雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  言うに及ばず

2012-03-26 08:00:41 | 運命紀行
          運命紀行
          
             言うに及ばず


「これは思いもよらぬご依頼なり。当家譜代の歴々衆さへ持ちあぐむ若君を、此の尼などかりにも守立せん事は似合しからぬ事なり。然れども将軍にも此の尼を尼と思し召し親代わりにも成すべしとの上意にて各々も依頼あることなれば、兎角言うに及ばず承諾し度、われらも女にこそ生まれしも、弓矢取りて世にも知られし信玄が娘なれば、少しもお気遣いなし、いずれにも知らるるごとく御台所より殊の外懇切に預り、只今までは城内にのみ居たれども、此の御子を手前に預りたる上は、今日よりふつと城内へも上るまじ、此の上は早々此方へ御越しある様に計らわれよ」

慶長十八年(1613)三月一日、二代将軍徳川秀忠の老中、土井利勝と本多正信が、江戸城田安門内にある比丘尼屋敷に見性院を訪ね、幸松君の養育を頼みこんだ時の見性院の返答であったと伝えられている。

見性院は、翌日のうちにお静・幸松母子を引き取るために家来を向かわせた。幸松君が三歳の頃のことで、厳しい運命を背負っていたお静と幸松君は見性院の庇護のもとで七歳まで無事に過ごすことが出来、これが、後々の世まで名君と呼ばれる人物を世に出すことになったのである。


     * * *

後に見性院と呼ばれた女性は、戦国の英雄武田信玄の次女として誕生した。
誕生した正確な日も、その名前さえ伝えられていない。当時の女性の記録が男性に比べて極めて少ないことは確かであるが、戦国屈指の大大名の息女であり、徳川幕府の三代将軍、四代将軍にとって重要な人物である保科正之の恩人であるにしては、残されている若い頃の記録はあまりにも少ない。
ただ、晩年の記録から、誕生したのは、天文十三(1544)年の頃と推定できるが、名前は分からないので見性院として紹介させていただく。

見性院が穴山梅雪(信君)に嫁いだのは、十代後半から二十代前半の頃と考えられるが、嫡男誕生は二十八歳の頃で、当時としては遅い初子誕生といえる。
穴山氏は、武田家臣団の筆頭に位置する有力な豪族であった。夫となった梅雪の母は信玄の姉であり、武田一族というべき立場でもある。穴山という姓は、北巨摩郡穴山を本拠地としていたことから名乗るようになったもので、正式な場合には武田氏を名乗ったりしている。

戦国屈指の武将の娘として生まれ、母は転法輪三条家の姫である三条の方であり、嫁いだ先も高い家格を誇っており嫡男も儲け、幸せな日々であったと思われる。
なお、転法輪三条家は、摂関家に次ぐ清華家の一つであり、三条の方の姉は名門細川晴元の室であり、妹は本願寺の法主顕如に嫁いでいる。
しかし、嫡男誕生に喜んだ翌年、実家の信玄が没した。見性院の落胆は大きかったと思えるが、武田一族にとって、さらにわが国戦国史上においても大きな出来事であった。元亀四年(1573)四月のことである。
信玄の家督は諏訪御料人が生んだ勝頼が継いだ。勝頼も信玄を意識してか活発な侵攻を見せているが、武田家の斜陽を防げるものでもなかった。

見性院の夫、穴山梅雪はこの勝頼と対立することが多かった。信玄亡き後の武田家の安泰策における意見対立であったが、梅雪には自分こそが武田氏の後継者であるとの思いもあったらしい。
やがて、梅雪は織田・徳川陣営によしみを結ぶようになり、家康傘下の立場を明らかにすると、勝頼から離れる武将も少なくなかった。
そして、天正十年(1582)三月勝頼は天目山で自刃、名門甲斐武田氏は滅亡する。

梅雪は、家康から本領を安堵され、徳川傘下の大名として生き残ることに成功し、嫡男勝千代と共に武田の後継者を名乗った。これについては、かねてより信長や家康から約束されていたともいう。
だが、同じ年の六月二日、本能寺の変が勃発、織田信長が倒れるという予期せぬ大事が起こった。
この時梅雪は堺にいた。信長の誘いにより、京都・大坂から堺へとのんびりと旅を楽しんでいた家康に随行していたのである。堺から京都に戻る途中で事変を知った家康は、歴史に名高い伊賀越えを敢行して三河に向かったが、別行動とっていた梅雪は、その途中で野武士集団に殺されてしまったのである。

