雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

清少納言の夢

2017-02-25 08:46:10 | 麗しの枕草子物語
          麗しの枕草子物語

               清少納言の夢

私の夢でございますか?
願い事は沢山ございますが、さて、夢といわれますとねぇ・・・。まあ、こんなことは考えてみたりしますわねぇ。

宮仕えしている女房たちが、宿下がりした時などに落ち合って、それぞれの御主人のことを、自慢し合ったり、宮家方や大臣家方の様子などを、互いに話し合えるような場所を提供して、私はといえば、その家の女主人として、にこにこしながら聞いているなんてのは、いいと思いますねぇ。

望めることなら、屋敷が広くて、瀟洒な造りで、私の親族はもちろんのこと、親しく付き合っている人も、そう、特に宮仕えする女房を、あちらこちらの部屋に住まわせるのも、やってみたいことですわ。
そして、何かの折には、家中の人が一か所に集まって、物語を聞かせたり、誰かが詠んだ和歌などの感想を述べ合ったり、ちょっとすてきな御方からの手紙なんかも持ち寄ったりして、互いに見せ合ったり、返事を書いたりするのも楽しいでしょうね。
また、女房の誰かと親しい男性が訪ねて来たりすれば、きれいに整えた部屋に迎え入れ、雨など降って帰れない時でも、気持ちよくもてなし、女房が帰参するような時には、十分な準備をしてやって、満足いくようにして出掛けさせてやりたいのです。

まあ、高貴な方々の噂を知りたがったり、若い女房の世話を焼きたがったりするのは、行き過ぎた好奇心かもしれませんが、私の夢といえば、こんなところでございますでしょうか。


(第二百八十四段・宮仕えする人々の、より)
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歴史散策  女帝輝く世紀

2017-02-22 11:26:37 | 歴史散策
     歴 史 散 策
        『 女帝輝く世紀 』

     飛鳥時代から奈良時代にかけては、現在の日本の礎を築いた時代であり、多くの文化が芽生え、
     激しい動乱があり、現代に続く多くの秩序が育まれた。
     同時に、この時代には多くの女性天皇が誕生しており、まさに『女帝輝く世紀』でもあった。
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歴史散策  女帝輝く世紀 (1)

2017-02-22 11:24:45 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 (1) 』

国家創成の時

我が国が誕生したのはいつか?
この命題は、古来常に存在し、その時々に明快に確定されてきたと考えられる。しかし、現代において、この命題を万人に納得させる答えを提示することは極めて困難と思われる。
そもそも、わが国という国家を、どのような状態をもって成立とするのかさえ難題と言える。

現在の私たちが、それも市販されている程度の資料を基に推定することは、楽しいことではあるが、歴史的真実に迫れるものではない。本稿は、この前提のもとに、現在に至る日本という国家の創成期に想いを馳せようという試みである。従って、誰でも簡単に目にすることが出来る資料がベースであり、しかも筆者の好みで選定されている傾向は否めないため、研究者の方にお叱りを受ける部分も少なくないと思われるが、一つの考え方、一つの読み物として勘弁いただきたい。

さて、その前提に立ってわが国の古代の状況を探る場合、その基本となるものは『古事記』であり『日本書紀』であり、あるいは断片的に伝えられていて比較的容易に目にすることの出来る資料である。そして、この時代について文献を発表されている研究者の方々の苦心の成果を頂戴していることもお断りしておきたい。
さらに言えば、その当時の資料として伝えられている物の多くは、天皇を中心とした有力豪族たちが中心にならざるを得ない。つまり、存在や動向の真偽はともかくとして、歴代天皇に関する資料が中心となる。

その天皇の初代が即位した時をもって国家成立の時と考える場合、これまでにいくつかの説が存在している。
まず最初は神武天皇の即位である。第二次世界大戦に突入する直前の頃、「紀元二千六百年」とさかんに詠われたと伝えられている。つまり、神武天皇が即位してから二千六百年が経ったということを祝ったものである。さすがに現代においては、神武天皇並びにその後の数代ないし十数代は神話の世界と渾沌としていて、歴史的事実として捉えるのには無理があるというのが主流のようである。
ただ、古事記や日本書紀に伝えられているような神武天皇の伝承全てが史実とするのは無理があるとしても、その断片的な部分に国家創成時のヒントが隠されている可能性は否定できないような気がする。

