今昔物語 巻第十七 ご案内
巻第十七は、全体の中の位置付けとしては、前巻に続き「本朝付仏法」に当たります。
地蔵菩薩霊験譚が中心で、諸菩薩や諸天の霊験譚も収録されています。やや霊験譚色が強すぎる感もありますが、今昔物語らしいとも言えるのではないでしょうか。
『 地蔵菩薩を探し歩く ・ 今昔物語 ( 17 - 1 ) 』
今は昔、
西の京の辺りに住んでいる僧がいた。道心があったので、熱心に仏道修行をしていた。その中でも、長年の間とりわけ地蔵菩薩に帰依して、ひたすら願っていたことは、「私は、この身のままで生き身の地蔵様にお会い奉って、浄土にお導きいただきたい」ということであった。
その為、国々を歩いて、地蔵の霊場がある所を尋ねて、自分の願いを述べていたが、これを聞いた人たちはあざ笑って、「お前が願っていることは、実に愚かなことだ。どうして、この世に生きている身で、生きた地蔵様にお会いすることなど出来るものか」と言った。
しかし、この僧はなおもこの願いを曲げることなく、諸国を廻っているうちに、常陸国に行き着いた。
どこだとも分らぬままに歩いているうちに、日が暮れてしまったので、みすぼらしい下人の家に宿を借りた。
その家には、年老いた媼(オウナ)が一人いた。また、牛飼いの童で年が十五歳くらいの者もいた。
そのうち、人がやって来てこの童を呼び出して去って行った。
しばらくすると、あの童が泣き叫ぶ声が聞こえてきた。それからすぐに、泣きながら童は帰ってきた。
僧は媼に訊ねた。「あの童は何故泣いているのですか」と。
媼は、「この子の主人は牛を飼っていて、その事でいつも折檻されて泣いているのです。父親とは早くに死に別れ、力になってくれる者とてない身の上なのです。ただ、この子は二十四日(地蔵尊の縁日)に生まれましたので、名前を地蔵丸と言うのです」と言った。
僧は、この童の境遇を聞いているうちに、心の内で不思議な気がして、「この童は、もしかすると、私が長年願ってきた地蔵菩薩の化身ではないだろうか。菩薩の誓いは不可思議なものだ。凡夫の身では誰もそれを知ることは出来ないのだ」とは思ったが、すぐにはそうとは決めかねて、いっそう深く菩薩を念じ奉って、一晩中寝ることもなく過ごしたが、「丑の時(ウシノトキ・午前二時頃)の頃にもなったか」と思われる頃、この童が起き上がって座り、「私はあと三年、この主人に使われて折檻されるはずであったが、今、ここに泊まっている僧にお会いしたので、今すぐに他所へ行くことにしよう」と言うと、外に出て行った気配もなく掻き消すように見えなくなった。
僧は、驚き怪しんで、媼に、「これはいったい、あの童は何と言っていたのですか」と尋ねると、今度は、媼は外へ行くともいうこなく、たちまち姿が見えなくなった。
そこで、僧は、「これは、ほんとうに地蔵の化身だったのだ」と知って、大声で叫び呼んだが、媼も童も遂に見えなくなってしまった。
夜が明けて後、僧はその里の人に、媼と童が姿を消したことを涙ながらに語り、「私は長い間、地蔵菩薩に帰依して『現世の身でお会いしたい』と願ってきました。ところが、今、その感応があって、地蔵菩薩の化身にお会いすることが出来ました。ありがたいことです。貴いことです」と言った。
里の人々はこれを聞いて、涙を流して、尊ばない者はいなかった。
されば、難しいことではあるが、心を込めて願えば、誰もがこのように菩薩の化身にお会いすることが出来るのだが、心を込めることが足りないためお会いすることが出来ないのだ。
この話は、この僧が京に上って語り伝えたものを聞き継いで、
語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 地蔵の霊験に触れた二人 ・ 今昔物語 ( 17 - 2 ) 』
