雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

二条の姫君  第百十三回

2015-08-05 11:18:26 | 二条の姫君  第四章
     二条の姫君
          第四章  墨染の衣をまとって


          第四章  ( 一 )

北山准后の九十の賀の、まことに華やかな催しが盛大に行われましたのは、弘安八年(1285)の春のことでございました。
思えば、二条の姫さまがあのような晴れがましいお席に出ることは、あれが最後だったのでございます。
その後も、御所さまからの御声が何度もございましたが、姫さまはかたくななまでに応じようとはなさいませんでした。

やがて、後宇多天皇は譲位なさいまして、御所さまの皇子である春宮煕仁親王が践祚され伏見天皇即位となりました。これにより、御所さまが院政を行うこととなり、真の治天の君になられたのでございます。
当然のことながら政務多忙となり、やがて、姫さまへの御便りはなくなっていきました。

姫さまは、御所を退出する覚悟を決められたあとは、一日も早く出家されることを望まれていたようですし、実際にその布石も打たれておりましたが、何分にも、村上源氏というご立派な血筋の姫であり、久我家は清華(摂関家に次ぐ格式)の家にあたる家柄でございますから、早々姫さまの望まれるままにことは運びませんでした。
さらに、母方の四条家の人々も、姫さまの身の上を案じられること一方ならず、さらには、姫さまとの縁が深く、雪の曙殿と慕い続けておられる西園寺実兼殿は、若くして関東申次の重責についており、鎌倉との関係を無視することのできない朝廷にあって、大きな権力をお持ちなのです。
さらには、春宮大夫の御役も兼ねられていることから、伏見天皇の誕生はさらに朝廷での存在感を高めておられました。

御所への出仕を拒み続けられた姫さまでございますが、雪の曙殿からの御誘いには、そうそう拒絶することも出来ませず、また、姫さまは御父上を始めあちらこちらから相続し、あるいは形見として贈られた財産は、主に乳母の家の方々が管理されておられますが、雪の曙殿の御威光を必要としていることも確かなのでございます。

正応元年(1289)六月、雪の曙殿、つまり大納言西園寺実兼殿の姫が入内されることになり、たっての要請により姫さまは、晴の行列の二の車にお乗りになられたのでございます。
そのお姿に、事情を知る方々は変わらぬ美しさに称賛の声を上げられ、側近くお仕えする者たちは誰もが、御出仕はともかく、歌会など晴れがましい御席への復帰を願ったものでございます。
しかし姫さまは、これを潮に、かねてからの念願を果たすべく、東山の宿坊にほとんど籠られるようになり、出家へと向かわれたのでございます。

     * * *
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二条の姫君  第百十四回

2015-08-05 11:17:13 | 二条の姫君  第四章
          第四章  ( 二 )

正応二年(1289)の春二月、三十二歳となられた姫さまは、まだ慣れぬ墨染のお姿での旅立ちを決意なさいました。
二十日余りの日のことで、山深い庵にも春爛漫の季節を感じさせる頃でございますが、ここしばらくは生活の拠点としていた庵をたたみ、旅に必要なもの以外はすべて里人に与えられて、再びこの地に戻らぬ決意を示されていました。

内裏から遠く離れた山里暮らしといっても、いざ都に戻るのは牛車さえあればそれほど造作もないとの思いがどこかにありましたが、その山里さえ霞むほどに来てみますと、さすがに姫さまも感慨深げに振り返り、慣れぬお袖で涙を隠されておりました。
「『宿る月さへ 濡るる顔にや』と、あの伊勢が詠んだという古歌が思い浮かぶ」
と姫さまは、早くも心細げなご様子でございました。

やがて、逢坂の関だと教えてくれる人がある辺りまで参りますと、姫さまの御覚悟も固まって来られた様子でありましたが、
「『宮も藁谷(ワラヤ)も 果てしなく』という蝉丸の歌が思いだされる」
などと呟かれました。
「宮殿に住もうが、あばらやに住もうが、人の望みは果てしない」などという歌を思い出されるのは、やはり、御所を退出されて久しいとはいえ、ついつい思いだされてしまうのでしょうか。

