雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

敦成親王家の誕生 ・ 望月の宴 ( 115 )

2024-07-18 08:14:14 | 望月の宴 ③

     『 敦成親王家の誕生 ・ 望月の宴 ( 115 ) 』


さて、殿(道長)は若宮(敦成親王、のちの後一条天皇)をお抱き申し上げられて、帝(一条天皇)の御前にお連れ申し上げる。若宮の御声は、まことに若々しく愛らしい。
弁の宰相の君が御剣(ミハカシ)を持って参上なさる。母屋(モヤ・寝殿造りの中央の間。)の中隔ての戸の西に、殿の上(道長の妻倫子)がいらっしゃるが、そこへ若宮をお連れ申し上げる。

帝が若宮を御覧におなりになる御心地はどのようなものか、ご推察いただきたい。
これにつけても、「一の御子(敦康親王。一条天皇の第一皇子で、母は定子中宮。)がお生まれになった時、すぐにも御対面なさらず様子もお聞きになられなかったことだ。やはり、仕方のないことだ。こういうお血筋には、頼りになる外戚の人がいてこそ、張り合いがあるというものだろう。貴い国王の位といえども、後見となって引き立てる人がいなければ、どうすることも出来ないのだ」とお思いになり、第一御子とこの若宮の行く末までのことなどを考えざるを得ず、人知れず第一御子をふびんにお思いになられるのであった。

帝は、中宮(彰子)と御物語などして、たいそうくつろいでおいでになるうちに、すっかり夜になってしまったので、万歳楽、太平楽、賀殿などの舞があり、様々に奏でられる楽の音色がすばらしく、笛の音も鼓の音も興趣たっぷりに聞こえてくる上に、松風が爽やかな音を立てて吹いていて、池の波までが声を合わせている。
「万歳楽の声と一緒になっています」と、若宮のお声を聞いて、右大臣(藤原顕光。道長とは従兄弟の関係。)がちやほやなさる。左衛門督(藤原公任)、右衛門督(藤原斉信)が万歳千秋などを声を合わせて吟じられる。
主人の大殿(道長)は、「これまでの行幸を、どうしてすばらしいと思ったのだろう。今回のこれほどすばらしいことがあるというのに」と仰せられて、感激に泣きそうになられるのを、もっともなことだと、殿方たちは同じ思いで御目を拭っておられる。

こうして、殿は奥にお入りになり、帝がお出ましになられて、右大臣を御前にお召しになったので、右大臣は筆をとって加階の名簿をお書きになる。
宮司(ミヤヅカサ・中宮職の官人)、殿の家司(ケイシ・道長家の家司。子息たち、彰子の母倫子も従一位になった。)、然るべき者すべてが昇進した。頭弁(源道方)に命じて、この加階のことを中宮に申し上げられたようである。
新しい御子の御喜び(この日、若宮に親王宣下があった。)に、藤原氏の上達部が連れ立って拝礼申し上げる。同じ藤原氏であっても、門流が別の人々は、拝礼の列にはお立ちにならない。
次に、別当(新しく出来る敦成親王家の家政組織の長。)におなりになった中宮大夫兼右衛門督(藤原斉信)、権大夫兼中納言(源俊賢)、権亮侍従宰相(藤原実成)などが加階なさって、御礼の舞をなさる。
帝が中宮の御部屋にお入りになって間もないうちに、「夜もたいそう更けた」「御輿を寄せます」などと、人々が大声を出しているので、殿も帝のお見送りのために部屋から出ていらっしゃる。

翌朝、帝の御使者が、朝霧も晴れないうちに参上した。若宮を恋しくお思いのゆえのことだろうと推察される。
その日に、若宮の御髪(ミグシ)を初めて削ぎ奉る。特別に行幸の後にということで遅くなったのであろう。(新生児の髪を削ぐのは、ふつうは七日目頃であるが、髪がある方が可愛らしく見えるので、ひと月も遅らせたらしい。)
そして、その日には、若宮付の家司として、おもと人、別当、職事(シキジ・蔵人などか?)などお決めになる。ここ数日の御部屋の調度などが乱れがちで、普通の状態ではなくなっているのを、元通りに改め、きらびやかに飾り立てられる。
殿の上(倫子)は、長い間心待ちになさっていた皇子誕生が実現なさったので、何よりも嬉しく、明け暮れに参上して若宮を見奉っていらっしゃるのも、まことに満ち足りた御有様である。

     ☆   ☆   ☆

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一条天皇の行幸 ・ 望月の宴 ( 114 )

2024-07-06 07:59:41 | 望月の宴 ③

     『 一条天皇の行幸 ・ 望月の宴 ( 114 ) 』


若宮誕生の御祝いが続いていたが、やがて、行幸も近づいたので、御邸内をあれこれと手直しし美しく飾り立てられ、見るからに素晴らしい。
その有様は、まるで法華経がおわすかのようで、老いが遠ざかり寿命が延びるであろうと思われるような御邸の有様である。

