雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

二条の姫君  第七十五回

2015-07-24 10:57:03 | 二条の姫君  第三章
     二条の姫君
          第三章  愛憎はあざなえる縄の如く


          第三章 ( 一 )

時は弘安四年(1281)、憂きことも、愛憎も積み重ねながら、いつしか二条の姫君も二十四歳の春を迎えておりました。
変わらぬ美貌は、さらに妖艶ささえ加え高貴な方々をますます惹きつける女性に成長されておりました。
しかし、それはまた、姫さまを穏やかな生活から遠ざけようとしているかのように思われるのでございます。

さて、御所さまはじめ、多くの人々との間が次第に難しくなり、姫さまの「山の彼方」へのあこがれは強くなるばかりの様子でございます。
しかしながら、姫さまのあこがれへの強さとは裏腹に、御所さまや姫さまを取り巻く人々との恩愛は、憂きことが多いといっても、姫さまが宮廷生活から離れることはそう簡単なことではございませんでした。

新しい年も如月の半ばともなれば、多くの花が色づき始め、梅の香が風に乗ってくるようになりましたが、姫さまの鬱々たるお気持ちにはむしろ気障りなご様子で、ぼんやりと過ごされることが多く、お付きの者たちに愚痴をもらすことも少なくなっておりました。

御所さまが女房を召されるお声が聞こえて参りましたので、何事かと姫さまが参上いたしますと、どういうわけが御前には何方も伺候されておられなかったのです。
御所さまは、御湯殿の女房の詰め所にお一人で立っていらっしゃったのです。
「この頃は、女房たちが里住みで、あまりにも寂しい心地がしているのに、そなたはいつも局に籠っているのは、どこかの男に心魅かれているからか」
などと仰っています。
姫さまは、御所さまのいつもの癖の嫌味だと思いながらも、何とも煩わしい気持ちになっているご様子のその時、性助法親王(有明の月)が御月参りに参上されたと連絡がありました。

姫さまは、直ちに御所さまを常の御所にお入れ致しましたが、その後引き上げるわけにもゆかず、そのまま知らぬ顔をして御前に伺候されておりました。
その頃、今御所様は、ご病気が悪くて、何日もご祈祷を続けておられましたが、如法愛染王の御祈祷を法親王にお頼みされたのです。はい、今御所様と申されますのは、後の遊儀門院様のまだ姫君だった頃のことでございます。
またそのほかにも、御所さま御自身の御祈祷に、北斗の法を、それは鳴滝の般若寺においてでしょうか、修されることをご承知されました。

御二人は、いつもよりのどやかに世間話をされており、姫さまもずっと伺候されておられましたが、法親王のお心うちは何を考えているのか気がかりのご様子なのに、姫君の御気分が良くないとの報告があり、御所さまはそちらへ向かわれました。
「御所さまのお戻りをお待ち申し上げてくださいませ」
と姫さまが法親王をお引き留め致しました。

御前には、他に伺候している女房がいなかったものですから、姫さまと法親王は二人だけで向い合せになってしまいました。
法親王は、辛い月日が積ったことから始まり、いろいろと現在までのことを話され、お袖の涙は、他の人の目を隠しきれないほどなのです。
姫さまは、お答えしようもなく、ただ黙ってお聞きになっておられましたが、間もなく御所さまがお戻りになったのさえ知らずに、なお繰り返す法親王の同じような口説きごとは、襖の向こうまで聞こえたのではないでしょうか。

御所さまは、姫さまがお気付きになるより前に襖の向こうで立ち止まっておられたのですが、御二人が御所さまに気付かれた頃までには、相当いろいろと聞かれてしまったようなのです。
特に、このような男女のことに関しては特に鋭い御所さまですから、二人の関係を相当深く想像されたのではないかと考えますと、姫さまは唖然とされるばかりでした。

     * * *

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二条の姫君  第七十六回

2015-07-24 10:50:11 | 二条の姫君  第三章
          第三章 ( 二 )

