雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

旧友 ・ 心の花園 ( 26 )

2013-01-29 08:00:21 | 心の花園
         心の花園 ( 26 )

            旧 友


やはり会ってよかった。
ここしばらく会っていなかったので、正直ちょっぴり気が重かった。
学生の頃はあれほど仲が良かったのに、お互いの環境が違うとだんだん会えなくなり、友情といってもその程度のものかと思ったりしていた・・・


でも、楽しかったようではないですか。
友情だとか、親友だとか、簡単に言いますが、本当の親友なんて、そうそう簡単にできるものでもありませんし、確かめようとしても出来るものでもないのですよ。
長い間会っていなくても、何かの切っ掛けで会った時以前と同じように付き合える人は、親友とまでいはかないとしても大切な人のはずですよ、きっと。

心の花園で「マーガレット」を見つけてください。
最近は、ピンクや黄色、さらには八重のものも見かけるようになりましたが、やはり、「マーガレット」は、白くて一重の物が親しみやすいですね。それに、この花は恋占い遊びに使われる代表的な花ですが、八重の花だと「スキ、キライ、スキ、キライ・・」と花びらをちぎっていっても、いつ結果が出るのか困ってしまいます。

「マーガレット」の花言葉は「真実の友情」です。この花のように、気取ることなく、それでいてしっかりと自己主張はしている・・、友情ってそういう関係でなくては続かないような気がします。
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出発点に立つ ・ 心の花園 ( 25 )

2013-01-23 08:00:57 | 心の花園
         心の花園 ( 25 )

            出発点に立つ


念願が達成して、気分が高揚しているのが自分でも分かる。
この数日、少し有頂天になっていたかもしれない。でも、冷静に考えれば、スタートラインに立っただけのことだ。
どうもわたしは、このあたりが弱点だ。気を引き締めていく必要がありそうだ・・・


どうしたのですか?
念願の夢が達成したのですから、少しぐらいはしゃいでも罰は当たりませんよ。
ただ、仰られるように、人生には達成なんてものはないかもしれませんね。
一つの達成は、次へのスタートだというのは本当だろうと思いますが、でも、ずっとそんなに緊張していたら身が持ちませんよ。

心の花園に「ハナトラノオ」が咲いていますよ。ピンクがかった薄紫色の花穂がピンと伸びていて、気持ちの良い花でしょう。
「トラノオ」という言葉を持つ花がいくつかありますが、いずれも仲間ということではありません。花穂などが虎の尾に似ている場合に付けられているようです。その中で、「花虎の尾」と「花」を付けられているくらいですから、それらの中でも美しい方なのでしょうね。

「ハナトラノオ」の花言葉は「達成」です。どうです? 今のあなたにぴったりでしょう。
この花はアメリカ東南部が原産地の多年草ですが、わが国には明治の終り頃に入ってきたようです。
とても強い花で、一度根付けば、余程のことがない限り毎年元気な芽を出し、夏の終り頃に見事な花を見せてくれます。
あなたが達成した念願も、きっと逞しいはずですから、しっかりと根付かせて下さいよ。
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運命紀行  戦国の幕開け

2013-01-20 08:00:34 | 運命紀行
         運命紀行

            戦国の幕開け


戦国時代の始まりについては諸説がある。
かつては「応仁の乱」というのが有力であったが、最近では「明応の政変」とする方が有力らしい。

「応仁の乱」とは、応仁元年(1467)に管領家の一つである畠山氏の家督争いに端を発したもので、さらに同じく管領家である斯波氏にも家督争いがあり、それに加え足利将軍家も同様の状態となり、全国の有力大名や豪族たちが、義理や利害で敵味方の複雑な構図を描き、ついには、細川勝元と山名宗全を大将とする二派が、それぞれ十数万の軍勢を京都に集めた大乱である。
「応仁の乱」は文明九年(1477)までの十年余り続いた。京都での大きな戦いは最初の二、三年だけであるが、その後も大軍が対峙を続けていたため、京都の治安は乱れ、幕府の権威は衰えていった。
やがて、両大将が病没した後は、対峙は続けながらもなし崩しに乱は収まっていった。

「明応の政変」というのは、明応二年(1493)、元管領の畠山政長が家督争いで敵対する畠山基家を討伐するために将軍の親征を要請したことに始まる。将軍足利義稙は畠山家の家督問題を政長有利にさせるべくこの要請を受け入れ、二月十五日に討伐軍を河内に進発させた。
これに異を唱える細川政元は、将軍義稙に不満を抱き始めていた日野富子や、伊勢貞宗、赤松正則らを味方につけ、四月二十二日に足利義澄を第十一代将軍に擁立することを決定させてしまった。さらに、富子は第八代将軍義政の御台所という立場から直接の指揮を取って、政元に京都を制圧させた。まさにクーデターである。
この京都での変事の報に動揺した義稙勢は、同行していた守護大名や奉行衆などの多くが、新将軍に従うよう命じる伊勢貞宗の書状に従って帰京してしまった。その中には、将軍側近とされる者も加わっており、討伐軍は崩壊、義稙は投降し、龍安寺に幽閉された。
この政争により、足利将軍家の権威はさらに大きく失墜したのである。

応仁の乱もそうであるが、明応の政変も直接の事変だけを挙げればこうなるが、実際はそこに至るまでに様々な葛藤が存在している。
応仁の乱の原因は、先に述べたように幾つかの要因が重なり合ったものと考えるべきであるが、やはり将軍家の家督争いがもっとも大きな要因といえる。
第八代将軍義政にはなかなか嫡男が誕生しなかった。そのため、出家していた弟を還俗させ養子とした。義視である。当然次期将軍という前提の上での養子であったが、その翌年に正室である富子に男子が誕生したのである。義尚であるが、この二人の家督争いが管領家や諸豪族を巻き込んでいったのである。

結局第九代将軍は富子の望み通り義尚が就任したが、その過程で大きなしこりを残すことになった。
その義尚が、長享三年(1489)三月に出陣先の近江で病死すると、またも後継選定で混乱するのである。
義尚の享年は二十五歳であったが、子供がいなかった。そもそも妻がいたかどうかもはっきりしないのであるが。
傷心の富子は、後継者に義尚と将軍の地位を争った義視の子の義稙を推挙したのである。敵対関係ともいえる義視の子を推挙した理由は、その母が富子の妹であったからと思われる。
これに対して、富子の夫である第八代将軍義政や細川政元らは、堀越公方足利政知の子の義澄を推して、両派は睨み合いとなる。

