雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  心を一つにせよ

2011-11-27 08:00:58 | 運命紀行
       運命紀行

          心を一つにせよ


「みな心を一つにして聞くべし。これは最期の言葉なり。
故右大将軍、朝敵を征伐して、関東を早創してよりこの方、官位といい、俸禄といい、その恩は山岳より高く、大海より深く、報謝の志は浅いはずがあるまい。しかるに今、逆臣の讒言(ザンゲン)により、非義の綸旨が発せられた。
名を惜しむ侍たちよ、直ちに秀康、胤義等を討ち取って、三代将軍の遺跡を全うすべし。
但し、院中に参ぜんと欲するものは、只今申し出るべし」

政子は、小さく息を吐いた。
広間には入りきれず庭にまであふれた家人一同は、この政子の真剣さに打たれ、感激に涙しながら忠勤を誓った。さざ波のごとく広がりかけていた御家人たちの動揺は消えていった。

後鳥羽上皇は、将軍実朝を失った後の動揺を見透かしたかのように、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。後に、承久の乱と呼ばれる動乱である。
亡夫頼朝が鎌倉幕府を開いて三十五年が過ぎている。各地の反乱を抑え民の生活の安定に尽くしてきたとの自負が政子にはあった。頼朝直系の将軍は途絶えたとはいえ、北条一族や大江広元を始めとした重臣、関東を中心とした御家人勢力に衰えなどなく、後鳥羽上皇や取り巻きの一部公卿の私利私欲の挙兵など、恐れるものではなかった。

しかし、流鏑馬に名を借りて集めた諸国の武士千七百余騎に対して幕府討伐の檄を飛ばし、執権北条義時追討の宣旨を五畿七道に下すと、事態は容易ならざる方向に動き始めた。
流鏑馬に集まった武士の中には、北条一門に近い者や幕府の重職にある者も含まれていた。
それに何よりも、院宣の力は大きく、幕府体制の中に組み込まれている武士でさえ、朝敵となることに躊躇する者が少なくなかった。

この状況を伝えられた幕府は、鎌倉中を捜索し院宣を持参した密使を捕らえた。持参していた密書は、政子の屋敷で開封されたが、それには、宣旨の他に東国武士の名前が列記されており、それを裏付けるように、三浦義村のもとに在京の義村の弟胤義からの密使が来ていたのである。
その密書には、「勅命を奉じて義時を討てば、恩賞は望みのままに与える」とあった。当然、この種の密書は、三浦一人とは思われず、有力御家人の多くにも発せられていることは予想されることであった。
政子は、北条義時、時房、泰時、そして大江広元を呼び寄せ、同時に家人一同を招集した。

政子は、一同の前に立った。こんなことで、頼朝の興した幕府を無にしてはならない。大きく息を吸い、声を張り上げた・・・


     * * *

尼将軍と呼ばれる女性がいた。
その言葉から受けるものは、亡き夫の後を継いで、幼子たちを後見して君臨する女性を連想しがちであるが、その生涯を探ってみると、少し違う人物像が見えてくる。

北条政子は、伊豆国の豪族北条時政の長女として生まれた。保元二年(11157)のことで、都では、前年に保元の乱が勃発し平治の乱へと続く激動の中にあった。
保元の乱では、皇室内は崇徳上皇と後白河天皇が激しく対立、それにともなって、摂関家では藤原頼長と忠通とが、武家勢力は源為義と平清盛・源義朝がそれぞれの陣営に属して戦った。戦いは、後白河・忠通・清盛・義朝側の勝利で収束したが、三年後に平治の乱が勃発、今度は清盛と義朝が戦い、義朝は討たれ、源氏は壊滅的な状態に陥った。
この二つの乱により、武家勢力はその存在感を高め、平氏全盛の時代を迎えることになる。

北条氏は、東国では有力な豪族であり、平氏を名乗っていた。狩野川流域の平野を中心に、東海道筋にも近接していて財力も豊かであったと考えられる。
この地に、平治の乱で捕らえられた源頼朝が、池禅尼の嘆願で一命を助けられて流されてきたのは、永暦元年(1160)三月のことである。この時、頼朝十四歳、政子は四歳であった。