御所さまが御部屋に入られましたので、法親王はさりげない様子に取り繕われましたが、絞り切れないほどの涙は、包み隠すべきお袖に残っていて、御所さまのお目に止まらぬはずがありません。
姫さまのお心の内を思えば、それはそれは心配でございましたが、御所さまは特に咎められるような御言葉もなく、灯をともす頃に法親王はお帰りになられました。

その夜は、他に女房が伺候しておりませんので、姫さまが御供することとなり、御所さまの御足などお揉み申し上げておりますと、
「それにしても、まったく意外なことを聞いたものだ。法親王とはまだ幼い頃より互いに疎遠な間柄ではないと思っていたが、あの方がこのような色恋の道に入っていようとは、まったく思いもかけぬことなのだが・・・」
と、くどくどと仰られました。

姫さまは、その時すでにお覚悟を固められていましたようで、また、「そのようなことはありません」と申し上げたとて申し開きが出来る状況でもありませんでしたから、二人が最初に出逢った時のことから、月の光の下で別れたことまでのことを、少しの偽りもなく申し上げられてしまったのです。

「まことに不思議なそなたとの御契りかな・・・。
しかし、それほどに思うあまり、隆顕(善勝寺)に手引をさせたのに、そなたはすげなく拒んだということだが、そのお恨みの結果は、どう考えてもよくあるまい。昔の例にも、このような色恋の迷いは人の区別なく生ずることだ。
柿本の僧正は、染殿の后に物の怪となって取り憑いて、多くの仏菩薩の力を尽くしてお救いしようとしたが、ついに后はこのため身を滅ぼしてしまったそうだ。それら対して、志賀寺の聖は、京極の御息所が『ゆらぐ玉の緒』と優しいお心で接しられたので、聖はたちまち一念の妄執を改めたという。
法親王の様子は、尋常のものではない。そのことを心得てお相手申し上げよ。私が仲立ちを試みるならば、他の人に知られることはあるまい。
この度の修法の間は、あの方が参上するであろうから、そのような機会があれば、日頃のそなたへの恨みをお忘れになるように計ろう。そのような勤行の折に、そういう話はよくないかもしれないが、私には深く思うわけがある。差し支えのないことだ」
と、御所さまは懇切に姫さまに申されました。

「何事も私はそなたに対して隠し隔てをする気がないので、このように計らうのだよ。それにしても、どうすれば法親王の深い心の恨みは晴れるのだろうか」
などと言葉を続けられました。
御所さまの姫さまへの深い思い遣りは十分伝わったことでしょうが、むしろ姫さまにはつれないお言葉のように感じられたようでございます。

「私は、誰よりも先にそなたを見染めて、多くの年月を送ってきたので、何事に付けても格別に愛しく思うのだけれど、どういうわけか、私の思い通りにならないことばかりで、この思いを形に表せられないことが本当に悔しい。
私の新枕は、そなたの亡き母、典侍大(スケダイ)に習ったので、何かにつけて人知れず彼女を慕っていたのだが、まだ言いがいのない年頃のことで、周囲に遠慮をしているうちに、冬忠や雅忠が典侍大の夫だという顔をするようになり、みっともないことに私は隙を窺っているようだった。
そなたが典侍大のお腹の中にある折も、生まれてくるのが待ち遠しくて、早く早くと待ちわび、人々の手に抱かれていた時から、世話をしていたのだよ」
などと、御母上との関わりまで持ち出してお話しになられるので、さすがに姫さまも、涙ながらにその夜を過ごされました。

     * * *
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二条の姫君  第七十七回

2015-07-24 10:49:07 | 二条の姫君  第三章
          第三章 ( 三 )

御所さまのお話を、姫さまは涙ながらに聞いておられましたが、瞬く間に時間は過ぎてゆきました。
「今日より御修法が始まる」ということで、御壇所の設営に大騒ぎとなりましたが、姫さまのお心はなお重く、そのお心が顔色にも少し表れておられました。
姫さまもそのことが気になっておられた様子でしたが、心を立て直される間もなく、
「阿闍梨様のご参上」
という声が聞こえて参りました。

