雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  つらつら椿

2013-12-28 08:00:07 | 運命紀行
          運命紀行
               つらつら椿

『 河の辺(ヘ)の つらつら椿 つらつらに 
          見れども飽かず 巨勢(コセ)の春野は 』

これは、万葉集第一巻の五十六に載せられている春日蔵首老(カスガノクラノオビトオユ)の歌である。
おおよその歌意は、「川のほとりにあるたくさん連なった椿は、それぞれがたくさんの花を咲かせている。その見事な花は、いくら見ていても飽くことがない。ほんとうに巨勢の春野の眺めは素晴らしい」といったもので、眼前に広がる春の風景を素直に詠んだものと思われる。
なお、「つらつら椿」とは「連なって生えている椿、あるいは、連なって咲いている花の様」。また、「巨勢」は現在の奈良県御所市あたりの地名。

春日蔵首老は、万葉集の中に八首の和歌を残している。そのうちの最後の二首、「春日の歌」と「春日蔵の歌」と記されているものについては、春日蔵首老の作品か否かについて諸説ある。
以下に残りの七首の和歌の紹介と大まかな歌意を付けさせていただく。

「三野連(ミノノムラジ)唐(モロコシ)に入りし時に、春日蔵首老の作れる歌」
『 ありねよし 対馬の渡り 海中(ワタナカ)に 幣(ヌサ)取り向けて 早帰り来(コ)ね 』

歌意、「対馬の渡りの海中に、幣を捧げて航海の安全を祈り、早く無事で帰ってきてください」
なお、「ありねよし」は対馬にかかる枕詞。

「春日蔵首老の歌一首」
『 つのさはふ 磐余(イハレ)も過ぎず 泊瀬山(ハツセヤマ) 何時かも越えむ 夜は更けにつつ 』

歌意、「まだ磐余の地も過ぎていない。泊瀬山をいつ越えることが出来るのだろう。もう夜は更けてきたというのに」
なお、「つのさはふ」は磐余にかかる枕詞。「泊瀬山」は大和朝廷の所在地にある山で聖地とされていた。

「春日蔵首老の歌一首」
『 焼津辺(ヤキツヘ)に わが行きしかば 駿河なる 阿倍の市道(イチヂ)に 逢ひし児らはも 』
歌意、「焼津あたりに行った時、阿倍の町で逢ったあの子よ、今はどうしているだろうか」
なお、「児ら」の「ら」は、複数を表わすものではなく、親愛を表す。「はも」は、詠嘆を表す終助詞。

「春日蔵首老の即ち和(コタ)へたる歌一首」
『 宜(ヨロ)しなへ わが背の君の 負ひ来にし この勢(セ)の山を 妹(イモ)とは呼ばじ 』

歌意、「結構なことに、私の妻と同じ『せ』という名を持っているこの山を、今さら『妹山』とは呼びませんよ」
なお、この歌は、「丹比真人笠麿の紀伊国に往きて勢の山を超えし時に作れる歌一首」として、『 栲領布(タクヒレ)の 懸けまく欲しき 妹の名を この勢の山に 懸けばいかにあらむ 』という歌に即座に答えた歌とされる。
二人は親交があったらしく、「あなたの恋しい妻の名と同じ名前の山なので、妹山(恋しい人という山)と呼べばいかが」と、からかったものらしい。なお、栲領布は襟飾りの一種。妹は、妻・恋人などを指す。

「弁基の歌一首」
『 真土山 夕越え行きて 廬前(イホサキ)の 角太河原に 独りかも寝む 』
歌意、「真土山を夕方に越えて行った。今夜は、廬前の角太(スミタ)河原で独り野宿することになるだろう」
なお、真土山は、大和と紀伊の境をなす山である。角太は、紀の川。

「春日の歌一首」
『 三川(ミツカワ)の 淵瀬もおちず 小網(サデ)さすに 衣手濡れぬ 干す児は無しに 』
歌意、「三川の淵にも瀬にも、くまなく網を差しているうちに、衣が濡れてしまった。乾かしてくれる人はいないというのに」
なお、三川の場所は不明で、したがって詠まれた場所も不明である。

「春日蔵の歌一首」
『 照る月を 雲な隠しそ 島かげに わが船泊(ハ)てむ 泊(トマリ)知らずも 』
歌意、「照る月を雲よ隠さないでくれ、私の乗った舟を島かげにとめるのに、暗くて船着き場が分からなくなるではないか」


     * * *

春日蔵首老の生没年は定かでない。
何分、千三百年ばかりも前の時代の人であり、春日蔵首老に限らず王家や有力貴族に繋がる人以外の消息は極めて希薄である。

伝えられている資料から僅かな足跡を辿ってみると、
大宝元年(701)三月に、朝廷の命により還俗し、春日蔵首の姓と老の名を賜る。出家時代の名前は弁基(弁紀とも)である。
和銅七年(714)一月、正六位上より従五位下に上る。
年月は不明であるが、従五位下常陸介五十二歳とあり、この頃に没したらしい。
常陸国は数少ない風土記が伝えられている国であるが、風土記の編纂が始まったのは和銅六年(713)頃で完成は養老五年(721)前後らしい。万葉集に和歌を残すほどであるから、春日蔵首老もこの編纂に何らかの形で関わったと考えられる。