こうして、この度の行幸は、帝が若宮をたいそうお気にかけられ、早く御覧になりたいとお思いになっての事なので、これまでの行幸よりも殿の御前(道長)はたいそうお急ぎになり、まだかまだかとお急がせになって、満足に御寝にもならず、この事のみに御心をくだかれたのも、当然のことと言えよう。
行幸は神無月の末とのことである。(史実は、十六日。)
こうして、この度の行幸の折に用いるべく造らせた船を岸に寄せて御覧になられる。竜頭と鷁首(ゲキス・鷁は想像上の水鳥。)が船首に飾られていて、生きている姿が想像されて、際立って麗しい。

行幸は寅の時(午前三時から五時頃の間となり、誤記と思われる。)ということなので、昨夜のうちから落ち着かず身支度をして騒ぎ立っている。
上達部の御座は西の対なので、この度は東の対の中宮付の女房たちは、少しは気を緩めることが出来ているのだろう。
督の殿(尚侍、妍子。道長の次女で後の三条天皇の中宮。西の対に住んでいたらしい。)の御方付の女房たちは、中宮付の女房よりも、あれこれと用意を調えているとのことである。
寝殿の御設備などは、いつもより趣向を凝らして、御帳の西の方に帝の御席として御倚子(イシ・椅子)を立てられている。そこから東の方にあたる際に、北南に御簾を懸け渡して女房たちが並んでいて、その南の端にも簾が垂らしていて、それを少し引き上げて内侍が二人出て来た。

髪上げをして、美しく正装した二人の姿は、まるで唐絵の中の人物か、もしくは天女が天降ったかのように見えた。
弁内侍、左衛門内侍(ともに内裏の女房。)などが参上した。それぞれ様々の容姿である。衣装の色合いなど、いずれもそうそうは見られない見事さである。
近衛府の役人たちはまことにふさわしい礼装で、諸々の事を行っている。頭中将頼定君(源頼定。正四位下、蔵人頭、左近衛中将兼美作守。)が御剣(ミハカシ)を取って内侍に伝えなどしている。

御簾の内を見渡すと、例によって、禁色を許された女房は、青色や赤色の唐衣に、地摺(ジズリ・型紙などを用いて模様を摺り出す手法。)の裳を着用して、表着(ウワギ)は皆同じように蘇芳(スオウ・襲の色目で、表が薄茶、裏が濃赤。)の織物である。打物(ウチモノ・打衣。砧で打って艶を出した衣。袿の上、表着の下に着る。)は、濃い紅、薄い紅と紅葉を混ぜ合わせたようである。また、いつもの青色や黄色の物も混ざっている。

禁色を許されていない女房は、無紋(織物であるが織文様のない唐衣。)や平絹(綾織りでない平織りの唐衣。)など様々である。下着(唐衣の下)はみな同じさまである。大海の摺裳(オオウミのスリモ・大きな波の文様を摺りだした裳。)は、水の色も鮮やかで、これもたいそう風情があるように見えた。
帝付きの女房でも中宮付を兼ねている者は、四、五人参集した。内侍二人、命婦二人、御給仕役が一人である。帝に御膳を差し上げるために、みな髪上げをして、先ほど内侍が出てきた御簾際から出入りして参上し、御給仕役の藤三位は、赤色の唐衣に黄色の唐綾の袿で、菊(表が白、裏は蘇芳または青または紫。)の袿が表着である。筑前や左京(ともに命婦らしい。)なども、さまざまに装いを凝らしている。ただ、柱に隠れて、よくは見えない。

     ☆   ☆   ☆



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若宮の誕生祝い続く ・ 望月の宴 ( 113 )

2024-06-24 08:03:41 | 望月の宴 ③

     『 若宮の誕生祝い続く ・ 望月の宴 ( 113 ) 』


十六日には、明日の御七夜にはどのようになるのかと、昨夜の装束とは違えての支度に備えている。
ただ、この日の夜はこれといった予定はなくゆとりがあるので、女房たちは池に船を浮かべて遊び、左の宰相中将(源経房。従三位、参議、左近衛中将兼近江権守。)、殿の少将の君(教通。道長の息子。従四位下、右近衛中将。)なども加わって、船を乗りまわされた。さまざまにおもしろく楽しいことがたくさんあった。

そして、七日目の夜は、朝廷による御産養である。
蔵人少将道雅(藤原伊周の息子。正五位下、蔵人兼右近衛少将。)が勅使として参上された。松君(道雅の幼名)のことである。
贈り物を書いた目録を柳筥(ヤナイバコ)に入れて参上なさった。そして、直接中宮に申し上げられた。
勧学院の学生どもも徒歩で参上し、見参の文(参加者の名簿)を啓上して、禄などを賜ったのであろう。先夜の産養の時にも増して仰々しく騒ぎ立てている。

帝付の女房もみな参上する。藤三位(藤原繁子)、命婦(ミョウブ・五位以上とされる中臈女房。)、蔵人(女蔵人。内侍・命婦のもとで雑用を勤める下臈女房。)が二台の車で参上した。
船遊びをしていた女房たちも、皆おどおどしながら部屋に入った。
帝付きの女房たちに、殿(道長)が面会なさったが、何の憂いもなさげのご様子で、笑みの眉が開ける(にこにこ顔の表現らしい。)お顔でいらっしゃるので、お会いした女房たちは、いかにもそうであろうと感激してお見受けした。贈り物の数々を身分に応じて贈られた。