この家督争いも、翌年に義政が死去すると、富子の主張が勝り、義視が出家することを条件に義稙が将軍に就く。
しかし、この後も混乱が続くことになる。
理由はよく分からないが、富子は排除したはずの義澄に義尚が住んでいた小河邸を与えたのである。この邸は、将軍家の象徴ともいえる邸であっただけに、義視はわが子である新将軍を軽視するものだと激怒し、富子に無断で小河邸を破却してしまったのである。
出家したはずの義視の振舞いに富子も怒り、新将軍と距離を置くようになり、それは義視が死去した後も変わらなかった。
そして、その結果として、富子は将軍廃立というクーデターの一翼を担うのである。

戦国時代の始まりについて、かつては応仁の乱というのが主流であったが、最近では明応の政変という方が有力らしいことは冒頭で述べたが、そのどちらということではなく、応仁の乱前後から明応の政変が一応の決着を見せるまでの三十年ほどの間こそが、わが国に戦国時代を誕生させた揺籃期といえるのではないだろうか。
そして、この僅か三十年ばかりの間に、将軍家、管領家、有力大名家が複雑に絡み合って混乱期を作り上げているが、その中にあって、常に中心近くに立ち続けていた人物がいる。日野富子である。

もしかすると、日野富子という女性こそが、戦国時代という舞台の幕を開けた中心人物だったのかもしれない。


     * * *

永享十二年(1440)、日野富子は内大臣日野重政の娘として誕生。
康正元年(1455)、十六歳で第八代将軍足利義政の正室となる。
文明五年(1473)、富子の実子である義尚が第九代将軍に就く。
延徳元年(1489)、将軍義尚、近江出陣中に病死。
延徳二年(1490)一月、富子の夫義政死去。
同年四月、義稙が第十代将軍に就く。
明応二年(1493)、義澄が第十一代将軍に就く。
明応五年(1496)五月、富子死去。享年五十七歳。

以上は日野富子の生涯の内、将軍交代時を中心に列記したものであるが、足利将軍の八代から十一代までの四人に関与し、五十七歳で生涯を終えている。特別長命というわけではないが、当時としては天寿を全うしたといえるであろう。
子供に先立たれるなどの不幸はあるとしても、将軍御台所として、また未亡人として、穏当な生涯のように見えるが、多くの文献は、彼女を「悪女」と評している。
そもそも、悪女というのは、何を基準として評しているのかということを考える必要がある。
富子に関していえば、「夫をないがしろにして幕政に関与した」「敵対者を強引に排除した」「物欲が強く私財を貯め込んだ」「後継者問題に過剰に関わった」等々がその理由とされている。
そして、混乱の時代への幕開けとなった、応仁の乱を引き起こした張本人だというのさえある。

富子の生まれた日野家は、家格としては中流の貴族であるが、足利将軍家にとっては特別の家柄であった。
足利将軍家と日野家との特別な関係は、第三代将軍義満に始まる。義満が日野業子を正室に迎えたのは、宮廷内で大きな発言力を持っていた日野家の影響力を味方につけるためであった。業子には子供か生まれなかったが、第二夫人として迎えた業子の姪に当たる裏松家の康子が、義満の権勢を背景に後小松天皇の准母(母がわり)となり北山院という院号の宣下を受けた。これにより、夫である義満は天皇の父がわりということになり、太上天皇という尊号を得る資格を得たことになったのである。実際に、義満はその実現を画策したようである。
このことから、この婚姻が佳例となって、代々将軍家の正室は、日野家あるいは一門である裏松家から迎えることが定着していたのである。

富子が第八代将軍義政のもとに嫁いだのは十六歳の時なので、もちろん政治的な野心など無かったが、日野家の娘として早くから将軍家御台所になる覚悟はあったと考えられる。
一方の義政は、この時二十歳であったが、父が暗殺され、跡を継いだ兄も僅か二年で病死、その結果義政が将軍家の家督を継ぐことになってしまったのである。そこには帝王学も覚悟もなかったのである。
富子が義政をないがしろにしたと伝えられることが多いが、所詮将軍家を担おうとする覚悟が最初から違っていたのである。

しかし、足利将軍家を護ろうとする人々にとっては義政は珠玉ともいえる存在で、大事に大事に扱われていた。
富子が嫁いでいた時には、すでに何人もの女性が侍っていて、特に乳母として仕えてきた今参局(イママイリノツボネ)はいつか子をなす関係となっていて、大変な勢力を持っていた。
義政の母重子は、この今参局と激しく対立していたが、富子が最初の子(男とも女とも)を出産間もなく亡くしてしまったが、その原因は今参局の呪詛によるものだとでっちあげ、死に追いやっている。重子と富子の共謀だとされているが、富子悪女説の有力なエピソードである。

富子が物欲が強かったということも多く伝えられている。
この時代、女性が経済的な基盤を有していることは珍しいことではなかったようであるが、富子の場合は、政治的権力を背景にして、各地の関所からの収入や貯め込んだか資金を高利貸しでさらに稼いでいたようである。
「天下の料足(貨幣)は、この御方(富子)にこれあるように見え」といった文献が残されているが、まさか天下の銭を一人占めしたわけではないとしても、相当の蓄財を成していたことは確からしい。

しかし、富子を単なる守銭奴としてみるのは大変な間違いである。
政治的にほとんど有効な働きを見せない義政に替わって将軍家の権威を保つためには、経済的な力を必要としたのである。やがて始まる戦国時代において、織田信長であれ、豊臣秀吉であれ、徳川家康であれ、槍や鉄砲だけで天下を取ったのではないのである。そこには、強力な経済基盤、金銀の力があってこその天下人なのである。つまり、金銀の力を理解できない人物には、戦国時代は生き延びられなかったのである。
日野富子という女性は、戦国武将たちより一歩早く、政権維持に金銀の持つ力を理解し利用していたのである。
それは、単に財を蓄えるだけでなく、宮廷や寺社への寄進を数多く実施しており、下級吏員への給与を立て替えたりもしている。さらに、応仁の乱収束にあたっても、富子の金銀が動いているようなのである。

また、わが子を将軍職に就けるため暗躍したというのは事実であるが、それは暗躍などではなく、正面だっての戦いといえるものなのである。その後の将軍擁立についても、富子の意思を考慮せずに就任させることは出来なかったと考えられる。つまり、富子の意志こそが、この時代の将軍家の意思だったのである。