いつも御使いに参上させられるだけでも、常日頃姫さまのお心は痛みを感じておりましたのに、まだ初夜の勤行にも間がある時間だというのに、御所さまの御申し付けがあり、姫さまは法親王さまのもとに参上することになりました。
真言のことに関する御所さまの疑問を書き記された折紙を持参されますと、いつもと違って他に人はなく、まるで古歌に歌われているように、その面影が霞んで見えるような春の月の光がおぼろげに差し込んでいて、法親王は脇息に寄りかかって、念誦(ネンジュ)を唱えていらっしゃいました。

「辛かったあの秋の月の下での別れの時のお姿は、ただそのまま忘れさせて下さいと、仏にもお願いしてきたが、こうして今もとても堪えがたく思い出されるのは、やはり、この身を懸けた恋であったのだろうか。あなたとは同じ世にはない身にして欲しいと祈っても、『神も受けぬ禊(ミソギ)』のようなので、どうすることも出来ない」
と言われて、姫さまを強く引き寄せられました。

姫さまの心の奥には御所さまの御言葉も残っていました。その僅かな心の揺らぎは、法親王をいつのまにか「有明の月」と変えていたのでしょうか、姫さまは強く拒絶することが出来なかったのでございます。
有明の月殿の情熱に押し流されながらも、いやな噂が漏れるのではないかとの気持ちも姫さまの脳裏を駆けめぐっておりました。
束の間の逢瀬は、初夜の勤行の時間を告げる声に破られて、姫さまはあわただしく後ろの襖(フスマ)から退出されましたが、その襖が二人を隔てる関所のような気がしたのでしょうか、「後夜の勤行が終わった後も必ず逢おう」と、有明の月殿は何度も約束を迫られました。

このように辛い場所からは一刻も早く立ち去ろうと、姫さまは有明の月殿の言葉にお答えすることもなくお戻りになりましたが、以前、「哀しさ残る・・・」との歌を送られた夜よりも、姫さまのお気持ちは切なげでありました。
姫さまのお心は揺れ動いていたのでしょうか。
法親王とのことは、決して姫さまが望まれたことから始まったことではありませんし、ある時は、そのあまりにも執拗さに恐ろしささえ感じておられたのです。今回近づくことになったのも、御所さまの御申し付けからでございました。しかし、姫さまのお心のどこかにも、有明の月殿とお呼びするような切ないお気持ちも抱き続けられていたのかもしれません。

姫さま御自身も、御自分のそのようなお心を計りかねて、お部屋に戻られて伏せられた後も、あれこれと思い悩まれているご様子で、法親王とのことも避けられぬ前世からの定めなのかなどと身を震わせておられました。

     * * *



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二条の姫君  第七十八回

2015-07-24 10:48:10 | 二条の姫君  第三章
          第三章 ( 四 )

姫さまが思い悩まれているうちに、早くも夜は明けてしまいました。
姫さまのお心はなお定まらないままに、そうとは申せ御前のお役に参上しなければなりません。
お役に付いておりますと、御所さまがお姿をお見せになられました。ちょうど辺りには出仕の人も少ない頃で、
「昨夜はわけがあって振る舞ったのを、阿闍梨はお分かりになっていないだろうな。私が知っているという様子をしてはいけないよ。遠慮なさるのは気の毒だからな」
などと仰られました。
もう姫さまは、どのようにお答えすれば良いのか、ますますお悩みの様子でした。

やがて、ご修法が始まりましたが、法親王の潔白でない心の内を思いますにつけ、姫さまのお心は痛みを増すばかりでございました。
ご修法の六日目の夜は二月十八日でしたが、弘御所の前の紅梅がいつもの年よりも色も匂いも一段とすばらしく、御所さまは夜更けまでご覧になられておりましたが、後夜の勤行が終わる気配が伝わって参りますと、伺候されている姫さまに、
「阿闍梨と会えるのも今宵までだというのに、夜も更けてしまった。隙を作ってお会いせよ」
などと仰られるのには驚き呆れるばかりなのですが、夜更けの鐘の音が聞こえてくると、御所さまは東の御方をお召しになられて、さっさと橘の御壺の二の間にお入りになられてしまったのです。

