雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

芸術の力

2022-05-31 18:43:16 | 日々これ好日

        『 芸術の力 』

     ウクライナで学んだことのある 音楽関係者らと
     ウクライナから来日している人などを中心に
     ウクライナを支援するための 活動の様子が放映されていた
     楽器を武器に持ち替えた仲間が いることを語り
     自分たちの活動に 引け目を感じる部分もあると
     語る人もいた
     戦争は いつも 芸術や文化を踏みにじる
     芸術には 人を殺傷する力はないが
     平和を取り戻す力は あるものと信じたい 

                   ☆☆☆

 

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地獄絵を描いた名絵師 ・ 今昔物語 ( 31 - 4 )

2022-05-31 07:59:57 | 今昔物語拾い読み ・ その8

       『 地獄絵を描いた名絵師 ・ 今昔物語 ( 31 - 4 ) 』


今は昔、
一条院(一条天皇)の御代に、絵師巨勢広高(コセノヒロタカ)という者がいた。古人にも劣ることなく、当代にも肩を並べる者がいないほどの絵師であった。
さて、この広高はもともと信仰心が厚かったが、重い病にかかり長い間煩っているうちに、世の中を「虚しい」と感じ取って、出家してしまった。
その後、病は癒えて元気になったが、朝廷では広高の出家をお聞きになり、「法師になっても絵を描くことに差し障りはあるまいが、内裏の絵所に召して使うには具合が悪いので、速やかに還俗すべきである」と定めて、広高を召して、その旨を仰せになった。
広高は、それは本意では無いと嘆き悲しんだが、宣旨が出てはどうすることも出来ず、仕方なしに還俗した。

そこで、近江守[ 欠字。人名が入るが不詳。]という人に広高を預けて髪を伸ばさせた。近江守はその所(この場所がどうも分かりにくい)に新しい堂が一つあったので、そこに籠もらせて、人に会わせないようにして、髪を伸ばさせていたが、広高は、堂の背後の壁板に、つれづれなるままに、地獄の絵を描いた。
その絵は、今も残っている。多くの人がやって来てこの絵を見た。皆が「すばらしいものだ」と言った。今の長楽寺(京都の円山公園の近くの寺のことを指すらしいが、どうもしっくりこない。)というのは、その絵を描いた堂である。

広高は、その後は俗人として長い間朝廷に仕えた。この広高が描いた襖絵(フスマエ)や屏風の[ 欠字あるも、内容不詳。]然るべき所にある。一の所(摂関家などを指す。)に代々伝えられている物の中にも、広高が描いた屏風の絵がある。これは家宝として、大饗(ダイキョウ・大宴会)や特別な客などの時に、取り出されている。
                      ( 以下、欠文 )

     ☆   ☆   ☆

* 以下の展開は全く不明ですが、当初から欠落していたようです。
ここまでの段階でも物語としては成立していますので、作者は、捨て難くてこの巻に加えたのかも知れません。

     ☆   ☆   ☆

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食糧危機

2022-05-30 18:41:20 | 日々これ好日

       『 食糧危機 』

    ウクライナの穀物が 港を押えられ輸出できず
    中東やアフリカ諸国に 大きな影響を与えそうだ
    ロシアは 世界的な食糧危機を 人質にするかの発言
    もっとも 経済制裁という手段も 同じ事なので
    当然予想される 戦略ではある
    そうした現実に 防衛予算の拡充は とても大切だが
    わが国の食糧自給率の低さに もっと危機感を持つべきだと思う
    防衛力の増強は 内外からの反発も予想されるが
    食糧自給率の向上は 反対する人はそう多くはあるまい
    ウクライナ情勢を 心配するだけでは仕方あるまい

                      ☆☆☆

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コロナとマスクと熱中症

2022-05-29 19:12:50 | 日々これ好日

     『 コロナとマスクと熱中症 』

    激しい雨のあとは 本格的な夏を思わせる日差し
    すでに 熱中症で運ばれる人も出ているとか
    コロナの新規感染者は 減少気味だが いかにもゆるやか
    マスク不要を 発表するのは 少し恐く
    マスクが原因だと思われる 熱中症がとても気になる
    コロナと熱中症が マスクを引っ張り合う
    夏になりそうな 予感・・・

                  ☆☆☆

 

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旅行の広告が増えてきた

2022-05-28 18:48:50 | 日々これ好日

      『 旅行の広告が増えてきた 』

    新聞の 旅行の広告が増えてきた
    来月には 海外からの観光客も
    人数制限ながら お迎えできることになりそうだ
    まだ 新規感染者数は多く 減少幅も小さい
    マスク一つとっても ああだこうだと
    責任を取りたくないといった 見え見えの発言が多い
    しかし 何としても ここからは
    日常生活を確保した上での対策を 中心にしたいものだ