この二人が結ばれるのは、これより十数年後のことであるが、奇跡的な幾つかの偶然が産み出した不思議な出会いであることは確かである。
頼朝は、狩野川の中州のような場所と思われる蛭ケ島(ヒルガシマ)と呼ばれた地で流人としての日を送る。ただ、流人といってもかなり自由な生活だったようで、都育ちの源氏の御曹司は豪族やその家の娘たちの興味の的になったことであろう。生活の面では、乳母である比企の尼の領地である武蔵国比企郡からの支援を受け、また関東の地そのものが源氏に同情的な土地柄であったことも頼朝には幸いしていた。
女性関係についても、豪族伊藤祐親の娘とは一子までもうけながら不幸な結末となったことなど、いくつかの話がある。

政子と頼朝との出会いも、いつとはなく出会い親しくなっていった、ごく自然な成り行きからであったのかもしれない。「吾妻鏡」には、父時政によって山木判官兼隆に嫁がされるために、その山木の館に送られた時、政子は「暗夜を迷い、深雨を凌ぎ、君の所に到る」という激しい行動に走ったと書き記している。
政子は、後に尼将軍と呼ばれるような男まさりな女性であったとは思われないが、一途で激しい情熱の持ち主であったらしいことは想像される。

この二人の関係は、先の、伊藤祐親の娘との関係と酷似しているが、祐親は都の平氏を恐れ娘を引き離したのに対して、政子の父北条時政は容認することになる。
そこには、頼朝が北条時政の力を頼りにしようとする思惑があり、時政には源氏の御曹司という奇貨を手中にすることの価値を考えてのことと思われるが、政子の一途な気持ちが歴史のひとこまを切り開いたということも否定できまい。

二人が結婚したのは、政子が二十一歳の頃と考えられているが、その翌年頃には長女大姫が誕生している。政子にとって幸せな日々であり、夫頼朝は流人の身であり二人の関係は都の平氏政権に憚るものであったが、遠く離れた北伊豆の地では、幸せな一家を築いて行くのにさして障害となることではなかった。事実、この頃の政子の願いは、平穏な地方豪族の夫人として生活であり、頼朝の願いも大差ないものであったように推察される。
源氏の御曹司を手駒に持ったとはいえ、北条時政もまた、若干の領地拡大の野望を持っていたとしても、それは、せいぜい伊豆一国を超えないものであっただろう。

しかし、時代は彼らの思惑を遥かに上回る激しさで動いて行った。
絶頂を極めた平氏は、まさに平家物語に詠われるように衰退の道に向かって行った。源三位頼政に端を発した各地の源氏の蜂起は、盤石と見えた平氏政権を揺るがせた。
平氏追討を促す以仁王の令旨が頼朝のもとにもたらされたのは、政子が二十四歳の頃であった。
長女も生まれ、平安な家庭を思い描いていた政子も、夫の決起と共に時代の奔流の真ん真ん中に乗り出して行くことになった。

兵力を持たぬ頼朝であったが、北条氏を後ろ盾に関東の豪族の支援を得て、源氏の棟梁から武士の棟梁へと上って行った。政子もまた、好むと好まざるに関わらず、天下の動きの重要な一端を担うことになっていった。
頼朝の戦いは、わが国の歴史の結果としてみれば、古代から中世へと移行させるものであり、貴族政治から武家政治へと導くものであった。
一方で、平氏を滅ぼし、朝廷勢力を抑え込んだ戦いは、その過程で源氏直系勢力をも打ち破るものとなってしまった。

長女大姫を亡くし、夫頼朝に先立たれた政子は、長男頼家に家督を継がせ、北条時政・義時父子、大江広元らに後見を委ね、自らは夫の菩提を弔い、子供の養育に専心するつもりであった。
しかし、十八歳の二代将軍頼家にはいかにも荷が重く悲劇的な結末を迎えることとなり、十二歳で三代将軍となった次男実朝も二十八歳で頼家の遺児に殺害されてしまう。
ついに頼朝直系を失った幕府は、やがて九条家から四代将軍を迎えるが、まだ二歳の幼児と呼ぶにも幼すぎる子供であった。