これらから大胆に生没年を推定すると、生年は670年前後、没年は西暦720年前後となる。前後数年の誤差は当然考えられるが、生まれたのが天武元年(672)の壬申の乱前後ということになり、没したのが元正天皇か聖武天皇の御代となる。
いずれにしても飛鳥から奈良へと王朝が激しく動いていた時代を下級官僚として生きた人といえる。
また、この推定に従えば、朝廷の命により還俗した時には、すでに三十歳前後になっていたことになる。弁基という法名の歌が万葉集に採用されていることから、すでに歌人としての才能は広く知られていたらしい。当時の歌人としての高名は、歌の上手ということだけではなく、教養人としても評価を受けていたはずである。それだからこそ、朝廷は、わざわざ還俗させてまで官領として採用したのである。

また、下級官僚といっても、歴史上に登場する人物の多くが王族や公卿が多いからであって、最終官位である従五位下常陸介は貴族にあたる地位である。常陸国の副知事といった立場と考えられるが、常陸国は大国であり、並の国なら知事(守)になれたはずである。

冒頭の作品は、「大宝元年辛丑の秋九月に、太上天皇の紀伊国に幸(イデマ)しし時の歌」として三首挙げられている中の一つである。
まず、『 巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲(シノ)はな 巨勢の春野を 』という歌があり、その作者として、「右の一首は坂門人足」とある。
そして、一つおいて、「或る本の歌」として冒頭歌が挙げられていて、その作者として「右の一首は春日蔵首老」とある。

椿は春の花なので、秋九月に詠んだと思われる坂門人足は春の風景を思い浮かべながら詠んだもので、おそらく春日蔵首老の作品は、すでに宮中辺りでは広く知られていたのではないだろうか。
つまり、全国津々浦々というわけではないが、宮中辺りでは優れた作品は広く流布していたものと思われるのである。

春日蔵首老の万葉集に載せられている歌は、異説もある二首も含めて、現代人が見ても理解しやすい作品ばかりである。
旅にまつわるものが多いが、「妹」「児ら」といった妻なり想い人なりに対する優しさが伝わってくる作品もある。
万葉集には、代表歌人と呼ばれるような人物も何人かいるが、それほど知られていなくても冒頭歌のような素晴らしい作品を詠む人物がいたと思うと、当時の人々の心の豊かさが伝わってくるような気がするのである。

                                 ( 完 )




      
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もっと陽気に ・ 心の花園 ( 52 )

2013-12-25 08:00:04 | 心の花園
          心の花園 ( 52 )
               もっと陽気に

クリスマスだとかで街は賑やかな雰囲気に包まれています。
年の瀬にかけては、何となく慌ただしく、むりやり賑わいを演出しているようにも見えます。
クリスチャンでもないし、正月といっても今さらねぇ・・、と仰るあなた、まあ、一年の締めくくりの時でもありますから、あまり堅苦しく考えないで、もう少し陽気にはしゃいでみませんか。

心の花園には、『金魚草』が華やかな姿を見せてくれています。
その名前の通り、一つ一つの花は、よく見てみますと金魚の口のようですし、風にゆれる姿は金魚が泳いでいるように見えることからこの名前が付けられました。
もっとも、私たちには可憐な金魚が泳いでいるように見えるのですが、お国によっては、「鼻に似た花」とか、「龍の頭」といった意味の名前も付けられていますから、人の感性は様々ということが出来ます。

『金魚草』の原産地は南ヨーロッパから北アフリカにかけての地中海沿岸地方です。わが国には江戸時代に入って来ましたが、今では園芸種として欠かせない存在となっています。
もともとは多年草ですが、わが国の園芸種は一年草扱いになっていますが、年を越させることはそれほど難しくないようです。
花色は、赤・桃・黄・橙・白や複色のものなど実に豊富で、背丈もバラエティに富んでいます。花の時期も、本来は春から初夏にかけてですが、種類にもよりますが、ほとんど年中可憐な姿を見ることが出来ます。

『金魚草』の花言葉は、『おしゃべり』そして『出しゃばり』というのもあります。
年の瀬を、一年を振り返ってしんみりするのもいいのでしょうが、今年は、出しゃばりといわれるほど前に出て、もっと陽気に過ごしてみましょうよ。


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運命紀行   最北の地を追われても

2013-12-16 08:00:17 | 運命紀行
          運命紀行
               最北の地を追われても

辰姫が北政所ねねの養女となったのは、稀代の英雄豊臣秀吉が没して間もない頃のことである。
秀吉が死去したのは、慶長三年(1598)八月十八日のことであるから、おそらく慶長三年の内と思われる。

辰姫は、天正二十年(1592)の生まれとされているので、ねねの養女になったのは七歳の頃と考えられる。
父は石田三成、母は正室皎月院で三女にあたる。
この養子縁組が実現した背景ついてはよく分からない。
三成は少年の頃から秀吉に仕えているので、ねねには家族的な面でも可愛がられていたと考えられ、実子のいないねねが望んだ可能性もあるが、すでに豊臣家には秀頼という後継者がいたので、秀吉存命中にはとても考えられないことである。

それでは、やはり三成が望んだということになるが、それも秀吉存命中には難しい問題が多過ぎることから、秀吉死去後に慌ただしく進められた話のように思われる。
秀吉が死去した後、ねねは淀殿と共に秀頼の貢献にあたっていて、大坂城を退去するのは一周忌を終えた後の翌年九月のことであるが、辰姫を養女に迎える時点では、大坂城を去る決意を固めていたと思われる。
三成にすれば、武断派と呼ばれる秀吉恩顧の有力武将との仲は極めて悪く、秀吉が亡くなればいつ命を狙われておかしくない状況なっており、その武将たちが慕っている北政所ねねは、何としても味方につけておきたい人物であったことは確かである。