今は昔、
尾張の前司(ゼンジ・前任の国司)[ 欠字。氏名が入るが不詳。]という人がいた。長年、朝廷に仕えていたが、後には出家して入道(ニュウドウ・正規の修行をすることなく出家した者。)と称していた。
その家に、一人の心の猛々しい男がいた。名前を武蔵介紀用方(キノモチカタ・伝不詳)という。この用方は生来武勇を好む性格で、邪見熾盛(ジャケンシジョウ・よこしまな考え方が盛んなこと。)なこと限りなかった。まして、善心など全くなかった。
ところが、この用方、何事があったのか、にわかに堅固な道心を起こして、とりわけ地蔵菩薩に帰依し奉った。毎月二十四日には酒肉を断ち、女を遠ざけて、専らに地蔵菩薩を祈念し奉った。また、日夜に阿弥陀の念仏を唱えた。また、常に精進潔斎の生活を送るようになった。
だが、この用方はもともと大変怒りっぽい性格なので、ふつうに話をしている時でも、何かにつけて烈火のように怒りだした。けれども、それを見る人はいつもの事なので、馬鹿にして笑った。
そうした事があるが、怒りの心を起こしながらも地蔵を念じ、念仏を唱えることを怠らなかった。
さて、その頃、世間に阿弥陀の聖という者がいた。日夜を問わず歩き回って、世間の人に念仏を進める者である。
ある時、その聖は夢の中で、金色の地蔵菩薩にお会いし奉った。そして、その地蔵は自ら阿弥陀の聖にお告げになった。「汝は明日の暁に、それそれの小路を歩いている時、そこで会った人をまぎれもなくこの地蔵だと思うがよい」と。
聖は、夢から覚めた後、心の内で地蔵菩薩の化身にお会いできることを喜んで、明くる日の暁に、念仏を勧めるためにそれそれの小路を歩いていると、一人の俗人(出家していない者、という意味。)がやって来た。
聖は、その俗人を見て問いかけた。「あなたは、どういうお方ですか」と。
俗人は、「私は紀用方という者です」と答えた。
聖はそれを聞くと、用方を何度も礼拝して、涙を流してありがたがり、貴んで言った。「私は前世での善業が厚かったので、今、地蔵菩薩にお会いすることが出来ました。どうぞ必ず私をお導き下さい」と。
用方はこれを聞いて、驚き怪しんで言った。「私は、この通りの極悪邪見の者です。聖はどういうわけで、涙を流してありがたがって私を礼拝されるのか」と。
聖は涙を流しながら話した。「私は昨夜の夢で、金色の地蔵尊にお会いしました。その地蔵尊は私に、『明日の暁にこの小路で会う人を、まぎれもなくこの地蔵だと思いなさい』と告げました。私はその事を深く信じていましたところ、今、あなたにお会いしたのです。そこで、はっきりと、このお方こそ地蔵菩薩が姿を変えて現れなさったのだと知ったのです」と。
用方はこれを聞いて、心の内で「私は、地蔵菩薩を念じ奉って、すでに長い年月が過ぎた。もしかすれば、それによって地蔵菩薩が霊験をお示しになったのかもしれない」と思って、聖と別れた。
その後、用方はいっそう心を込めて、地蔵菩薩を念じ奉ること限りがなかった。
やがて、用方もしだいに年を取り、遂に出家して入道となった。
そして、十余年を経た後、身に病を得たとはいえ苦しむことなく、心穏やかに、西に向かって弥陀の念仏を唱え、地蔵の名号を祈念して、命絶えたのである。
これを見聞きしたすべての道俗男女は、涙を流して感激し尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 戦場に現れた小僧 ・ 今昔物語 ( 17 - 3 ) 』
今は昔、
近江国、依智郡、賀野の村(現在の愛知郡の内)に一つの古寺があった。
その寺に地蔵菩薩の像が安置されている。その寺は、検非違使左衛門尉平諸道の先祖の氏寺である。
その諸道の父は、極めて勇猛な者であった。それゆえ、常に合戦に出ることを仕事としていた。
