『 賀茂臨時祭 ・ 望月の宴 ( 120 ) 』
こうして、賀茂臨時祭となった。
祭の使には、この殿の権中将(教通。道長の五男であるが、倫子の二番目の男子で、嫡男扱いに遇せられた。)がお立ちになった。
その日は宮中の御物忌みなので(宮中の物忌みが始まると、外から入ることが出来なくなる。)、殿(道長)も上達部も賀茂臨時祭の舞人の君達(公達)たちも、みな宿直として籠もられて、宮中はあちらこちらで賑やかである。
殿の上(倫子)もお出でになっていらっしゃるので、御乳母の命婦(教通の乳母)もおもしろい御遊びに加わることなく、使の君の方ばかりを見守られている。
そして、この臨時の祭の当日には、藤宰相(藤原実成。中宮権亮を兼務。)の御随身が、前に贈り物に使った筥の蓋を、この君の随身に渡して帰っていった。その筥の蓋には、銀(シロガネ)の鏡が入れてあり、沈(ジン・沈香)で作った櫛や銀の笄(コウガイ)を入れて、使の君の鬢(ビン)をお掻きになる用具としてお考えになっている。
この筥の内に泥(デイ・金銀の箔を粉末にして、膠で溶いた物。)にて葦手(アシデ・水辺の風景に、岩や水鳥などに似せた文字をあしらったもの。)を書いてあるのは、こちらからの歌に対する返しなのであろう。
『 日陰草 かかやくほどや まがひけん ますみの鏡 曇らぬものを 』
( 先夜は 日陰草(日陰の蔓)が輝いていたので 相手を間違えたのでしょう 私からは 曇りのない鏡を 間違いなく使の君にお届けします )
やがて、十二月にもなったので、今年も残り少なくしみじみと感慨深い。花や蝶よと騒いでいるうちに年も暮れてしまった。
☆ ☆ ☆
『 中宮女房たちのいたずら ・ 望月の宴 ( 119 ) 』
侍従宰相(実成)の五節の舞姫たちが控える部屋は、中宮(彰子)の御座所からすぐ見渡せるほどの所である。立蔀(目隠し用の蔀)の上から簾の端が見える。人の話す声も、微かに聞こえる。
あの弘徽殿女御(コキデンノニョウゴ・一条天皇女御、藤原義子。実成の姉。)に仕えている女房が、舞姫のかしづき(介添役)になっていると言うことを伝え聞いて、「ああ、哀れなことよ。昔はわが物顔に振る舞っていた宮中なのに、今は物の陰に隠れて見ているのだから、気の毒なことだ。さあ、全く知らぬ顔をしているのは良くないので、何か言ってあげよう」などと相談して、「今宵の介添役のどちらの方でしょうか」と尋ねると、「そちらのほう」などと、宰相中将(兼隆。五節の舞姫を出していて、事情に明るい。)がおっしゃる。源少将(源雅通か?)も同じように話される。
「やはり美しい人ですよ」などと言うので、中宮(彰子)の御前に扇がたくさん置かれていて、その中に蓬莱を描いた物を筥の蓋に広げて、日陰の蔓(舞姫の冠に垂らす飾り。)を巡らせて丸めて置き、その中に螺鈿で飾った櫛などを入れて、白い物(おしろい)などを適当に並べて、宮中であまり顔の知られていない召使いを差し向けて、「中納言の君の御部屋(弘徽殿女御に仕える女房の一人らしい。)から、左京の君(介添役を勤めている女房)の御前に」と言わせて置いてこさせると、「それを頂いておきなさい」などと言っているので、きっと、自分の主の女御殿から賜り物と思ったのであろう。
また、こちらの女房たちも、そう思わせるように仕組んだことなので(中宮付の女房たちがいたずらを仕組んだ。)、思惑通りにいったと言うことであろう。そこで、薫物を立文(棒状の薫物を正式の書状の形式に包んだ。)にして次のように書いておいた。
『 多かりし 豊の宮人 さし分けて しるき日陰は あはれとぞ見し 』
( 大勢奉仕している 豊明節会の宮人の中で ひときわ目立つ 日陰の葛をつけたあなたを 感慨深く見ましたよ )
あちらの局では、たいそう恥じ入ったようだ。宰相(実成)も、このようなことになるのであれば、介添役になどさせなかったらよかったと、左京の君を気の毒に思われたのであった。
小忌の夜(オミノヨ・豊明節会の夜のことで、五節舞の本番。)は、宰相が出している五節の舞姫には童女の汗衫(カザミ・上着)と、大人のかしづき(介添役)には、みな青摺の衣を着せて、赤紐を付けていたと言うことを、後になって斎院(サイイン・選子内親王。村上天皇皇女。一条天皇の叔母にあたる。)がお聞きになり、興味深くお思いになり、その衣装をお取り寄せになって、御覧になり、まことにたいそう現代風ですばらしいと思し召しになって、青い紙の端に歌を書いて袂に結びつけてお返しになった。その歌は、
