釈迦人間界に宿る ・ 今昔物語 ( 巻1-1 )
今は昔、
釈迦如来、未だ仏にお成りになっていない時は、釈迦菩薩と申されて兜率天(トソツテン・須弥山にあったとされる)の内院という所に住んでおられた。
やがて、閻浮提(エンブダイ・須弥山の南方洋上にあるとされる大島で、我々の住む世界をさす)に下生(ゲショウ・神仏がこの世に姿を現すこと)しようと思われた時、五衰(ゴスイ)を現された。その五衰というのは、一つには、天人(天上にある神・人の総称)はまばたきをしないのにまばたきをすること。二つには、天人の頭にある髪飾り(生花)はしぼむことがないのにしぼんだこと。三つには、天人の衣には塵が付くことがないのに、塵や垢が付いたこと。四つには、天人は汗をかくことがないのに、脇の下から汗が出たこと。五つには、自分の居る場所を変えないのに、自分の場所を求めず適当な場所にいらっしゃったこと。この五つである。
その時、諸々の天人たちは、菩薩(釈迦をさす)が五衰を現されたことを見て、不思議に思い菩薩に尋ねた。
「私たちは、今日この五衰の相を現されたのを見て、身が震え心が落ち着きません。願わくば、私たちの為に、その理由を教えてください」と。
菩薩は天人たちに、「ぜひ知っておくべきです。この世に存在するあらゆる現象は生滅変化して、常に変わらずある物など一つもないと言います。私は今、間もなくこの天の宮を捨てて閻浮提に生まれようとしています」と答えられた。これを聞いた天人たちの悲しみは、大変なものであった。
そこで菩薩は、「閻浮提の中に生まれるについて、誰を父とし、誰を母とされるのか」と思っていると、「迦毘羅衛国の浄飯王(カビラエコクのジョウボンオウ)を父とし、麻耶夫人(マヤブニン)を母とするのが良いと考えています」と決めておられた。
癸丑(ミズノトウシ・釈迦誕生の年・月・日については多くの説がある)の年の七月八日、麻耶夫人の胎内に宿られる。
夫人が夜寝ていた時の夢に、菩薩が六牙の白象(ロクゲのビャクゾウ・普賢菩薩の乗物とされる)に乗って大空の彼方からやって来て、夫人の右の脇より身の中にお入りになった。はっきりと透き通っていて、瑠璃の壺の中に物を入れたようであった。
夫人は、はっと目覚め、浄飯王のもとに行って、この夢のことをお話しになった。
大王は、夢のことを聞くと、「私も又このような夢を見たのだ。自分自身、どのように判断したらよいのか分からない」と言われて、直ちに、善相婆羅門(ゼンソウバラモン)という人を招いて、とても香の良い花や、様々な食事でもてなし、夫人が見た夢についてお訊ねになると、婆羅門は大王に、「夫人が懐妊された太子は、諸々の善く妙なる相をお持ちです。詳しくは説きませんが、簡単に申し上げましょう。この夫人の胎内にある御子は、きっと釈迦族を栄光に導くことでしょう。胎内を出られるときには、大きな光明を放つでしょう。梵天・帝釈天はじめ諸天ことごとく恭敬(クギョウ・つつしみ敬うこと)することでしょう。この御子の相は、必ず仏となる瑞相(ズイソウ・吉兆。前兆)を現しています。もし出家されなければ、転輪聖王(テンリンジョウオウ・正義をもって天下を治める王)として天下を七宝で満たし、子孫は繁栄することでしょう」と申し上げた。
この婆羅門の言葉を聞いて、大王はたいへん喜び、多くの金銀や宝物をこの婆羅門に与えられた。また、夫人も多くの宝物を差し上げた。婆羅門は、大王と夫人から布施された宝物を受け取って帰って行った、
となむ語り伝へたるとや。
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