慶長四年九月、大坂城を退去したねねは、京都の太閤屋敷に移った。
この屋敷は、生前秀吉が急いで建設させた屋敷であるが住いとすることはなかった。
ねねは、側近の孝蔵主をはじめとした侍女などを連れて大坂を離れたが、養女となっていた辰姫も同行していたものと考えられる。
なお、大坂を離れたねねは、京都三本木辺りに隠棲したという話もあるが、ねねを慕う武将は多く豊臣政権にとってまだまだ大きな影響力を持っていたねねが、隠棲生活に入ったというのはいささか不自然である。

ねねが移った太閤屋敷は、その後高台院屋敷と呼ばれることになるが、堀を有した城郭に近いものであったらしい。
東西の衝突が避け難くなった頃、その城門や堀を撤去しているが、それはねねの意思によるものらしく、城郭とみられ戦乱に巻き込まれることを避けるためであったらしい。
その頃のねねの立場は、非常に微妙なものであった。
武断派と呼ばれる秀吉恩顧の武将たちはいずれもねねを慕っており、家康もまたねねを丁重に扱っていた。そのため、淀殿と対立したねねは東軍びいきとみられることが多いようであるが、単純に判断することは出来ない。
石田三成はじめ文治派と呼ばれる武将たちも、秀吉に可愛がられていた武将たちであり、ねねとの関係が悪かったわけではない。
また、淀殿との関係を極めて悪かったように伝えられることも多いが、現代人の感覚で正室と側室の関係を見るのは正しくないし、第一、夫と築き上げてきた豊臣の家をねねがそうそう簡単に見捨てられるものではないはずである。

そして何よりも、石田三成との関係は、養女を迎えるほどであるから悪い関係であるはずがない。さらに、ねねの側近である孝蔵主は、石田氏とは縁戚にあたる女性なのである。
孝蔵主は、秀吉存命中から北政所ねねの執事といった立場にある女性であった。蒲生氏家臣の川副勝重の娘であるが、伊達政宗に対する詰問や、関白秀次への謀反の疑いに関する使者など、重要な役目を担っていて、「表のことは浅野長政、奥のことは孝蔵主」と言われたほどの器量の持ち主なのである。

さて、関ヶ原の戦いにおいて西軍が大敗を喫した後、ねねの養女とはいえ三成の三女である辰姫も決して身の安全が保障されていなかったはずである。
その後の動向については、引き続きねねの保護下にあったという説と、秀頼の小姓として仕えていた陸奥弘前藩主津軽為信の嫡男信建(ノブタケ)に助けられて津軽に逃れた次兄の重成と行動を共にしていたとも伝えられている。
どちらが真実が決めかねるが、辰姫の身を守るため故意に幾つかの噂が流された可能性も考えられる。

いずれかの形で身を隠していた辰姫は、慶長十五年(1610)の頃、津軽信枚(ノブヒラ)に嫁いだ。辰姫十九歳の頃のことで、当時の女性としてはむしろ遅い結婚である。すでに高台院となっていたねねの養女としての嫁入りと思われるが、辰姫を嫁がせるには相応の時間を必要としたのかもしれない。
津軽信枚は、弘前藩主津軽為信の三男で、前述の信建の弟で辰姫より六歳年上であった。
関ヶ原の戦いにおいて津軽家は、藩主と三男は東軍に付き、嫡男は秀頼の小姓をしていたこともあって西軍方に付いていた。真田家などと同様に、御家を守るために両軍に別れたともいわれているが、敗軍となった嫡男信建は同じく秀頼の小姓であった石田重成らを助けて、津軽に逃げ帰っている。
その後も、信建は独立した家臣団を有していたようで、江戸幕府の許しを得た上と思われるが、ほどなく上洛し弘前藩の外交面を担っていたようである。

しかし、信建は慶長十二年(1607)十月十三日に三十四歳で死去しており、藩主である父為信も同年十二月五日と相次いで亡くなったのである。
次男の信堅はすでに十年ほど前に亡くなっており、三男の信枚が家督を継ぐことになった。
この家督相続の御礼言上に江戸に参府した折に、信枚は天海僧正と出会い、その弟子となって天台宗に帰依している。かつては兄弟ともキリシタンであったようであるが、このあと藩内に天海の弟子を迎えたり天台宗の寺院を建立するなど布教に務めている。

慶長十三年、といっても信枚が家督を継いだ直後のことであるが、長兄信建の遺児熊千代を擁立しようとする一派との対立が表面化し、御家騒動に発展する。一時は、津軽家の弘前藩取り潰しという危機に瀕したが、多くの犠牲を出しながら信枚が藩主の座を固めることが出来たのには、天海の支援があったと想像される。
辰姫を正室として迎えたのは、これらの騒動が解決した後のことである。
弘前城が完成したのが慶長十六年(1611)のことであるから、辰姫は新装なった弘前城に正室として入ったのであろう。

関ヶ原の戦いの後も高台院ねねの保護を受けていたとすれば、陸奥弘前の地はいかにも遠い最北の地であったことであろう。
しかし、二人の仲はとても睦まじいものであったらしい。
信枚と父為信は関ヶ原の戦いにおいては東軍に属していたが、石田三成に憎悪を感じるような戦いをしたわけではなく、また津軽家は豊臣家とは親しい関係にもあったことから、三成の遺児である辰姫に暖かい気持ちで接したのかもしれない。
辰姫も、最北の地とはいえ、むしろ上方を遠く離れることによって、安住の地を得た思いであったかもしれない。