『 神代より 摺れる衣と いひながら また重ねても めづらしきかな 』
( 神代の昔からの 青摺りの衣では あるけれど 童女や介添役が重ねて着るとは 珍しいものですね )
☆ ☆ ☆
『 五節の舞姫 ・ 望月の宴 ( 118 ) 』
このようにしているうちに日が過ぎて、五節の舞姫が二十日に宮中に参入する。
侍従宰相というのは内大臣(藤原公季・道長の叔父にあたる。)の子、実成宰相のことであろうが、舞姫の装束を中宮(彰子)がお遣わしになる。
右宰相中将(藤原兼隆・道長の従兄弟にあたる。)が、舞姫の御鬘(オンカズラ・日陰の蔓。舞姫の冠に垂らす飾り。)の下賜をお願いなさったのでお遣わしになる。そして、そのついでに、筥一双に薫物(タキモノ)を入れてお遣わしになる。心葉(ココロバ・筥の覆いの組紐の飾り。)は梅の枝をあしらっている。
今年の五節の舞姫は、互いにたいそう張り合っているとの噂である。
中宮の御座所の向かいにある東の立蔀(タテジトミ・板張りの塀。目隠しのために置かれた物らしい。)に、隙間なくずらりと灯がともされているが、その光りの中を、さりげなく参入してくる舞姫たちの様子はきまり悪そうであるが、途中で避けることの出来ない道筋なので、仕方あるまいと見受けられる。
業遠朝臣(ナリトウノアソン・東宮権亮兼丹波守。)の舞姫のかしづき(介添役、六~八人ほどが付いた。)に、錦の唐衣を着せていると大評判であるが、いかにも風変わりであるが、それはそれなりの趣向だと取沙汰されている。あまりにも着重ねていて、たおやかな身のこなしが出来ないとけなす向きもあるが、そうした非難は当世風ではないと言える。
右宰相中将も出来うる限りのことをした。樋洗(ヒスマシ・便所の清掃などにあたる下級の女。)二人の衣装を調えている姿が、いかにも田舎風だと、見る人の笑いを誘っていた。
内大臣の子息の藤宰相(実成)の舞姫は、他の人より、今少し当世風で華やかなところが勝っているように見える。かしづきが十人もいる。又廂(マタビサシ・廂の外側に設けられた部屋。孫廂。中宮の女房たちが見物している。)の御簾を下ろして、その下からこぼれ出ている衣の端々や、これ見よがしに得意顔をしている女房たちよりも見栄えがしていて、灯火の光を受けて風情深く見えた。
また、東宮亮(東宮権亮か?)の舞姫に、中宮から薫物をお遣わしになった。大きな銀製の筥にしっかりと入れられている。尾張守匡衡(藤原中清が正しい)も舞姫を出しているので、殿の上(倫子)が贈物をお遣わしになった。
その夜は、御前の試み(天皇が舞姫の舞を見る行事。)なども終り、童女・下仕御覧の儀(舞姫に付き添ってきた童女と下仕を天皇が引見する。)はどうであろうかと待ち遠しかったが、定刻の頃になると、一同そろって歩み続いて出てきたので(舞姫は孫廂に、下仕は前庭に並ぶ。)、内にも外にも目をやって騒いでいる。
帝(一条天皇)がお渡りになり御覧になる。
若宮(敦成親王)がいらっしゃったので、撤米(ウチマキ・悪霊除けのため米をまき散らす。)をして大声を挙げているようだ。
業遠の出した童女に、青い白橡(アオイシラツルバミ・襲の色目で、表が青、裏が黄。)の汗衫(カザミ・童女の上着)を着せている。すばらしいものだと思っていると、藤宰相の出した童女には、赤色(襲の色目で、表が赤、裏が二藍。)の汗衫を着せ、下仕の唐衣には青色(青い白橡と同じ。)を着せているのが対照的で憎らしいほど立派である。宰相中将の童女にも五重の汗衫を着せていて、尾張守の童女には葡萄染(エビゾメ・襲の色目で、表が蘇芳、裏が縹。)を三重にして着せている。
袙(アコメ・汗衫の下に着る物。)は、みな濃いのやら薄いのやら様々である。
☆ ☆ ☆
『 道長と紫式部 ・ 望月の宴 ( 117 ) 』
若宮(敦成親王。母は彰子中宮。)の五十日の御祝いということで、人々は酔い乱れて、何とも恐ろしげな今夜の様子と見て取って、宴が終るとすぐに、わたし(紫式部らしい)は宰相の君と言い合わせて隠れてしまおうとしたが、東面(ヒガシオモテ)の部屋には殿の君達(トノノキンダチ・道長の子息。頼通、教通ら。)や宰相中将(藤原兼隆)などが入り込んでいて騒がしかったので、二人で御几帳の後ろに隠れていたところ、二人とも殿に見つかってしまった。
「歌を一首お詠みなさい」と仰せになるので、たいへん困ってしまい恐ろしくもあり、
『 いかにいかが 数へやるべき 八千年(ヤチトセ)の あまり久しき 君が御代をば 』
( 御五十日のお祝いに際して どのように数えるべきでしょうか 千代八千代にも余る 若君の御代を )