和歌の上手として、また琵琶の名手とも伝えられている蝉丸ですが、もちろんその住みかは跡かたもなく、都にも知られている関の清水に姫さまはお姿を映されて、物思いにふけっておられました。
何分にもそのお姿は、里暮らしが久しかったとはいえ、宮中を住みかとされていたお方でございますから、水に移るご自分の旅装というお姿がさらに感慨深くさせていたようでございます。

姫さまは、お疲れということではないのですが、立ち去り難いお気持ちらしく、さらに、そこには今を盛りと咲き誇る桜がたった一本だけあるのも、姫さまのお心に何かを訴えかけているようでございました。
折から、このあたりの人と見える者たちが馬上に四、五人、それもこぎれいな様子の人たちが桜の花の下で立ち去り難い様子を見せているのが、姫さまには興味深く見えたようでした。

『 行く人の心をとむる桜かな 花や関守逢坂の山 』
と詠まれましたが、桜が人を止めているので、まるで関守のようだという意味なのでしょうが、この御歌を聞きますと、大丈夫、姫さまのお心は都への思慕を捨て切れていないとはいえ、冷静な観察が出来るのだと思われました。

やがて、鏡の宿(中世の宿駅の一つ。滋賀県蒲生郡)という所に着きました。
ちょうど夕暮れ時だったので、遊女たちが男との一夜の契りを求めて歩いている姿は、姫さまには、おそらく初めてご覧になる光景だったでしょうから、とても辛い世の習いとして悲しく感じられた様子でございました。
その夜はその宿に泊り、翌朝、明けゆく鐘の音に促されるように出立しましたが、この時にも姫さまは歌を詠まれております。

『 立ち寄りて見るとも知らじ鏡山 心の内に残る面影 』
さあ、この面影とは、どなたのことを意識されたのでしょうか。

     * * *

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二条の姫君  第百十五回

2015-08-05 11:16:16 | 二条の姫君  第四章
          第四章  ( 三 )

逢坂山を越え、ようやく少し日が経つうちに、姫さまの旅のお姿もそれらしくなって参りました。
やがて、美濃国の赤坂の宿という所に着きました。(本当は、三河国の赤坂か?)
慣れない旅の日数は、その生活に慣れるということもありますが、やはり疲れが少しずつ積ってきておりました。それは、姫さま御自身もそうでございますが、少し離れてお仕えしている者どもも同様でした。

この日は、この赤坂の宿に宿をとりましたが、宿の主のもとに若い遊女の姉妹がおりました。
琴や琵琶などを弾いて、なかなかに情緒ある風情を見せているので、姫さまは、昔のことが思いだされたのでしょうか、お近くに召して、酒宴らしきものを開き、遊芸を所望されました。
すると、二人いる遊女のうちの姉と見える方が、ひどく物思いに沈む様子で、琵琶の撥(バチ)で紛らわせていますが、ともすれば涙を溢れさせそうなのを姫さまは察しておられました。そして、この人も自分と同じような境遇なのだと思われている様子でしたが、この姉遊女もまた、墨染の衣を身にまとっているとはいえ、姫さまのとても世を捨てた女性とは思えない顔(カンバセ)と、瞳に宿る悲しみを感じ取った様子で、盃を置いていた小折敷に歌を書いて姫さまに差し上げたのです。

『 思ひ立つ心は何の色ぞとも 富士の煙(ケブリ)の末ぞゆかしき 』(世を捨てるまでのご決心をされたのは、どういう理由からなのでしょうか。富士の煙のように、気高くおくゆかしいあなた様が)

手に取られた姫さまは、意外なほどに情緒あるのを感じられたのでしょうか、すぐにご返歌をなさいました。
『 富士の嶺(ネ)は恋を駿河の山なれば 思ひありとぞ煙立つらむ 』(富士の嶺は、その名も「恋をする<駿河>」という山ですから、物思う心が火と燃えて煙が立っているのでしょう。私の出家の理由も同じですよ)

