遥かなる友よ
ご 案 内
かつて 私たちの国は 激しい戦争を経験しました。
その是非はともかくとして 多くの人々が 苦しい経験や悲しい思いを強いられたことは 事実としてありました。
この作品は ある先輩の大切な経験の一端を伝えたいと思ったものです。
全十回の短い作品ですので、ぜひ一読下さいますようご案内申し上げます。
遥かなる友よ
ご 案 内
かつて 私たちの国は 激しい戦争を経験しました。
その是非はともかくとして 多くの人々が 苦しい経験や悲しい思いを強いられたことは 事実としてありました。
この作品は ある先輩の大切な経験の一端を伝えたいと思ったものです。
全十回の短い作品ですので、ぜひ一読下さいますようご案内申し上げます。
( 一 )
昭和も残り少ない年の初秋のことである。
私が富沢氏とお会いするのは五年ぶりであった。
その間にも、年賀状や挨拶状などの交換のほかに二度ばかり電話で声をお聞きしたことはあったが、直接お目にかかるのは実に久しぶりであった。
私が富沢氏を訪ねたのは、お見舞いのためだった。
私は関西勤務が長く、当時も兵庫県に住んでいた。東京に出てくる機会も少なく、富沢氏とお会いする機会が少なくなっていたのもそのためである。
その時私は、ある社内研修に参加するため三日間の予定で東京に出張していたが、たまたま同じ研修を受講しているメンバーの一人から富沢氏の近況を聞いたのである。
その友人の話では、富沢氏の病状は相当悪い状態らしいということで、今は退院して自宅で療養しているが、良くなっての退院ではなく、手術などの治療が出来ないため自宅に帰っているのだということであった。
富沢氏が一時身体を悪くされていたことは耳にしていたが、もうすっかり良くなったと便りなどで聞いていたので、友人の情報は意外だった。
私が知っている数年前の病気はいったん完治したのだが、それが再発したもので、今度は難しいらしく、その病状のことは富沢氏自身も告知を受けているらしいというのが、友人の話だった。
私は研修終了のあともう一日東京に残ることにして、富沢氏に連絡を取りお見舞いにあがることにした。
私は宿泊しているお茶の水から中央線で富沢氏宅に向かった。電車で三十分余りの距離にあるこの街は、東京の郊外都市として古い歴史を有しているが、私が初めておじゃました頃とは様変わりといえるほど変貌していた。
駅前は地方の中心都市を凌ぐ景観になっていて、徒歩十分足らずにある富沢氏の居宅は、大都会の真ん中にある閑静な住宅地という雰囲気に変わっていた。
奥さまに案内されて、改装されたらしいまだ新しい感じの応接室に入ると、富沢氏は立ち上がって歓迎して下さった。
その姿からは、お身体が勝れない様子が痛いほど感じられた。声音や落ち着いて語る口調など変わりはなかったが、身体全体の張りが五年前とは別人のようになっていた。もともと小柄なお方であったが、さらにひとまわり小さくなられているのが痛々しかった。
それでもきびきびとした雰囲気は失われておらず、出来の悪いかつての部下の近況を心配そうに聞き、丁寧に頷いておられた。
私が東京にいた頃には、奥さまにも何度かお目にかかっていたが、それはずいぶん前のことなのだが、当時のことを思いだしながら久しぶりに見るわが子に接するほどに懐かしんで下さった。
話が一段落したとき、一緒に外出しようと誘われた。奥さまも一緒に昼食を外で食べようというのである。
前日に富沢氏のご都合を聞いたうえでの訪問ではあるが、何分急なことだったので、もともと予定のあるところへ私が飛び込んだものと思われ、遠慮させていただく旨を申し上げた。
富沢夫妻が、それはそれは気持ちよく私を歓迎してくれていることは十分感じられていたが、富沢氏の顔色は決して勝れたものではなく、人ごみの中へ出掛けられるような状態ではないはずである。
おそらくそれを承知のうえでの外出だと思われるので、よほど重要な用件なのだと推察したからである。
しかし、私の申し出に対して、何とか食事だけは一緒にして欲しい、と奥さまに懇願するかのように言われ、ご一緒することになった。
夕方の新幹線に乗ればいいので時間は十分にあった。
**
私たち三人は、富沢氏が手配していたタクシーで池袋に向かった。
池袋駅の近くの割烹料理店を予約しているとのことで、食事のあとで私たちは別れることになっていた。富沢夫妻は、そこから大塚にある病院に行くとのことであった。
そこに入院されている人を見舞うのが目的のようである。
外出の目的が入院している人の見舞いに行くことだと聞いて、私は内心驚いていた。そして、よほど大切な人を見舞うのだろうと推察し、少し興味も手伝って、タクシーの中でそれとなく話題にした。
「お見舞いされる方は、ご親戚の方なのですか?」
「いや、そうじゃないんだ。でも、私にとってはとても大切な人なんだ」
「会社関係の人ですか」
「いや・・・。戦友なんだ」
私たちは、タクシーの後部座席に奥さまを真ん中にして乗っていた。私が前の席に座るというのを富沢氏が承知されず、三人が並んで座っていた。
私たちの会話は奥さまを挟んでおこなわれていたが、奥さまが、富沢氏の言葉のひとことひとことに頷いておられたのが印象的だった。
「戦友ですか?」
「そう・・・。考えてみると、戦争が終わって四十年以上過ぎたことになるなあ・・・。私たちが日本に帰りついてからでも、四十年だ・・・」
「ずっと、お付き合いがあった人なのですか?」
「まあ、ずっとというわけではないが、二年に一度くらいは会っているね」
「そうですか。戦友というのは、やはり特別なのでしょうね・・・」
私は、遠い日にお聞きした、あの話のことを思いだしていた。
「まあ、そうだね。特に私の場合は、ね・・・。でも、一人死に、二人死んでゆき、とうとう入院している彼と私だけになった・・・。彼も、かなり弱っているらしくて、今日、明日の状態らしいんでね、どうしても最後のお別れをしておきたいんだ・・・。
そうなると、とうとう、私が最後になる・・・」
「・・・」
私は、うまく応じることができず、黙っていた。
奥さまは、ハンカチを取り出して、目頭を押さえていた。