姫さまは、御所さまの仰せに従うわけではないにしても、一人残されたままその場に長居するわけにもゆかず、それに、勤行も今宵限りで終わるのだと思いますと、姫さまのお気持ちも名残惜しさが襲ってきておりました。
姫さまがいつものお部屋に向かわれますと、有明の月殿は、姫さまの訪れを心待ちにしていたご様子を隠そうともなされませんでした。この御方を思いあきらめないと良くない結果が待っていることは明らかなのですが、姫さまの耳の底には、先ほどの御所さまのお言葉が残っており、さらに、わざわざ東の御方をお召しになられた御所さまのつれなさも、姫さまのお心を乱していたのでしょうか。

御所さまと交わされた袖の移り香も袂に残っているような状態なのに、今また有明の月殿と重ねる袖に宿す涙を、姫さまはどのようなお気持ちで噛みしめておられたのでしょうか。
有明の月殿が、今宵が恋の終りとばかりに泣き悲しまれるご様子は、かえってお逢いしなければ良かったという気持ちを姫さまに思わせるのですが、この辛いままの別れで二人の関係を終わらせようというお気持ちを、短い春の夜は露の光のように儚すぎて、後朝のこの次いつ逢えるか分からない別れかと思う気持ちが上回ったのでしょうか、次のような御歌をご自分の気持ちとして詠まれました。

『 つらしとて別れしままの面影を あらぬ涙にまた宿しつる 』

     * * *
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二条の姫君  第七十九回

2015-07-24 10:47:26 | 二条の姫君  第三章
          第三章 ( 五 )

御所さまの姫君のご病気も快方に向かわれましたので、初夜の勤行を最後として法親王は御所を退出なさいました。
後朝の有明の月殿の面影が、やはり姫さまの心に残っているご様子でしたが、お送りした後は思い悩む心をお静めになり、ご自身の局に戻り横になられました。

すると、まだ夜も明けきらぬというのに、右京権太夫菅原清長殿が御使いとして参られました。
御所さまが、「早々に参るように」とのお召だと申されるのです。
昨夜は東の御方が参上されておりますのに、なぜこれほど早い時間にお召しがあるのかと不思議に思われましたが、姫さまはそれ以上に意外に感じられたご様子で、胸騒ぎを押さえられているご様子で出仕のご準備をなさいました。

姫さまが参上なさいますと、
「昨夜は、更けゆくにつけ、『そなたを待ち焦がれている御方が気をもんでいることだろう』と思ったものだから、そなたを差し向けたのだ。世間に見られる普通の恋ならば、これほど寛容な態度がとれるはずがない。あの御方のお人柄がいい加減でないから、そなたとの恋を許したのだ。
それにしても、今宵不思議な夢を見たのだ。
かの御方が五鈷(ゴコ・密教の法器の一つ)を下さったのを、そなたは私に隠すようにして懐に入れたので、私が袖を引っぱって、『私がこれほど寛容なのに、なぜそのような態度を取る』と私に言われて、そなたは辛そうにして流れる涙を振り払って懐から取り出してみると、銀の五鈷だった。それは、亡き法皇の御物なので『私のものにしよう』と言って、立ち上がろうとしたところで、夢から覚めたのだ。
今宵、きっとこの夢の験(シルシ)となることがあるはずだ。もしそうだとすれば、疑いなくそなたは、子を宿すことだろう」
と、御所さまは仰せだったのです。

姫さまの衝撃はそれはそれは大きなものでございましたが、同時に、必ずしも真に受けていなかった様子もあったのですが、それ以後は翌月になるまで、御所さまから御寝所へのお召は途絶えてしまったのです。
姫さまは、いずれにしても「我が身の過ちなれば」と、御所さまのつれない態度をお責めになる言葉はなく、じっと耐えておられるご様子でございました。
やがて、姫さまのお体の変調が明らかになりました。
姫さまは、何もかも御所さまがご承知のことであり、さらに、このところ御所さまからまったくお召しがないことなども合わせて、これから先のことに茫然となっておられました。