僅かな交わりではございましたが、姫さまのお心には深く染みるものがあったようで、この遊女宿を捨てて行くのさえ心にかかるご様子でしたが、旅はまだ始まったばかりでございます。
儚い縁を断ち切るようにして、墨染姿の二条の姫さまは出立なさいました。

やがて、八橋という所に着きましたが、伊勢物語に蜘蛛の手のように八つの橋を渡していると書かれていることを思い起こされたのでしょうか、姫さまは、「川もなければ、橋も見えない」と呟かれました。
心に思い描いていた景色の跡形さえ見えないことに、まるで親しい友を失くしたような気持ちになられたご様子でございました。

『 我はなほ蜘蛛手に物を思へども その八橋は跡だにもなし 』(私はいまだにあれこれと、蜘蛛の手のように思い悩んでいるのに、物語に名高い八橋は、その跡形さえもありません)

     * * *



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二条の姫君  第百十六回

2015-08-05 11:15:19 | 二条の姫君  第四章
          第四章  ( 四 )

尾張国の熱田の社に参詣いたしました。

御垣を拝むと同時に、姫さまは亡き御父上のことを思いだされておりました。
尾張国は、亡き御父上大納言殿の知行国でございましたから、この社には、故大納言殿は御自身や御一族のために祈祷を続けられていて、八月の御祭りには必ず神馬(ジンメ)を献上する使者をお立てになられておりました。
最後の病の時にも、神馬を奉納する時に生絹(スズシ)の衣一領を添えて献上なさいましたが、萱津の宿という所で、急にこの馬が死んでしまったのです。
大騒ぎとなり、国府の官人たちが代わりの馬を探し出して献上したということでしたが、どうやら神はこの祈祷を納受なさらなかったらしいと思われることなどを、姫さまは数々思い起こされておりました。
哀れさも悲しさもつのる想いは膨らむばかりで、この夜はこの社に滞在いたしました。

都を出立したのは、二月二十日過ぎのことでございました。
道中の配慮は、高貴な方々が陰となり日向となってご尽力くださっておりましたが、何分慣れない旅でございますから、心は急いても思うようには進まれず、はや三月の始めになっておりました。

上弦の月が華やかに照りだしていて、月がかかる都のあたりのことが思い起こされて、都でもこの月を眺めている人もいるだろうと、やはり姫さまには、御所さまの面影を振り捨てることなど出来ないご様子で、ぼんやりと庭を眺めておられました。
境内の桜は、今日が盛りだと訴えているばかりに咲き誇っていて、いったい誰のためにこれほどまでに咲き匂っている梢なのかと思われたのでしょうか、
『 春の色も弥生の空に鳴海潟 今いくほどか花も杉村 』(春景色の弥生の空の下、鳴海潟の御社の杉木立の中で、桜の花はあと幾日咲き誇って散って行くのでしょうか)

心に思うことがあったのでしょうか、姫さまはこの社に七日間参籠なさいました。
そして、出立いたしましたが、鳴海の潮干潟をはるばる行きながら社を振り返りますと、霞の間から微かに見える朱色の玉垣が神々しくて、姫さまは昔を思う涙を押さえることが出来ませんでした。

『 神はなほあはれをかけよ御注連縄(ミシメナワ) 引き違えたる憂き身なれども 』(熱田の社の御神よ、なお、憐みをかけてください。たとえ御注連縄を引き違えたように、運命を間違えてしまって、憂きこと多いこの身にも)

     * * *

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二条の姫君  第百十七回

2015-08-05 11:14:25 | 二条の姫君  第四章
          第四章  ( 五 )

駿河国の清見が関は月の夜に越えて行くことになってしまいました。

姫さまは、このところお気持ちが沈み気味で、故大納言殿のことや御所さまのことなどが思い返されることが多くなっているように見受けられました。
行く先は鎌倉と定めておられますが、それとても取り立てて重要なご用ということではなく、御血筋でもあります源氏の都を見てみようと思い立ったからだと推察いたしておりますが、やはり、京の都から一歩遠のくごとに迫りくるものがあるようでございます。