と、お詠みしますと、「おお、見事にお詠み下さいましたな」と、二度ばかり口ずさみになって、すぐさま仰せられた。
『 あしたづの 齢(ヨハヒ)しあらば 君が代の 千歳の数も かぞへとりてん 』
( 私に鶴のような 千年の寿命があれば 若宮の御代の 千年という数も 数え取ることが出来るのだが )
あれほど酔っておいでだったのに、お心にかけている筋の事なので、このように続けてお詠みになられたのだと思われた。
こうして、通例の作法の禄などがあって、人々は何とも締まりのない有様で、よろけながら退出なさった。
殿の御前は、「宮(彰子)を娘としてお持ちしていることで、私は恥じることがない。私を父として持って、宮にとっても悪くあるまい。また、母だって、たいそう幸せ者だ。良い夫をお持ちだから」などと、冗談をおっしゃるのを、上(倫子)は、たいそうきまり悪く思われて、あちらの部屋に去ってしまわれた。
こうして、中宮(彰子)は十七日(十一月)に内裏に還御なさる予定だったので、その為の支度に女房たちは大忙しである。
その夜になると、いつものように里に退出していた者たちも皆参集した。女房たちの半数は、髪上げなどしてきちんと正装している。四十人余りが伺候している。
たいそう夜が更けたので、あわただしく還御なさる。女房たちの車のことでいざこざもあったが(紫式部と馬中将の間でもめ事があったらしい。)、「いつもの事だ。聞き入れることはない」と仰せられて、殿(道長)は相手になさらなかった。
中宮の御輿には宣旨の君(中宮の上臈女房)が同乗なさった。糸毛の御車(屋形の外部を絹の組緒で飾った牛車。)には、殿の上(倫子)と少将の乳母が若宮をお抱きになって乗った。
この後も、あれこれとあるが、わずらわしいので書かなかった。
殿からの昨夜の御贈物は、中宮は今朝になってから、ゆっくりと落ち着いてから御覧になられると、御櫛の筥一双(ヒトヨロイ)の中の品々は、見尽くすことが出来ないほどである。さらに、御手筥一双で、その片方の筥には、白い色紙を綴じた冊子などで、古今集、後撰集、拾遺集などが五巻に作られていて、侍従中納言(藤原行成、三蹟の一人。)と延幹(エンカン・能書の僧。)とがそれぞれ冊子一帖に四巻をあててお書きになっている。懸子(カケゴ・中筥)の下には、元輔(清少納言の父。)、能宣(ヨシノブ・大中臣能宣、三十六歌仙の一人。)といった古の歌人の歌集を書写して入れてある。
☆ ☆ ☆
『 五十日の祝い ・ 望月の宴 ( 116 ) 』
そうこうしているうちに、若宮(敦成親王)の 御五十日の祝儀が行われる十一月一日となったので、例によって女房たちが様々に装い立てて参上する有様は、しかるべき物合(モノアワセ)の方分け(組み分け)に似ているようだ。
御帳台の東側の御座所の際に、北から南の柱まで隙間なく御几帳を立て渡して、南面に若宮の御膳が置かれている。
西側寄りには大宮(彰子)の御膳が例の沈の折敷(ジンのオシキ・沈香の材料で作られたお盆。)に、様々な物が用意されているのであろう。若宮の御前の小さな御台が六つあり、それらは御皿をはじめ、どれも可愛らしく、御箸の台が州浜のように作られているなど、たいそう風情がある。
大宮の御給仕役は弁の宰相の君で、奉仕の女房たちは皆髪上げしていて釵子(サイシ・髪上げのためのかんざし。)を挿している。若宮の御給仕役は大納言の君である。
東側の御簾を少し上げて、弁内侍、中務命婦、大輔命婦、中将の君など、しかるべき女房たちだけが御膳を取り次ぎ参らせなさる。
讃岐守大江清道の娘で左衛門佐源為善の妻は、数日来参上していたが、今宵禁色を許された。
殿の上(倫子・道長の正妻)が、御帳台の中から若宮を抱き奉って、膝をついたまま出ていらっしゃった。
赤色の唐衣に、地摺(ジズリ・型木や型紙を使って摺り出す手法。)の御裳をきちんと着用していらっしゃるのも、しみじみと感じられ畏れ多いことである。(裳を着用するのは、主人に仕える女房で、道長の正妻が裳をつけているのは、娘や孫を。中宮あるいは親王として敬意を表してのことである。)
大宮は葡萄染(エビゾメ・襲の色目で、表が紫、裏が赤など。)の五重の御衣(イツエのオンゾ・袿を五枚重ねてきている。)に、蘇芳(スホウ・襲の色目で、表が薄茶、裏が濃赤。)の御小袿(コウチギ・高貴な女性が着用する上衣。裳や唐衣の代わりに用いる。)などをお召しになっている。
殿(道長)が、お祝いの餅を若宮に差し上げられる。(五十日の祝いの中心儀式。)