しかし、弘前城も辰姫の安住の地とはならなかった。
慶長十八年(1613)、外部からの攻撃に備えて、本州最北部の弘前藩を重視した幕府は、津軽家を徳川体制により強く組み込む政策として、徳川の姫の降嫁を決定した。これには、津軽家の安泰のためも考えた天海の進言があったともいわれる。
花嫁に選ばれたのは、徳川家康の養女満天姫である。この姫は、秀吉死去直後に家康が進めた婚姻政策の一つとして福島正則の養嫡子正之に嫁いでいた姫で、この姫もまた歴史の波に翻弄されて徳川家に戻っていたのである。

満天姫を迎えた信枚は、幕府を憚って正室として迎えることとして、辰姫は側室に降格されることになった。
そして、決して追い出されるという形ではなかったのであろうが、辰姫は弘前城を離れることになるのである。
安住の地と思った弘前での生活はおそらく二年程ではなかったろうか。僅かな供に守られて、弘前城を出立する辰姫の心境はどのようなものであったのか。


     * * *

辰姫が向かった先は、上野国の大舘であった。
この地は、津軽家が関ヶ原の戦いにおける恩賞として与えられた二千石の領地であった。
東軍に与した外様大名の恩賞としては極めて少ないが、それは、嫡男が秀頼の小姓であったとはいえ西軍に与しており、一家を東西に分けて行き残りを図ったとみられたようである。

大舘に移された辰姫ではあるが、粗略な扱いを受けることはなく、大舘御前と称せられ、藩主夫人として遇せられたようである。夫の信枚も、参勤交代など江戸と行き来する時には必ず大舘に立ち寄り、ひとときを過ごすのを常としていたという。
そして、元和五年(1619)、信枚の長男となる平蔵(のちの信義)を出産したのである。
しかし、辰姫は、四年後の元和九年に三十二歳で亡くなった。
波乱の生涯の中で我が子を得た喜びの中とはいえ、若すぎる死であった。

辰姫の生涯を尋ねる過程で不思議に感じたことがある。
関ヶ原の戦いの西軍の実質的な大将ともいえる石田三成の子孫は、さぞかし厳しい処断がなされたのではないかと漠然と思っていたのだが、厳しいものとはいえ、それぞれの生涯を全うしているように見えるのである
徳川幕府にとって、石田一族となれば、たとえ女性であっても決して安心できる存在ではなかったと思われるが、子供たちに対する対処は何かほっとさせてくれるもののように思われるのである。

三成の子供の数には諸説があるようであるが、正室の子供である三男三女について紹介しておきたい。
長男重家は、関ヶ原の戦い時は十八歳の頃である。
三成の盟友となる大谷吉継からは、家康の上杉討伐軍に加わることを進められていたが、準備が遅れ豊臣家への人質として大坂城に留め置かれたという。この頃三成は領国に謹慎していたが、豊臣家との関係は人質を必要とするものであったらしい。
重家は、西軍大敗の報を知ると密かに大坂城を脱出して、京都妙心寺の塔頭寿聖院に入り剃髪、仏門に入り諸説あるも百四歳までの生涯を全うしたという。

次男重蔵は、関ヶ原の戦いを十二歳の頃に迎えている。
秀頼の小姓であった重蔵は、津軽信建の支援を受けて津軽に逃れている。
その後、杉山源吾と名乗り、津軽家の保護下で隠棲生活を送り慶長十五年(1610)に没したとも、その後津軽の地を離れ、藤堂高虎に仕え、寛永十八年(1641)に五十三歳で没したともいわれている。この説に従えば、杉山源吾の長男吉成は、弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職となり、子孫の杉山氏は弘前藩重臣として続いたという。

三男佐吉は、佐和山城にいたが、まだ五、六歳の頃であったと考えられる。
三成の居城佐和山城は、三成の兄正澄と父正継らが守っていたが、関ヶ原で西軍が破れた後東軍の大軍に包囲された。
この時開城の交渉に立ったのは、津田清幽という人物である。この人は、織田一族ともいわれ、最初信長に仕えていたが十八歳の頃に故あって浪人し、その後岡崎に行き家康に十年ばかり仕えた。その後に再び信長に仕え、本能寺の変の後には再び浪人となり、また家康に出会い、その斡旋で堺奉行をしていた石田正澄に仕えるようになっていた。
この時の攻防戦でも小早川隊などと激しい戦闘を繰り広げたが、西軍大敗を伝えられ、正澄が自刃すればその他の全員を助命する条件で開城交渉役となったのである。
ところが、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切って小早川秀秋や田中吉政らの軍勢を城内に引き入れたため、正澄や正継らが自刃するという悲劇が起こってしまった。
これに激怒した津田清幽は、脇坂隊の旗奉行を人質として、佐吉ら少年十人ばかりを連れて敵陣の真っ只中を突っ切って家康に違約を責め、その他の将兵たちの助命を約束させたという。
佐吉は、高野山に送られ、父三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家している。

長女の某は、石田家家臣山田隼人正に嫁いでいた。
家康の側室茶阿の局が隼人正の叔母にあたることから、石田家崩壊後その縁から、松平忠輝に二万五千石という大碌で仕えている。忠輝が改易された後は、津軽藩から助けを受け、江戸で余生を送り子孫は津軽藩士になったともいわれている。

次女の某は、蒲生家家臣の岡重政に嫁いでいたが、重政が御家騒動に関与して切腹処分となると会津を離れ、後に若狭に住み小浜で没したという。子の岡吉右衛門の娘は、三代将軍家光の側室お振の方となり、家光の長女千代姫を産んでいる。千代姫は、尾張徳川家に輿入れし血縁を繋いでいる。

そして三女が辰姫である。
関ヶ原の合戦で敗れ、何かと悪役扱いされがちな石田三成であるが、その子供たちのその後の生涯は、誇り高い父の遺志をついで、胸を張って生きていたように思われるのである。