またの日(翌日の意味だが、船遊びのあった翌日の意味らしく、七夜産養の当日のこと。)の中宮(彰子)の御有様は、たいそう格別とお見受けされる。御帳の内で、ほんとに小柄で面やつれして横になっていらっしゃるが、まことにふだんよりほっそりと気高くお見えになる。
おおよその事は、先夜と同じである。中宮から上達部への禄は、御簾の内よりお出しになったので、左右の頭(蔵人頭のことであろうが、中宮職の宮司が取り次いだと考えられる。)二人が取り次いで差し上げる。通例の如く、女の装束に若宮の御衣を添えていたのであろう。殿上人への禄は通例通りであったということである。
朝廷からの贈り物は、大袿(オオウチキ・大きく仕立てた物で贈答用。)、衾(フスマ・寝具。ここでは若宮用か?)、腰差など、慣例通りの公式のものであろう。
御乳付の三位(オンチツケノサンミ・橘徳子)には、女の装束に織物の細長(ホソナガ・幼児用の着物で長く作っている。禄によく使われる。)を添え、銀製の衣筥に入れて、包みなども同じように白いが、それとは別に包まれた物もお添えになる。

八日目には、女房たちは、白一色の衣装からいつもの様々な色の衣装に着替える。

九日目の夜は、東宮権大夫(頼通。道長の嫡男、彰子の弟。)が御産養を奉仕なさる。
これまでとは趣向をお変えになっている。
今宵は上達部は御簾のそばにお座りである。白い御厨子二つに贈り物をお置きになる。
儀式は、これまでと違って、いかにも現代風である。銀製の御衣筥に海賦(カイフ・波に藻や貝を施した文様。)の文様を打ち出して、蓬莱山などはこれまで通りだが、技巧を凝らしていて、それだけを取り立てて説明することは出来そうもない。
今宵は御几帳がすべて平常の有様になっていて、女房たちは濃い紅の袿を着ているのが、これまでは白一色だったので、久しぶりにとても優美で、透けて見える薄物の唐衣などが、つやつやと連なって見える。

こうして数日が過ぎたが、中宮はやはりたいそうご用心なさって、神無月(十月)の十日過ぎまでは、御帳台からお出にならない。殿(道長)は、夜となく昼となく何度もお越しになり、若宮を御乳母の懐から受け取って抱き、何とも愛おしげなのも、全く当然のこととお見受けする。若宮の御尿などに濡れても、嬉しそうになさっている。

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絢爛豪華な産養 ・ 望月の宴 ( 112 )

2024-06-12 08:01:29 | 望月の宴 ③

     『 絢爛豪華な産養 ・ 望月の宴 ( 112 ) 』


若宮が誕生なさり、三日目におなりの夜は、中宮職の役人が、大夫(従二位藤原斉信)をはじめとして、御産養(ウブヤシナイ・出産後、三夜、五夜、七夜、九夜に行う祝いの儀式。)を奉仕なさる。
右衛門督(ウエモンノカミ・斉信のことで、権中納言、中宮大夫、右衛門督を兼ねていた。)は中宮への御食膳を奉仕なさったが、沈香の材で作った懸盤(カケバン・お膳)、銀の御皿などは、詳しくは見ていない。
源中納言(中宮権大夫源俊賢。正三位権中納言兼治部卿兼務。)、藤宰相(中宮権亮藤原実成。正四位参議兼右近衛中将を兼務。)は、若宮の御衣(オンゾ)、御襁褓(オンムツキ・若宮をくるむための布。)を奉仕。衣筥の折立、入帷子、包、覆いをした机(いずれも、御衣・御襁褓を入れるための物。)など、すべて白一色ではあるが、その作り方には奉仕される人々の趣向が尽くされている。

五日目の夜の御産養は、殿(道長)が執り行われた。
十五夜の月が曇りなく澄み渡り、秋深い庭の露の光りがまことに美しい折である。
上達部、殿上人が参上する。東の対屋に、西向きに北を上席として着座なさった。南の廂に北向きに、殿上人の席は西が上座になっている。
白い綾を張った御屏風を、母屋の御簾に添えて立て渡している。月の明かりが清々しく、池の汀(ミギワ)近くに篝火が灯されているが、そこに勧学院(藤原氏の子弟のための大学寮。)の学生たちが徒歩で参上した。見参の文(ゲザンノフミ・参加者の名簿)など啓上する。これに対して禄などが下賜された。学生たちの今宵の有様は、いつもにも増して仰々しく見受けられた。

ものの数にも入らないような上達部のお供の男たちや、随身、中宮職の雑事を務める者たちが、ここかしこに集まっていて、みな笑顔である。ある者は落ち着きがなく忙しそうに動き回っているが、それらの身分の者にはそれほどの喜びではないだろうが、それでも、新しく若宮が誕生したことは、光もたいそう明るいので、そのお陰をいただけるに違いないと思って、その事が嬉しくありがたいことなのだろう。
所々の篝火も、たちあかし(地上に立てて灯す松明。)も、さらに月の光もたいそう明るいので、御邸に仕える人々は、それほどの身分とも言えぬ五位の者なども、腰をかがめ、良い時期に巡り合ったものだという顔つきで、目的もなく行ったり来たりしているのも感慨深く見える。