ある時のこと、敵を攻めて討つために、多数の軍勢を率いて戦っているうちに、胡録(ヤナグイ・矢を入れて背負う武具。)の矢を全部射尽くしてしまって、どうしようもなくなったので、心の内で「我が氏寺の三宝、地蔵菩薩、我を助け給え」と念じ奉っていると、突然、戦場に一人の小僧が現れて、矢を拾い取って諸道の父に与えた。
まったく思いがけないことであったが、その矢を受け取って、射ながら戦ったが、見れば、その矢を拾っている小僧の背中に、矢が射立てられた。その後、小僧の姿がたちまち見えなくなった。
「小僧は逃げていったのだ」と思って、前のように戦い続けているうちに、諸道の父は当初の目的通りに敵を討ち果たすことが出来て、戦いに勝利して喜んで家に帰った。
「あの矢を拾ってくれた小僧は、いったい誰の従者だろう。また、どこから現れたのだろう」と何も分からないので、あちらこちらと尋ねさせたが、知っている者は全くいない。
「わしに矢を拾って与えているうちに、背中に矢を射立てられていたので、もしかすると、死んでしまったのかも知れない」と哀れで気の毒に思ったが、分らず終いになった。
その後、諸道の父は、氏寺に詣でて、地蔵菩薩を見奉ると、その背には矢が一筋射立てられていた。
諸道の父はそれを見て、「そうだったのか、戦場で矢を拾ってわしに渡してくれた小僧は、何と、地蔵菩薩がわしを助けるために姿をお変えになったのだ」と思うと、しみじみと感激し、泣く泣く礼拝し奉ること限りなかった。
その辺りの上中下の人々もこの事を見聞きして、涙を流して感激し貴び奉らない者はいなかった。
まことに、これを思うに、極めて貴くありがたいことである。地蔵菩薩は、衆生にご利益をお与えになるために悪人の中に交わって、祈念し奉る人のためには、毒の矢を我が身にお受けになることはかくの如しなのである。
いわんや、後世の事を心を尽くして祈念し奉れば、お助け下さることは疑いないことである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 地蔵に助けられた無礼な男 ・今昔物語 ( 17 - 4 ) 』
今は昔、
備中国[ 欠字。「津」らしい。]郡に藤原文時(伝不詳)という者がいた。字(アザナ・通称)は大藤大夫(ダイトウダイブ)と言った。この者は、先祖相伝の良家の子孫である。その家はたいそう裕福で、子孫は繁栄していた。
その文時の家は、津郡宮郷にあった。その文時の従者に一人の男がいた。生来、思考や言動が常軌を逸していて、いつも主人の気に入らぬ事ばかりしていた。その男の家は、文時の家の門前にあった。
ある時、この男が主人に無礼な行いをしたので、文時は大いに怒り、郎等(家来。従者)の中で特に武勇に勝っている者を一人呼んで、「おい、速やかにあの無礼な奴を召し捕って、津坂(ツノサカ)に連れて行って殺してしまえ。必ず、命令に背いてはならんぞ」と命じた。
そこで、郎等は主人の命令を受けて、無礼な男を捕まえて、縄で縛り、馬の前に立たせて追い立てて、津坂に連れて行った。
こうされる間、無礼な男は泣きながら心の内で祈念したことは、『今日はまさに二十四日で、地蔵菩薩のご縁日です。私は今、そのご縁日に、殺されようとしています。これは地蔵菩薩にとって御嘆きではございませんか。願わくば地蔵尊、あらたかなお慈悲を賜って、私をお助け下さい。もしお助けいただければ、私は地蔵尊の御像をお造りいたします」と、一足ごとに祈念し奉り、まったく他のことは考えなかった。
その頃、文時の家に、僧が三人ばかりやって来た。
文時はその僧たちに会って話をしているうちに、文時は自分から、あの無礼な男を殺すために津坂に連れて行ったことを話した。僧たちは、それを聞くと大変驚き、「今日は、まさに地蔵菩薩が衆生をお助けする日ですよ。ですから、決して悪行をなさってはいけません」と言った。
