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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語 ・ 表紙

2010-01-20 19:43:55 | 小さな小さな物語 第一部~第四部

 小さな小さな物語  第二部


  第二部は No.61~120 までを収めています


 


 

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小さな小さな物語 目次 ( 61~80 )

2010-01-20 19:41:19 | 小さな小さな物語 第一部~第四部

小さな小さな物語 目次 ( 61~80 )


   61  健在です
   62  自らの決断を
   63  父の日ですか? 夏至ですか?
   64  心のバランスシート
   65  アンデスの息吹


   66  カメもワニも大切です
   67  水の恵み
   68  偶然の出会い
   69  さあ、飛び立て!
   70  高級食材って?


   71  美味しく頂く
   72  「うま味」を学ぶ
   73  わが身をとせよ
   74  神の領域
   75  花時計は命が伝えるメッセージ


   76  愛情の総和
   77  究極の選択
   78  クリーンエネルギー
   79  光と陰の間
   80  許されざる罪


   

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健在です ・ 小さな小さな物語 ( 61 )

2010-01-20 19:40:05 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
小さな小さな物語の第一回は、昨年十二月五日に皇帝ダリアの開花を報告させていただいたものでした。
ふつうは十一月中には開花するはずなのですが、背丈は十分育ちながら開花が遅れていたものですから、わずか一輪二輪の花が嬉しくて報告させていただいたのです。


ところが、あの後、僅か一週間ほどで枯れてしまいました。百を遥かに超える数の蕾を付けながら、その大半を開花させることなく一気に枯れてしまったのです。
皇帝ダリアは他のダリアに比べ開花期は遅いのですが、寒さに弱いのは同様のようで、昨年も開花のあと当地としては厳しい寒さがやってきたものですから、枯れてしまったのです。
冬の期間は枝葉や幹も枯れてしまうことは承知しているのですが、大きなものだけに一気にしおれてしまう姿は何だか哀れで、幹の根元から急いで切ってしまい、その後は手入れもせずに放っていました。


ところが、残されていた球根から芽を出して、今では私の背丈を越えてきました。昨年ホームセンターから買ってきた苗は、今頃は一メートルにもなっていなかったと思いますので、親を超える勢いで成長しています。
図体だけ大きくなればよいというわけではないのですが、あの一気に枯れたダリアが球根に命を託し、見事に健在な姿を見せてくれているのです。今年はしっかりとした柱を立てねばなりません。


狭いくせに荒れ放題のわが家の庭には、鉄砲ユリがあちらこちらから可憐な花を咲かせてくれています。すかしユリはピークを過ぎましたが、鉄砲ユリはいつ植えたのか記憶もないあたりから次々と花を咲かせてくれています。
このコラムを開始してまだ半年ほどですが、草花の生命力に重ね合わせてみますと、丈夫に育つもの、途中で枯らしてしまうもの、人間の勝手で雑草と呼ばれるものも含めて、考えさせられるものがあります。
下手くそな園芸もいいものですよ。

( 2009.06.15 )
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自らの決断を ・ 小さな小さな物語 ( 62 )

2010-01-20 19:38:03 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
臓器移植法改正案が国会で審議されています。
大変微妙な問題を含んでいますので、個人的な意見は差し控えるべきだと思ってきましたが、同時に、それだからこそ国民の多くがもっと関心を持ち、立法府も広く一般国民の意見を聴取する必要があるように思われます。
いくら選挙で選ばれた国会議員だとしても、人間の尊厳にかかわる問題までも白紙委任されているわけではないように思うからです。


この問題、すなわち臓器移植に関する問題の難しいところは、医学的見地、あるいは科学的見地からだけでは絶対に公平と思われる結論は出ないと思われるからです。
医学的見地に立てば、現代医学では臓器移植以外に救われる方法がない人々が大勢いるという事実があります。わが国で治療できないため海外に救いを求めていった人々がいる事実があります。お金の力でその国の患者の治療機会を奪っているのではないかという意見もあります。
しかし、同時に、臓器移植については、どの状態をもって人間の死とするのか、という問題を避けて通ることができません。そして、それは、いくら立派な学者や国家の指導者が意見を陳述されても、まったく受け入れることができない人も少なくないのです。