年若く晴れの儀式にふさわしく安心できるような女房が八人、御膳を差し上げる。みな気持ちを合わせて髪上げ(女房の礼装)をして、白い元結いをしている。白木の御膳を持って続いて参上する。
今夜の御給仕役は、宮内侍(ミヤノナイシ・元東三条院詮子の女房、橘良芸子らしい。)で、堂々として気高く近寄り難いほどである。髪上げをした女房たちは、醜くない者たちなので、見る甲斐のあるすばらしい有様である。

上達部(カンダチメ・公卿)たちは、殿(道長)をはじめとして攤(ダ・サイコロを使う賭け事の一種。産養の恒例の遊び、らしい。)をお打ちになるが、賭物の紙について言い争うのは、聞き苦しく騒々しい。
和歌なども詠まれた。しかし、騒々しさに紛れて、その歌を探すも、書き方が乱雑でもあり、書き残すことが出来ない。
「女房よ、盃を受けよ」などと言って、和歌を詠むよう促しているが、座が乱れていて躊躇している。
『 めずらしき 光さしそふ 盃は もちながらこそ 千代をめぐらめ 』
( めったにない 光が差し加わって 若宮を祝う盃は 次々と持ち伝えて 千代をめぐるでしょう )
と、紫式部が口にささやき心に思うにつけ、四条大納言(藤原公任。この時はまだ中納言だった。)が御簾のそばにいらっしゃったので、歌の出来映えよりも、読み出すときの声づかいを恥ずかしく思われることだろう。

こうして、すべての行事が終り、上達部には女の装束に御襁褓が添えられた。殿上人の四位の者には袷の一襲と袴、五位の者には袿一襲、六位の者には袴と単衣である。これらは、しきたり通りであろう。
夜が更けるまで、屋内でも屋外でも様々めでたいことが行われて、夜が明けた。

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若宮の誕生 ・ 望月の宴 ( 111 )

2024-05-31 07:59:43 | 望月の宴 ③

     『 若宮の誕生 ・ 望月の宴 ( 111 ) 』


さて、たいそうな大騒ぎのすえ、無事にお産をなさった。
とても広大な御邸の内に詰めている僧も俗も、上の者も下の者も、もう一つの御事がまだ終っていないので、額を地に打ちつけて祈っている様子などは、想像いただきたい。
その後産も無事にお済みになり、中宮をお寝かせなさった後は、殿(道長)をはじめとして、その辺りの多くの僧俗たちはしみじみと嬉しく、めでたいことである上に、お生まれになったのが男子でいらっしゃったので、その喜びは並大抵のものであるはずもなく、素晴らしいなどではとても及ばない。

今はすっかり安心なさって、殿も上(倫子)もご自分の御部屋にお渡りになり、御祈りに奉仕なさった人々、陰陽師や僧侶たちすべてに録をお与えになられたが、その間も、中宮の御前には年配のお産などに経験のある女房たちが伺候し、まだ若い女房たちは離れた所々で休息して横になっている。
御湯殿の儀など、その儀式はたいそう立派に行われる。そして、御臍の緒を切る儀は、殿の上(倫子)が、こうした事は仏罰を受けることになるとかねてお思いであったが(そういう俗説があったらしい。)、ただ今の嬉しさに、何もかもお忘れになってお勤めになった。
御乳付け(チツケ・初めて乳を含ませる役。乳母とは限らない。)には、有国の宰相(藤原有国。従二位参議。)の妻で、帝の御乳母である橘三位(キノサンミ・橘徳子)がお勤めになった。
御湯殿の儀なども、長年親しくお仕えになっている人をお役にお当てになった。御湯殿の儀式については、言葉にすることが出来ないほどすばらしい。

そうそう、帝(一条天皇)からは、御剣(ミハカシ・守り刀)が即刻届けられた。御使者は、頼定の中将(源頼定。正四位下、蔵人頭、左近衛中将兼美作守。)であった。その際の禄は格別の物であっただろう。実は、伊勢の御幣使(ミテグラヅカイ)もまだ帰参していなかったので、帝の使いもみだりに長居することは出来ない。(伊勢神宮に遣わされた御弊使が帰参するまでは潔斎する必要がある、ということらしい。)
女房たちはみな白装束と見受けられたが、包、袋、唐櫃など運んできて、これからの儀式に備えて衣装の準備を急いでいる。

御湯殿の儀式は酉の時(トリノトキ・午後六時前後。)に行われるとのことである。
その儀式の有様は、とても言葉で尽くせるものではない。
火をともして、中宮職の下役共が、緑の衣(六位の衣の色。)の上に白い当色(トウジキ・儀式により決められている色。出産の場合は白。)を着用して、お湯をお運び申し上げる。すべての物に白い覆いがされている。中宮(彰子)の警護の侍の長である仲信(六人部仲信)が担いで、その桶を御簾のもとに差し上げる。
中宮の御厨子所の女官二人が正装して、その桶を取入れては湯加減良くうめて、それを御瓫(ホトギ・水を入れる土器。)に入れる。十六個の御瓫である。