悲嘆の見性院は、これ以後家康の保護下に入ることになる。
家康は梅雪の旧領と駿河の江尻の一部を勝千代に与え、穴山氏の存続を認めた。見性院は梅雪の家臣の支援を得て、勝千代による武田家の復興を目指した。
やがて勝千代は元服し、信治と称し正式に武田氏を名乗るが、その矢先の天正十五年六月、江尻城で病死する。
これにより穴山氏は断絶、所領は没収となった。

失意の見性院に、家康は、五男万千代を養子として与え、穴山氏を継がせ、名前も武田七郎信吉と武田姓を名乗らせた。信吉は水戸十五万石の城主となり、徳川の血統を借りてのことであるとしても武田家の回復が成ったと思われたが、慶長八年(1603)九月、信吉は二十一歳の若さで急死、またもお家は断絶となってしまう。

見性院は、家康より江戸城田安門内に屋敷を与えられ、武蔵国大牧に六百石(諸説ある)の領地与えられた。生活の安泰は図られたことになるが、ついに隠遁の生活に入ることになった。すでに還暦を迎える頃であった。
しかし、この先に運命の出会いが用意されていたのである。
秀忠の御手付きとなるお静は、秀忠の乳母である大乳母局と呼ばれる女性に仕えていたが、見性院はこの大乳母局と親交があった。その関係からか、お静が身籠って里に帰り、秀忠から何の支援も受けられず、将軍御台所から迫害の恐れのある時にも、いささかの支援はしていたらしい。

そして、慶長十八(1613)年三月一日、老中土井利勝らの訪問を受け、まだ三歳の幸松君の養育を依頼されたのである。
すでに七十歳に近い見性院は、戦国の雄武田信玄の血を引くものとして、見事の応対を見せたのが冒頭の言葉である。
その後見性院は江戸城から離れ、幸松君とお静の保護養育に全霊を尽くす。
その間、御台所も幸松君の存在を知ることとなったらしく、差し出すよう申し出もあったらしい。この時も見性院は、「預っているのではない。養子に頂いたのだ」と、全くひるむこともなく突っぱねたと伝えられている。

見性院が幸松君の養育に努めたのには、思惑もあったのかもしれない。徳川の血を引く幸松君により武田家の再興を思い描いたということは、十分想像できる。
しかし、幸松君が七歳になっても将軍家から何の音沙汰もないのを知った時、見性院の考えに変化が起きた。我が身の庇護下にあれば、どうしても女性中心の養育となり、立派な武将として育てるのに不安があったのである。武田の再興は悲願であるが、幸松君を日の本一の弓取りに育てることの方が遥かに優先されることであった。さらに、自らの年齢も考慮に入れなければならなかった。

見性院が後事を託す人物として眼鏡にかなったのは、高遠藩主保科正光であった。保科家はもとは武田に仕えていたが、その後曲折があり今は徳川に仕える小大名に過ぎないが、今なお旧主の娘である見性院に礼を尽くす律儀者であった。
見性院の決断に保科正光は応え、幸松君を嫡子として迎えることを決断する。見性院のもとで四年余りを過ごした幸松君とお静は信州高遠に移るのである。
そして、この両者の決断が、後々の世まで名君と評価される保科正之を誕生させたのである。

見性院は、その後江戸城田安門内の屋敷に戻り、元和八年(1622)五月に世を去った。享年七十九歳であったとか。

                                         ( 完 ) 
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運命紀行  名君への軌跡

2012-03-20 08:00:32 | 運命紀行
          運命紀行

              名君への軌跡


こんな逸話が残されている。

三代将軍徳川家光が、目黒に鷹狩に出掛けた時のことである。
休息をしようとして成就院という寺院に立ち寄って、その旨を申し出ると、ちょうど垣根の手入れをしていた住職が、
「皆さまはいずれよりおいでになられたか」
と尋ねると、家光が答えた。
「われらは将軍家の御供の者なり」
特に身分を隠すこともなかったのであろうが、いきなり自分が将軍だと名乗っては住職を驚かせると思ってついた嘘であった。

