運命紀行
心を一つにせよ
「みな心を一つにして聞くべし。これは最期の言葉なり。
故右大将軍、朝敵を征伐して、関東を早創してよりこの方、官位といい、俸禄といい、その恩は山岳より高く、大海より深く、報謝の志は浅いはずがあるまい。しかるに今、逆臣の讒言(ザンゲン)により、非義の綸旨が発せられた。
名を惜しむ侍たちよ、直ちに秀康、胤義等を討ち取って、三代将軍の遺跡を全うすべし。
但し、院中に参ぜんと欲するものは、只今申し出るべし」
政子は、小さく息を吐いた。
広間には入りきれず庭にまであふれた家人一同は、この政子の真剣さに打たれ、感激に涙しながら忠勤を誓った。さざ波のごとく広がりかけていた御家人たちの動揺は消えていった。
後鳥羽上皇は、将軍実朝を失った後の動揺を見透かしたかのように、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。後に、承久の乱と呼ばれる動乱である。
亡夫頼朝が鎌倉幕府を開いて三十五年が過ぎている。各地の反乱を抑え民の生活の安定に尽くしてきたとの自負が政子にはあった。頼朝直系の将軍は途絶えたとはいえ、北条一族や大江広元を始めとした重臣、関東を中心とした御家人勢力に衰えなどなく、後鳥羽上皇や取り巻きの一部公卿の私利私欲の挙兵など、恐れるものではなかった。
しかし、流鏑馬に名を借りて集めた諸国の武士千七百余騎に対して幕府討伐の檄を飛ばし、執権北条義時追討の宣旨を五畿七道に下すと、事態は容易ならざる方向に動き始めた。
流鏑馬に集まった武士の中には、北条一門に近い者や幕府の重職にある者も含まれていた。
それに何よりも、院宣の力は大きく、幕府体制の中に組み込まれている武士でさえ、朝敵となることに躊躇する者が少なくなかった。
この状況を伝えられた幕府は、鎌倉中を捜索し院宣を持参した密使を捕らえた。持参していた密書は、政子の屋敷で開封されたが、それには、宣旨の他に東国武士の名前が列記されており、それを裏付けるように、三浦義村のもとに在京の義村の弟胤義からの密使が来ていたのである。
その密書には、「勅命を奉じて義時を討てば、恩賞は望みのままに与える」とあった。当然、この種の密書は、三浦一人とは思われず、有力御家人の多くにも発せられていることは予想されることであった。
政子は、北条義時、時房、泰時、そして大江広元を呼び寄せ、同時に家人一同を招集した。
政子は、一同の前に立った。こんなことで、頼朝の興した幕府を無にしてはならない。大きく息を吸い、声を張り上げた・・・
* * *
尼将軍と呼ばれる女性がいた。
その言葉から受けるものは、亡き夫の後を継いで、幼子たちを後見して君臨する女性を連想しがちであるが、その生涯を探ってみると、少し違う人物像が見えてくる。
北条政子は、伊豆国の豪族北条時政の長女として生まれた。保元二年(11157)のことで、都では、前年に保元の乱が勃発し平治の乱へと続く激動の中にあった。
保元の乱では、皇室内は崇徳上皇と後白河天皇が激しく対立、それにともなって、摂関家では藤原頼長と忠通とが、武家勢力は源為義と平清盛・源義朝がそれぞれの陣営に属して戦った。戦いは、後白河・忠通・清盛・義朝側の勝利で収束したが、三年後に平治の乱が勃発、今度は清盛と義朝が戦い、義朝は討たれ、源氏は壊滅的な状態に陥った。
この二つの乱により、武家勢力はその存在感を高め、平氏全盛の時代を迎えることになる。
北条氏は、東国では有力な豪族であり、平氏を名乗っていた。狩野川流域の平野を中心に、東海道筋にも近接していて財力も豊かであったと考えられる。
この地に、平治の乱で捕らえられた源頼朝が、池禅尼の嘆願で一命を助けられて流されてきたのは、永暦元年(1160)三月のことである。この時、頼朝十四歳、政子は四歳であった。
この二人が結ばれるのは、これより十数年後のことであるが、奇跡的な幾つかの偶然が産み出した不思議な出会いであることは確かである。
頼朝は、狩野川の中州のような場所と思われる蛭ケ島(ヒルガシマ)と呼ばれた地で流人としての日を送る。ただ、流人といってもかなり自由な生活だったようで、都育ちの源氏の御曹司は豪族やその家の娘たちの興味の的になったことであろう。生活の面では、乳母である比企の尼の領地である武蔵国比企郡からの支援を受け、また関東の地そのものが源氏に同情的な土地柄であったことも頼朝には幸いしていた。