女房たちはみな白い装束を着用している。御湯殿で着用する湯巻(イマキ・腰に巻く白い正絹の布。)も同様である。御湯をおかけする御役は、讃岐の宰相の君(藤原豊子。道綱の娘で、讃岐守大江清通の妻。)、御迎え湯の御役(補佐役)は、大納言の君(倫子の兄弟の娘で、道長の寵愛を受けた女性、らしい。)である。
若宮は殿(道長)がお抱き申し上げている。御剣は小宰相の君(小少将の君が正しいらしい。源扶義の娘。)、虎の頭(作り物で、魔除け。)は宮内侍(ミヤノナイシ・橘良芸子、元東三条院詮子の女房。)が持って先頭に立って参上する。御弦打(オンツルウチ・鳴弦の儀。魔除けのために弓の弦を鳴らす。)は五位の者十人と六位の者十人が勤める。御文博士(オンフミハカセ・漢籍のめでたい一節を読む儀式がある。)には蔵人弁広業(ヒロナリ・藤原有国の子。文章博士。)が高欄のもとに立って、史記の第一巻を朗読する。護身の加持の役には浄土寺僧都(前権少僧都明救。延暦寺の僧。)が伺候されている。雅通の少将(源氏。従四位下右近衛少将。倫子の甥。)が撒米(ウチマキ)をして大声を挙げていて、僧都に振りかけているが、僧都が知らぬ顔をしているのが可笑しい。

女房たちの白装束がさまざまなのも、まるで墨絵のような風情であるのも奥ゆかしい。日ごろ我も我もと大騒ぎして用意していた白装束を見ると、禁色を許された者も、織物の裳にせよ唐衣にせよ、同じ白色なので、何とも見分けがつかない。禁色を許されていない者も、少し年長の者は、五重の袿に無紋の織物などの白い唐衣を着ているのも、それはそれなりに見える。
扇なども、わざとらしく華やかにはしていないが、いかにも上品ぶった様子の気配りされた古歌などが書かれていて、それがいかにも似合っている。
年若い女房たちは、刺繍や螺鈿(貝細工)を施したり、袖口に縁飾りをし、裳の縫い合わせを左右から太い銀糸でかぶせ縫いをしたり、あれこれと浮き立っている。
雪深き山を、明るい月の光りのもとで見渡したかのような様子である。とても、この様子を正しく伝えられるものではない。

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彰子難産に苦しむ ・ 望月の宴 ( 110 )

2024-05-19 08:00:00 | 望月の宴 ③

      『 彰子難産に苦しむ ・ 望月の宴 ( 110 ) 』


さて、こうしているうちに九月になった。
九月九日の節句も昨日暮れて、千代の栄えを込めた籬(マガキ・竹などで粗く組んだ垣根。)の菊は、行く末はるかに頼もしげな風情であるが、昨夜より中宮(彰子)の御心地が苦しげでいらっしゃったので、夜半頃から、やかましいほどの大騒ぎとなる。
十日の朝がほのぼのと明けようとする頃、白い御帳台にお移りになり、御座所の御設えがなされる。
殿(道長)をはじめとして、君達(公達)、四位、五位の者たちが立ち騒いで、御几帳の帷を掛け替え、御畳などを大騒ぎしながら運び込むなど、たいそう騒がしい。

中宮は、その日一日苦しそうにお過ごしになる。御物の怪をあれこれと寄りましに駆り移し、その移された御物の怪をそれぞれ僧が受け持って大声で加持をしている。
この数か月、殿の御邸内に大勢伺候されている僧たちはもちろんのこと、言うまでもなく、山々寺々の僧で少しでも験力があり修行していると耳になさると、残らず尋ねて召し集められている。
帝(一条天皇)におかれては、たいそうご心配なされて、どのようなご様子なのかと思われて、常日頃こうしたお産のことをよく知っている女房たちを、一つの車で参上させた。
寄りましに乗り移った御物の怪を、それぞれ屏風で囲っては、験者たちがそれぞれ分担し大声を挙げて加持している。そのやかましさ、騒がしさといったら、想像していただきたい。
そして、今宵もこのようにして過ぎた。

いつまでも出産がないのを恐ろしく思われて、大変ゆゆしきことになりはしないかと、殿の御前(道長)はお考え続けていらっしゃって、何かの際に紛れさせて、御涙をうち拭いうち拭いされながらも、さりげないかのようになさっている。
少しは物が分る年配の女房たちはみな泣き合っている。
「同じ御邸内であっても、場所を変えるという方法もあります」などと申し出る者があり、中宮は北の廂の間にお移りになる。長年お仕えになっている年配の女房たちは、みな中宮の御前近くに控えている。
今となっては、いったいどうなるのかと、お側に控えている人たちは皆途方に暮れて、とても堪えられないような様子の者が大勢いる。

