雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

忘れる草と忘れない草 ・ 今昔物語 ( 31 - 27 )

2024-06-16 08:01:18 | 今昔物語拾い読み ・ その8

      『 忘れる草と忘れない草 ・ 今昔物語 ( 31 - 27 ) 』


今は昔、
[ 欠字。不詳 ]の国[ 欠字。不詳 ]の郡に住んでいる人がいた。
男の子が二人あったが、その父が亡くなったので、その二人の子が恋い悲しむことは、年を経ても忘れることがなかった。

昔は、亡くなった人を土葬にしたので、この父も土葬にして、二人の子は父が恋しくなった時には、連れ立ってその墓に行き、涙を流して、我が身の憂いも嘆きも、生きている親に話すように話してから帰っていった。

やがて、いつしか年月が流れ、この二人の子は朝廷に仕えるようになり、私事を顧みる隙もなくなったので、兄は、「私はこのままでは思い[ 欠字。「きる」といった意味の言葉か? ]そうもない。萱草(カンゾウ・ワスレナグサ科の多年草。やぶかんぞう。)という草は、それを見た人は思いを忘れてしまうそうだ。されば、その萱草を墓の辺りに植えてみよう」と思って、植えたのである。

その後、弟は常に兄の家に行き、「いつものようにお墓に行きましょう」と誘ったが、兄は都合の悪いことが多く、一緒に行くことがなくなった。
そこで、弟は兄を、「実に嘆かわしい」と思って、「私たち二人は、父親を恋しく思うことをより所として、日を暮らし夜を明かしてきたのだ。兄はすでに父のことを忘れてしまっているが、自分は決して親を恋しく思うことを忘れたりしない」と思って、「紫苑(シオン・キク科の草木。)という草は、それを見た人は心に思うことは忘れないということだ」と思いつき、紫苑を墓の辺りに植えて、常に行っては見ていたので、いよいよ忘れることがなかった。

このようにして年月を過ごしていくうちに、ある時、墓の中から声がして、「我は、お前の父の骸(カバネ)を守っている鬼である。何も怖がることはない。我はお前も又守ってやろうと思う」と言った。
弟はこの声を聞いて、「とても怖ろしい」と思いながら、何も答えないで聞いていると、さらに鬼は、「お前が父を恋しく思うことは、年月を経ても変わることがない。兄も同じように恋い悲しんでいるように見えたが、思いを忘れる草を植えて、それを見てすでに思い通りになった。お前もまた紫苑を植えて、またそれを見てその通りになった。されば、我は、父を恋うお前の志の並ならぬ事に感動した。我は鬼の身を得ているとはいえ、慈悲の心があるので、物を哀れむ心が深い。また、その日のうちの善悪の事を明らかに知ることが出来る。されば我は、お前のために、見える物がある。夢で以て必ず知らせてやろう」と言うと、その声が止んだ。
弟は、涙を流して喜ぶこと限りなかった。

その後は、その日のうちに起る事を、夢で見る事と間違いがなかった。身の上に起る様々な善悪の事をはっきりと予知した。これは、父を恋しく思う心が深いが故である。
されば、嬉しい事のある人は紫苑を植えて常に見るべし、憂いのある人は萱草を植えて常に見るべし、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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打ち臥しの巫女 ・ 今昔物語 ( 31 - 26 )

2024-06-13 08:01:11 | 今昔物語拾い読み ・ その8

      『 打ち臥しの巫女 ・ 今昔物語 ( 31 - 26 ) 』


今は昔、
打臥の御子(ウチフシノミコ・生没年不詳。御子は巫女のこと。枕草子や大鏡に登場している人物らしい。)という巫(カンナギ・神に仕えて、神降ろしなどをする人。女性が多い。)が世にいた。
昔から賀茂(上賀茂・下賀茂両神社の総称。)の巫というのは聞いたことがないが、この者は賀茂の若宮(上賀茂神社の末社。)が乗り移られたということである。
「どういうわけで、この者を打臥の御子というのか」というと、いつも打ち臥して物を言うからである。