「彼を見送ることができれば、私は責任を果たしたというか、ようやくお礼が言えたことになるのだと、勝手に思っているんだ・・・。だから、それまでは絶対に死ねないんだよ」
私は、私にとって掛け替えのない人生の師の言葉に、ただ沈黙するしか術がなかった。
そして、遠い昔にお聞きし、その後も事あるごとに思いだされるあのときの話が、ひとつの光景となって鮮やかに蘇えっていた。
( 二 )
富沢氏は、かつて私の上司であった。
長いサラリーマン生活を通じて多くの上司に仕えてきたが、富沢氏こそが私が最も尊敬する上司だった。
富沢氏は、サラリーマンとして順調な昇進を果たされた方であるが、ずば抜けた昇進をしたとかトップクラスを走っていた方ではなかった。
仕事に関していえば、富沢氏に仕えたのが私がまだ若い頃のことだったこともあり、後年にもっと大きな影響を受けた上司もいる。
しかし、最も尊敬できる先輩を挙げるとすれば、私は何のためらいもなく富沢氏に決められる。
職場を通じて多くの優れた先輩たちに出会うことができたが、私にとっては富沢氏は別格であった。その思いが何十年たっても揺るがない富沢氏の魅力は、その人柄にあった。
富沢氏の人柄については多くの社員が認めるところであり、一度でも仕えたことのある者で、その人柄を悪く言う人に出会ったことがなかった。
私が仕えたのは、富沢氏が二か店目の支店長に就いた時であるが、社内の若手社員向けの研修会の打ち上げの席なので、全国二百余りの支店の支店長の品定めをし、優しい支店長、厳しい支店長、訳が分からない支店長、早く辞めさせたい支店長、などといったランク付けをして馬鹿騒ぎをしたことが何度かあるが、いろいろ意見が分かれる中で、富沢氏の優しい支店長という位置付けだけは群を抜いていた。
そして、富沢氏を知る社員は異口同音に、「しかし、あの支店長だけは恥をかかせてはいけないという気持ちになってしまう」とも言うのである。
私だけのことでないと思うが、社会に出てから多くの方々と出会い、励ましたり励まされたり、憎んでみたり憎まれたりしながら生きてきたと思う。
身過ぎ世過ぎとしてのサラリーマン生活ではあるが、出会った方々から影響を受け指導を受けて育てられたことも確かだ。その中でも、富沢氏に教えられたことは今もなお鮮明に想い浮かべることができる。
**
富沢氏が私が勤務する会社を定年退職されてからすでに久しい。
その最後に近い三年ばかりを私は部下として働く機会を得ることができたのである。もっとも、富沢氏は営業店のトップであり、私は二十四、五歳の青二才で、対等に仕事ができるような立場になかったが、富沢氏に誉めてもらいたいためにかなり真剣に働いていたと思う。
富沢氏は部下を信頼するタイプの上司であった。それも部下ばかりでなく、取引先関係の人とも信頼をベースに仕事をする人であった。
おそらく、当時の私などには思い至らないような経験や知識などに裏付けられていて、それに基づいて信頼に足る人物かどうかを判断されていたのだろうが、その姿勢は中途半端なものではなかった。
「富沢支店長は、どうしてあそこまで人を信用することができるのだろうか」
と、私だけでなく当時の同僚や先輩たちも噂していた。
私はプライベートな酒の席で、このことを直接尋ねたことがあった。
当時は、現在よりも職階などによる縦社会が厳格であったが、富沢支店長という方の人柄からくる親しさと、私の方がすでに一人前の仕事をしているような自惚れと生意気さが盛んな年頃であったことも加わり、歯に衣着せずに質問したのだ。
「なあに、私だって人を疑うし打算もあるよ。でもね、迷った時は、私は人を信用することにしているんだ。そのために失敗したことも少なくないよ。それでも、人というものは信頼するに足るものだという考えが変わることはないね」
「何回も裏切られたとしても、ですか?」
私は、突っかかるように質問を続けた。
「まあ、まあ、まあ・・・」
小柄な富沢支店長は、駄々っ子をあやすように私に酒を注ぎながら、笑顔を崩さなかった。
「確かに人を信頼し過ぎることによって商売上の失敗をしたことは多いよ。おそらく、失敗した数を数えれば、全国の支店長の中で私はトップクラスだろうね。しかし、私は会社にはそれほど損をかけていないよ。人事部の連中にはいつも言うのだが、わが社は失敗することをマイナス評価し過ぎる、とね。そんな人事評価ばかりしていると、十年後、二十年後のわが社の人材は、計算ばかり巧い、面白みのない社員ばかりになってしまうってね」
「失敗を恐れるな、ということはよく分かります。しかし、当然に会社に損をかけますよね」
「もちろんそのことは考えなくてはならないよ。私たちは自分の金で商売をしているわけではない。いくらリスクがあってもどんどん行け、ということではない。もし上手く行かなかった場合どれだけの損失を被るのか、上手く行った場合にはどれだけの利益を上げることができるのか、これを判断することだよ」
「はい、それは当然だと思います。私などでも考えています」
「うん、うん。そこで大切なことは、その損失とか利益ということなんだ。損失だ、利益だというとわが社の損得だけを考えてしまうことが多い。でも、それだけでは十分ではないよ。損失とか利益とかというものは、わが社のものと取引先のものとを合算させたものが、その取引における本当の損失であり利益だということを、正しく判断できるようになることが大切だと思う」
「取引先の損得も合算させるのですか?」
「そうだよ。とても重要なことだよ。君はまだ若いから、むしろ取引先の利益を重視してもいいくらいだ。現にその傾向があるよね。でも、今はそれで良いと思う。そのためにリスクをチェックする上司もいるわけだからね。でも、経験を重ねるうちにだんだん当社の利益中心になって行ってしまう。立場が上になるほどリスクを避けようとなるんだね。しかし、君もやがてしかるべき立場になると思うが、その時にも、損失とか利益とかというものを取引全体で考える能力を持っていて欲しいと思うなあ」
「はい・・・」
