雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

知る人のなき

2024-07-15 07:59:37 | 古今和歌集の歌人たち

     『 知る人のなき 』


 わが恋は み山がくれの 草なれや
         繁さまされど 知る人のなき

          作者  小野美材

( 巻第十二  恋歌二 NO.560 )
       わがこひは みやまがくれの くさなれや
               しげさまされど しるひとのなき


* 歌意は、「 私の恋は 奥山の山陰にそっと生えている 草のようなものです いくら激しく繁ろうとも 知ってくれる人はいないのだ 」といった秘めた恋を詠んだものでしょう。

* 作者の小野美材(オノノヨシキ・ ? - 902 )は、平安時代前期の官吏で下級貴族に上っています。
父は、小野俊生、あるいは小野忠範と伝えられています。この二人は小野篁(オノノタカムラ)の子息ですから、美材が篁の孫であることは、確かなようです。
篁(タカムラ・ 802 - 853 )は、学問に勝れ、従三位参議を勤めた人物ですが、本稿はじめ当ブログのあちらこちらに登場する、私の大好きな人物です。ただ、その伝えられている逸話などは、舞台が閻魔大王まで登場するスケールの大きさで、判断に迷う物が多いようです。 

* 美材の誕生年は不明ですが、伝えられている情報から推定しますと、860 年前後と思われます。まだ、篁の死後十年ほどしか経っていない頃の事です。
伝えられている情報によりますと、
880 年に、穀倉院学問料を受けています。これは奨学金のようなものですが、美材がはじめてのことのようです。つまり、相当学問の面で勝れていたか、篁の影響力が残っていたかのどちらかと考えられます。
886 年、文章特業生(文章生のうち優秀な者二名が選ばれた。)となり、892 年に対策(官吏登用のための試験。)に及第し、894 年に少内記に就いています。少内記は正八位上相当官です。
これらのことから、文章生としては極めて優秀であり、大変な能書家であったという逸話もありますので、篁の才能の片鱗を受け継いでいるようにも思われますが、官吏としての昇進はままならなかったようです。

* 897 年に、従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たしています。三十代後半の頃ではないかと推定されますが、本人の努力面が大きかったような気がしてなりません。
これにより大内記となり、以後、伊予権介、信濃介と地方官に就き、902
年に亡くなりました。
おそらく、学問の面では高い能力を有していたであろう美材としては、官吏としては満足できるものではなかったのではないでしょうか。
伝えられている小野氏の系図によりますと、美材は篁の孫であり、あの小野小町や小野
道風はいとこにあたります。
ただ、美材を含め彼らの生母は伝えられておらず、例えば、小町の父とされる小野良真は美材の父の異母弟にあたると思われますが、出羽の郡司であったとされ、小町伝説に合わされたようなところがあります。資料によっては、良真を伝説上の人物としているものさえあります。

* こう見てきますと、美材もまた現実と幽玄の世界の狭間で生きたようにも考えてしまいますが、伝えられている美材の官職などは事実でしょうから、おそらく、豊かな才能に恵まれながらも、藤原氏の台頭などもあって、歯を食いしばって生きた多くの下級貴族の一人なのかもしれません。
しかし、それゆえに、晩年は地方官を勤めているので、中央政治のトラブルに巻き込まれることなく、心身共に意外に豊かな生涯だったのかもしれません。

     ☆   ☆   ☆  
 

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いよいよ見まく

2024-07-03 08:01:06 | 古今和歌集の歌人たち

     『 いよいよ見まく 』


 老いぬれば さらぬ別れも ありといへば
         いよいよ見まく ほしき君かな

        作者  業平の母

( 巻第十七 雑歌上  NO.900 )
        おいぬれば さらぬわかれも ありといへば
                いよいよみまく ほしききみかな


* 歌意は、「 年を取ると  避けることの出来ない別れも あると言いますから ますますお会いしたいと 願うあなたです 」といった、子を慕う親心を詠んだものでしょう。

* この歌には前書きがあって、「 業平朝臣の母の皇女、長岡に住み侍りける時に、業平宮仕へすとて時々も えまかりとぶらはず侍りければ、師走ばかりに母の皇女のもとより、『とみのこと』とて文を持てまうできたり。あけて見れば、詞(コトバ)はなくてありける歌 」とあります。
この前書きから、作者は「業平の母」だと分りますが、古今和歌集は、天皇や皇子・皇女などの和歌には作者名としては記さず、このような形で記しています。

* 「業平の母」とは、伊勢物語の作者とされている在原業平(アリハラノナリヒラ・825 - 880 )の母の伊都内親王( 801? - 861 )のことです。
伊都内親王は桓武天皇の第八皇女です。第一皇子は平城天皇です。
桓武天皇には数え切れないほどの后妃や夫人・宮人などがおり、皇子や皇女も同様ですが、それゆえに、皇位や皇族間の勢力争いや、藤原氏を中心とした政権争いが激しい時代でもありました。

* 伊都内親王は、平城天皇の第一皇子である阿保親王と結婚しました。伊都内親王にとって一粒種となる在原業平の誕生が 825 年なので、この少し前に結婚していたのでしょう。
ただ、阿保親王は、810 年に平城上皇と嵯峨天皇が対立するという薬子の変に連座して、太宰権帥に左遷され京を追われていて、帰京できたのは平城上皇が崩御した後の 824 年のことなので、その直後のことかもしれません。

