雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

望月の宴  ご案内

2024-03-13 20:45:31 | 望月の宴 ①

        『 望月の宴 』 ご案内

平安時代とは、諸説はありますが、都が平安京に移された西暦 794年(延暦13年)から1183年(寿永二年  ・源頼朝が東国支配権の承認を得た年で、諸説の中で平安時代の終りが最も早い説。)までの、およそ390年間を指します。
その期間は、江戸時代の265年間を遥かに上回り、飛鳥時代以降の時代区分では最長の期間を占めています。
天皇の御代でいえば、第五十代桓武天皇から第八十一代安徳天皇の御代(他の説では後鳥羽天皇の御代)ということになります。

さらに大きな時代区分で見た場合には、古代から中世へと移行した時期にあたり、貴族政治から武家の台頭という現象は、天皇親政をも絡んだ激しい時代でもありました。
その一方で、平安王朝文化と称されるように、貴族階層を中心に文化の興隆が見られ、文学面では、宮廷女房を中心とした女流文学が花開いた時代でもありました。
皇族とのスキャンダルが注目されがちですが、和歌の第一人者ともいえる和泉式部、「枕草子」の清少納言、「源氏物語」の紫式部などは、現在でも高い評価を受けています。

『栄花物語』もその一部がこの時代に完成したとされる名作です。「歴史物語」というジャンルの嚆矢(コウシ)ともされるこの作品は、全40巻に及ぶ大作ですが、その中の30巻は、この時代を代表する女流文学者の一人である赤染衛門によるというのは、ほぼ定説になっています。

本作品『 望月の宴(モチヅキノウタゲ)』は、栄花物語の中から、藤原道長に関する部分を中心に、ほぼそのままを頂戴して、道長という英雄の生涯の一端を描こうと企画したものです。
栄花物語の多くの部分をそのまま頂戴してはおりますが、決して、正しい現代訳や研究を目的としたものではありませんので、一つの作品としてご覧いただければ幸甚です。

     ☆   ☆   ☆

     

 

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仲秋観月の宴 ・ 望月の宴 ( 1 )

2024-03-13 20:44:52 | 望月の宴 ①

       『 仲秋観月の宴 ・ 望月の宴 ( 1  ) 』

時は康保三年( 966 )、村上天皇の御代でございます。


いつしか年月も過ぎて、帝が世を治められてから二十年になったので、「帝の位から退きたいものだ。しばらくの間は、気ままに過ごしたい」と思いをもらされたが、時の上達部(カンダチメ・公卿)たちは、一向に同意なさろうとされなかった。

康保三年八月十五日の夜、月の宴(ツキノエン・仲秋観月の宴)を催そうとなさって、清涼殿の御前に皆を左右に組み分けされて、前栽(センザイ・庭前の植え込み。)を植えさせられた。
左の頭(トウ)には、絵所別当(エドコロベットウ・絵画の事を司る役所の長官。)蔵人少将済時(ナリトキ)が任命されたが、この人は小一条の左大臣師尹(モロタダ)の御子息で、今の宣耀殿女御(センヨウデンニョウゴ・芳子)の御兄である。
右の頭には、造物所別当(ツクモドコロベットウ・宮中の調度を調達する役所の長官。)右近少将為光が任命されたが、この人は九条殿(師輔・正二位右大臣。960年に没しており、この時はすでに故人。)の九郎君(九男)である。

双方劣らじ負けじとばかりに競い合い、(「前栽合」は、実際の前栽を競い合うのではなく、趣向を施した作り物を壷に据えて、その優劣を競うものである。)絵所の方では、洲浜を絵に描いて、種々の草花を本物以上に描いている。遣水(ヤリミズ・庭に造られた小さな流れ。)や巌もみな画いて、銀(シロガネ)で垣根の形を作り、そこにいろいろな虫などを住まわせ、大井川(桂川の上流)に舟遊びをしている絵を描き、鵜船にかがり火を灯した絵を描き、虫の絵のそばに和歌が書いてある。
造物所の方には、風情のある州浜を彫刻して、潮が満ちている形を作って、いろいろな造花を植えて、松や竹などを彫りつけて、たいそう趣きがある。このように趣向を凝らしているが、和歌は女郎花(オミナエシ)に付けている。

左方の歌は、
 『 君がため 花植ゑそむと 告げねども 千代まつ虫の 音にぞなきぬる 』
右方の歌は、
 『 心して 今年は匂へ 女郎花 咲かぬ花ぞと 人は見るとも 』

その後、管弦の御遊びがあって、上達部もたくさん参上されて、御引き出物も様々である。
こうした催しにつけても、中宮(安子。二年前に選子内親王を出産し、崩御。)御在世の時であれば、なおいっそう行事が引き立ってすばらしかったことであろうと、帝をはじめとして、上達部たちも故中宮を恋い慕って目を拭われた。人々が花や蝶よと楽しく過ごされるにつけても、帝は、ひたすら御退位のことをのみ願われていたのである。