私たちの肉体は、およそ六十兆個という細胞から成り立っているそうです。
そして、その細胞は毎日何百億、何千億個という単位で死んでいっています。もちろん同じように新しい細胞が生まれ、私たちの肉体は維持されています。死んでいく膨大な数の細胞は、人間という個体の死とは結びついていません。しかし、細胞の死は、やはり死です。
これまで先人たちは、心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔の散大の三つをもって死と考えてきました。しかし、この考え方を人間の死と決めてしまうと、心臓、肝臓、肺などの臓器移植は死者からはいただけないことになってしまうのです。


その解決手段として「脳死」という概念が生まれてきたのです。もちろんそれは、科学的な裏付けがされてのことですが、「脳死」を人間の死と考えようとする必要性の大きな理由は、臓器移植という医学的必要性であることは否定できないと思うのです。
しかし、「脳死」をもって人間の死とするという考え方に、どうしても納得できない人が少なくありません。宗教的に、哲学的に、あるいは人間の尊厳の問題として、などと意見を述べられる人もいますし、現に呼吸している愛している人を「脳死」という一言で諦めることなどできないのも、人情というものではないでしょうか。
結局、自らの死にあたって、可能な限り臓器を提供したいという人々によって臓器移植治療は守られるのではないでしょうか。いくら法治国家だといっても、法律で伝統的な死の概念を全面否定することは無謀だと思うのです。
「脳死」をもって自らの死と認め、臓器を提供することによって救われる命があることを、嬉しく思い誇りに思う人も決して少なくないはずです。

( 2009.06.18 )
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父の日ですか? 夏至ですか? ・ 小さな小さな物語 ( 63 )

2010-01-20 19:36:57 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
本日六月二十一日は、父の日です。そして、たまたまですが夏至にあたります。
あなたの家では、父の日優先ですか? それとも夏至優先ですか?


まあ、多くの家では、さすが劣勢の父の日でも、夏至には負けていないのではないでしょうか。
それにしても、重なるのが夏至でよかったとつくづく思います。これが春分の日とか秋分の日だったら、父の日なんて、とても太刀打ちできませんから。
考えてみますと、夏至というのも二十四節気の一つで、太陽の運行、あるいは一日の昼の長さといった考え方からすれば、春分・秋分・冬至と同格だと思うのです。でも、その扱われ方において、春分・秋分には大きく水をあけられていますし、冬至にも少々劣勢のように思われます。


父の日に関する報道もしかりです。商魂満ちあふれた広告や報道は結構ありますが、父にまつわる感動物語など母の日のそれと比べること自体が無意味なほどです。
父の日も米国発の記念日のようですが、母の日と酷似しているようなエピソードがあります。六月の第三日曜日というのも母の日の真似をしているみたいです。


そこで提案があります。大きな役割を担いながら極めて地味な、父の日と夏至を合体させてはいかがでしょうか。すなわち、夏至にあたる日を父の日と定めるのです。
えっ? 個人的なひがみからの提案ではないのかって、言われるのですか?
いいえ、決してそのようなことはありません。私は豪華食事で祝ってもらいました。この提案は、一般的な社会の風潮に対する正義感あふれる義憤からです。ホントですよ。

( 2009.06.21 )
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心のバランスシート ・ 小さな小さな物語 ( 64 )

2010-01-20 19:34:35 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
バランスシートとは、ご存知の通り貸借対照表のことです。
間もなく上場会社の多くで株主総会が開かれ、新聞にも決算報告が掲載されます。
貸借対照表は損益計算書と並んで会社の経営状況を知る上で重要な役目を担っています。


いえ、何も貸借対照表の効能をご説明するわけではありません。
実はこの貸借対照表、どんな会社でも、つまり、超優良企業といわれる会社も、よくも倒産しないものだというような会社も、貸し方と借り方は常に同金額になっています。
「だからバランスシートというんだ、馬鹿だな」と言われてしまいますと、このコラムは終わってしまいますので、もう少しご辛抱下さい。
バランスシートには、いくつかの項目が計上されています。業績良好な会社は利益部分が大きくなってバランスを保ち、赤字の会社は損失計上で左右が同額になっています。また、計上されている項目の中でも故意に過大に、あるいは過少に操作されているかもしれません。