「納得がいかないようだね・・・。だが、このことは大切なことだよ。もう少し上の立場になってからでいいけれど、今から勉強していって欲しいと思うね。企業は戦いに勝ち抜いていかなくてはならないという理論は確かに正しいのだろうけれど、取引というものはそれだけではないと思う」
「どちらもが利益にならないといけないということでしょうか?」
「その通りだよ。もっとも、全部が全部そのようには行かないのが現実だよね。特に、こちらが損失を受ける可能性がある場合が難しいわけだが、そのような時こそ、相手の人物、企業の将来性を正しく見る目と、損失、利益を合算で考えるという感覚が必要になってくると思う。それが、社会に役立つ企業だと私は思っている。自分だけの利益だけしか考えられないのは、あまり優秀な企業ではないし優秀な社会人ではないと思う」
「しかし、それで企業競争に勝てるのでしょうか?」
「企業競争ということになれば、いろいろな要因が絡んでくるから、このことだけで断言はできないけれど、社会の利益ということをベースに考えられない企業は、いずれ社会から追い出されることになり永続できないと思う。少なくとも私はそう思って仕事をしている・・・。
もっとも、うちの人事部辺りは、私のような考え方はあまり好きではないようだけれどね」
「はい・・・」
当時、私は十分に理解することができなかった。
酒の席にかかわらず、富沢支店長は若輩の私に対して熱心に話し続けてくれていた。
ただ、当時の私には戸惑いのようなものも強かった。資本主義の社会である限り企業はそれぞれが自分の会社の利益を最優先にして競い合っていくことが当然で、「お前はどちらを見て仕事をしているのだ」と上司や先輩に叱られることが多かったからである。
富沢支店長の話は新鮮ではあったが、戸惑いの方が強かった。
「難しい話で、酒が冷めたんじゃないかい」
富沢支店長は、硬い表情の私に酒を注ぎ、さらに言葉を続けた。
「私は人を信頼することをベースにして仕事をしてきたが、確かにそれで失敗を重ねてきた。しかしね、たくさんの失敗はしたが、裏切られたことはそれほどないよ。まあ、無いことはないが、数えるほどだ。失敗の大部分は、相手が私を裏切ったのではなく、商売がもくろみ通り行かなかったために、結果としてわが社に損失を与えてしまったものだ。
それは、間違いなく失敗だけれど、裏切りではないよ。失敗の原因は相手が計画通りやれなかったことにあるが、そのことを見抜けなかった私も当然ミスとして責められる。それは仕方がないが、相手は必死になってわが社の損失分を弁済しようとしてくれるものだよ。確かに、最初の契約には反するし、時間もかかるが、損失分の大半は弁済してもらえているよ。
そして、そのあとには強い信頼感が生まれてくる。これはわが社の大きな財産として先々までわが社を支えてくれる。目先の取引結果だけで損だ得だと言っていると、もっと大切なものを少しずつ失っていくと思う。
このような考え方はサラリーマンとしては損をするかもしれないが、君には、広い視野を持った人間になって欲しいと思うなあ・・・」
**
私が富沢氏に強い尊敬の念を持つようになったのは、この酒の席での話が発端である。
富沢氏は部下の人気が非常に高い支店長だったが、それは大変優しい上司であることに起因していると思っていた。職場で富沢氏が声を荒げる場面を見たことも聞いたこともなかった。
部下にとってまことにありがたい上司であるから、人気の高い原因の殆どはその優しさによるものだと思っていたのである。
逆に常識では理解できないほど厳しい上司もいる。現在ならパワーハラスメントとして訴えられるような、人間性を疑いたくなるほど怒り狂う上司もいた。個人的には仕えたくないが、組織としてはそのような人物もそれなりに必要なのだろうと考えていたので、富沢氏の人気の高さを私は割り引いて考えていたように思う。
しかし、この時から私の富沢氏に対する見方は大きく変わった。完全に富沢支店長の信奉者になったのである。
私たちの職場は定期的な転勤が制度化されていて、同じ人物とそう長くは同一職場に居れないものだが、幸いにも富沢氏にはほぼ三年仕えることができ、その間に私の心の中で生涯の師として敬い続ける存在に育っていった。
私は富沢氏から実に多くのことを教わったが、この酒の席から半年ほど後にお聞きしたものは、生涯忘れることのできない感動を与えてくれるものであった。
**
当時私が勤めていた会社は全国に二百余りの支店を展開していたが、富沢氏の下で働いた支店は東京都区内の西北部に位置する住宅地にあった。
富沢支店長の下には三人の課長がいる規模で、会社全体としては小規模に属する支店といえる。
私は、外部訪問を主体とする営業課の末席社員であった。
私たちの課は、課長と課長代理と平の男性社員が五人、それに内部事務を担当する女性社員一人の総勢八人の体制であった。
課長は、最近の人事異動で本店から昇格してきたエリートを絵に描いたような経歴の持ち主であった。この課長と若手社員が衝突してしまったのである。
その課長としては、同期のトップクラスとして課長に昇進してきたが、東京都内とはいえ周辺部に位置する住宅地の支店など、考えてもみなかった転勤だったようである。都心の大規模な支店か本店の重要ポストに比べあまりにも地味な場所であり、部下たる私たちは数字の分析さえ満足にできないのに理屈だけは一人前以上というのが揃っていたから、失望の上に不満が重なっていたのだと思う。
私たち若手社員が職場に特別強い愛着を持っていたわけではないが、新任の上司から自分たちの職場を悪し様に言われることは面白いことではなかった。特に私を含めた若手の三人とは、傍目にも分かるほど険悪な状態になっていた。
そのような状態をもたらした原因の一つは、課長代理の存在であった。
課長代理はさすがに私たちと違って大人らしく業務をこなしていたが、課長との波長は私たち以上に合っていなかったと思えた。年齢が課長代理の方が十歳ほど上であったから、どちらにとってもやりにくい面が多かったのだろうが、仕事の進め方や考え方が根本的に違うタイプであった。
