運命紀行
しづやしづ
『吉野山峰のしら雪ふみわけて 入りにし人のあとぞ恋しき』
静は懸命に舞う。
豪奢な鶴岡八幡宮の舞台も、居並ぶ武者や女房たちの姿は全く見えていなかった。
静がかざす手の先にあるものは、降りしきる雪、雪、雪。
断ち切られるようにして別れたあの方は、今はいずこにあられるのか・・・。
あの華奢な女性のどこにこれほどの力が秘められていたのかと思われるほど、その舞う姿は雄々しいほどに激しく、時には嫋々として哀しく、謡う歌は凛として何のけれんみもなく、見る者の胸に迫った。
さすがつわものぞろいの鎌倉武者の中にも、感動に涙するものさえあった。
静の体は、自らの意思を超えて動き、身重であることさえ忘れて飛び、謡う声は、彼の人に届けとばかりに発せられた。
『しづやしづしづのをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな・・・』
* * *
平家を壇ノ浦で打ち破った源義経は、その後、兄頼朝に疎まれついに追われる身となってしまった。
西国への脱出を図るも船が難破してしまう。ようやく摂津の天王寺に辿り着いた時には従う者は僅かとなり、吉野山に向かった。
そこで数日を過ごすも、この地にも鎌倉方の探索の手が及んでおり、義経と弁慶ら僅かな供は山伏姿となり更なる逃避行となった。
静は、身重であることや、女性の身が憚られる霊山であることもあって、一人分かれることになった。義経は、十分な金銀などを静に持たせ、下男を付けて京に向かわせたが、落日の身の哀れさは如何ともしがたく、道案内するはずの男たちに金銀を奪われ、静は一人雪の中に取り残されてしまった。
静は深い雪の中をさまよい、蔵王堂に辿り着いたが、そこで捕らわれの身となった。
静に対して義経らの行く先についての厳しい詮議が続けれら、また大軍を送り込んでの捜索も行われたが、義経主従の足跡をつかむことは出来なかった。
やがて京に送られた静は、北条時政の屋敷に入れられたが、その対応は粗略なものではなかった。ただ、義経の逃亡先に対する追及は続けられ、鎌倉へも逐一報告されたが、翌年春、鎌倉に送られることになった。
三月一日、静と母の磯禅師は鎌倉に到着した。
鎌倉においても、これと同様の詮議が行われたが、吉野で別れた後の義経の動向は静は教えられておらず、頼朝の望む答えを出しようもなかった。しかも、義経主従の動向は、その後の広範な追跡に関わらず、何の情報も得ることが出来なかった。
その間、鎌倉で何かと気遣ってくれている頼朝の妻政子からは、舞の所望が再三あった。京で名高い舞の名手を迎えていて、その姿を見ることのできない口惜しさを政子は静に直接訴え、頼朝を通しても実現を目指していた。
静は、体調がすぐれないことや、夫が追われる身で晴れの舞台に立つのは甚だ恥辱だと拒絶を続けたが、「八幡大菩薩に供する舞」だということで押し切られ、鶴岡八幡宮での奉納の舞が実現した。
静は、頼朝以下鎌倉武者たちの前で、堂々と義経を偲び、しづ織の糸を巻くおだまきのように繰り戻すことが出来て、今が昔のようになって義経が世に出られる方法があればよいのにと、謡い、舞い踊った。
このあと、静の不遜な態度に頼朝は大変怒ったと伝えられているが、政子は、若き日の自分の姿になぞらえて静を弁護したという。
その後、静の妊娠を知った頼朝は出産までの拘束を命じた。
九郎判官義経の子となれば、女子ならばともかく、男子ならば生かしておくことなど出来ないとの判断からであった。
そして、閏七月二十九日、静が出産したのは男の子であった。なにゆえの運命を抱いての誕生なのか、赤子は泣き叫ぶ静の手元から奪われ、由比ヶ浜の沖合深く沈められたという。静の泣き叫ぶ声は数刻にも及んだ・・・。
九月、静は母磯禅師と共に京に向かった。政子やその娘の大姫からは、数々の品が与えられたが、静の傷心を癒やすことなど出来るものではなかった。
その後の静の動静については、伝えられていない。
いわゆる、静御前伝説といわれるものは、各地に数多く伝えられているが、いずれもその信憑性を確認することは出来ない。
わが子を失ったのと同じように、歴史の荒波に沈んでいったのかもしれない。
