『 首里城 炎上 』
早朝 テレビをつけると 首里城が炎上している映像
あまりの凄まじさに 息を飲む
沖縄のシンボルともいえる 首里城
正殿 北殿 南殿と 次々と炎上し 全焼・・・
辛い出来事だ ほんとうに辛い・・・
☆☆☆
今昔物語拾い読み ご案内
『今昔物語集』という壮大な説話集がある。
全体は三十一巻で構成されており、収載されている説話は一千六十話ほどにも及び、さらに、一話の中には似たような話が二編、時には三編載せられているので、それらを一話として数えるとさらにその数は増える。
また、三十一巻のうち、巻第八・巻第十八・巻第二十一の三巻は現存していないが、これらは伝承の過程で紛失されたものではなく、当初から未完であったらしい。また、巻第七や巻第二十三などには欠落している部分があるが、これらも、消失したというより当初から載せられていなかったらしい。
さらに、文中に、虫食いなどで読み取れない文字があるのは当然としても、それ以外に、当初から人名などが空欄としている部分があり、後で埋めようとしたのか何らかの理由があったのかは不明である。
つまり、『今昔物語集』はまだ完成途上だったのである。
個々の物語は、ごく一部の例外を除き、「今昔」(今ハ昔)という言葉で始まり、「ト ナム語リ伝ヘタルトヤ」と終る、実に見事な構成になっている。
作者あるいは編者は未詳である。諸説あるが確定に至っていないが、一人の手によるものらしい。
個々の物語は、「今は昔」とあるように、伝承されてきたものを集めて編集されたもので、編者(作者)のオリジナルのものはないようである。
この膨大な量の説話集は、見方によっては、あの「アランビアン・ナイト」を凌ぐほどの評価を得てよいと思われるが、必ずしもそうではないらしい。その理由の一つは、仏教説話的な傾向が強すぎることや、個々の作品が玉石混交と評されることがあることなどにより、今一つ評価が安定していないらしい。
『今昔物語集』の成立は、平安末期、西暦1120年の頃と考えられている。記事の内容からの推定であるが、その一方で、他の資料で見られるようになるのは西暦1449年からのことで、三百年ほどの間は、静かに眠っていたらしい。
現存している最古のものと考えられるものは、京都大学付属図書館蔵の「鈴鹿本」と呼ばれるもので、一部しか伝えられていないが紙質から原本である可能性が高いとされている。そして、それには『今昔物語集』と記されていることから、書名は当初からのものといえる。
作品は、天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)に区分けされていて、仏法にまつわるもの、それ以外のものに編集されている。
興味深い話や、別の文献にも登場しているものが多く、読み物として楽しいものが多いのであるが、何分、仏教的なものの比重が高く、最初から読んでいくとなれば、私のような素人には、なかなか荷が重い。
そういう理由で、『今昔物語拾い読み』などと、自分に都合の良い掲題を付けて、あちらこちらを拾い読みしていこうと考えたのである。
☆ ☆ ☆
本稿は、『今昔物語集』の研究書でもなければ、正確な現代訳を目指すものでもありません。
このアラビアン・ナイトを凌駕するほどの説話集を、その物語の要旨だけを楽しむためにご紹介するものです。
果たして、どれだけの量をご紹介することが出来るのか、全編を読破することが出来るのか少々不安もありますが、順次ご案内して参りますので、よろしくお願いいたします。
☆ ☆ ☆
『 私も会えた 』
『 十五夜お月さんに 私も会えた 』
本日の毎日新聞夕刊の 一面トップの見出しである
記事によれば
社会福祉法人「日本ライトハウス」が光学機器メーカー「HOYA」の協力を得て
視覚障害「夜盲症」に悩む患者たちを補助する特殊な眼鏡を
全国の盲学校に寄贈する計画を進めている・・、とある
この眼鏡は HOYAと九州大が開発されたもので 効果は確認されているそうだ
一面トップとしては 思い切った掲載だが
目にした私たちの心にも あたたかなものを伝えてくれた
☆☆☆
『 楽しいひととき 』
旧い仲間の集いがあった
日頃会うことの少ない人もいて 懐かしい時間を送った
昔の時間に戻ったり 現実に戻って大笑いしたり
利害関係も しがらみもない 旧友との集いは
ひとときの楽しみと 少しばかりの元気を与えてくれる
☆☆☆
『 歓迎 コウノトリ 』
コウノトリが すぐ近くに飛来しているらしい
散歩のついでに 池などを探してみるが なかなかお目にかかれない
近くの池の一つには シラサギ(正式名は違うかもしれない)が20羽以上飛来していて
それはそれで美しいが やはり コウノトリを見たい
何でも 全国の400以上の自治体で 飛来が確認されているそうだ
兵庫県・但馬のコウノトリの郷での ご努力の成果が広がっている
☆☆☆
『 私たちの日常は、誰かと比較し、何かと比較し、良いとか悪いとか、勝っているとか負けているとか、そのような判断をベースにして動いている面が多いように思われます。 』
それでは駄目なんだ、というのが『老子』の教えのように思われます。