その次は、第十代崇神(スジン/スウジン)天皇の即位を国家成立とする説である。
その根拠とするところは、それ以前の天皇の実在性が疑われることにあり、何よりも、この天皇の和風諡号か「御肇国天皇」とされていることにある。その読みは、「はつくにしらすすめらみこと」であり、始めてこの国を治めた天皇と言った意味になっている。神武天皇の和風諡号は、「始馭天下之天皇」であり、読みは同じく「はつくにしらすすめらみこと」である。
この和風諡号については、奈良時代に入って後の西暦762~764年の頃に、淡海三船によって歴代天皇の大半について一括撰進されたとされているので、後世作られたものとなる。それは同時に、当時の指導層の多くは、崇神天皇こそ初代天皇である、あるいは、神武天皇と同一人物であるとの認識があったということになるともいえる。

三つ目は、第十五代応神天皇をもって国家成立とする考え方である。
応神天皇は、当カテゴリー内の『空白の時代』の主人公である神功皇后の皇子である。父は第十四代仲哀天皇であるが、その崩御から応神天皇が即位するまでに七十年という時間を要している。その間は神功皇后が実質的な天皇として権力を護ったとされている。また、仲哀天皇の父があの日本武尊であることなどを考え合わせると、応神天皇即位の前に権力の断絶あるいは移行があったと想像することには、相応の納得性を感じる。

そして、現代の天皇につながる皇室の系譜として実在が確実視されているのは、第二十六代継体天皇に始まるという説もある。
継体天皇は、その諡号からして、「継体」となっているのであるから、あまりにも分かり易いと言える。神武以来の王朝は継体天皇によって簒奪されたという考え方もあるが、私個人は納得性が無いように思われる。
継体天皇が即位できたのは、応神天皇五世孫という系譜によるとされるが、これはかなり無理筋と思われる。また、継体天皇崩御後の二十七代・二十八代天皇は、継体天皇と尾張連の娘である目子媛(メノコヒメ)との間に生まれた御子である。つまり大和の王朝とは違う系譜が成立しそうになっているのである。しかし、第二十九代には仁賢天皇(第二十四代)の娘である手白香(タシラカ)皇女との間に生まれた欽明天皇が就いており、旧来からの系譜に配慮したものになっている。継体天皇が即位にあたって、前天皇までの系譜をひく手白香皇女を皇后に迎えることによって大和の政権と調和を図ったと考えられるが、それでもなお、大和の地に入るのに即位から十九年を要したとされている。

それにしても、継体天皇という人物は、実に秘密に満ちている。生没年も今一つはっきりしないし、単に次期天皇として迎えられたのか、強引に政権を奪いに行ったのか、いずれとも判断するのはなかなか難しい。その崩御についも、殺害されたのだという説は根強くあり、しかも、次代・次々代とされる御子と共に殺害され、欽明天皇の即位となったという説もある。
本稿では、継体天皇についてはここまでとするが、この頃に、大和の朝廷を支えてきた勢力と、継体天皇を頂点とした近江・越・尾張辺りの勢力との間で、あるいは、もっと複雑な絡みで勢力争いがあったと想像されるのである。
そして、その史実や、伝承の正否はともかくとして、継体天皇から欽明天皇へと繋がれる間に、政権の大きな動揺があり、新しい次の時代を生み出したのだと言えるのではないだろうか。

     ☆   ☆   ☆




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歴史散策  女帝輝く世紀 (2)

2017-02-22 11:23:52 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 (2) 』

飛鳥時代前夜

我が国の古代の時代区分の仕方にはいくつかの方法があると思われるが、伝統的なものとしては、「縄文時代・弥生時代の前期」を原始時代とし、それ以降を、「弥生時代後期」「古墳時代」」「奈良時代」「平安時代前期」を古代とし、それ以後、およそ藤原道長が登場した頃から後を中世とするのが一般的と考えられる。
そして、「戦国時代の中頃から江戸時代の終盤まで」を近世とし、「明治・大正・昭和の太平洋戦争降伏まで」を近代とし、それ以後を現代とされているようである。