華やかな「前栽合」の催しは、二十余年に及ぶ村上朝の終焉を伝えるかがり火だったのでしょうか。
聖帝と称えられた村上天皇の御代の終りは、いっそう激しさを増す摂関家による権力闘争の時代の幕開けでもあったのです。
そして、まるで天の配剤の如く、この年に藤原道長の殿が誕生なさったのでございます。

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村上帝崩御 ・ 望月の宴 ( 2 )

2024-03-13 20:44:27 | 望月の宴 ①

       『 村上帝崩御 ・ 望月の宴 ( 2 ) 』


世始りて後、この国の帝六十余代にならせたまひにけれど、この次第書きつくすべきにあらず、こちよりてのことをぞしるすべき。 


「栄花物語」は、この文章から始まっています。
「神々の世ではない人の世が始まってからこれまで、この国の帝は六十余代におなりになられましたが、その間の出来事を書き尽くすことは出来ることではないので、ここでは当今に近い時世についてのことを記すことにしよう」といった意味でございます。

「日本書紀」に始まり、「新日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」と
続く六国史(リッコクシ)には、歴代の帝の御行跡が記されておりますが、光孝天皇の御代を最後に、編年史は途絶えた状態になっおります。

さて、仁和三年(887)八月二十六日に光孝天皇が崩御され、その皇子が践祚・即位なされて宇多天皇の御代が十年続きました。
寛平九年(897)七月三日、宇多天皇は譲位なさって、その皇子が践祚・即位なされて醍醐天皇の御代が三十三年余続きました。
延長八年(930)九月二十二日、醍醐天皇は譲位なさって、その皇子が践祚・即位なされて朱雀天皇の御代が十五年余続きました。
天慶九年(946)四月二十日、朱雀天皇は譲位なさって、弟君が践祚・即位なさいました。村上天皇の御代の始まりでございます。

「延喜・天暦の治」という言葉がございますが、これは、醍醐天皇と村上天皇の治世を、それぞれの年号をとって言うものですが、後世、この二天皇の時代は、天皇親政を行ったことが評価されたようでございます。
その村上天皇の御代も二十年を過ぎ、終焉の時を迎えつつありましたが、それは、摂関家が大きな力を持ち、それゆえに激しい権力争いが繰り広げられる時代の到来でもありました。
ただ、その激動の萌芽期は、殿(道長)がまだ二歳の頃のことでございます。


時節が移り変わっていくうちに、月日過ぎて、康保四年( 967 )になった。この数か月、帝はご不例であられて、御物忌(モノイミ・物の怪に取りつかれ、陰陽師の判断によって一定期間籠ること。)もしばしば行われた。どうしたことかと、恐ろしいことと思われます。御読経、御修法(ミズホウ・密教の祈祷)など、たくさんの壇を設けて行わされた。しかし、まったく効験がなかった。
例の元方の霊なども出て参って、激しく大声を上げるので、やはりご自分の治世も尽きようとしているので、このような事があるのだと心細くお思いになった。

* 元方の霊とは・・・正三位大納言藤原元方( 888 - 953)は、娘の祐姫が村上天皇の更衣となり、950年に第一皇子・広平親王を生んだことから重用されたが、同年に誕生した藤原師輔の娘である中宮安子所生の第二皇子・憲平親王(冷泉天皇)が、師輔の権勢もあって生後二か月で皇太子に立てられてしまった。この事に深く失望した元方は、それにより病をえて悶死してしまった。953年のことで、享年六十六歳であった。そして、元方は怨霊となり、師輔や冷泉天皇やその子孫などに祟ったとされる。

かねがね帝は御退位を願っておられたが、今となってはどうでもよい事で、同じことであれば在位のまま世を終わろうと思われたのであろう。
容態がたいそう重いので、小野宮の大臣(オノノミヤのオトド・藤原実頼)が密かに奏上なされた。「もし万一の場合には、東宮にはどなたを」とご内意をお伺いなさると、「式部卿宮(シキブノキョウノミヤ・為平親王)をと思っていたが、今となってはとてもお立にはなれまい。五の宮(守平親王)を東宮にと思っている」と仰せになられたので、大臣は承った。
病状がまことに重い状態なので、皇子皇女方や、女御・更衣の方々もみな涙を流しておられる。中でも、尚侍(ナイシノカミ・登子。村上帝が周囲からの非難に対して特別に目をかけて支援していたので、特につらい状態であった。)は特にお気の毒で、世間の笑い者にならないかと思い嘆いているご様子は、いかにもおいたわしいことである。

されど、ついに帝は、五月二十五日に崩御された。
東宮(憲平親王)が位におつきになる。
何とも深い悲しみである。美しく照り輝いていた月日の面に群雲(ムラクモ)がにわかに現れて覆いかぶさったようである。また、宮中の灯火(トモシビ)を掻き消したかのようでもある。あまりの悲しさを言い尽くすことなど出来ない。
大勢の殿上人や上達部たちは、ただただ動転している。
「わが君のようなすぐれた帝に、これからお会い申すことが出来ようか。ぜひあの世にお供しよう」と、足摺りしつつ泣き悲しんでいる。
東宮の御事についてはまだ何の沙汰もないのに、世の人はみなそれぞれに思い定めているのも可笑しなことである。
「小野宮の大臣はすべて胸におさめておられるのに」という声も聞こえてくる。