住職は家光らを客殿に案内したが、その壁には見事な菊の絵が描かれていた。
「このような片田舎の御寺に珍しく、まことに見事なものかな、いかなる旦那が御寄進なされたものなのか」
と感嘆の表情で家光が尋ねると、住職が答えた。
「保科肥後守殿と申される方の御母上が、常に祈祷の御頼みがございますが、それも御家が貧しいものですから、布施のものも十分ではないと申されましてな」
保科肥後守の御母上、お静の方は、高遠へ移ってからも成就院にいくばくかの寄進を続けていたらしい。
住職は、さらに言葉を続けた。
「あの保科肥後守と申される方は、今の将軍家の正しき御弟と承っていますが、僅かな地を領し、貧しくあられるのがいたわしゅうございます。賤しき身分の者であっても、兄弟の親しみ深いは人のならいでございますのに、どういうことなのでしょうか、貴き御方は情けないものでございます」
これを聞いた家光は、「御顔の色少し損じさせ給ひて」成就院を去ったという。

この逸話は、寛永八年(1681)十一月に保科正之が将軍家光より高遠保科家三万石の相続を許されて間もない頃のこととされている。しかも、翌年一月には二代将軍秀忠が死去しているので、その以降しばらくは家光が鷹狩に出ることなど考えられないので、ほんとに直後のことであったらしい。
しかも、家光が自分の異母弟の存在を知ったのがこの時が最初であったとすれば、正之を自分の弟であることを知らないままに、保科家の相続を認めたことになる。

そして、家光のこの経験が、やがて保科正之という人物を歴史の表舞台へと誘うことになり、同時に、徳川幕府安泰への大きな力を得ることにもなったのである。


     * * *

徳川二代将軍秀忠は、歴史上正確な評価がされ難かった人物ではないだろうか。
最近でこそ、家康という大人物の偉業を引き継いで、しかも大名家に対する厳しい対応などを通じて、徳川長期政権の基礎を築いた人物としての評価がなされているようであるが、かつては、関ヶ原の戦いに遅延するなど武将として凡庸であったとか、嫡男を死なせ次男を秀吉の養子としてしまった家康が仕方なしに決めた後継者だという評価さえあったようだ。
正妻として迎えた浅井三姉妹の末娘お江に頭が上がらず、側室を持たなかったというのもその種の伝聞の一つに過ぎないのではないのだろうか。

確かに、秀忠には公式に認められた側室は一人もいなかった。お江との仲睦まじく多くの子宝に恵まれたからだともいえるが、一人でも多くの男子を得たい当時の武将にとって、嫡男誕生が遅れていた秀忠が側室を一人も持たなかったということは、若干異例であり、年上であり信長公の血筋であるお江に頭が上がらなかったからだというのも、話としては面白い。

その秀忠に子を成した女性がいた。後にお静の方と呼ばれる女性である。
お静は、天正十二年(1584)の生まれであるから、秀忠より五歳下である。
父は、神尾伊予栄加という牢人で、もとは小田原北条氏に仕えていた。その後、徳川家への仕官を求めて江戸に移り住んでいた。そして、次女であるお静は、秀忠の乳母で、その頃大乳母殿と呼ばれていた女性のもとに出仕した。大乳母殿は秀忠政権下で老中を務めた井上正就の母であるが、神尾家は井上家と何らかの伝手があったらしい。

大乳母殿は、江戸城大奥に部屋が与えられており、お静も大乳母殿付きの奥女中になったのである。
当時の武家社会において、乳母と乳を与えられた子との繋がりは相当強いものであった。春日局と家光の関係などはその典型のようなものであるが、秀忠もこの大乳母殿を慕っていたらしく、時々挨拶に訪れていた。そこで、秀忠がお静を見染め、御手付きとなったのである。
やがて、お静は懐妊。本来なら、この段階でお静は晴れて側室として遇せられるはずであるが、秀忠の意思が働いてか否かは不明であるが、この子は日の目を見ることがなかった。
大乳母殿の指示により、兄神尾嘉右衛門のもとに帰されたお静は、一族の意向として流産させられてしまったのである。伝えられているものによれば、神尾一族は家族会議を開いて相談したが、秀忠夫人に知られることを恐れての決心であったという。

お静という女性は、温厚というか欲のない人物であったらしく、徳川家や秀忠に対する不満のようなものを述べることはなかったらしく、この後は大奥とは離れての生活を望んでいたらしい。
しかし、秀忠の思いは消えておらず、大乳母殿を動かしてお静をふたたび大奥に連れ戻したのである。
その立場は、まさに秘密の側室というような微妙なものであったが、お静は再び懐妊し、前と同じように兄のもとに帰されることとなった。
神尾一族は再び家族会議を開き、前回と同じ悲劇的な結末が下されようとした時、姉婿の武村助兵衛と弟の神尾才兵衛が異を唱えたという。

