に乗せられている兼芸法師の歌の前書き(詞書)には、「仁和の帝(光孝天皇)、親王におはしましける時に・・・(巻第八 NO.396)」とありますので、少なくとも親王時代の光孝天皇と親しく接していたらしいことが分ります。
光孝天皇( 843 - 887 )は、仁明天皇の第三皇子ですが、早くから皇位継承候補から外れ、親王が就任するのが慣例とされている官職のほとんどを歴任した人物です。ところが、皇位争いの落とし所として、長老格とも言える親王が五十三歳にして即位したという天皇です。
このように、名誉職のような立場が多かったとしても、兼芸法師と出会う機会があったのかもしれません。その可能性は否定できませんが、官職の上位を歴任している親王と、伊勢国の下級官吏を父とする法師とが親しく接するというのには無理を感じます。
兼芸法師には、左大臣源融(嵯峨天皇の第十二皇子)の子孫だとする説もあるようです。源融は仁明天皇の異母弟ですから、むしろ、この説の方が正しいような気がします。あるいは、源融の子孫でありながら、何らかの不運により地方の下級官吏になっていたのかもしれません。

* 兼芸法師には、目立った官職は伝えられていません。僧侶としてもそれなりの僧職であったとか名僧であったという話も伝わっていません。歌人としては、古今和歌集には四首採録されていますのでそこそこの評価されてのものと考えられますが、この後の勅撰和歌集には一首も採録されておらず、歌人としての後世の評価は高くありません。
しかし、掲題歌は、実にユーモアに富んだすばらしいものだと思うのです。和歌としての評価はともかく、飄々として浮き世の諸々を超越しているかのようにも見えます。
ただ、それが、彼が行き着いた人生観からくるものなのか、高貴な血脈を背負いながら思いにまかせぬ身の上を耐え忍ぶよすがであったのか、少々気になるのです。

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君が往き来を

2024-10-31 08:07:40 | 古今和歌集の歌人たち

     『 君が往き来を 』


 逢坂の 木綿つけ鳥に あらばこそ
        君が往き来を なくなくも見め

          作者  閑院

( 巻第十四 恋歌四  NO.740 )
        あふさかの ゆふつけどりに あらばこそ
                きみがゆききを なくなくもみめ


* 歌意は、「 わたしが逢坂の関にいる 木綿つけ鳥(鶏の異名)で あったならば あなたが行き来するのを 涙ながらに見ることが出来るのでしょうに 」といった切ない恋歌でしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「中納言源昇朝臣の近江介に侍りける時、よみてやれりける 」とあります。作者の恋人であった源昇が近江介に任じられて赴任していたのでしょうが、しょっちゅう行き来していたようで、それなのに逢えないことを恨んだ歌なのでしょう。

* 作者の閑院(カンイン)については、正確な情報が残されていないようです。
命婦だったという情報があるようですが、はっきりしません。生没年も未詳です。
推定できますことは、源昇が近江介であったのは 888 - 891 の期間であったこと、古今和歌集の NO.837 の歌では、藤原忠房(従四位上。? - 929 )に歌を送っていますので、これだけを参考にすれば、900 年の前後 30 ~ 40 年の頃を生きた女性ではないでしょうか。

* また、名前の由来ですが、もし、誰かに仕えている女房だと推定すると、「閑院」という名前を勝手に付けたとは考えられず、閑院と何らかの関係のあったと考えるべきだと思われます。
その場合、おそらく当時、「閑院」として最も著名なのは、平安時代初期に藤原冬嗣によって建てられた左京にあった邸宅だと考えられ、900 年前後には清和天皇の皇子貞元親王(869 - 910 )が住んでいたようなので、貞元親王または近臣の高官に仕える女房であったような気もします。
交際相手からしても、歴とした身分の人に仕えていた女房ではないでしょうか。

* 残念ながら、作者について、単なる推定しか出来ませんでしたが、他の文献にも「閑院の御」という歌人も伝えられていますので、もし同一人物だとすれば、かなり高位の女性であった可能性も考えられます。ただ、それも確認することが出来ませんが、おそらく、平安時代前期に、上流社会において悲喜こもごもあるとしても、優雅な生活を送った女性だったのではないでしょうか。