京じゅうの上中下の人が挙ってこの巫女に物を尋ねると、過ぎ去った時のこと、行く先に起ること、現在ある事など、すべて彼女が言う事は、露ばかりも違うことがなかったので、世の人は皆、頭を垂れ手を合わせてその言葉を信じ尊んだ。しまいには、法興院(藤原兼家)も常に召してお尋ねになったが、このように正しく見事にお答えに申されたので、深くお信じになって、常にお召しになって、御冠をお着けになり紐をお結びになった正装で、御膝を枕にさせてお尋ねになると、お思いの事が叶ったのであろう、常に召してお尋ねになられた。

そうとはいえ、こうした事を良く思わぬ人もいた。
全ての事に露ほども違わず申すので、思いが叶うとはいえ、これほど高貴な人が御膝を枕にさせて、巫女に物を尋ねられることは、すこぶる似つかわしくない振る舞いなので、「これをこころよく思わない人がいるのも道理だ」
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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除目の予言者 ・ 今昔物語 ( 31 - 25 )

2024-06-10 07:59:33 | 今昔物語拾い読み ・ その8

      『 除目の予言者 ・ 今昔物語 ( 31 - 25 ) 』


今は昔、
[ 欠字。天皇名が入るが未詳。]天皇の御代に、豊前の大君(トヨサキノオオギミ・舎人親王の子孫で栄井王の子。805 - 865。本話では、桓武天皇の第五皇子の子孫となっているが、舎人親王は天武天皇の第五皇子で、本話の間違いであるが、故意かも知れない。 )という人がいた。
柏原の天皇(カシワバラノテンノウ・桓武天皇。)の第五皇子の御孫であったが、位は四位で、官職は刑部卿兼大和守などであったが、この人は、世の中の事をよく知っており、性格は正直で、朝廷の政治の良い事も悪い事もよく判断して、除目(ジモク・ここでは、地方官を任命する儀式。)が行われる時には、国司に欠員のある国について、それぞれ順番を待ち望んでいる人々を、その国の等級に合わせて推量し、「誰それはあの国の守に任じられるだろう。誰それは理由を申し立てて望んでも、きっと任じられまい」などと、一国一国について話すのを人々は聞いて、望みが叶った人は除目の終った翌朝には、この大君を誉め称えた。
この大君が推し量る除目の予想は絶対に間違わなかったので、世を挙げて、「やはりこの大君の推し量る除目は大したものだ」と称えた。

除目の前にも、この大君のもとに大勢集まってきて訊ねると、推量したままに答えた。
「任じられるだろう」と言われた人は手をすり合せて喜び、「やはりこの大君は大した人だ」と言って帰っていった。
「任じられまい」と言うのを聞いた人は大いに怒り、「何という事を言うのだ、この古大君(古は軽蔑して言う。)め。道祖神(サエ・悪霊を防ぎ、旅路の平安を守る神として大切にされたが、その一方で、性神・芸能神的な最下級の神として異端視された。ここでは後者の意味。)を祭って、気が狂ったに違いない」などと言って、腹を立てて帰っていった。

さて、このようにして、「任じられるだろう」と予測した人が任じられず、他の人が任じられた場合、「これは、朝廷の人選が悪いのだ」と言って、除目を非難し申した。
そこで天皇も、「豊崎の大君は除目をどのように言っているか」と言って、そばに仕えている者に、「行って尋ねて参れ」と仰せられた。
昔は、このような人も世間にはいたのだ、
と語り伝へ
たるとや。

     ☆   ☆   ☆ 

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祇園社が比叡山の末寺になる ・ 今昔物語 ( 31 - 24 )