このうち、「古墳時代」とほぼ同じ頃と考えられる、大和の地に統一政権らしいものが登場してきた後を、「大和時代」あるいは「大和朝廷時代」と呼ぶこともあるようだ。
そして、その「大和朝廷時代」のうち、飛鳥(明日香)の地に政権の中枢が置かれるようになって後を、「飛鳥時代」と呼ぶことがある。この「飛鳥時代」という分類は、もともとは美術史において使われたものだそうで、飛鳥時代から奈良時代にかけての優れた文化を、飛鳥文化・白鳳文化・天平文化と分類したが、最近では、飛鳥時代は歴史全体の時代区分として用いられることも多くなっている。
本稿の舞台となる時代は、まさに、この飛鳥時代と奈良時代である。

さて、応神天皇の五世孫とされる継体天皇が大和入りしたことは前回で述べたが、王朝の交代があったかどうかはともかく、相当の軋轢を伴ったものであったことは間違いあるまい。そして、継体天皇の崩御の前後においても、皇族間、あるいは豪族間の激しい闘争があったらしいことが想像されるが、やがて、欽明天皇の御代となって一応の落ち着きを得る。

欽明天皇は、近江国あたりから進出してきたと考えられる継体天皇を父に、大和の朝廷の皇女である手白香(タシラカ)皇后を母にしており、まさに両勢力の融和の象徴ともいえる天皇である。それは同時に、継体天皇と共に進出してきた豪族たちと大和の伝統的な豪族、物部、蘇我といった勢力との微妙な均衡の上に立っていたともいえる。
生年は西暦509年とされているが、明確ではない。ただ、手白香皇女が皇后になったのは継体天皇の即位を507年とすれば、概ねその頃であろう。即位は、宣化天皇崩御の年である539年というのが通説のようであるが、継体天皇崩御(531年)に伴って即位したとする説も色濃く伝えられている。もしその説を採るならば、531年から539年のおよそ八年間は、この間の天皇とされる安閑、宣化と欽明の関係はどうなっていたのか、これも諸説あり、欽明天皇も又、継体天皇に負けないほどの謎を背負っている。

しかし、欽明天皇の在位は三十二年間(一説では四十年間)に及び、天皇の権威を安定させるのに大きな働きを成している。
この間は、引き続き大陸、主として朝鮮半島の諸国との間で戦乱や和睦が繰り返される時代が続いていた。特にわが国と関係の深かった任那(ミマナ)が新羅(シラギ)に滅ぼされたのも562年のことである。
また、わが国の文化に大きな影響を及ぼし続けることになる仏教の伝来もこの頃であり、552年に百済の聖明王にって仏像と経典が伝えられている。
欽明崩御後は、敏達、用明、崇峻と欽明天皇の皇子が皇位に就いていくが、継体天皇系と大和系の主導権争いは続いていたと思われる。しかしそれは、両勢力の融和のための動揺期間であると言えなくもない。そして、その揺れ動く朝廷に推古天皇が登場するのである。
継体天皇崩御から推古天皇が登場するまでの期間は、飛鳥時代を誕生させる準備期間であったのかもしれない。

     ☆   ☆   ☆


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歴史散策  女帝輝く世紀 (3)

2017-02-22 11:22:50 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 (3) 』

我が国の女性天皇

我が国の天皇は、神武天皇から今上天皇まで百二十五代を数える。
この中に女性天皇は十代であり、あとの百十五代は男性天皇であるから、わが国の皇位は男性中心に引き継がれてきたことは否定できない。女性天皇のうち二人は重祚(チョゥソ・一度退位したのち再び即位すること)しているので、人数では八人となり、男女差はさらに広がる。
しかし、我が国の歴史を天皇の在位から見てみると、ほぼ実在が確実視されている千数百年のほとんどが男性天皇であることは確かであるが、すべての期間が男性天皇中心であったかということになると、少し違う。明らかに女性天皇が中心であったと考えられる時代がある。
それが、飛鳥時代から奈良時代の期間であり、本稿の表題とした、『女帝輝く世紀』であったと考えられるのである。

因みに、歴代の女性天皇の在位期間を列記してみよう。(西暦年)
33代  推古天皇  ( 592~628 ) 
35代  皇極天皇  ( 642~645 )
37代  斉明天皇  ( 655~661 )
41代  持統天皇 ( 690~697 )
43代  元明天皇 ( 707~715 )
44代  元正天皇 ( 715~724 )
46代  孝謙天皇 ( 749~758 )
48代  称徳天皇 ( 764~770 )
109代 明正天皇 (1629~1643)
117代 後桜町天皇 (1762~1770)