文時はそれを聞いて、大変畏れ、一人の男を呼んで、この殺害を止めさせるために、駿馬に乗せて走らせて、一行を呼び返すよう命じた。
そこで、命じられた男は、鞭打って馬を走らせて追ったが、津坂は遠く、また、かなり先に進んでいるので、すぐには追いつけない。
一方で、無礼な男を殺害しようとしている男は、ようやく津坂に行き着こうとしていたが、その時、後ろの方から大きな声で呼び叫ぶ者がいた。よく聞いてみると、「主人の大夫殿のご命令である。その男を慌てて殺してはならぬぞ」と言っている。
そこで、振り返ってその呼ぶ者を「何者か」と見てみると、年が十余歳ばかりの小僧だった。その小僧が、命がけで走って呼び叫んでいる。
そこで、この殺害しようとしている男は馬をゆっくり進ませ、小僧は早く走っているので、その差は二町ばかりになった。殺害しようとしている男は驚き怪しんで、馬から下りてしばらく留まっていると、あの駿馬に乗って止めるために追ってきた男が追いついた。
そして、慌てて殺してはならない、という命令を伝えると、同じように追ってきていた小僧の姿が、突然見えなくなった。それに気付いて、使者たちは不思議に思いながら、命じられたように無礼な男を連れて返り、主人の家に着くと、小僧が走って追ってきて殺害を止めるように言ったことを語ると、文時は奇妙に思い、無礼な男を召し出して詰問すると、その男は涙を流して泣く泣く答えた。「これは他でもありません。ひたすら地蔵菩薩を祈念し奉ったからです」と。
文時はこれを聞いて、地蔵菩薩が目の前で示されてご利益を貴く思った。これを見聞きした人も、皆涙を流して尊ばない人はいなかった。
その後、その里の人は、上中下すべての人が地蔵菩薩の像を造りまた絵に描いて、帰依し奉ることを恒例の事として今も絶えることなく行われている。
無礼な男は、地蔵のお助けによって命が助かったことを喜び、これまで以上に心を込めて地蔵にお仕えした、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 泥の中の地蔵尊 ・ 今昔物語 ( 17 - 5 ) 』
今は昔、
陸奥の前司、平朝臣孝義(1023 年に陸奧守だったらしい。)という人がいた。
その家に郎等として仕えている男がいた。本名は分からない。字(アザナ・通称)を藤二(トウジ)といった。
さて、孝義が陸奧国の国司であった時、その男を検田(ケンデン・田地の面積や収穫量などを検定すること。)の使いとして先に下向させた。
そこで、この男は陸奧国に行き、田の辺りに立って検田していたが、ふと見ると、泥の中に一尺ばかりの地蔵菩薩の像が、半身は泥の中に入っていて、半身は泥から出ていらっしゃる。
藤二はこれを見て、驚いて馬から急いでで下りて、人に命じて引き出し奉ろうとしたが、重たい石のようで引き出し奉ることが出来ない。そこで、多数の人を集めて引き出し奉ろうしとたが、やはり、お出にならない。
その時、藤二は不審に思って、心の内で祈念して、「この地蔵菩薩のお姿を見奉るに、引き出し奉ることが出来ないとは思えない。それにのに、このように引き出し奉ることが出来ないのは、きっと理由があるのでしょう。もしそうであれば、必ず、今夜の夢の中でお示し下さい」と申して、帰った。
その夜の夢に、容姿端正な小僧が現れ、藤二に告げて「我、泥の中にあり。その田は、もとは寺であった跡である。その寺はずっと前になくなり建物も壊れてしまい、多くの仏・菩薩の像は皆泥の中に埋まって在(マ)します。されば、その仏・菩薩の像を皆掘り出し奉れば、我も共に出ることにしよう」と仰せになった、と見たところで夢から覚めた。