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守平親王立太子 ・ 望月の宴 ( 3 )

2024-03-13 20:44:04 | 望月の宴 ①

       『 守平親王立太子 ・ 望月の宴( 3 ) 』

村上帝御崩御の後のことは、まことに悲しいことばかりでございます。
御葬送の夜は、葬儀官の除目があり、これまでの役職を解かれて、葬儀のあの役この役と分担されることになりました。いつもの司召(ツカサメシ・除目)には喜びがございますが、この度ばかりは皆さま涙を流しているのも、まことに悲しさが増します。殿上人や上達部の方々も、居残られる方のほかは、皆さまが御葬送に奉仕なさいました。

上皇の御葬送は、盛大であっても臣下と同様でございますが、この度は御在位中の崩御ということで、これまでにない盛大なものであったと、世間の人々は取りざたされておりました。
その後も、皇子皇女方や女御方の墨染の喪服姿も悲しいものでございます。同じ諒闇(リョウアン・天皇が父母の喪に服する期間)と申しましたも、この帝の場合は、たいそう仰々しいものでございましたから、天下の人々は誰もが烏のように黒々とした姿でありました。喪服を染めるための椎柴は、四方の山が採り尽くされたのではないかと思われるのも、悲しいことでございます。

御葬送や後々の法事もすべて終わり、少し落ち着いてくると、東宮をどなたにするかの決定があるはずである。
式部卿宮(シキブキョウノミヤ・為平親王)の御所では、内々に大臣(藤原実頼左大臣)の御意向を心待ちにされていたが、何の音沙汰もないので、どうしたものかと不安に胸がつぶれそうになっているらしい。
岳父である源氏の大臣(ゲンジノオトド・源高明)は、もし東宮に立てないとなれば、とんでもないことで、これほど無念なことはあるまいと、憂慮しておられたのである。

そうこうしているうちに、九月一日(康保四年・967)に東宮が決まった。五の宮(守平親王)が立太子されたのである。御年は九歳であられた。
帝の御年は十八歳であられた。この帝(冷泉天皇)が即位なされた同じ日に、女御も后となられ、中宮と申し上げる。昌子内親王(ショウシナイシンノウ・朱雀天皇の皇女)と申されるお方である。朱雀院の願われていたことで、宿願が叶って喜ばしいことである。
中宮大夫(チュウグウノダイブ・中宮職の長官)には、宰相朝成(サイショウ アサヒラ・宰相は参議の唐名)が就任された。東宮大夫(東宮坊の長官)には中納言師氏(モロウジ)が、東宮傅(トウグウフ・東宮坊における太政大臣的な地位)には小一条の大臣(師尹)が就任された。東宮坊のお二人は、九条殿(師輔)の御兄弟の方々である。ただし、九条殿の君達(キンダチ・ここでは御子たち)はまだ官位も低いので、これらのお役には就けなかったのであろう。

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冷泉天皇と物の怪 ・ 望月の宴 ( 4 ) 

2024-03-13 20:43:43 | 望月の宴 ①

        『 冷泉天皇と物の怪 ・ 望月の宴 ( 4 ) 』        


冷泉帝は、正常の御心地でいらっしゃる時は、先帝(村上天皇)に大変よく似ておられた。御容貌は、この帝の方が少々優っておられた。ただ、お気の毒な事に、この帝には物の怪がひどいことが、たいそう情けないことであった。
今年は、御禊(ゴケイ・大嘗会の直前に天皇が鴨川に行幸して行う祓。)も大嘗会(ダイジョウエ・天皇即位後初めて行われる新嘗祭。)も行われないまま過ぎてしまった。

やがて、同じ年(安和元年・968)の十二月十三日、小野宮大臣(オノノミヤノオトド・実頼)が太政大臣になられた。源氏の右大臣(高明)は左大臣になられた。右大臣には小一条の大臣(モロタダ)が就かれた。
源氏の左大臣は、地位は高くなられたが、女婿である為平親王が立太子出来なかったことに落胆され、ままならぬ世の中を心憂きものと思われているに違いない。
そうこうしているうちに年も改まった。

今年は年も改まって、安和元年という。
正月の司召(ツカサメシ・司召しの除目。在京の官職を任命する行事。)に、さまざまな喜び事があって、九条殿の御太郎(師輔の長男)伊尹(コレマサ)の君が大納言になられ、まことに華やかな上達部(公卿)でいらっしゃる。女君たちが大勢いらっしゃる。大姫君(長女のことで、懐子)を入内させようとのお考えがあり、支度を急がれるとのことである。二月にとのご予定である。
これをお聞きになって、中宮(昌子内親王)もしばらく御自邸に退出なされた。帝の御物の怪が恐ろしいので、里がちに過ごされるのであった。

二月一日に女御(懐子)は入内なさった。
帝は、このお方をたいそう御寵愛なさって、すぐにご懐妊の様子なので、父君である大納言伊尹殿は胸つぶれる思いで、御祈祷に奔走なさった。
帝も大変お喜びになられる。ご懐妊が三月になったので、宮中をご退出なさるのもおめでたいことで、九条殿の後々のご繁栄がうわさされたようでございます。