* 阿保親王は平城天皇の第一皇子ではありますが、生母が宮人の葛井藤子で、その父は五位クラスの下級貴族であり、皇位を継承する候補からは外れていたと考えられます。ただ、性格は控え目で、文武の才は勝れていたとも伝えられていますので、政争に巻き込まれる懸念はつきまとっていたようです。
826 年に、まだ二歳の業平らに在原朝臣の姓を賜って臣籍降下させているのも、そうした争いから子供たちを守ろうとしたのかもしれません。
しかし、絶大な権力を誇った桓武天皇の皇女として宮廷生活しか知らなかった伊都内親王の生活にどのような変化を与えたのでしょうか。

* 京に戻った阿保親王は、827 年に上総太守に任命されました。実権などほとんどない名誉職なのでしょうが、安定した収入が保証されたものと考えられます。その後、様々な役職に就いていますが、上総太守は常に兼務していることからも、阿保親王のみならず伊都内親王の生活面を支える意味もあったのかもしれません。
その後、833 年に三品を授与され、収入面ではいっそう厚みを増したことでしょう。さらに、治部卿、宮内卿、兵部卿などを歴任しており、嵯峨天皇の信頼は厚かったと考えられます。
ところが、842 年に、廃太子を巡る政争(承和の変。藤原氏による他氏排斥の最初の事件とされる。)に巻き込まれそうになります。この時には、嵯峨上皇の皇太后橘香智子に報告することで難を遁れていますが、何か事を起こそうとする勢力にとっては、阿保親王は味方に引き入れたい人物なのでしょう。
ただ、政争を避けたはずの阿保親王ですが、この三か月に急逝しています。死因は伝えられていませんし、病気であったという記録はありません。そして、葬儀にあたって、反乱を未然に防いだことが評価されて、一品を追贈されています。

* さて、作者の伊都内親王にとっては、どのような生涯だったのでしょうか。
伊都内親王は桓武天皇の晩年の皇女で、父とは六歳の頃に死別しています。おそらく、父との思い出などほとんどなかったのではないでしょうか。また、母とは三十三歳の頃に死別しています。
阿保親王と結ばれたのは、二十三、四歳と推定されますので、当時としては遅い結婚です。結婚生活は十八年程に及びますが、どのようなものだったのでしょうか。
四十二歳の頃に、阿保親王が急死しました。伊都内親王はその後も同じ邸で暮らしていたようですが、848 年に邸は落雷により焼失し、その後は長岡の山荘に移っています。
長岡での暮らしは、861 年に亡くなるまで十三年に及んでいます。掲題の和歌は、この間に詠まれたものでしょう。
桓武天皇の皇女として生まれた伊都内親王ですが、桓武天皇の跡は、平城・嵯峨・淳和と異母兄が皇位に就き、その跡は、甥の仁明、その子の文徳、さらにその子の清和天皇と皇位は移っていました。
伊都内親王が逝去した時の天皇は清和天皇ですが、まだ十一歳であり、皇族の大長老の死をどのように受け取ったのでしょうか。

* 伊都内親王の生きた時代は、皇位をめぐる激しい時代でした。伴侶となった阿保親王はその荒波を被った人物の一人でもありました。
しかし、長岡に移ってからの晩年は、中央からは忘れ去られたような存在だったかもしれませんが、わが子に思いを馳せながらも穏やかな十余年だったのではないでしょうか。
最後に、掲題歌に対する業平の返歌を記しておきます。
『 世の中に さらぬ別れの なくもがな 千代もと嘆く 人の子のため 』

     ☆   ☆   ☆

 

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蔭を恋ひつつ

2024-06-21 08:00:09 | 古今和歌集の歌人たち

     『 蔭を恋ひつつ 』


 筑波嶺の 木のもとごとに 立ちぞ寄る
         春のみ山の 蔭を恋ひつつ

              作者  宮道潔興

( 巻第十八 雑歌下  NO.966 )
        つくばねの このもとごとに たちぞよる
               はるのみやまの かげをこひつつ


* 歌意は、「 筑波嶺の 木のもとごとに 立ち寄ってお願いしているのです あの筑波嶺の春の御山のような皇太子の お陰を願っているのです」といった切ないもののようです。
この和歌の前書き(詞書)には、「親王の宮の帯刀(タチハキ・皇太子を警備する役人。)に侍りけるを、宮仕へつかうまつらずとて、解けて侍りける時によめる」とありますので、作者は皇太子の御所の警備を勤めていたが、何か失態があって謹慎処分を受けていた時にこの歌を詠んだ、とありますので、この歌は復帰を願ってあちこちに依頼して回っていたということなのでしょう。

* 作者の宮道潔興(ミヤジノキヨキ)は、平安時代前期の官人です。
宮道氏は、日本武尊を始祖とする一族とされていますが、この頃には、京都近くの
山科あたりで小豪族として根を張っていたようです。朝廷で高官として活躍したという記録は無いようですから、せいぜい七位程度の下級の官人であったと考えられます。いずれも、個人的な推定ですが。 