女性関係についても、豪族伊藤祐親の娘とは一子までもうけながら不幸な結末となったことなど、いくつかの話がある。
政子と頼朝との出会いも、いつとはなく出会い親しくなっていった、ごく自然な成り行きからであったのかもしれない。「吾妻鏡」には、父時政によって山木判官兼隆に嫁がされるために、その山木の館に送られた時、政子は「暗夜を迷い、深雨を凌ぎ、君の所に到る」という激しい行動に走ったと書き記している。
政子は、後に尼将軍と呼ばれるような男まさりな女性であったとは思われないが、一途で激しい情熱の持ち主であったらしいことは想像される。
この二人の関係は、先の、伊藤祐親の娘との関係と酷似しているが、祐親は都の平氏を恐れ娘を引き離したのに対して、政子の父北条時政は容認することになる。
そこには、頼朝が北条時政の力を頼りにしようとする思惑があり、時政には源氏の御曹司という奇貨を手中にすることの価値を考えてのことと思われるが、政子の一途な気持ちが歴史のひとこまを切り開いたということも否定できまい。
二人が結婚したのは、政子が二十一歳の頃と考えられているが、その翌年頃には長女大姫が誕生している。政子にとって幸せな日々であり、夫頼朝は流人の身であり二人の関係は都の平氏政権に憚るものであったが、遠く離れた北伊豆の地では、幸せな一家を築いて行くのにさして障害となることではなかった。事実、この頃の政子の願いは、平穏な地方豪族の夫人として生活であり、頼朝の願いも大差ないものであったように推察される。
源氏の御曹司を手駒に持ったとはいえ、北条時政もまた、若干の領地拡大の野望を持っていたとしても、それは、せいぜい伊豆一国を超えないものであっただろう。
しかし、時代は彼らの思惑を遥かに上回る激しさで動いて行った。
絶頂を極めた平氏は、まさに平家物語に詠われるように衰退の道に向かって行った。源三位頼政に端を発した各地の源氏の蜂起は、盤石と見えた平氏政権を揺るがせた。
平氏追討を促す以仁王の令旨が頼朝のもとにもたらされたのは、政子が二十四歳の頃であった。
長女も生まれ、平安な家庭を思い描いていた政子も、夫の決起と共に時代の奔流の真ん真ん中に乗り出して行くことになった。
兵力を持たぬ頼朝であったが、北条氏を後ろ盾に関東の豪族の支援を得て、源氏の棟梁から武士の棟梁へと上って行った。政子もまた、好むと好まざるに関わらず、天下の動きの重要な一端を担うことになっていった。
頼朝の戦いは、わが国の歴史の結果としてみれば、古代から中世へと移行させるものであり、貴族政治から武家政治へと導くものであった。
一方で、平氏を滅ぼし、朝廷勢力を抑え込んだ戦いは、その過程で源氏直系勢力をも打ち破るものとなってしまった。
長女大姫を亡くし、夫頼朝に先立たれた政子は、長男頼家に家督を継がせ、北条時政・義時父子、大江広元らに後見を委ね、自らは夫の菩提を弔い、子供の養育に専心するつもりであった。
しかし、十八歳の二代将軍頼家にはいかにも荷が重く悲劇的な結末を迎えることとなり、十二歳で三代将軍となった次男実朝も二十八歳で頼家の遺児に殺害されてしまう。
ついに頼朝直系を失った幕府は、やがて九条家から四代将軍を迎えるが、まだ二歳の幼児と呼ぶにも幼すぎる子供であった。
この間、政子は、次女乙姫にも先立たれ、鎌倉内での豪族間の争いや、父時政との軋轢もあり、苦しい日々が続いた。源氏を名乗る肉親はいなくなり、幕府の求心力を保つためには政子は夫や子供たちの菩提を弔うことなど出来なかった。
そして、鎌倉の動揺を見透かしたかのように、北条義時追討の院宣が発せられた。承久の乱の勃発である。
戦いは、六十三歳の政子の懸命の叫びに呼応した鎌倉軍が勝利し、これによりわが国は武家政治の時代が定着するのである。
武士の棟梁の妻となり、天下を牛耳っているかのように尼将軍と呼ばれた政子であるが、家庭的には、夫や子供のすべてに先立たれるという生涯でもあった。
この戦いの後も、政子は政治の場から身を引くことは出来なかったようである。
おそらく、平穏な家庭を夢見ていたと思われる政子は、頼朝と出会ったために、そして征夷大将軍の妻となったために、そして何よりも、時代が激しく動く時であったために、政子にとって望まぬ生涯であったのかもしれない。
だが、古代から中世へと移る時の流れの中で、きらりと輝く存在であったことも事実である。