さて、辰姫の忘れ形見である幼い平蔵は、江戸藩邸に引き取られて育てられた。
そして、満天姫にも男児が誕生していたが、信枚の強い願いによって平蔵が三代藩主に就くのである。
遥々と北の果ての地に輿入れし、その地からも追われた辰姫ではあるが、その子が三代藩主に就いたことで何か嬉しくなってしまうのである。

                                   ( 完 )


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運命紀行  豊臣から徳川へ

2013-12-10 08:00:25 | 運命紀行
          運命紀行
               豊臣から徳川へ

慶長三年(1598) 、稀代の英雄豊臣秀吉が没すると時代は再び激しく動き出す。
その渦中の中心人物である徳川家康は、秀吉の残した法度を無視して、秀吉恩顧の有力大名に対して婚姻による自陣営への抱き込みを画策していった。
当然その対象となるのは、豊臣政権の在り方にいささか不満を抱いていて、且つ実力を有している大名を狙い撃ちにしたことは当然のことである。

その大名とは、次の五人である。
伊達政宗は、奥羽の雄藩である。関東を拠点とする家康にとって敵にすれば背後を襲われる可能性があり、何としても味方につけたい人物である。
福島正則は、小姓の頃から秀吉に仕え、秀吉夫人ねねと縁戚関係でもあり、味方にすることが出来れば、秀吉恩顧の大名を引きこむ大きな力になるはずである。
加藤清正も正則と同様で、この二人が関ヶ原の戦いにおいて東軍につくこと自体が、豊臣政権の脆弱さの証左ともいえよう。
黒田長政は、秀吉の軍師として名高い黒田孝高(官兵衛)の嫡男である。この頃孝高は隠居して九州にあったが、それは自分の器量を秀吉にうとまれることを恐れてのことであって、実際に関ヶ原の戦いが勃発すると、加藤清正らとともに九州を席巻するほどの勢いを見せているのである。ぜひ味方にしたい大名であった。
そしてもう一人が、本稿の主人公蜂須賀家政である。

もちろん、家康が婚姻政策で懐柔を計ろうとした相手はこの五人に限ったことではなく、たまたまこの五人が実現しただけだといえないこともないが、豊臣政権の在り方に不満を抱いている武将たちの中から、まことに適切かつ強力な人物を選んだものと感心させられる。
その中で、一見した場合、領地の大きさやカリスマ性において、蜂須賀家政はやや小ぶりのように見えてしまう。家康が、ぜひ味方につけたいという魅力はどのあたりにあったのだろうか。

蜂須賀家政は、永禄元年(1558)に蜂須賀正勝の嫡男として誕生した。
家康よりは十六歳年下であるが、秀吉死去の時点では四十一歳になっていて、五人の中ではもっとも年長なのである。つまり、家康は、家政をすでに一流の武将とみた上で積極的な働きかけを行っているのである。

家政の父正勝は、蜂須賀小六という名前の方がよく知られている。
秀吉が出世の糸口をつかんだとされる、墨俣城の築城に前野将右衛門と共に協力した人物で、織田信長はともかく、秀吉にとって最も重要な人物の一人として挙げることができよう。
小六は、大永六年(1526)尾張国海東郡蜂須賀あたりに勢力を持つ国人城主正利の長男として生まれている。城主といっても、現存するような城とは似ても似つかぬ少し大きな屋敷か砦程度のものであったと思われるが、歴とした豪族の出身である。

父の死後母の故郷である丹羽郡に移り、やがて、川並衆を率いて水運を家業とし、地理的な知識や人脈を通じて、美濃の斎藤道三、尾張岩倉の織田信賢、尾張犬山の織田信清などに仕えたこともあるらしい。
秀吉との出会いについては諸説あるが、かつては名場面とされた、秀吉が矢矧川の橋の上で寝ている時に野武士(野盗)の大将小六と出会うという説があるが、これは、当時矢矧川には橋は架けられておらず、史実としては否定されている。
小六は秀吉より十一歳年上であるが、出会ったのが秀吉が十代の頃だとすれば、一時秀吉が小六に仕えていたという方が正しいように思われる。

蜂須賀氏は、秀吉の側室とされる吉乃の実家生駒氏とは姻戚関係にあり、また商売上の関わりもあったようで、その関係から秀吉は生駒屋敷に出入りするようになり、織田信長に仕えるようになるのも、吉乃の口添えがあったからだとも伝えられている。
秀吉は、信長に小者として仕えるようになると、その天分と努力によって大きく羽ばたいていく。
信長が美濃国の攻略を進めている頃は、おそらく小六は、秀吉の力強い援軍か客将のような関係だったとおわれるが、浅井氏を攻略し、秀吉が長浜城主に出世した頃には、その与力、あるいはすでに家臣といった立場になっていたようである。

その後は秀吉に属して各地を転戦、天正五年(1577)に始まる中国攻めにも加わり、播磨三木城、因幡鳥取城攻撃でも武功を挙げ、その功により播磨龍野五万三千石が与えられている。
ただこの恩賞は、もちろん秀吉の進言あってのことであろうが、信長から与えられたものと考えられる。
天正十年(1582)の本能寺の変の際には、攻撃中の備中高松城の開城に黒田孝高らと共に尽力し、あの中国大返しを成功させ、秀吉を天下人へと上らせるきっかけを作った。

天正十二年(1584)の秀吉と家康のただ一度の戦いである小牧・長久手の戦いにも従軍し、翌天正十三年の四国攻めにも参加し、戦後処理を行うなど際立った働きを見せている。
この功により、長宗我部元親への備えの意味もあって、阿波一国が与えられることになったが、小六は、秀吉の側近く仕えたいと申し入れこれを辞退した。秀吉はその心意気を受け取り、嫡男の蜂須賀家政に阿波一国を与えている。