二十年以上の営業経験のある課長代理の仕事のペースは、まさに義理と人情であった。取引先とは、貸し借りをベースにした付き合いを何より大切にしていた。あの時助けてもらったから今回は少々無理があっても先方の要求を受けるべきだ、といった考え方がベースなのである。
従って、一つの取引だけを取り出してみると、とんでもない条件の取引が発生するのも当然なのだが、課長から見れば、とても容認できない取引ということになる。
我々はわが社のために仕事をしているのであって、取引先の補完部署ではない、というのが課長の言い分であった。
仕事上の目標に対する考え方も同様であった。
私たちの会社に限らずたいていの会社において現在ほど緻密な目標体制は構築されていなかったと思われるが、課長代理の目標に対する考え方は、当時の私などからみても確かに甘いものであった。
課長代理によると、目標などという制度は社員を信用していないか、引っ張っていく自信のない経営者が考え出したものだというのである。大切なことは人為的な目標を達成したか否かよりも、どれだけの仕事をしたかということだ、というのがその主張であった。
課長の考え方はこの面でも対照的であった。目標制度こそが企業経営の根幹を成すものであるという主張であった。
経営方針は細分化され目標として各部署に割り当てられるというのである。従って、組織の末端に位置する社員の一人一人が目標を達成してこそ経営というものが成り立つのだという考えであった。
理由や言い訳はいらない、目標を達成させろ、というのが課長の一貫した指示であった。
本当のところは、課長には経験豊富な課長代理に対する背伸びがあったと思われるし、課長代理には課長に対してこの若造がという気持ちもあったというのが、摩擦の大きな原因であったと思われる。
**
営業課の管理職二人がぎくしゃくしている中で、私たち平社員全員が課長代理に付いていた。
課長とよりも付き合いが長い分気心が通じていたし、間違いなく実戦に強く細かなことを言わない頼りになる上司であった。
私はアンチ課長の先頭に立っている方であるが、その一番の理由は、課長には部下の成果を横取りするようなところがあり、それがどうしても許せなかった。
そして、営業課の中で膨らんでいた不満の塊が会議の席で爆発してしまったのである。
その発端となったものも、明らかに課長代理の成果のものを、課長がまるで自分一人の手柄のように出席していた支店長に報告したことであった。その案件についてよく知っていた一歳年上の先輩が爆発してしまったのである。
すかさず私が同調し、平社員の全員が加わったものだから会議は滅茶苦茶になってしまった。
その夜、私と一つ年上の先輩とは二人だけの作戦会議を開いていた。
結論は、会社のためにもあのような課長を在籍させていてはいけないというものであった。私たち二人で課長と刺し違えようということになった。
間もなく賞与が支給される頃であったので、それを受け取れば再就職まで何とかなると現実的な計算もしていた。平社員は五人いたが独身は私たち二人だけなので、家庭の心配がない私たちだけで決行しようということになったのである。
ただ、私たちだけが責任を取らされるような馬鹿な結果にならないように、慎重な計画が必要だということでその夜の作戦会議は終わった。
今思えば、若気の至り以外の何物でもなかったのだろうが、当時の私たちは真剣であった。
しかし、ここで問題が出てきたのである。
それは支店長であった。この頃には、私は富沢支店長という人物に強く惹かれていた。同志となる先輩も全く同様であった。
課長と刺し違えるような事を起こした場合、支店組織のトップである支店長も責任を問われることは十分予想されることであった。それは困るのである。私たちの本意ではないし、それは絶対に避けなければならない。
私たち二人はさらに相談を重ねた結果、行動するということを支店長に伝えに行こうということになった。
引き止められることになることは十分予想されるが、それで揺らぐような決意でないことを私たちは確かめ合った。
**
私たち二人が興奮気味に話すのを、一言も口を挟まず聞き終えた富沢支店長は、ゆっくりと頷いた。
富沢支店長が用意してくれた会社に近い一品料理店の一室である。
「この前の会議でのことなら、私にも大体のことは分かっているつもりだよ。まあ、これでも支店長だからね」
「あのことだけではないのです。彼のような人物が、当社のトップクラスであることが問題だと思われませんか?」
「まあ、まあ・・・。わが社には一万人の社員がいるんだよ。いろいろなタイプの社員がいて当然だよ。人は、それぞれがいろいろな面を持っている。一つだけの面を拡大し過ぎて見ると、判断を間違えることがあるよ」
「私たちが常に正しい判断をしているとは思っていません。しかし支店長、支店長は彼を課長として適任だと評価されているのですか?」
「参ったね、これは・・・。この前、君たちに私は基本的に人を信頼しているという話をしたね?」
「はい、お聞きしました。大変感銘を受けました」
「私は、課長のことを信頼している。課長を評価した人事部の判断も信頼している。まあ、課長の場合は新任課長でもあり、俺が俺がという部分が目立ち過ぎるところがあるが、やがて気がつくと思う。ただ、彼のために君たちのように不本意な決意までしなければならない者を出して大変だ。私などが、若い人ともっと話さなければいけないのだろうね」
「いえ、支店長の問題ではありません。いやしくとも課長の職責にある者が、あれで良いはずがありません。支店長が信頼しておられるというのも理解できません」
未熟な私たちには富沢支店長の言葉に納得することができなかった。
「いやいや、そんなものではないよ。人は、信頼に足るものだよ。私たちは成長していく過程で多くの人に教えられ、迷惑をかけてきているんだ。成長していくということは、常に未熟な部分を誰かにぶつけているということなんだよ。君たちも、もう少し時間をかけて、冷静な判断をして欲しい。
私に迷惑がかかることを心配してくれているのなら、そんことは心配しなくていいよ。私は泥にまみれて生きてきているから、いまさら少々の泥などはこたえないし、君たちの泥なら真っ正面から受けるよ。
