運命紀行
言うに及ばず
「これは思いもよらぬご依頼なり。当家譜代の歴々衆さへ持ちあぐむ若君を、此の尼などかりにも守立せん事は似合しからぬ事なり。然れども将軍にも此の尼を尼と思し召し親代わりにも成すべしとの上意にて各々も依頼あることなれば、兎角言うに及ばず承諾し度、われらも女にこそ生まれしも、弓矢取りて世にも知られし信玄が娘なれば、少しもお気遣いなし、いずれにも知らるるごとく御台所より殊の外懇切に預り、只今までは城内にのみ居たれども、此の御子を手前に預りたる上は、今日よりふつと城内へも上るまじ、此の上は早々此方へ御越しある様に計らわれよ」
慶長十八年(1613)三月一日、二代将軍徳川秀忠の老中、土井利勝と本多正信が、江戸城田安門内にある比丘尼屋敷に見性院を訪ね、幸松君の養育を頼みこんだ時の見性院の返答であったと伝えられている。
見性院は、翌日のうちにお静・幸松母子を引き取るために家来を向かわせた。幸松君が三歳の頃のことで、厳しい運命を背負っていたお静と幸松君は見性院の庇護のもとで七歳まで無事に過ごすことが出来、これが、後々の世まで名君と呼ばれる人物を世に出すことになったのである。
* * *
後に見性院と呼ばれた女性は、戦国の英雄武田信玄の次女として誕生した。
誕生した正確な日も、その名前さえ伝えられていない。当時の女性の記録が男性に比べて極めて少ないことは確かであるが、戦国屈指の大大名の息女であり、徳川幕府の三代将軍、四代将軍にとって重要な人物である保科正之の恩人であるにしては、残されている若い頃の記録はあまりにも少ない。
ただ、晩年の記録から、誕生したのは、天文十三(1544)年の頃と推定できるが、名前は分からないので見性院として紹介させていただく。
見性院が穴山梅雪(信君)に嫁いだのは、十代後半から二十代前半の頃と考えられるが、嫡男誕生は二十八歳の頃で、当時としては遅い初子誕生といえる。
穴山氏は、武田家臣団の筆頭に位置する有力な豪族であった。夫となった梅雪の母は信玄の姉であり、武田一族というべき立場でもある。穴山という姓は、北巨摩郡穴山を本拠地としていたことから名乗るようになったもので、正式な場合には武田氏を名乗ったりしている。
戦国屈指の武将の娘として生まれ、母は転法輪三条家の姫である三条の方であり、嫁いだ先も高い家格を誇っており嫡男も儲け、幸せな日々であったと思われる。
なお、転法輪三条家は、摂関家に次ぐ清華家の一つであり、三条の方の姉は名門細川晴元の室であり、妹は本願寺の法主顕如に嫁いでいる。
しかし、嫡男誕生に喜んだ翌年、実家の信玄が没した。見性院の落胆は大きかったと思えるが、武田一族にとって、さらにわが国戦国史上においても大きな出来事であった。元亀四年(1573)四月のことである。
信玄の家督は諏訪御料人が生んだ勝頼が継いだ。勝頼も信玄を意識してか活発な侵攻を見せているが、武田家の斜陽を防げるものでもなかった。
見性院の夫、穴山梅雪はこの勝頼と対立することが多かった。信玄亡き後の武田家の安泰策における意見対立であったが、梅雪には自分こそが武田氏の後継者であるとの思いもあったらしい。
やがて、梅雪は織田・徳川陣営によしみを結ぶようになり、家康傘下の立場を明らかにすると、勝頼から離れる武将も少なくなかった。
そして、天正十年(1582)三月勝頼は天目山で自刃、名門甲斐武田氏は滅亡する。
梅雪は、家康から本領を安堵され、徳川傘下の大名として生き残ることに成功し、嫡男勝千代と共に武田の後継者を名乗った。これについては、かねてより信長や家康から約束されていたともいう。
