雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語  第十部

2014-02-25 08:00:19 | 小さな小さな物語 第十部
          小さな小さな物語  第十部


            No.541 から No.600 まで収録しております。
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小さな小さな物語  目次

2014-02-24 20:21:51 | 小さな小さな物語 第十部
          小さな小さな物語  目次

      No.541  偽物
        542  ほんもの
        543  幸福と幸せ
        544  人口減少社会
        545  小さい秋


         546  消費税を考える
        547  クロネコの散歩
        548  オリンピックがやって来る
        549  経済効果
        550  オリンピックとGDP


         551  強靭な国土
        552  有資格者
        553  点検管理
        554  スポーツを学ぶ
        555  目立ちたがり屋


         556  銀河団衝突
        557  お家の事情
        558  記念日が大好き
        559  遠交近攻
        560  福島原発を研究センターに
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偽物 ・ 小さな小さな物語 ( 541 )

2014-02-24 20:20:39 | 小さな小さな物語 第十部
ある動物園で、ライオンの代わりにイヌを展示していたのがばれてしまった、というニュースがありました。
写真で見る限り、体の大きさはともかく、ちょっと見には小型のライオンのように見えなくもないのでしょうが、それにしても、『ワン、ワン』と鳴いたために見学者に分かってしまったというのですから、何とも苦笑いでもするしかありません。
少し離していて、薄暗くしておくのであれば、イヌではなく人間にでもそこそこ似ているご仁を見つけられるような気もするのです。人間であれば、少なくとも『ワン、ワン』と鳴くようなへまはしないでしょうから。

あるいは、わが国の落語には、トラの縫いぐるみを着てアルバイトをするという新作落語の名作がありますが、そういうことは考えなかったのでしょうか。
いずれにしても、当動物園の関係者の方は、それなりに苦労した上の対処だったのでしょうから、あまり茶化すのは失礼ですし、実際深刻な状態に追いこまれているそうですから、同情申し上げます。
やはり、今回の場合は、正直に「ライオンはただ今不在」とでも表示するのが正しいのでしょうが、さて、正直にありのままをさらけ出すということは、そうそう簡単なことではないようです。

「偽物」を辞書で調べてみますと、「にせてつくったもの。偽造品」と、説明されています。
つまり、本物とある程度似ていなければ「偽物」にはならないのです。
そういう意味からすれば、今回のイヌをライオンの「偽物」と表現するのは正しいかどうか微妙なところだと思うのですが、どうも人間というものは、「偽物」に限りなく興味や魅力を感じる動物のようです。
偽物作りの代表といえば、贋金作りと個人的には考えているのですが、この犯罪は貨幣の登場と同時に姿を見せ、いまだに健在だという息の長い犯罪の一つです。現在世界中で流通しているすべての国の通貨を調べることが出来るとすれば、かなりの比率の贋金が混じり込んでいる可能性があるそうです。
また、贋金作りといっても、「ゴールド」を作りだそうという研究は、ある部分では貴重な研究だったようです。現在の化学の発展のためには「ゴールドを生み出すための研究」が少なからず貢献しているという話を、何かで見たことがあります。

本来、人間の知識や文化の進化は、偽物作りとは言いませんが、模倣から始まっています。
絵画であれ、文学であれ、音楽であれ、あるいは大工であれ料理であれスポーツであれ、習得や技術の向上のためには模倣が絶対に必要な過程のはずです。
現在では、特許や著作権等々で、経済的な利害を調整する法律が沢山あります。
楽をして金儲けをしたり、人をだますための「偽物」はよろしくないとしても、ライオンの檻にイヌを入れていたなどというものは、笑って済ますわけにはいかないのでしょうかねぇ。

( 2013.08.20 )
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ほんもの ・ 小さな小さな物語 ( 542 )

2014-02-24 20:19:08 | 小さな小さな物語 第十部
「『ほんもの』って何だろう」と、少々考え込んでしまいました。
前回のテーマは「偽物」だったのですが、そのテーマを考えているうちに、では、「ほんものは?」ということになったわけです。
実は、「偽物」というテーマを選んだ時には、暑い時でもあるし、世間にはどうも取り上げにくい悲しい事件ばかり多いし、「ライオンの檻にイヌを入れた」などは罪が軽い気軽なテーマだと思ったからなのです。
しかし、いざ書き始めてみますと、これがなかなか奥が深いのです。第一、「偽物とは何ぞや」と考えるだけで、その向かう先には幾つもの道があるようで、かなり荷の重いテーマになってしまったのです。従って、前回はその第一弾という程度で勘弁していただくとして、もう少し勉強してからまたテーマにしてみたいと思っています。