天正十五年五月、小六は大坂城外の自邸で没した。享年六十一歳である。秀吉がもっとも輝いている頃に世を去ったことになる。
蜂須賀小六といえば、野武士的な印象が強く伝えられているためか、荒武者のような風貌をイメージする。しかし、その働きぶりは、槍一筋といった武者働きよりも、軍師的な働きに才能を見せ、実際に調略や民生面での成果が大きい。
秀吉の軍師といえば、「両兵衛」と呼ばれるように、竹中半兵衛(重治)・黒田官兵衛(孝高)が名高いは、小六はこの二人より前から秀吉の軍師的な地位にあったのである。
美濃攻め、中国攻め、四国攻めなどにおいても小六は相当の働きをしているが、半兵衛や官兵衛の作戦などの立案に、先輩顔など見せず従ったという。


     * * *

さて、父小六に代わり阿波一国を与えられた家政は、この時二十九歳である。
家政は、永禄元年(1558)に小六の長男として誕生した。小六はすでに川並衆の棟梁として頭角を現していたと思われる。
秀吉を支援した墨俣城築城の頃は家政はまだ九歳の頃であるが、当時のことであるから、この前後の早くから父と共に行動していたと考えられる。

中国路の雄毛利氏との戦いには、父と共に従軍しており、信長が倒れた後も父と共に秀吉に従い、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦にも参加している。
天正十二年(1584)には、播磨佐用郡に三千石の所領を得ているので、すでに単に父に属しているだけではなく、一軍を率いる器量を供えていたのであろう。
そして、天正十四年(1586)に父の代わりということで、阿波一国十八万石が与えられ、大名の仲間入りをしたのである。

蜂須賀家政は、父が軍師的な働きを得意としていたのに比べ、武者働きを得意とした勇将であったらしい。
しかし、阿波一国を与えられ十八万石の大名となると、内政面でも非凡なところを見せている。
最初は一宮城に入ったが、その後徳島城を築いた。一説によれば、この城の完成を祝って、住民たちに自由に踊るよう触れを出したのが現在に伝えられる「阿波踊り」だといわれている。
藩主の命令で祝いの踊りをさせることは簡単なことであるが、それが長年に渡って伝えられるということは、安定した治世が実施されることが絶対の条件である。

父が死去した後は、名実共に蜂須賀家の当主として秀吉に仕え、九州征伐、小田原征伐にも出陣し、文禄元年(1592)から始まる朝鮮の役では、二度とも出陣し活躍するも、戦線を縮小を唱える石田三成らと対立し、戦闘行為を非難され蔵入り地を没収されるなどの処分を受けている。
それとは反対に、共に異国での厳しい戦線を戦い抜いた福島正則や加藤清正などとは信頼関係を築いていった。
そして、秀吉が死に前田利家が没すると、家康の台頭が目立ち始め、東西の対立が激しくなっていった。
家政が武断派として行動し、家康に味方する形になっていったのは、その人脈を考えれば当然の選択ともいえる。
そして、家康は天下掌握の重要な施策として婚姻関係による自陣営の勢力拡大に務めて行った。

家政は、家康の誘いに乗って、徳川家の重臣小笠原秀政の娘氏姫を、家康の養女として嫡男至鎮(ヨシシゲ)の正室に迎えることを決断する。
この決断の理由としては幾つかのことが考えられる。
まず家康の実力が傑出していたことがある。豊臣に対する恩義を感じながらも、蜂須賀家の存続繁栄を考えれば、家康の申し出を無視することは出来なかっただろう。
また、大坂方と関東方といった対立が表面化してきていたが、その大坂方というのは、豊臣秀頼が盟主というのは名ばかりで、石田三成を筆頭とするいわゆる文治派が牛耳っていることは明らかで、家政に限らず秀吉恩顧とされる多くの有力武将が家康のもとに集まったのである。

それともう一つ、これは個人的な考えであるが、家政が豊臣への恩義よりも自家の安泰を模索したのには、秀吉の父小六に対する処遇に必ずしも満足していなかったのではないかと思うのである。
家政は、若い頃から、というよりまだ少年の頃から父小六と秀吉の関係をつぶさに見てきているはずである。
その過程において、秀吉の器量の大きさを最大限認めるとしても、秀吉の出世の糸口を作った功労者であり、軍師的立場で支え続けた父小六に対する秀吉の評価が、竹中半兵衛や黒田官兵衛より低く見られていたと思っていたのではないだろうか。
それに、小六と同じように最初から秀吉を支えてきた前野将右衛門が豊臣秀次の失脚に連座して切腹させられていることも、家政の心のどこかに引っかかっていたように思われてならないのである。

嫡男至鎮の正室に迎えた氏姫は、家康の養女とはいえ、その母は家康嫡男で悲劇の最期を遂げた信康の娘登久姫であり、徳川家にとって重要な姫なのである。
しかし、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにおいては、大坂にいた家政はあまりに徳川に近いため、大坂方に糾弾され高野山に追放されるという目にあっている。ただ、嫡男至鎮は家康の上杉討伐軍に加わっており、そのまま関ヶ原の本戦で東軍として戦っている。
これにより、蜂須賀家の所領は安堵されたが、家政は家督を至鎮に譲り隠居した。