2024-06-07 07:59:32 | 今昔物語拾い読み ・ その8

      『 祇園社が比叡山の末寺になる ・今昔物語 ( 31 - 24 ) 』


今は昔、
祇園(祇園社。八坂神社の旧称。)はもと山階寺(ヤマシナデラ・興福寺の別称)の末寺であった。
その真東に比叡山の末寺である蓮花寺(伝未詳)という寺があった。

さて、祇園の別当(寺務を統括する役僧。)に良算(ロウザン・伝不詳)という僧がいた。権勢があり豊かな生活を送っている僧であった。
ところで、かの蓮花寺の堂の前に立派な紅葉(モミジバ・楓などらしい。)があったが、十月の頃であり、色がたいへん美しいので、祇園の別当の良算が枝を折りに人を行かせたところ、蓮花寺の住職の法師は、ねじけた心の持ち主だったので、これを制して、「祇園の別当がいかに裕福であろうとも、どうして天台末寺の境内にある木をば、自分勝手に、こちらに挨拶もなく折ろうとなさるのか。極めて非常識なことだ」と非難した。

良算の使いで来た男は、このように制止されて折ることが出来ず帰り、「こう申して、折らせてくれませんでした」と良算に報告すると、良算は大いに怒って、「その様なことを言うのであれば、いっそその木を全部伐り取ってこい」と言うと、従者共を呼び集めて行かせたところ、切るのを止めたあの蓮花寺の法師は、「きっと良算は、従者共を集めて、この木を伐らそうとするだろう」と察知して、良算の従者共がやって来る前に、法師自らその紅葉の木を根元から伐り倒してしまった。
そのため、良算の使いが行って見てみると、木が伐り倒されているので、帰って良算にその由を報告すると、良算はますます怒った。

その頃、横川(ヨカワ・東塔、西塔と共に比叡山三塔の一つ。)の慈恵僧正は天台座主として殿下(摂政・関白の敬称であるが誰をさしているか未詳。)の御修法(ミシュホウ・真言の密法を修する法会。)のために法性寺(ホッショウジ・現在の東福寺の地にあった大寺。)に滞在していたが、蓮花寺の法師は木を伐り倒すと、急いで法性寺に参って、この由を座主に申し上げた。
すると、座主は肩を並べる者とてないほど権勢を誇っていたが、話を聞いて大いに怒り、良算を呼び寄せるべく使者を遣ると、良算は、「私は山階寺の末寺の役僧だ。どういうわけで、天台座主が私を勝手気ままに召し出すのか」と言い放って参ろうとしなかったので、座主はますます怒って、比叡山の所司(寺務を司る役僧)を呼び下ろして、その者に命じて、祇園の神人(ジンニン・神社の下級職員)らや代人らが延暦寺に身柄を預けるという文書を書かせておいて、「それに判を押せ」と強要したので、神人らは責め立てられてやむを得ず判を押した。

その後座主は、「こうなったからには、祇園は天台山の末寺である。速やかに別当良算を追い払うべし」と言って追い払わせると、良算は全く意に介せず、[ 欠字。「平」が入る。]公正(キミマサ・平公雅のことらしい。生没年未詳、桓武平氏。)、平致頼(タイラノムネヨリ・ 1011 年没。従五位下、武勇に名高い。)という武士の郎等共を雇い入れて、楯を並べて、軍備を構えて待ち受けていた。
これを聞いて、座主はますます怒り、西塔の平南房(ヘイナンボウ・未詳)という所に住んでいる武芸第一の睿荷(エイカ・伝不詳)という僧や、かの致頼の弟である、やはり武芸に勝れた入禅(ニュウゼン・伝不詳。致頼の弟というのも未詳。)という僧もいたので、これら二人の僧を祇園に遣わして、良算を追い払うよう命じた。
二人は祇園に行き、良算が集めた軍兵
に向かって、「お前たち、みだりに矢を放って悪事を働けば、後の為に悪いことになるぞ」と説得したところ、良算が雇った致頼の郎等共は、入禅を見ると、「なんと、山の禅師殿がおいでになっているではないか」と言って、後ろの山に逃げ去ってしまった。
そこで、出向いた僧たちは、思い通りに良算を追い払ってしまった。