応仁の乱から明応の政変にかけての混乱期、すでに輝きを失いかけていた足利将軍家を必死に支え続けた姿こそが、日野富子の生きざまなのである。
そして、その是非はともかく、戦国時代という新しい時代の幕を開ける役割を果敢に担った女性でもあるのだ。
少なくとも、日野富子を単なる悪女としてとらまえることなどは、とんでもないことである。

                                       ( 完 )



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少しまぶしい ・ 心の花園 ( 24 )

2013-01-17 08:00:01 | 心の花園
         心の花園 ( 24 )

            少しまぶしい


近寄りがたいというほどではないけれど、なかなか馴染めない人がいます。
声を掛けてもくれないし、声を掛けることも出来ない。
グループとしては、それなりに話をしたりしているのですが、いつもわたしとは対極にいるみたいで、その存在は、少しまぶしい。
わたしのことを子供だと思っているみたいなところもある・・・


心の花園に、「スズラン」が咲いています。
わが国原産の物は、葉に隠れるように咲くものですから、本来目立たない花のはずなのですが、何故かその存在感は際立っています。

「スズラン」は漢字で書けば「鈴蘭」となりますが、他にも「君影草」「谷間の姫百合」という別名もありますが、いずれも実に美しい名前です。
わが国に限らずフアンの多い花のようで、フィンランドの国花とされていますし、わが国でも市町村の花としている自治体も少なくありません。

「スズラン」の花言葉もたくさんあるようですが、代表的なものは「純潔」「純粋」だと思います。花の姿から素直に伝わってくるイメージのように思われます。
今のあなたの存在も、その人にはスズランのように見えているのかもしれませんよ。あなたがその人を少しまぶしく感じているのも全く同じなのです。

純潔や純粋といえば、ややもすれば弱さや受け身的なものを連想しがちですが、決してそうではなく、とても大切な素質なんですよ。
今しばらくは、今の関係が良いのではないでしょうか。
但し、清楚な美しさを誇る「スズラン」ですが、この花は全体に毒性があるので、注意が必要です。

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運命紀行  東山に逃げる

2013-01-14 08:00:43 | 運命紀行
         運命紀行

            東山に逃げる


室町幕府八代将軍足利義政が、東山山荘の造営に着手したのは、文明十四年(1482)二月のことであった。

義政が着目したこの地は、もとは浄土時のあったところであるが、応仁の乱で焼亡し荒地となっていた。
京都の町の多くを焼き払い、全国至る所に飢饉をもたらした応仁の乱はようやく収束していたが、幕府にも義政個人にも大規模な山荘を造営する余裕などなかったはずである。
しかし、義政は、東山文化の中心として今日まで伝えられることになる東山山荘の造営を強引なまでに推し進めたのである。

そもそも、義政はこのように大規模な山荘造営の構想をいつ頃から抱いていたのであろうか。
一説には、二十年近くも以前から構想を抱いていたともいわれている。それは、彼が尊敬し憧れていた祖父義満が創建した北山第を訪れ、金閣に代表される圧倒的な存在感に魅せられて、いつかは自分も同じような山荘を造営したいと考えたというのである。
十分有り得ることだと思われるが、この東山の浄土寺跡地に山荘の造営を構想したのは、とてもそれほど以前からの計画とは思えないのである。

その理由の一つは、浄土寺は応仁の乱でその大半を焼失し荒廃したのであって、それ以前は立派な伽藍を誇っていたのである。創建時期を確定することができないが、醍醐天皇など皇室との縁もある天台宗の古刹なのである。
その寺院が健在な段階で、いくら室町将軍といえども、強引に移設させて個人的な山荘を造営するなどという計画は、大義名分が立たないであろうし、義政にそれほどの力もなかったはずである。
たとえ山荘造営という漠然とした計画は早くから抱いていたとしても、この東山の地に造営を決断したのは直前になってのことだと思われる。この地の選定は、むしろ、義政が逃げ込む場所として選んだという方が的を得ているように見えるのである。

幼くして将軍職に就いた義政は、過保護という言葉さえ及ばないような環境で育てられてきた。義政に限らないが、早くから妻妾を持ち政務より次期将軍誕生を大事として育てられていた。
しかし、そこに、日野富子というとてつもない女傑が正室として登場するのである。
二人が結婚したのは、義政が二十歳、富子が十六歳の時であるから、最初から富子が女傑であったのではあるまい。ただ、どろどろの義政の後宮を容認するほどしおらしい女性でもなかったらしい。
やがて富子は、後宮はもちろん、政務の分野でも義政以上の影響力を持ち始め、どちらが先か後かはともかく、その分義政は文化や遊興の分野に傾注するようになっていった。

当然の成り行きとして、義政は富子に公私両面において頭が上がらなくなっていった。
そういう関係も、二人の仲が睦まじい間はそれなりの平安が保たれていたが、そこに隙間風を感じ始めると出来過ぎた妻が負担に感じ始めるのは古今ともに変わらない。
二人は室町御所で起居を共にしていたが、応仁の乱で軟禁状態にされていた後土御門天皇ら皇室の人々も同御所で生活をしており、退廃的な宴会も再三開かれていた。その過程で、富子と二歳年下の天皇との仲について艶っぽい噂が立ったのである。

多くの妻妾を侍らせている義政ではあるが、富子の浮き名は気に入らないらしく、小河に新邸を建てさせて別居してしまったのである。
結局、天皇の真の相手は富子の侍女であることが分かり、富子の疑いは晴れたが、賢妻とも恐妻ともいえる富子のもとを離れることの自由を知った義政は、再び同居しようとはしなかったのである。
ところが、室町御所が焼失したため、富子たちが小河の邸で再び同居することになってしまったのである。
室町御所が焼失したのは文明八年(1476)十一月のことで、富子と九代将軍となっていた義尚は北小路邸に避難していたが、その後富子・義尚親子が同居すべく小河邸に移ってきた。
数奇三昧を夢見ていた義政は、再び逃避先を求めなくてはならなかった。

おそらく義政は、自分の思い描く世界の実現のために、最後の逃避先を探したのであろう。
そして、それが東山の地だったのである。
義政は、東山山荘の造営に着手すると、その完成を待つことなく翌年には移り住んでいるが、義政の心境をよくあらわしている行動といえる。