それより、君たちには、人をもっと優しく、もっと幅広く見る目を養って欲しいのだ。
課長も、多くの同期生の中のトップクラスで昇進してきた男だ。欠点もあるかもしれないが、長所もあるはずだよ。一万人もの社員を評定しているのだから、人事部の見る目が全部正しいとは言わないし、明らかにおかしい人事も少なくないよ。
しかし、ね、十点の力しかない者を九十点にするような間違いはしないよ。六十点のものを八十点にしてしまったり、その逆をやってしまうことはたくさんあると思う。これはこれで大変なことだけれど、長い人生を歩いていく以上、周囲のこのくらいの不公平や過ちを受け入れていける優しさと、乗り越えていける強さが必要だよ。
君たちにも、課長に対してもう少し優しい目で見てやって欲しいし、もう少し付き合ったうえで結論を出すようにして欲しい・・・。これが、私の希望だよ」
「・・・」
「私は人が好きなんだよ。悪いことやずるいことをたくさんするが、良いことや優しいことを、どんな人間でもやっているよ。
そう・・・、もう古い話だし、あまり人には言いたくないことなのだが、私が経験したことを話そう・・・」
富沢支店長は、遠くを見つめるようにして私たちから窓の外に視線を移した。その表情は厳しく悲しげに見えた。
そして、ふたたび穏やかな表情を私たちに向けると、静かな口調で語り始めた。
( 三 )
富沢氏の話。
**
我々は、当時の満州国の北部、ソ連との国境近い地で第二次世界大戦の敗戦の日を迎えていた。
情報は混乱していた。
偵察に出ていた我々の小隊が、伝令の将校から戦闘停止の命令を受けたのは、その日の夕刻であった。
わが帝国が降伏したということがどういうことなのか理解できないままに、我々は所属していた中隊に合流すべく移動を続けていた。
偵察に出る前に野営していた場所に中隊の姿はなく、行方を確認することができない状態であった。村人から情報を得ようと試みたが、村人たちはすでに全てが敵と化していた。
中隊に伝えられた命令は「戦闘を停止し、武器を捨てて投降せよ」というもののようであったが、投降するということがどういうことなのか我々の小隊の誰もが分かっていなかった。
投降するということの不安と、そのようなことは絶対にあってはならない不名誉だという身に染みついた常識と、すでに国家そのものが降伏しているらしいということなどが、我々の判断力を混乱させ弱めていた。
それに、投降するにしても、戦うべき相手の姿を見ない日が続いており、誰に対してどうすればよいのかも判断できなかった。
我々小隊は中隊の姿を求めて山野をさまよい続けた。
戦闘を停止せよと命令されているからには武器を使用するわけにはいかなかったが、我々は武装したままだった。我々を襲おうとする暴徒の群れに数回遭遇したが、たとえ使用できない武器であっても我々の身を救ってくれた。
我々は、暴徒の姿に怯え、互いが互いの考えていることを推し量り、脱走すればどうなるかとの考えも脳裏に描いていた。すでに、数名の仲間の姿が消えていた。
そして、三日目の午後、我々の小隊は周囲を大軍に囲まれていた。初めて遭遇するソ連軍であった。
投降ということがどういうものなのかと思いあぐねていた我々の小隊は、あっという間に捕虜になっていた。
ソ連軍には流暢な日本語を話すアジア系の通訳がいて、捕虜になった我々に対して極めて事務的に指示を与えた。特別手荒なことはされなかったが、傷を負っていた二人と将校二人は小隊から分けられ、それ以後出会うことはなかった。
別れた四人の消息は、その後全く知ることができないままである。
我々小隊で残った総員は十八人であった。
このあとずっと行動を共にすることになるが、入隊間もない兵隊が多く、上等兵であった私がリーダー格になった。このリーダーというのは、日本人捕虜を管理するためのソ連軍の手法らしく、私は小隊長の立場になった。
別に権限があるわけでもないが、隊のトラブルの責任はリーダーに負わされていた。
我々は、その日のうちに軍用トラックに詰め込むように乗せられて移動した。途中何度か休憩したが、翌日の昼頃まで走り続けた。
その間に与えられた食事は、黒いパン一つと塩湯のようなスープだけであった。想像を絶する空腹との戦いの始まりであった。
この黒いパンは、酸味が強いパンであった。そういう味付けなのか、劣化したための味なのか分からないが、材料は小麦というより麸 (
ふすま・・・小麦を引いたときにでる皮の部分) が中心と言ってもいいものであった。
長いシベリア生活の主食となるパンであった。
トラックがようやく到着した場所には、多くの兵舎らしい建物が並んでいた。一見して軍用らしいものが中心だが、一般の住居らしい建物も幾つか見受けられた。ただ、住民らしい人影は全くなかった。
そこには千人を超える日本人捕虜が収容されていた。殆どが軍人であったが、民間人らしい一群もいた。
我々もその集団に加えられたあと、新たに部隊を組むような編成をされた。もっとも人選など関係なく端から順に人数を数えて分けられていった。
新たに組まれた隊は百人から成り立っていて、二名のソ連兵が監視役として付いた。ソ連兵は、我々を五列縦隊に並べると点呼を取り員数を確認した。
わずか百人の隊であり、全員が兵隊であったから整然とした五列縦隊を作っていたにもかかわらず、人数確認に信じられないような時間を要した。
言葉が通じないことや、つい昨日まで敵国の兵士であった百人の捕虜を、二人だけで監視するといった事情があったにせよ、何度も何度も点呼を繰り返した。
ようやく人数の確認が終わると、二人のソ連兵は長い銃を振り回しながら、断末魔のような声を上げながら指示を始めた。
ソ連兵は全く日本語が話せなかったが、日本兵の中にほんの少しばかりロシア語を理解できる者がおり、大袈裟な手振り身振りを交えながら長い時間をかけて指示が伝えられた。
指示の内容によると、今夜はここで野営するということであった。