上達部(カンダチメ・公卿)が簀子(スノコ・縁側に当たる場所。)に参上なさる。御座はいつものように東の対であったが、近くに参って酔い乱れている。右大臣(藤原顕光)や内大臣(藤原公季)もみな参上している。
大殿(道長)の御部屋から折櫃物(オリヒツモノ・食べ物を入れる物だが、この時は、貴金属や香木を用いた飾り物らしい。)などを、しかるべき四位、五位の人たちが次々と運んできて、高欄に添ってずらりと並べる。
立ち明かしの光りだけでは心許ないので、四位少将(源雅道らしい。)やしかるべき人を呼び寄せて、紙燭(シソク・50cmほどの松の木の先に油を塗って点火する照明具。)をさして御覧になる。それらは宮中の台盤所に持参することになっているが、明日からは御物忌(天皇の物忌)ということで、今夜のうちに全部持参した。
中宮大夫(藤原斉信)が御簾のもとに参上して、「上達部を御前にお召し下さいますように」と中宮(彰子)に言上なさった。
お聞き届けになられたので、殿をはじめとして一同が参上なさって、階(ハシ)の東の間を上座として、東の妻戸の前までお座りになる。女房たちはひとかたまりになって数知れないほど座っている。その柱間に面して、大納言の君、宰相の君、宮内侍という順で座っていらっしゃるところに、右大将(藤原実資。正二位権大納言兼右大将。)が近寄って、御簾の下から出ている女房たちの衣装の褄や袖口の襲(カサネ)の色を数えている様子など、人とはかなり変っている。(実資は、「小右記」という日記を書き残しているが、好奇心の強い人物だったようだ。)
盃の順が回ってきて歌を詠まされるのを、大将は恐れておいでだったが、例によって千歳万世のお祝い歌で無難に済ませた。
三位の亮(藤原実成。従三位参議、中宮権亮兼侍従。)に「盃を取れ」などと殿が仰せられると、侍従宰相(実成のこと。宰相は参議の唐名。)は、父の内大臣(公季)がいらっしゃるので、下座を回って出てこられたのを見て、内大臣は感じ入って酔い泣きされる。
その様子を、御簾の内にいる女房たちまでも、しみじみとした思いで見ていた。
☆ ☆ ☆
『 敦成親王家の誕生 ・ 望月の宴 ( 115 ) 』
さて、殿(道長)は若宮(敦成親王、のちの後一条天皇)をお抱き申し上げられて、帝(一条天皇)の御前にお連れ申し上げる。若宮の御声は、まことに若々しく愛らしい。
弁の宰相の君が御剣(ミハカシ)を持って参上なさる。母屋(モヤ・寝殿造りの中央の間。)の中隔ての戸の西に、殿の上(道長の妻倫子)がいらっしゃるが、そこへ若宮をお連れ申し上げる。
帝が若宮を御覧におなりになる御心地はどのようなものか、ご推察いただきたい。
これにつけても、「一の御子(敦康親王。一条天皇の第一皇子で、母は定子中宮。)がお生まれになった時、すぐにも御対面なさらず様子もお聞きになられなかったことだ。やはり、仕方のないことだ。こういうお血筋には、頼りになる外戚の人がいてこそ、張り合いがあるというものだろう。貴い国王の位といえども、後見となって引き立てる人がいなければ、どうすることも出来ないのだ」とお思いになり、第一御子とこの若宮の行く末までのことなどを考えざるを得ず、人知れず第一御子をふびんにお思いになられるのであった。
帝は、中宮(彰子)と御物語などして、たいそうくつろいでおいでになるうちに、すっかり夜になってしまったので、万歳楽、太平楽、賀殿などの舞があり、様々に奏でられる楽の音色がすばらしく、笛の音も鼓の音も興趣たっぷりに聞こえてくる上に、松風が爽やかな音を立てて吹いていて、池の波までが声を合わせている。
「万歳楽の声と一緒になっています」と、若宮のお声を聞いて、右大臣(藤原顕光。道長とは従兄弟の関係。)がちやほやなさる。左衛門督(藤原公任)、右衛門督(藤原斉信)が万歳千秋などを声を合わせて吟じられる。
主人の大殿(道長)は、「これまでの行幸を、どうしてすばらしいと思ったのだろう。今回のこれほどすばらしいことがあるというのに」と仰せられて、感激に泣きそうになられるのを、もっともなことだと、殿方たちは同じ思いで御目を拭っておられる。
こうして、殿は奥にお入りになり、帝がお出ましになられて、右大臣を御前にお召しになったので、右大臣は筆をとって加階の名簿をお書きになる。
宮司(ミヤヅカサ・中宮職の官人)、殿の家司(ケイシ・道長家の家司。子息たち、彰子の母倫子も従一位になった。)、然るべき者すべてが昇進した。頭弁(源道方)に命じて、この加階のことを中宮に申し上げられたようである。