法性寺の院源僧都(インゲンソウズ・法性寺の座主。説法に勝れ道長の信頼が厚かった。)が安産を祈る願文を読み、法華経がこの世に広まったゆえの功徳などを、涙ながらに申し続けている。しみじみと悲しく感じられるものの、たいそう尊く頼もしくもある。
陰陽師もこの世にいる限りの者を召し集めていて、その祈りは、八百万の神々も耳を振り立てておき気にならないはずはないように見えもし、聞こえもする。
御誦経を寺々に依頼する使者たちの出立などで騒がしく、その夜も明けた。

そして、中宮が御戒をお受けになられる間などは(彰子は、難産のため仏の加護を祈って、形式的に出家をした。)、殿などは、まことにゆゆしきことと途方に暮れていらっしゃる。そうしたなかで、殿が一緒になって法華経を念じ奉っていらっしゃるのが、何よりも頼もしくご立派に思われた。

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彰子の御産に備える土御門殿 ・ 望月の宴 ( 109 )

2024-05-07 07:59:08 | 望月の宴 ③

    『 彰子の御産に備える土御門殿 ・ 望月の宴 ( 109 ) 』


秋らしい景色が深まって行くにつれて、土御門殿(道長邸)の有様は、まことに言い表せないほどにすばらしい。
池の辺りの木々の梢、遣り水の辺りの草むらはそれぞれに色づき渡り、空全体の様子も美しいなかで、絶え間なく続けられている御読経の声々もしみじみと胸に迫り、しだいに涼しくなってきた風の気配に、絶え間なく続いている遣り水の音が、夜もすがら混じり合って聞こえてくる。

先日までは、法興院(ホコイン・道長の父兼家が自邸の二条第を寺にしたもの。)の法華八講といって騒ぎ立てていたが(道長は、兼家の命日に合わせて毎年行っていた。)、いつの間にか七夕の日も過ぎ去ってしまっていた。何十年という月日を、羊の歩みのように過ごしてきたのかと思わずにはいられない。
こうして、中宮(彰子)の御産は、九月がご予定なのを、八月にとの御祈りなどあるが(早産の方が安産の場合が多いと考えられていたらしい?)、また、「何もそれが良いはずがない。このような事は、月日が決められていることなのだ」などと申し上げる人々もあるので、殿(道長)はそのおつもりになられる。

お産の日が近づくにつれて、御祈祷は数限りないほどになる。
五大尊の御修法(ゴダイソンのミズホウ・・不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉の五大明王を五つの壇に祀って修する大掛かりな祈祷。)を行わせられる。様々にそれぞれの修法に従っての衣服や有様は、なるほどこのようにするのかと見受けられた。
観音院の僧正(勝算・最も重要な不動明王の壇を受け持つ。)や、とりどりの法衣を着た二十人の伴僧は、修法の後、中宮のもとに行き御加持をなさる。
馬場の御殿、文殿(いずれも僧の控え室になっていた。)などまで僧たちが控えていて、そこから交代で参り集まってくるので、御庭前の唐橋などを老いたる僧の醜い顔が渡る時も、目を注がざるを得ないが、やはり尊く感じられる。

立派に装飾された幾つかの唐橋を渡り、木々の間を分けるように帰っていくときも、ずっと遠くまで見送らずにいられない心地がして、しみじみとした風情がある。
心誉阿闍梨(シンヨアジャリ・天台の僧)は軍茶利の法の受け持ちで、赤い衣を着ている。清禅阿闍梨(園城寺の僧らしい?)は大威徳明王に敬礼して腰を屈めている。仁和寺の僧正(雅慶)は孔雀経の御修法を行われたが、急いで代わりの僧が参ったところで、夜もすっかり明けた。
様々な声が耳にかしましく、何となく怖ろしげなのは何にも例えようがない。心の弱い人は正気を失いそうな心地がして、胸が騒ぐ。

こうしている間、八月二十日過ぎの頃からは、上達部、殿上人、然るべきご縁の人たちは、みな宿直(トノイ)することが多くなり、橋の廊や対屋の簀子、渡殿なとで仮寝をして夜を明かす。
まだ未熟な若い君達(公達)などは、読経のうまさを競ったり、今様歌を声を合わせて歌ったり、論評し合ったりしているのも興趣があるように聞こえる。
ある時は、宮の大夫(中宮大夫、従二位藤原斉信)、左の宰相中将(左近衛権中将、従三位源経房)、左兵衛督(サヒョウエノカミ・人物不詳。権中将より上位であり、不自然。)、美濃少将(右近衛少将で美濃守を兼務の源済政らしい)などで管弦の遊びをなさる。これは、まことにすばらしく、戯れ半分でどうというほどでもないことを行っていた君達が、居ずまいを正すのは当然であるが、気の毒な気もする。
最近、中宮が薫物(タキモノ)調合をおさせになったが、それを女房たちにお配りになられたので、中宮の御前で、香炉を取り出して、さまざまな練り香を焚いてお試しになられる。

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媄子内親王の逝去 ・ 望月の宴 ( 108 )