「将軍家の御子を、二度までも水と成しては天罰が恐ろしい」と述べ、「たとえ、この儀により一族全てが処刑されようとも、甘んじて受けよう」と、お静に出産させることを決意させたのである。
将軍家の子供を産むということが、晴れがましいどころか、これほどの決断を必要としたことに驚きを感じるが、それはひとえに将軍御台所お江の方を恐れてのことと伝えられている。お江が直接そのような行動に出るとはとても考えられないが、お世継ぎをめぐる血なまぐさい争いは、武家公家を問わず珍しいことではない。秀忠やお江にそのような意向がなくとも、取り巻く人々の利害に直接関係する可能性もあることであり、お静の一族が懸念したことも一概に大げさというわけにはいかない。

将軍家の支援を受けられないお静に、力強い味方が登場する。
武田信玄の次女で穴山梅雪未亡人の見性院と異母妹の信松院である。見性院は、徳川家より六百石の知行を得ていて、江戸城田安門内に屋敷があり、武州安達郡大牧村に知行所を持っていた。信松院は、八王子で尼寺を営み、武田家の人々の菩提を弔っていた。
おそらく、大乳母殿と見性院とは交流があり、お静が使いに立ったこともあったのかもしれない。そこで、事情を知って、あるいは大乳母殿の働きもあって、お静を助けることになったと考えられる。

慶長十六年(1611)五月七日、お静は無事男の子を出産、身を寄せていた姉婿の武村助兵衛は、直ちに町奉行米津勘兵衛に披露し、勘兵衛はすぐさま老中土井利勝に報告した。
土井利勝は登城して秀忠に伝えると、
「覚えがある」
と答えて、葵の紋付の小袖を利勝に託した。生まれた子供の名前「幸松」も秀忠の命名とも言われている。
しかし秀忠は、お静と生まれた子を江戸城に迎えようとはしなかった。認めはするが子としては遇しないという態度を取ったのである。

幸松と名付けられた子供は、武村助兵衛宅で育てられることになったが、家主の四条藤右衛門らの支援を受け、また、町奉行米津勘兵衛の支援も受けたようであるから、秀忠または土井利勝あたりの密かな援助があったのかもしれない。
しかし一方で、お江の方の手の者が秀忠の落胤を探しているとの情報もあり、幸松を守り育てる人たちはまさに命がけの毎日であった。

慶長十八年(1613)三月、土井利勝と本多正信が田安門内の見性院屋敷を訪れ、「幸松様を養子として養育して欲しい」と申し入れた。幸松やお静の身の危険を察知した上のことであったのかもしれない。
見性院はすでに六十八、九歳くらいになっていたが、さすがに戦国の雄武田信玄の娘らしく、即座に了解した。
大乳母殿との関係や、お静をよく知っていたこともあるが、徳川の血を引く子供によって、武田家再興を夢見た面もあったのかもしれない。幸松、三歳の頃のことであった。

しかし、幸松が七歳を迎える頃になっても、将軍家からは何の音沙汰もなく、女手ばかりの見性院のもとでは将来の武将を育てるのには不安があった。武田家再興の夢は消えるとしても、然るべき人物に幸松の養育を委ねる決意を見性院は固めた。
その白羽の矢が立ったのは、信州高遠藩主保科正光であった。
保科氏は、源平の昔から信州の豪族であった。激しい戦乱の世を、武田氏、織田氏、そして今は徳川氏に属してはいるが、正光は今も江戸出府の折には旧主武田信玄の娘である見性院を訪れる律儀者であった。
見性院は、この武将に数奇な運命を背負わされている幼子を託そうと考えたのである。

この後も幸松は、保科家相続や父秀忠との正式名乗りという問題を抱えながらも、保科正之という名君に育っていく。
冒頭にある、三代将軍となった異母兄家光の厚い信頼を受けたことが、保科正之を名君たらしめたともいえるが、同時に、家光が、そして徳川政権があれほどの繁栄を続けることが出来たのに、保科正之の力も小さからぬ貢献があったといえるが、それはまた別の機会に譲りたい。

                                       ( 完 )