「偽物」が消化し切れなかったから、今度は「ほんもの」なのか? と、お叱りを受けそうなのですが、まったくその通りなのです。
例によって、「ほんもの」を辞書で調べてみますと、「①にせものでないこと。②その名に値する本当のもの。技芸などが素人ばなれしていること」とありました。
どうでしょうか、なかなか興味深い説明がされていると思われませんか。
私たちが、少し真面目な場面で「ほんもの」という言葉を使う時は、たいてい②の説明にあるような意味で使うのではないでしょうか。ただ、この辞書では、それより前に「にせものでないこと」という意味を載せているのです。②より①が上位だというわけではないのですが、①の方がより本来の意味に近いような気がするのです。

つまり、「ほんもの」という言葉は、「にせもの」という言葉が現れてから、それと区別するために誕生してきたのではないかと思うのです。もっともこれは、まったく私の個人的な見解ですのが。
当然のことながら、偽物は本物がなければ誕生しえませんが、少なくとも辞書によれば、偽物の説明には「ほんものでないもの」というものはないのです。
つまり、私たちの日常生活には偽物が溢れていて、これではいけないということで「ほんもの」という言葉が登場してきたような気がしてならないのです。

私たちは、何事につけ、あるいは何物であれ、「ほんもの」を珍重し大切にしがちです。
例えば宝石の場合、十万円の顕微鏡を必要とするほどのダイヤモンドと、同じ値段の遥かに大きく美しい模造ダイヤと比べた場合、多くの人が本物の方を選ぶのではないでしょうか。
私たちは、本物・純粋・純正・本家などといった言葉に多大の信用を感じてしまう傾向はないでしょうか。
偽物は、振り込み詐欺(もう使わないそうですが)に代表されるように、犯罪がらみに使われることも多く、「偽物=悪い物」とされ勝ちですが、模倣が技術や文化などの根源を成しているということをもっと評価する必要があるように思うのです。
そして、何より大切なことは、本物であれ偽物であれ、その本当の価値を評価できる能力を身につけることだと思うのです。とても、難しいことですが。

( 2013.08.23 )
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幸福と幸せ ・ 小さな小さな物語 ( 543 )

2014-02-24 20:18:03 | 小さな小さな物語 第十部
あるテレビ番組の中で、「あなたにとって幸福ってなんですか?」と呼びかける場面がありました。
ゲストやコメンテーターではなく、一般の人に呼び掛けたもので、なかなか興味がありました。
「家族が健康であること」「忘れ物が見つかった時」「思わぬところから小銭が出てきた時」「おいしいものを食べている時」「おもちゃを買ってもらった時」等々、さまざまな意見があり、中には「世界が平和になれば」などという壮大な意見を述べる小学生もいました。
同時に、「うーん」と考え込む人の数も少なくありませんでした。そして、私自身はどうかと考えると、やはり「うーん」という部類に入っていました。

「幸福」に関わらず、「豊かさ」「満足」「理想」「希望」なども同様だと思うのですが、個人的な価値観の差があり、またその折々の気分やちょっとした心境の揺らぎで変化するもののように思われます。さらに、年齢を重ねる程に、それぞれのテーマに真剣に向い合う程に、「うーん」という気持ちになる人が多くなるような気がするのです。
それともう一つ、「あなたにとって幸福ってなんですか?」という質問に即答できない人が結構多いのですが、「あなたにとって幸せってなんですか?」と質問者が言い直すと、比較的スムーズに答えられる人がいたような気がしたのです。
もしかすると、「幸福」と「幸せ」は少し違うのではないかと思ったのです。