* 潔興の生没年は不詳ですが、官職歴は残されています。
898 年、内舎人。
900 年、内膳典膳。
907 年、越前権少掾。
以上の三件ですが、いくつかのことが推定できます。
まず、和歌の前書きに登場している親王は、皇太子の保明親王です。
保明親王( 903 - 923
)は、醍醐天皇の第二皇子ですが、伯父にあたる左大臣藤原時平の強権を背景に生後満二か月(904 年。数え年では二歳。)で皇太子になりました。以後二十年に渡り皇太子の地位にあり、天皇の寵愛もあつく藤原氏の期待も大きかったのですが、父に先立って亡くなりました。
ただ、ここから、潔興が皇太子の近くに仕えていたのは、904 年から907 年までの間であると考えられ、掲題の和歌が詠まれたのも、その間のことと推定されます。
しかし、どのような失態で謹慎させられていたのか不明ですが、残念ながら復帰は叶わず、越前権少掾として左遷されたのではないでしょうか。

* 潔興の父(あるいは祖父)の宮道弥益は、醍醐天皇の外祖父にあたり、従四位下宮内大輔に上っており、公卿に至らないまでも歴とした貴族だったのです。そして、その地位に上ったのには、なかなかドラマチックな出来事が伝えられています。
まず、醍醐天皇の父は宇多天皇ですが、宇多天皇の父光孝天皇は、五十四歳という高齢で即位しました。その理由は、光孝天皇は仁明天皇の第三皇子ですが、仁明天皇の跡は第一皇子の文徳天皇が就き、その跡も清和、陽成とその子孫に引き継がれていました。
ところが、陽成天皇の御代に,宮中で殺人事件が発生し天皇が関与しているともされて退位を余儀なくされました。おそらく、藤原氏内の勢力争いが主因と思われますが、後継者の選定が難航し、急遽、先祖返りするような形で光孝天皇が誕生しました。

* 光孝天皇は誠実な人柄だったとも伝えられていますが、皇統を陽成天皇の皇子に戻すべきと考えていたようで、即位とともに自らの二十六人の皇子・皇女を源の姓を与えて皇室を離れさせたのです。
光孝天皇の第七皇子であった定省親王( 867 - 931 )もその一人で、十八歳の頃のことでした。ところが、光孝天皇は即位後三年余りで病気となり、宮廷内の政争も絡み、定省親王を皇族復帰させることになり、887 年 8 月 25 日に皇族に復帰、翌日に立太子、その日のうちに光孝天皇が崩御し、定省親王が践祚し宇多天皇が誕生したのです。
そして、宇多天皇の女御であり敦仁親王の母である胤子は、父は正三位内大臣藤原高藤ですが、母は宮道弥益の娘列子なのです。

* やがて、敦仁親王が醍醐天皇として即位したことにより、宮道弥益は天皇の外祖父の地位を得ているのです。
また、おそらく山科あたりの小豪族に過ぎなかった宮道弥益の娘である列子が、藤原冬嗣の孫にあたる名門藤原北家の御曹司高藤と結ばれた経緯については、今昔物語(巻22)にも採録されている純愛物語があったようです。それによりますと、「高藤が十五、六歳の頃、山科での鷹狩りの途中に雨に遭い、土地の有力者の家に雨宿りしたが、その家の娘に一目惚れし、結ばれる。その後、帰宅が遅れたことから高藤は父に鷹狩りを禁じられる。二人が再開するのは6年後のことで、娘は一人の女の子を連れていたが、その女の子が後に天皇の女御になる。・・・」といった内容です。

* おそらく、作者である宮道潔興の姉(あるいは伯母)である列子と藤原高藤との劇的な出会いがなければ、潔興は山科あたりの有力者として、あるいは下級の官人としての生涯を送ったのでしょう。
ところが、運命は潔興に違う道を用意していて、皇太子の側近くに仕えるようになりましたが、失態により、越前の下級官吏に左遷させられました。その後の消息は不明で、その地で生涯を終えたのか、もし帰京したとしても中央の官吏に復帰するようなことはなかったのでしょう。
また、失態を犯したとされますが、潔興が仕えていたときの皇太子の年齢は、満年齢でいえば、せいぜいゼロ歳から四歳位までのうちの何年かでしょうから、皇太子本人の意志とは考えられず、別の思惑もあったのかもしれません。むしろ、成り上がってきた状態の潔興は、足を引っ張られたような気がしてならないのです。
そして、その事が、潔興の後半生にどのような影響を与えたのでしょうか。
下級官吏とは言え、地方へ下ればそれなりの地位と収入も得られたでしょうから、針のむしろのような宮廷より、良い生活を送ったのではないかと思い描くのです。

     ☆   ☆   ☆


 

 

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わびしき春霞

2024-06-09 08:05:20 | 古今和歌集の歌人たち

     『 わびしき春霞 』


 花の散る ことやわびしき 春霞
        たつたの山の うぐひすの声 

          作者  藤原後蔭

 ( 巻第二 春歌下  NO.108 ) 
        はなのちる ことやわびしき はるがすみ
                たつたのやまの うぐひすのこえ 


* 歌意は、「 花が散ることが 心細いのか 春霞が立っている たつたの山の うぐいすが鳴いているよ 」と、行く春を惜しむ歌でしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「仁和の中将の御息所の家に歌合せむとて、しける時によみける 」とありますので、歌会で詠まれた作品だと考えられます。
ただ、この中将、あるいは御息所が誰かは不詳です。