しかし、姫さまがそのようなことをお口に出されるようなことはあるはずもなく、今も、一面真っ白に見渡される真砂の数を数えられるばかりに見つめながら、思い浮かぶことの数限りなさと比べるかのように、切なげでございました。
それでも泣き言を申されるようなこともなく、富士の裾野、浮島ヶ原とただ黙々と歩を進められておりました。

富士の高嶺には、今なお雪が深く積っているのが見えて、物語によれば、五月の頃でさえ鹿の子まだらに雪が残っていたというのですから、三月の今、多くの雪が残っているのは当然だと思いながらも、この世に何の足跡も残すことのないこの身には、積る甲斐さえないと姫さまは微笑まれるのです。
富士の煙は、今は途絶えていて見えないので、歌に詠まれているように、風に何かがなびくといった風情はありません。
それにしましても、宇津の山を越えましたときも、蔦も楓もなかったものですから、そこが歌や物語に名高い宇津の山だとは気が付かないままであったのが姫さまは残念だった様子で、通り過ぎてから教えられて歌をお詠みになられました。
『 言の葉もしげしと聞きし蔦はいづら 夢にだに見ず宇津の山越え 』 (その情緒を歌った古人の言葉も多いと聞いていた蔦の道はどこなのでしょう、夢にだに見ないままの山越えでした)

やがて、伊豆国三島の神社に参詣いたしました。
奉幣(ホウヘイ・参拝)の儀式は熊野権現の参詣と変わることなく、長筵(ナガムシロ)などが敷かれている有様もたいそう神々しく感じられました。
亡き源頼朝の右大将が始められたという、浜の一万とかいう儀式なのでしょうか、由緒ありげな壺装束で行き来している姿がいかにも苦しげで、自分と同じような苦しみを抱えている人かもしれないと、姫さまは感じられたご様子でございました。

月は、宵を過ぎる頃に、人々に待たれてようやく姿を見せる頃なので、短夜の空は物憂く感じられるのですが、神楽ということで巫女たちが舞う舞の手ぶりも見慣れぬ有様なのです。禅(チハヤ)という衵(アコメ・丈の短い衣服)のようなものを着て、八少女舞(ヤオトメマイ)と称して、三、四人が立って入れ違って舞う姿が興味深く面白いので、一晩中その場にいて、鶏の声に促されて出立するということになってしまいました。

      ★   ★   ★

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二条の姫君  第百十八回

2015-08-05 11:13:30 | 二条の姫君  第四章
          第四章  ( 六 )

三月二十日過ぎの頃に、江の島というところに着きました。
なかなか風光明美で、その様子をうまく表現できないほどです。満々たる海の先に浮かんでいる島には岩屋がいくつもあり、そこに泊まることになりました。
そこは、千手の岩屋というそうで、長らく苦行を続けてきたと見える山伏が一人、修業をしておりました。

霧の立ちこめる籬(マガキ)、竹の編戸など、粗末なものですが優美さを感じさせる住まいでした。
先ほどの山伏が世話をしてくれていて、食事には場所柄にふさわしく貝などを出してくれました。
姫さまは、供人の笈の中から都の土産として扇などを与えられますと、
「このような住まいには、都からの伝言などなく、風の便りにも都人を見ませんのに、今宵は昔の友にお会いしたように思われます」
などと、しみじみと話されるのも、いかにもそうだろうと感じられました。

その後は、これというほどの話もなく、皆それぞれに眠りにつきましたが、夜も更けた頃になっても、姫さまは寝付かれない様子でした。
やはり、いかにも遥々ときた思いに襲われているらしく、波の音も気になるのでしょうか、そっと岩屋の外にお出になられました。姫さまにとっては、旅の褥は苔の筵と同じようなものでしょうから、覚悟の上の旅ではございますが、供の者の目を離れると、思わず忍び泣きの声を漏らされておりました。
薄闇に泡立つ海の姿は、雲の波とも潮の煙とも見分けさえつきません。

夜の雲もすっかり消えてしまっていて、月も行くべき先がわからないのか、空に澄み渡っていて、詩に歌われているように、まことに二千里も隔たった土地に来てしまったのだという感慨にふけっておられました。
後ろの山の方からか、猿の声が聞こえてくるのも、哀切に腸(ハラワタ)をかきむしられるようで、心の内の悲しみが次から次へと湧き上がってきたのでしょうか、身を震わせておられました。