言葉遊びのようなテーマが続いて恐縮ですが、「幸福」と「幸せ」にはどのような差があるのか考えてみました。
いつものように広辞苑のお世話になりますと、
「幸福」とは「心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ」と説明されています。この説明を見る限り、「幸せ」と同意語のように思われます。
それでは、「幸せ」を調べてみますと、「しあわせ(仕合せ)③」と説明されています。
「仕合せ」とは「①めぐりあわせ。機会。天運。 ②なりゆき。始末。 ③(「幸せ」とも書く)幸福。好運。さいわい。また、運が向くこと」とあります。
やはり、「幸福」と「幸せ」には微妙な差があるような気がするのです。「しあわせ」のもともとの表示は「仕合せ」であって、かなり幅広い意味をもっているのです。

私たちは、日常の生活の中で、「幸福」であれ「幸せ」であれ、あまり意識することはありません。
実際は、私たちの生活は常に「幸福」「幸せ」を追い求めているはずなのですが、それを意識している時間はそう多くないと思うのです。
そして、ふと立ち止まった時、あるいは何らかの異常事に出くわした時に、私たちはわが身の不幸を嘆き、あるいは我が身の幸せを感じるものなのかもしれません。
「幸福」と「幸せ」に差異を感じるか否かは別にして、「あなたにとって幸福ってなんですか?」と質問された時、「さて、そう言われてみると・・・」と思い悩む間は、まあまあ「幸せ」な日々を送っているのではないでしょうか。

( 2013.08.26 )
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人口減少社会 ・ 小さな小さな物語 ( 544 )

2014-02-24 20:16:58 | 小さな小さな物語 第十部
わが国の人口は、2013.08.01現在の速報値によれば、1億2733万人余りだそうです。
若干の凹凸はあるとしても、2005年(平成十七年・1億2776万人余り)にほぼピークに達し、すでに人口減少国家になっています。
将来人口の推定については、さまざまな機関から発表されておりますが、これまでの傾向としては常に若干の誤差があり、それも実際の方が下方にずれる傾向があります。つまり、わが国の人口減少のスピードは、研究者たちの予想を超える速さで推移しているともいえるわけです。
手元の資料は若干古いのですが、それによりますと、40年後には、9000万人を切り、来世紀を迎える頃は5000万人を切っていると推定されています。

これが大変だという意見が、実によく聞かれるのです。
今世紀末に五千万人になり、やがては、日本人は少数民族の仲間入りをするということですから、まあ、大変といえば大変なことに違いありません。
しかし、報道などから受ける限り、大変だということは、少数民族になることを懸念しているものは少なく、少子高齢化による社会の歪みを懸念しているものが大半のようです。
つまり、年金をはじめとした社会保障制度、生産人口の減少、わが国経済規模の縮小等々です。
首相は一層の女性の社会進出のための対策を強調しておられますし、少子化対策の大臣ポストが設置されてかなりの時間が経っています。
人口減少を押さえるために、あるいは生産人口を確保するために、いろいろな施策がなされることは、それはそれで結構なことですが、何か、もっと根本的なところを見失っているのではないのでしょうか。

まず、人口が減少するということが、本当にそれほど大変なことなのでしょうか。
例えば、今からわが国の人口が三千万人増加するのと、減少するのとでは、どちらが社会としての対応が難しいのでしょうか。人口が増加するのに対応するのは簡単で、減少するのに対応するのが困難なのでしょうか。決して、そのようなことはないと思うのです。
生産人口の問題も同様です。わが国の経済力を維持し、それなりの発展を続けていくのには何人の生産人口が必要なのでしょうか。将来の生産人口不足を心配するのも結構ですが、現在働く意志のある人に職場を提供することをもっと真剣に考えるべきです。
そして、人口の減少によって本当に生産人口が不足するのであれば、それを技術革新や、国民意識の変化、社会環境拡充などで確保していくことは、さして難しいことではないと思うのです。

人口が減少することは、それほど大騒ぎすることではないのです。ただ、あまりに急激な変化は、何事につけ大変ですから、それなりの対策が必要なことは当然のことです。
それと、もっとも根本的な問題があります。人口が減少してゆけば、現在の社会保障制度は崩壊するという問題です。
でも、考えてみてください。人口が減少すれば崩壊するような社会保障制度は変だと思いませんか。そんなシステムは、ネズミ講と変わらない仕組みといっても過言ではないと思うのです。永久に人口が増え続けなければもたないような社会保障制度は、絶対に改める必要があるのです。
ただ、これも、あまりに急激な変化は劇薬となりますので、そのあたりがなかなか難しく、結局行き着くところまで行って、爆発するしかないような予感もするのですが。