早々と移り住んだ義政は、疲弊した庶民に厳しい段銭(臨時の税)や夫役を課しながら、彼が没する前年まで八年間も工事は続いたのである。
東求堂・観音殿を中心に、義政が没頭できる環境を整えていったが、同時に、北山山荘には遠く及ばないまでも政務も行っている。
そして、この東山山荘が義満の北山山荘を意識していたと考えられる一番の根拠は、楼閣建築である観音殿の存在である。現在、銀閣と呼ばれているこの建物が、何故そう呼ばれるようになったのかは少々謎がある。

そもそも、義政にはこの楼閣を銀閣と名付けるつもりがあったのかどうかということが、よく分からないのである。外壁には黒漆は塗られているが銀箔は張られていないからである。
義政が造営にあたって金閣を意識していたことは確かだと考えられるが、銀閣と呼ばれるようになるのは、江戸時代に入ってからのことなのである。
では、何故銀閣と呼ばれるようになったのかについても、諸説がある。
「銀箔を張る計画であったが資金が続かなかった」あるいは、「義政が亡くなったため計画が打ち切られてしまった」というものがある。
「漆の塗られた壁が日光の加減で、銀色に輝いて見えたから」というのもある。
「当初は銀箔が張られていたが、剥がれ落ちてしまった」という意見もあったが、これは、後世の調査で否定されている。

いずれにしても、現在の私たちは、銀箔が全く張られていなくても、「銀閣」と呼ぶのに何の不自然さも感じられない。それは、あの燦然と輝く金閣と対比させても同様で、むしろ好一対のように感じてしまう。
もしかすると、これは、足利義政が仕組んだ、一世一代の仕掛けなのではないかと思ったりするのである。


     * * *

室町時代という時代区分を確定させるのはなかなか難しい。
一般的には室町幕府、すなわち足利将軍が存在した期間ということになる。
その場合の開始時期は、足利尊氏が建武式目を定めた建武三年(1336)または征夷大将軍に就いた暦応元年(1338)とするのが通説である。
同じく終末時期は、十五代将軍足利義昭が織田信長により京都から追放された天正元年(1573)と考えられており、この場合の室町時代は、およそ237年ほどの期間ということになる。
但し、義昭が征夷大将軍職を正式に辞任したのは天正十五年(1587)に京都に帰還した後のことであるが、これを重視する説は少ない。

しかし、実際の政治体制をみた場合、この二百数十年間を足利政権の時代とするには少々無理があるように思われる。
つまり、その初期は、北朝政権(実体は足利政権といえる)と南朝政権が激しく対立しており、各地の有力守護大名も足利将軍の勢力下にあったとはとても見えない。従って、明徳三年(1392)に南北朝が統一されるまでのおよそ六十年間ほどを南北朝時代とする説も有力である。

終末期にしても同様で、応仁元年(1467)の応仁の乱の勃発を戦国時代の始まりとする説は有力であるが、これ以後を戦国時代と区分し、さらにその後半部分の安土・桃山時代を一つと時代とするならば、室町時代はさらに狭められる。
これらの前後の時代を除いて、南北朝の統一から応仁の乱の勃発までを室町時代と限定するとその期間は僅かに七十五年ほどということになるのである。
そして義政は、この時代区分さえ確定の難しい混乱期の足利将軍なのである。

足利義政は、永享八年(1436)、六代将軍義教の次男として生まれた。母は日野重子である。
父の義教は、室町幕府の全盛期を築いた三代将軍義満の子であるが、兄義持が後を継ぎ弟の彼は出家していた。ところが、将軍職を引き継いだ義持の子義量は十九歳で没したため再び義持が政権を担っていたが、後継者を定めることなく亡くなった。
そのため後継者選びは難航し、結局石清水八幡宮におけるくじ引きにより四人の候補者のうちから義教が将軍職に就いた。

新将軍となった義教は、混乱のなか沈下を続けていた幕府を浮上させるべく、有力大名たちにも強い態度で臨んだ。政治手腕に優れていたようであるが強引すぎる面もあり反感を受けることも少なくなかった。
その結果、有力家臣であったはずの赤松満祐に殺害されてしまったのである。嘉吉の乱と呼ばれる事件である。
その後は急遽嫡男義勝が継いだが何分まだ八歳であった。管領畠山持国ら幕府首脳は政権維持に努めたが、足利将軍の権威は大きく失われていった。しかも、二年後には義勝も死去してしまったのである。

その後を継ぐことになった義政は、この時九歳。義勝と変わらぬ政権体制が敷かれたものと考えられるが、いかなる政策よりも義政の健康が何よりも優先され、一日も早く次代の将軍を誕生させることが最優先の課題となった。
「絶対に死なせてはならない」という目的のためには、おのずから義政の周囲を固めるのは女性が中心となり、過保護を絵にかいたような環境が築かれていった。
幕府政権の体制は義満の時代に確立されていて、管領以下の有力大名たちで運営され、義政は先祖の供養などの祭礼などの行事が中心となり、身の回りには見目麗しい女房たちが仕えていた。
その中の第一のお気に入りの今参局(イママイリノツボネ)は、もともと乳母であったがいつの頃からか一番の寵妃となり女の子を儲けている。

義政を語る時、必ずといっていいほど「政治的には無能」と表現されている。
しかしそれは、環境が成させたもので、無能というより関心や指導を受けることなく成長したためと考えられる。
そういう将軍のもとに日野富子という女傑が正室として嫁いでくるのであるから、数多くの軋轢やドラマが誕生するのは当然のことである。残念ながらそれらはここでは割愛することとなる。

京都を語る時、東山文化を避けて通ることは出来まい。義満の築いた北山文化は絢爛豪華であるが、義政が育て上げた東山文化は奥深いものを感じさせる。
一般に、文化の繁栄期は、政治的・経済的繁栄期と一致するものである。悲惨な生活や暗黒期といわれる時代からも優れた芸術や文化は誕生するが、何々文化と呼ばれるほどの繁栄に至らないのが歴史上の事実である。
もしこの仮定が正しいとすれば、東山文化と呼ばれる文化は極めて例外的なものであるということになる。そして、しかも、少なくとも政治的には落後者のように言われることが多い、義政がその担い手なのである。

銀閣寺の醸し出す幽玄さは、現代の人々を魅了してやまないが、義政の生き様やその時代もまた不思議な魅力を持っているのである。

                                        ( 完 )