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越の白山

2024-10-19 07:59:53 | 古今和歌集の歌人たち

    『 越の白山 』


 君がゆく 越の白山 知らねども
        雪のまにまに あとは尋ねむ

         作者  藤原兼輔朝臣

( 巻第八 離別歌  NO.391 )
       きみがゆく こしのしらやま しらねども
                ゆきのまにまに あとはたづねむ


* 歌意は、「 君がこれから行く 越の国の白山は 知らないけれど 雪が止んでいる時を見計らって 君の跡を追いながら 尋ねて行きますよ 」といった、とても美しい歌だと思います。
この歌の前書きには、「 大江千古が越へまかりける  
うまのはなむけによめる 」とありますので、実際に送別の場で詠んだ歌のようです。
なお、「大江千古」は、従四位下まで上った貴族で、醍醐天皇の侍読(学問の教授役)を勤めているので親交が深かったようです。
また、「越(コシ)」の国とは、当時は北陸地方一帯を指していました。「うま」とあるのは、送別の宴を指しますが、「乗馬の鼻を旅立つ方向に向けてやる」という意味です。

* 作者の藤原兼輔朝臣(フジワラノカネスケノアソン・ 877 - 933 )は、平安時代前期の貴族・歌人です。
祖父の藤原良門は、藤原北家の中心人物の一人とも言える藤原冬嗣の六男です。まさに隆盛への門口と言える時代に誕生した良門ですが、兼輔の父である利基と高藤を儲けたあと間もなくに死去しました。その為、良門の官位は正六位に止まり、兄弟のうちでただ一人貴族の地位(従五位下以上)に上ることが出来ませんでした。
このため、兼輔の父の利基も弟の高藤も冬嗣の子孫の中で恵まれない環境におかれました。

* ところが、兼輔の叔父にあたる高藤とその娘の胤子(インシ/タネコ)の劇的な運命により、兼輔にも幸運をもたらしたのです。
高藤とその妻となる宮道列子との出会いについて、今昔物語では、『 高藤が山科に鷹狩りに出掛けたとき、雨に降られて立ち寄った、宇治の郡司宮道弥益の家で、娘の列子を見初めて、一夜の契りで儲けたのが胤子である・・・ 』と伝えています。
一族の中で劣勢であるとはいえ、藤原北家の中枢に近い高藤と、郡司の娘との出会いは、なかなか劇的なものと言えます。
さらに、こうして誕生した胤子は、成長してのち、光孝天皇の第七皇子で臣籍降下していた源定省に嫁ぎます。884 年の頃の事です。おそらく、すでに何人もの妻がいたことでしょうが、885 年に定省の長男となる維城(コレザネ・)が誕生します。
887 年、光孝天皇の後継を廻って紛糾があり、その結果、定省が皇族復帰して宇多天皇として即位しました。そして、維城も皇族となり改名して敦仁親王となります。
胤子も、更衣を経て 892 年に女御となり、敦仁親王も立太子しました。しかし、896 年にわが子の即位を見ることなく逝去しました。敦仁親王はまだ十二歳でしたが、宇多天皇の正妻といえる女御で、関白太政大臣藤原基経の娘である温子が養母となり、敦仁親王の地位は揺るぐことなく、897 年に醍醐天皇として即位したのです。
胤子の父の高藤は正三位内大臣、利基も従四位上右近江中将にまで昇進したのには、その恩恵は小さくなかったはずです。

* さて、利基の子である兼輔も、その恩恵を強く受けていたようです。
醍醐天皇がまだ春宮であったころから、そば近くに仕えました。醍醐天皇が春宮に立った時は、まだ八歳(数え年)くらいで、兼輔は八歳くらい上ですから、養育、遊び相手といった立場だったかもしれません。高藤の子の定方は、兼輔よりさらに四歳上ですが、やはり同じように仕えていたようです。
この定方は、後に従二位右大臣にまで上り、また、兼輔はその娘を妻としていますので義父となり、手厚い後ろ盾となった人物です。
いずれも、醍醐天皇の外戚に当たるゆえに選任されたのでしょう。

* 897
年に醍醐天皇が即位したあとも、蔵人としてではなく側近くに仕え、同時に右衛門少将を兼ね、902 年に従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たします。兼輔は二十六歳の頃のことです。
903 年、内蔵助(内蔵寮の次官)に就きます。その後、武官や五位蔵人など天皇の近くに仕えながらも、内蔵寮の官吏としては、権頭、頭と地位を上げながら二十年近くその職務に当たりました。内蔵寮は、中務省に属していて皇族の財宝を管理する職務ですから、後醍醐天皇の信頼がいかに厚かったかが分ります。

* 916 年に従四位下に上り、917 年に蔵人頭となり、名実ともに天皇の最側近となります。921 年に参議となり、遂に公卿の地位に達しました。藤原北家の台頭が目立ち始めた頃ですが、嫡流でない立場としては望外の出世といえるでしょう。
927 年、さらに、従三位権中納言に上りました。
933 年、行年五十七歳で逝去しました。