私たちの心も、バランスシートを持っているような気がします。
心のバランスが乱れたために、犯罪を犯してしまったとか、病気になってしまった、といった話を見たり聞いたりすることがあります。
しかし、もし私たちの心がバランスシートを持っているとすれば、どんなに乱れたとしても左右がアンバランスになることなどありません。会社が赤字を計上するなり、粉飾決算をしてまで左右を同額にするように、私たちの心も、病気になったり犯罪に走ってしまったりまでして、左右のバランスを保っているのではないでしょうか。


私たちの心は、一つの出来事に対してそれを均衡させる反対の力が素早く働いてバランスが保たれているのだと思うのです。
悲しい出来事や辛い出来事に対して、それをバランスさせるために安易に赤字を計上させたり、心にもない粉飾を行っていては、短期的にはともかく、やがて会社が倒産するように心も壊れてしまいます。
いろいろな出来事に対して、特にダメージとなる出来事に対して、均衡させる働きをするものが私たちには必要なのです。
その働きをするものは各人さまざまなのでしょうが、例えば、家族であるとか友人であるとか、あるいは趣味や仕事やペットなども、その働きを持っているのではないでしょうか。
心のバランスシートには、あまり赤字をため込まないようにしたいものです。

( 2009.06.24 )
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アンデスの息吹 ・ 小さな小さな物語 ( 65 )

2010-01-20 19:32:34 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
アンデスメロン、食べたことありますか?
マスクメロンに比べますと大分見劣りしますが、良いものを適切な時期に食べますと、なかなか美味しいものです。これからの時期、よく冷やしたアンデスメロンの一切れは、デザートとしてはかなりのものです。
大振りの一切れをゆっくり味わいますと、アンデスからの冷風を感じるような豊かな気持ちになります。それに何より、値段がお手頃なのが多いによろしい。


ところが、このアンデスメロン、原産地は北アフリカで、アンデスとは何のゆかりもないそうです。
実はこのメロン、わが国のある大手種子メーカーが品種改良を重ねた上で開発に成功したものだそうです。
ではなぜアンデスメロンなのだと言いますと、最初は「アンシンデスメロン」として売り出すつもりだったそうです。その後検討する過程で、もっとすっきりした名前の方がいいということで、途中の「シン」を省いて「アンデスメロン」が誕生したそうです。昭和五十二年の頃のことです。


同じような経緯で命名されたものって、意外に多いようです。
超有名なところでは、「ブリジストン」は創業者の苗字である「石橋」を逆に並べて、「ブリッジ・ストン」とし、あと整理して見事な名前を作り上げたそうです。
「キヤノン」も、「観音菩薩」から生まれた商品名であり社名であるそうです。


それにしても、あの一切れのアンデスメロンに、まだ行ったこともないアンデス山脈の雄大な姿を思い浮かべ、その息吹に触れたような気持になっていた私は、一体何なのでしょうか。
「知らぬが仏」とは誠に言い得て妙、世の中には知らないままの方が幸せなことも多いのでしょうね。

( 2009.06.27 )
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カメもワニも大切です ・ 小さな小さな物語 ( 66 )

2010-01-20 19:31:03 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
地球温暖化が懸念され始めてから久しいですが、残念ながらその対策は全く進展していません。
多くの国で、多くの指導者や科学者たちが知恵を働かせてくれているそうですが、いささかなりとも効果がみられるという現象は現れているのでしょうか。


それどころか、温暖化対策とか環境対策とかという名のもとに、うまく立ち回っている輩がいるのではないかと思われる節も、ちらほら見受けられます。
環境だ、エコだと叫びさえすれば、それがまるで錦の御旗のように思っているのではないかと感じられる現象もあります。
もっと直截に、環境問題は金になると、のたまわれる経済評論家と自認されている方もいます。現在の経済危機を乗り切る手段の一つに、環境問題に勝機を求めよと言うのです。


でも、本当に地球環境が危機的な状態に向かっているのであり、その原因の幾ばくかを私たちが犯しているのであるならば、人類すべてが相応の犠牲を払って解決に向かうのが本当ではないでしょうか。
まあ、私がぐずぐず言ってみたところで仕方がありませんが、エコだ、エコだと叫ぶ人たちにあまり振り回されないようにしたいものです。