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そろりそろりと ・ 心の花園 ( 23 )

2013-01-11 08:00:28 | 心の花園
            心の花園 ( 23 )

          そろりそろりと


心の中では決心がついているのですが、最初の一歩がなかなか踏み出せない。
いつものことながら、自分の気の弱さが、つくづくと嫌になる。
このままいつまでもじっとしていることなど出来ないことは、よく分かっているのだ。でも、ついつい逡巡してしまう・・・


そろりそろりと、そうです、そろりそろりと進めばいいではありませんか。
人はさまざま、目をつぶってでも飛び込んでいける人と、石橋を叩いてもなお何かが不安で、逡巡してしまう人。どちらが良いとも、一概に言えることでもないはずですよ。

でも、進まなくてはならないのであれば、一歩踏み出さざるを得ないでしょう。そう、そろりそろりで良いではありませんか。

心の花園で「フジバカマ」を見つけてみてはいかがですか。
淡い赤紫色の小さな花をいっぱいつけるこの花は、秋の七草の一つとして知られています。
もともとは中国原産のものらしいのですが、わが国でも万葉の時代から歌の中に登場しいます。それほど美しいというほどの花ではなく、野草というか雑草の類に入りそうな感じです。
かつては、河原などには群生が見られるありふれた花だったようですが、今では準絶滅危惧種に指定されています。園芸店などで見られる花の多くは、同族の別種だそうです。

そして、この花の花言葉は「ためらい」です。
あまりにもそのまますぎますか? でも、「フジバカマ」もそうですが、放っておいても育ちそうな花でも、あまりに粗雑に扱えば絶滅の危機となるのですよ。
あなたも同じことです。そろりそろりも良いですが、あまりに逡巡が過ぎますと、チャンスはそうそういつまでも待っていてはくれませんよ。
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運命紀行  北朝を護る

2013-01-08 08:00:17 | 運命紀行
         運命紀行

            北朝を護る


「観応の擾乱」と呼ばれる歴史上の事件がある。
大まかにいえば、南北朝時代とも呼ばれる頃、北朝の元号である観応年間に起こった足利政権内の内紛を指すが、西暦でいえば(1349-1352)間の三年ほどの期間ということになる。

しかし、足利政権の基盤が激しく揺れ動いていたのは、これより遥かに長い期間であって、「観応の擾乱(カンノウノジョウラン)」という括りだけで事件を把握するのは困難といえる。
室町幕府の成立は、北朝暦の暦応元年(1338)に足利尊氏が征夷大将軍に就任したことをもってするのが一般的のようであるが、実体は、敵対勢力としての南朝政権があり、各地の守護大名にも足利将軍の麾下にあるとはいえない勢力も少なくなかった。
足利氏が天皇家も含めた諸豪族の中で最も強大な陣営であったことは確かだが、支援する諸豪族に支えられた上での足利将軍であったといえる。
そして、この「観応の擾乱」を乗り越えることが室町幕府を安定政権へ導く第一歩と考えられるので、この擾乱に至るまでの状況を簡単に見てみる。

鎌倉の北条政権が滅亡したあと尊氏率いる足利氏が武家の頂点に立つが、後醍醐も天皇に復帰し建武の新政と呼ばれる天皇親政の実現を目指していた。
後醍醐にすれば、足利尊氏といえども新政権における軍事部門の一大将程度の位置付けを考えていたと思われるが、平清盛に始まる武家勢力台頭はすでに天皇の権威だけでは御することなど出来なくなっていた。
それが時代の流れというもので、公家や寺社勢力を中心に置く新政権は、早々と瓦解する。

後醍醐勢力を京都から追い払い、実権を手中にした当初の足利政権は、尊氏の執事である高師直が軍事部門を統括し、弟である直義(タダヨシ)が政務を担当する二元政治的な体制を取っていた。
直義は、鎌倉幕府における執権政治のような体制を目指し、訴訟などを通して有力御家人衆や公家や寺社といった既存の権益を擁護する色彩を強めていった。
一方の師直は、武士団を統括して南朝方と対抗し、その戦いを通じて尊氏を頂点とする武家政権の確立を目指していたようである。

この両者の目指す方向の差異が、足利氏を取り巻く武士団や、御家人衆・地方豪族ばかりでなく、公家や寺社勢力をも巻き込んで、それぞれの利害やライバル関係なども複雑に絡みながら二つの勢力に分割されていった。
南北朝初期の頃は、戦線の主力となる師直陣営が有力であったが、楠木正成・北畠顕家・新田義貞といった有力武将を失った南朝方の戦力は激減し、さらに主柱である後醍醐が没すると南朝は逼塞状態となり、畿内は平穏になっていった。
皮肉なことに、そのため師直の活躍の場は失われ、逆に政道を預る直義側が表舞台に立つようになり、さらには訴訟において師直派に不利な決済が目立つようになり、不満が膨らんでいた。

貞和三年(1347)に入ると、楠木正成の子正行が蜂起し、南朝方は攻勢に転じた。
九月に直義派の細川顕氏らが討伐に向かうも敗北、十一月には京都に逃げ帰ってしまった。
代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌年一月に四條畷の戦いにおいて正行を討ち取り、南朝軍を追って吉野まで攻め込み陥落させた。後村上天皇ら南朝方はさらに奥地の賀名生に落ち延びた。
この結果、政権内の発言力は高師直派が強くなり、落ち目となった直義派には不満がたまっていった。
両派の対立が避け難い状態になっていく中、尊氏は政治的な動きを見せず、隠居状態であったと伝えられている。

貞和五年(1349)閏六月、直義は尊氏に働きかけ、師直の執事職を罷免させることに成功する。
同年八月、危機感を抱いた師直は、河内から弟師泰を呼び寄せ、大軍で直義を討とうとした。直義は辛くも尊氏邸に逃げ込んだが、高兄弟の軍勢は、尊氏邸を包囲して直義らの引き渡しを求めた。師直に政権を奪取するまでの考えはなかったと思われるが、クーデター状態となる。観応の擾乱の始まりである。
この騒動は、禅僧夢想疎石の仲介もあって、直義派の武将らの配流、直義は出家して政権から離れることで決着をみた。