女御の御退出と入れ替わって、中宮(昌子内親王)の御方が帰参なさいました。中宮の御方のご様子は、周囲の変化など超越したかのように、変わらずおくゆかしく気高くあられます。

伊尹の大納言は一条に住んでおられましたので、一条殿と申されます。
その御娘であられる女御(懐子)は、大行事である大嘗会の準備も終わり、少し落ち着いた頃に御子をご出産なさいました。
男御子であられましたので、実に慶ばしいことで、太政大臣をはじめ、皆々様が参られて大騒ぎとなりました。七日の夜のお祝いには勧学院の学生たちや、式部省や民部省の役人も皆参上される。
一天下を治められる君がお生まれになられたのですから、慶賀申しあげられるのです。
祖父となられた伊尹大納言のご機嫌麗しいのも当然のことで、この皇子こそ後の花山天皇でございます。
この慶事は、藤原伊尹殿の大繁栄への転機でございますが、同時に、紆余曲折を経るとはいえ、我が殿道長さま出世の原点とも申すべき出来事であったのではないでしょうか。

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不運なり 源氏の大臣 ・ 望月の宴 ( 5 ) 

2024-03-13 20:43:15 | 望月の宴 ①

      『 不運なり 源氏の大臣 ・ 望月の宴 ( 5 ) 』


源氏の大臣(ゲンジのオトド・源高明)は、式部卿宮(為平親王・高明の娘婿)が東宮にお立ちになれなかったことを、大変ご不満に思われていたに違いない。
宮に対して帝がたいそう御寵愛なさっておられたことを、世間では語り草として取りざたされていたのに、ご期待どおりになれなかったので、宮はすべてこのように不運であるらしい。帝の位と申すものは、容易くおつきになれそうでいて、また難しいことだと思われるものであった。

「式部卿宮がまだ幼少であられた頃の御子の日(ネノヒ・正月最初の子の日に、郊外に出て、小松の根を引き、若菜を摘んで宴を催した。子の日の遊びという。)に、父帝と母后がご一緒に熱心にお世話なさって、宮をお出しなさいましたが、御馬まで召し出されて、御前で鞍など整えさせ、鷹飼や犬飼まで検分なさって、為平親王は弘徽殿の通路からご出立された。
御供には、左近中将重光朝臣、蔵人頭右近中将延光朝臣、式部大輔保光朝臣、中宮権大夫兼通朝臣、兵部大輔兼家朝臣など、実に大勢でいらっしゃった。それらお供の君達(公達)は、中宮(安子)の御兄たちであったり、同じく君達と申しても、延喜帝(醍醐天皇)の皇子の中務宮(代明親王)の御子である。今は皆さま一人前になっておられる殿方である。

立派な御狩装束を着用していて、実に見事な様子であった。
船岡山にて入り乱れて遊ばれる光景はたいそうに見物であった。
后宮(中宮)の女房たちは、車三つ四つにこぼれるばかりに乗って、大きな波模様を摺り染めた裳の袖や裾を簾の下から打ち出しているが、船岡の松の緑も色濃くて、宮の行く末も洋々としてすばらしいものであった」
と、語り続けるのを聞くにつけても、今は、そうした昔のすばらしいことなどが思い出される。
「四の宮(為平親王)は帝に就かれるお方だと思っていたが、一体どういうことがあったのか。源氏の大臣(源高明)の御婿になられたが、それが事を違えることになったようだ」などと、世間の人は無責任に、いいにくそうに取沙汰しているようである。

故村上天皇の中宮安子さま出生の皇子には、憲平・為平・守平の三人がおいででございます。村上天皇ご逝去により、立太子されていた憲平親王が冷泉天皇として即位なさいましたが、立太子されたのは三皇子の一番下の守平親王でございました。この時九歳でございました。
為平親王を娘婿に迎えられていた源氏の大臣源高明殿ばかりでなく、すでに十六歳になられていた為平親王を飛ばして弟君が立太子されたことには、世間の多くの人が驚いたのも、無理のないことでございましょう。

源高明殿は醍醐天皇の皇子であり、源氏の姓を賜った賜姓皇族であられます。また、冷泉天皇の父君である故村上天皇の異母兄であられます。そのお血筋や優れた御見識は、世間で高い評価を受けておりました。
その高明殿の娘婿が、近い将来皇位に就かれた時には、高明殿、そして醍醐源氏の権力は突出したものになることは想像に難くありません。
おそらく、それを懸念された方々が暗躍されたであろうことは、これも、十分想像できることでございます。

この立太子問題は、源高明殿にとって、不運の始まりだったのでしょうか。
そして、この御方は、我が殿(道長)とは御関係深いお方でもあるのです。

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安和の変 ・ 望月の宴 ( 6 ) 