そんな矢先の三月初めの頃でございました。
いつもより伺候されている人が少ない時でした。夜のお食事などということもない折に、御所さまが姫さまにお声をお掛けになり、二棟の方にお入りになる御供にお召しになられたのです。
どのようなお話をなさるのかと、姫さまは大変ご心配なされましたが、御所さまはとても穏やかなお言葉で、愛情が少しも変わらないことをお誓い下さったのです。そのお言葉に、とても嬉しいというべきか、とても辛いというべきか姫さまが迷っておられますと、
「いつぞやの夢のあとは、わざと言葉を掛けなかったのだ。そなたと共寝をするのもひと月置いてからと待っていたが、ひどく心細かったよ」
と仰られるので、やはりいろいろお考えの上なのだと姫さまは辛い思いでございました。

そして、その月より姫さまは間違いなくただならぬお体となり、有明の月殿のお子を身籠った疑いは紛れもないこととなり、夢のような儚い契りの結果の懐妊も、今さらながら姫さまは苦い思いと共に受け入れようとされておりました。

     * * *



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二条の姫君  第八十回

2015-07-24 10:44:57 | 二条の姫君  第三章
          第三章 ( 六 )

それにしましても、姫さまにとりましては新枕の人とも申すべき、お互いに浅からぬ愛情を抱いているはずの雪の曙殿は、すっかり訪れがなくなっておりました。
いつぞや伏見の御所での近衛の大殿との夢の中の出来事のような情事の後は、それをお知りになり恨まれいるようで、それも当然と申せばその通りですが、これもまた姫さまのお気持ちを沈める原因になっておりました。

五月の初め、いつもの亡き母を弔う日なので、姫さまはお里に下がっておられました。
すると、かの雪の曙殿からお便りがありました。
『 憂しと思う心に似たるねやあると 尋ねるほどに濡るる袖かな 』
という御歌に添えて、細やかに書き続けて、「里住みの間の関守がいないのなら、私自身で出向いて行って、立ったままでもお話がしたい」と、ありました。

姫さまのご返事は、
『 憂きねをば心のほかにかけそへて いつも袂(タモト)の乾く間ぞなき 』
という御歌に加え、「どのような世にも二人の仲は変わらないものと思い初(ソ)めましたのに」とお書きになられました。
姫さまのお気持ちに何の偽りもございませんが、間遠になった原因や、現在の普通でないお体を思い、書くことの詮なさを感じておられましたが、夜がとても更けてから、雪の曙殿はお見えになられました。

久しぶりのこととて、辛かったことなど積るお話をなさる間もなく、周囲が騒がしくなってきました。
「三条京極の富小路の辺りから、火が出ているらしい」
という家人たちの声が聞こえてきました。
後深草院の御所は、二条京極富小路なので、すぐさま院参なさるとて、雪の曙殿は急いで帰って行かれました。
そうこうしているうちに、春の短夜は程なく明けてゆき、雪の曙殿が姫さまのもとにお戻りになられることは出来ませんでした。

すっかり夜が明けきった頃、雪の曙殿よりお手紙が届きました。
「二人の仲が浅くなってゆく証のように思われる今宵の障害で、これから先のことも見えているような気がして、辛い気持ちです」とあり、御歌は、
『 絶えぬるか人の心の忘れ水 あひも思はぬ中の契りに 』
(二人の仲は忘れ水のように絶えてしまうのでしょうか。あなたは私が思っているほどには、私のことを思ってはくれない)

このような時に御所近くで火事騒ぎなどとは、さすがに姫さまも何か因縁みたいなものを感じられたようでございました。
『 契りこそさても絶えけめ涙川 心の末はいつも乾かじ 』
(二人の契りはそのように絶えてしまったのでしょうが、わたしの心の末に流れる涙の川は、いつも乾くことがないでしょう)
と、姫さまも、切ない気持を振り払うように健気な御歌を返されたのです。

しばらくは里住まいをなさるご予定でしたので、お二人がお逢いになる機会は、なにもこの夜に限ったことではないと思っていたのですが、この日の夕方に、突然御所さまから「急用がある」とてお召しがあり、車を差し向けて来られましたので、姫さまは御所にお戻りになることになってしまったのです。