いかなる時にも揺るぎない美しさは、何かを意識したり、何かと比べた上で評価されるといった次元ではない「善」を見分け、自らもそうなるように磨きなさい、それが『道』を身につけるということらしいのです。
( 老子 第二章より )
( 「ちょっぴり老子」(5)より )
『 タイガーウッズ 首位 』
ゴルフ zozoチャンピオンシップ
日没順延となったが タイガーウッズが首位を守る
大勢のギャラリーを引きつれての ウッズのプレーぶりは
存在感抜群
ラグビーワールドカップもそうだが
超一流選手には 確かにオーラがあるようだ
☆☆☆
『 イングランド決勝戦へ 』
ラグビーワールドカップ 準決勝戦
イングランドがニュージーランドに快勝
終始リードを保ち 予想以上の差を感じた
決勝の相手がどこになるか 大変興味深いが
イギリスの各チームの強さが目立つ
☆☆☆
『 またも豪雨が 』
またも豪雨が 関東地方を中心に襲う
千葉駅が浸水するなど 交通機関をはじめ被害が出ている
北日本は まだ雨が続いている
これまでの被災が回復していない地域も多く
その難儀が察せられる
ただ ただ お見舞い申し上げます
☆☆☆
麗しの枕草子物語
苦しき胸の内
さて、賀茂の奥にほととぎすを聞きにいった後のことでございます。
雷の騒ぎなどに紛れて、結局歌を詠まないままになってしまい、牛車に乗って行った人たちと、ほととぎすを聞きに行ったことは話題にしないようにしましょう、などと話し合ったりしていました。
しかし、中宮さまは、私たちの魂胆を見抜いていらっしゃり、ご不満そうなご様子が続いておりました。
二日ばかり経って、中宮さまのお近くで、つい先日のことが話題になってしまい、宰相の君が、
「明順が『自分で摘んできた』と言っていた下蕨の味はどうでしたか」と私に話しかけるのを、中宮さまがお耳にされて、
「まあ、思い出すことといったら、食べ物のこととは」
と、お笑いになられました。そして、紙片を取り寄せられて、
『下蕨こそ 恋しけれ』
と、お書きになって、
「さあ、上の句を付けよ」
と、私にお命じになりましたが、さすがに、女房のちょっとした会話を取り入れられるなど、機知にあふれた御方であられます。
『ほととぎす たづねてききし 声よりも』
と、私も急いで書いてお渡ししたのですが、
「何と、まあ、厚かましいこと。ぬけぬけと食べ物の方が恋しいだなんて。それでも、ほととぎすと入れたのは、少しは気になっているらしいのね」
と、お笑いになるものですから、とても恥ずかしく惨めな気持ちがいたしました。
「私は、かねてから『歌を詠みますまい』と思っているのですが、晴れやかな場所などで、皆様方が歌を詠みます時に、私にも『歌を詠め』と申し付けられるのが、とても辛いのでございます。
私とても、文字の数が分からないとか、とんでもない季節の歌を詠むようなことはありませんが、『歌の上手』といわれた者の子孫ですので、少しは人並み以上の歌を詠まないことには、祖先を汚すことになってしまいます。取るに足らないような歌を、他の人に先駆けて詠み上げたりしますのは、亡き父に取りましても可哀そうなことでございます」
と、真剣に申し上げますと、中宮さまは笑いながらも、
「それならば、そなたの好きにするがよい。私からは『詠め』とは申すまい」
と、お許しを頂きました。
それから間もなく、中宮さまが庚申をなさいますということで、内大臣殿(中宮の兄)はたいそう気合が入っておられました。
庚申の夜は寝ることが出来ません。夜が更けてきますと、内大臣殿が歌の題を出し、女房たちが次々に歌を詠んでいます。
皆様、緊張し苦吟されておりますが、私は、中宮さまの近くに伺候していて、歌とは関係のないお話などしておりました。
「どうして歌も詠まず、そなたは、そんなに離れて座っているのか。さあ、題を取りなさい」
と、内大臣殿が歌の題を下さいましたが、
「中宮さまから格別のお言葉を頂戴いたしまして、私は歌を詠まないことになっております。ですから、歌のことは全く考えておりません」
とお答えいたしました。
「これはまた、奇怪な話だ。そのようなことはありますまい。なぜ、そのようなことをお許しになられましたか。とんでもないことです。
まあいい。他の時はどうでもよいが、今宵は詠みなさい」
と、強くお命じになられましたが、私は知らぬ顔を通しておりました。
やがて、他の人たちは、それぞれの歌の良し悪しなどの評定をなさったりしている時に、中宮さまが、ちょっとした御手紙を私にお渡し下さいました。中には、
『元輔が のちといはるる 君しもや 今夜(コヨヒ)の歌に はづれてはをる』
と、お書きになっているのです。(元輔は少納言の父)
あまりの可笑しさに、私がひどく笑ったものですから、
「何ごとか、何と書いておられるのか」
と、内大臣様がおっしゃるものですから、
「『その人の のちといはれぬ 身なりせば 今夜(コヨヒ)の歌を まづぞ詠ままし』
はばかることさえございませんでしたら、千首の歌でも、即座に出てまいることでしょう」
と申し上げました。
私が、あまり歌を詠まないのには、このような事情もあるのです。
(第九十四段 五月の御精進のほど・・、より)