このうち、明正天皇と後桜町天皇は江戸時代になってからの天皇である。明正天皇は後水尾天皇の皇女であるが、母は徳川二代将軍秀忠の娘和子であることから分かるように、朝廷と徳川幕府との軋轢の中での即位と推定される。後桜町天皇は、摂関家をはじめとした朝廷内の混乱を避けるためであったといわれている。
いずれにしても、本稿においては、この二天皇は対象外の時代となる。

本稿のテーマである「女帝輝く世紀」とは、推古天皇が即位した時から称徳天皇が崩御するまでのおよそ百七十八年間を指す。
その期間の女性天皇の在位期間はおよそ九十五年間であり、この期間の男性天皇七代の在位期間はおよそ八十三年間ということになる。
我が国の起源をどこに置くかということについては安易に確定できないが、継体天皇の即位からだけでも千五百年に及ぶ天皇の在位期間があり、そのうちの百七十八年間だけを切り取って「女帝輝く世紀」と特別扱いすることに異論もあろうが、百七十八年間は決して短い期間でもない。
そして、この期間は、現在の私たちが認識している時代区分からいえば、飛鳥時代と奈良時代のほとんどを占めており、その後の我が国の政治・文化などに大きな影響を与える出来事が包含されている時代なのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 4 )

2017-02-22 11:21:53 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 ( 4 ) 』

女帝の先駆け

我が国における最初の女性天皇は推古天皇とされる。
もっとも、推古天皇即位の頃には、我が国にはまだ「天皇」という称号は使われていなかったので、おそらく「大王」という称号であったと推察されるが、本稿では、便宜上天皇の称号で書き進める。
さて、推古天皇誕生の背景については後に検討するとして、存在の正否はともかくとして、神武天皇以来三十二代にわたって男性天皇によって引き継がれてきた地位に、突然推古天皇が登場してきたのかといえば、そうではないらしい。推古天皇即位の個別の要因もさることながら、女性天皇を誕生させることを容認するような土壌が、すでに当時のわが国にあったように思われるのである。
つまり、推古天皇に先だった女帝が存在し、少なくとも皇族や有力豪族たちの間では知られていたと考えられるのである。

そもそも、神武天皇を初代天皇とすれば、さらに遡る我が国の初代大王となれば、天照大神(アマテラスオオミカミ)であろう。もちろんここまで遡れば神話の世界であることは承知の上でのことであるが、指導者層は天照大神の存在は知られていたはずである。「古事記」が太安万侶によって撰上されるのは西暦712年のことであるが、「古事記」や「日本書紀」に記されているような故事や登場人物については、断片的であれ指導者層は承知していたと考える方が自然であると思う。
つまり、我が国誕生に関わる重要人物(あるいは神)としては天照大神はよく知られており、この大神は女性神なのである。天照大神については、男性であったとか、あるいは中性であるといった説もあるようだが、女性と考える方が定説と思われる。

次の人物は、歴史フアンであれば誰もが一度はのめり込んだと言っても過言ではないと思われる女性、卑弥呼である。
卑弥呼については「古事記」などには登場しておらず、中国の正史に記されていることから古代のヒロインになったと言えよう。「魏志倭人伝」には、「倭国は、もともと男子が王位に就いていたが、国内が乱れ内乱が続いたため、一人の女子を共立して王とした。名づけて卑弥呼という。鬼道を事とし、よく衆を惑わす」といった内容が記されている。つまり、「共立」とあることから、倭は連合国で、幾つかの国の王たちが相談の上、卑弥呼を倭の王としたのである。卑弥呼を邪馬台国の女王と呼ぶのが一般的であるが、邪馬台国は倭国連合の一国であり、卑弥呼が倭国女王であることは確かだとしても、邪馬台国の女王であったかどうかは魏志倭人伝をみる限りはっきりしない。
なお、卑弥呼が没すると男王を立てたが、再び国内は乱れ、そのため卑弥呼の一族の女子を王位に就けることで内乱は治まったという。この女性は壱与(イヨ)あるいは台与(トヨ)とされている。
卑弥呼に関することを追うのは本稿の趣旨ではないので置くとして、倭国には二人の女王が存在していたことを、当時の指導者たちが全く知らなかったとは考えにくい。また、卑弥呼の存在が、後の女性天皇たちに鬼道(キドウ・一般的には巫女あるいはシャーマンなどを指し、呪術のようなものを指すとされている。個人的には、いわゆる超能力のようなものと考えている)という面を強調する傾向を生んでいるように思われる。
 