この間、政子は、次女乙姫にも先立たれ、鎌倉内での豪族間の争いや、父時政との軋轢もあり、苦しい日々が続いた。源氏を名乗る肉親はいなくなり、幕府の求心力を保つためには政子は夫や子供たちの菩提を弔うことなど出来なかった。
そして、鎌倉の動揺を見透かしたかのように、北条義時追討の院宣が発せられた。承久の乱の勃発である。
戦いは、六十三歳の政子の懸命の叫びに呼応した鎌倉軍が勝利し、これによりわが国は武家政治の時代が定着するのである。

武士の棟梁の妻となり、天下を牛耳っているかのように尼将軍と呼ばれた政子であるが、家庭的には、夫や子供のすべてに先立たれるという生涯でもあった。
この戦いの後も、政子は政治の場から身を引くことは出来なかったようである。
おそらく、平穏な家庭を夢見ていたと思われる政子は、頼朝と出会ったために、そして征夷大将軍の妻となったために、そして何よりも、時代が激しく動く時であったために、政子にとって望まぬ生涯であったのかもしれない。
だが、古代から中世へと移る時の流れの中で、きらりと輝く存在であったことも事実である。

                                     ( 完 )
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運命紀行  大君の辺にこそ死なめ

2011-11-21 08:00:31 | 運命紀行
       運命紀行

           大君の辺にこそ死なめ


『・・・ 大伴の 遠つ神祖(カンオヤ) その名をば 大来目主(オオクメヌシ)と 負ひ持ちて 仕へし官(ツカサ) 海行かば 水浸く屍(ミズクカバネ) 山行かば 草生(ム)す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みは せじと言(コト)立てて 大夫(マスラオ)の 清きその名を 古(イニシエ)よ 今の現(ウツツ)に 流さへる ・・・』

大伴家持が、陸奥の国で金が出土したことを寿ぐ天皇の詔を受けたのは、都を遠く離れた越中の国であった。
越中は大国であり、その国守としての地位に不満などないが、この慶事に直接祝いの歌を差し出すことができない歯がゆさは、如何ともすることが出来なかった。

この数年、聖武天皇にとっての最大関心事は、大仏の建立であった。鋳造を開始してすでに一年半の年月が過ぎていたが、最も重要な材料である金の調達の目処が立っていなかった。
北の涯、陸奥の国から天皇のもとに金出土の報がもたらされたのは、ちょうどそのような時期であった。天皇の喜びは察するに余りあり、越中の守大伴家持のもとにも喜びあふれる詔が送られてきたのである。その中には、大伴氏の幾代にも及ぶ天皇家に対する忠勤をたたえる内容が含まれていたが、それゆえになお、この大事に、大君の側近くで高らかに歌を献上できない悔しさが増していた。

家持は、天皇の感激をさらに上回るかのような、長歌を詠い上げ、反歌と共に天皇のもとに送ります。

   『・・・ 海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ ・・・』  


     * * *

大伴家持が掲題の長歌を作ったのは、天平勝宝元年(749)五月、三十二歳の頃である。
従五位上・越中守という職位は、この時五十四歳の父旅人が、従四位上・中納言という状況も加味すれば、決して不満なものではなかったと思われる。
おそらく、天皇からの詔に感激し、将来への期待に胸を膨らませ、武人としての大伴氏を高らかに歌い上げたのであろう。

大伴氏は、神武天皇以来の名族であって、代々天皇の近くあって、武人として、また歌人として仕えてきた有力貴族であった。
武人と歌人とを並べるのは、現代人にとってはいささか奇異に感じられるが、この当時の歌は、武力に劣らないほどの力の源泉でもあった。言霊(コトダマ)という言葉があるように、古代の人々にとって、詞(コトバ)の持つ力は、時には武力さえも超えるものと信じられていた。
宮廷歌人という人たちが存在していた事からも分かるように、家持らの歌を、雅やかな宮中から生まれてきた歌とを同列に並べることは出来ない。歌としての優劣のことではなく、目的において差がある部分を考える必要がある。