我々の隊は全員が兵隊だったので、武器は取り上げられていたがその他の装備はそのままだったので、枯れ草がたくさん残っている場所での野営は苦痛ではなかった。
ただ、食事は何も与えられず、水だけは十分にあるということだった。火も使ってよいから勝手に煮炊きして食べろという指示であった。片言が分かる日本兵が何を煮炊きするのかと、身振りを中心に何度も何度も質問を繰り返したが、与えられるものは水だけであることに変わりはなかった。
そしてソ連兵は、火事を出せば全員を射殺すると、銃を振り回しながら何度も身振り手振りを繰り返した。
行動を共にしてきた我々十八人は、全員が飯盒などを所持していたし米など若干の食料を持っていたが、百人の隊全体では、半数ぐらいのものが食料らしいものを全く持っていなかった。
我々は米を集め、十分ではなかったが米の握り飯を分け合って食べた。
その夜は、食事が終わったときと、ようやく眠りにつきかけたときの二回、点呼が行われた。
最初と同じように、時間のかかる点呼であった。
**
富沢氏の話は続く
**
二日後、我々はその集落のようにも見える基地を離れた。
そこで編成された我々の隊ともう一隊とが、軍用トラック一台と十人ほどのソ連兵の監視の下で行軍を始めた。
二百人の日本人捕虜たちは、誰もが不安を抱きながら、口数少なく歩き始めた。
ソ連軍兵士からは行く先について何の説明もなかった。
すでに枯れかけている草原の中を、それでも道らしいものが果てしなく続いていた。ただひたすら歩き、時々休憩を取り、その度に点呼が行われた。
何のために何処へ向かっているのか一切説明がなかったが、この頃は、我々はそう遠くない日に日本に送られるものだと考えていた。
捕虜となった敗戦国の兵士がどのような処遇をされるのか我々には知識がなかったが、すでに戦争は終結しているのだから長くこの地に残されるとは思えなかった。もし処刑するつもりであるならば、あちらこちらと移動させるようなことはしないだろうし、監視下に置いておけば、いくら粗末な物とはいえ食料の手配だけでも大変なはずである。
それらを考え合わすと、いずれ日本本土か、あるいは満州国辺りへ返されるはずだという希望を持っていた。
だが、事はそれほど簡単ではないらしいという不安が、日が経つごとに我々の心の中で広がっていった。
我々の一隊は、銃口が覗いている軍用トラックと徒歩のソ連軍兵士に監視されながら、三日、四日と歩き続けた。
一日に四十キロメートル程度進んでいたと思われるが、辺りの景色は殆ど変わることがなかった。
さらにただ歩くだけの日が続き、日本兵の中で倒れるものが出始めた。
行軍そのものは、交替しながらだがソ連兵も歩いており、それほど厳しいものではなかった。季節は秋であり気候には恵まれていた。
しかし、食事量の不足からくる栄養不足がひどく、下痢など起こすとたちまち体力を消耗した。
移動中には、時々別のトラックがやってきて、食料などの補給を行ったり、行軍不能となった日本兵を乗せて行ったりしていた。
隊から離れたものが、その後どうなったのか分からないが、再び戻ってくることはなかった。
与えられる食事は、とにかく酷いものであった。
朝食と夕食は、酸味の強い黒いパンとスープ。昼は、ソ連兵がカーシャと呼んでいた、粥というか雑炊というか、それが一杯出るだけであった。
パンは慣れさえすれば結構おいしく食べられたが、他の物はひもじい状態であっても食べられないほど酷い味であった。スープは殆ど塩味だけの湯に、何かの油がわずかに浮いているだけだった。
カーシャなどは、初めて口にしたときには殆どの者が喉を通すことができなかった。燕麦に野菜屑、それに魚の切れ端が少しばかり混ざっていたが、その味といい臭いといい酷いものであった。そして、あらゆる汁類の味は、岩塩だけで味付けされているらしく、とにかく塩辛かった。
移動させられている途中で、脱走できないかという相談もあった。
どこまでも伸びている道の両側は草原だが、決して平地ばかりではないのでトラックが自由に走れるとは思えない。徒歩で監視に当たっているソ連兵の動きは鈍重で、疲れも見えている。
少人数での脱走なら十分可能だと思われたが、行けども行けども草原の中で人家らしいものも全く見当たらない風景は、人間が生きていける土地とは思われなかった。
それに、季節は秋から冬に向かっていた。満州の冬を知っている者には、さらに北にある荒野で生き延びることが不可能なことは考えるまでもなかった。
まだ八月の末であったが、夜は冷え始めていた。
寝るのは全て野営であるが、日中歩いているときは汗ばむほどの陽気が、日没とともに温度が急速に下がった。手持ちの毛布に包まって寝ても、明け方には寒さで身体か震えるほどであった。
やがて、十日程も歩き続けたとき、ようやく建物群が見えてきた。おそらく四百キロメートル以上は北に移動した場所だと思われた。
十棟ばかりの大きな建物を中心にして、他にも幾つかの建物があった。全部が木造建築で、あちらこちらに見張用の高い建物があり、そこには機関銃らしいものが据えられていて、何人かの兵士の姿も見えた。
そして、建物群全体が、太い丸太の柵と有刺鉄線で囲い込まれていた。我々が収容される労働収容所であった。
そこは、ハバロフスクに近い原野の中の労働収容所であった。
広大なシベリアの中では東寄りに位置していたが、海に面しているウラジオストックからは六百キロメートル程も北方の内陸にあり、冬は内陸性の気候が厳しい極寒の地であった。それでも、シベリアに数多く作られていた労働収容所の中では、まだましな方であったかもしれない・・・。
もっとも、私がこれらのことを知るのは、ずっとあとのことである。
( 四 )
労働収容所の生活が始まった。
我々が到着すると、すぐに全員に対して健康チェックのようなことが行われた。
全員が素裸にされ、軍医らしい者に一人一人尻を捻じられた。男か女か判断がつかない大柄な軍医は、尻を捻じると甲高い声で叫び、その声に従って我々は分けられていった。
どうやら、尻の肉付きで体力の状態を計っているようであった。
偵察隊から同じように移動してきた十八人は、ここでも別けられることなく同じグループに組み入れられた。全員がまだ元気だということのようであった。