     * * *


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二条の姫君  第八十一回

2015-07-24 10:43:58 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 七 )

秋の初め頃には、いつ良くなられるのかと心配された姫さまのご気分もすっかり回復されたご様子でした。

「男を近づけぬ結界でも引いたのかな。阿闍梨はそなたが身重になっていることを知っているのかな」
などと御所さまが申されるのに、
「ご存知ではありません。どのような折に申し上げましょうか」
と、姫さまはお答えになられました。

「何事につけ、阿闍梨は私に対して少しも遠慮する必要はない。しばらくの間は遠慮されることもあろうが、どうすることも出来ない宿命というものは、逃れることなど出来ないのだから遠慮なさるべきではないのだ。その旨、阿闍梨に知らせようと思うのだよ」
と、御所さまが仰いました。
これに対して姫さまにはお答えのしようもなく、法親王の心のうちも同様ではないかと推測され、かと言って、「それは困ります」と申し上げようとも思われたのですが、それはそれで、いかにも分別ありげで、憎らしげだと姫さまはお考えになられたようでした。
結局、「何ともよろしくお計らい下さいませ」とお答えされたのです。

その頃、真言の御談義というものが始まりまして、人々が多勢お集まりになられました。法親王も院参なさいまして、四、五日御伺候なさることになりました。
法文の御談義などが終り、お酒を少しばかり召し上がられました。姫さまも配膳などのためお仕えしておりました。

少し経ってから御所さまは、
「ところで、広く尋ね、深く学問するにつけ、男女の関係こそは、罪のないことです。逃れ難い契りであるなら、どうすることも出来ないことです。そのことは、昔から多くの例が伝えられている。浄蔵という行者は、陸奥国の女と宿縁があると聞き知ると、その女を殺してしまおうとしたが、どうしても殺害することができず、逆にその女のために堕落してしまったのである。染殿の后は、志賀寺の聖に『我をいざなえ』と心の内を訴えたという。
これらの恋慕の思いに堪えかねて、青い鬼にもなるし、望夫石にもなる。この石は、恋ゆえに女が石になったのだという。あるいは、畜類や獣と契るという話もあるが、どれもこれも前世の業の成せることである。人間の考えだけではどうにもならないことなのである」
などとお話しになる。

御所さまは、法親王を中心として集まっている人たちに御話しなさっているのですが、姫さまは、自分一人に向かって話されているような心地になり、強く引き込まれ、冷や汗も涙も同時に流すような心地に見受けられました。
やがて、集まっていた人々は退出されました。法親王も同じように退出なさろうとされましたが、
「夜更けて静かな時だから、心ゆくまで法文についてでも語り合おう」
と、御所さまはお引き留めになられました。

いつもなら、このような時には姫さまは伺候を続けられるのですが、お二人の話の内容を察せられたのでしょうか、姫さまは御前を離れられました。
この後も、御所さまと法親王の御二人だけで長い時間を過ごされたようでございますが、その内容は姫さまはもちろんご存知ありません。

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二条の姫君  第八十二回

2015-07-24 10:43:05 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 八 )

夜中も過ぎました頃、御所さまからお召しがありました。
早速に姫さまが参上いたしますと、
「かねてから考えていたことを、うまく機会を作り出して、我ながらうまく言い伝えることが出来たと思う。どのような男親であれ女親であれ、これ以上の愛情はあるまい」
と、仰せになられ、御所さまは涙ぐまれたのです。
姫さまは、御礼の言葉も何も、一言も申し上げる前に流れ出る涙を押さえることが出来ませんでした。