そこで、睿荷を別当に任じて、事務を執行させたが、その後、山階寺の大衆が蜂起して朝廷に訴え出て、「祇園は往古より山階寺の末寺である。その寺が、どうして強引に延暦寺に奪われてよいものか。速やかに本のように山階寺の末寺とするように仰せ下しいただきたい」と、度々訴え出たが、御裁許が遅々として出されないので、山階寺の大変な数の大衆が京に上り、勧学院(カンガクイン・左京三条にあった藤原氏一門の子弟のための教育機関。)に到着した。

そこで、朝廷はこれを聞いて、驚いて早速御裁許が為されることになったが、その前にあの座主の慈恵僧正が亡くなってしまった。
「その沙汰は明日行う」とすでに仰せ下されていたため、山階寺の大衆は全員が勧学院に留まっていたが、その寺の中算(チュウザン・仲算とも。経典に通じ、顕教の名人といわれた人物。)はこの騒動の交渉に対処する中心人物として、勧学院の近くの小家に泊まっていたが、その日の夕方、前に多くの弟子共などを控えさせていたが、にわかに中算は、「只今、ここに人がやって来る。皆、しばらく外に出ていよ」と言ったので、弟子共は皆外に出ていたが、誰かが外からやってきたとも見えないのに、中算が誰かと話している声が聞こえてきた。
弟子共は、「怪しいことだ」と思っているうちに、しばらく経って、中算が弟子共を呼んだので、全員が入ってくると、中算が「ここに比叡山の慈恵僧正がおいでになったのだ」と言ったので、弟子共はこれを聞いて、「これは、いったいどういうことを申されているのか。慈恵僧正はすでにお亡くなりになった人なのに」と思ったが、怖ろしくなって何も言えないままになった。

そして、その翌日、この裁決が行われたが、中算は、「風邪の発作が起った」と言って、裁決の場にも出なかったので、山階寺の方にはこれといって論弁出来る者がいなかったので、その御裁許は思わしくなく、大衆も山階寺に帰っていったので、遂に祇園は比叡山の末寺になってしまったのである。

あさはかな良算の悪事から起った事ではあるが、これを思うに、慈恵僧正が祇園に強い執着を抱いていたからであろう。亡くなってからも、その霊は現れて、中算に頼み込んだので、中算は、「にわかに風邪の発作が起った」と言って裁決の場に出てこなかったのであろう。
もし、中算が裁決の場に出て論弁していれば、どうなっていただろうか。それを知っていたから、慈恵僧正の霊はわざわざ頼みに行ったのであろう。
されば、「中算は、並の人間ではなかったのだ」と、弟子たちも、この話を聞いた人も、皆が知ったのである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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多武の峰と延暦寺 ・ 今昔物語 ( 31 - 23 )

2024-06-04 08:03:21 | 今昔物語拾い読み ・ その8

      『 多武の峰と延暦寺 ・ 今昔物語 ( 31- 23 ) 』


今は昔、
比叡の山に尊睿律師(ソンネイリッシ・天台座主義海の子。1007 没。律師は、僧正、僧都に次ぐ僧綱の一つで、僧尼を統括する官職。)という人がいた。
長年山に住んで顕蜜(ケンミツ・顕教と蜜教)の法を学び、高僧と崇められていた。また、勝れた観相人でもあった。後には、京に下って雲林院(京都市北区にあった寺。もとは淳和
天皇の離宮だった。)に住んでいた。