* 作者の藤原後蔭(フジワラノノチカゲ)は、平安時代前期の貴族です。
生没年は不詳ですが、官暦などが伝えられていますので、88
0 年前後から 923 年頃にかけて生存した人物と考えられます。
後蔭は、藤原北家末茂流の従三位中納言藤原有穂の次男として生まれました。公卿の子息ということになります。母は、正妻の安倍興武の娘です。安倍興武の官位などは不詳ですが、下級貴族の家柄と推定されます。

* 後蔭の伝えられている官暦の一部を列記してみます。
895 年、大蔵大丞。
897 年、宇多天皇の六位蔵人。譲位後も醍醐天皇の蔵人を勤める。
    その後、左近衛将監。
902 年、従五位下を叙爵して貴族の仲間入りを果たす。越中守に就く。
904 年、左馬助。 907 年、佐兵衛佐。 910
年、左近衛少将。
911 年、従五位下。 917 年、正五位下。 919 年、従四位下。
923 年正月、右近衛督。
以上のように、主として武官として勤め、順調に昇進したようです。
後蔭の記録は、この後は残されていないようなので、程なく死去したのではないかと思われます。

* 後蔭が活躍した時代は、すでに藤原氏、それも北家の勢力が宮廷政治を牽引する状況になっていました。
北家は、藤原不比等を父とする四兄弟のうちの次男房前を始祖とする家柄です。
房前の子孫は幾筋もに分かれていますが、有力なものとしては、
「房前ー真楯ー内麻呂ー冬嗣ー良房・・」という流れが権力の中枢を握り「道長」の時代へと繋がっていきます。
これに対して、「房前ー魚名ー末茂ー総継ー直通ー有穂ー後蔭」の系列は劣勢であり、良房( 804 - 872 )以降は、差は広がるばかりだったでしょう。
後蔭は、そうした情勢下の真っ只中で生きたのでしょう。

* しかし、そうした中での後蔭の昇進は、並の貴族として十分なものと思われます。おそらく、武官としての能力が評価されたのでしょうが、当時は、武官や武者の地位は決して高くはなかったようです。
後蔭が歌人として評価された記録は残されていません。その武官としての活動が長かったと考えられる彼でさえ、歌会に加わって和歌を詠んだことが伝えられていることに、当時の貴族の生活の一端が窺えるような気がするのです。
 
     ☆   ☆   ☆



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奈良の都も

2024-05-28 07:59:35 | 古今和歌集の歌人たち

     『 奈良の都も 』


 人ふるす 里をいとひて 来しかども
        奈良の都も 憂き名なりけり 

          作者  二条 

( 巻第十八 雑歌下  NO.986 )
        ひとふるす さとをいとひて こしかども
               ならのみやこも うきななりけり


* 歌意は、「 ある人から古い女だと見捨てられて 里(京都を指している)が嫌になって ここまで来ましたが 奈良の都も 古都と呼ばれていて 辛い名前でありました 」といったもので、失恋を匂わせる歌のようです。
この歌の前書き(詞書)には、「 初瀬にまうづる道に、奈良の京に宿れりける時よめる 」とありますので、旅の途上で、少々感傷的になっていたのかもしれません。

* 作者の二条は、平安時代前期の宮廷女房と推定されますが、その情報はほとんど伝えられていないようです。
そうした中で、貴重な情報である「源至の娘らしい」というものを信じることにして、源至の足跡を追うことにしました。

* 源至(ミナモトノイタル)は、平安時代前期の貴族です。嵯峨天皇の孫という血筋ですが、正確な生没年は伝えられていません。
至の父の源定(ミナモトノサダム・815 - 863 )は、嵯峨天皇の皇子で、生母は女御の百済王教俊の娘です。嵯峨天皇には、皇后や妃、女御、更衣、あるいは多くの宮人がおり、その正確な数はとても確認できませんが、数十人といっても大げさではないようです。皇子・皇女となるとその何倍かにもなりそうです。従って、定には誕生の段階で皇位継承の可能性はなく、828 年、源朝臣の姓を賜与されて臣籍降下しました。
嵯峨天皇の皇子・皇女たちのうち、17人の皇子、15人の皇女が源朝臣姓を賜っており、嵯峨源氏と呼ばれる一族は多くが高位に昇り、宮廷政治において藤原北家と並び立つ勢力を有し、二世源氏の頃まで続いたようです。
定も、正三位大納言まで昇っています。

* 作者である二条の父の至は、851 年に無位から従五位下に直叙されています。おそらく、十五歳から遅くとも二十歳までの頃だったのではないでしょうか。二世源氏として厚遇されての叙爵でした。
その後は、武官を中心とした地位にあったようですが、858 年に就いた右兵衞佐(次官)は、以後20年ほども務めています。途中で相模守を兼務したりしていますが、これは、実務面よりも収入面で配慮されたものではないでしょうか。
885 年に右京大夫、886 年に従四位上に叙されているのが消息の最後です。この右京大夫というのは、京の司法・行政・警察などを担った京職(左京職と右京職の二つがあった。)の長官で、公卿に昇ることは出来なかったものの重職を務め続けていたようです。