だが、同じ年の六月二日、本能寺の変が勃発、織田信長が倒れるという予期せぬ大事が起こった。
この時梅雪は堺にいた。信長の誘いにより、京都・大坂から堺へとのんびりと旅を楽しんでいた家康に随行していたのである。堺から京都に戻る途中で事変を知った家康は、歴史に名高い伊賀越えを敢行して三河に向かったが、別行動とっていた梅雪は、その途中で野武士集団に殺されてしまったのである。
悲嘆の見性院は、これ以後家康の保護下に入ることになる。
家康は梅雪の旧領と駿河の江尻の一部を勝千代に与え、穴山氏の存続を認めた。見性院は梅雪の家臣の支援を得て、勝千代による武田家の復興を目指した。
やがて勝千代は元服し、信治と称し正式に武田氏を名乗るが、その矢先の天正十五年六月、江尻城で病死する。
これにより穴山氏は断絶、所領は没収となった。
失意の見性院に、家康は、五男万千代を養子として与え、穴山氏を継がせ、名前も武田七郎信吉と武田姓を名乗らせた。信吉は水戸十五万石の城主となり、徳川の血統を借りてのことであるとしても武田家の回復が成ったと思われたが、慶長八年(1603)九月、信吉は二十一歳の若さで急死、またもお家は断絶となってしまう。
見性院は、家康より江戸城田安門内に屋敷を与えられ、武蔵国大牧に六百石(諸説ある)の領地与えられた。生活の安泰は図られたことになるが、ついに隠遁の生活に入ることになった。すでに還暦を迎える頃であった。
しかし、この先に運命の出会いが用意されていたのである。
秀忠の御手付きとなるお静は、秀忠の乳母である大乳母局と呼ばれる女性に仕えていたが、見性院はこの大乳母局と親交があった。その関係からか、お静が身籠って里に帰り、秀忠から何の支援も受けられず、将軍御台所から迫害の恐れのある時にも、いささかの支援はしていたらしい。
そして、慶長十八(1613)年三月一日、老中土井利勝らの訪問を受け、まだ三歳の幸松君の養育を依頼されたのである。
すでに七十歳に近い見性院は、戦国の雄武田信玄の血を引くものとして、見事の応対を見せたのが冒頭の言葉である。
その後見性院は江戸城から離れ、幸松君とお静の保護養育に全霊を尽くす。
その間、御台所も幸松君の存在を知ることとなったらしく、差し出すよう申し出もあったらしい。この時も見性院は、「預っているのではない。養子に頂いたのだ」と、全くひるむこともなく突っぱねたと伝えられている。
見性院が幸松君の養育に努めたのには、思惑もあったのかもしれない。徳川の血を引く幸松君により武田家の再興を思い描いたということは、十分想像できる。
しかし、幸松君が七歳になっても将軍家から何の音沙汰もないのを知った時、見性院の考えに変化が起きた。我が身の庇護下にあれば、どうしても女性中心の養育となり、立派な武将として育てるのに不安があったのである。武田の再興は悲願であるが、幸松君を日の本一の弓取りに育てることの方が遥かに優先されることであった。さらに、自らの年齢も考慮に入れなければならなかった。
見性院が後事を託す人物として眼鏡にかなったのは、高遠藩主保科正光であった。保科家はもとは武田に仕えていたが、その後曲折があり今は徳川に仕える小大名に過ぎないが、今なお旧主の娘である見性院に礼を尽くす律儀者であった。
見性院の決断に保科正光は応え、幸松君を嫡子として迎えることを決断する。見性院のもとで四年余りを過ごした幸松君とお静は信州高遠に移るのである。
そして、この両者の決断が、後々の世まで名君と評価される保科正之を誕生させたのである。
見性院は、その後江戸城田安門内の屋敷に戻り、元和八年(1622)五月に世を去った。享年七十九歳であったとか。