( 2013.08.29 )
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小さい秋 ・ 小さな小さな物語 ( 545 )

2014-02-24 20:15:52 | 小さな小さな物語 第十部
今日から九月、一部地域では大雨に見舞われているようですが、被害の出ないことをお祈り申し上げます。
五月初旬の立夏から九月中旬が終わる秋分までのおよそ四ヵ月半がわが国の夏期だというのが私の持論ですが、やはり九月の声を聞くと何か気分が変わるような気がします。
確かに、ここ数日前からは、空の色や雲の形、虫の声や風の音にもふと秋を感じることがあります。このような季節や、人々の心理を「小さい秋」という言葉は、見事に表現していると思われませんか。

実は、今回のブログの表題を「小さい秋」としましたが、この言葉はあまりに有名過ぎるので、代わりの言葉を探したり考えてみたりしたのですが、とてもこの言葉に優るものを見つけることができませんでした。少々癪なのですが、テーマにしました。
「小さい秋」という言葉がいつ頃から使われているのか、あるいはどなたかの創作なのかは知りませんが、つくづくすばらしい言葉だと思います。多くの方は、童謡からこの言葉を知ったのではないかと思うのですが、もしこの言葉がその作詞家の創作であれば、無断使用を謝らなくてはなりません。

それにしても、すばらしい言葉というものはあるものですね。
かつて、和歌の世界では「秋の夕暮れ」という言葉を安易に使ってはいけないという教えがあったそうなのです。その理由は、どんなに平凡な歌であっても「秋の夕暮れ」で締めくくると、名句のような感じになってしまうからだそうです。それだけ「秋の夕暮れ」という言葉には、人々の心をひきつける力があるということなのでしょう。
もっともこれは、私が何かの本で見た記憶だけですので、いわゆる「制詞」とは違います。
「制詞」(セイシ・セイノコトバ)については、当ブログ(『言葉のティールーム・第五話』)でも書かせていただいておりますが、「霧立ちのぼる」という言葉は、余りにすばらしいので模倣してはいけないとされたそうで、他にも幾つかあるそうです。
なお、小倉百人一首にもある寂蓮法師の和歌は、
『 村雨の露もまだひぬ槇の葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮れ 』
ですが、「霧立ちのぼる」と「秋の夕暮れ」と、安易に使ってはいけないという言葉が二つも使われているのですか、きっと、とてつもない名句なのでしょうね。

「小さい秋」もそれに負けないほどすばらしい言葉ですが、「小さい秋」そのものは、私たちの日常のすぐ近くに隠れているかも知れません。
残暑まだまだ厳しい折ですが、身近に潜んでいる「小さい秋」など見つけながら、残暑を元気に乗り切りましょう。

( 2013.09.01 )
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消費税を考える ・ 小さな小さな物語 ( 546 )

2014-02-24 20:14:41 | 小さな小さな物語 第十部
来春からの消費税引き上げをどうするのか、様々な意見が飛び交っています。
例によって、「有識者」とか申される方々の意見なども参考にして、最後は首相が決断されるそうなのですが、テレビ番組などで討議されていることを見ていますと、何か少し違うような気がしてならないのです。
かといって、当ブログで私などが叫んでみたところで、どうなるわけでもないのですが、一つの考え方として述べさせてください。

まず、消費税に関する討論などを聞いていて、何かおかしいのではないかと思う最大の理由は、消費税引き上げにより得られる財源の使い方なのです。
引き上げ賛成の人はことごとく、今消費税を引き上げないことには、「社会福祉制度が崩壊する」「財政が破たんする」の二枚看板を掲げてご高説を述べられています。
引き上げに反対の人は、「国民の所得が増えていない」「せっかく持ち直しかけている景気の腰が折れる」といったことを理由として、引き上げの見送り、先送り、小幅引き上げなどを主張されています。