新しい御子の御喜び(この日、若宮に親王宣下があった。)に、藤原氏の上達部が連れ立って拝礼申し上げる。同じ藤原氏であっても、門流が別の人々は、拝礼の列にはお立ちにならない。
次に、別当(新しく出来る敦成親王家の家政組織の長。)におなりになった中宮大夫兼右衛門督(藤原斉信)、権大夫兼中納言(源俊賢)、権亮侍従宰相(藤原実成)などが加階なさって、御礼の舞をなさる。
帝が中宮の御部屋にお入りになって間もないうちに、「夜もたいそう更けた」「御輿を寄せます」などと、人々が大声を出しているので、殿も帝のお見送りのために部屋から出ていらっしゃる。
翌朝、帝の御使者が、朝霧も晴れないうちに参上した。若宮を恋しくお思いのゆえのことだろうと推察される。
その日に、若宮の御髪(ミグシ)を初めて削ぎ奉る。特別に行幸の後にということで遅くなったのであろう。(新生児の髪を削ぐのは、ふつうは七日目頃であるが、髪がある方が可愛らしく見えるので、ひと月も遅らせたらしい。)
そして、その日には、若宮付の家司として、おもと人、別当、職事(シキジ・蔵人などか?)などお決めになる。ここ数日の御部屋の調度などが乱れがちで、普通の状態ではなくなっているのを、元通りに改め、きらびやかに飾り立てられる。
殿の上(倫子)は、長い間心待ちになさっていた皇子誕生が実現なさったので、何よりも嬉しく、明け暮れに参上して若宮を見奉っていらっしゃるのも、まことに満ち足りた御有様である。
☆ ☆ ☆
『 一条天皇の行幸 ・ 望月の宴 ( 114 ) 』
若宮誕生の御祝いが続いていたが、やがて、行幸も近づいたので、御邸内をあれこれと手直しし美しく飾り立てられ、見るからに素晴らしい。
その有様は、まるで法華経がおわすかのようで、老いが遠ざかり寿命が延びるであろうと思われるような御邸の有様である。
こうして、この度の行幸は、帝が若宮をたいそうお気にかけられ、早く御覧になりたいとお思いになっての事なので、これまでの行幸よりも殿の御前(道長)はたいそうお急ぎになり、まだかまだかとお急がせになって、満足に御寝にもならず、この事のみに御心をくだかれたのも、当然のことと言えよう。
行幸は神無月の末とのことである。(史実は、十六日。)
こうして、この度の行幸の折に用いるべく造らせた船を岸に寄せて御覧になられる。竜頭と鷁首(ゲキス・鷁は想像上の水鳥。)が船首に飾られていて、生きている姿が想像されて、際立って麗しい。
行幸は寅の時(午前三時から五時頃の間となり、誤記と思われる。)ということなので、昨夜のうちから落ち着かず身支度をして騒ぎ立っている。
上達部の御座は西の対なので、この度は東の対の中宮付の女房たちは、少しは気を緩めることが出来ているのだろう。
督の殿(尚侍、妍子。道長の次女で後の三条天皇の中宮。西の対に住んでいたらしい。)の御方付の女房たちは、中宮付の女房よりも、あれこれと用意を調えているとのことである。
寝殿の御設備などは、いつもより趣向を凝らして、御帳の西の方に帝の御席として御倚子(イシ・椅子)を立てられている。そこから東の方にあたる際に、北南に御簾を懸け渡して女房たちが並んでいて、その南の端にも簾が垂らしていて、それを少し引き上げて内侍が二人出て来た。
髪上げをして、美しく正装した二人の姿は、まるで唐絵の中の人物か、もしくは天女が天降ったかのように見えた。
弁内侍、左衛門内侍(ともに内裏の女房。)などが参上した。それぞれ様々の容姿である。衣装の色合いなど、いずれもそうそうは見られない見事さである。
近衛府の役人たちはまことにふさわしい礼装で、諸々の事を行っている。頭中将頼定君(源頼定。正四位下、蔵人頭、左近衛中将兼美作守。)が御剣(ミハカシ)を取って内侍に伝えなどしている。
御簾の内を見渡すと、例によって、禁色を許された女房は、青色や赤色の唐衣に、地摺(ジズリ・型紙などを用いて模様を摺り出す手法。)の裳を着用して、表着(ウワギ)は皆同じように蘇芳(スオウ・襲の色目で、表が薄茶、裏が濃赤。)の織物である。打物(ウチモノ・打衣。砧で打って艶を出した衣。袿の上、表着の下に着る。)は、濃い紅、薄い紅と紅葉を混ぜ合わせたようである。また、いつもの青色や黄色の物も混ざっている。
禁色を許されていない女房は、無紋(織物であるが織文様のない唐衣。)や平絹(綾織りでない平織りの唐衣。)など様々である。下着(唐衣の下)はみな同じさまである。大海の摺裳(オオウミのスリモ・大きな波の文様を摺りだした裳。)は、水の色も鮮やかで、これもたいそう風情があるように見えた。