御所さまは、いつもより細やかにお話を続けられました。
「そう、男女の契りには逃れ難い宿縁があることは、そなたにも話したな。先ほど阿闍梨にも同じような話をしたよ。
『先日、意外な話を立ち聞きしてしまいました。きっと私に対して気恥ずかしく思われていることと察しておりますが、命をかけて誓いあったことであるならば、お互いに隠し隔てがあってはよくありますまい。それに、世間にこのような噂が漏れては良くないお立場です。忍びがたき恋心は、前世からの業のなせる技なのですら、少しも、あなたを責めるつもりはありません。
この間の春の頃から、二条は普通の体ではないように見えるにつけ、あの時見た夢のことがただ事ではなく思われて、御契りの様子も知りたくて、三月になるまで二条には近づかないように待ち暮らしていたのも、いい加減な気持からではないことを、ご推察ください。もしも、それがいい加減な気持ちからであれば、伊勢・石清水・賀茂・春日など、この国を護る神々の御加護を受けることは出来ますまい。
御心を偽ってはなりません。そうであれば、私の心はいささかも変わることはありません』
と申したところ、阿闍梨はしばらくは何も仰らないで、ただ涙を流されていたが、その涙を払い隠しながら、
『このような仰せを頂いた上は、包み隠すようなことはあってはならないでしょう。まことに、前世の宿縁の報いは残念でございます。これほどまでの仰せを頂きましたのは、今生一世だけの御恩ではありません。世を変え生を変えてもお忘れするようなことはございません。
このような悪縁であの人と出逢った恨みに堪えられないまま三年が過ぎ、あきらめようと思って唱える念誦や持経の祈念をしても、あの人を思う心は消えなくて、思い悩んだあげくに、誓願を立てて、願書をあの人のもとに送り届けたりしましたが、この愛執の心はなおも止まないで、また、小車の廻るようにめぐり逢い、その再会を憂きことと思わぬわが身を恨んでおりましたのに、このようにはっきりとした結果が表れたのですから、御所様の若君を御一方、私の方にお迎えして、私は深き山の中に籠って、濃い墨染の袂をまとう身となりましょう。
これまでの多年にわたる御好意も浅くはございませんが、この度の子供のことについての嬉しさは、後世までの喜びでございます』
と言われて、泣く泣く立たれた。
阿闍梨の、そなたを深く思い初めた有様も、まことに感動的であった」
などと、御所さまは切々とお話しになられたのです。

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二条の姫君  第八十三回

2015-07-24 10:42:05 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 九 )

御所さまの御話しに、姫さまは泣き崩れるばかりでございました。
同時に姫さまは、法親王の決断はあまりにも大きなもので、その事情を直接お聞きしたくもあり、さらに夜更けてから、御所さまの御使いを装って法親王のもとに参りますと、幼い稚児が一人、御前に寝入っていました。
他には誰もおりませんでした。

やがて、法親王が姿をお見せになり、いつもの部屋の方に移りました。
「つらいことは嬉しいことのきっかけにもなるのだと思う気持ちと、道ならぬわが行いを責める気持ちとがせめぎ合っていて、この心は張り裂けそうだ」
などと仰るお姿は、辛いままお別れした月影に浮かぶお姿と重なり合って、姫さまは逃げ出したいような気持ちに襲われていました。
しかし、明日はこの御談義も結願となりますので、今宵限りお別れと思うと、姫さまのお心にも法親王としてではなく有明の月殿としてのお名残惜しさも浮かんできていたのです。

そして姫さまは、求められるままに有明の月殿のお袖に縋って夜もすがら涙を流されながら、結局この身はどうなってしまうのだろうか、とも考えておられました。
姫さまの、そのようなお心の内を承知か否か、法親王は、御所さまが姫さまに話されたのと全く同じ内容のお話をされ、
「こうなった以上は、かえってあなたに逢える機会もあるであろうと思うと、私の思いが届いたということなのかもしれない。懐妊という思いもかけなかったことまであるのだから、この世だけでないあなたとの宿縁も、いい加減なものであるはずがあるまい。
『ひたすら私が慈しみ育てよう』という御所さまのお言葉もいただき、有り難い限りです。この上は、いつ生まれるのかと待ち遠しい気持ちがしています」
と、涙を流し、また喜びにあふれた表情で語られるのでした。

やがて夜明けの頃となり、姫さまがお別れしようと立たれますと、
「次は、いつの夕暮れをあてにすればよいのか」
と、むせび泣かれるお姿に、姫さまも身重なるが故でしょうか、いつもとは違い、愛しい御方との別れという心情が湧きあがっていたのでしょうか、御歌を記されています。
『 わが袖の涙に宿る有明の 明けても同じ面影もがな 』