今回の消費税引き上げによる増収分は、全額を少子化対策も含めた福祉予算に充当させる、ということになっているはずですから、莫大な借金を抱えている国家財政の改善には何の役にも立たないはずなのです。
それを、社会福祉にも財政健全化にも役立つなんて説明するものですから、わけが分からなくなってしまうのです。社会福祉予算の自然増加分はどうすることも出来ないから、消費税引き上げを見送れば財政はさらに悪化するというのは、正しいようで、実はおかしいのです。社会福祉の費用が増えるのをどうすることも出来ないというのであれば、他の支出を減らさなくてはいけないのが普通の考えなのです。何のことはない、要はお金には色がついていないという理論そのものなのです。
さらに賛成者も反対者も、引き上げる場合には食糧品などの軽減税率や景気対策に万全を図る必要がある、と言っておられるようです。これもおかしな意見です。そんなに配慮が必要なら、消費税の引き上げなどやめればよいのです。
政府が言うように、消費税引き上げ可能な景気回復が見られるなら、消費税など上げなくても、そこそこの税収回復は見られるのですから。

本来、消費税というのは、国家の税収(地方税も含め)をどのような形で徴収するかという問題なのです。税源の対象を、収入にするのか、支出にするのか、資産にするのか、あるいは個人から徴収するのか法人から徴収するのか、その他にも特殊な対象に課税するのか、など課税方法の一つであって、社会福祉云々は政策あるいは国家のあり方の問題であって、そのあたりをごまかしなしに検討して欲しいと思うのです。
可処分所得が増えない中で消費税を引き上げれば、景気が下方に向かうのは当たり前のことです。それは消費税だけでなく所得税を引き上げても同じことです。要は、今必要なのは、景気浮上か、財政再建かをはっきりさせることなのです。
どっちつかずのきれい事では、結局この十数年と同じ結果を生み出すことでしょう。それともう一つ、消費税を上げるにしろしないにしろ、声の大きな人が得するような施策だけは、もう打ち切りにして欲しいものです。

( 2013.09.04 )
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クロネコの散歩 ・ 小さな小さな物語 ( 547 )

2014-02-24 20:13:35 | 小さな小さな物語 第十部

朝散歩している時、ネコと散歩している人と時々出会います。
大体同じような人と出会いますから、お互いに挨拶は交わすのですが、ネコを散歩させるというのにはあまり見たことがなかったものですから、最初は偶然ネコがついて歩いているのだと思ったのです。ところが、その人と出会う時には必ずクロネコも一緒なものですから、様子を聞かせてもらいました。

もともと、ご夫婦でイヌの散歩をさせていたそうですが、いつの頃からか住みついたクロネコが、イヌを散歩させる頃になると、入口で待ちかまえているようになったそうです。
家の中でも、イヌとクロネコは仲良しのようですが、大体は別々に過ごしているそうなのですが、朝の散歩だけは欠かさずついてくるそうです。
イヌは中型犬ですが、やや高齢のようで動きは少し緩慢で、紐に繋がれておとなしく歩いていますが、クロネコは別に繋がれているわけではなく、少し離れたり、走り寄っては犬に体をぶつけたりしながら散歩を楽しんでいるのです。クロネコは、やっとおとなになりかけた位だと思うのですが、他のイヌが近付いてきた時などには少し離れるのですが、遠くへ行ってしまうこともなく、他のイヌがいなくなると仲間のイヌに駆け寄って体を押しつけているのです。
実に微笑ましく、そのクロネコの散歩と出会うと、何だか嬉しくなってしまうのです。

大分前に、ネコを紐に繋いで散歩させている人に出会ったことがありますし、ヤギの子供を散歩させている人に出会ったこともありますが、ネコを紐に繋ぐこともなく散歩させていて、しかもそのネコがおとなしくついて歩いている姿は初めての経験です。
そういえば、つい最近、テレビで木に登るカンガルーが紹介されていました。確かキノボリカンガルーとかいうそうで、普通のカンガルーより遥かに小型で、耳が短く尻尾はあまり逞しくなくとても長いのです。少々小太りなところが愛らしく、画面を見ているだけで嬉しくなってしまいました。
これもあやふやな知識なのですが、テレビ番組やCMなどにおいて、動物の子供を扱えば、まずあたりはずれがないということを聞いた記憶があります。
イヌでもネコでもそうですが、トラやライオン、ペンギン、サル、ウマ、ウシ、シカ・・・、どれもこれも子供が一生懸命遊んだり走ったりしている姿は、たとえテレビを通してでも心が癒されます。