直義に代わり、鎌倉を統治していた尊氏の嫡男義詮が上洛して政務を担当することとなり、鎌倉には義詮の弟基氏が下向し、初代鎌倉公方として関東の統治を任されたのである。
十一月に義詮が京都に入り、十二月に直義が出家して、一連の騒動は終着するかにみえたが、流罪となっていた直義派の上杉重能・畠山直宗が暗殺されたため再び両派の緊張が高まった。
長門探題に任命されていた足利直冬(タダフユ・尊氏の実子で直義の養子)は、養父直義に味方すべく上洛を計ったが高師直軍に阻まれ九州に逃げていたが、その地で大宰府の少弐氏や南朝とも協力関係を築き上げていった。

翌貞和六年(1350)、北朝は観応と改元したが、この頃から南朝方の豪族たちは直冬を立てて挙兵、勢力は拡大していった。十月には直冬討伐のため、ついに尊氏自らが出陣し備前まで進んだ。
ところが、将軍出陣という混乱をついて直義は京都を脱出、河内石川城に入り諸豪族を味方につけていった。
尊氏は、直冬討伐を中断し軍を返し高師直兄弟の軍と合流する。この間に、北朝の光厳天皇に直義追討令を発布させたが、それを知った直義は南朝方に降り対抗姿勢を取った。

観応二年(1351)一月、直義軍は京都に侵攻、留守を守っていた義詮は抗することが出来ず備前の尊氏のもとに逃れた。
二月に尊氏軍は京都に向かい進軍するが、播磨の各地で直義側の軍勢に次々と敗れた。南朝を背景とした直義軍優勢が鮮明となり、尊氏は直義との和睦を図った。
和睦の条件には高兄弟の助命が条件となっていたとされるが、京都に護送される途中の摂津武庫川で二月二十六日に高一族は謀殺されている。それにもかかわらず、そのまま和議が成立しているのをみると、尊氏は暗黙の了解を与えていたのかもしれない。

長年の宿敵を倒した直義は政務に返り咲き、義詮の補佐に就き、九州の直冬は九州探題に就いた。
しかし、このような形の平安が続くはずもなく、今度は尊氏と直義の対立が高まっていった。
政権の実権を握ろうとする直義に対して、尊氏は将軍としての権限のもとに恩賞面での差別や、直義陣営の豪族の引き抜きを図った。
身の危険を察知した直義は、自派の有力豪族である斯波・山名氏らと共に北陸に逃れ、信濃を経由して鎌倉に入った。

直義勢力を京都から追い払ったとはいえ、直義側は関東・北陸・山陰を押さえており、九州では直冬が勢力を増していた。このうえ南朝との連携がなれば、再び圧倒される懸念が大きくなっていた。
尊氏は、直義と南朝を分断させるべく、佐々木導誉らの進言を受けて南朝に和議を申し入れ、今度は南朝から直義・直冬ら追討の綸旨を得ようと画策した。
南朝方は、三種の神器の引き渡しや政権を返上することなど北朝に厳しい条件を付けたが、尊氏は簡単に受け入れ南朝に降伏することによって綸旨を得た。
この和睦により、北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、年号も北朝の「観応二年」が廃され南朝の「正平六年」に統一された。ここに南北王朝は一本化されたことになり、これを「正平一統」と呼ぶ。

尊氏は、屈辱的とも見えるこれらの交渉を義詮に任せ、自身は直義追討に出陣した。窮地に追い込まれ形振り構わぬ行動を取っているかに見える尊氏だが、さすがにその人望は高く、戦いは一方的となり、翌正平七年(観応三年・1352)一月には鎌倉を落とした。
捕われた直義は幽閉中の二月に病死した。死因について、「太平記」は毒殺と伝えている。

一方、北朝方を屈服させたと勘違いしたらしい南朝方は、京都や鎌倉から足利勢力の排除に動いた。
建武の新政後に奪われた領地や役職の復旧を進め、正平七年閏二月六日には、尊氏の征夷大将軍職を廃し、宗良親王を就任させた。さらに、旧直義派の豪族の多くが宗良親王を奉じて鎌倉に攻め入り、尊氏は武蔵国に逃れている。
同じく閏二月十九日には南朝軍が京都に進軍し、義詮を近江に追い払った。勢いづいた南朝軍は、北朝の光厳・光明・崇光の三人の上皇と直仁親王を捕らえ南朝の本拠地賀名生に連れ去ったのである。

近江に逃れた義詮は佐々木導誉ら各地の豪族を集結させ、逆襲に転じ三月十五日には京都を奪還した。さらに、京都に移るべく山城の男山八幡に仮御所を移していた南朝の後村上天皇らを包囲した。この戦いは二カ月にも及び、後村上天皇と側近は辛くも脱出に成功するが南朝方は多大な損失を蒙っている。
関東でも尊氏が鎌倉を奪還し、京都・鎌倉の双方から観応の元号の復活を宣言し、「正平一統」は僅か四ヶ月ほどで崩れ去った。
南朝が北朝に屈する形で南北朝の統一が実現するのは、四十年ほど後のことである。

さて、「観応の擾乱」と呼ばれる足利政権内の混乱を治め、南朝勢力に少なからぬ打撃を与えた尊氏・義詮親子は、北朝の再建を目指すことになった。
しかし、そこにはとてつもない難問が存在していたのである。
三種の神器は奪われ、朝廷政治を司る治天の君となるべき上皇も拉致され、次期天皇となるべき元皇太子も連れ去られていたのである。
武家政治の体制は整っていっても、朝廷による公家政治が滞り、任官・人事・祭事・諸儀式などが実施困難となってしまったのである。

南朝との返還交渉が難航する中で、光厳天皇の皇子弥仁王が拉致を免れ京都に留まっていることが判明した。当時の先例として、天皇が践祚するためには、神器が無くても治天の君による仁国詔宣がなされれば可能とされていた。
足利政権並びに北朝の最大の難関打開のために英知が集められ、一人の女性が登場するのである。
広義門院である。

三人の上皇ことごとくが連れ去られている現実の中、この窮地を救う唯一の方法として浮上してきたのが、三人の上皇の尊属である広義門院に上皇代理として仁国詔宣を行ってもらうというものであった。
広義門院は光厳・光明両上皇の母であり、崇光の祖母に当たる。若干無理押しの感があるとしても、南朝との上皇返還交渉に打開の見通しがたたない以上、広義門院の承諾を得るしかなかったのである。