家持の時代、すでに大伴氏や物部氏という古代貴族は、蘇我氏の台頭により劣勢にあり、さらに藤原氏が朝廷権力を掌握していくに従って、家持にとっては苦難の時代が待ち受けていた。
この後少納言に昇進するも、後ろ楯ともいえる橘諸兄が引退し聖武天皇が崩御すると、藤原氏勢力は一挙に増大し、大伴氏の没落は加速して行った。
幾つかの事件に巻き込まれたり、左遷を繰り返しながらも、最後は中納言の地位を得ているが、それも没後に剥奪されるという事件に巻き込まれている。

藤原氏全盛に向かう歴史の流れにあって、家持にとっては失意の生涯であったかもしれない。しかし、現在私たちは、大伴家持の名を聞く時、万葉集の編纂者の一人として、また格調高い歌人として、この時代の代表的な人物の一人として認識している。これこそが、家持が発した言霊ゆえなのかもしれない。
全二十巻に及ぶ万葉集は、家持の歌で締めくくられている。

   『新しき年の始めの初春の 今日ふる雪のいや重け吉事』

                                       ( 完 )

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運命紀行  絶えなば絶えよ

2011-11-15 08:00:24 | 運命紀行
          運命紀行

             絶えなば絶えよ


『玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする』

神に仕える身となって、はや十年の年月が流れていた。
内親王宣下を受けるとともに、斎院となることを命じられたが、まだ少女である身にはその意味することは理解できなかった。もちろん、これまでも多くの内親王が、斎宮や斉院として伊勢神宮や賀茂神社に奉仕してきていることは承知していた。やがては、わが身にもその時が来るものとの予感もあった。

賀茂神社に仕える十年は、神官や巫女や女房にかしずかれた環境にあったが、少女から多感な年頃を経て大人の女性へと成長していく身には、あまりにも長すぎる年月であった。
また、世俗を離れた世界にあるといっても、賀茂神社の存在そのものが常に政治と密接な関わりを持つ以上、俗世の混乱が伝わってこないはずがなかった。

時代は、保元・平治の乱を経て、平氏の台頭が著しいさなかにあった。
後白河の第三皇女である式子内親王にとっても、平氏の台頭は微妙な影響を受けていた。
式子の母高倉三位局は藤原氏の出であるが、平氏の台頭とともに後白河の寵愛は平氏出身の建春門院滋子に移り、母は女御に登れず、兄の以仁王も親王宣下を受けられない状態にあった。

斎院式子内親王は、精神的に追い込まれていった。聡明であり多感であることは、歌人として名を成す才能となったが、同時に、こみ上げてくる激情を抑えるには、反作用となった。
やがて、病を得て、退下することとなった。二十一歳の頃である。

耐え難いほどの圧迫を受けていた斎院としての生活であったが、いざ離れるとなると、その胸に去来するものは何であったのか。
ふたたび皇女としての華やかな舞台を描いていたのか、あるいは歌人として生きようと考えていたのか、胸の奥深くに秘められた愛の灯はあったのか、それとも、ただただ、病の身に絶望の陰を滲ませていたのか・・・。


     * * *

式子内親王が斎院を辞し実母のもとに戻ったのは、嘉応元年(1169)七月末の頃である。平清盛が太政大臣に就いたのが二年前のことで、まさに平氏一族がその絶頂期を迎えようとしていた。
その後、後白河院の法住寺に身を寄せたが、この頃はまだ後白河と清盛の対立は表面化していなかったと考えられ、比較的平穏な日々だったのかもしれない。

しかし、母のもとで健康を取り戻したとはいえ、平穏な日は長くはなかった。間もなく後白河と清盛の溝は深さを増し、さらに比叡山僧兵の横暴なども絡み、深窓にあるとはいえ式子内親王にも少なからぬ影響があったと思われる。
そして、治承元年(1177)には、母がこの世を去り、同じ年に、後白河の近臣が打倒平氏の密儀を謀ったとされる鹿ケ谷事件が発生、世情は激しさを増していった。
この三年後には、兄の以仁王が全国の源氏や有力寺社に対して平氏討伐の令旨を発するも、計画は早々に露見し、以仁王も討たれてしまった。