                     ☆☆☆


    

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妻を娶った阿闍梨 ・ 今昔物語 ( 31 - 3 )

2022-05-28 08:01:09 | 今昔物語拾い読み ・ その8

       『 妻を娶った阿闍梨 ・ 今昔物語 ( 31 - 3 ) 』


今は昔、
[ 欠字。「文徳天皇」らしい。]の御代に、湛慶阿闍梨(タンケイアジャリ・815 - 880 比叡山の僧。)という僧がいた。慈覚大師(第三代天台座主。)の弟子である。真言教義を極め、仏典や和漢の典籍も極め、諸道について才能があった。

湛慶は真言の行法を修得して、公私にわたって仕えていたが、忠
仁公(藤原良房)が病気の時に、湛慶が御祈祷のために呼ばれて参上した。そして、祈祷し奉ったところ効験はいちじるしく、病は平癒したが、「このまましばらく伺候しているように」と屋敷に留め置かれていたが、若い女の声が聞こえてきて、湛慶の前に供養の膳を調えた。
湛慶は、この女を見たとたん、深い愛欲の情を起こし、密かに口説いて、互いに情を交わすようになり、遂に破戒僧となってしまった。その後、隠してはいたが、その噂は広く知れ渡ってしまった。

湛慶は、以前熱心に不動尊にお仕えして修行をしていたが、ある時、夢の中でお告げがあって、「汝は心から我に帰依している。我は汝を加護してやろう。但し、汝は前生の因縁によって、[ 欠字。「尾張」らしい。]の国[ 欠字。郡名が入るが不詳。]の郡に住む[ 欠字。人名が入るが不詳。]という者の娘と通じて、夫婦となるであろう」と聞かされたところで、夢から覚めた。
その後、湛慶はこの事を嘆き悲しんで、「私は何ゆえあって、女と通じて戒を破ることがあろうか。ただ、私は不動尊が教えて下さったその女を尋ねて、殺して、安心していられるようにしよう」と思い至って、修行に出るような振りをして、たった一人で、[ 欠字。「尾張」らしい。]の国へ行った。そして、教えられた所に尋ねて行くと、本当にそういう人がいた。
湛慶は喜んでその家へ行き、そっと中の様子を見た。家の南面で湛慶は使用人のような振りをして窺っていると、十歳ばかりの可愛らしい女の子が庭に走り出てきて遊び回っている。すると、その後から下仕えの女が出て来たので、「あそこで遊んでいる女の子は誰か」と湛慶は尋ねた。女は、「あの方はこの屋敷の一人娘です」と答えた。
湛慶はそれを聞いて、「あれこそ、その女だ」と喜んで、その日はそれだけにして、次の日にまた行って、南面の庭にいると、昨日のように女の子は出てきて遊び回る。その時近くには誰もいなかった。湛慶は喜びながら走り寄って、女の子を捕らえて、その首を掻き斬った。
これに気づいた者は誰もいなかった。「後で見つけて大騒ぎになるだろう」と思って、遙か遠くまで逃げて、そこから京に帰った。

「もう、気になることはし終えた」と思っていたが、今になって、思いもかけずこのように女に迷ってしまったので、湛慶は「先年、不動尊が示して下さった女を殺してしまったのに、このように、思いもかけない女に迷ってしまったことは不思議なことだ」と思って、この女と抱き寝している時に、湛慶は女の首をさぐってみると、首に大きな傷跡があり、それは傷を焼いて癒着させた跡であった。
湛慶が「これは如何なる傷跡か」と訊ねると、女は「わたしは[ 欠字。「尾張」らしい。]の国の者です。[ 欠字。人名が入るが不詳。]という者の娘です。幼かった頃、家の庭で遊び回っていたところ、見知らぬ男が現れて、わたしを捕らえて首を掻き斬ったのです。その後で家の人が気づいて大騒ぎになりましたが、その男の行方は分からないままです。その後、誰かは分かりませんが、わたしの傷を焼き付けてくれたのです。死ぬはずの命を不思議にも助けられました。そして、縁あって、このお屋敷にお仕えしているのです」と言った。
これを聞いて湛慶は、不思議にも哀れに思った。自分がこの女と前世からの因縁があるのを、不動尊がお示し下さったのだと、貴くもしみじみと感じられ、涙ながらに女にこの事を話すと、女もしみじみと感動を覚えた。
こうして、二人は末永く夫婦として暮らすようになった。