* 兼輔の官吏としての生涯は、武官と内蔵寮官吏としての実績が目立ちますが、930 年に醍醐天皇が崩御するまで、天皇が最も信頼する側近の一人として仕え続けたことに尽きるような気がします。
また、歌人としては、義父となった定方と共に、当時の歌壇の中心にあったと考えられます。
醍醐天皇は、『古今和歌集』の編纂を命じた人物であり、歌人としても多くの和歌を残しています。当時の歌人としては、古今和歌集の編纂を担った紀貫之らが著名ですが、身分的には定方や兼輔が遙かに上位であり、むしろ歌壇をリードする立場にあったと考えられます。
兼輔自身も、古今集に採録されているのは四首に過ぎませんが、勅撰集全体では五十六首あり、三十六歌仙の一人に選ばれています。
おそらく、兼輔本人としては存分の生涯を送ったと満足しているだろうと推定するのですが、公卿への昇進は望外であったとしても、歌人としての現代人の評価はかなり不足していると考えているのではないでしょうか。

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門出なりけり

2024-10-07 08:01:19 | 古今和歌集の歌人たち

    『 門出なりけり 』


 かりそめの ゆきかひぢとぞ 思ひ来し
           今は限りの 門出なりけり 

            作者  在原滋春

( 巻第十六 哀傷歌  NO.862 )
        かりそめの ゆきかひぢとぞ おもひこし
                いまはかぎりの かどでなりけり


* 歌意は、「 この旅は ほんのひととき 甲斐国まで往復するだけだと 思っていたが 今となっては これが最後の 旅立ちだったのだ 」と、死を覚悟したかの歌です。
この歌の前書き(詞書)には、「 甲斐国にあひ知りて侍りける人  とぶらはむとてまかりけるを、道中(ミチナカ・途中)にて  にわかに病をして、いまいまとなりにければ、よみて『京にもてまかりて母に見せよ』と言ひて、人につけて侍りける歌 」とあります。
両方を合わせて見ますと、辞世の句と思えてしまいます。
また、この歌は、『大和物語』にも採録されています。『大和物語』は、在原業平が作者とされる『伊勢物語』の影響を強く受けている作品で、貴族社会を和歌で描いているのを中心に、伝承や説話も加えられています。
そして、この作品の作者は、多くの人物が候補に挙がっていますが、未だ確定していません。本歌の作者・在原滋春もその一人ですが、大和物語の成立は 950 年頃とされているようですから、滋春が完成させた可能性は低いと考えられます。ただ、伊勢物語の影響が強いことなどを考えますと、一部分、あるいは下書き的な物に関与している可能性は考えられそうです。

* 作者の在原滋春(アリハラノシゲハル)は、在原業平の次男です。
業平は、父が平成天皇の第一皇子である阿保親王、母は桓武天皇の皇女である伊都内親王という出自です。本来なら、皇位はともかく、皇族あるいは官職において、重きをなして良いはずでしたでしょう。しかし、平成天皇・阿保親王が政争に巻き込まれて失脚したことにより、その目をなくしたようです。業平は誕生後間もなくに臣籍降下しています。歌人・文化人としては当代屈指の人物と言えるのでしょうが、官職には恵まれない生涯だったはずです。

* 滋春とて、在原姓とはいえ皇族とはまだ近しい関係ですが、伝えられている情報は多くありません。
生没年も未詳ですが、没年を 905 年とする説もあるようです。生年は 850 年前後ではないかと推定しますが、根拠はありません。官職についても伝えられている情報は少なく、「少将」であったとされますので、おそらく「近衛府の少将」のことで、官位は四位相当ぐらいと推定されますので、貴族の地位にはあったようです。
また、掲題の歌を送った母の名前なども伝えられていません。しかし、この歌のおかげで、母とは良い関係が保たれていたのだと推定することが出来ます。

* 滋春の歌人あるいは文化人としての逸話も少ないのですが、もし、「大和物語」の一部分にでも関与しているとすれば、案外、父の業平の背を追うような生涯を送ったのかもしれない、と思うのです。

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涙川

2024-09-25 08:15:13 | 古今和歌集の歌人たち

    『 涙 川 』


 流れいづる 方だに見えぬ 涙川
         沖ひむときや 底は知られむ

          作者  都 良香

( 巻第十 物名  NO.466 )
     ながれいづる かただにみえぬ なみだがわ
             おきひむときや そこはしられむ


* 歌意は、「 流れ出ている 源さえ分らないほどの 涙川だが 川の奥底まで干上がったときには その深さが分るだろうか 」といったもので、恋歌なのでしょう。
この歌の題名には、「おき火」とあり、『物名』に編集されています。『巻第十 物名』に入っている歌全部に言えることですが、「おき火」を詠み込む為に作られ
たものなのか、偶然その文字が詠み込まれていたかによって歌の持つ意味は大きく変ってきます。本歌の場合も、同様です。