ところで、無動寺の慶命(キョウミョウ・後に天台座主。1038 没。)座主が、まだ若い頃で阿闍梨(アジャリ・高僧に対する称号で、職官の場合と、有力寺院が定める場合があった。)であった時、この尊睿律師が慶命阿闍梨を見て、「あなたは格別に高貴な相を限りなく備えておいでのお方だ。必ずこの山の仏法の棟梁(指導者といった意味で、座主を指しているらしい。)となるべき相が現れている。されば、拙僧はすでに年老いて、世にあっても役にも立ちません。そこで、私の僧綱の位をあなたにお譲りいたしましょう。あなたは関白殿(藤原道長。実際は、道長は関白には就いていないが、多くの文献が関白と称している。)に親しくお仕えして、お覚えも良いお方だ。この事を言上なさい」と言った。
阿闍梨は心の内で、「嬉しいことだ」と思って、この事を殿(道長)に申し上げた。殿というのは御堂のことである。
殿は、慶命阿闍梨を寵愛なさっていたので、この事をお聞きになって、「まこに良い事だ」と仰せられて、慶命阿闍梨を尊睿の[ 欠字。「推挙」といった意味の言葉らしい。]によって、律師に成された。

その後、尊睿は道心を起こして、比叡山を去り、多武の峰(トウノミネ・奈良県桜井市)に籠もって、ひたすら後生を願い、念仏を唱えていた。
多武の峰は、もともと御廟(藤原鎌足の廟がある。)は尊いが、顕蜜(顕教と密教)の仏法は行われていなかったので、この尊睿は多武の峰に住んで、真言の蜜法を広め天台の法文を教え始めてから、学僧が多数輩出したので、法華八講を行わせ、三十講を始めるようになり、しだいに仏法の地となったが、尊睿は、「この所を、このように仏法の地とすることが出来たが、格別これといった本寺(本山)がない。同じことなら、自分がもといた比叡山の末寺として寄進しよう」と思い至って、尊睿はあの慶命座主が関白殿の覚えが良く親しくお仕えしているので、慶命を通して殿の内意をうかがったところ、殿はそれをお聞きになって、「大変良い事だ」と仰せられて、「速やかに末寺とすべし」と仰せ下されたので、多武の峰を妙楽寺という名を付けて、比叡山の末寺として寄進した。

その時、山階寺(ヤマシナテラ・興福寺の別称。藤原氏の氏寺。)の多くの僧侶たちがこの事を聞いて、「多武峰は大職冠の御廟である。されば、当然山階寺の末寺であるべきだ。どうして延暦寺の末寺にされてよいものか」と騒ぎ合って、殿下(道長)にこの由を訴え申したところ、殿は、「先に延暦寺の末寺に成すべきとの申し出あったので、すでに許可を与えている」と仰せられて、承諾されなかったので、その申し出は叶わずに終った。

されば、後悔先に立たず、という諺の通りでである。今も昔も、いったん下された仰せは、このように変えられないものである。
山階寺が先に申し出ていれば、山階寺の末寺になっていたであろう。何事も適切な時期というものがあるので、すでに仰せ事が下された後に申し出ても、叶えられるはずがない。それで、比叡山の末寺として、今も天台の仏法が栄えている。
それゆえ、尊睿をかの山(多武峰の妙楽寺)の本願(寺院の創立者)と言うのである、
と語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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弘法大師が築いた池 ・ 今昔物語 ( 31 - 22 )

2024-06-01 08:20:59 | 今昔物語拾い読み ・ その8

      『 弘法大師が築いた池 ・ 今昔物語 ( 31 - 22 ) 』


今は昔、
讃岐国[ 欠字。「那珂」が入る。]の郡に、満濃の池(マノノイケ・まんのうのいけ、とも。)という大きな池がある。
高野の大師(弘法大師のこと)が、この国の人々のために大勢の人を集めてお築きになった池である。池の周りは遙か遠くまで連なり堤も高いので、とても池とは思われず海などのように見える。広さは、対岸が遙か彼方にかすかに見える程なので、ご想像願いたい。

その池の堤は築いてから長い間崩れることがなかったので、その国の人々が田を作るのに、干魃の時であっても、多くの田がこの池のお陰で助けられ、国の人々は皆いつも喜び合っていた。
池には、上の方から多くの川が流れ込んでいるので、いつも満々と水がたたえられていて涸れることがなかった。また、池の中には大小さまざまな魚が住んでいた。これを国内の人々が色々な方法で取っていたが、魚の数は多くて、いつも池に満ちていて尽きることがなかった。