( 完 )
しづやしづ
『吉野山峰のしら雪ふみわけて 入りにし人のあとぞ恋しき』
静は懸命に舞う。
豪奢な鶴岡八幡宮の舞台も、居並ぶ武者や女房たちの姿は全く見えていなかった。
静がかざす手の先にあるものは、降りしきる雪、雪、雪。
断ち切られるようにして別れたあの方は、今はいずこにあられるのか・・・。
あの華奢な女性のどこにこれほどの力が秘められていたのかと思われるほど、その舞う姿は雄々しいほどに激しく、時には嫋々として哀しく、謡う歌は凛として何のけれんみもなく、見る者の胸に迫った。
さすがつわものぞろいの鎌倉武者の中にも、感動に涙するものさえあった。
静の体は、自らの意思を超えて動き、身重であることさえ忘れて飛び、謡う声は、彼の人に届けとばかりに発せられた。
『しづやしづしづのをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな・・・』
* * *
平家を壇ノ浦で打ち破った源義経は、その後、兄頼朝に疎まれついに追われる身となってしまった。
西国への脱出を図るも船が難破してしまう。ようやく摂津の天王寺に辿り着いた時には従う者は僅かとなり、吉野山に向かった。
そこで数日を過ごすも、この地にも鎌倉方の探索の手が及んでおり、義経と弁慶ら僅かな供は山伏姿となり更なる逃避行となった。
静は、身重であることや、女性の身が憚られる霊山であることもあって、一人分かれることになった。義経は、十分な金銀などを静に持たせ、下男を付けて京に向かわせたが、落日の身の哀れさは如何ともしがたく、道案内するはずの男たちに金銀を奪われ、静は一人雪の中に取り残されてしまった。
静は深い雪の中をさまよい、蔵王堂に辿り着いたが、そこで捕らわれの身となった。
静に対して義経らの行く先についての厳しい詮議が続けれら、また大軍を送り込んでの捜索も行われたが、義経主従の足跡をつかむことは出来なかった。
やがて京に送られた静は、北条時政の屋敷に入れられたが、その対応は粗略なものではなかった。ただ、義経の逃亡先に対する追及は続けられ、鎌倉へも逐一報告されたが、翌年春、鎌倉に送られることになった。
三月一日、静と母の磯禅師は鎌倉に到着した。
鎌倉においても、これと同様の詮議が行われたが、吉野で別れた後の義経の動向は静は教えられておらず、頼朝の望む答えを出しようもなかった。しかも、義経主従の動向は、その後の広範な追跡に関わらず、何の情報も得ることが出来なかった。
その間、鎌倉で何かと気遣ってくれている頼朝の妻政子からは、舞の所望が再三あった。京で名高い舞の名手を迎えていて、その姿を見ることのできない口惜しさを政子は静に直接訴え、頼朝を通しても実現を目指していた。
静は、体調がすぐれないことや、夫が追われる身で晴れの舞台に立つのは甚だ恥辱だと拒絶を続けたが、「八幡大菩薩に供する舞」だということで押し切られ、鶴岡八幡宮での奉納の舞が実現した。
静は、頼朝以下鎌倉武者たちの前で、堂々と義経を偲び、しづ織の糸を巻くおだまきのように繰り戻すことが出来て、今が昔のようになって義経が世に出られる方法があればよいのにと、謡い、舞い踊った。
このあと、静の不遜な態度に頼朝は大変怒ったと伝えられているが、政子は、若き日の自分の姿になぞらえて静を弁護したという。
その後、静の妊娠を知った頼朝は出産までの拘束を命じた。
九郎判官義経の子となれば、女子ならばともかく、男子ならば生かしておくことなど出来ないとの判断からであった。
そして、閏七月二十九日、静が出産したのは男の子であった。なにゆえの運命を抱いての誕生なのか、赤子は泣き叫ぶ静の手元から奪われ、由比ヶ浜の沖合深く沈められたという。静の泣き叫ぶ声は数刻にも及んだ・・・。
九月、静は母磯禅師と共に京に向かった。政子やその娘の大姫からは、数々の品が与えられたが、静の傷心を癒やすことなど出来るものではなかった。
その後の静の動静については、伝えられていない。
いわゆる、静御前伝説といわれるものは、各地に数多く伝えられているが、いずれもその信憑性を確認することは出来ない。
わが子を失ったのと同じように、歴史の荒波に沈んでいったのかもしれない。
( 完 )