* 作者の都良香(ミヤコノヨシカ・834 - 879 )は、平安時代前期の文人・貴族です。
都という姓は、伝来されたものではなく、良香の父である桑原貞継が、822 年に、兄など共に改姓したものです。
桑原一族は、地方官と中央官を務めるような豪族だったようですが、貞継の父桑原秋成は貴族とされる従五位下まで上りましたが、外位(外従五位下)としてで、内位である中央貴族と明確に区別されたようです。
改姓を願い出たのには、このあたりの事情もあったと推定されますが、それにしても、「都」というのは思い切った姓を選んだものです。
その貞継も、やはり従五位下に上ったときは「外位」としてで、後ろ指を指されない貴族である「内位」の従五位下に叙されるまでに四年の年月を要しているのです。
もちろん、その格差を克服するのには、四年の年月だけではなく、その能力が認められたということであり、旧儀に大変通じていたと伝えられています。

* 良香が誕生した時は、すでに都姓になっていましたが、改姓したからと言って、そうそう条件が良くなるわけではなかったでしょう。ただ、父もそうだったようですが、良香はたいそう学才に優れていたようです。
860 年、文章生に補され、文章得業生(成績優秀な者二名が選ばれ、官吏登用のための試験の受験候補とした。)となり、869 年に対策(官吏登用試験)に及第、870 年に少内記(中務省の官吏。正
七位上相当か?)に任官しています。
そして、注目すべきは、一年遅れて 870 年に対策を受験した菅原道真の問答博士を良香が勤めているのです。後に学問の神様と尊敬されることになる道真は、良香より十一歳ほど下ですから、さすがにその俊才ぶりが窺えますが、道真も少内記を経験し、従五位下に上ったのが、良香が 872 年で道真が 874 年で、従五位上に上ったのが道真が 879 年 1 月ですが、この年の 2 月に良香は亡くなりました。
年齢に大きな差はあるとはいえ、二人が官吏となってから十年ほどの間は、官吏としての実務能力は互角に近かったのではないでしょうか。家柄が重視されるこの時代、比較するさえ無意味なほどのハンディを背負いながら、あの道真と互角に近い能力を示した良香は、もっと評価されるべきのように思うのです。
ただ、政治力ということでは雲泥の差があったのでしょうか、この後、道真は目覚ましい昇進を遂げ右大臣にまで上り、やがて政争に巻き込まれ、数奇な生涯をたどることになります。

* さて、良香は、872 年に従五位下大内記に叙任され、貴族の仲間入りを果たします。父たちの願いが叶い、「外位」を付けられることはありませんでした。そして、875 年からは文書博士(大学寮の教官)を兼ねました。
漢詩漢文に優れ、詔勅・官符(カンプ・公文書)や対策の設問などを起草しました。漢詩は「和漢朗詠集」や「新撰朗詠集」に採録されており、各種の伝承も記録しており、富士登山の記録も残されているそうです。

* 871 年より編纂の始まった「日本文徳天皇実録」(六国史の第五にあたる歴史書)にも関与しましたが、完成直前の 879 年 2 月に死去しました。「日本文徳天皇実録」が完成したのは、その年の 11 月のことでした。
良香の四十五年の生涯(行年は四十六歳)は、当時の平均的な寿命から見れば、極めて短命ということではないのでしょうが、豊かな才能を開ききるには、短すぎたような気がしてなりません。
特に、政治家として昇進を重ねる菅原道真に対して、学問の道を歩き続けたであろう都良香の姿をせめてあと十年でも見せて欲しかったと思うのです。

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我ならなくに

2024-09-13 08:00:23 | 古今和歌集の歌人たち

    『 我ならなくに 』


 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
         乱れむと思ふ 我ならなくに

        作者  河原左大臣

( 巻第十四 恋歌四  NO.724 )
     みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに
             みだれむとおもふ われならなくに


* 歌意は、「 陸奥の しのぶもじずりの模様のように心が乱れるのは 誰のためでもありません あなた以外に心を乱すことがある 私ではありませんよ 」といった恋歌で、小倉百人一首に入っていますので、よく知られている和歌です。
なお、「しのぶもじずり」には、様々な解釈がされています。「しのぶ」は、地名とも染料として植物の名ともいわれていますが、ここでは、「忍ぶ恋」を連想させるのが狙いでしょう。「もじすり」は、「乱れたように摺った模様」らしいのですが、具体的にはよく分りません。