御歌の内容は、「夜が明けてもあなたの面影を袖に宿していたいものです」といった有明の月殿をお慕いするものですが、おそらくこの時の姫さまのご心情は、形ばかりのものではなく、お腹の子の父親である愛しいお方への思いだったと思われます。
ご自身のお部屋に戻られ、しばらくは臥せられておりましたが、有明の月殿とは逃れることのできない宿縁に結ばれているのだとの思いを巡らせて、あまり眠られぬご様子でした。
すると、まだ夜明け早々という頃に、御所さまからの御使いが参ったのでございます。

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二条の姫君  第八十四回

2015-07-24 10:41:07 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 十 )

御所さまのお召に、姫さまが早速参上いたしますと、
「今宵はそなたを待っていて、空しい床で一夜を過ごしてしまったよ」
と仰って、まだ御寝所に居られたのです。
「たった今まで、阿闍梨との飽きることのない名残を惜しんできたのだろうな。後朝の空は、無常にも明けるものだなあ」
などと仰せになられるのです。

姫さまは、我が身の罪深さは何と非難されても弁解しようもないお気持ちではありましたが、昨夜の御所さまのお言葉からすれば、予想もしない皮肉が込められたお言葉であり、先々の多難が浮かんできて、思わず涙をこぼしてしまわれました。
ところが御所さまは、その姫さまの涙はどう誤解されたのでしょうか、
「不愉快だ。せめて、別れた後の夢などのんびりと楽しもうと思っていたのか」
と、とんでもない誤解をされているご様子で、いつもよりもくどくどとお責めになられるのです。姫さまは、やはり最初に思っていた通りで、結局は良い結果にならないのが我が身の行く末なのだと、いっそう涙が激しくなってしまいました。
さらに御所さまは、
「ただひたすらに阿闍梨との別れの名残を慕っていて、私からの使いを不愉快だと思っていのだろう」
と、言うお言葉と共に立ち上がられましたので、姫さまは、そのまま何の抗弁もなさらないで自室に引き返されました。

気分がすぐれないということで、姫さまはそのまま日暮れまで参上されませんでしたが、このままでは、さらにどのような仰せを蒙るかと思うと悲しくなられたようで、御前に出仕されましたが、「憂き世に住まぬ身になりたい」などと洩らされて、再び「山のあなた(隠遁生活)」へ逃れたいというお気持ちが強くなられたようでございます。

御前に参りますと、御談義の最後の日ということで、法親王が参られていて、いつもよりのんびりとお話されているのが、姫さまには帰って気持ちがいら立ったようでした。
姫さまはその場に居づらくなり、御湯殿の上の方に行かれましたが、実兼大納言殿(雪の曙)が居られて、
「このところは当番で伺候しておりますが、まったくお言葉をかけていただけないですね」
と言われる。
姫さまは、何とも身の置き所もない思いでしたが、苦しいご返答を申される前に御前の方からお召しがありました。
救われるような思いで参上いたしますと、お酒を召しあがるという御申し付けでした。

内々の静かな御座敷で、御所さまの御前には女房が二人ばかりしかいないのも興趣がないということで、「弘御所に師親・実兼などの声がした」ということでお召になり、一緒になって賑やかなお遊びとなりましたが、いつもよりは早くに終りになり、法親王は姫宮のもとで初夜の勤行を勤められたあと退出なさいました。
名残惜しさを感じさせる空の色も、浮かんでいる雲の姿も切なげに見えるものでした。
仰々しいことは避けるとしても、御所で着帯をすることになり、御所さまのお心の内を考えますと、姫さまのお辛い気持ちがひしひしと伝わってくるのでした。

その夜は姫さまは宿直も務められましたので、御所さまと夜を明かしてお話しなさいましたが、お心の内はともかくも、いつも変わらぬご様子で接しられる御所さまのご様子に、姫さまのお心は悲しみに張り裂けそうになっていたのでございます。

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