湛慶が戒律を守らず破戒僧になってしまったので、忠仁公は、「湛慶法師はすでに破戒僧になってしまった。僧の姿でいることは許されない。しかし、仏道ばかりでなく和漢の道も極めた者である。こういう者を世の中から捨て去るべきではない。速やかに還俗(ゲンゾク・出家した者が俗人に戻ること。)して、朝廷に仕えるべきである」と決定されて、湛慶は還俗した。その名を公輔(キミスケ)という。もとの姓は高向(タカムコ)である。
即座に五位に叙せられて、朝廷に仕えた。これを高大夫(コウダイブ・伝不詳)という。
もともと優れた才能の持ち主なので、朝廷に仕えても何の見劣りもしなかった。遂に讃岐守に任じられて、家もますます豊かになった。
これを思うに、忠仁公は、才能のある者はこのように捨てなかったのである。

この高大夫は、俗人となったが、真言の密法をよく修得していた。
ところで、極楽寺という寺に木像の両界(金剛界の三十七尊と胎蔵界の九尊)像が安置されていたが、長らくその諸尊の座るべき位置が違っていて、ある人が、「これを誰か正しく直し奉る人はいないか」と、多くの真言の師僧を呼んで直させたが、様々な意見が出て、誰も直すことが出来なかった。
高大夫はその事を聞いて、極楽寺に行き、その両界を見奉って、「まことに、この諸尊が座っておいでの位置はことごとく間違っている」と言って、杖を持ち、「この仏はここにおいで下さい」「その仏はあちらにおいで下さい」と差し示すと、仏たちは、誰も手も触れ奉っていないが、踊るように杖が差し示す位置に、お移りになった。多くの人が、それを見ていた。
人々は、「高大夫が仏の位置を直し奉るために、極楽寺に行くらしい」と、かねてから聞いていたので、然るべき身分の人たちもいたが、このように仏たちがそれぞれ正しい位置に直られたのを見て、涙を流して尊んだ。

高大夫は、仏道やそれ以外の道に優れていたことは、このようであった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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ゼレンスキー発言

2022-05-27 18:37:51 | 日々これ好日

      『 ゼレンスキー発言 』

    沖縄県知事が ある有識者会議の前に
    「ゼレンスキーです」と発言したことが 尾を引いている
    直後に 「冗談です」と打ち消したそうだが
    別に打ち消さなくても 誰もゼレンスキー大統領などと思っていまい
    問題は あの危機にある国で奮闘している大統領を
    冗談のネタにしたことにあるのが 分かっているのだろうか
    ある有識者会議が始まる前の 発言らしいが
    この会議 まさか 何か役立つことでも討議したなどと
    言わないでしょうねぇ・・・
    それこそ 冗談になってしまいますよ まったく・・・

                    ☆☆☆

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乙女の姿

2022-05-27 07:59:40 | 古今和歌集の歌人たち

      『 乙女の姿 』

    五節の舞姫を見てよめる

 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ
        をとめの姿 しばしとどめむ

              作者  良岑宗貞

( 巻第十七 雑歌上  NO.872 )
        あまつかぜ くものかよひぢ ふきとぢよ
                  をとめのすがた しばしとどめむ


* 歌意は、「 天上から吹く風よ 雲がやって来る道を 吹き閉じてくれ そして 天上に帰る天つ乙女を 今しばらく止めておいてくれ 」といった、雅な行事の一コマを詠んだものでしょう。
なお、「五節(ごせち)」は、陰暦十一月に行われる豊明節会(新嘗会・天皇が新穀を食す行事)で奉納される、五人の乙女による舞のことです。
また、初句に「あまつかぜ」とあるのは、五節の舞の起源が、天武天皇が吉野で天女の舞を見たことに基づく、という伝説を受けています。

この和歌は、百人一首にも採録されていて、おそらく、その中でも一、二を争う人気の高い歌ではないでしょうか。

* 作者の良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)は、歌人としては僧正遍照(ソウジョウ ヘンジョウ・遍昭とも)として知られている人物の、出家前の名前です。 誕生は 816 年、没年は 890 年、平安前期の人物です。
遍照の父は、大納言良岑安世です。安世は桓武天皇の御子ですが、母が身分の低い家柄であったため、親王宣下を受けることなく、十九歳の頃に「良岑朝臣」姓を賜って臣籍降下したのです。
その安世の生母は百済永継といい、渡来人系の下級貴族であったようです。本拠地は河内国安宿郡とされていますので、藤原氏と縁のある地域の豪族といった家柄だったのかも知れません。
そうした家柄からでしょうか、最初は藤原内麻呂の妻となり、774 年に真夏、775 年に冬嗣を儲けています。しかし、その後、何らかの理由で離別したらしく、桓武天皇の後宮の女房となり、天皇の寵愛を受け安世を儲けましたが、終生正式に妃の一人に認められることなく、自身の官位も従七位下という信じられないほど低いままでした。
ただ、桓武天皇には、皇后の他に、夫人・妃・女御の他、子を儲けた女性だけでも数十人いたともされるので、百済永継に限ったことではなかったのかもしれません。