* 作者の河原左大臣というのは、この時代の有力政治家の一人である源融(ミナモトノトオル・822 - 895 )のことです。
融は、嵯峨天皇の第十二皇子として誕生しました。母は、大原全子です。後宮での地位は「宮人」で、父は従五位上に上っていますが、もともとは貴族に至らない家系だったようです。
814 年、嵯峨天皇は、4人の皇子と4人の皇女に源朝臣の姓を与えて臣籍降下させました。源氏は、多くの天皇が臣籍降下に当たって用いられ、源氏二十一流と呼ばれるように武家や公家華族として繁栄しましたが、これが源氏誕生の最初に当たります。
嵯峨天皇には、23人の皇子がいたとされ、皇女も同じくらいはいたと思われますが、このうちの皇子17人・皇女15人を源朝臣として臣籍降下させています。

* 融は、この時にはまだ誕生していませんが、まだ幼いうちに源朝臣を賜ったものと思われます。もちろん、親王宣下を受けることはありませんでした。
838 年、十七歳の融は、元服とともに正四位下を直叙されました。皇子である事による厚遇です。 
翌年には、侍従となり、その後、相模
守、近江守、美作守などを歴任していますが、融自身が現地に赴くことはなかったでしょう。

* 850 年、従三位に上り、二十九歳にして公卿に列します。先に臣籍降下した義兄たちも高位に上っており、その流れの恩恵も受けたのでしょうが、行政能力も高かったと推定されます。
872 年、太政大臣であった藤原良房が死去すると、左大臣に上り太政官の首班となります。
しかし、876 年に陽成天皇が即位すると、良房の後継者である藤原基経が、融より格下の右大臣であり、年も15歳ほど若いのにかかわらず、天皇の外戚であることから摂政となり首班の地位が逆転しました。このため、融は自宅に籠もってしまいました。
自らの地位を投げ出してしまったことになりますが、884 年に陽成天皇の譲位に伴う後継争いでは、融が「自分にもその資格がある」と主張したのに対して、「臣籍降下した者が皇位に就いた例はない」と基経に反対された、とも伝えられています。ことの真否は分りませんが、887 年には、光孝天皇の後継者として、臣籍降下していた源定省を皇族に復帰させて宇多天皇として即位させた中心人物が基経ですから、政権の座を争う二人の関係を物語っているような逸話ではあります。

* 891 年、摂政・関白・太政大臣と天下を牛耳っていた藤原基経が死去します。行年五十六歳でした。
これによって、左大臣であった融は再び太政官の頂点に立ちました。そして、895 年に波乱の生涯を閉じました。行年七十四歳でした。

* 河原の左大臣源融が生きた平安時代の前期も、皇位をめぐる争い・政権首班をめぐる争いの激しい時代でした。
その中で、源融は一方の旗頭として藤原氏と互角に対峙しました。その源融の死去により時代は、藤原氏全盛の時代へと動いていきます。
嵯峨天皇の皇子として生れながら親王宣下を受けることもなかった融ですが、太政官として存分の働きをした生涯だったのではないでしょうか。
その一端が、「今昔物語」「伊勢物語」「大鏡」「能の『融』」などで伝えられています。そして、あの「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルの一人とされていることからも、単に波瀾万丈だけの生涯ではなかったと推察されるのです。

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燃えば燃え

2024-09-01 08:00:53 | 古今和歌集の歌人たち

     『 燃えば燃え 』


 富士の嶺の ならぬ思ひに 燃えば燃え
           神だに消たぬ 空し煙を

             作者  紀乳母

( 巻第十九 雑躰歌  NO.1028 )
        ふじのねの ならぬおもひに もえばもえ
                かみだにけたぬ むなしけぶりを


* 歌意は、「 噴煙を上げている富士の嶺よ 空しい思いを激しい火となって 燃えるなら燃えよ わたしの思いは空しい煙だが 神であっても消すことは出来まい 」と、受け取りました。 
この歌は、『雑躰歌』に区分けされていますが、和歌(短歌)として何の不備もないと思うのですが、歌の内容が激しすぎるためにこうなったのでしょうか。
おそらく、「恋歌」の類いだと思うのですが、作者の悲劇を思えば、もっと激しいものかも知れません。但し、事件とこの歌が詠まれた時期は分っていませんが。

