『 乙女の姿 』
五節の舞姫を見てよめる
天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ
作者 良岑宗貞
( 巻第十七 雑歌上 NO.872 )
あまつかぜ くものかよひぢ ふきとぢよ
をとめのすがた しばしとどめむ
* 歌意は、「 天上から吹く風よ 雲がやって来る道を 吹き閉じてくれ そして 天上に帰る天つ乙女を 今しばらく止めておいてくれ 」といった、雅な行事の一コマを詠んだものでしょう。
なお、「五節(ごせち)」は、陰暦十一月に行われる豊明節会(新嘗会・天皇が新穀を食す行事)で奉納される、五人の乙女による舞のことです。
また、初句に「あまつかぜ」とあるのは、五節の舞の起源が、天武天皇が吉野で天女の舞を見たことに基づく、という伝説を受けています。
この和歌は、百人一首にも採録されていて、おそらく、その中でも一、二を争う人気の高い歌ではないでしょうか。
* 作者の良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)は、歌人としては僧正遍照(ソウジョウ ヘンジョウ・遍昭とも)として知られている人物の、出家前の名前です。 誕生は 816 年、没年は 890 年、平安前期の人物です。
遍照の父は、大納言良岑安世です。安世は桓武天皇の御子ですが、母が身分の低い家柄であったため、親王宣下を受けることなく、十九歳の頃に「良岑朝臣」姓を賜って臣籍降下したのです。
その安世の生母は百済永継といい、渡来人系の下級貴族であったようです。本拠地は河内国安宿郡とされていますので、藤原氏と縁のある地域の豪族といった家柄だったのかも知れません。
そうした家柄からでしょうか、最初は藤原内麻呂の妻となり、774 年に真夏、775 年に冬嗣を儲けています。しかし、その後、何らかの理由で離別したらしく、桓武天皇の後宮の女房となり、天皇の寵愛を受け安世を儲けましたが、終生正式に妃の一人に認められることなく、自身の官位も従七位下という信じられないほど低いままでした。
ただ、桓武天皇には、皇后の他に、夫人・妃・女御の他、子を儲けた女性だけでも数十人いたともされるので、百済永継に限ったことではなかったのかもしれません。
* ただ、この百済永継という女性は、その御子の子孫の繁栄ぶりを見ると、歴史上大きな意味を持つ女性であったともいえるのです。
最初の夫の内麻呂は、藤原北家の嫡流であり、その跡を冬嗣が継ぎ、やがて藤原北家の全盛期を迎えるのです。摂関家の中核をなし、多くの姫君が入内し、天皇の生母になるなど、永継の子孫の繁栄は現代にまで続いているのです。
桓武天皇の御子・安世を儲けたのは 785 年のことですが、この間の事についての情報は少ないようです。安世は、臣籍降下の後は公卿として大納言まで昇っていますが、本来なら親王として遇せられる立場であっただけに、不本意であったかも知れません。
* さて、本稿の主人公である宗貞は安世の八男(?)として誕生しました。父が良岑朝臣の姓を賜って十三年ほど後のことですから、桓武天皇の孫とはいえ、皇族としての意識は全くない環境で育ったものと考えられます。
官職としては、844 年に蔵人として出仕しており、同年の内に従五位下を受けています。二十九歳の頃の事ですから、血筋からすれば恵まれた宮廷生活ではなかったようです。ただ、仁明天皇には可愛がられたようで、蔵人頭などに就いていますが、仁明天皇の死去と共に出家しているいるのです。最終官位は、従五位上ですから、朝廷政治に関わるといった地位を経験することはありませんでした。
* 良岑宗貞が出家して遍照となったのは三十五歳の時ですから、僧としての生活は四十年に及ぶことになります。
比叡山に入り慈覚大師円仁により戒を受け、僧正の地位にまで昇っていますので、僧侶としての生活は、充実したものであったように思われます。ただ、後世の私たちが遍照を評価するのは歌人としての存在です。
古今和歌集には十八首が採録されている他、紀貫之が書いたとされる「仮名序」の中で、「近き世にその名聞えたる人は」として六人の歌人が紹介されていますが、その中に遍照が選ばれています。後に、六歌仙と呼ばれることになるのですが、遍照の死後間もないこの頃には、遍照は歌人として高い評価を受けていたようです。
* 遍照の歌風については、個人的には、僧侶らしからぬ華やかなものと考えていますが、その背景には、桓武天皇の孫という家柄、僧侶としても恵まれた境遇といったものから来るものだと考えていますが、もしかしますと、その正反対で、皇孫でありながら思い通りにいかない境遇への反発なのかも知れないとも思うのです。
紀貫之の「近き世にその名聞えたる人は」として選んだ人々への評価はいずれも厳しい内容ですが、遍照に対しては、『歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすごとし。』とあります。
この紀貫之の評価を、どのように解釈するかということも、実に興味深いと思うのです。
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