憂きことも、悲しきこともただ一人で耐えることを常としてきている姫さまでございますが、都を遥かに離れた小島で聞く潮騒の音はあまりにも侘しく、切なさに耐えられなかったのでしょうか、気配を感じさせないようにお側に仕えている供に身を寄せられるのでした。
その小さなお体は、小刻みに震え、それでもなお、漏れいずる嗚咽を懸命に堪えようとされているのです。

『 杉の庵(イホ)松の柱に篠簾(シノスダレ) 憂き世の中をかけ離ればや 』

憂きことの多い世から逃れたい、というのは、この時の姫さまの偽りのないお心だったことでしょう。

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二条の姫君  第百十九回

2015-08-05 11:12:19 | 二条の姫君  第四章
          第四章  ( 七 )

明ければ、いよいよ鎌倉に入りました。
最初に、極楽寺という寺に参詣いたしました。僧の振る舞いは都と違わず、とても懐かしい感じがします。
化粧坂(ケワイザカ)という山を越えて鎌倉の方角を眺めますと、東山で京を見るのとは全く違っていて、まるで階段のように家々が重なっていて、袋の中に物を入れたかのように狭苦しく住んでいる有様は、とてもみじめに見えて、思い描いたものとは違い、姫さまは少しがっかりされたご様子でした。

由比ヶ浜という所に出て見渡してみますと、大きな鳥居が見えました。若宮の御社も遥かに見えています。
八幡の御神は、「他の氏よりは源氏の者を守護する」とお誓いになったということですが、大きな因縁のもとに八幡の御神に護られるべき御家にお生まれになられた姫さまでございますが、この苦しい旅路の途上であるだけに、「いかなる前世の報いなのか」などと申されるのです。

しかしながら、そのような弱気なお言葉に続けて、姫さまの御父上である故大納言殿の後生の生まれます所が極楽であるように誓願なされましたときに、「今生のそなたの果報に代えて聞き遂げよう」との御託宣を受けているのでした、と微笑まれるのでした。
ですから、八幡の御神をお恨みする心などございませんし、たとえ物乞いをして歩くとしても、それを嘆いていてはならないのですよ、と供の者に話されましたが、ご自身に言い聞かせておられたのでございましょう。
また、「小野小町も衣通姫(ソトオリヒメ)の流れを引く女性だということだが、粗末な竹籠をひじに掛け、蓑を腰に巻いているという、その身の果てはみじめな有様であったというが、私ほど思い悩んだのだろうか」などと、姫さまは珍しく愚痴をこぼされました。

様々な思いを振り払うようにして、まずは御社に参詣なさいました。
鶴岡八幡宮の鎮座まします場所の有様は、石清水男山八幡宮の景色よりも、海が望めるあたりが素晴らしいと言えましょう。
色とりどりの直垂(ヒタタレ・武家の常服)で参詣し下向しているのも、男山八幡宮とは、ずいぶん様子が違います。
さらに、荏柄天神、二階堂、大御堂などという所をあちらこちらと参拝して回りました。

大倉の谷(ヤツ)という所に、小町殿といって鎌倉将軍維康親王にお仕えしている人は、姫さまとは、またいとこにあたる土御門定実殿の縁者なので、連絡を取っておりましたところ、「たいへん思いがけないことです」とのご返事があり、「ぜひとも私の所へおいでください」と言ってくださっていましたが、姫さまはお気が進まない様子でしたので、その近くに宿をとることにしました。
そのことをお知りになった小町殿は、「ご不便でしょうから」と再三お誘いくださいましたので、姫さまもようやくそのつもりになられ、旅の疲れをしばらく癒すことといたしました。

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二条の姫君  第百二十回

2015-08-05 11:10:55 | 二条の姫君  第四章
          第四章  ( 八 )