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運命紀行  女の意地

2012-03-14 08:00:59 | 運命紀行
          運命紀行

              女の意地


「御志はうれしゅうございますが、お前さまは、お前さまの御国をしっかりと治めなさいませ。母者のことを心にかけて下さり、有り難く存じますが、私も高齢の身となりました。この地で安寧な日々を過ごさせていただいておりますゆえ、なにとぞご心配賜りませぬように。
それに、時が経ったとはいえ、私にも女の意地とかもございますゆえ・・・」

利隆は、母からの返答に大きく息をついた。ようやく名実ともに太守としての地位を得、父も故人となった今なら、遥か遠国にある母を招くことが可能だと考えたのだが、きっぱりと拒絶を伝える文面であった。
「私にも女の意地とかもございますゆえ・・・」
その言葉には、幼くして別れた母の、高潔な面影が今も変わらず保たれていることが偲ばれた。
利隆は、寂しく微笑み、母の手紙を折りたたんだ。


     * * *

利隆が、母の糸姫と別れたのは、十歳になった頃のことであった。父である池田輝政と離別することとなったためである。
糸姫の父は、摂津国多田源氏の末裔を名乗る豪族中川清秀である。群雄が割拠する摂津にあって茨木城主として五万石を領していた。
輝政の父は、清和源氏の流れをくむ豪族とされる池田恒興である。織田信長の乳兄弟でもあり美濃に十三万石を領有していた。
共に名門の血統を名乗る家柄であり、領有する国土は池田家が若干上回っているとはいえ、輝政は嫡男ではなく似合った家柄といえる。
二人が結婚したのは、天正十年(1582)かその翌年早くのことと考えられが、本能寺の変が天正十年六月二日のことであり、世相を考えるとそれより前だったのかもしれない。
いずれにしても、戦乱の続く中、輝政が十八、九歳、糸姫は少し年下だっと考えられる。

糸姫が嫁いでから、おそらく一年も経たないうちに、父の清秀が戦没する。まだ四十二歳という働き盛りであり、中川家にとっては不運な戦没であった。
本能寺の変の後は、清秀は秀吉陣営に属し、秀吉が柴田勝家と雌雄を決することになった賤ヶ嶽の合戦においても出陣したが、この戦いで討死にしたのである。この合戦における柴田勢の敗因としてあげられるものに、豪勇の武将佐久間盛政の無謀な突進が挙げられることが多いが、中川清秀はこの猛攻のため討死してしまったのである。
その後の秀吉の出世を思うと、清秀の討死は中川家にとってかえすがえすも無念なことであったろう。

清秀の家督は嫡男の秀政が継いだが、この人物もひとかどの武将であったらしい。小牧・長久手の戦い、四国征伐で功績を上げ、播磨三木城十三万石に加増されている。
ところが、その後の朝鮮の役で二十五歳の若さで戦陣に散ってしまったのである。この時の死は、敵軍の待ち伏せに遭って討たれたものであったが、戦死として報告された。戦闘中の死は名誉の死であり、家督相続や報償の対象にもなったが、待ち伏せに遭うなど戦う意思のない中での死は評価されることなく、場合によっては家督相続さえ危うくなるのである。
重臣たちは腐心の上での報告であったが、これが秀吉の知るところとなり怒りを買った。お家断絶の話まであったようだが、父清秀の功績に免じて、秀政の弟の秀成に家督相続が認められた。但し、領地は半減されて六万六千石となった。文禄元年(1592)と改まった年の瀬の頃であったろうか。

一方の池田家は、秀吉傘下で順調な出世の道を進んでいったが、やはり思いがけない不運に遭遇している。
小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康が戦った唯一の合戦であるが、大軍が向かい合いはしたが、何とも不思議な戦いでもあった。戦力面で圧倒的に優位にあった秀吉軍であるが、相手は家康というより織田信雄を家康が援けるという形であり、主筋を討つのを憚る面があった。家康にとっても、織田家への義理はあるが日の出の勢いの秀吉勢とまともにぶつかる愚は避けたいというのが本音であった。
この戦いは、秀吉と信雄が和睦することになり、何とはなしに引き分けに終わったような戦いであった。
その中で、池田恒興らが率いる一軍が家康軍の背後を突くという戦略に動き、局地的な激戦が行われた。ここでは、秀吉勢が手痛い損害を出しており、池田恒興は嫡男と共に討死してしまったのである。