* さて、本稿の主人公である作者の二条ですが、すべて推定となってしまいます。
父の年齢も不明ですが、おそらく 860 年を挟んだ前後十年ぐらいの間に誕生したのではないでしょうか。そして、880 年前後には成年に達していたのではないでしょうか。
その推定をもとにすれば、まだまだ二世源氏の娘として、あるいは嵯峨天皇の曽孫として認知されていて、恵まれた環境に育ったのではないでしょうか。
もし、女房として出仕していたとすれば、宮中あるいは相当高官の邸と考えられ、掲題の歌から受けるような、鬱々とした生涯では決してなかったと推定したいと思うのです。

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あらじとぞ思ふ

2024-05-16 08:00:10 | 古今和歌集の歌人たち

     『 あらじとぞ思ふ 』


 ひととせに ひとたび来ます 君待てば
          宿かす人も あらじとぞ思ふ 

           作者  紀 有常

( 巻第九 羈旅歌  NO.419 )
     ひととせに ひとたびきます きみまてば
              やどかすひとも あらじとぞおもふ


* 歌意は、「 七夕姫は 一年に 一度だけやってくる 愛しい君を待っているのですから その君以外に 宿を貸してもらえる男など あるまいと思う 」といったもので、恋歌に加えてもよい内容ですが、この歌には前書き(詞書)があり、少し違う風景が見えてきます。

* 前書きには、「親王(ミコ)、この歌をかへすがへすよみつつ返しえせずなりにければ、供に侍りてよめる」とあります。
つまり、この歌(本歌の前にある「在原業平」の和歌のこと。)に対して、親王が返歌することが出来なかったので、親王の供をしていた作者が代わりに詠んだものなのです。
従って、在原業平の歌と合わせれば、「羈旅歌」であることが分りますし、それ以上に、歴史の一コマのようなものが垣間見える気がするのです。

*(NO.418)の在原業平の和歌と前書きを記してみます。
   「 惟喬親王の供に、狩にまかりける時に、天の河といふ所のほとりにおりゐて、酒など飲みけるついでに、親王の言ひけらく、「狩して天の河原にいたるといふ心をよみて、盃はさせ」と言ひければよめる 」
  『 狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり 』
惟喬親王の求めに在原業平がこのように詠みましたので、次は親王が返歌すべきなのですが、うまく詠めなかったので、作者が代わりに詠んだということです。

* 惟高親王(コレタカシンノウ・文徳天皇の第一皇子。)と在原業平(アリハラノナリヒラ・平城天皇の孫。)の関係は、共に皇族であり、業平の方が大分年長なので、臣従しているということではなく、親しい関係といったものと考えられます。
そして、この二人は、共に皇族としては不運であり、作者の紀有常とも密接な関係にあります。

* 作者の紀有常(キノアリツネ・815 - 877 )は、平安時代初期の紀氏の中心人物の一人です。
紀氏は、武内宿禰の子の紀角を始祖とする武門の名族ですが、宮廷政治において頂点に立つことはなく、この頃には藤原氏の圧迫を受け、衰退への途上にありました。
常の父紀名虎は、官職は正四位下刑部卿ですから、公卿に至ることが出来ませんでしたが、二人の娘(有常の妹(あるいは姉)に当たる。生母はいずれも不詳。)は宮廷勤めをしていて、種子は仁明天皇の更衣に、静子は文徳天皇の更衣になっているのです。二人とも更衣という低い身分でしたが、いずれも皇子・皇女を儲けています。とりわけ静子は、文徳天皇の第一皇子である惟喬親王の生母なのです。
当然、有常と惟喬親王とは近しい関係であったでしょうし、有常の娘は在原業平の室になっているのです。

* 文徳天皇は、第四皇子の惟仁親王(後の清和天皇)に譲位していますが、これには外祖父の藤原良房の強い圧力があったもので、文徳天皇には譲位の意向を固めるに当たって、惟仁親王が幼いことを理由に(惟仁親王九歳、惟喬親王十五歳)、一定期間惟喬親王に皇位に就ける意向があったともされていますが、藤原氏の権勢に抗しきれず、惟高親王の即位を実現させることは出来ませんでした。

* 掲題の和歌とその前の和歌に登場している、惟喬親王、在原業平、そして作者の紀有常は、激しい皇位争いの中で、いずれも不運を背負うことになったと言える人物なのです。
惟喬親王は上記した通りですが、在原業平の父である阿保親王も平城天皇の第一皇子でありながら政争に巻き込まれ即位への道を断たれています。
紀有常は、皇室に繋がる上の二人とは違って中級貴族の家柄ですが、もし、惟喬親王の即位が実現していれば、有常の宮廷での立場は相当違うものになっていたと推定できます。