藤二は、驚き畏れて、明くる朝、多数の人夫を集めて引き連れ、鋤や鍬を持って、あの所に行って掘らせると、夢のお告げのように、五十余体の仏・菩薩の像を掘り出し奉った。その時に、地蔵菩薩も容易くお出になった。
藤二ならびにその近辺の人たちは皆これを見て、貴び喜んで、すぐにその場所に粗末な草葺きのお堂を建てて、この多くの仏・菩薩を安置し奉った。
ただ、あの地蔵菩薩一体だけは、藤二は特に帰依し奉り、共にお連れして上京した。そして、六波羅の寿久聖人(伝不詳)という人が藤二と親しかったので、その僧房にお送り奉った。寿久聖人は、この地蔵の事の経緯を聞いて、感激し貴び、改めて彩色を施して、僧房に安置して朝暮に恭敬(クギョウ・慎み敬うこと。)供養し奉った。
その地蔵は、今もその寺に在します、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 お堂を出た地蔵と毘沙門 ・ 今昔物語 ( 17 - 6 ) 』
今は昔、
土佐国に室戸の津という所がある。
そこに、一つの草葺きのお堂がある。津寺という。
そのお堂の軒の垂木の先端がみな焼け焦げていた。その所というのは、海の岸辺で、人里から遠く離れていて行き来の少ない所である。
さて、その津に住んでいる年老いた人が、このお堂の軒の垂木の先端が焼け焦げている由来を次のように語った。
「先年、野火が発生して、山野がことごとく焼けましたが、その時、突然一人の小僧が現れて、この津の人の家ごとに走り回って、大声で『津寺が今まさに焼失しようとしている。大急ぎで、里の人は総出で火を消して下さい』と言いました。
津の辺りの人々は、皆これを聞いて走り集まって来て津寺を見ますと、お堂の周りの辺りの草木は皆焼け払われていました。お堂は、軒の垂木の先端が焦げてはいましたが、未だ焼けてはいませんでした。そして、お堂の前の庭の中に、等身の地蔵菩薩と毘沙門天が、それぞれ安置されていたお堂を出て立っておいででした。ただ、地蔵は蓮華座には立っておられず、毘沙門は鬼の姿をした者を踏みつけてはいませんでした。
その時、津の人々は皆これを見て、涙を流して感激し、『この火を消したのは毘沙門天がなさったことだ。人々を呼び集められたのは地蔵のご方便だったのだ』と思って、その小僧を探しましたが、もともとその辺りには、その様な小僧はおりませんでした。これを見聞きした人は、『不思議な事だ』とたいそう感激し貴びました。
それから後は、この津を通り過ぎる船人で、信心深い道俗男女は、この寺に詣でて、その地蔵菩薩と毘沙門天に結縁し奉らない人はおりません」と。
これを思うに、仏や菩薩のご利益の不思議はたくさんあるが、まさしくこれは、火難に際して、お堂を出て庭にお立ちになり、あるいは小僧の姿となって人々を集めて火を消そうとなさったのである。これ皆、まことに有り難いことである。
人はもっぱら地蔵菩薩にお仕えすべきである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 霊験あらたかなり清水寺 ・ 今昔物語 ( 17 - 7 ) 』
今は昔、
近江国、志賀の郡に崇福寺(シュフクジ・志賀寺とも。668 年創建。平安時代初期までは十大寺の一つとされたが、火災が相次ぎ衰退した。)という寺があった。
その寺に一人の僧が住んでいた。名を蔵明(ゾウミョウ・伝不詳)という。この僧は慈悲深く辛抱強く、施しの心が広かった。
しかし、自分には、一塵(イチジン・ほんの少し)の貯えとてなく、この上なく貧しいかった。そのため、施しの心が広いと言っても、貯えがないので思いに反することが多かった。
ひたすらに地蔵の名号を唱えて、それ以外のことは何もしない。されば、世間の人はこの僧を地蔵聖と呼んでいた。