池田家にとっては、主人と嫡男を失うという不運であったが、これにより、輝政は池田家の家督を相続することになったのである。
天正十八年(1590)の小田原の役の後、輝政は吉田十五万二千石に加増された。糸姫は実家を凌ぐ身代の正室となり、嫡男も生まれていて幸せな日々を迎えていた。
そこに、督姫という女性が登場してくるのである。

督姫は徳川家康の次女である。永禄八年(1565)の生まれで、輝政より一歳年下、糸姫と同年か少し上くらいである。
十九歳の頃、北条氏直のもとに嫁ぎ、二女を儲けている。旧織田遺領である甲斐・信濃を徳川が、上野を北条が統治することで和睦が成立し、その条件の一つとしての婚姻であった。
天正十八年(1590)、北条氏は秀吉により滅ぼされる。氏直は義父である家康の嘆願により一命を助けられ高野山に流された。そのご、赦免された氏直のもとに督姫は赴くも、翌年に氏直は死去したため、父のもとに戻っていた。

その督姫と、輝政の婚姻が画策されるようになるのである。
秀吉の計らいによるものとも伝えられているが、秀吉にすれば家康に恩を売る思惑からのものかもしれない。家康にしても、嫁ぎ先を滅ぼしたことから督姫に対する謝罪のような気持ちもあったかもしれないが、輝政との婚姻が徳川の将来にとって悪くない話であるとの打算もあったと考えられる。
輝政にしても、天下人の秀吉と、その次の実力者である家康双方からの申し出を拒絶することは難しかったであろうが、池田家の将来への打算もなかったとは言えまい。

しかし、そこには大きな問題があった。
家康の娘を嫁に迎える以上は、第二夫人などというわけにはいかなかった。当然正室として迎えることになるが、輝政には、糸姫という嫡男さえ儲けているれっきとした正室がいた。嫁として何の不満もなく平和な家庭が築かれていた。
しかし、戦乱の世を生き抜いていく手段は、戦場にだけあるものではなかった。婚姻による家と家との結び付きも重要な戦略であった。

輝政が糸姫に離婚を申し出たのは、文禄三年(1593)の頃であったのだろうか。
この頃、糸姫の実家中川家は、大変な窮地にあった。糸姫の父清秀の後を継いでいた秀政の朝鮮の役での戦没に絡み、秀吉の怒りを買い、ようやく領地半減とされて弟の秀成に家督相続されたばかりの頃である。
家康の娘を嫁に迎えるためだとはいえ、落ち目にある長年の妻の実家に対する無常な仕打ちに、中川家の若き当主秀成は激怒したという。
糸姫は、十歳になったばかりの嫡男利隆を残して池田家を去った。その時の状況について伝えられているものはないが、想像するだけで胸に迫るものがある。

中川秀成は、その後、豊後岡城七万石に加増転封となり、糸姫もそちらに移り生涯を過ごしたようである。
輝政のもとに残した一子利隆は、紆余曲折を経た後に輝政の死後家督を相続し姫路城主となった。
利隆は、母を引き取ることを考えたともいわれるが実現することはなかった。
御家の事情で婚家を追われた糸姫に哀れを感じるが、督姫もまた戦国の悲哀を背負った花嫁といえる。

                                       ( 完 )
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運命紀行  やんぬるかな

2012-03-08 08:00:28 | 運命紀行
          運命紀行

             やんぬるかな


「やんぬるかな、ここまでであったか・・・」
如水は、天を仰いだ。
家康からの使者の到着を伝えられた時、如水の胸中を様々な思いが駆け巡った。
大敵とはいえ対峙しようとしている島津を降すことに、それほどの難儀を感じているわけではなかった。
しかし、嫡男の長政は家康のもとにあり、その身を危険にさらすわけにはいかなかった。


世に言う天下分け目の関ヶ原の合戦という表現は、歴史認識からいえば正しい。
まさにこの戦いによって、天下の権は豊臣家から徳川家に移ったことは明らかであり、後年の大坂の役は、豊臣家の滅亡という大きな意味はあるとしても、天下云々という戦いではなかった。
万が一にも、局地戦において大坂方が勝利して、例えば徳川家康を討ち取ることが出来たとしても、それで豊臣家の天下が戻るようなことはなかったであろう。