足利政権からは佐々木導誉が代表となり勧修寺経顕を通して交渉に入ったが、広義門院は三上皇らが拉致される際の義詮や公家たちの不甲斐なさに不満を示し、この申し出を拒否した。
しかし、北朝存続の危機であることは広義門院とて承知していることであり、再三にわたって懇願し、ついに六月十九日申し入れを承諾することとなった。
ここに、わが国歴史上唯一の女性の治天の君が誕生したのである。

広義門院は、上皇代理として治天の君に就くことを承諾するとともに、精力的に行動した。
広義門院による政務や人事に関する令旨が出され始め、北朝が朝廷としての機能を回復してゆき、八月には弥仁王も無事践祚を終え北朝第五代後光厳天皇となる。
まさに北朝は、一人の女性によって消滅を免れたのである。


     * * *

広義門院、本名西園寺寧子(ヤスコ/ネイシ)は正応五年(1292)従一位左大臣西園寺公衡を父に藤原兼子を母として誕生した。
母の実家は下級貴族であるが、父の西園寺家は朝廷の鎌倉幕府との連絡役である関東申次という要職を代々引き継ぐ有力貴族である。
朝廷は、持明院統と大覚寺党の両党が交互に皇位につく両党迭立の体制を取っていたが、西園寺家はその両党ともに姻戚関係を有していた。

嘉元四年(1306)寧子十五歳の時、持明院統である後伏見上皇の女御として後宮に入った。因みに、後醍醐天皇は大覚寺党であり、この両統迭立の体制が南北朝の時代を生み出す大きな原因となったといえる。
寧子が後宮に入った時、後伏見上皇は十九歳であったが、すでに五年ほど前に退位していた。
後伏見は第九十二代伏見天皇の第一皇子として誕生、十一歳で第九十三代の天皇として即位し、二年余りで大覚寺党の後二条天皇に譲位している。
従って、寧子が後宮に入った時はすでに上皇となっていたが、政務の実権を握る治天の君は後二条の父である後宇多上皇であった。

延慶元年(1308)、後伏見上皇は弟の富仁親王を猶子としたうえで花園天皇として即位させた。
翌年正月、寧子は花園天皇の准母とされ従三位に叙せられるとともに、准三后(ジュサンゴウ・三宮{太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮}に準じた位)及び院号の宣下を受けた。
これにより寧子は国母待遇となり、後伏見上皇の本后の地位を得たのである。

寧子はその後、後伏見上皇との間に五人の子供を儲けている。その中には、光厳天皇と光明天皇が含まれている。
二人の天皇の実母であり、後伏見上皇も治天の君になるなど栄華に満ちた生涯に見えるが、朝廷を取り巻く状況は混乱の極みに達していた。天皇家は北朝と南朝に分かれて戦いあい、鎌倉幕府を背負ってきた北条政権が倒れ、それに引きずられるように関東申次の地位を保っていた実家の西園寺家は没落していった。さらに、北朝を後見している足利家の内紛は南北朝廷を巻き込んだ激しいものになっていった。
そして、建武三年(1336)に後伏見上皇は南北朝対立の中で崩御、四十九歳であった。
四十五歳の寧子も出家したが、政治の混乱はさらに続き、故上皇の菩提を弔うのに専念することなど、時代は容認しなかったのである。

やがて、広義門院寧子には、北朝、つまりは朝廷を護る役目がめぐってくる。
そして、このあと六十六歳で没するまで、広義門院寧子は天皇を誕生させるためだけの治天の君ではなく、実質的な院政を行い、天皇家の家督者として危機下にあった皇統を護り抜いたのである。
北朝、そして皇統の危機を救った女性広義門院寧子、私たちは彼女のことをあまりにも知らないのではないだろうか。

                                      ( 完 )
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一歩踏み出す ・ 心の花園 ( 22 )

2013-01-05 08:00:32 | 心の花園
            心の花園 ( 22 )

             一歩踏み出す


一歩踏み出すことにしました。
そのくらいのことで、決心したとかしないとか言うほどのことでもないと思われるかもしれませんが、わたしにすれば覚悟を決めてのことなんです。
ただ、やはり、不安も大きいのです・・・


そうですか、思い切って決心したのですね。
人生を左右するような決心でも、他人から見ればごく些細なことのように見える決心でも、当事者にとっては相当の決意が必要ですし、ベースとなる能力も必要です。覚悟や思い切りは大切ですが、気力だけで完結できるものなどそう多くはないのですから。

心の花園には「ブルーベリー」が咲いています。「ブルーベリー」といえば、生食やジャムなどに用いられる果樹として知られています。最近では、アントシアニンが多く含まれていることから、目の網膜に良いとされ健康食品の材料としても脚光を浴びています。
しかし、実を結ぶためには当然花も咲かせます。四、五月頃に咲く白い花は、なかなか可憐なもので、見る人の目にも心にも優しい花ですよ。

「ブルーベリー」の花言葉は「知性」です。
あなたがこれから歩いていく上で、優しさや強さが必要とされるでしょう。協調や独立性も必要とされるかもしれません。しかし、それらのあらゆる性質のもとになるものは、「知性」です。単なる物知りや学歴ではない、滲み出てくるような豊かな知性を少しずつでも積み重ねていってくださいな。
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運命紀行  花の御所

2013-01-02 08:00:42 | 運命紀行
          運命紀行

             花の御所


足利義満が「花の御所」と呼ばれることになる豪壮華麗な邸宅の造営に着手したのは、北朝暦永和四年(1378)、彼が二十一歳の時である。

義満が父義詮から譲り受けていた三条坊門の邸宅は、武家の棟梁らしく質素なものであった。幼くして足利氏の棟梁となった彼は、この頃すでに天下掌握の自信を固めていたのであろうか。
義満が新しい邸宅の地として白羽の矢を立てたのは、北小路室町にある院の御所の跡地を申請して賜ったもので、広大な土地に鴨河の水を引き入れ、一町(百米四方ほど)をこえるほどの池を作り、華麗な公家風の殿舎を数多築き、庭には、近衛家の糸桜をはじめ有力公家たちの邸宅から銘木を所望し、四季の花木や銀杏や槇などで埋め尽くされ、短期間のうちに「花の御所」と呼ばれる景観に造り上げていった。

永徳元年(1381)三月、新装完成した邸宅に、後円融天皇の御幸を仰ぎ、天盃を賜り、舞楽・蹴鞠・和歌御会・詩歌管弦など壮大な祝宴が開かれた。
この年の六月、二十四歳の義満は、父祖の官位を超える内大臣に任ぜられた。そしてこの頃から、家司や職事の規模を摂家と並ぶように整備していった。十一歳で、武家の棟梁である征夷大将軍に任じられている彼は、公家社会においても頂点を目指し始めたのである。