2024-03-13 20:42:50 | 望月の宴 ①

        『 安和の変 ・ 望月の宴 ( 6 )  』


冷泉帝は、御物の怪に苦しめられることが並々ではございませんでした。
そのため、しかるべき殿上人や殿方が、夜昼怠りなく伺候しておられました。それは、まことに空恐ろしいお勤めでございましたので、
「今日は御譲位なされるのか、明日は御譲位なされるのか」などと、何とも畏れ多い噂をされているとか。
帝と申すものは、一代はおだやかに長く、一代は短くてすぐに御譲位なさるのも、必ずあることなどと取り沙汰されておりましたが、今年は安和二年であり、在位も三年となり、どうなっていくのかと思われるのでございます。

かかるほどに、世間では実にけしからぬ噂が広がっていた。
それは、源氏の左大臣(源高明)が、式部卿宮(為平親王)が立太子出来なかったことを根に持たれ、朝廷を傾けさせようと企んでいるという事件が出来(シュッタイ)して、世間では不穏なうわさで沸き返っている。
「いや、まさかそのようなけしからぬことはあるまい」など、世間の人が申し、思っているうちに、仏や神が見放されたのであろうか、あるいは噂通りに源氏の左大臣に、そのようなけしからぬ御心があったのだろうか、三月二十六日に、この左大臣の邸を検非違使が取り囲み、宣命(センミョウ・天皇の命令を宣べ聞かせること。)を大声で読んだ。「朝廷(ミカド)を傾けようと計画した罪によって、太宰権帥(ダザイノゴンノソチ・大宰府の長官。通常、「帥」は親王の官なので、「権帥」が下国して長官職を務めた。)として左遷する」と。

今は御位も剥奪された身の上の決まりとして、網代車(アジログルマ・粗末な車。)にお乗せして、むりやりにお連れしたので、式部卿宮の御心地は、ご自分に関係ないことが原因であっても、このような事態となればただならぬ御心境であろうに、ましてご自分の事により出来した結果だとお思いになると、どうしようもなく、自分も連れて行け、連れて行けと騒ぎ立てられた。
北の方や女君や男君たちのご悲嘆、言うすべもないほどの邸内の有様は、推察いただけよう。

その昔、菅原の大臣(菅原道真)が流罪になったことを、世の物語としてお聞きになっておられたが、この度の事は、あまりにも意外なことで過酷な目に遭い、途方に迷い、一同泣き騒いでいらっしゃるのはまことに悲しい。
男君たちで元服しているお方も、父と一緒したいとうろたえ騒ぎ立てられたが、まったくそばに寄せ付けようともしない。ただ、ご兄弟の中で末弟で、まだ童で左大臣殿の御懐を離れようとしない君が泣き騒ぐので、その旨を奏上すると、「されば、やむを得ない」とその子だけは許されたが、同じ御車ではなく、馬に乗ってついていく。この君は十一、二歳ばかりでいらっしゃったが、今の世で、悲しく異常な例である。(「この君」というのは、末弟・経房と十一、二歳の俊賢とが入り込んでいるらしい。)

人の死というものはごく普通のことであるが、この事件は、まことにまがまがしく情けなく思われる。
醍醐の帝と申されるは、たいそう賢明であられ、聖帝とさえ申された帝でであり、左大臣はその帝の皇子であり、第一の源氏となられたお方である。
このような出来事は、世にも奇妙で悲しく情けないことだと、世間では取り沙汰されている。

後に安和の変と呼ばれることになるこの出来事は、確かに、理解に苦しむ所の多い事件ではありました。
そもそも、事件を引き起こした原因とされる立太子そのものが、確かに不可解なものでございました。東宮に立たれた守平親王は御年九歳、為平親王は十八歳でありました。お二人は両親を同じくする御兄弟であり、為平親王は御壮健でありご賢明でもあられます。それなのに為平親王が東宮に選ばれなかった理由を求めるとすれば、源氏の左大臣高明殿が義父となられていることに他ならないのでしょう。
左大臣殿は、聖帝として敬われている醍醐天皇を父に持つ賜姓皇族で、冷泉天皇の父村上天皇の異母兄にあたります。今も朝廷における影響力の大きな御方でありますが、為平親王が東宮に立ち、やがて即位なされるとなれば、醍醐源氏の天下となる可能性は、十分に予測されることであり、それを恐れた方々がいることも、確かな事でありましょう。
それに致しましても、左大臣が朝廷を傾けようと計画なさるなどと、世間の人は信じたのでしょうか。

式部卿宮(為平親王)は、法師になられようとも考えられたようですが、幼い御子達がおり、左大臣殿が連行された数日後にはその御邸西宮殿が焼亡するなど、北の方やその母君などのお悲しみを、ただ一人で支えて行かねばならない事を思えば、とても、ご出家は叶うことではございませんでした。
とはいえ、そのお悲しみは深く、お庭の池も遣水も荒れ、あれほど丹精されていた前栽や植木も伸び放題でございました。
さらに、その御心は、さらに荒れ果てて、この世に生きながら、まるで別人のようになられた御身の上は、おいたわしい限りでございます。

そして、源氏の左大臣のたくさんの御子たちの中の末娘である姫君は、まだ五、六歳であられましたが、左大臣の御兄弟である十五の宮(盛明親王)に御娘がいらっしゃらないこともあって養女として迎えられ、姫宮として大切にされご立派に養育されるのでございます。
この姫宮の御名は明子さまと申されますが、後に、我が殿(道長)と結ばれることになるのでございます。