帝付きの女房でも中宮付を兼ねている者は、四、五人参集した。内侍二人、命婦二人、御給仕役が一人である。帝に御膳を差し上げるために、みな髪上げをして、先ほど内侍が出てきた御簾際から出入りして参上し、御給仕役の藤三位は、赤色の唐衣に黄色の唐綾の袿で、菊(表が白、裏は蘇芳または青または紫。)の袿が表着である。筑前や左京(ともに命婦らしい。)なども、さまざまに装いを凝らしている。ただ、柱に隠れて、よくは見えない。
☆ ☆ ☆
『 若宮の誕生祝い続く ・ 望月の宴 ( 113 ) 』
十六日には、明日の御七夜にはどのようになるのかと、昨夜の装束とは違えての支度に備えている。
ただ、この日の夜はこれといった予定はなくゆとりがあるので、女房たちは池に船を浮かべて遊び、左の宰相中将(源経房。従三位、参議、左近衛中将兼近江権守。)、殿の少将の君(教通。道長の息子。従四位下、右近衛中将。)なども加わって、船を乗りまわされた。さまざまにおもしろく楽しいことがたくさんあった。
そして、七日目の夜は、朝廷による御産養である。
蔵人少将道雅(藤原伊周の息子。正五位下、蔵人兼右近衛少将。)が勅使として参上された。松君(道雅の幼名)のことである。
贈り物を書いた目録を柳筥(ヤナイバコ)に入れて参上なさった。そして、直接中宮に申し上げられた。
勧学院の学生どもも徒歩で参上し、見参の文(参加者の名簿)を啓上して、禄などを賜ったのであろう。先夜の産養の時にも増して仰々しく騒ぎ立てている。
帝付の女房もみな参上する。藤三位(藤原繁子)、命婦(ミョウブ・五位以上とされる中臈女房。)、蔵人(女蔵人。内侍・命婦のもとで雑用を勤める下臈女房。)が二台の車で参上した。
船遊びをしていた女房たちも、皆おどおどしながら部屋に入った。
帝付きの女房たちに、殿(道長)が面会なさったが、何の憂いもなさげのご様子で、笑みの眉が開ける(にこにこ顔の表現らしい。)お顔でいらっしゃるので、お会いした女房たちは、いかにもそうであろうと感激してお見受けした。贈り物の数々を身分に応じて贈られた。
またの日(翌日の意味だが、船遊びのあった翌日の意味らしく、七夜産養の当日のこと。)の中宮(彰子)の御有様は、たいそう格別とお見受けされる。御帳の内で、ほんとに小柄で面やつれして横になっていらっしゃるが、まことにふだんよりほっそりと気高くお見えになる。
おおよその事は、先夜と同じである。中宮から上達部への禄は、御簾の内よりお出しになったので、左右の頭(蔵人頭のことであろうが、中宮職の宮司が取り次いだと考えられる。)二人が取り次いで差し上げる。通例の如く、女の装束に若宮の御衣を添えていたのであろう。殿上人への禄は通例通りであったということである。
朝廷からの贈り物は、大袿(オオウチキ・大きく仕立てた物で贈答用。)、衾(フスマ・寝具。ここでは若宮用か?)、腰差など、慣例通りの公式のものであろう。
御乳付の三位(オンチツケノサンミ・橘徳子)には、女の装束に織物の細長(ホソナガ・幼児用の着物で長く作っている。禄によく使われる。)を添え、銀製の衣筥に入れて、包みなども同じように白いが、それとは別に包まれた物もお添えになる。
八日目には、女房たちは、白一色の衣装からいつもの様々な色の衣装に着替える。
九日目の夜は、東宮権大夫(頼通。道長の嫡男、彰子の弟。)が御産養を奉仕なさる。
これまでとは趣向をお変えになっている。
今宵は上達部は御簾のそばにお座りである。白い御厨子二つに贈り物をお置きになる。
儀式は、これまでと違って、いかにも現代風である。銀製の御衣筥に海賦(カイフ・波に藻や貝を施した文様。)の文様を打ち出して、蓬莱山などはこれまで通りだが、技巧を凝らしていて、それだけを取り立てて説明することは出来そうもない。
今宵は御几帳がすべて平常の有様になっていて、女房たちは濃い紅の袿を着ているのが、これまでは白一色だったので、久しぶりにとても優美で、透けて見える薄物の唐衣などが、つやつやと連なって見える。
こうして数日が過ぎたが、中宮はやはりたいそうご用心なさって、神無月(十月)の十日過ぎまでは、御帳台からお出にならない。殿(道長)は、夜となく昼となく何度もお越しになり、若宮を御乳母の懐から受け取って抱き、何とも愛おしげなのも、全く当然のこととお見受けする。若宮の御尿などに濡れても、嬉しそうになさっている。
☆ ☆ ☆
『 絢爛豪華な産養 ・ 望月の宴 ( 112 ) 』