ところが、[ 欠字。人名が入るが不詳。]という人が、その国の国司として在任中、その国の人たちや国司の館の人たちが集まって雑談していたが、そのついでに、「ああ、満濃の池には何と多くの魚がいるものかな。三尺(約 90cm )の鯉などもいるだろうなぁ」などと話し合っているのを守(国司)が伝え聞いて、その魚が「欲しい」と思ったので、「何とかして、この池の魚を取ってやろう」と思ったが、池は遙かに深いので、人が下りて網を置くことも出来ない。そこで考えたことは、池の堤に大きな穴を開けて、そこから水を出すことにして、水が落ちる所に魚が入る仕掛けを置いて水を出せば、水が激しく流れ出るに従い、その穴から多くの魚が一緒に出てきたので、それを数限りなく取った。

さて、その後、その穴を塞ごうとしたが、水の出る勢いが強くて、どうにも塞ぐことが出来なかった。
池には楲(イ・水門の一種)という物を立てて、それに樋を設けて水を流すので池を保つことが出来るのだが、これを堤に穴をこじり空けたものだから、しだいにその穴は崩れて大きくなり、そのうち大雨が降って、池の上から流れ込んでいる何本もの川が増水し、その水が池に満ちあふれたので、その穴がもとになって堤が決壊してしまった。


その為、池の水はみな流れ出てしまい、その国の人々の家や田畠などみな流されてしまった。多くの魚共も流れ出て、ここかしこで全部人に取られてしまった。
その後は、池の中心に小さく水が残っていたが、しだいにその残っている部分もかれてしまって、今は、その池は跡形もなくなっているという。

これを思うに、この守の欲心によってその池は消滅してしまったのである。されば、この守は、これによっていかほど量り知れない
罪を得たことであろう。あれほど尊い権者(ゴンジャ・仏や菩薩が衆生を救うために仮の姿でこの世に現れた人。)が、人々を救うために築かれた池を失っただけでも量り知れない罪である。その上さらに、この池が決壊したことによって、多くの人の家屋を壊し、多くの田畠を流失させた罪も、ただこの守のみが負うべきであろう。いわんよ、池の中の多くの魚を人々に取られた罪も、誰が負うというのか。まことに、極めてつまらないことをした守ではある。

されば、人
はむやみな欲心を決して抱いてはならない。また、国の人たちも今に至るまで、その守を憎み非難しているという。
その池の堤などの痕跡は、まだ失せることなく残っている、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

* 満濃池は、昭和三十四年( 1959 年)の大改修を経て現在に伝えられています。

     ☆   ☆   ☆

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鬼の寝屋島 ・ 今昔物語 ( 31 - 21 )

2024-05-29 08:00:44 | 今昔物語拾い読み ・ その8

      『 鬼の寝屋島 ・ 今昔物語 ( 31 - 21 ) 』


今は昔、
能登国の沖に寝屋(ネヤ・幾つかの島があるが不詳。)という島がある。
その島では、河原に石があるように、鮑がたくさんあるというので、その国の光りの島という浦に住む海人(漁師)共は、その鬼の寝屋島(こう呼ばれていたらしい。)に渡って、鮑を捕り、国司に租税として納入した。その光りの浦より鬼の寝屋島までは、船で一日一夜走って行ける距離である。

また、そこからさらに先に猫の島(舳倉島らしい?)という島がある。鬼の寝屋島からその猫の島へは、追い風を受けて一日一夜走って渡れる距離である。
されば、その距離を思い計ると、高麗に渡るほどの遠さはあるのではないか。しかし、その猫の島へは[ 欠字。「難しい」といった言葉らしい。]にて、人は行かないようだ。