* 紀氏は本来武門の家柄です。有常も武官として評価されていたようですが、晩年は地方官の方が主体になっています。もしかすると、惟喬親王と引き離そうとする藤原良房らの意向が働いていたのかもしれません。
有常は、877 年に六十三歳で世を去りました。最終官位は従四位下周防権守でした。この後、中央政治においては、ますます藤原氏の勢力が強まり、紀氏の活躍の場はなくなっていきました。

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月吹きかへせ

2024-05-04 08:00:07 | 古今和歌集の歌人たち

     『 月吹きかへせ 』


 さ夜ふけて なかばたけゆく 久方の
          月吹きかへせ 秋の山風

           作者  景式王

( 巻第十 物名  NO.452 )
         さよふけて なかばたけゆく ひさかたの
                つきふきかへせ あきのやまかぜ


* 歌意は、「 夜がすっかり更けて 月は半ば西に傾いたが あの月を吹き戻してくれ 秋の山風よ 」と、秋の夜を詠んだ風雅な歌といえますが、この歌は『物名』に組み入れられているように、「かはたけ」を詠み込むのが狙いの歌です。
何とも他愛ない言葉遊びのように思われますが、古今和歌集は『物名』を主題の一つにしているほどですから、当時は技巧として認められていたのでしょう。
なお、「かはたけ」は、「まだけ」あるいは「めだけ」の異名とも、食用茸の一種ともされていて、はっきりしません。

* 作者の景式王(カゲノリノオオキミ)は、文徳天皇の皇子である惟条親王の御子です。
生没年ともに不詳です。文徳天皇の孫でありながら生没年が正確に伝えられていないのは不思議な気もしますが、文徳天皇には多くの皇子・皇女がおり、皇位争いの激しい時代でもあることから、その候補から外れた皇子たちの子孫は、よほどの活躍がなければ歴史の片隅に追いやられるということなのでしょうか。

* 景式王の父・惟条親王(コレエダシンノウ・846 - 868 )は、文徳天皇の第二皇子ですが、第一皇子の惟喬親王( 844 - 897 )も同母の兄です。しかし、文徳天皇の後を継いだのは第四皇子の惟仁親王( 850 - 881 ・清和天皇)で、生後8か月で立太子、9歳で即位しました。惟仁親王の生母は女御の藤原明子で、その父は時の権力者藤原良房なのです。藤原北家が台頭していく中での象徴的な皇位争いと言えます。
ただ、惟条親王らの生母は、更衣の紀静子ですので、静子の父の紀名虎(正四位下)の政治力とも合わせ、皇位に就く可能性は極めて低かったと考えられますが、藤原良房辺りからの圧力はあったかもしれません。

* 作者の景式王の生没年は不詳ですが、父の惟条親王は 868 年に23歳で亡くなっていますので、景式王の生年は 860 年代のことと推定できます。
その後の消息を知ることは出来ませんでしたが、897 年に二世王として従四位下に直叙(特別扱いの叙爵)されていますが、その後の消息も伝えられておらず、ほどなく亡くなったようです。おそらく、20歳を幾つも過ぎていなかったのではないでしょうか。
景式王の生涯を推定するにはあまりにも情報が少なすぎますが、何か哀れなものが感じられてならないのです。

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親のまもり

2024-04-22 08:00:30 | 古今和歌集の歌人たち

     『 親のまもり 』


 たらちねの 親のまもりと あひそふる
         心ばかりは せきなとどめそ

           ( 作者  小野千古の母 )

( 巻第八 離別歌  NO.368 )
         たらちねの おやのまもりと あひそふる
                 こころばかりは せきなとどめそ


* 歌意は、「 母親として わが子を守って ついては行けないが この心だけはついて行くので 関所の役人は止めないで下さいな 」といった、子の旅立ちを心配する母の気持ちを詠んだものでしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「小野千古が陸奧介にまかりける時に、母のよめる」とあります。そして、作者名は書かれていません。
ただ、この前書きから、作者が「小野千古の母」であることが分ります。
また、わが子の千古が陸奧介(ミチノクノスケ)として、任国に旅立つ時の歌である事も分かります。当時の陸奧国は、都からは遙かに遠い地であり、蝦夷の勢力が残っている地でもあります。母親の心配は当然ですが、陸奧介といえば、陸奧国の守に次ぐ次官にあたる地位です。陸奧は大国ですから、介であれば、正六位上か従五位下に昇っていたかもしれません。任地に下向することを考えれば、千古は例えば皇族に繋がるような特別な人物ではないはずで、この時には、そこそこの年令になっているはずで、母親の心配は少々大げさと取るか、幾つになっても母親の心配は同じと取るか、別れるところでしょう。

* 作者の「小野千古の母」について、その情報を知ることは全く出来ませんでした。小野千古についても同様です。
参考書の中には、小野千古(オノノチフル)を、小野道風の妻、あるいは娘とするものがあります。どのような文献から推測されたものか確認できません。
小野道風(オノノトウフウ・正四位下参議。 894 - 967 )は、藤原佐理・藤原行成と共に「三跡」と称された書の名人です。また、花札に描かれている、柳に飛びつく蛙の姿を見て奮起したというエピソードの持ち主です。
ただ、古今和歌集の成立は、例えば真名序に記されている日付けは 905 年ですから、年齢的に娘というのは考えられず、妻というのも、少なくとも 900 年頃に、成人している子がいるというのは考えづらく、どちらも納得できません。