若宮が誕生なさり、三日目におなりの夜は、中宮職の役人が、大夫(従二位藤原斉信)をはじめとして、御産養(ウブヤシナイ・出産後、三夜、五夜、七夜、九夜に行う祝いの儀式。)を奉仕なさる。
右衛門督(ウエモンノカミ・斉信のことで、権中納言、中宮大夫、右衛門督を兼ねていた。)は中宮への御食膳を奉仕なさったが、沈香の材で作った懸盤(カケバン・お膳)、銀の御皿などは、詳しくは見ていない。
源中納言(中宮権大夫源俊賢。正三位権中納言兼治部卿兼務。)、藤宰相(中宮権亮藤原実成。正四位参議兼右近衛中将を兼務。)は、若宮の御衣(オンゾ)、御襁褓(オンムツキ・若宮をくるむための布。)を奉仕。衣筥の折立、入帷子、包、覆いをした机(いずれも、御衣・御襁褓を入れるための物。)など、すべて白一色ではあるが、その作り方には奉仕される人々の趣向が尽くされている。
五日目の夜の御産養は、殿(道長)が執り行われた。
十五夜の月が曇りなく澄み渡り、秋深い庭の露の光りがまことに美しい折である。
上達部、殿上人が参上する。東の対屋に、西向きに北を上席として着座なさった。南の廂に北向きに、殿上人の席は西が上座になっている。
白い綾を張った御屏風を、母屋の御簾に添えて立て渡している。月の明かりが清々しく、池の汀(ミギワ)近くに篝火が灯されているが、そこに勧学院(藤原氏の子弟のための大学寮。)の学生たちが徒歩で参上した。見参の文(ゲザンノフミ・参加者の名簿)など啓上する。これに対して禄などが下賜された。学生たちの今宵の有様は、いつもにも増して仰々しく見受けられた。
ものの数にも入らないような上達部のお供の男たちや、随身、中宮職の雑事を務める者たちが、ここかしこに集まっていて、みな笑顔である。ある者は落ち着きがなく忙しそうに動き回っているが、それらの身分の者にはそれほどの喜びではないだろうが、それでも、新しく若宮が誕生したことは、光もたいそう明るいので、そのお陰をいただけるに違いないと思って、その事が嬉しくありがたいことなのだろう。
所々の篝火も、たちあかし(地上に立てて灯す松明。)も、さらに月の光もたいそう明るいので、御邸に仕える人々は、それほどの身分とも言えぬ五位の者なども、腰をかがめ、良い時期に巡り合ったものだという顔つきで、目的もなく行ったり来たりしているのも感慨深く見える。
年若く晴れの儀式にふさわしく安心できるような女房が八人、御膳を差し上げる。みな気持ちを合わせて髪上げ(女房の礼装)をして、白い元結いをしている。白木の御膳を持って続いて参上する。
今夜の御給仕役は、宮内侍(ミヤノナイシ・元東三条院詮子の女房、橘良芸子らしい。)で、堂々として気高く近寄り難いほどである。髪上げをした女房たちは、醜くない者たちなので、見る甲斐のあるすばらしい有様である。
上達部(カンダチメ・公卿)たちは、殿(道長)をはじめとして攤(ダ・サイコロを使う賭け事の一種。産養の恒例の遊び、らしい。)をお打ちになるが、賭物の紙について言い争うのは、聞き苦しく騒々しい。
和歌なども詠まれた。しかし、騒々しさに紛れて、その歌を探すも、書き方が乱雑でもあり、書き残すことが出来ない。
「女房よ、盃を受けよ」などと言って、和歌を詠むよう促しているが、座が乱れていて躊躇している。
『 めずらしき 光さしそふ 盃は もちながらこそ 千代をめぐらめ 』
( めったにない 光が差し加わって 若宮を祝う盃は 次々と持ち伝えて 千代をめぐるでしょう )
と、紫式部が口にささやき心に思うにつけ、四条大納言(藤原公任。この時はまだ中納言だった。)が御簾のそばにいらっしゃったので、歌の出来映えよりも、読み出すときの声づかいを恥ずかしく思われることだろう。
こうして、すべての行事が終り、上達部には女の装束に御襁褓が添えられた。殿上人の四位の者には袷の一襲と袴、五位の者には袿一襲、六位の者には袴と単衣である。これらは、しきたり通りであろう。
夜が更けるまで、屋内でも屋外でも様々めでたいことが行われて、夜が明けた。
☆ ☆ ☆
『 若宮の誕生 ・ 望月の宴 ( 111 ) 』
さて、たいそうな大騒ぎのすえ、無事にお産をなさった。
とても広大な御邸の内に詰めている僧も俗も、上の者も下の者も、もう一つの御事がまだ終っていないので、額を地に打ちつけて祈っている様子などは、想像いただきたい。