慶長十九年(1614)の大坂冬の陣では、家政は豊臣方から誘いをかけられているが、「自分は無二の関東方である」として拒絶し、駿府城の家康を訪ねて豊臣方からの密書を提出している。
至鎮は、冬・夏の両陣ともに活躍し、戦後に淡路国を与えられ、二十五万七千石に加増されている。
至鎮は、家政から家督を継いだ時はまだ十五歳であったが、大坂の陣での活躍ばかりでなく、塩田の開発など内政面でも優れた業績を残し名君として領民に慕われていたという。
しかし、元和六年(1620)、三十五歳の若さで世を去った。

跡を継いだ嫡男忠英(タダテル)は、まだ十歳であったが、この家督相続が認められた背景には、至鎮の正室である氏姫の存在があったかもしれない。
幕府は、家政に後見させることで徳島藩の存続を認め、家政は、嫡孫忠英が成人する寛永六年(1629)まで藩政を取り仕切った。それは内政に限らず、戦国以来の長老として、三代将軍家光の御伽衆として出仕するなど藩の基礎を築き上げ、途中養子を迎えるなどしているが幕末まで阿波徳島蜂須賀藩を存続させたのである。

豊臣から徳川へと権力が移行する難しい時代を生き抜いた蜂須賀家にとって、氏姫という徳川将軍家との繋がりは有力な武器となったと思われるが、しかし、蜂須賀家と同じ頃に徳川家と姻戚関係を結んだ他家のうち、伊達家と黒田家は幕末まで繁栄を続けたが、福島家と加藤家は断絶に追い込まれているのである。
その事実を考え合わせれば、阿波徳島蜂須賀藩の基礎を築いた藩祖家政の器量と腐心は一段と輝いて見えるのである。

     * * *


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運命紀行  宿敵の姫

2013-12-04 08:00:43 | 運命紀行
          運命紀行
               宿敵の姫

戦国時代を代表する好敵手といえば、やはり、武田信玄と上杉謙信が一番手に挙げられるのではないだろうか。
甲斐と越後を本拠として、信濃などの争奪をめぐって激しい戦いを繰り返している。あの有名な川中島の戦いでも五回に及び十二年間に渡って繰り広げられているのである。また、好敵手といえば聞こえはよいが、長年にわたる戦乱は、両家ともに多くの死傷者を出していて相手を憎む気持ちは尋常なものではない。
そうした中で、信玄・謙信という両雄が没した後とはいえ、宿敵ともいえる家同士の婚姻は、同盟という名のもとであったとしても、嫁ぐ方も迎える方もそれなりの軋轢があったものと考えられる。
その難しい中を花嫁として嫁いでいった女性が菊姫である。

菊姫は、永禄六年(1563)、武田信玄の六女として誕生した。信玄が四十三歳の時の誕生で、没する十年前のことである。
母は、油川夫人である。油川氏は武田氏の支流にあたる。同母の兄には、後の仁科盛信・葛山信貞がおり、姉には、松姫がいる。なお、木曽義昌に嫁いだ真理姫も同母姉の可能性が高い。
松姫は、本稿ですでに紹介させていただいているが(荒波の陰で)、後の信松尼で波乱の生涯を逞しく生き抜いた女性である。

信玄没した後の武田家は、国力に陰りが見られるようになっていった。後継者の武田勝頼が、特別凡庸であったわけではないと思われるが、何分信玄という傑物の後となれば線の細さはどうすることも出来なかった。
天正三年(1575)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、勢力の衰退は明らかになり、長年の宿敵である越後の上杉氏と同盟を結ぶことで打開を図ろうとした。
信長の台頭に危機感を抱いていたのは上杉氏とて同じで、両家は積年の恨みを押さえて同盟に至った。
ただ、武田氏にとってまことに不運であったのは、上杉謙信という信玄と長年戦ってきた英雄が、天正六年(1578)に四十九歳で急死したことであった。今しばらく謙信が健在で、強力な越後軍が武田氏を支援していれば、武田家のその後は違う展開を見せていたかもしれない。

菊姫が甲越同盟の証として上杉景勝のもとに嫁いだのは、謙信が没した翌年の天正七年のことと思われる。
菊姫が十七歳の頃で、景勝は七歳年上である。
つい最近まで干戈を交えていた敵国に嫁いでいく菊姫の心境は、相当の覚悟を必要としたことは想像に難くない。さらに、この頃は、上杉家中では激しい後継者争いによる内紛が続いていた。
謙信には実子がおらず、二人の養子による後継者争いは家中を二分するもので、同盟を結んだ武田氏への支援どころか、家中が大きく揺れ動いていたのである。

この御館の乱と呼ばれる内紛は、謙信の二人の養子、一人は一族の長尾政景の子である景勝と北条氏康の子である景虎による後継者争いである。
景勝がいち早く春日山城を本拠としたのに対し、景虎は謙信が城下に関東管領上杉憲政を迎えるために建てた居館を本拠としたことから御館の乱と呼ばれる。
争いは、天正六年三月に謙信が急な病で没すると、その翌日からそれぞれを擁立しようとする武将たちが動き出し、当初は景虎陣営の方が有利に展開していた。当然北条氏の支援もあったと考えられる。

七月になって、同盟関係にある武田勝頼が両者の調停に乗り出し、一旦は和議を結ばせることに成功した。しかし、八月になると、徳川軍が武田領に侵攻したため勝頼は急遽甲斐に戻った。
すると、和議はたちまち破綻し、九月には北条軍がこの内紛に本腰で介入すべく越後に向けて進軍を開始するなど、さらに激しさを増した。
結局戦いは、名将直江兼次らの活躍により、天正七年三月に景虎を自刃に追い込み、景勝側の勝利となる。
菊姫が嫁いだのは、この年の十二月の頃で、国内の秩序が回復されたことで実現したと思われるが、なお抵抗勢力は活動していて、完全に鎮圧されるのは翌年になってからのことである。