* そこで、陸奧介というのをベースに調べてみますと、小野春枝という人物が浮かんできます。春枝は、870 年 1 月に陸奧介になり、同年 3 月に権守に昇っています。
この人物は、父の石雄、弟の春風と共に武勇で名高い人物です。
しかし、千古との関係を示す資料は全く見当たりません。

* 作者である「小野千古の母」には、もう一つ疑問があります。それは、作者名が記されていないということです。 
古今和歌集は、やたらと「読人しらず」の多い家集ですが、それ以外には、必ず作者名が記されていて、記されていないのは、天皇など高貴な地位の人物に限られていて、前書きの中に読み人が分るように示されています。
ところが、この歌には、作者名が記されておらず、前書きの中で説明されているのです。他にももう一例(NO.784)ありますが、たまたまそうなっただけなのか、何かの意図が働いているのか、大いに興味があります。

* もしかすると、「小野千古」というのは実在しない人物で、「陸奧介」というのも、遠くへ旅立つという表現に過ぎず、「その母」は、とても高貴な地位にある女性・・・、などと、妄想を働かせたりするのですが、もしそうだとすれば、古今和歌集の編者が、どうしてこの歌を紛れ込ませたのか、そこには、とてつもない背景が隠されている、と考えたりしてしまうのです。
おそらくは、単に「小野千古」の動静が現在に伝わらなかっただけなのでしょうが、一千余年の歳月は、多くのものを消し去ると共に、多くのロマンを生み出してくれるものかも知れません。

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折りてかざさむ

2024-04-10 08:00:01 | 古今和歌集の歌人たち

      『 折りてかざさむ 』


 鶯の 笠にぬふといふ 梅の花
       折りてかざさむ 老いかくるやと

          作者  東三条左大臣 

( 巻第一 春歌上  NO.36 )
       うぐひすの かさにぬふといふ うめのはな
               をりてかざさむ おいかくるやと 


* 歌意は、「 鶯が 笠に縫い付けるという 梅の花を ひと枝折って冠に挿そう 老いを隠すことが出来るかもしれない 」といったものでしょうが、取りようによっては、功成っても老いの恐怖を感じている心境を詠んでいるとも言えそうです。 
なお、古今和歌集のNO.1081に、『青柳を 片糸に縒りて 鶯の 縫ふてふ笠は 梅の花笠』という歌がありますので、「鶯が梅の花を笠に縫い付ける」といった俗説のようなものがあったのかも知れません。

* 作者の東三条左大臣とは、源常(ミナモトノトキワ・812 - 854 )のことです。
源常は、嵯峨天皇の皇子ですが、814 年に兄の信・弘と共に、源朝臣姓を賜与されて臣籍降下しています。数え年三歳の時ですから、皇子としての生活の記憶はなかったかもしれません。
常の生母は、更衣の飯高宅刀自です。飯高氏は、当時は下級貴族の家柄であったと考えられますが、当時の慣例として、常が皇位継承の地位を得ることは考えられませんでした。
それに、嵯峨天皇には、后妃を始め妻妾は、伝えられているだけでも三十人を超え、皇子皇女の数は五十人に及びます。おそらくは、実数はさらに多いことでしょう。
臣籍降下とはいえ、実体は、とても皇室内での養育は困難ということではないかと考えられます。

* 臣籍降下した後の幼年期の常についての記録は余り伝わっていないようです。母の実家辺りで養育されたと推定されますが、平安時代初期のことであり、嵯峨天皇も強い権力を掌握していたようですから、政活費などの支援は手厚いものであったと推定されます。
また、常は、幼い頃から優れた才覚が目立っていたようで、早い段階で「宰相の器」と噂されたといい、嵯峨天皇にも寵愛されたようです。

* 828
年、常は、同年の生まれの弘と共に、無位から従四位下に叙され、常は兵部卿に任じられています。十七歳の時のことです。
830 年に従四位上に昇叙される時も弘と同時でしたが、翌 831 年正月には、三階昇進して従三位に叙せられ、嵯峨源氏兄弟の中で一番早く公卿に列しました。同年 7 月に二歳年上の信が参議となり公卿の地位を得ていますが、832 年に常は中納言に昇り、その後は嵯峨源氏の筆頭恪として先頭に立ち続けました。

* 833 年、仁明天皇(嵯峨天皇の第二皇子)の即位に伴って、常は正三位に叙され、837 年には左近衛大将、838 年には大納言に昇り、二十七歳にして、左大臣藤原緒嗣(藤原式家。774 - 843 )、右大臣藤原三守(藤原南家。785 - 840 )に次いで太政官の第三位の地位にまで昇りました。
840 年に右大臣藤原三守の死去により、常は後任として右大臣兼東宮傅(皇太子は恒貞親王)に就きました。さらに 841 年には従二位に昇り、この頃には左大臣を上回るほどの存在感を示していたようです。