「日本書紀」に登場している女帝となれば、まず「神功皇后」である。この人物については、当カテゴリーの『空白の時代』に詳述しているので重複は避けるが、「日本書紀」によれば、実に七十年近く天皇と同様の責務を担っていたのである。一部文献には「神功天皇」との表記があり、明治時代頃までは天皇に列せられていたのである。飛鳥時代の頃、神功皇后をどのように認識していたのかを知ることはなかなか困難なようであるが、たとえ伝承としても朝廷を率いた女性として周知されていたのではないだろうか。

今一人、天皇位にあった可能性のある女性がいる。飯豊皇女(イイトヨノヒメミコ)である。
この人物にも多くの伝承や説があり、それらを追い求めるのも興味深いが、ここではごく簡単に触れておく。
飯豊皇女は、第十七代履中天皇の皇女とも孫ともされている。また、よく似た名前の二人の女性がいたという説もある。履中天皇の孫だとすれば、父は市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)である。
第二十代安康天皇が暗殺された後継をめぐって、跡を継ぐことになる後の雄略天皇(第二十一代)に市辺押磐皇子が射殺されるという事件が起こった。二人は共に第十六代仁徳天皇の孫にあたり、皇位をめぐる争いがあったと考えられる。市辺押磐皇子の幼い二人の息子は丹波国から播磨国赤石に逃れ身を隠した。
それから二十七年後、雄略天皇の皇子であった第二十二代清寧天皇が崩御すると、天皇に皇子がいなかったこともあり、後継者をめぐる争いがあったと考えられ、その中で飯豊皇女が朝廷権力を握ったとされるのである。その期間は十ヶ月程度らしいが崩御したためであるが、二人の弟を次代・次々代の天皇に就けている。

以上、女帝の先駆けと思われる女性を四人紹介させていただいたが、これらの女性の伝承が飛鳥時代の幕開けの時に、推古天皇という女帝を選択するのに少なからぬ影響を与えたとはずだと思うのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 5 )

2017-02-22 11:20:49 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 5 )

女性天皇登場の背景

我が国の最初の女性天皇は推古天皇であるとするのが通説である。
すでに述べたように、実際に即位していたか否かはともかく、また日本書紀に記されている内容をそのまま受け入れるとするならば、神功皇后などはその前後の天皇よりはるかに大きな功績と指導力を発揮しているように思われる。少なくとも日本書紀に描かれている神功皇后は、歴代天皇に比べて見劣りする部分など窺えない。

それより時代は下って、第二十六代継体天皇の登場によって、大和政権が大きく変化したことは確かであろう。一説にあるように、継体天皇の登場が朝廷の入れ替わりであったかどうかは結論を避けたいが、大きな変革があったことは間違いない。
しかし、継体政権は紆余曲折しながらも大和の地に入っているので、それ以前の基盤も文化も多くの物を継承していると考えられる。つまり、王権に大きな変化はあったが、それまでの朝廷の歴史が断ち切られたとは考えにくいのである。それはすなわち、女帝権力に対する評価、女性天皇を容認するのに、それほど大きな拒絶反応はなかったのだと推察するのである。

女性天皇が登場する要因に、巫女説がよく語られる。
古代、ここでは、日本書紀に登場する年代や平安前期までを考えた場合、国家あるいは一族を率いる族長、つまり王たる第一条件は武力であったと考えられる。それは、この時代に限らず、古今東西を通じての原理かもしれない。それ故に王という地位には男性が適しており、女性が就くというのには特別の理由があるか、特殊な能力を有していたと考えることになる。卑弥呼の存在が意識されているかどうか分からないが、女性天皇の条件に巫女、つまり呪術的な能力を求める傾向が強いように思われる。
しかし、我が国の女性天皇が、巫女的な能力故に選ばれたとするのは、どうも納得できない。むしろ、女性天皇も武力つまり強力な軍事力を有していたと考える方が自然のように思うのである。というのは、王の武力とは、刀や矛を持って戦う能力だけを指すとは思えないからである。一族や有力部族の軍事力を率いる能力こそが王の持つ武力であって、呪術的な能力を有していたとすれば、軍事力を補完する能力と捉えるべきだと思うのである。