* ただ、この百済永継という女性は、その御子の子孫の繁栄ぶりを見ると、歴史上大きな意味を持つ女性であったともいえるのです。
最初の夫の内麻呂は、藤原北家の嫡流であり、その跡を冬嗣が継ぎ、やがて藤原北家の全盛期を迎えるのです。摂関家の中核をなし、多くの姫君が入内し、天皇の生母になるなど、永継の子孫の繁栄は現代にまで続いているのです。
桓武天皇の御子・安世を儲けたのは 785 年のことですが、この間の事についての情報は少ないようです。安世は、臣籍降下の後は公卿として大納言まで昇っていますが、本来なら親王として遇せられる立場であっただけに、不本意であったかも知れません。

* さて、本稿の主人公である宗貞は安世の八男(?)として誕生しました。父が良岑朝臣の姓を賜って十三年ほど後のことですから、桓武天皇の孫とはいえ、皇族としての意識は全くない環境で育ったものと考えられます。
官職としては、844 年に蔵人として出仕しており、同年の内に従五位下を受けています。二十九歳の頃の事ですから、血筋からすれば恵まれた宮廷生活ではなかったようです。ただ、仁明天皇には可愛がられたようで、蔵人頭などに就いていますが、仁明天皇の死去と共に出家しているいるのです。最終官位は、従五位上ですから、朝廷政治に関わるといった地位を経験することはありませんでした。

* 良岑宗貞が出家して遍照となったのは三十五歳の時ですから、僧としての生活は四十年に及ぶことになります。
比叡山に入り慈覚大師円仁により戒を受け、僧正の地位にまで昇っていますので、僧侶としての生活は、充実したものであったように思われます。ただ、後世の私たちが遍照を評価するのは歌人としての存在です。
古今和歌集には十八首が採録されている他、紀貫之が書いたとされる「仮名序」の中で、「近き世にその名聞えたる人は」として六人の歌人が紹介されていますが、その中に遍照が選ばれています。後に、六歌仙と呼ばれることになるのですが、遍照の死後間もないこの頃には、遍照は歌人として高い評価を受けていたようです。

* 遍照の歌風については、個人的には、僧侶らしからぬ華やかなものと考えていますが、その背景には、桓武天皇の孫という家柄、僧侶としても恵まれた境遇といったものから来るものだと考えていますが、もしかしますと、その正反対で、皇孫でありながら思い通りにいかない境遇への反発なのかも知れないとも思うのです。
紀貫之の「近き世にその名聞えたる人は」として選んだ人々への評価はいずれも厳しい内容ですが、遍照に対しては、『歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすごとし。』とあります。
この紀貫之の評価を、どのように解釈するかということも、実に興味深いと思うのです。

     ☆   ☆   ☆

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黄門様の印籠のつもりかな?

2022-05-26 19:08:32 | 日々これ好日

      『 黄門様の印籠のつもりかな? 』

   某町の 誤振り込みにより発展した事件は
   4630 万円のうち 4300 万円ほどを確保出来たとかで
   当町の関係者は 一安心というところらしい
   ところが 説明会における 町の代理人である弁護士の説明は 
   懇切丁寧なのだろうが 何か納得できない
   国税徴収法など あらゆる法的手段を駆使したらしが
   どうやら 該当者の資金が 600 万円ほどしか 残っていないのに
   どの業者からは分からないが 4300 万円差し出させたのだとすれば
   法律という武器で 奪い取ったようなもので
   これ 恐喝には当たらないのかな??  
         もつとも 私は 法律の全くの素人だが
   黄門様の印籠でも どこででも使ったわけでもあるまい と思う

                      ☆☆☆  

    

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プロ野球 交流戦始まる

2022-05-25 18:51:48 | 日々これ好日

      『 プロ野球 交流戦始まる 』

     プロ野球の セ・パ交流戦が昨日から始まった
     2005 年に始まった交流戦は
     去年までで16シーズンになるが(2020 年はコロナで中止)
     過去の成績は 優勝チームが セ=3 パ=13
     全体の勝敗数の比較では 勝が上回ったのが セ=2 パ=14
     となっていて プロチーム同士の戦いとは思えないほどの 大差
     昨日は セリーグが4勝2敗と勝ち越したが
     さて 今年の結果は如何に??

                       ☆☆☆
     

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