* 作者の紀乳母とは、陽成天皇の乳母である紀全子(キノゼンシ・生没年とも未詳。)のことです。
作者は元は山村姓でしたが、紀姓を賜って紀全子となりました。その経緯などは分らないのですが、従五位上を叙位されていますので、それに関係があるかもしれません。
全子は、源蔭と結婚し、益(マサル/ススム)を儲けました。その後、誕生間もない清和天皇の皇子貞明親王(後の陽成天皇)の乳母として出仕しました。869 年のことと思われます。(貞明親王の誕生は、貞観 10 年 12 月 16 日/西暦 869 年 1 月 2 日。)
全子の息子の益も、ほぼ似た頃の誕生と思われます。

* 全子は、天皇の乳母として内裏で恵まれた地位を占めていたでしょうし、息子の益も天皇の乳兄弟として仕えていて、恵まれた環境にあったと思うのですが、突然、大事件が発生しました。益が何者かに殴殺されたのです。
内裏内での殺人事件ですから、おそらく箝口令も出されたでしょうし、外部へは秘匿したことでしょうが、隠しきれるものでもなく、この後一、二ヶ月間の祭祀が中止されることになりました。
事件の真相は明らかにされないまま、陽成天皇の関与や、直接の犯人といった噂さえあったとされます。おそらく、実行者は誰であるとしても、皇位をめぐる政争の激しい時代でから、そうした陰謀も絡んでいた可能性は十分考えられます。
そして、陽成天皇は、事件後三か月を待つことなく退位に追い込まれているのです。

* 事件の後、失意の全子は、どのように過ごしていたのでしょうか。残念ながら、伝えられている情報はほとんどないようです。
陽成天皇には、同母弟や異母弟もいましたが、皇位を継いだのは、仁明天皇の皇子で陽成天皇からみると大叔父にあたる五十五歳の光孝天皇でした。つまり皇位の移動が画策されたのです。陽成天皇は上皇として65年を生きていましたが、皇位が「清和ー陽成」の系統に戻ることはありませんでした。
光孝天皇やその後継の天皇と、それを支える勢力は、陽成天皇並びに周辺勢力の復権を警戒し続け、公的記録に残される機会も激減したことでしょう。
全子の消息の量が激減しているのも、そうした動きに関係しているのかもしれません。

* 掲題の歌が、我が子が殺されるという事件の後か先かで、その意味が大きく違うような気がしてならないのですが、諸般の事情を考えますと、事件の前の可能性の方が高いと思われます。
しかし、個人的には、あえて、事件の後に、堪え難い思いを絶唱したのだと思えてならないのです。

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峰の雲にや

2024-08-20 07:59:27 | 古今和歌集の歌人たち

     『 峰の雲にや 』


 郭公 峰の雲にや まじりにし
      ありとは聞けど 見るよしもなき

          作者  平 篤行

( 巻第十 物名  NO.447 )
       ほととぎす みねのくもにや まじりにし
               ありとはきけど みるよしもなき


* 歌意は、「 ほととぎすが 峰の雲間に 入ってしまったらしい 声だけは聞こえてくるが 姿を見ることができないなぁ 」といったもので、のどかな光景を詠んだものと受け取れます。
ただ、この歌の題として、「やまし」と記されています。「やまし」とは、はなすげ(ゆり科の多年草。「やまじ」とも。)の異名だそうで、この歌が『物名』に加えられていることから、それを詠み込むために作られたのかもしれません。
もし、そうだとすれば、「うまく詠み込んだものだ」という気持ちより、せっかくの作品が味気なく感じられるような気がするのです。
個人的には、出来上がった作品の中に、偶然「やまじ」が入っていたのだと考えたいのですが、本当はどうだったのでしょうか。

* 作者の平篤行(タイラノアツユキ)は、平安時代前期の貴族です。生年は未詳ですが、亡くなったのは 910 年です。
父は、興我王という皇族です。桓武天皇の曾孫に当たるようですが、両親が誰だかよく分りません。
興我王は 860 年に従五位下を直叙されて、869 年に従五位上に上っています。その後、871 年、881 年、884 年には伊勢神宮への奉幣使を務めていますので、皇族の一員として活動していたと考えられます。そして、886 年に、篤行らのわが子5人に平朝臣の姓を賜って臣籍降下させています。興我王自身も臣籍降下したのか皇族のままであったのかは確認できませんが、その前年あたりは、山城守として地方官を勤めていたようです。