次に、必ずと言っていいほど唱えられるのは、「中継ぎ説」である。つまり、次に皇位に就くべき人物がまだ幼少であったり、複数の候補者の力が均衡していて混乱が予測される時などに、とりあえず女性天皇を即位させて時間を稼ごうとしたというのである。
この説の背景には、天皇は男性であるのが本来の姿であるという考え方が根本にある。
女性天皇の是非については現在も何かと話題になることがあるが、本稿の趣旨はそのことではない。本稿の目的は、飛鳥から奈良の時代に即位した女性天皇が「中継ぎ」のような立場であったか否かを考えることにある。

推古天皇即位から称徳天皇が重祚するまでの間に、七代の男性天皇が皇位に就いている。在位期間と共に記してみると、
舒明天皇(629~641) 孝徳天皇(645~654) 天智天皇(称制661~668 在位668~671)
天武天皇(673~686) 文武天皇(697~707) 聖武天皇(724~749) 淳仁天皇(758~764)
この他に、天智天皇の後に大友皇子が即位したとも言われ、現在では第三十九代弘文天皇として正式に数えられているが、ごく短期間のことで、天武天皇と戦った壬申の乱の一方の大将であった以上には、朝廷統治という点では実績はないと考え、ここでは考慮しないことにする。
そこで、これらの男性天皇と女性天皇を比べてみた場合、果たして、「女帝中継ぎ説」などというものが納得できるものなのかというのが本稿の主題なのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 6 )

2017-02-22 11:20:03 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 6 )

女帝誕生

我が国の最初の女性天皇は推古天皇とされることは再三述べた。これは、神功皇后、飯豊皇女を天皇と数えないことが条件であるが。
継体天皇についても再々述べているが、この前後に朝廷内で大きな変化があったことは確かである。それも皇位に関してである。しかし、旧来からの大和王権の皇女である手白香皇女を娶ることで一体化に成功したように見える。

推古天皇が即位したのは、西暦593年のことであるが、継体天皇が崩御してから六十二年後のことになる。
この六十二年という年月を長いと見るか短いと見るか論ずるのは難しいが、継体崩御の頃の実力者はおそらく世を去っていて代替わりしていると考えられるが、さまざまな事件や出来事はまだ正しく伝えられていたのではないだろうか。そうだとすれば、この間の様々な出来事が推古天皇を誕生させた要因の一つであることは間違いあるまい。

継体天皇没後の後継天皇を列記してみると、安閑(在位期間531~535)、宣化(535~539)、欽明(539~571)、敏達(572~585)、用明(585~587)、崇峻(587~592)となる。
これらの天皇の継承原因はいずれも崩御によるものである。もっとも、我が国で譲位による皇位継承を行ったのは、皇極天皇が最初(継体天皇も譲位を行ったという説もある)であるから、これらの天皇全てが崩御するまで皇位にあったことはごく普通のことである。しかし、それぞれの継承には難事を想像させることも多い。

まず、最初の三天皇であるが、いずれも継体天皇の皇子である。ただ、安閑天皇と宣化天皇は、継体天皇が大和入りする以前からの妃である尾張目子媛を母としており、欽明の母は大和朝廷の血を引く手白香皇女である。継体後継をめぐっては、この二勢力の間に相当激しい争いがあったらしい。
それについて古来いくつかの説があるようで、いずれも何らかの伝承や文献の後押しもあるようだ。例えば、安閑・宣化王朝と欽明王朝がある期間並立していたとか、継体・安閑・宣化の三天皇は同時に殺されたらしいというものもある。
その真偽については追わないが、激しい争いがあったということはほぼ事実らしい。その争いは、単に皇子同士の争いということではなく、有力豪族の主導権争いが絡んでいたことも間違いあるまい。
そしてもう一つの見方は、後継天皇が継体天皇の皇子であることも重要であったのだろうが、その母が誰であるかということも同様の重要さを持っていたようにも思うのである。継体天皇の大和入りに手白香皇女を皇后に迎える必要があったことと同様で、母や妻の存在は軽いものではなかったことが想像されるのである。

