『 深山がくれの 』
かたちこそ 深山がくれの 朽木なれ
心は花に なさばなりなむ
作者 兼芸法師
( 巻第十七 雑歌上 NO.875 )
かたちこそ みやまがくれの くちきなれ
こころははなに なさばなりなむ
* 歌意は、「 私の姿は 奥山に隠れている 枯れ木のようなものですが 心の中には恋の花を 咲かそうと思えば咲かせますよ 」といった、法師とは思えないものです。この歌の題に「 女どもの見て笑ひければよめる 」とありますから、おそらく宮中あるいは上流家庭の女房を相手に詠んだ戯れ歌でしょう。
* 作者の兼芸法師(ケンゲイホウシ)については、詳しい情報は伝えられていません。生没年も未詳です。
父は、伊勢少掾古之の次男としている参考書が多いのですが、この古之という人物についての情報が伝えられていません。また、少掾(ショウジョウ)というのは、「守・介・掾・目(カミ・スケ・ジョウ・サカン)」と置かれた国司のうちの三等官で、大国などには「大掾、少掾」が置かれたようです。中央官と地方官を単純に比べるのは正しくないかも知れませんが、官位にすれば七位程度の官職にあたります。下級官吏と言えますが、一般庶民とは格段に上位にあったのでしょう。
* しかし、古今和歌集に乗せられている兼芸法師の歌の前書き(詞書)には、「仁和の帝(光孝天皇)、親王におはしましける時に・・・(巻第八 NO.396)」とありますので、少なくとも親王時代の光孝天皇と親しく接していたらしいことが分ります。
光孝天皇( 843 - 887 )は、仁明天皇の第三皇子ですが、早くから皇位継承候補から外れ、親王が就任するのが慣例とされている官職のほとんどを歴任した人物です。ところが、皇位争いの落とし所として、長老格とも言える親王が五十三歳にして即位したという天皇です。
このように、名誉職のような立場が多かったとしても、兼芸法師と出会う機会があったのかもしれません。その可能性は否定できませんが、官職の上位を歴任している親王と、伊勢国の下級官吏を父とする法師とが親しく接するというのには無理を感じます。
兼芸法師には、左大臣源融(嵯峨天皇の第十二皇子)の子孫だとする説もあるようです。源融は仁明天皇の異母弟ですから、むしろ、この説の方が正しいような気がします。あるいは、源融の子孫でありながら、何らかの不運により地方の下級官吏になっていたのかもしれません。
* 兼芸法師には、目立った官職は伝えられていません。僧侶としてもそれなりの僧職であったとか名僧であったという話も伝わっていません。歌人としては、古今和歌集には四首採録されていますのでそこそこの評価されてのものと考えられますが、この後の勅撰和歌集には一首も採録されておらず、歌人としての後世の評価は高くありません。
しかし、掲題歌は、実にユーモアに富んだすばらしいものだと思うのです。和歌としての評価はともかく、飄々として浮き世の諸々を超越しているかのようにも見えます。
ただ、それが、彼が行き着いた人生観からくるものなのか、高貴な血脈を背負いながら思いにまかせぬ身の上を耐え忍ぶよすがであったのか、少々気になるのです。
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