( 完 )
言うに及ばず
「これは思いもよらぬご依頼なり。当家譜代の歴々衆さへ持ちあぐむ若君を、此の尼などかりにも守立せん事は似合しからぬ事なり。然れども将軍にも此の尼を尼と思し召し親代わりにも成すべしとの上意にて各々も依頼あることなれば、兎角言うに及ばず承諾し度、われらも女にこそ生まれしも、弓矢取りて世にも知られし信玄が娘なれば、少しもお気遣いなし、いずれにも知らるるごとく御台所より殊の外懇切に預り、只今までは城内にのみ居たれども、此の御子を手前に預りたる上は、今日よりふつと城内へも上るまじ、此の上は早々此方へ御越しある様に計らわれよ」
慶長十八年(1613)三月一日、二代将軍徳川秀忠の老中、土井利勝と本多正信が、江戸城田安門内にある比丘尼屋敷に見性院を訪ね、幸松君の養育を頼みこんだ時の見性院の返答であったと伝えられている。
見性院は、翌日のうちにお静・幸松母子を引き取るために家来を向かわせた。幸松君が三歳の頃のことで、厳しい運命を背負っていたお静と幸松君は見性院の庇護のもとで七歳まで無事に過ごすことが出来、これが、後々の世まで名君と呼ばれる人物を世に出すことになったのである。
* * *
後に見性院と呼ばれた女性は、戦国の英雄武田信玄の次女として誕生した。
誕生した正確な日も、その名前さえ伝えられていない。当時の女性の記録が男性に比べて極めて少ないことは確かであるが、戦国屈指の大大名の息女であり、徳川幕府の三代将軍、四代将軍にとって重要な人物である保科正之の恩人であるにしては、残されている若い頃の記録はあまりにも少ない。
ただ、晩年の記録から、誕生したのは、天文十三(1544)年の頃と推定できるが、名前は分からないので見性院として紹介させていただく。
見性院が穴山梅雪(信君)に嫁いだのは、十代後半から二十代前半の頃と考えられるが、嫡男誕生は二十八歳の頃で、当時としては遅い初子誕生といえる。
穴山氏は、武田家臣団の筆頭に位置する有力な豪族であった。夫となった梅雪の母は信玄の姉であり、武田一族というべき立場でもある。穴山という姓は、北巨摩郡穴山を本拠地としていたことから名乗るようになったもので、正式な場合には武田氏を名乗ったりしている。
戦国屈指の武将の娘として生まれ、母は転法輪三条家の姫である三条の方であり、嫁いだ先も高い家格を誇っており嫡男も儲け、幸せな日々であったと思われる。
なお、転法輪三条家は、摂関家に次ぐ清華家の一つであり、三条の方の姉は名門細川晴元の室であり、妹は本願寺の法主顕如に嫁いでいる。
しかし、嫡男誕生に喜んだ翌年、実家の信玄が没した。見性院の落胆は大きかったと思えるが、武田一族にとって、さらにわが国戦国史上においても大きな出来事であった。元亀四年(1573)四月のことである。
信玄の家督は諏訪御料人が生んだ勝頼が継いだ。勝頼も信玄を意識してか活発な侵攻を見せているが、武田家の斜陽を防げるものでもなかった。
見性院の夫、穴山梅雪はこの勝頼と対立することが多かった。信玄亡き後の武田家の安泰策における意見対立であったが、梅雪には自分こそが武田氏の後継者であるとの思いもあったらしい。
やがて、梅雪は織田・徳川陣営によしみを結ぶようになり、家康傘下の立場を明らかにすると、勝頼から離れる武将も少なくなかった。
そして、天正十年(1582)三月勝頼は天目山で自刃、名門甲斐武田氏は滅亡する。
梅雪は、家康から本領を安堵され、徳川傘下の大名として生き残ることに成功し、嫡男勝千代と共に武田の後継者を名乗った。これについては、かねてより信長や家康から約束されていたともいう。