激しい争いの後、大和朝廷系の母を持つ欽明天皇が即位し、その在位期間が三十二年に及ぶことから、一応の安定政権であったように考えられる。しかし、この欽明天皇も謎が多い。継体天皇の嫡男でありながら、その生年月日は今一つはっきりしない。即位に至る経緯も、何が真実なのか分かりにくい。その一方で、朝鮮半島の諸国との軋轢の厳しい中を統治し、大伴氏が失脚し蘇我氏と物部氏の対立の激しさが増す時代を乗り切っており、百済の聖明王により仏教の公伝があったのもこの天皇の御代である。難しい時代の治世を担った天皇であったことは確かであろう。

欽明天皇には名前が明らかなだけで六人の妻がいた。その中の内の三人は特に興味深い。
まず、皇后は、宣化天皇の皇女石姫である。後継者となる第三十代敏達天皇は石姫の子である。
次は、妃の一人の蘇我堅塩媛(ソガノキタシヒメ)である。この女性は蘇我稲目の娘である。この妃には、後の用明天皇、推古天皇となる子などがいる。
もう一人は、同じく妃の蘇我小姉君(ソガノオアネノキミ)である。いずれも母親が分からないが蘇我稲目の子で、堅塩媛は姉で蘇我馬子は弟である。もっとも、姉や弟の順ははっきりしない。この妃の子には、穴穂部皇子、用明天皇に嫁ぎ厩戸皇子(ウマヤドノミコ・聖徳太子)を生む穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)、後の崇峻天皇となる子などがいる。

欽明天皇崩御後は、皇后の皇子が敏達天皇として即位する。順調な皇位継承であるが、敏達天皇の母は宣化天皇の皇女であり、絶大な権力を握りつつある蘇我氏の母を持つ皇子たちとは、決して友好的ではなかったとも考えられる。蘇我氏の母を持つ義妹の額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ・後の推古天皇)を娶っているのは、その懐柔策の一つだったのかもしれない。
やがて敏達天皇が崩御すると、次期皇位を廻る軋轢が高まる。敏達天皇には竹田皇子がいたが病弱だったようで、敏達の兄弟が有力候補となる。当時は、即位の条件にある程度の年齢が重視され、子供より兄弟の方が有力視される傾向があったようだ。

そうした中である事件が起きたという。
それは、次期天皇候補の一人と目されている穴穂部皇子が、敏達天皇の喪に服している皇后・額田部皇女を犯そうとしたのである。何とも生々しい表現であるが、記録して残されているのである。額田部皇女は美女であったとも伝えられているので、単なる色恋ということも否定できないが、おそらく、額田部皇女を手に入れることが皇位に就く有力手段と考えられていた節もある。むしろこちらが本筋と考えられる。
それともう一つ、当時は蘇我氏と物部氏の勢力が拮抗しており激しいつばぜり合いが行われていたが、なかなか判断の難しい一つに、同じ蘇我稲目の娘でありながら、堅塩媛は蘇我系であり、小姉君の方は物部系と考えられるのである。もしかすると、小姉君は養女であったような気さえする。
そうした中で、額田部皇女は両勢力の融和の象徴のように思われていた感じもするのである。

結局、次期天皇には額田部皇女の同母兄である用明天皇が即位するが、蘇我馬子の強い後押しがあったことは間違いない。これにより、蘇我氏を母とする天皇が初めて誕生したことになるが、用明天皇は在位一年半ほどで病没する。
ふたたび皇位をめぐる争いとなり、またも穴穂部皇子が物部守屋の支援を受けて皇位を狙ったが、蘇我馬子は額田部皇女を奉じて穴穂部皇子らを誅殺した。さらに、用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)、竹田皇子、穴穂部皇子の弟である泊瀬部皇子(ハツセベノミコ・後の崇峻天皇)らを結集して物部守屋を討ち果たした。これにより、いよいよ蘇我氏の勢力は抜きん出ることになる。
この時の戦いでも分かりにくいのは、馬子が奉じたのが額田部皇女であり、用明天皇の皇后であった穴穂部間人皇女ではなかったことである。穴穂部皇子と戦うのであるから当然ともいえるが、穴穂部皇子の弟は味方陣営に入っているのであるから、なかなかに難しい。