この「花の御所」で政務を執り始めた義満は、その地名に因んで室町殿とも呼ばれるようになる。
やがて、「室町殿」という呼び名は、足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた「花の御所」をも指すようになり、今日私たちがごく自然に用いている「室町幕府」あるいは「室町時代」という用語は、この「花の御所」に由来するのである。

そして今一つ、足利義満という人物を語る上で避けることのできない建築物がある。金閣寺である。
現代の京都観光において、旅なれた人であれ、初心者であれ、京都の観光地を語る上で「金閣寺」を除くことは出来ないであろう。この華麗な建物もまた義満ゆかりの建物なのである。

義満が、西園寺氏が代々所有していた山荘、北山第を譲り受けて大改装に着手したの、応永四年(1397)、彼が四十歳の時である。
この北山第は、鎌倉時代の元仁元年(1224)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を建築したことに始まる。その後子孫は西園寺氏を称し、鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務め朝廷内で勢力を保っていたが、鎌倉幕府滅亡直後、当主の公宗が後醍醐暗殺の謀反に問われ処刑されている。
このため、西園寺氏は没落し、西園寺も山荘もしだいに荒れていっていた。

応永元年(1394)に義満は征夷大将軍職を譲り、「花の御所」の当主は新将軍が引き継ぐことになり自らの居住地を、この西園寺に着目したのである。
山荘を含む広大な寺領は、義満の河内国の領地と交換したと記録されているが、当然権力にまかせての入手であることは当然と思われる。

新たな北山第の造営には、米百万石を越える巨費が投入されたという。
そこには、義満の居館である寝殿、仏教施設である護摩堂や七重塔など多数が配置され、衣笠山を背景とした鏡湖池のほとりには建物全体に漆を塗り金箔を張った三層の楼閣・舎利殿が燦然と輝いていた。
「金閣」の誕生である。

この北山第は、将軍職を譲った後も実権を握っていた義満の政庁となり、政治・経済・文化の中核となっていった。世にいう北山文化の全盛期である。
およそ十年後、義満が没すると義持が移ったが、翌応永十六年(1408)に北山第の一部を破却して三条坊門第に移っている。その後、義満未亡人北山院の御所となっていたが、応永二十六年(1419)に北山院が亡くなると、舎利殿以外の建物の大部分が解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。
その翌年、北山第は義満の遺言に従い禅寺となり、義満の法名「鹿苑院殿」に因み鹿苑寺と名付けられた。

昭和二十五年(1950)、鹿苑寺舎利殿「金閣」は放火により焼失してしまった。惜しむ声は高く、昭和三十年(1955)には再建され、再び燦然たる姿を今日に伝えている。
北山文化の栄華も放火による焼失という屈折も包み込んでいるかのように、水に映る金閣の姿は今もなお荘厳である。


     * * *

足利義満は、北朝暦延文三年(1358)八月、二代将軍義詮の実質的な嫡男として誕生した。母は側室紀良子である。
義詮には正室に男子がいたが三年前に亡くなっており、後継者としての誕生であった。
室町幕府の創設者とされる足利尊氏は、義満誕生の百日ばかり前に死去している。
三代将軍を約束されての誕生ではあるが、幕府の体制はまだ盤石といえるものには程遠いものであった。

先立つ鎌倉幕府の三代将軍は源実朝であり、後代の江戸幕府の三代将軍は徳川家光であるが、彼らと室町幕府三代将軍足利義満を比べてみるとなかなか興味深い。
実朝は、時には悲劇の将軍とも呼ばれるように、ロマンに満ちてはいても武家の棟梁としてはいささか柔弱さが過ぎるような感じを受ける。
反対に家光は、幼少の頃は気弱な面があったとも伝えられているが、生まれながらの将軍であることを強く認識した上での強権政治で、徳川長期政権の礎を築いている。

しからば、義満とはどういう人物であったのだろうか。
義満は風流豪奢を好む性格であったと評されることが多いが、実際に花の御所や北山第は贅を尽くした豪華絢爛な造営で知られているが、同時に、和歌・連歌・管弦、あるいは蹴鞠や舞楽などの公家文化の復調に寄与し、禅宗文化の興隆に寄与し、さらには観阿弥・世阿弥という天才を出現させて能を舞台芸術に完成させたのも義満の後見あってのことといえる。これらの北山文化ともいわれる文化面の貢献が目立つが、そこに脆弱さなどみじんも見られない。
むしろ、諸豪族を押さえ、南朝を押さえ、公家社会さえ押さえこんでいった剛腕さこそが、彼の特徴のように見えるのである。

義満の父二代将軍義詮は、「太平記」では愚鈍な人物として描かれているが、決してそうではなく父尊氏と共に戦いに明け暮れ、それらを生き抜き足利政権の成立に少なからぬ功績を残した人物である。また、父尊氏と同様文才にも優れていた。
しかし、三十八歳で世を去った時には、義満はまだ十歳であった。
翌年には三代将軍に就くが、足利政権はまだ幕府というほどの基盤を固めていたわけではない。父は死に臨んで、幼い嫡男の将来を管領細川頼之に託したが、頼之は幼将軍をよく補佐し、足利将軍の権威を高めることに尽力したようである。義満が、時には尊大な性格であったとも評される一因には、頼之の過保護があったのかもしれない。

義満が政治の実権を握るようになるのは、十五歳になって印始(インハジメ)の式を行い、自ら花押の使用を始めてからで、以後五十一歳で没するまでの三十五年間に渡って足利政権を盤石なものに仕上げていったのである。
その前半は、南朝勢力との戦いや山名氏など有力豪族との争いに奔走したが、ついには南朝勢力を制圧し南北朝廷の統一を実現させている。
また、室町幕府という呼称が義満が造営した花の御所に由来することはすでに述べたが、室町幕府の政権体制が武家政治の形態としてその多くが徳川幕府にも影響を与えていることを考えれば、政治面の非凡さも高く評価されよう。

現在私たちは、金閣寺(鹿苑寺)の美しさに足利義満という人物を思い浮かべることが多いが、その生涯は、波乱に満ち、中世におけるわが国の戦乱・政治・公家社会・文化などに大きな足跡を残した歴史上の第一人者の一人であることは間違いあるまい。

                                      ( 完 )





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