そもそも地球なんて、温暖化や寒冷化を何度も繰り返しているわけですし、やがては寿命もくるわけですから、少しぐらいの温度変化にバタバタすることなんかないと思っていたのですが、最近こんな記事を見ました。
カメやワニは、卵を産みつけた所の温度によって雌雄が分かれるそうなのです。
つまり、カメは産卵場所の温度が高い所ではメスに、低い所ではオスになり、ワニの場合は反対で、温度が高い所ではオスになり、低い所ではメスになるそうです。
種類によってはもっと微妙な変化を見せるものもあるようですが、温暖化により、メスばかりのカメや、オスばかりのワニになってしまっては大変です。
カメもワニも大切です。最近の地球温暖化に人間の勝手気ままな生活ぶりがいささかでも影響しているのであるならば、相当の犠牲を払ってでも食い止めなければならないですよ、ね。

( 2009.06.30 )
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水の恵み ・ 小さな小さな物語 ( 67 )

2010-01-20 19:29:08 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
この数日、北九州をはじめ各地で激しい雨がありました。一部地域では、降り始めてからの降雨量が500mmを越えたとか。土砂災害や水の被害も発生しているようです。誠にお気の毒なことです。


その一方で、四国など水不足に悩まされた西日本は、たっぷりと水の恩恵を受け、各地のダムはほぼ満杯の状態のようです。
ただ、生活に必要な水を十分に確保するためには、どこかで被害が出るほどの雨が必要だというのも困ったものです。


古来、水を治めることが国家を治めるための重要な要素であるとされています。
四国、特に香川県は毎年のように水不足がニュースになっています。百年に一度といった旱魃ならともかく、毎年のように干上がっていくダム湖を報道しているというのは、何なのでしょうか。
四国にはその昔弘法大師が指揮されて造られた広大な貯水池があり、現在もその恩恵を受けています。
近代国家と自負しているわが国において、香川一県の水資源さえ満足に確保する能力がないのでしょうか。


わが国は、水資源に関しては大変恵まれている国のようです。外国の事情は全く承知していませんので大きなことは言えませんが、特に飲料水に関しては、ほぼ全国土で安全な飲み水を簡単に入手できる国は、それほど多くはないようです。
かつては、水力が発電の主力であったこともあります。もっと遡れば、水車が私たちの生活の手助けをしてくれていました。
ダムやコンクリートで固められた川岸や、水田の減少などが環境によくないと言われることがよくありますが、過去の多くの失敗を参考にして、わが国全体の水資源をもっともっと有効に活用する必要があるのではないでしょうか。

( 2009.07.03 )
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偶然の出会い ・ 小さな小さな物語 ( 68 )

2010-01-20 19:27:52 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
偶然の出会いというものに大変興味があります。
私たちは多くの人と出会い、多くの人と別れていきます。行きずりに過ぎない人もいますが、生涯に渡って関わりをもちあい、あるいは大切な人になる場合もあります。
さて、自分の人生において重要な意味を持つ人との出会いは、偶然なのでしょうか。あるいは必然なのでしょうか。それとも、もっと違う表現の仕方がある働きによるものでしょうか。


このブログで、「天空に舞う」という長編小説を発表させていただいていますが、その第三回では、主人公である啓介と早知子が小学三年の時に初めて出会った時のことを描いています。
その出会いには、二人の家が同じ新興住宅地に引っ越ししてきたことと、二人が同じクラスに転入したという、二つの偶然かがあったとして描いています。さらに、啓介の父が転籍したことなど他にも偶然が重なっていたともいえます。


ある人は言います。この世で起こることは全て必然であって、偶然などというものは存在しないと・・・。
そう断言されてしまいますと、反論の方法もないのですが、以前にこのコラムでも書かせていただきましたが、私は、偶然というものもあり、奇跡的なものもあり、奇跡そのものもあるという考え方をもっています。
しかし、そこに必然という事象を加えるとなると、さあ・・・。


ところで、明日は七夕です。あの、織姫星と牽牛星が初めて出会ったのは、偶然だったのでしょうか。それとも必然だったのでしょうか。
その後限りない数の逢瀬を続けているのでしょうが、今年はお天気がはっきりしません。新暦の七月七日は梅雨のさなかですから、ちょっと可哀そうな気がします。伝統的な七夕 (旧暦) に戻してやりたいものです。

( 2009.07.06 )
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