( 完 )
心を一つにせよ
「みな心を一つにして聞くべし。これは最期の言葉なり。
故右大将軍、朝敵を征伐して、関東を早創してよりこの方、官位といい、俸禄といい、その恩は山岳より高く、大海より深く、報謝の志は浅いはずがあるまい。しかるに今、逆臣の讒言(ザンゲン)により、非義の綸旨が発せられた。
名を惜しむ侍たちよ、直ちに秀康、胤義等を討ち取って、三代将軍の遺跡を全うすべし。
但し、院中に参ぜんと欲するものは、只今申し出るべし」
政子は、小さく息を吐いた。
広間には入りきれず庭にまであふれた家人一同は、この政子の真剣さに打たれ、感激に涙しながら忠勤を誓った。さざ波のごとく広がりかけていた御家人たちの動揺は消えていった。
後鳥羽上皇は、将軍実朝を失った後の動揺を見透かしたかのように、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。後に、承久の乱と呼ばれる動乱である。
亡夫頼朝が鎌倉幕府を開いて三十五年が過ぎている。各地の反乱を抑え民の生活の安定に尽くしてきたとの自負が政子にはあった。頼朝直系の将軍は途絶えたとはいえ、北条一族や大江広元を始めとした重臣、関東を中心とした御家人勢力に衰えなどなく、後鳥羽上皇や取り巻きの一部公卿の私利私欲の挙兵など、恐れるものではなかった。
しかし、流鏑馬に名を借りて集めた諸国の武士千七百余騎に対して幕府討伐の檄を飛ばし、執権北条義時追討の宣旨を五畿七道に下すと、事態は容易ならざる方向に動き始めた。
流鏑馬に集まった武士の中には、北条一門に近い者や幕府の重職にある者も含まれていた。
それに何よりも、院宣の力は大きく、幕府体制の中に組み込まれている武士でさえ、朝敵となることに躊躇する者が少なくなかった。
この状況を伝えられた幕府は、鎌倉中を捜索し院宣を持参した密使を捕らえた。持参していた密書は、政子の屋敷で開封されたが、それには、宣旨の他に東国武士の名前が列記されており、それを裏付けるように、三浦義村のもとに在京の義村の弟胤義からの密使が来ていたのである。
その密書には、「勅命を奉じて義時を討てば、恩賞は望みのままに与える」とあった。当然、この種の密書は、三浦一人とは思われず、有力御家人の多くにも発せられていることは予想されることであった。
政子は、北条義時、時房、泰時、そして大江広元を呼び寄せ、同時に家人一同を招集した。
政子は、一同の前に立った。こんなことで、頼朝の興した幕府を無にしてはならない。大きく息を吸い、声を張り上げた・・・
* * *
尼将軍と呼ばれる女性がいた。
その言葉から受けるものは、亡き夫の後を継いで、幼子たちを後見して君臨する女性を連想しがちであるが、その生涯を探ってみると、少し違う人物像が見えてくる。
北条政子は、伊豆国の豪族北条時政の長女として生まれた。保元二年(11157)のことで、都では、前年に保元の乱が勃発し平治の乱へと続く激動の中にあった。
保元の乱では、皇室内は崇徳上皇と後白河天皇が激しく対立、それにともなって、摂関家では藤原頼長と忠通とが、武家勢力は源為義と平清盛・源義朝がそれぞれの陣営に属して戦った。戦いは、後白河・忠通・清盛・義朝側の勝利で収束したが、三年後に平治の乱が勃発、今度は清盛と義朝が戦い、義朝は討たれ、源氏は壊滅的な状態に陥った。
この二つの乱により、武家勢力はその存在感を高め、平氏全盛の時代を迎えることになる。
北条氏は、東国では有力な豪族であり、平氏を名乗っていた。狩野川流域の平野を中心に、東海道筋にも近接していて財力も豊かであったと考えられる。
この地に、平治の乱で捕らえられた源頼朝が、池禅尼の嘆願で一命を助けられて流されてきたのは、永暦元年(1160)三月のことである。この時、頼朝十四歳、政子は四歳であった。
この二人が結ばれるのは、これより十数年後のことであるが、奇跡的な幾つかの偶然が産み出した不思議な出会いであることは確かである。
頼朝は、狩野川の中州のような場所と思われる蛭ケ島(ヒルガシマ)と呼ばれた地で流人としての日を送る。ただ、流人といってもかなり自由な生活だったようで、都育ちの源氏の御曹司は豪族やその家の娘たちの興味の的になったことであろう。生活の面では、乳母である比企の尼の領地である武蔵国比企郡からの支援を受け、また関東の地そのものが源氏に同情的な土地柄であったことも頼朝には幸いしていた。