しかし、慶長五年(1600)九月十五日、美濃の国関ヶ原において、東西両軍合わせて二十万ともいわれる大軍が激突し、しかも半日余りで決着してしまったこの戦いが全てであったわけではない。
この戦いに向けての、各地での前哨戦があり、追討戦もあった。
よく知られているように、徳川主力軍を率いた徳川秀忠が、信州で真田氏の抵抗に遭い関ヶ原に参陣出来なかったのもその一例であり、全国各地で東西勢力の激しい戦いや、きわどい調略戦が展開されたのである。
九州においても、大坂の動向や東西両勢力の情勢を窺いながら、激しい戦いへと突入していったのである。

この頃、黒田如水(官兵衛孝高)は、豊前中津城にあった。
形の上では如水は隠居の身であり、当主である嫡男長政は黒田軍の主力と共に大坂に居り、徳川家康と行動を共にするはずであった。
しかし、如水はおとなしく留守を守っているわけではなかった。大坂の動向を探り、あらゆる可能性に対して策を練っていた。

やがて、家康が上杉討伐のため大軍を率いて大坂を離れると、三成挙兵の情報が伝わってきた。
予想通りの動きであった。徳川の勢力が図抜けているとはいえ、大坂方の力もそうそう劣るものでもなかった。家康に率いられている大軍には、いずれも勇猛をもって知られた武将たちが加わっていたが、その多くが秀吉恩顧の大名である。いざ合戦となれば、そうそう家康の軍配通りに動くかどうか、家康は不安を抱き続けることだろう。
戦いは、一朝一夕に決着することはなく、そこにつけ込む隙があると如水は考えていた。

そして、危うく人質となりかけた妻と長政の新妻が大坂屋敷からの脱出に成功し中津城に到着すると、如水は好機の到来を確信した。
それに、妻女たちを守って脱出してきた中には、母里多兵衛や栗山四郎右衛門といった侍大将がおり、留守部隊は俄然戦力の充実が図られた。
如水は、この日のために蓄えて来た金銀や兵糧米を城中広間に積み上げて、広く兵員を募った。九州には秀吉による遠征の影響もあって、浪人が満ち溢れていた。如水の武名を慕って、浪人ばかりでなく百姓町人までも加えて、瞬く間に三千人を超える戦力が整った。

大坂からの情報を睨みながら、如水は九月九日に中津城を出陣した。手兵は九千人にも膨らんでいた。
九州は、西軍勢力が強い地域であった。東軍の旗幟を鮮明にしている有力大名は、加藤清正ぐらいである。九州の地は東軍勢力は劣勢にあり、如水は家康から、合戦が始まれば切り取り次第という密約があったともいわれている。

如水の出陣と同じくして、大友義統(ヨシムネ)が大坂から豊後に上陸した。
豊後は長年大友氏の勢力下にあり、秀吉により豊後一国を没収されている義統にとって、大坂方からの誘致は望んでもないほどの好機であった。武器や軍資金を与えられ、大坂で浪人を募っての参戦であったが、さすがに豊後上陸後に兵を募ると瞬く間に三千人もの兵団となった。

如水はその日は家臣の居城に入って一泊。その翌日には、東軍か西軍かの態度を鮮明にしない竹中重利(竹中半兵衛の従兄弟)の居城を取り囲み、味方につけることに成功する。黒田軍は竹中軍の兵も加え、国東半島の中央を進み、大友軍の先兵に攻撃されている杵築城の救援にあたった。杵築城は、細川忠興の持ち城であり、城代の松井康之らとは連絡を取り合っていた。
最初の大きな戦いは、安岐城の熊谷軍とであったが、栗山四郎右衛門らの活躍により大勝した。

九月十三日、黒田軍と大友軍の主力部隊が激突した。石垣原の合戦である。戦いは激戦となった。黒田軍も多くの被害を出しながらも、井上九郎右衛門らの活躍により、ついに勝利する。
大敗北となった大友軍からは逃亡者が続出、ついに大友義統は剃髪し墨染の衣姿で僅かの家臣と共に如水の軍門に下った。九月十五日のことで、奇しくも、家康が関ヶ原において大勝利を収めた日であった。

やがて、関ヶ原での敗戦を知った西軍方の諸城は、急速に戦意を失い、多くは如水の説得に応じて味方となっていった。
豊後一帯を一か月足らずで平定した黒田軍は、吸収した兵力を加えた大軍を北に向かわせた。毛利氏の小倉城や久留米城を開城させ、加藤清正軍も加わり、立花統虎の柳川城も開城させることに成功した。
残る勢力は、薩摩の雄島津氏だけである。

