つらつら椿
『 河の辺(ヘ)の つらつら椿 つらつらに
見れども飽かず 巨勢(コセ)の春野は 』
これは、万葉集第一巻の五十六に載せられている春日蔵首老(カスガノクラノオビトオユ)の歌である。
おおよその歌意は、「川のほとりにあるたくさん連なった椿は、それぞれがたくさんの花を咲かせている。その見事な花は、いくら見ていても飽くことがない。ほんとうに巨勢の春野の眺めは素晴らしい」といったもので、眼前に広がる春の風景を素直に詠んだものと思われる。
なお、「つらつら椿」とは「連なって生えている椿、あるいは、連なって咲いている花の様」。また、「巨勢」は現在の奈良県御所市あたりの地名。
春日蔵首老は、万葉集の中に八首の和歌を残している。そのうちの最後の二首、「春日の歌」と「春日蔵の歌」と記されているものについては、春日蔵首老の作品か否かについて諸説ある。
以下に残りの七首の和歌の紹介と大まかな歌意を付けさせていただく。
「三野連(ミノノムラジ)唐(モロコシ)に入りし時に、春日蔵首老の作れる歌」
『 ありねよし 対馬の渡り 海中(ワタナカ)に 幣(ヌサ)取り向けて 早帰り来(コ)ね 』
歌意、「対馬の渡りの海中に、幣を捧げて航海の安全を祈り、早く無事で帰ってきてください」
なお、「ありねよし」は対馬にかかる枕詞。
「春日蔵首老の歌一首」
『 つのさはふ 磐余(イハレ)も過ぎず 泊瀬山(ハツセヤマ) 何時かも越えむ 夜は更けにつつ 』
歌意、「まだ磐余の地も過ぎていない。泊瀬山をいつ越えることが出来るのだろう。もう夜は更けてきたというのに」
なお、「つのさはふ」は磐余にかかる枕詞。「泊瀬山」は大和朝廷の所在地にある山で聖地とされていた。
「春日蔵首老の歌一首」
『 焼津辺(ヤキツヘ)に わが行きしかば 駿河なる 阿倍の市道(イチヂ)に 逢ひし児らはも 』
歌意、「焼津あたりに行った時、阿倍の町で逢ったあの子よ、今はどうしているだろうか」
なお、「児ら」の「ら」は、複数を表わすものではなく、親愛を表す。「はも」は、詠嘆を表す終助詞。
「春日蔵首老の即ち和(コタ)へたる歌一首」
『 宜(ヨロ)しなへ わが背の君の 負ひ来にし この勢(セ)の山を 妹(イモ)とは呼ばじ 』
歌意、「結構なことに、私の妻と同じ『せ』という名を持っているこの山を、今さら『妹山』とは呼びませんよ」
なお、この歌は、「丹比真人笠麿の紀伊国に往きて勢の山を超えし時に作れる歌一首」として、『 栲領布(タクヒレ)の 懸けまく欲しき 妹の名を この勢の山に 懸けばいかにあらむ 』という歌に即座に答えた歌とされる。
二人は親交があったらしく、「あなたの恋しい妻の名と同じ名前の山なので、妹山(恋しい人という山)と呼べばいかが」と、からかったものらしい。なお、栲領布は襟飾りの一種。妹は、妻・恋人などを指す。
「弁基の歌一首」
『 真土山 夕越え行きて 廬前(イホサキ)の 角太河原に 独りかも寝む 』
歌意、「真土山を夕方に越えて行った。今夜は、廬前の角太(スミタ)河原で独り野宿することになるだろう」
なお、真土山は、大和と紀伊の境をなす山である。角太は、紀の川。
「春日の歌一首」
『 三川(ミツカワ)の 淵瀬もおちず 小網(サデ)さすに 衣手濡れぬ 干す児は無しに 』
歌意、「三川の淵にも瀬にも、くまなく網を差しているうちに、衣が濡れてしまった。乾かしてくれる人はいないというのに」
なお、三川の場所は不明で、したがって詠まれた場所も不明である。
「春日蔵の歌一首」
『 照る月を 雲な隠しそ 島かげに わが船泊(ハ)てむ 泊(トマリ)知らずも 』
歌意、「照る月を雲よ隠さないでくれ、私の乗った舟を島かげにとめるのに、暗くて船着き場が分からなくなるではないか」
* * *
春日蔵首老の生没年は定かでない。
何分、千三百年ばかりも前の時代の人であり、春日蔵首老に限らず王家や有力貴族に繋がる人以外の消息は極めて希薄である。
伝えられている資料から僅かな足跡を辿ってみると、
大宝元年(701)三月に、朝廷の命により還俗し、春日蔵首の姓と老の名を賜る。出家時代の名前は弁基(弁紀とも)である。
和銅七年(714)一月、正六位上より従五位下に上る。
年月は不明であるが、従五位下常陸介五十二歳とあり、この頃に没したらしい。
常陸国は数少ない風土記が伝えられている国であるが、風土記の編纂が始まったのは和銅六年(713)頃で完成は養老五年(721)前後らしい。万葉集に和歌を残すほどであるから、春日蔵首老もこの編纂に何らかの形で関わったと考えられる。
これらから大胆に生没年を推定すると、生年は670年前後、没年は西暦720年前後となる。前後数年の誤差は当然考えられるが、生まれたのが天武元年(672)の壬申の乱前後ということになり、没したのが元正天皇か聖武天皇の御代となる。
いずれにしても飛鳥から奈良へと王朝が激しく動いていた時代を下級官僚として生きた人といえる。
また、この推定に従えば、朝廷の命により還俗した時には、すでに三十歳前後になっていたことになる。弁基という法名の歌が万葉集に採用されていることから、すでに歌人としての才能は広く知られていたらしい。当時の歌人としての高名は、歌の上手ということだけではなく、教養人としても評価を受けていたはずである。それだからこそ、朝廷は、わざわざ還俗させてまで官領として採用したのである。
また、下級官僚といっても、歴史上に登場する人物の多くが王族や公卿が多いからであって、最終官位である従五位下常陸介は貴族にあたる地位である。常陸国の副知事といった立場と考えられるが、常陸国は大国であり、並の国なら知事(守)になれたはずである。
冒頭の作品は、「大宝元年辛丑の秋九月に、太上天皇の紀伊国に幸(イデマ)しし時の歌」として三首挙げられている中の一つである。
まず、『 巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲(シノ)はな 巨勢の春野を 』という歌があり、その作者として、「右の一首は坂門人足」とある。
そして、一つおいて、「或る本の歌」として冒頭歌が挙げられていて、その作者として「右の一首は春日蔵首老」とある。
椿は春の花なので、秋九月に詠んだと思われる坂門人足は春の風景を思い浮かべながら詠んだもので、おそらく春日蔵首老の作品は、すでに宮中辺りでは広く知られていたのではないだろうか。
つまり、全国津々浦々というわけではないが、宮中辺りでは優れた作品は広く流布していたものと思われるのである。
春日蔵首老の万葉集に載せられている歌は、異説もある二首も含めて、現代人が見ても理解しやすい作品ばかりである。
旅にまつわるものが多いが、「妹」「児ら」といった妻なり想い人なりに対する優しさが伝わってくる作品もある。
万葉集には、代表歌人と呼ばれるような人物も何人かいるが、それほど知られていなくても冒頭歌のような素晴らしい作品を詠む人物がいたと思うと、当時の人々の心の豊かさが伝わってくるような気がするのである。
( 完 )