人間の赤ちゃんも同じで、生まれて間もない赤ん坊など、「とても可愛い」と褒めそやすほど顔かたちがはっきりしているわけではないのですが、その雰囲気自体が見る人の気持ちを優しくするようです。
もう少し大きくなって、歩き出す前後の子供は、みんながみんなと言っていいほど可愛くなります。
江戸時代などでは、「七歳までは神様の領分」といった考え方が広く信じられていて、幼い子供を大切にしたそうです。
ところが、神様の領分を離れた頃から、子供は憎らしさを備えるようになり、大人といわれる年齢になると、可愛さは影をひそめていきます。さらに歳を重ねていくほどに、人間は、可愛さというものを限りなく失っていくようです。美人だとか、二枚目だとか言われたところで、その変化に変わりなどありません。
よく若い人が、「かわいいおじいちゃん」とか「かわいいおばあちゃん」だと言うことがあるようですが、可愛さのレベルが違いすぎます。
所詮人間という動物は、年齢に反比例するように、可愛さを失ってゆく動物なのでしょう。
そして、それを何とか少しでもカバーする知恵があるとすれば、「優しさ」のような気がしているのです。

( 2013.09.07 )

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オリンピックがやって来る ・ 小さな小さな物語 ( 548 )

2014-02-24 20:12:14 | 小さな小さな物語 第十部
2020年の夏季オリンピック並びにパラリンピックが東京に決定しました。
それほど興味があったわけではないのですが、決定の瞬間は早起きしてしっかりと見させていただきました。相当興奮しましたし、何よりも当地で最後のプレゼンテーションに関わった方々をはじめ、関係者の方々の苦労を考えますと、胸が熱くなりました。
ご努力に心から敬意を表したいと思います。

さて、前回の東京でオリンピックが開催されたのは、1964年(昭和39年)のことでした。
決定したのはその数年前ということだったのでしょうが、第二次世界大戦敗戦後の厳しい状況からようやく抜け出そうとしている頃でした。高度成長期の入り口にあたる時代ですが、オリンピック開催が果たした役割は小さくなかったと思われます。
テレビなどで報道されていましたが、オリンピック開催に間に合わせる形で、新幹線が開通し、東京の自動車専用道路が拡張され、交通網や大会施設なども当時としては実力以上の投資がなされたようなのです。
ホテルも建設され、ある大手ホテルは期間短縮の目玉として、システムバスを開発することで大会に間に合わせたそうです。

今回の東京開催決定にあたって、一番のネックとなったものは、原発事故と、それによる汚染水の問題でした。
一部の心ないと思われる厳しい指摘もありますが、国内からも震災や原発事故がこのような状態の中で、オリンピック、オリンピックと騒ぐのはどうかという声も少なくないようです。
原発事故後早々に、最高責任者だと思われる人物が「事故の終息宣言」をされたような記憶があるのですが、私の記憶に間違いがないとすれば、国民でさえ呆れているのですから、海外の人にすれば「日本は信用できない」と思っても、それを非難することなど出来ないと思うのです。
今回のプレゼンテーションで、首相は大丈夫だと大見得を切って下さいました。あの一言が、東京決定に影響があったとすれば、いえ、何の影響もなかったとしても、首相が全世界に向かって大見得を切った以上、少なくとも汚染水の問題は早々に完全コントロールできる対策を実現していただかなくてはなりません。

オリンピック招致に反対の人も少なくないと思われます。
しかし、決定したのです。オリンピックが東京にやって来るのです。50年前のわが国は、今より遥かに国力は下回っていたと思うのですが、多くのものを成し遂げています。現在の私たちも、先人たちに見習って、目に見える向上を果たそうではありませんか。
インフラの整備も大事でしょうし、プレゼンテーションで発信してくれていた「おもてなし」をどう具体化していくかということも大切でしょう。
それに何よりも、東北の被災地の復興と、原発事故のコントロールと廃炉技術において、世界最高の、それも圧倒的な世界最高レベルの技術を確立して欲しいものです。
楽しみな日々がスタートしたと考えています。

( 2013.09.10 )
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