『 村上帝崩御 ・ 望月の宴 ( 2 ) 』
世始りて後、この国の帝六十余代にならせたまひにけれど、この次第書きつくすべきにあらず、こちよりてのことをぞしるすべき。
「栄花物語」は、この文章から始まっています。
「神々の世ではない人の世が始まってからこれまで、この国の帝は六十余代におなりになられましたが、その間の出来事を書き尽くすことは出来ることではないので、ここでは当今に近い時世についてのことを記すことにしよう」といった意味でございます。
「日本書紀」に始まり、「新日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」と続く六国史(リッコクシ)には、歴代の帝の御行跡が記されておりますが、光孝天皇の御代を最後に、編年史は途絶えた状態になっおります。
さて、仁和三年(887)八月二十六日に光孝天皇が崩御され、その皇子が践祚・即位なされて宇多天皇の御代が十年続きました。
寛平九年(897)七月三日、宇多天皇は譲位なさって、その皇子が践祚・即位なされて醍醐天皇の御代が三十三年余続きました。
延長八年(930)九月二十二日、醍醐天皇は譲位なさって、その皇子が践祚・即位なされて朱雀天皇の御代が十五年余続きました。
天慶九年(946)四月二十日、朱雀天皇は譲位なさって、弟君が践祚・即位なさいました。村上天皇の御代の始まりでございます。
「延喜・天暦の治」という言葉がございますが、これは、醍醐天皇と村上天皇の治世を、それぞれの年号をとって言うものですが、後世、この二天皇の時代は、天皇親政を行ったことが評価されたようでございます。
その村上天皇の御代も二十年を過ぎ、終焉の時を迎えつつありましたが、それは、摂関家が大きな力を持ち、それゆえに激しい権力争いが繰り広げられる時代の到来でもありました。
ただ、その激動の萌芽期は、殿(道長)がまだ二歳の頃のことでございます。
時節が移り変わっていくうちに、月日過ぎて、康保四年( 967 )になった。この数か月、帝はご不例であられて、御物忌(モノイミ・物の怪に取りつかれ、陰陽師の判断によって一定期間籠ること。)もしばしば行われた。どうしたことかと、恐ろしいことと思われます。御読経、御修法(ミズホウ・密教の祈祷)など、たくさんの壇を設けて行わされた。しかし、まったく効験がなかった。
例の元方の霊なども出て参って、激しく大声を上げるので、やはりご自分の治世も尽きようとしているので、このような事があるのだと心細くお思いになった。
* 元方の霊とは・・・正三位大納言藤原元方( 888 - 953)は、娘の祐姫が村上天皇の更衣となり、950年に第一皇子・広平親王を生んだことから重用されたが、同年に誕生した藤原師輔の娘である中宮安子所生の第二皇子・憲平親王(冷泉天皇)が、師輔の権勢もあって生後二か月で皇太子に立てられてしまった。この事に深く失望した元方は、それにより病をえて悶死してしまった。953年のことで、享年六十六歳であった。そして、元方は怨霊となり、師輔や冷泉天皇やその子孫などに祟ったとされる。
かねがね帝は御退位を願っておられたが、今となってはどうでもよい事で、同じことであれば在位のまま世を終わろうと思われたのであろう。
容態がたいそう重いので、小野宮の大臣(オノノミヤのオトド・藤原実頼)が密かに奏上なされた。「もし万一の場合には、東宮にはどなたを」とご内意をお伺いなさると、「式部卿宮(シキブノキョウノミヤ・為平親王)をと思っていたが、今となってはとてもお立にはなれまい。五の宮(守平親王)を東宮にと思っている」と仰せになられたので、大臣は承った。
病状がまことに重い状態なので、皇子皇女方や、女御・更衣の方々もみな涙を流しておられる。中でも、尚侍(ナイシノカミ・登子。村上帝が周囲からの非難に対して特別に目をかけて支援していたので、特につらい状態であった。)は特にお気の毒で、世間の笑い者にならないかと思い嘆いているご様子は、いかにもおいたわしいことである。
されど、ついに帝は、五月二十五日に崩御された。
東宮(憲平親王)が位におつきになる。
何とも深い悲しみである。美しく照り輝いていた月日の面に群雲(ムラクモ)がにわかに現れて覆いかぶさったようである。また、宮中の灯火(トモシビ)を掻き消したかのようでもある。あまりの悲しさを言い尽くすことなど出来ない。
大勢の殿上人や上達部たちは、ただただ動転している。
「わが君のようなすぐれた帝に、これからお会い申すことが出来ようか。ぜひあの世にお供しよう」と、足摺りしつつ泣き悲しんでいる。
東宮の御事についてはまだ何の沙汰もないのに、世の人はみなそれぞれに思い定めているのも可笑しなことである。
「小野宮の大臣はすべて胸におさめておられるのに」という声も聞こえてくる。
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