ある時のこと、蔵明の夢に、一人の人が現れて告げた。「汝は速やかに播磨国に行きなさい。その国の東北に一つの深い山があり、その山の頂きに一つの勝地(ショウチ・霊験あらたかな場所)がある。その場所に住みなさい」と。
そこで、蔵明は夢のお告げに従って、播磨国に行き、夢で教えられた所を尋ねて、その勝地を卜(シメ・霊験で見つけたのか?)て庵室を造って住むことにした。そして、その所で、長年勤行に勤めたが、その間、この国の人はまったくその事を知らなかった。
ある時、蔵明の夢に、一人の小僧が現れた。その姿は端正で、左の手に宝珠を捧げ、蔵明に歩み寄ってお告げになった。「汝は、前世の業が拙くて、今生では貧しい身となっている。ところが、熱心に我に祈念している。我はこの宝珠を汝に与えよう。これで以て、汝の施しの志を遂げるがよい」と。
蔵明は夢の中で、「これは、我が本尊である地蔵尊が現れて下さったのだ」と思って、自ら地にひざまずいて涙ながらに宝珠を頂戴したところで、夢が覚めた。そして、涙を流しながら感激すること限りなかった。
そこで、ますます心を尽くして地蔵菩薩を祈念し奉ったので、国中の多くの人たちは、自然とこの事を知って、蔵明に帰依するようになり、弟子や従者が出来て、僧房の中は豊かになった。
やがて、遂に一つのお堂を建て、等身の地蔵菩薩の像を造って安置し、その寺を清水寺(キヨミズデラ・西国三十三所観音霊場の第二十五番として現存。)と名付けた。
その後、この寺の霊験あらたかで不思議なご利益があった。それによって、国中の諸々の人々、上中下の男女は頭を下げて参詣すること雲が湧くかの如くであった。
然れば、自然と集まってくる信者の布施は、この山いっぱいに満ちて置く所もないほどであった。蔵明はもとより施しの心が深いので、人の請うままにそれらを施した。
これはひとえに、地蔵菩薩の利生方便(リショウホウベン・格別に勝れた仏菩薩のご利益)によるものである。されば、人々はもっぱらに地蔵にお仕えしなくてはならない。
その清水寺の霊験はあらたかにして、今もその国の人はこぞって参拝する所である、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 浄土へ還った沙弥 ・ 今昔物語 ( 17 - 8 ) 』
今は昔、
陸奥国の国府に、小松寺(宮城県にあったらしい?)という寺がある。
かなり前のことであるが、一人の沙弥(シャミ・見習い僧)がいて、その寺に住んでいた。名を蔵念(ゾウネン・伝不詳)という。これは、平将門の孫良門の子である。
その良門(ヨシカド・実在かどうか、よく分らない。)は、金泥の大般若経一部を書写供養した者である。
この沙弥は、ある月の二十四日(地蔵菩薩の縁日)に生れたので、父母は地蔵菩薩に因んで蔵念と名付けたのである。この沙弥は、幼い時から専らに地蔵菩薩を祈念し奉り、寝ても覚めても常に心にかけて怠ることがなかった。
また、この沙弥の容姿は美麗で、見る人は皆それを誉めた。また、その声もすばらしく、聞く者は皆それを貴んだ。
そこで、人々はこの沙弥を地蔵小院と呼んだ。
ところで、この沙弥の日ごろの所業ははなはだ奇特なものであった。一軒一軒を尋ねては、自ら錫杖(シャクジョウ・修行僧などが持つ杖。)を振って、地蔵の名号を唱えて人々に聞かせた。毎日あちらこちらと歩き、口で法螺貝を吹いて、地蔵の悲願を誉め称えた。それによって、信仰心を起こす人が世間に多かった。
殺生放逸を日常としている人でも、この沙弥を見ると、即座に悪心を止めて、たちまち善心を起こした。
然れば、世間の人はこの沙弥を地蔵菩薩の大悲(衆生を救うための大きな慈悲心。)の化身なのだ、と言い合った。