女性関係についても、豪族伊藤祐親の娘とは一子までもうけながら不幸な結末となったことなど、いくつかの話がある。
政子と頼朝との出会いも、いつとはなく出会い親しくなっていった、ごく自然な成り行きからであったのかもしれない。「吾妻鏡」には、父時政によって山木判官兼隆に嫁がされるために、その山木の館に送られた時、政子は「暗夜を迷い、深雨を凌ぎ、君の所に到る」という激しい行動に走ったと書き記している。
政子は、後に尼将軍と呼ばれるような男まさりな女性であったとは思われないが、一途で激しい情熱の持ち主であったらしいことは想像される。
この二人の関係は、先の、伊藤祐親の娘との関係と酷似しているが、祐親は都の平氏を恐れ娘を引き離したのに対して、政子の父北条時政は容認することになる。
そこには、頼朝が北条時政の力を頼りにしようとする思惑があり、時政には源氏の御曹司という奇貨を手中にすることの価値を考えてのことと思われるが、政子の一途な気持ちが歴史のひとこまを切り開いたということも否定できまい。
二人が結婚したのは、政子が二十一歳の頃と考えられているが、その翌年頃には長女大姫が誕生している。政子にとって幸せな日々であり、夫頼朝は流人の身であり二人の関係は都の平氏政権に憚るものであったが、遠く離れた北伊豆の地では、幸せな一家を築いて行くのにさして障害となることではなかった。事実、この頃の政子の願いは、平穏な地方豪族の夫人として生活であり、頼朝の願いも大差ないものであったように推察される。
源氏の御曹司を手駒に持ったとはいえ、北条時政もまた、若干の領地拡大の野望を持っていたとしても、それは、せいぜい伊豆一国を超えないものであっただろう。
しかし、時代は彼らの思惑を遥かに上回る激しさで動いて行った。
絶頂を極めた平氏は、まさに平家物語に詠われるように衰退の道に向かって行った。源三位頼政に端を発した各地の源氏の蜂起は、盤石と見えた平氏政権を揺るがせた。
平氏追討を促す以仁王の令旨が頼朝のもとにもたらされたのは、政子が二十四歳の頃であった。
長女も生まれ、平安な家庭を思い描いていた政子も、夫の決起と共に時代の奔流の真ん真ん中に乗り出して行くことになった。
兵力を持たぬ頼朝であったが、北条氏を後ろ盾に関東の豪族の支援を得て、源氏の棟梁から武士の棟梁へと上って行った。政子もまた、好むと好まざるに関わらず、天下の動きの重要な一端を担うことになっていった。
頼朝の戦いは、わが国の歴史の結果としてみれば、古代から中世へと移行させるものであり、貴族政治から武家政治へと導くものであった。
一方で、平氏を滅ぼし、朝廷勢力を抑え込んだ戦いは、その過程で源氏直系勢力をも打ち破るものとなってしまった。
長女大姫を亡くし、夫頼朝に先立たれた政子は、長男頼家に家督を継がせ、北条時政・義時父子、大江広元らに後見を委ね、自らは夫の菩提を弔い、子供の養育に専心するつもりであった。
しかし、十八歳の二代将軍頼家にはいかにも荷が重く悲劇的な結末を迎えることとなり、十二歳で三代将軍となった次男実朝も二十八歳で頼家の遺児に殺害されてしまう。
ついに頼朝直系を失った幕府は、やがて九条家から四代将軍を迎えるが、まだ二歳の幼児と呼ぶにも幼すぎる子供であった。
この間、政子は、次女乙姫にも先立たれ、鎌倉内での豪族間の争いや、父時政との軋轢もあり、苦しい日々が続いた。源氏を名乗る肉親はいなくなり、幕府の求心力を保つためには政子は夫や子供たちの菩提を弔うことなど出来なかった。
そして、鎌倉の動揺を見透かしたかのように、北条義時追討の院宣が発せられた。承久の乱の勃発である。
戦いは、六十三歳の政子の懸命の叫びに呼応した鎌倉軍が勝利し、これによりわが国は武家政治の時代が定着するのである。
武士の棟梁の妻となり、天下を牛耳っているかのように尼将軍と呼ばれた政子であるが、家庭的には、夫や子供のすべてに先立たれるという生涯でもあった。
この戦いの後も、政子は政治の場から身を引くことは出来なかったようである。
おそらく、平穏な家庭を夢見ていたと思われる政子は、頼朝と出会ったために、そして征夷大将軍の妻となったために、そして何よりも、時代が激しく動く時であったために、政子にとって望まぬ生涯であったのかもしれない。
だが、古代から中世へと移る時の流れの中で、きらりと輝く存在であったことも事実である。
( 完 )