その後産も無事にお済みになり、中宮をお寝かせなさった後は、殿(道長)をはじめとして、その辺りの多くの僧俗たちはしみじみと嬉しく、めでたいことである上に、お生まれになったのが男子でいらっしゃったので、その喜びは並大抵のものであるはずもなく、素晴らしいなどではとても及ばない。
今はすっかり安心なさって、殿も上(倫子)もご自分の御部屋にお渡りになり、御祈りに奉仕なさった人々、陰陽師や僧侶たちすべてに録をお与えになられたが、その間も、中宮の御前には年配のお産などに経験のある女房たちが伺候し、まだ若い女房たちは離れた所々で休息して横になっている。
御湯殿の儀など、その儀式はたいそう立派に行われる。そして、御臍の緒を切る儀は、殿の上(倫子)が、こうした事は仏罰を受けることになるとかねてお思いであったが(そういう俗説があったらしい。)、ただ今の嬉しさに、何もかもお忘れになってお勤めになった。
御乳付け(チツケ・初めて乳を含ませる役。乳母とは限らない。)には、有国の宰相(藤原有国。従二位参議。)の妻で、帝の御乳母である橘三位(キノサンミ・橘徳子)がお勤めになった。
御湯殿の儀なども、長年親しくお仕えになっている人をお役にお当てになった。御湯殿の儀式については、言葉にすることが出来ないほどすばらしい。
そうそう、帝(一条天皇)からは、御剣(ミハカシ・守り刀)が即刻届けられた。御使者は、頼定の中将(源頼定。正四位下、蔵人頭、左近衛中将兼美作守。)であった。その際の禄は格別の物であっただろう。実は、伊勢の御幣使(ミテグラヅカイ)もまだ帰参していなかったので、帝の使いもみだりに長居することは出来ない。(伊勢神宮に遣わされた御弊使が帰参するまでは潔斎する必要がある、ということらしい。)
女房たちはみな白装束と見受けられたが、包、袋、唐櫃など運んできて、これからの儀式に備えて衣装の準備を急いでいる。
御湯殿の儀式は酉の時(トリノトキ・午後六時前後。)に行われるとのことである。
その儀式の有様は、とても言葉で尽くせるものではない。
火をともして、中宮職の下役共が、緑の衣(六位の衣の色。)の上に白い当色(トウジキ・儀式により決められている色。出産の場合は白。)を着用して、お湯をお運び申し上げる。すべての物に白い覆いがされている。中宮(彰子)の警護の侍の長である仲信(六人部仲信)が担いで、その桶を御簾のもとに差し上げる。
中宮の御厨子所の女官二人が正装して、その桶を取入れては湯加減良くうめて、それを御瓫(ホトギ・水を入れる土器。)に入れる。十六個の御瓫である。
女房たちはみな白い装束を着用している。御湯殿で着用する湯巻(イマキ・腰に巻く白い正絹の布。)も同様である。御湯をおかけする御役は、讃岐の宰相の君(藤原豊子。道綱の娘で、讃岐守大江清通の妻。)、御迎え湯の御役(補佐役)は、大納言の君(倫子の兄弟の娘で、道長の寵愛を受けた女性、らしい。)である。
若宮は殿(道長)がお抱き申し上げている。御剣は小宰相の君(小少将の君が正しいらしい。源扶義の娘。)、虎の頭(作り物で、魔除け。)は宮内侍(ミヤノナイシ・橘良芸子、元東三条院詮子の女房。)が持って先頭に立って参上する。御弦打(オンツルウチ・鳴弦の儀。魔除けのために弓の弦を鳴らす。)は五位の者十人と六位の者十人が勤める。御文博士(オンフミハカセ・漢籍のめでたい一節を読む儀式がある。)には蔵人弁広業(ヒロナリ・藤原有国の子。文章博士。)が高欄のもとに立って、史記の第一巻を朗読する。護身の加持の役には浄土寺僧都(前権少僧都明救。延暦寺の僧。)が伺候されている。雅通の少将(源氏。従四位下右近衛少将。倫子の甥。)が撒米(ウチマキ)をして大声を挙げていて、僧都に振りかけているが、僧都が知らぬ顔をしているのが可笑しい。
女房たちの白装束がさまざまなのも、まるで墨絵のような風情であるのも奥ゆかしい。日ごろ我も我もと大騒ぎして用意していた白装束を見ると、禁色を許された者も、織物の裳にせよ唐衣にせよ、同じ白色なので、何とも見分けがつかない。禁色を許されていない者も、少し年長の者は、五重の袿に無紋の織物などの白い唐衣を着ているのも、それはそれなりに見える。
扇なども、わざとらしく華やかにはしていないが、いかにも上品ぶった様子の気配りされた古歌などが書かれていて、それがいかにも似合っている。
年若い女房たちは、刺繍や螺鈿(貝細工)を施したり、袖口に縁飾りをし、裳の縫い合わせを左右から太い銀糸でかぶせ縫いをしたり、あれこれと浮き立っている。
雪深き山を、明るい月の光りのもとで見渡したかのような様子である。とても、この様子を正しく伝えられるものではない。
☆ ☆ ☆