さて、光りの浦の海人は、その鬼の寝屋島に渡って帰ってくると、一人で一万もの鮑を国司に納めた。それも、一度に四、五十人も渡るので、その鮑の数の多さは大変なものである。
そうした時、藤原通宗朝臣( 1084 年没)という能登守が任期が終わる年、その光りの浦の海人共が鬼の寝屋島に渡って漁をして返り、国司に鮑を納めたが、国司はさらに出すように命じたので、海人共は困ってしまい、越後国に渡っていってしまったので、その光りの浦には一人の海人もいなくなり、鬼の寝屋島に渡って鮑を捕ることが絶えてしまった。

されば、人がむやみに欲心を起こすことは愚かな事である。一度に多くの物を取ろうとしたために、後には一つさえ取れなくなったのである。
今でもその国の国司は、鮑を手にすることが出来ないので、実につまらないことをしたものだと、その国の者共もあの通宗朝臣を非難している、
となむ語り伝へたるとや。

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大岩を砕く ・ 今昔物語 ( 31 - 20 )

2024-05-26 08:28:02 | 今昔物語拾い読み ・ その8

      『 大岩を砕く ・ 今昔物語 ( 31 - 20 ) 』


今は昔、
北山(京都北方の山々の総称。)に霊巌寺(リョウガンジ・平安時代前期に所在していた。妙見寺とも。)という寺があった。この寺は、妙見(ミョウケン・妙見菩薩。北斗七星を神格化したもの。)がお姿を現わし給う所である。
寺の前に三町(約 330m
)ばかり離れて大岩があり、人が屈んで通れる程の穴が空いていた。あらゆる人が挙って参詣する霊験あらたかな寺なので、僧房をたくさん造って並んでいて、賑わしいこと限りなかった。

ところで、[ 欠字。「三条または一条」らしいが不詳。]の天皇が御目をお患いになったので、かの霊巌時に行幸あるべきか議せられたが、「あの大岩があるので、御輿がとても通れそうもないので、行幸はなさるべきでない」と定められたが、それを聞いて、その寺の別当(寺務を統括する僧)である僧は、「行幸があれば、自分はきっと僧綱(ソウゴウ・法務を統括する僧の官職で、僧正・僧都・律師の三官。)に任ぜられるのに、行幸がなければ、僧綱に任ぜられることは駄目であろう」と思って、行幸を有らせんが為に、「あの大岩を壊してしまおう」と言って、大勢の人夫を集めてたくさんの柴を苅らせて、この大岩の上下に積上げさせて、火を付けて焼こうとした。その時、その寺の僧の中の年老いた者どもが、「この寺が霊験あらたかなのは、この大岩のお陰に寄るものだ。それなのに、この大岩を壊してしまっては、霊験はなくなり寺は廃れてしまうだろう」と言い合って嘆いたが、時の別当は、自分の欲望のためにむりやりな計画をしたことなので、寺の僧共が言うことなど聞くはずもない。耳を貸そうともしないで、その積み上げた柴に火を付けて焼いた。

そして、大岩を焼いて熱しておいて、大きな金槌で打ち砕いたので、大岩は粉々に砕け散った。すると、その時、大岩の砕けた中から、百人ばかりがいっせいに笑う声が聞こえた。
寺の僧共は、「とんでもないことをしてくれたものだ。この寺は荒廃してしまうだろう。悪魔に謀られてこのような事をしてしまったのだ」と言って、別当を憎みののしったが、大岩はなくなったが、行幸もなかったので、別当の任官も実現することなく終った。

その後、別当は、寺の僧共に憎み嫌われて、寺にも寄り付かなくなってしまった。それから後、寺は荒れに荒れて、堂舎も僧房もみな失われれてしまい、僧は一人も住まなくなり、やがては木こりの通る道になってしまった。
これを思うに、何ともつまらない事をした別当である。僧綱になるべき宿報(前世の行いに対する現世で受ける報いのこと。)がないのだから、思い通りに大岩をなくしたところでなれるはずもない。知恵のない僧であったのであろう、愚かにもその事を知らず、尊い霊験の場所をなくしてしまったのは情けないことである。
されば、霊験というものは、場所のいかんによって現れるのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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六道珍皇寺の鐘 ・ 今昔物語 ( 31 - 19 )