小野殿のお屋敷でしばらく日を過ごしておりましたが、そのうちに、善光寺詣での道案内を頼んでいた人が四月の末頃から重い病にかかり、前後不覚というほどになってしまいました。
何とも頼りなく情けない思いでしたが、ようやく少し快方に向かったと見えた頃、今度は姫さまが寝込んでしまわれたのです。

病人が二人になってしまったことから、お世話いただいている屋敷の人たちも、「いったいどういうことだろう」と心配され、早速に医師を呼び寄せましたが、
「格別なことはない。慣れない旅の苦しさに、持病が起こったのだ」
と、気軽に言うのです。
姫さまのご様子は、とても重症という様子ですのに、満足な手当てもなく何とも心細い限りです。

以前なら、さほど重い病でなくとも、風邪気味で少し鼻水が出る程度であっても、その状態が二、三日も続きますと、陰陽師や医師を呼び寄せないということはなく、家に伝わる宝物や、世間に知られた名馬まで、霊社、霊仏に奉納し、南嶺の橘、玄圃の梨といった珍しい果物を姫さまに食べさせるために、御父上は大騒ぎされたものでございます。
しかし、旅路の途中なれば、病に臥されて幾日もたつといいますのに、神にも祈らず、仏にも祈祷申し上げず、さしたる食べ物も、薬さえも満足にご用意することができないのです。
ただ静かに寝ていただくしかなく、「生きている世界が変わったような気がする」などと姫さまは申されたりしましたが、日頃の神仏祈願の御加護か、あるいは定められた寿命というものがあるのでしょうか、六月に入った頃から快方に向かわれました。
やがて、床を離れることはできましたが、物詣にお出かけになるまでにはゆかず、すぐ近くを散策されるだけで日を送り、いつか八月となりました。

十五日の朝、小町殿の所から、
「今日は都では放生会の日でございましょう。どのような思い出がございますでしょうか」
と申してこられましたので、姫さまは御歌をお贈りになられました。

『 思ひ出づるかひこそなけれ石清水 同じ流れの末もなき身は 』 (思い出すかいもありません。石清水八幡の流れと同じ流れである源氏の末とはいえ、子孫のいない私のような身の上の者には)

小町殿のご返歌は、
『 ただ頼め心の注連(シメ)の引く方に 神もあはれはさこそかくらめ 』 (ただ御神にお頼みなさい。心に掛けた注連縄をを引くように心を寄せている人に対して、八幡の御神は憐れみを掛けてくださることでしょうから。)

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二条の姫君  第百二十一回

2015-08-05 11:05:27 | 二条の姫君  第四章
          第四章  ( 九 )

鎌倉の新八幡の放生会という行事があるということなので、行事の有様を知りたいという姫さまのご希望で出掛けました。
そうしますと、将軍が御出仕なされる有様は、鎌倉という所にしては、なかなか威厳ありげでございます。
大名たちは、狩衣で出仕している者や、直垂を着ている者、帯刀とやらいう役柄の者など、皆思い思いの姿なのも珍しいうえに、赤橋という所で、将軍が車からお降りになる際、公卿や殿上人が少々御供している有様などは、あまりにも卑しげにも、みじめたらしくも見えました。

平左衛門入道と申す者の嫡子平二郎左衛門が、将軍の侍所の所司ということで参った有様などは、物にたとえれば、関白などの御振る舞いのように見えました。なかなか、堂々としたものでございました。
流鏑馬(ヤブサメ)や、盛大な祭礼の作法や有様などは、見たところで何にもならないだろうとのことで、そのまま帰ることにしました。

そのようなことがあって幾日も経たないうちに、「鎌倉に事件が起こるだろう」と人々がささやくのが伝わってまいりました。
「誰の身の上に変事が・・」
などと、密やかに噂しあっているようでしたが、
「将軍が上洛するらしい」
という話が真実らしく聞こえてまいりました。
もし、それが本当だとすれば、由々しきことのように思われます。
小町殿にとっては一大事ですし、姫さまにも、全くご縁のない世界の話ではございませんから、早速様子を窺いに行くことにしました。