* さて、作者の篤行ですが、上記のように、886 年に臣籍降下していますが、後の経歴などから推定すれば、10歳前後だったのではないでしょうか。
893 年に文章生に補され、秀才(文章得業生のことか?)を経て、898 年に対策(官吏登用のための試験)に及第しています。この間にも地方官として勤めているようですが、899 年に式部少丞、902 年に式部大丞(文部官吏で六位程度の官職。)に就いています。
この文章生に選ばれるのは、相当優秀な人材に限られていたようです。あの菅原道真も選ばれていますが、その時の年齢が18歳でした。それから考えますと、篤行の年齢も、それより上と推定されます。

* 903 年に従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たしました。おそらく、二十代後半から三十代前半にかけての頃だったのではないでしょうか。
これと同時に地方官に転じ、三河守、筑前守を勤め、909 年には大宰少弐を兼任しました。
この間に、従五位上に上っていますが、910 年 1 月に亡くなりました。行年は、まだ40歳前後だったのではないでしょうか。

* 平篤行の官暦を見る限り、下級貴族としては平均的な生涯だったのではないでしょうか。
しかし、篤行が臣籍降下したのは、おそらく、十分物心がついた年頃だったでしょうから、それが、彼の生涯にどのような影響を与えていたのか、少し気になるところです。

     ☆   ☆   ☆

 

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山路の菊の

2024-08-08 08:00:06 | 古今和歌集の歌人たち

    『 山路の菊の 』


 濡れてほす 山路の菊の 露のまに
         いつか千年を 我は経にけむ

           作者  素性法師

( 巻第五 秋歌下  NO.273 )
       ぬれてほす やまぢのきくの つゆのまに
               いつかちとせを われはへにけむ


* この歌の前書き(詞書)には、「仙宮(センキュウ・仙人の住む家)に菊をわけて人のいたれる形(カタ・模型)をよめる」とあります。この歌は、この前書きをもとにしなければ作者の意図は伝わらないことになります。
それを考慮した上で、歌意は、「 山路の菊の間を行くうちに すっかり濡れてしまった衣を干す 束の間だと思っている間に いつの間にか千年の年月を 私はこの仙境で送ったのだろうか 」といったものでしょう。なお、仙境の一日は人間界の千年にあたる、といった考え方が加味されています。
この歌は、『秋歌』に編集されていますが、秋を詠んでいるというより、もっと技巧的なものを感じます。

* 作者の素性法師(ソセイホウシ)は、平安時代前期から中期にかけての僧侶・歌人です。
生没年は共に不詳ですが、850 年より前に誕生し、909 年より後に亡くなっていることは確認できます。

* 素性法師の父は、歌人として名高い僧正遍照(ヘンジョウ・ 816 - 890 )です。遍照は六歌仙の一人にも加えられている著名な歌人ですが、桓武天皇の皇孫にあたる人物ですから、素性法師も桓武天皇の曾孫に当たるということになります。
遍照は、俗世において従五位上蔵人頭に上っていますが、850 年に仁明天皇の崩御をうけて出家しています。
素性は、遍照が俗世にあった時の子供とされていますので、この情報によれば、誕生は 840 年代ぐらいではないかと推定できます。俗名は良岑玄利(ヨシミネノハルトシ)と伝えられていますから、元服の頃までは俗世にあったようで、清和天皇の御代に殿上人になったとの情報もありますが、父の意向で早くに出家したようです。

* 素性について、僧侶としての消息はそれほど多くなく、もっぱら歌人としての物が中心のようです。
出家後は、雲林院に住んだようですが、この雲林院というのは、仁明天皇の第七皇子常康親王が、父の崩御後に出家して、雲林院を御所としているのです。おそらく、血族的にも、仁明天皇の崩御により出家しているなど、常康親王と遍照は近しい関係にあったと考えられ、遍照・素性親子は雲林院には常に出入りしたようです。
そして、親王の死後は遍照が管理を任され、遍照の死後は素性が引き継いでいます。この間、和歌や漢詩の会が開かれるなど文芸の場を提供し続けていたようです。

* 896 年、素性は権律師の位を受けています。その後、大和の良因院に移り、その後は此処を住まいとしたようですが、多くの歌会に出たり、屏風歌を詠進するなど、宮廷や貴族らとの交流は多かったようです。
909 年 10 月に、醍醐天皇の前で屏風に歌を記したというのが最後の消息のようで、これから程なくして没したのではないかと推察されます。行年は七十歳前後だったのではないでしょうか。