我々は、二百人余りで一つの隊が組織され、木造の大きな建物を宿舎として割り当てられた。その隊を三十人程ずつの小隊に分けられ、常に一緒に行動するよう指示された。
我々十八人はここでも同じ小隊に属することができ、これまでの経緯から私が小隊長のような役を受け持つことになった。
全体の隊長は四十歳代の伍長が就き、ソ連軍との伝達役を務めることになった。
慌ただしく日が過ぎ、捕虜としての厳しい環境に戸惑いながら九月が過ぎた。
シベリアの冬は、十月の声とともにやって来た。
それは、突然にやって来て、あっという間もなく真冬に突入していった。雪は少なかったが、何もかもが凍りついていった。
シベリアの冬には段階がなく、いきなり真冬になるのだと思っていたが、そうではなかった。十一月、十二月とさらにその厳しさは増し、それからが本当のシベリアの冬であった。
私は、この労働収容所で二年半の年月を過ごすことになるが、それは、人間が生存し得る限界を超えるような日々であった。
何もかもが人間が人間として生存していくには過酷過ぎた。
宿舎に当てられた建物には床がなく土間のままであった。真ん中が通路で、両側に三段のベッドが設置されていたが、それはベッドというより荒削りな板敷の棚であった。
一つの棚に十人が並んで寝るのだが、最初の冬は寝具が一切支給されなかった。大きなペチカが一つあり、燃料の薪は十分あったが、とても寒さを防げるものではなく、各自が携帯していた毛布や上着を持ち寄って、二人ずつ寄り添うようにして寒さを防いで眠った。
食事は移動中と同じような物の組み合わせであったが、味より何よりも量が足らなかった。毎日の三食とも量が足らないのである。
食事が終わったその時から、空腹との戦いが始まるのだ。
命じられた労働は穴掘りであった。時々、少し離れた森へ燃料となる木を切りに行くが、それ以外は何のためのものかは分からないが、ただ深い溝を掘り続けた。
冬の大地は完全な凍土となり、岩盤のようであった。焚火で溶かし、先の尖った鉄棒で掘っていくのだが、割り当てられたノルマを達成するのは簡単な作業ではなかった。
そして、何より辛いことは、先が見えないことであった。
いつの日にか故国の土が踏めるという希望を頼りにあらゆる苦難に耐えていたのだが、何の情報も与えられないという不安と、間断なく襲ってくる絶望との戦いの日々でもあった。
来る日も来る日も、その日一日を生き延びることだけに追われ、眠られぬ冷たいベッドで遠い故国を思い浮かべる毎日であった。
**
年が変わり、本格的なシベリアの冬がやってきた。
日照時間は極端に短く、あらゆるものを凍りつかせるシベリアの冬は、我々の身体の外気に触れる全ての部分を凍てつかせた。それは、単に身体だけに止まらず、生命さえも凍てつかせていった。
他のあらゆる悪条件とも相まって、我々の労働収容所から死者の出ない日はなかった。
満州辺りで冬を過ごした経験のある者はまだ寒さに対する抵抗力があったが、日本本土の冬しか経験していない者や、中国大陸での生活が長くても沿岸部の冬しか経験していない者にとっては、シベリアの冬はあまりにも過酷であった。
その寒ささえ上回る苦しみは、飢えとの戦いであった。
酸味の強い黒いパンはまだ良かったが、スープとカーシャと呼ばれる雑炊状のものは酷かった。しかし、最初は喉を通すことができなかったカーシャでも、飢餓状態が続けば、自然に受け入れられるように人間の身体はなっているようだ。
痩せこけた身体は、胃袋に流し込めるものであれば、どんな物でも受け入れる体質に変わっていった。
しかし、どう胃袋に流し込んでみたところで、絶対量が足らなかった。
食事が終わるのと同時に空腹感は始まり、意識がある限り消えることがなかった。与えられる食糧は、空腹感を満たすものではなく、次の食事まで生命を繋ぎとめるために必要なぎりぎりのエネルギー源でしかなかった。
与えられる物は何でも食べた。身体に差し障りがあるかどうかなど考える余裕などなかった。とにかく何かを腹に入れなければ倒れてしまう、そんな状態が続いていた。
下痢を起こす者も少なくなかった。病で倒れ、異国の土となっていった者も、我々がいた労働収容所だけでも少ない数ではなかった。
殆どが赤痢とかチフスであったと考えられるが、明日は我が身と思いながらも、それはそれで楽になれるという気持ちもあった。
人間というものには、肉体と精神がどのように存在しているのだろうかと考えることがあった。
飢餓状態が続くうちに、自分という人間からは精神的なものは全て消え果ててゆき、存在するものは空腹から逃れたいという肉体的な欲求だけになる。精神的なものなど何の役にも立たず、むしろ、精神的なものが肉体を滅ぼそうとさえする。
捕虜となった当初は、殆どの者がそう遠くない日に日本の土を踏めるものだと考えていた。
しかし、極寒のシベリアの労働収容所の生活は、そんな甘い夢を消し去るのに多くの時間を必要とはしなかった。
わが帝国が負けるなどということは、我々の精神構造の中には存在していなかった。戦いは時の運、戦いに敗れることはあるとしても、降伏することなど考えてみたこともなかった。いわんや、自分自身が捕虜になることなど予測の範囲外であった。
厳しい戦いの最前線に展開していたら、敗軍の兵になる可能性は常に意識していた。だが、その時はいささかの迷いもなく自決の道を選ぶ覚悟であった。それは、日本の兵士であれば誰一人変わらぬ覚悟であった。
だが現実は、我々は投降し、捕虜としての屈辱と苦難の日々を必死になって耐えていた。
精神が正常に働き始めると、誇りも覚悟もどこかへ投げ捨てて、這いつくばるようにして屈辱に耐え、ただ今日一日の生命を永らえるためにもがいている自分の姿に、大声で泣き出したいような自己嫌悪に陥った。
何もかも投げ出したくなった時、肉体の限界を超えて耐え忍ばせるものは、それもまた精神の力であった。
このままでは死ねない。いつの日か故国の土を踏むまでは絶対に死ぬことは出来ぬ、という思いが細い細い生命の糸を繋ぎとめていた。