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世代交代 ・ 望月の宴 ( 7 ) 

2024-03-13 20:42:26 | 望月の宴 ①

          『 世代交代 ・ 望月の宴 ( 7 ) 』


安和の変は、世間の人にもやもやとしたものを抱かせながらも、源氏の左大臣高明殿が大宰権帥に左遷という悲しい結末となり、ほどなく、出家なさったとのうわさが伝わって参りました。
そして、この事件は、藤原氏による摂関政治への出発点ともいえる事件でもあったのです。

これということもなく月日は過ぎて、運命には定めがあるということか、帝がご譲位なさるとあって騒がしい。安和二年八月十三日のことである。
帝(冷泉天皇)がご譲位なさったので、東宮(守平親王)が即位された。御年十一歳である。
新東宮には、譲位された帝の幼い皇子がお立ちになった。師貞(モロサダ)親王である。外祖父となる伊尹(コレマサ)大納言の御幸いは並大抵ではない。
譲位の帝は冷泉院(二条北・大宮東にあった邸)にお住まいになられた。それゆえ冷泉院とお呼び申し上げる。
東宮の御年は二歳である。
太政大臣(実頼)は摂政の宣旨を受けられた。師尹(モロタダ)の大臣は左大臣であられる。
御禊、大嘗会(ゴケイ、ダイジョウエ・・大嘗会は天皇即位後初めて行われる新嘗祭。御禊はその直前に天皇が鴨川に行幸して行う禊。)なども間近に迫ったので、世間は沸き立っている。

そうした中で、小一条の左大臣殿(師尹)が十月十五日にお亡くなりになりました。日頃、ご病気がちであられましたが、御年五十歳での薨去で、ご兄弟であられる摂政殿(実頼)も喪に服され、大嘗会の折のこととて、実に残念でございましたことでしょう。
決まり通りに葬送の事など行われ、その年も暮れました。
今上の帝(円融天皇)は、まだ童でございますので、晦日の夜の追儺(ツイナ・内裏において悪鬼を払う儀式。)に殿上人が振鼓(フリツヅミ・追儺の時童子が持ち歩く道具。)を作って献上されたので、帝はそれを振って興じられている姿が、たいそう微笑ましうございました。

年が明けて元日になりますと、天禄元年という年でございます。
年の初めの清新な有様の中、小一条の左大臣の後任に在衡(アリヒラ・藤原氏)の右大臣が就かれましたが、ふとした病気がもとで、正月二十七日にお亡くなりになられたのです。御年七十八歳。年の初めと申しますのに、何とも不穏な事でございます。
この時、伊尹(コレマサ・道長の伯父にあたる。)殿は右大臣であられました。

さらに、摂政(実頼)殿までが、風の気(いわゆる風邪ではなく、神経系統の病か?)が起こりがちで、参内も容易でない状態におなりになりました。帝もたいそう御心配なされました。
世間では、万一のことがあれば、一条の右大臣(伊尹)殿が摂政になられるだろうと、然るべき人々は内々にご機嫌にうかがっているとのことでございました。
そうしたなか、摂政殿の御容態はさらに悪くなられました。お年もご高齢であり、皆さまご心配されておりました。ご兄弟の殿方は次々と他界なされ、この殿だけは長く政界の地位を保って来られましたが、人の寿命というものはどうにもならないことで、五月十八日にお亡くなりになりました。御年七十一歳であられました。
この殿の御次男は左大将頼忠殿でございますが、摂政をお譲りなさることもなく薨去なさったのは、あまり例のないことでございます。

そして、七月十四日には師氏の大納言殿お亡くなりになりました。
この大納言殿は御年五十五歳であられましたが、これにより貞信公(テイシンコウ・藤原忠平)の御子は男君四人(五人が正しいが、夭折したらしい師保を除いているらしい。)でございますが、皆さま亡くなられてしまいました。
まるで、次の世代への移り変わりを急いでいるかのような出来事が続いたのでございます。

     ☆   ☆   ☆


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九条家一族の台頭 ・ 望月の宴 ( 8 ) 

2024-03-13 20:42:06 | 望月の宴 ①

          『 九条家一族の台頭 ・ 望月の宴 ( 8 ) 』


このような事(次々と公卿たちが亡くなったこと)があったが、五月二十日(天禄元年、970)、一条の右大臣(伊尹)が摂政の宣旨を受けられて、一天下はご自分の思いのままであられる。東宮(師貞親王)の御祖父であり、帝(円融天皇)の御伯父にあたり、全くこの上ないご愛顧を蒙ってお過ごしになられる。
このような御有様につけても、九条殿(師輔)の御一族のみがたいそうなご繁栄であられる。

左大臣には、源氏の兼明(カネアキラ)と申されるお方が就かれた。このお方も醍醐帝の皇子であられ、源姓を賜って臣下になられたのである。御筆跡をたいそう上手にお書きになられる。道風(ミチカゼ・小野道風)などといった人の筆跡を、世間では優れたものともてはやしているが、この殿はまことにみずみずしく優雅にお書きになられる。
右大臣には、小野宮の大臣(実頼)の御子、頼忠がお就きになった。