如水は、自軍に加わった立花統虎を先陣に立て、肥後を経て水島まで進んだ。
そして、そこで、徳川家康からの停戦命令を受けたのである。十一月十二日のことであった。


     * * *

黒田官兵衛孝高、のちの如水について語る時、必ずと言っていいほどに、「稀代の軍師」という言葉が付けられる。

播磨御着城の小寺氏に属し姫路城代を務める家に生まれた官兵衛は、毛利影響下にあった主家を織田陣営に移らせ、やがて秀吉の軍師として高い評価を受け、その死後には家康政権下の大大名としての地位を築いている。しかし、官兵衛の最期の闘いは、不完全燃焼であったように思える。
戦国末期の、最も激しい時代を最も激しく駆け抜けた男、多くの戦いを勝ち抜いた戦国時代の勝利者の一人とも見える男の晩年は、一体どのようなものであったのだろうか。

秀吉の九州討伐完了後、官兵衛は豊前の国八郡のうちの六郡が与えられた。表高は十二万石とも、十六万石あるいは十八万石とも、さらに実高は二十二万石であったと言われている。決して冷遇というほどではないとしても、秀吉の天下取りに多大な貢献をしている割には、不十分な処遇のように見える。しかも、大坂から遠く離れた豊前国である。
その原因には、官兵衛には、その才能ゆえに、秀吉に限らず天下人に危険な匂いを与える人物だったらしいのである。

伝えられているエピソードをいくつか紹介してみよう。

本能寺の変の悲報を受けた秀吉は、周囲の目も憚らず嘆き悲しんだという。
その時官兵衛は、「信長公の御事は言語に絶し候。御愁傷もっとも至極に存じ候」と同調したが、その後秀吉の耳元で、「君を弑せし明智光秀を討ち、天下の権柄を取り給うべき」と進言したという。
これにより、「中国大返し」が実現し、秀吉は天下人へと上っていった。
しかし、この時、秀吉が嘆き悲しんでいたというのは大いに眉唾ものである。心中、絶好のチャンスがやってきたと考えていたに違いない。ところが、冷静に同じことを考える男がもう一人いたのである。
秀吉が、官兵衛に危険な匂いを感じた最初かもしれない。

秀吉がお伽衆と雑談中、「もし、自分が死んだあと、天下を取る力量を持っているのは誰か」と尋ねた。
側近くにいる者は、遠慮がちに、徳川や前田や毛利の名前を挙げた。秀吉は、笑いながら首を振り、「官兵衛孝高であろう。あの者の知力は、とても自分及ぶところではない」と言ったという。
この話を伝え聞いた官兵衛は、早々と家督を嫡男長政に譲り、隠居した。

関ヶ原の戦いの論功行賞で、九州において無類の働きを見せた如水(官兵衛)に、何故報いないのかと尋ねられた家康は、「如水の働きは、心底が知れないものだ。長政だけに恩賞すればよい」と答えたという。

やはり関ヶ原の戦いのあとのこと。家康は長政の働きを大いに感謝して、その手を取って頭を下げたという。
凱旋してきた長政は、得意満面でこの話を父親に披露した。如水は不機嫌な様子でたずねた。
「家康が手を握ったというが、どちらの手を握ったのだ?」
「私の右手でございました」
「その時お前の左手は何をしていた?」
「何もしておりません。ただぶらぶらさせておりました」
「馬鹿者めが。なぜ空いている左手で家康を殺さなかったのだ」

この最後のエピソードなどは出来過ぎていて、稀代の軍師といわれるような人物がこんな軽率な言葉を人に聞かれるはずがないと思われるが、如水が天下まで狙っていたかどうかはともかく、九州制圧程度は考えていたように感じられる。

長政が筑前の国五十二万石余を与えられ、福崎改め福岡城の建設にかかると、如水は太宰府天満宮の庵で隠棲生活に入った。
城の完成後は、三の丸の通称御鷹屋敷で妻と共に完全な隠居生活に入った。しかし、その期間はそれほど長いものではなかった。
上洛し、高台院に秀吉未亡人(北政所)を見舞ったり、有馬に湯治に出掛けたりしているが、慶長九年(1604)三月、京都の黒田家伏見屋敷で没した。享年、五十九歳。静かな最期であったという。

                                       ( 完 )


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