以仁王や源三位頼政の無謀と思えた旗上げは、各地の源氏を中心とする反平氏勢力を動かすことになった。
清盛による福原への遷都、父後白河院の策謀などに式子内親王も翻弄されるような日々が続き、やがて、清盛の死、そして平氏の滅亡から源氏政権へと時代は動いていく。
これは、時の実力者が、平氏から源氏へ移行したということだけではなく、貴族政治から武家政治への移行であり、歴史区分でいえば古代から中世への移行時期でもあった。

父後白河院の死去(1192)により、大炊御門殿などを譲り受けたが、この屋敷は時の関白九条兼実が住んでおり、事実上の横領状態が続き、兼実の失脚により移り住むことが出来たのは、四年以上も後のことである。
この他にも、呪詛の疑いをかけられるなどの災厄も受けているが、その一方で、准三后(太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮に準ずる位)の宣下を受けており、病のため実現に至らなかったが、東宮を猶子にするという処遇も得ているので、決して不幸な晩年ではなかった。
また、才女として知られ、特に和歌は、藤原俊成に師事し、その子定家とも親しく、新古今を代表する女流歌人として名を成している。
当時の女性として最も華やかな年頃を斎院として過ごした式子内親王に、結ばれた恋の記録は残されていないが、遥か年下の定家とのほのかな愛や、法然との純愛を示す研究者もいる。

五十歳を過ぎた頃から病がちとなり、建仁元年(1201)一月二十五日、波乱の生涯を終える。享年五十三歳。
この激しい時代を、皇女として、そして貴族としての輝きを失うことなく生きた女性であった。

  『色々の花も紅葉もさもあらばあれ 冬の夜深き松風の音』

                                    ( 完 )
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運命紀行  埋れ木の輝き

2011-11-09 08:00:34 | 運命紀行
       運命紀行   

           埋れ木の輝き               


多勢に無勢、すでに勝敗の帰趨は明らかであった。
しかし、何とか一刻なりとも抵抗を続けなくてはならなかった。傷を得ている彼の王を落ち延びさせるためには短過ぎる時間だが、もう、その抵抗さえも難しくなっていた。

秘密裏に進めてきたはずの平氏打倒の挙兵計画が露見し、以仁王が園城寺に逃れて匿われた。
五月二十一日には平氏軍による園城寺攻撃軍が編成された。その攻撃軍の中には、源三位頼政も入っていた。平氏打倒決起を促す以仁王の令旨は平氏政権に押さえられていたが、源三位頼政の名はまだ表面化していなかった。
諸国の源氏勢力が挙兵していないいま、頼政一人が動いても蟷螂の斧にも及ばないことは明白であった。しかし、以仁王を見捨てるわけにはいかなかった。

その夜、頼政は自邸に火を放ち、一族を率いて園城寺に入った。挙兵計画では、比叡山延暦寺や奈良興福寺の決起も見込んでいたが、すでに延暦寺は平氏の働きかけで中立化していた。
二十五日夜、園城寺も危険な状態となり、頼政は以仁王を護って奈良興福寺に向かった。慌ただしい逃避行の中で以仁王が落馬し負傷を負い、途中の宇治平等院で休息を取った。
平氏軍はたちまちのうちに迫り来て、興福寺へ向かうの不可能となった。

密かに以仁王を脱出させた後、平等院に立て籠もった頼政以下一族郎党は懸命の抵抗を続けたが、次々と討たれていった。
頼政は、名高い歌人らしく辞世の句を残し、自刃した。
  『埋れ木の花咲くこともなかりしに みのなる果てぞ悲しかりける』
源三位頼政、享年七十七才であった。


     * * *

「驕る平家は久しからず」と噂されたとしても、一つの政権を倒すということは容易なことではない。
その切っ掛けを作った一人の男がいた。『源三位(ゲンサンミ)』と呼ばれた源頼政である。