2024-05-23 08:00:04 | 今昔物語拾い読み ・ その8

       『 六道珍皇寺の鐘 ・ 今昔物語 ( 31 - 19 ) 』


今は昔、
小野篁(オノノタカムラ・平安時代初期の貴族。852 年没。)という人が、愛宕寺(オタギデラ・京都市東山区にある六道珍皇寺のこと。)を造り、その寺で使用するために鋳物師に鐘を鋳させたところ、鋳物師は、「この鐘は、撞く人がいなくても、十二の時ごと(およそ二時間ごとに。)に鳴るように造っています。その為には、土を掘って埋めて、三年間そのままにしておく必要があります。今日から数えて、三年に満ちた日のその翌日に、掘り出さなければなりません。それを、日が足らないうちに、あるいは日を遅らして掘り出したならば、申し上げたように、撞く人がいなくても十二の時ごとに鳴ることはありません。そのような細工をしてあるのです」と言って、鋳物師は帰っていった。

そこで、土を掘ってその鐘を埋めたが、その後、この寺の別当(事務を統括する僧)である法師が、二年を過ぎて三年目になったが、まだ丸三年になっていないのに、待ちきれなくなり、本当に鋳物師が言ったように鳴るのか気掛かりでもあり、あさはかにも掘り出してしまった。
その為、撞く人がいなくても十二の時ごとに鳴ることはなく、ただ普通にある鐘になってしまった。
「鋳物師が言うように、決められたその日に掘り出していれば、撞く人がいなくても十二の時ごとに鳴ったであろうに。そのように鳴ったなら、鐘の音が聞こえる所では時刻もはっきり分かり、すばらしいことであったろう。まことに残念なことをしてくれた別当だ」と、当時の人々は非難した。

されば、慌て者で忍耐力のない人は、必ずこのような失敗をするのだ。愚かで約束を守らないための結果である。
世間の人は、これを聞いて、決して約束を破るようなことをしてはならない、
となむ語り伝えたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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小人の船 ・ 今昔物語 ( 31 - 18 )

2023-06-28 08:17:41 | 今昔物語拾い読み ・ その8

      『 小人の船 ・ 今昔物語 ( 31 - 18 ) 』


今は昔、
源行任朝臣(ミナモトノユキトウアソン・生没年未詳。醍醐源氏。1019 年に越後守を解かれている。)という人が越後の守としてその国に在任中、[ 欠字。郡名が入るが不詳。]の郡にある浜に、小さな船が打ち寄せられた。幅が二尺五寸、深さが二寸、長さが一丈ほどである。

これを見つけた人は、「これはどういう物だろう。誰かが面白半分に造って、海に投げ入れたのだろうか」と思って、よく見ると、その船のふなばたにそって、一尺ほどの間隔で櫂の跡がついている。その跡は、長く使われたらしくすっかり潰れている。
そこで、見つけた人は、「実際に人が乗っていた船だったのだ」と判断して、「どれほど小さな人が乗っていた船なのか」と思って、あきれるばかりであった。
「漕いでいる時には、ムカデの手のようであろう。世にも珍しい物だ」と言って、国司の館に持っていくと、守もこれを見てすっかりあきれてしまった。

すると、ある古老が、「前々にもこのような小船が流れ着いたことがあった」と言ったが、そうすると、その船に乗る程度の小さい人がいるに違いない。
このように、越後国に度々流れ着くのを見ると、ここより北に小人の国があるのだろう。他の国には、このように小船が流れ着いたという話しは聞いていない。
この話は、守が上京し、従者たちが語ったことを聞き継いで、
此くなむ語り伝へたるとや。

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