2024-04-25 08:00:10 | 望月の宴 ③

     『 媄子内親王の逝去 ・ 望月の宴 ( 108 ) 』


こうして時は過ぎていき、法華三十講も終ったので、殿(道長)も落ち着いたお気持ちになられ、人々もまた一息つかれているが、一方で、あの女二の宮(媄子(ビシ)内親王。一条天皇の第二皇女。母は故皇后定子。)は御命がまことに危うい状態になられ、岩蔵の律師によってかろうじて小康を取り戻されて、仏のご利益がいかにありがたいかと思われていたが、この頃になって急にご容態が悪化なさって、この度は間もなく重態に陥られて、お亡くなりになった。今年は九歳におなりであった。
帝(一条天皇)は、心から哀れに思われお悲しみである。それも並みのお悲しみではなく、故女院(詮子。媄子の祖母。)がたいそうお可愛がりになられていた頃のことを思い出されるにつけても、大変なお悲しみである。

帥殿(ソチドノ・定子の兄伊周)、中納言殿(定子の弟隆家)などは、何ともお気の毒で涙ばかり多い我が身だと思われているように見える。
一品宮(イッポンノミヤ・脩子内親王。媄子の姉、十三歳。)は、今は少しは物事がお分かりの年頃なので、亡き妹宮を哀れに恋しくお思い続けていらっしゃる。
それにしても、この方々のご縁の人々が残らずお亡くなりになっていくのは、いったいどういう事なのかと納得のいかないことだと思う人が多いようである。
とは申せ、茫然としているわけにも行かず、然るべく御葬送申されるにつけても、ただただ哀れで悲しい。
中将の命婦は、故女院(詮子)が亡き女二の宮の乳母として自分をお選びになった頃の事など、思い続け言い続けて泣いているが、その経緯をよく知らない人も涙を押えることが出来ない。

こうしているうちに、いつしか七月になった。
中宮(彰子)のお体のご様子は、今は御腹も際立って目立つようになり苦しげでいらっしゃり、身動きなさるのも容易でない有様に、そばで見守っている人々もおいたわしく思っている。
帝(一条天皇)からは、お見舞いの使者だけがしきりに参られる。
また、他の方々より、帝は承香殿女御(元子)に御心ざしがあるといった噂が流れているが、今は、どちらの御方も帝のもとに参上なさることは絶えている。
一品宮は宮中にいらっしゃるので、帝はもっぱらそのお部屋に参られて、故妹宮の悲しみを癒やされていらっしゃる。亡き女二の宮の御事をどこまでも深くお嘆きなさるのであった。

帝は、故定子皇后が残された皇子・皇女をたいそうお可愛がりなり、脩子内親王には最高位である一品を授けられ、その上に数々の待遇をお与えになられています。
しかしながら、それでもなお定子皇后の御子方の幸薄き行く末を止めることは出来なかったようでございます。
ただ、そうした中で、脩子内親王は、一品に加え准三宮(太皇太后・皇太后・皇后に準ずる地位。)を授けられ、中宮彰子さまとも良好な関係であられたようで、長く宮中でお過ごしになられたのでございます。

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土御門第の法華三十講 ・ 望月の宴 ( 107 )

2024-04-13 08:13:12 | 望月の宴 ③

      『 土御門第の法華三十講 ・ 望月の宴 ( 107 ) 』


さて、四月の賀茂祭の使いも立たなかった年なので、二十余日の頃から、恒例の法華三十講をお催しになる。
五月五日には、五巻(最も重要な第五巻を講ずる日)に当たったので、わざと端午の節句に当てたかのようで、捧物(ホウモチ・仏への捧げ物)の用意も前もって格別に趣向が凝らされていたのだろう。
御堂(土御門第の堂)に中宮(彰子)もお出ましになられたので、お堂に続く廊下まで御簾がたいそう青々と懸け渡していて、御几帳に垂らしている帳の裾も、賀茂川辺りからの河風を受けて涼しさを増し、波の模様があざやかに見えているが、五巻の当日になると、先年まではいつも特別立派なものを準備なされていたが、今では恒例の行事になっているので、簡略になさっているが、今日の御捧物は注目されていたので、好みにうるさい人々は当然趣向を凝らしている。それは、別に制約を設けるほどのことでもないからであろう。

こぎれいな感じの六位の衛府たちが薪(タキギ)を伐り、水桶など持っている姿は興味深い。
殿方や僧侶や俗体の人などが歩き続けて行道する様子は、それぞれに趣があり尊く思われる。
苦空無我(ククウムガ・この世はすべて苦であるという心理を表現している。)という讃歎(サンダン・仏の徳を誉め称えること。)の声で、遣り水の流れの音さえ融け合って、すべてのものに御法(ミノリ)を説くかのように聞こえる。
法華経が僧によって説かれる様は、しみじみと感極まって涙が止まらない。御簾ぎわの柱のもとや、端々などから自然と出ている女房の袖口や、こぼれ出ている衣の裾など、菖蒲、楝(オウチ)の花、撫子、藤(いずれも襲(カサネ)の色目。)などの色目が見えている。軒には、隙間なく葺かれた菖蒲も他の時とは違って風情があり気高い。