御所近くまで参りますと、
「たった今、御所をお出になる」
と、人々はすでに声高に話しているのです。あまりにも急なことで、ただ事でないと思われます。
そして、対の屋の端には、見るからに粗末な張り輿が寄せられているのです。
 
丹後二郎判官という者らしい人物が、上から指令されたのであろうか将軍をその輿にお乗せしようとしているところへ、相模守貞時の使者として平二郎左衛門がやってきました。
そうすると、先例だということで、「御輿を逆さまに寄せよ」と指示が出されました。
さらに、将軍がまだ御輿にすらお乗りになっていないのに、はや寝殿には、小舎人(コドネリ)という身分の低い者たちが集まっていて、わら沓を履いたまま御殿に登って、御簾を引き下ろしたりするのですから、ひどくお気の毒で正視できない有様でした。

そのような慌ただしい中を、御輿がお出になったので、女房たちはそれぞれが輿に乗るなどということもなく、物を被るまでもなく、
「御所様は、どこへお出になられたのですか」
などと言って、泣く泣く出て行く者もいます。
大名などで、将軍に親しい感情を抱いていると思われるものは、若党などを供にして、暮れゆくうちにお見送りされるのだろうかと思われる者もいる。
人々が、思い思い、心々に将軍と別れる有様は、何とも申し上げようもございません。

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二条の姫君  第百二十二回

2015-08-05 11:04:23 | 二条の姫君  第四章
          第四章  ( 十 )

将軍は、佐介の谷という所へひとまずお移りになって、五日ばかりして京へお上りということなので、御出立の有様も拝見申し上げたくて、いらっしゃるお近くに推手の聖天と申す霊仏がおわしますので、そちらに参ってお聞きいたしますと、
「御出立は丑の刻(午前二時頃)と決められました」
と、教えてくださいました。

いよいよ御出発なさる折も折、宵のうちから降っていた雨は、この頃にはさらに激しくなり、そのうえ風まで吹いて、何か怪しき物などが通り過ぎるのであろうかと思われる有様でしたが、
「予定の時刻を変更してはならない」
ということで、御出立される際には、御輿を筵というもので包んでいるのです。あきれ果てて、とても正視できない有様なのです。
御輿を寄せてお乗りになったと思われますが、何だかだといって、また庭にお下ろし申しあげたりして、御出発までに時間がかかってしまいました。御輿からは、将軍が御鼻をおかみになる音が、たいそう低くではありますがたびたび聞こえてくるのです。御袖の涙もさぞやおびただしいものであったと、推量されるのでございます。

それにしましても、将軍と申しましても、夷などが自身の力で天下を取って、将軍になったというわけではありません。
この御方の御父上は、後嵯峨天皇の第二皇子と申すべき後深草天皇より、お年の上では一歳ほど年長でいらっしゃり、最初にお生まれになられたのですから、御父上が天皇になられていたならば、この御方も当然皇位に就かれてもおかしくない御身だったのでございます。
しかしながら、御父上の母君であられる御方が、低い身分の出自であったため実現しなかったのでしょうが、将軍として鎌倉に下向することになったのでございます。
しかし、普通の御方ではなく皇子でいらっしゃいますから中務の親王と申し上げていたのです。今の将軍はそのお子様であられますから、御身分の高貴なことは申すまでもありません。それも、何ということもない身分のご寵愛の女性から生まれたという例もありますが、この御方は、藤原氏の摂家の名流の出自の女性が御母上なのです。
父親王、御母上のどちらから見ても、少しでも粗略な扱いなどしてよいはずがない、などと姫さまはお怒りとご同情に涙を流されるのでした。

『 五十鈴川同じ流れを忘れずは いかにあはれと神もみるらむ 』 (将軍も帝も同じ五十鈴川の流れであることをお忘れでないなら、伊勢の御神もどれほどお気の毒と見ておられることでしょうか)

御道中の間も、さぞ御涙の涸れることのない日々でありましたでしょうに、御歌をお詠みになったという噂は全く聞こえて参りませんでした。
『 北野の雪の朝ぼらけ・・ 』と、ご自身の無実を歌われた前将軍のご子息なのにと、姫さまはたいそう残念なご様子でございました。

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