いつかは日本の土を踏むのだという思いだけが、肉体を襲う苦しみも精神を蝕む屈辱と絶望をも、限界を超えて耐えさせていた。
**
それは、最初の冬の最も辛い時期であった。
二月の上旬頃であったと思うが、私の小隊で小競り合いが起こり、私はその責任を問われた。小競り合いの原因は、焚火にあたる場所の取り合いからである。
収容所における我々の作業は穴掘りであった。
来る日も来る日も穴を掘った。幅五十センチメートル余り、深さ百五十センチメートル程の穴というより濠のようなものを掘っていくのだが、シベリアの凍土は岩盤と同じであった。
若干の鶴嘴と先の尖った鉄の棒を使って人海戦術で掘るように命じられたが、岩の塊のような凍土はびくともするものではなかった。
我々は、午前と午後の作業前に焚火をするのが恒例となっていた。
収容所と接して造られていた広大な製材工場には、処分しきれない木屑が積み上げられていた。我々も時々木を切りに行ったが、その数十倍の量の原木がどこかから持ち込まれていて、木屑の量は膨大なものであった。
我々はそれを運んで来て、掘る場所に積み上げて燃やすのである。
焚火が終わる頃には三十センチ位の深さまでの凍土が湯気を上げていた。そのあとの作業は何倍もに効率が上がるので、監視のソ連兵も焚火を認めていた。
我々にとって、この焚火ほどありがたいものはなかった。その間の作業は休みだし身体を温めることができる。
それと、身体を温めることは、ほんの少しだが空腹を押さえてくれる。カロリーのことを熱量というが、焚火の熱もカロリー源のようであった。
焚火用の木屑はいくらでもあったが、実際に燃やせるのは、その日の作業予定の範囲に限られていた。風向きもあり、全員が十分暖を取れるものでもなかった。
お互いが阿吽の呼吸で立つ場所を譲り合っていたが、焚火での暖の取り方で体力の消耗が違うことを全員が知っていた。焚火にあたる場所の取りあいなどと軽蔑できることではないのだ。
極限状態の生命を守るものの一つであったのだから、シベリアの労働収容所の冬を経験した者なら、この争いを笑うことなどできないと思う。
その夜、私はトラブルの責任を取らされた。
夕食を止められ、収容されていた棟とは別棟にある物置のような部屋に入れられた。
十坪程の天上の高いその部屋は、以前は物置として使われていたようだが、この頃は、私のような者に罰を与えるための独房のように使われていた。
床は土間のままで、凍てついてはいなかったがコンクリートのような冷たさである。
部屋の中にある物は、片隅に置かれているベッドだけであった。ベッドには草で編まれたござのようなものが敷かれていたが、これは我々が毎日使っている寝床より良いものであった。
部屋の中に電灯はなく、三メートル程の高さであろうか、天井近くに明かり取りのためと思われる横長の窓があった。それだけが、漆黒のような闇から私を守るものであった。
その夜は月のある夜だったので、目が慣れてくると結構明るく感じられた。
私はベッドに横になった。ござは厚みがあり、結構クッションがあった。捕虜になってから最も柔らかな寝床であった。
私はできるだけ早く寝てしまおうと考えていた。空腹は、とっくに耐えられない状態になっていたが、時間が経つほどさらに激しくなるのは分かり切ったことなので、その前に少しでも眠っておかないと身体が参ってしまうと考えたからである。
しかし、五分と横になって居れるものではなかった。
寒いのである。
もともと人けのない寒い部屋であるが、土間から湧き上がってくるような寒気が、部屋全体に充満していた。
それが、少々厳しい寒さであっても落ち着いた寒さであれば耐えられるかもしれないが、この部屋の寒さは、かきまぜられているような寒さであった。
明かり取りの窓には硝子戸が無く、そこから寒風が吹きこんできていた。入ってくる風の冷たさもさることながら、その風が部屋全体の寒気をかきまぜているのだ。
熱い湯の中に必死に耐えて入っている時、じっとしている時には何とか耐えられたとしても、その湯をかき回されるととても耐えられないという経験があるが、熱さと寒さとの違いこそあれそれと同じ理屈であった。
私は部屋の中を歩き回った。
寒いから歩いたのではなく、寒さのためじっとしていられなくなり身体が勝手に動き出したのである。
歩き回り、少し身体が温まったところで、うずくまるようにベッドに座った。とても横になる気はしなかった。少しでも表面積を小さくしたいという本能からくる姿勢であった。
そんな防衛本能にかかわらず、数分もしないうちに身体は元の寒さに戻り、うずくまっていることもできず、また歩き始めた。
歩きながら、部屋の中で最も空気の動きが少なく、少しでも寒さがましな場所を探した。少し身体が温まると、その場所で立ち止まって休んだ。
空腹が、全身を襲ってくる。
少しずつ体温が下がってきているような感じがする。
飢えからか、寒気からか、身体がガタガタと震えだす。たまらず、また歩く・・・。
私は、自分が独房に入れられていることを、ようやく認識した。
しかもここは、単なる独房ではなく、拷問室でもあったのだ。
彼らは、それを知っていたのだ。この部屋に、食事を与えずに入れるということがどういうことなのか、よく知っているのだ。
明かり取りの窓に硝子戸が入っていないのも、彼らの巧妙な計算の上のことなのだ。
私は歩いては止まり、歩いては、また止まった。
空腹に耐えかねてうずくまり、寒さに急かされて、また歩いた。
眠ることなどとても無理なようであった。もし眠れるとしても、その時は、死に繋がる眠りを覚悟せねばならない、と私は思った。
空腹は限界を遥かに超えていた。これ以上歩き回ることは体力的に無理だと思われた。しかし、ガタガタと震えだす身体をなだめるために、また歩いた。
私は、故国のことを想いうかべた。
妻や子供のことを考えるのは苦し過ぎた。もっと前の、自分がまだ子供の頃のことを想いうかべた。
私は東京の郊外の町で育ったが、その頃は、雑木林や小川が美しく、空も畑もきらきらとした輝きを持っていた。
セミやトンボを追いかけて、小魚をすくって遊んだ・・・。