頼政は、清和源氏の一族で摂津国に本拠地を持っていた。
天皇勢力と藤原氏勢力の軋轢が強まるとともに、武力をもつ豪族は官位は低くとも少しずつ力を蓄えていた。頼政の一族もそのひとつであるが、本拠地が都に近い関係から早くから天皇勢力との接触を持っていた。
武士勢力が平清盛派と源義朝派に分裂した保元の乱では、頼政は中立を保った。その理由の一つには、義朝の力が強くなり過ぎることを望まない気持ちがあったと思われる。後の頼朝の誕生で、この義朝の一族が源氏の嫡流のように思われがちだが、決してそうではなかった。頼政には、自分よりはるかに若い義朝の後塵を拝する気持などなかったと考えられる。

そして、源平が激突したとされる平治の乱においても、頼政は清盛に味方した。
平治の乱で清盛が勝利すると、ほとんどの源氏が没落していったが、源氏としてただ一人頼政だけが中央政界で生き残ったのである。しかも、戦乱を通じて清盛から厚い信頼を受け、武士の源氏としては初めて従三位に昇進したのである。『源三位頼政』の誕生である。
この昇進については、九条兼実が日記の中で「第一之珍事也」と書き残しているので、よほど異例であったらしい。

平治の乱の後、捕われた頼朝は、処刑される身を池の禅師の嘆願で助命され伊豆に流されたが、その後幾つもの奇跡的な幸運に恵まれて、平氏を滅亡させるという劇的な展開を歴史は用意しているのである。
その幾つかの奇跡の発端は、流罪地が伊豆国であったことである。そして、その伊豆国は頼政の領地であったことを考えると、これは奇跡などではなく頼政の遠謀であったのかもしれない。

清盛を頂点とした平氏の栄華がますます高まっていく中で、頼政の心中はどのようなものであったのか。
従三位の高位を得たといえども、源氏の没落の中で一人栄華を楽しめるものではなかった。
しかも平氏政権は、あまりの繁栄のためか横暴が目立ち始め、信望を失いつつあった。
後白河法皇の側近たちによる「鹿ケ谷の密儀」と呼ばれる陰謀は、平氏に不満を抱く勢力が膨らんできていることを表面化させる事件であった。

頼政は密かに策を練っていた。
今や清和源氏の没落は目を覆うばかりであった。中央に残る者は頼政ただ一人、官位、保有戦力、経験のいずれをみても、諸国の源氏に決起を促すことが出来る者は他にはいなかった。
直系の源氏に有力な一族がいないとしても、しかるべき旗印さえ打ち立てることが出来れば、東国を中心とした諸豪族は源氏に味方するはずである。
頼政は、密かに以仁王に接触を図った。

以仁王は後白河法皇の第二皇子であるが、未だ親王の称号さえ与えられていなかった。天皇の位は同じ法皇の子供でありながら、平氏を母に持つ皇子に引き継がれ、ついには三歳の甥が天皇に即位した。安徳天皇である。
失意の以仁王は、父の後白河法皇以上に平家一門の横暴を恨んだ。自分がしかるべき立場に立つためには、平氏並びにそれに連なる皇族を排斥せねばならないと考えていた。

頼政の勧めもあって、以仁王は平氏打倒の挙兵を決意する。諸国の源氏や反平氏勢力、有力社寺などに対して令旨(リョウジ)を発した。綸旨や院宣と違い、令旨は皇族の命令に過ぎないが、豪族たちにとっては錦の御旗に近いものであった。
令旨は、源行家を使者として諸国に触れて回った。
頼政の計画では、東国はじめ諸国の源氏が決起し、平氏の軍勢が鎮圧に向かったところで手薄となった都で頼政が挙兵する計画であった。

しかし、計画は事前に漏れることとなり、勝機の無いのを覚悟の上での単独挙兵となってしまった。
頼政が最後まで抵抗を続けた目的である以仁王も脱出を果たせず、討ち取られた。
この頼政の決起だけをみれば、全く無謀な挙兵のように見える。しかし、発せられた令旨は木曽義仲を動かし、源頼朝を決起させたのである。
源三位頼政、七十七歳の決起は、歴史の一こまを動かせるものではなかったか。

                                    ( 完 )


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