しかし、菊姫にとっては、辛い新婚時代であったと考えられる。
夫は上杉氏の当主とはいえ、重臣たちの中には武田氏に対して恨みを抱いている人物は少なくなかったはずである。さらに、同盟の証としての婚姻のはずが、その背景となる実家武田氏は二年ほど後に滅亡してしまうのである。
上杉家にとって、政略結婚としての菊姫の価値は無いに等しい状態になってしまったのである。


     * * *

しかし、残された記録を見る限り、上杉家は菊姫並びに滅亡した武田氏に対して好意的に接しているように見えるのである。
菊姫自身が、武田信玄の娘という大大名の姫でありながら、質素倹約を旨とする生活ぶりだったようで、家中の人々から好意的に見られていたようである。甲州夫人、あるいは甲斐御寮人と呼ばれ、夫・景勝はもとより家臣たちが粗略に扱うことはなかったらしい。

天正十年(1582)三月に、勝頼が自刃に追い込まれて武田氏が崩壊してしまった時、異母弟の武田信清が菊姫を頼って上杉家に逃れてきた時、景勝は彼を助けて厚く遇しているのである。信清は米沢武田家の初代当主として一家をなし、子孫は上杉一門・高家衆筆頭として家名を後世に伝えている。
また、二代藩主となる定勝は、側室の出生であるが、菊姫を大切にしていたという。

天正十七年(1589)九月、豊臣秀吉は、小田原征伐出陣にあたって、一万石以上の諸大名に対して、妻女を三年間在京させることを命じた。
菊姫も、同年十二月に景勝と共に上洛し、以後京都伏見の上杉邸で人質生活を送ることになる。
上杉家は、慶長三年(1598)に越後から陸奥会津百二十万石へと転封となり、さらに、関ヶ原の戦いでの西軍敗北により米沢三十万石へと大幅減封の上移されているが、菊姫はいずれの領国にも入ることなく京都での生活となった。

京都での生活では、諸大名や公家衆の妻女などと交流を図っていて、上杉家のこの関係の外交面での貢献は小さくなかった。特に、准三后である勧修寺晴子や晴豊とは親しい交際を持っていたようである。
この勧修寺晴子という女性は、時の帝である御陽成天皇の生母で、後に院号を得て新上東門院となる人である。そして、晴子の兄である勧修寺晴豊は、権大納言まで上っており、また武家伝奏を務めていて秀吉などとも交流があった。
晴豊は、景勝と朝廷の取次に尽力するなどしており、菊姫の存在は上杉家にとって決して軽いものではなかったのである。
また、文禄四年(1595)の頃からは、重臣直江兼次の妻お船の方も同じ屋敷で生活しており、上杉家中の重臣たちとも接する機会は少なくなかったのかもしれない。

菊姫は、慶長八年(1603)の冬の頃から病床に臥し、翌年二月に伏見屋敷で亡くなった。享年四十二歳であった。子供を儲けることはなかった。
菊姫が病をえた慶長八年、景勝は豊臣秀頼と千姫の婚儀のため上洛し、そのまま翌年八月に帰国の途につくまで伏見に滞在した。
結婚以来別居の生活が長い二人であったが、菊姫の最期の時を二人はどのように過ごしたのであろうか。
また、上杉家の家臣となっていた異母弟の武田信清は、急遽米沢から呼ばれて、菊姫の最期を看取ったという。

信玄の娘には、見性院や信松尼のように信玄を彷彿させるような凛々しい生き方をしている女性がいる。
その人たちに比べると、菊姫の生涯はいかにも地味なように見えてしまう。
しかし、上杉家の記録には、菊姫死去の報に接した景勝や家臣たちの悲しみの様子を、「悲嘆カキリナシ」と、伝えている。
宿敵の家に嫁ぎ、しかも実家は滅亡するという厳しい環境の中で懸命に生きた菊姫。この「悲嘆カキリナシ」という記録に、菊姫の人柄と努力の結果が示されているように思われるのである。

                                    ( 完 )


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聖なる願い ・ 心の花園 ( 51 )

2013-12-01 08:00:37 | 心の花園
          心の花園 ( 51 )
               聖なる願い

十二月ともなると、園芸店などには「ポインセチア」の花が溢れるほどに並びます。
心の花園にも、真っ赤な鉢植えがいっぱいに並んでいますよ。

「ポインセチア」は、私たちにクリスマスを連想させる花ですが、あの見事な赤い色は、「キリストの血の色」に例えられるそうですから、まさしくクリスマスには欠かせない花なのでしょう。
「ポインセチア」の原産地は、メキシコあたりですが、その名前は、アメリカの初代メキシコ公使であるポインセット氏に由来しているようです。
メキシコでは、ノーチェ・ブエナと呼ばれていて、その意味は「聖夜」だそうですから、まさにクリスマスにふさわしい名前と言えます。

わが国には、明治時代には入ってきていますが、園芸種として広く楽しまれるようになったのは、それほど古い話ではないようです。
「ポインセチア」は熱帯性の低木で、私たちは鉢植えとして楽しむのが普通ですが、原産地辺りでは五メートルにも達するものもあるそうです。私たちが花として楽しんでいる部分は、苞葉と呼ばれる部分ですが、最近では赤色以外の物も生み出されていますが、やはりあの真っ赤な色は印象に残ります。

「ポインセチア」の花言葉は、「聖なる願い」そして「祝福」です。
寒さが厳しくなっていく頃ですが、真っ赤な鉢植えを一つ二つ買い求めて、欲得を離れた「聖なる願い」など祈ってみてはいかがでしょうか。
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