やがて、天禄二年になった。
帝は御年十三になられましたので、御元服の儀がありました。
九条殿の御次郎(次男)君というのは、今の摂政殿(伊尹)のすぐの弟で、兼通と申し上げるお方で、今は宮内卿(宮内省の長官)とお呼びしているが、その御姫君(媓子(コウシ)
・947年生まれ。史実では天禄四年の入内となっている。)を入内おさせになった。 
摂政殿の姫君たちは、まだたいそう幼く、とても入内おさせになることはできず、まことに無念な思いであろう。
宮内卿は堀河にある邸を立派に造ってお住みになっていた。女御(媓子。入内直後に女御に。)はたいそう美しくあられたので、帝はまだ少年であられたが、愛しく思い申し上げていた。

帝には、御同腹の第九皇女(同母姉の資子内親王)、このお方は先帝(村上天皇)もたいそう可愛がっておられたが、この帝もお互いに格別仲良くなされていたので、一品(イッポン・皇族に与えられた最高の位。正従一位に同格で待遇では上回ることもあった。)の位をお与えになられた。宮中のたいそう心寂しいなかで、この姫宮は美しく輝いていらっしゃいます。
そして、その妹君である第十皇女(選子内親王)は、この御時に斎院にお決まりになったのである。

九条殿(師輔)の御三郎(三男)で兼家の中納言と申すお方が、たいそう大切にお育てになっている姫君が二人いらっしゃる。今の東宮(師貞親王)はまだ幼いし、帝には堀河の女御(媓子・兄の娘)がいらっしゃるので、張り合うことになりそうだとして、上皇である冷泉院に参らせ申し上げたが、異例なことだと世間では取り沙汰された。

摂政殿(伊尹)の女御と申されるお方(懐子)は、東宮の御母女御であられるが、同腹の女宮がお二人お生まれになった。しかし女一の宮(宗子内親王)は間もなく亡くなられ、女二の宮(尊子内親王)だけがいらっしゃる。
その女宮は院が帝であられた時のお生れではなかったが、後にお生れになったこの女宮は、たいそう愛らしくまるで光るように美しいお方である。東宮がこのように宮中においでになるので、御母女御は時々はお会いに参内申されるが、ふだんはご自邸でこの姫宮をお相手に寂しさを慰めていらっしゃった。

権勢を誇った貞信公(藤原忠平)の御子方も、師氏の大納言を最後に皆さまお亡くなりになられました。
それにより、世代が変わっていく中で、九条殿(師輔)のご一族の台頭が目立って参りますとともに、九条殿のお子様方の宮中における激しい争いの時代を迎えることになります。
つまり、我が殿(道長)の御父上やご兄弟方の激しくそして絢爛な時代の幕開けでもございました。

     ☆   ☆   ☆









 

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哀れなり永平親王 ・ 望月の宴 ( 9 ) 

2024-03-13 20:41:39 | 望月の宴 ①

         『 哀れなり永平親王 ・ 望月の宴 』 


摂関家や公卿方が激しく変わる中、かの村上の先帝の皇子の八の宮(永平親王)、このお方は宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・芳子)の御腹の親王であられるが、まことに見事な器量の持ち主でありながら、どうしたことか、ご気性が合点のいかぬ有様に成長なさった。
御叔父にあたる済時(ナリトキ)の君、
今は宰相(サイショウ・参議の唐名)であられるが、この方が万事お世話をなされ、小一条の御邸に住まわれていたが、この宰相は枇杷の大納言延光の娘を妻として通われていた。この妻の母は、中納言敦忠の御娘であるが、二人の間にはたいそう可愛らしい姫君がおり、捧げもののように大切にされていた。

かの八の宮は、母女御を亡くされていたので、この小一条の宰相のみが全てのお世話をなさっていたが、まだ若年でありながら、この八の宮はわずらわしいほどにこの姫君に執心なさるので、宰相はいまわしく思われて、決して姫君に会わせないようにしたのである。
八の宮は幼い時から可愛げのない性質で、素直さもなく、暗愚の君と見えたが、そうとはいえ、姫君を恋するといった気持ちを抱いていることを、宰相は不愉快に思われていたのである。

宰相の甥にあたる実方(サネカタ)の侍従も、この宰相を親として慕っておられた。この姫君の兄で長明君という男君がいた。祖母北の方(敦忠の御娘)は実方と長明君のお二人を手元に引き取って、枇杷殿で養育されていた。
その二人の君達(公達)もこの八の宮を、時にはなぶりものし、馬鹿にして嘲笑されていたが、どうも憎らしいことに、八の宮は姫君を気に入られ慕われて、常に側に近寄って来られるので、宰相は全く不快なことだと思われたのである。

八の宮君は、この頃、十二歳ぐらいでございました。宰相殿は宮のご気性をたいそう心配なさっておりました。
実方殿と長明君などが集まって、「馬に乗ることをお習いなさい。宮さまというものは、しかるべき折には馬に乗らねばなりません」と言って、庭先でお乗せしてはやし立てたものですから、八の宮君は顔を真っ赤に染めて、馬の背中にひれ伏されるのを、周りの者が声を挙げて笑うので、宰相殿はいたたまれなくなり、「抱いてお下ろしせよ。恐がっておられるだろう」と仰せられたので、笑いながらお下ろしすると、宮は馬のたてがみを口いっぱいに含んでいらっしゃったので、宰相殿はやりきれないお気持ちになられた。女房達も大笑いしていた。