このようにして何年もが経ち、沙弥も七十二歳となると、たった一人で深い山に入り、消息を消してしまった。
すると、国中の貴賤の男女は、この沙弥が姿を消してしまったことを惜しんで、尋ね求めたが見つけることが出来ず、皆は手を合わせて、あの沙弥が入っていった山に向って、悲しみ嘆きながら礼拝するばかりであった。
国の人は皆、「あの地蔵小院は、ほんとうに生きた地蔵菩薩であられたのだ。それなのに、我等の罪が重いが故に、突然我等を棄てて、浄土にお還りになってしまったのだ」と言って、嘆き悲しみあったのである。
その後、この沙弥の消息を遂に聞くこともなく、消え失せたままになってしまった。
これは不思議な話である、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 母の飢えを救う ・ 今昔物語 ( 17 - 9 ) 』
今は昔、
比叡の山の横川(ヨカワ・東塔、西塔と共に比叡山三塔の一つ。)に一人の僧がいた。名を浄源(ジョウゲン・伝不詳)という。俗姓は紀氏である。
慶祐阿闍梨(キョウユウ アジャリ・946 年生れ。1007 年に生存の記録ある。)という人の入室写瓶(ニュウシツシャビョウ・師僧の伝授する教法をあますところなく習得すること。)の弟子である。長年、比叡山に住んで、顕教・密教の法文を学んだ。また、道心堅固にして、熱心に仏法を修行した。
ある時、世の中に飢饉が起り、餓死する者が多く出て、死人が路頭にあふれていた。
ところで、この浄源聖人には、老いた母と妹一人が、京の家で貧しく暮らしていた。食べる物もまったくなく、まさに餓死しそうになっていた。
その時に、浄源は地蔵の衆生済度の誓願に深く頼って、密かにその法を行い、「老母を助け給え」と祈念すると、その行法一七日(イチシチニチ・七日間)の満願の夜、京に住んでいる老母の夢に、容姿端正な一人の小僧が現れて、手に美しい絹三疋(ヒキ・一疋はニ反)を捧げ持ってやって来て、老母に「この絹は上等の中でも最高の品です。横川の供奉(グブ・供奉十禅師のことで、諸国から選抜されて宮中の内道場に奉仕する十人の僧。)の御房がお遣わしになった物です。速やかにこれを米と交換して、ご用に当てなさい」と言って絹を渡した、と見たところで夢から覚めた。
そこで、すぐに側に寝ている人にこの夢のことを話した。
やがて、夜が明けた。
見ると、夢の中で与えられた絹が、実際に側にあった。美しい絹三疋である。
これを見た側の人は、驚きのあまり手を打ち空を仰いで、「何と不思議な事だ」と感激するばかりであった。
老母は、「もしかすると、現実に誰かが持ってきてくれたものを、私が寝ぼけて夢だと思ったのか」と思って尋ねたが、やって来た人は全くいない。恐ろしい気もしたが、使っている女にこの絹を売りに行かせたところ、ある豊かな家がこの女を呼び入れて、この絹を見て感嘆して喜び、米三十石の値段で買い取った。
そこで、その米を家に運んで使ったが、一家は豊かになり食べ物に困ることがなくなった。
その後、やはりこの事が不審に思われて、横川に人を登らせて、この由を伝えさせたところ、浄源はそれを聞いて、涙を流して地蔵の悲願が虚しくないことを貴び感激して、老母のもとに、「私は、母上の飢えをお助けするために、地蔵尊の誓願におすがりして、その御祈祷を行いました。実は、母上が夢で絹を受け取られた夜は、この行法の一七日の満願の日に当たっていたのです。これはひとえに、地蔵菩薩のご利益でしょう」と返事を伝えた。
老母はこれを聞いて、地蔵菩薩のご利益を貴び、また、浄源の孝養心の深いことを喜ぶのであった。
これを聞く人は、皆涙を流して、地蔵菩薩にお仕えした、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