* このように、臣籍降下した常ですが、宮廷政治において目覚ましい昇進と存分の働きを示しました。その常にとって、唯一といえるような大事が出来(シュッタイ)しました。
842 年に発生した承和の変です。詳細については割愛させていただきますが、皇位をめぐる争いで、淳和天皇の皇子である恒貞皇太子は失脚し、仁明天皇の皇子である道康親王(後の文徳天皇)が新皇太子になります。そしてこの皇子の生母は、藤原良房の娘順子です。
承和の変は、藤原氏による他氏排斥の最初の事件とされますが、この変により、伴氏(かつての大伴氏)、橘氏は勢力をなくしていきました。
関係者の多くが流罪など厳しい処罰が下されましたが、東宮傅の常は全く処罰されることなく、次の皇太子の東宮傅に就いているのです。よほど権勢があったか、清廉潔白な人物とみられていたのでしょう。
そして、この変の成功により、藤原北家の良房が大きく台頭して行き、先行する南家・式家を抜いて北家全盛の摂関政治を実現していくことになります。

* 作者の源常の政権基盤は揺るぐことなく、843 年に長く公卿の地位にあった左大臣藤原緒嗣が亡くなると、三十二歳にして太政官の頂点に立ち、以後十年余にわたって政権をリードしました。
844 年に左大臣となり、850 年に文徳天皇が即位すると正二位に昇りました。
ただ、惜しむらくは、854 年に四十三歳で亡くなったのです。

* 源常を歌人として評価することには何の意味もないでしょうが、掲題の歌は四十三歳で亡くなった人物の歌としては、少々大げさな気がします。
それよりも、政権の頂点にありながら四十三歳で世を去ったことが残念でありません。おそらく、常の死去により、皇族出身の政治リーダーは弱体化し、摂関政治の登場を速めたのではないでしょうか。歴史に『もし』は意味ないことではありますが。

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泣き恋ふる

2024-03-29 08:00:49 | 古今和歌集の歌人たち

     『 泣き恋ふる 』


 泣き恋ふる 涙に袖の そほちなば
         脱ぎかへがてら 夜こそは着め

           作者  橘 清樹

( 巻第十三 恋歌三  NO.655 )
        なきこふる なみだにそでの そほちなば 
                ぬぎかへがてら よるこそはきめ


* 歌意は、「 亡き人を泣き恋うる 涙で袖が びしょ濡れになるので 着物を着替えるついでということで 夜だけこっそり着ましょう 」といった意味でしょうが、この歌は、「返し」となっていますので、贈られた歌と合わせて理解する必要があります。
この歌の前の「NO.654」には、
  「 橘清樹が忍びにあひ知れりける女のもとよりおこせたりける 」
                     読人しらず
 『 思うどち ひとりひとりが 恋ひ死なば 誰によそへて 藤衣きむ 』
とあります。
つまり、「橘清樹が、忍んで逢っている女からの歌」とありますから、人目を忍んで逢瀬を重ねている女性から贈られた歌には、『思い合っているわたしたちの どちらか一人が恋しさのあまり死んだとすれば 身内の誰が死んだことにして 喪服を着るのでしょうか』と呼びかけているのです。
この歌の意味の解釈は、この贈答が深刻なものなのか、言葉遊びのような形でなされた物かによって、ずいぶん重みが変ってきます。

* 作者の橘清樹(タチバナノキヨキ)は、平安前期の貴族です。生年は不詳ですが、没年は 899 年です。
作者の祖父の橘長谷麻呂は、従四位下・弾正大弼の要職に就いています。弾正台(監察・治安などを管轄。)の次官ですが、公卿の地位には昇ることは叶わなかったようです。
作者の父の数雄は、遠江守を務めていますので、従五位下には昇っていたようです。
作者の最終官位は、従五位下阿波守ですが、その前の肥前守と合わせると、晩年の十年余りは守護としての生活で、貴族としては下級クラスですが、経済的には恵まれていたと推定されます。

* 橘氏は、飛鳥時代に、藤原不比等の夫人となった県犬養三千代が「橘宿禰」の氏姓を賜ったことに始まる名門氏族です。
氏族としては、「源平藤橘」(四姓)と称されたり、藤原氏・源氏・王氏と並んで、毎年正月に一族の正六位上の人物の中から一人を、氏長者の推薦により従五位下に叙爵される「氏爵」の対象となる氏族にされていました。作者の清樹は、この制度により貴族の地位に昇っているのです。
橘氏は、もともとそれほど多くの高位高官を輩出していませんが、983 年に橘恒平が参議に就いて三日後に死去していますが、これを最後に橘氏の公卿は絶えています。

* 橘清樹の生きた時代は、すでに藤原北家の台頭が著しい時代でしたが、それだけが理由ではないのでしょうが、橘氏は宮廷政界での存在感を失っていきました。
清樹は、宮廷内の勢力争いなど、直接的に加わることはなかったでしょうが、橘氏の没落が無関係ではなかったことでしょう。
また、清樹の和歌は、勅撰和歌集全体を通しても掲題の一首だけですので、歌人というほどの評価は受けていなかったと思われます。
しかし、そうした環境下だとしても、清樹は生まれた時から受領クラスの家ですから、下級貴族とはいえ守護という経済的に恵まれた生活と、掲題歌のような艶めいた歌を詠み交わすことが出来る、恵まれた生涯だったのではないでしょうか。

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