こうした時でしたが、冷泉院の后宮(昌子内親王)が、御子がいらっしゃらず、お寂しいことでもあり、「この八の宮を養子にして、自分のもとに通わせよう」と仰っているらしいことを宰相殿は伝え聞かれて、「それはまことにありがたいことだ。あの后宮は財宝をたくさんお持ちのお方だ。故朱雀院の御宝物はすべてあの后宮のもとにあるそうだ。八の宮は幸せ者だ。宝の王になられるだろう」と仰せられて、吉日を選んで初参上なさった。
后宮は、母女御に先立たれたとはいえ、小一条の宰相が教え育てられた宮のお人柄は良いのであろう、と思ってお迎えになった。
宰相殿が格別に装いを凝らしてお連れしたので、ご引見なされたところ、ご容姿は全く憎らしいといったところはない。御髪(オグシ)などたいそう美しく、膝辺りまであるのは可愛らしい直衣姿ではある。
すぐにお呼び入れになり、南面(ミナミオモテ)
の昼の御座(ヒノオマシ)の所に大切にお座らせになり、お供の人々に禄を与えられたり、贈物などしてお帰しになった。
ただ、后宮が声をおかけになられても、八の宮君は顔を赤くされるだけで何もお答えになられなかったが、たいそう高貴でおおらかなご気性のせいだとお取りになっていました。その後も時々参上なさったが、その時も何もお話にならないので、「どうもおかしい」と思われるようになっておられました。

そのうちに、后宮がご病気をなさったので、宰相殿は八の宮君をお見舞いに遣わされました。八の宮君は、「あちらに参上したら、どう申し上げればよいだろう」とお尋ねになられたので、宰相殿は、「『御病気の由を承りましたので』と申し上げればよいのです」などと教えられた。
八の宮君は后宮のもとに参上し、はきはきと教えられた通りを申し上げると、后宮はご気分が勝れない中ながらも、たいそうお喜びになられました。
御前を退出した後、宰相殿に、「教えられたことを、本当にうまく言ってやった」と仰るので、宰相殿はその愚かさにあきれて、「どうして『言ってやった』などと申されるのですか。后宮は畏れ多いお方ですのに」とたしなめられると、「うんうん、そうだそうだ」と仰る様子は、苦労してお育てしている甲斐がなくなるほど、がっかりなさいました。

やがて、天禄三年になり、元日のご挨拶のため、宰相殿は八の宮君を立派に着飾らせて后宮のもとに参上させられました。その時には、ご挨拶の言葉などは教えられませんでした。
后宮は、八の宮君がそれはそれはご立派なご様子で拝賀なるのをまことに愛おしく見守られておりました。周りには大勢の女房方が美々しく着飾って居並んでいて、御簾の内に入られるようお勧めになる。八の宮君がいかにも様子ぶって入る姿も様になっていて、どうご挨拶なさるのかと興味津々のご様子です。
八の宮君は、ことさらに声を作って、「御病気の由を承りましたので」と申されたのです。昨年の御病気お見舞いの言葉をそのまま申し上げたものですから、后宮は憮然として何も仰せになりませんでしたが、女房方は笑い出し、「世間の語り草とならずにはすまない宮の御言葉かな」とささやき合い、大笑いとなりました。
八の宮君は、居心地悪く真っ赤になって座っていましたが、「叔父の宰相が、昨年お見舞いに参上した時に申し上げよと言っていたことを、今日言ったからといって、どうしてそれがおかしいのか。何かと人を馬鹿にしたがり、笑いたがる女房がたくさんいる御所ではないか。くだらない。もうここへは参るまい」とご機嫌を損ねて退出していった。

小一条のお邸に戻り、「驚きいったことがありました」と仰るので、宰相殿が「何事がありましたか」とお尋ねすると、「これからは后宮の御所へは絶対に参上しない。もう私をひと思いに殺してください」と言うので、宰相殿も驚いて何事かとさらに尋ねると、御所での出来事を話されたので、実に情けなく思われた宰相殿のお気持ちは察するに余りあると申せましょう。

この八の宮君の母君は、宣耀殿の女御と申されるお方でございますが、大変麗しいお方で、特にその御髪の長いこと美しいことは並ぶ者などございませんでした。またたいそう聡明でもあられ、古今和歌集二十巻をすべて暗誦されているという噂をお聞きになった村上帝が、実際に試されましたが、一字一句違うことなくお答えになったそうでございます。
八の宮君は、ご誕生の翌年には親王宣下を受けられるなどこの上ないご出生でありながら、誕生後二年ほどの間に、御父の村上帝、御母の宣耀殿の女御を亡くされており、ご両親のいない環境が、この皇子の御心を傷つけて行ったのでございましょうか。
何かとその資質を謗られる皇子でございますが、哀れでならないのでございます。

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