* 素性法師は、この時代の歌人としては超一流の人物と考えられます。
古今和歌集に採録されている歌数を見ますと、紀貫之102首、凡河内躬恒60首などが突出していますが、いずれも本歌集の撰者であり、個人的には、これにより古今和歌集の選歌方法に不満を感じているのですが、撰者以外では素性法師の36首が最大なのです。
また、現代の私たちには、父の僧正遍照の方がメジャーに感じますが、勅撰和歌集に採択されている歌数を比べてみますと、遍照が「古今和歌集16首・勅撰和歌集全体35首」に対して、素性は「古今和歌集36首・勅撰和歌集全体61首」であり、素性法師が後の世でも高い評価を受けていたことが分ります。

* 遍照・素性親子は、ともに百人一首でもお馴染みなので、最後にその和歌を記しておきます。
  僧正遍照
「 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめん 」
  素性法師
「 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな 」

     ☆   ☆   ☆

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波路はあとも残らず

2024-07-27 08:03:18 | 古今和歌集の歌人たち

    『 波路はあとも残らず 』


 かの方に いつからさきに 渡りけむ
         波路はあとも 残らざりけり

           作者  阿保経覧

( 巻第十 物名  NO.458 )
       かのかたに いつからさきに わたりけむ
               なみじはあとも のこらざりけり


* 歌意は、「 あの向こう岸に あの人たちは いつの間に先に 渡ったのだろう 波の上には船の跡も 残っていないのに 」といった、比較的分かりやすい歌ではないでしょうか。
考えようによっては、男女の仲や、もっと運命的な場面も想像できないわけではありませんが、この歌に
は、「からさき」という題があり、また『物名』として編集されていることからも、「からさき」を詠み込むのが目的の歌と考えられます。
「からさき」は、琵琶湖畔の唐崎と考えられます。

* 作者の阿保経覧(アボノツネミ・ ? - 912 )は、平安時代前期の官人・貴族です。
彼の官暦は残されていますが、逸話などはあまり伝えられていないようです。彼を知るためには、父の情報が有力のようです。

* 阿保経覧の父は、阿保今雄( ? - 884 )ですが、もともとの姓は「小槻山」でした。小槻山氏は、滋賀県の南西部辺りを拠点とする豪族でした。おそらく、朝廷の出先機関や時には中央の官吏としても働いている一族だったのでしょう。
そうした背景をもとに、今雄は中央の官吏として勤め、内務官吏として相当優秀だったと考えられ、875 年に、「阿保朝臣」の姓を下賜されて改姓しました。そして、その前後に外従五位下を受けており、879 年には従五位下(内位)を叙爵して、押しも押されもせぬ貴族の地位に上っているのです。
なお、「外位(ゲイ/ガイイ)」というのは、中央官僚の「内位」に対するもので、地方出身者などに与えられ、内位より下位として扱われました。

* 作者の経覧の誕生年は不詳ですが、記録されている官職は、893 年に主計権少属ですので、この時には阿保氏として任官しているはずです。父の跡を追うような職務ですが、父はすでに 884年に亡くなっており、格別優遇されることはなかったようで、この職務は従八位下程度と考えられます。また、この時の年齢ですが、父が亡くなった年を考えますと、この職務が最初とは考えられず、おそらく数年間は下積みの任務に就いていたのではないでしょうか。そうだとすれば、この時には、二十歳をかなり超えていたのではないでしょうか。
その後、内務官吏を勤め、907 年に外従五位下に上りましたが、やはり父と同じように、「外位」という扱いでした。
912 年正月七日に、待望の従五位下(内位)を叙爵し、父の地位に追いつきましたが、その十日後に世を去りました。おそらく、四十代の半ばぐらいだったのではないでしょうか。

* 経覧には、当平、糸平ら数人の兄弟がいたようですが、この兄弟らは、「小槻宿禰」の姓を賜り改姓しています。朝臣より宿禰の方が格下ですから、何らかの理由があったと思われます。実子でなかったからという推察もされているようですが、よく分りません。
当平らの子孫は、下級の内務官吏として官職にあったようです。
 
経覧にも子供がいたようですが、詳しい消息は伝えられていないようです。

* 阿保氏を名乗る人物は他にもおりますが、「小槻山」ー「阿保」-「小槻」と改姓した一族では、「阿保」を名乗った人物は、今雄と経覧の二人(もしかすると、経覧の子も名乗ったかもしれないが。)だったと考えられます。
阿保経覧には、近江にそこそこの領地を有していた可能性はありますが、父に早く死なれ、内務官吏として懸命に努力を重ねる生涯だったのかもしれません。そして、遂に貴族の地位を得ることになりますが、その時は、死に臨んだ状態だったのではないでしょうか。いささかの哀れみを感じてしまいますが、歴史の流れという立場から見ますと、小槻山系の阿保氏を名乗った、たった二人のうちの一人であったと考えれば、そこには、何かがあったようにも思えてくるのです。

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