かねてから噂されていた捧物を付ける造花の枝も、まことに風情があり見応えがあるが、権中納言(隆家。中関白家の伊周の弟。)は銀製の菖蒲に薬玉(クスダマ・端午の節句の飾り物で、薬草や香料を入れた玉。)をお付けになっている。若い女房たちは、それに目を奪われている。
およそ世間並みのわけさら(分け皿らしいが、よく分らない。)などという物を、しゃれた枝に付けているのも風情がある。
御邸内の有様は、いつも風情をたたえているが、然るべき儀式などをなさるときは、いっそう他所と比べてご立派である。

こうした中で、中宮(彰子)の御捧物は殿上人たちが持っているが、それらは皆わけさらなのであろう。諸太夫(五位の者)やそれより下の上官(太政官の下級官人)どもまで、身分の低いものの例えに引かれる「時の花をかざす(時流におもねる、といった意味。)」という心なのであろうか、色さまざまな薄様に押し包んだ心配りの捧物を隠しもせず、これ見よがしに高く捧げ、御簾の内を気にしているのが可笑しい。しかし、それらの者にまで目を止める者はいない。

帝の御使者には、式部蔵人定輔が参って、儀式が終ってから御返事を賜った。録は、菖蒲襲の織物に濃い紅の袴であったようだ。
夜になって、中宮がまた御堂にお出ましになる。内侍の殿(妍子。道長の次女で彰子の妹。)などとお話しをなさる。
池の面に映る篝火(カガリビ)に仏前の御灯(ミアカシ)の光りが交じり合って一段と明るく、中宮がその光景をご覧になっておられると、菖蒲の香りも清らかに風情をたたえて薫っている。
暁に、御堂からそれぞれの局に退出する女房たちが、廊、渡り殿、西の対の簀子、寝殿などを通って、上の御方(倫子)の御読経、宮の御方(彰子)の不断の御読経をなさっている前にさしかかると、私的な物詣でで若い女房たちが大勢であれば誰も物怖じしないが、こうした場所で、それぞれが一人まえのように振る舞い、人払いなどさせて、すまし顔ですり足であちこちと歩くので、やはり何とも気詰まりで、ながながと渡り歩くのは、辛い思いをしながらの女房もいることだろう。

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彰子の懐妊 ・ 望月の宴 ( 106 )

2024-04-01 08:00:45 | 望月の宴 ③

      『 彰子の懐妊 ・ 望月の宴 ( 106 ) 』


さて、こうしているうちに三月にもなったので、中宮(彰子)のご懐妊を奏上すべきなのだが、上旬には御灯(ゴトウ・三月三日、九月三日に北斗に灯火を献じる行事。)の精進潔斎をなさらねばならないので、それを過ごしてから奏上なさるおつもりであった。

殿(道長)の御心地は、何にもましてめでたく喜ばしい事とお思いである、と申し上げるのもありきたりすぎる。
今は吉日(ヨキヒ)を選んで、山々寺々において安産の御祈祷が盛大に行われている。
中宮は里邸に御退出なさるべきであるが(出産は実家で行われる。)、帝(一条天皇)が四月になってからとお止めになられるので、それまでの間お過ごしになる。
このご懐妊の御事は、今は世間に漏れ伝わったので、帥殿(伊周。故皇后定子の兄。)は胸がつぶれるような思いであろう。世間の人も、もしも皇子がお生まれになれば、東宮に立たれることは間違いあるまい、などと取沙汰されているが、その辺りのことは定まっているわけではない。
されど、「殿のご幸運の強さを考えるにつけ、どうして女子であるはずがあるまい」などと、世間の人々は騒がしく噂している。

こうしているうちに、帝の第二皇女(媄子内親王・母は故皇后定子)が重病になられ、里邸(藤原佐光の邸らしい。)に御退出になられ、あらゆる御祈祷、さまざまな御修法、御読経を、帝におかれてもあれこれとお指図になられるが、ますますご重態である由ばかりお聞きするばかりなので、気持ちは落ち着くことなく、どうだろうか、どうだろうかと思い乱れておいでである。 

こうして四月の初めに、中宮は御退出なさったが、その時のご様子の立派なことは、とても言い尽くせるものではない。
京極殿(土御門殿の別称。道長の主要な邸。)のいよいよ行く末頼もしい松の木立も、実に立派な物とご覧になる。
数々の御祈祷はその数さえ分らないほどである。御修法は今から三壇が常設なさったが、不断の御読経(絶え間なく読経を続けること。)も言いようがないほどである。
殿の御前(道長)は何とも落ち着かぬお気持ちで、睡眠も満足に取れず、御嶽に向かって、今はただ御安産のみをお祈りし、御願をお立てになられる。

一方、女二の宮(媄子内親王)は、全く正気をなくされていて、ご臨終かとお見受けされたのだが、岩蔵(大雲寺)の文慶阿闍梨(天台宗の僧)が参上して御修法を奉仕なさったところ、重態であられた病状が、あとかたもなく平癒なさった。
言いようもないほどお喜びになった帝は、この阿闍梨を律師におさせになったので(大変な昇進だった。)、仏の御効験はこのようにあらたかなのだと、うらやましく思う僧侶も多かったに違いない。

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