だが、同じ年の六月二日、本能寺の変が勃発、織田信長が倒れるという予期せぬ大事が起こった。
この時梅雪は堺にいた。信長の誘いにより、京都・大坂から堺へとのんびりと旅を楽しんでいた家康に随行していたのである。堺から京都に戻る途中で事変を知った家康は、歴史に名高い伊賀越えを敢行して三河に向かったが、別行動とっていた梅雪は、その途中で野武士集団に殺されてしまったのである。
悲嘆の見性院は、これ以後家康の保護下に入ることになる。
家康は梅雪の旧領と駿河の江尻の一部を勝千代に与え、穴山氏の存続を認めた。見性院は梅雪の家臣の支援を得て、勝千代による武田家の復興を目指した。
やがて勝千代は元服し、信治と称し正式に武田氏を名乗るが、その矢先の天正十五年六月、江尻城で病死する。
これにより穴山氏は断絶、所領は没収となった。
失意の見性院に、家康は、五男万千代を養子として与え、穴山氏を継がせ、名前も武田七郎信吉と武田姓を名乗らせた。信吉は水戸十五万石の城主となり、徳川の血統を借りてのことであるとしても武田家の回復が成ったと思われたが、慶長八年(1603)九月、信吉は二十一歳の若さで急死、またもお家は断絶となってしまう。
見性院は、家康より江戸城田安門内に屋敷を与えられ、武蔵国大牧に六百石(諸説ある)の領地与えられた。生活の安泰は図られたことになるが、ついに隠遁の生活に入ることになった。すでに還暦を迎える頃であった。
しかし、この先に運命の出会いが用意されていたのである。
秀忠の御手付きとなるお静は、秀忠の乳母である大乳母局と呼ばれる女性に仕えていたが、見性院はこの大乳母局と親交があった。その関係からか、お静が身籠って里に帰り、秀忠から何の支援も受けられず、将軍御台所から迫害の恐れのある時にも、いささかの支援はしていたらしい。
そして、慶長十八(1613)年三月一日、老中土井利勝らの訪問を受け、まだ三歳の幸松君の養育を依頼されたのである。
すでに七十歳に近い見性院は、戦国の雄武田信玄の血を引くものとして、見事の応対を見せたのが冒頭の言葉である。
その後見性院は江戸城から離れ、幸松君とお静の保護養育に全霊を尽くす。
その間、御台所も幸松君の存在を知ることとなったらしく、差し出すよう申し出もあったらしい。この時も見性院は、「預っているのではない。養子に頂いたのだ」と、全くひるむこともなく突っぱねたと伝えられている。
見性院が幸松君の養育に努めたのには、思惑もあったのかもしれない。徳川の血を引く幸松君により武田家の再興を思い描いたということは、十分想像できる。
しかし、幸松君が七歳になっても将軍家から何の音沙汰もないのを知った時、見性院の考えに変化が起きた。我が身の庇護下にあれば、どうしても女性中心の養育となり、立派な武将として育てるのに不安があったのである。武田の再興は悲願であるが、幸松君を日の本一の弓取りに育てることの方が遥かに優先されることであった。さらに、自らの年齢も考慮に入れなければならなかった。
見性院が後事を託す人物として眼鏡にかなったのは、高遠藩主保科正光であった。保科家はもとは武田に仕えていたが、その後曲折があり今は徳川に仕える小大名に過ぎないが、今なお旧主の娘である見性院に礼を尽くす律儀者であった。
見性院の決断に保科正光は応え、幸松君を嫡子として迎えることを決断する。見性院のもとで四年余りを過ごした幸松君とお静は信州高遠に移るのである。
そして、この両者の決断が、後々の世まで名君と評価される保科正之を誕生させたのである。
見性院は、その後江戸城田安門内の屋敷に戻り、元和八年(1622)五月に世を去った。享年七十九歳であったとか。
( 完 )