さて、皇子たちと豪族たちの思惑も加わった激しい戦いの後、第三十二代崇峻天皇が誕生する。用明天皇の義弟であり、額田部皇女、蘇我馬子らの推戴を受けた順調な即位と考えられる。
崇峻天皇の在位は五年ばかりであるが、目だった事件はなかったようである。馬子を大臣に就け、安定した期間だったのかもしれない。
しかし、やがて、天皇が臣下により白昼殺害されるという事件が起こる。猟の獲物が献上された場で、天皇が馬子を疎んじる発言をしたことを聞き、馬子は天皇暗殺を決意し、東漢駒(ヤマトノアヤノコマ)に命じて天皇を殺害させたのである。
天皇暗殺という出来事は、第二十代安康天皇が子供の頃に父を殺された眉輪王によって殺害されるという事件が起こっているが、臣下に政治の公式の場で殺されるという事件は、この後にも発生していない。

天皇暗殺という異常事態の中で、事件の首謀者である馬子はじめ皇族や豪族たちは、懸命に打開策を模索したことだろう。
この時点で皇位継承の候補者となれば、崇峻天皇と同世代に居らず、次の代である敏達天皇と最初の皇后広姫との皇子である押坂彦人大兄、竹田皇子、厩戸皇子の三人と思われる。このうち押坂彦人大兄は蘇我氏との血縁がなく対象外とされたであろうし、他の二人はまだ十代で、当時の天皇としては若すぎると考えられた。そこで、窮余の一策として額田部皇女が浮上したかのように見える。
しかし、本当にそうであったのだろうか。馬子ほどの大政治家が、次期天皇を予測せずして天皇殺害に動くことなどあるのだろうか。むしろ、敏達天皇崩御からの皇位継承に関わる節々で、額田部皇女は当事者として関わっており、馬子はその能力を高く評価していたのではないのだろうか。
公式には、わが国最初とされる推古天皇の誕生は、決して窮余の一策でも苦肉の策でもなく、その能力を見込まれての誕生のように思えてならないのである。

     ☆   ☆   ☆



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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 7 )

2017-02-22 11:18:52 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 7 )

推古天皇の御代

「日本書紀」によれば、崇峻天皇の五年(592)十一月、天皇は大臣蘇我馬子の為に殺され、皇位が空しくなってしまった。そこで、群臣は敏達天皇の皇后である額田部皇女に即位してくれるよう請うたが、皇后は辞退された。百官は上表文を奉って勧め、三度目に至りついに承諾された。よって天皇の璽印(ミシルシ)を奉った。
十二月八日、皇后は豊浦宮(トユラノミヤ)で即位した、と記されている。
この豊浦宮は明日香の地にあったと考えられている。すなわち、飛鳥時代の幕開けである。

推古天皇が即位に至る経緯については、すでに述べてきているところであるが今一度整理してみよう。
第二十九代欽明天皇が崩御した後、敏達、用明、崇峻、そして推古と欽明の御子が四代続いて即位している。即位に関して様々な事件は起きているが、結果としては順調な王権の移行と言える。さらに言えば、当時は親から子への継承が必ずしも優先されているわけではなく、むしろ兄弟間の継承の方が多く見られるのである。その大きな原因は、皇位に就く条件に年齢が相当重要であったらしく、推古天皇までの歴代天皇の即位時の年齢を見ると、第三代安寧天皇の二十九歳、第二十五代武烈天皇の十歳の二人以外はすべて三十歳以上なのである。もちろん、時代は神代に近い辺りまで遡ることでもあり信憑性に問題がないわけではないが、後の天皇と比べ、明らかに年齢、つまり皇族としての経験が重視されていたと思われる。

崇峻天皇暗殺という事件が発生し、突然のように皇位継承問題が浮上したが、その時点での有力候補者に、欽明天皇の皇子世代はすでに亡く、孫世代の三人の皇子が考えられた。
このうち、推古の夫でもある敏達天皇の最初の皇后広姫との皇子である押坂彦人大兄は、もっとも年長であったと推定されるが、すでに蘇我氏が物部氏を打ち破っており、非蘇我系の皇子としては候補にならなかったと考えられる。また、用明天皇の皇太子であったとも伝えられているが、用明天皇の御代は二年弱であり、蘇我氏の台頭とともに立場は弱体化して行ったと思われる。
次に、用明天皇と崇峻天皇の姉穴穂部間人皇女の皇子である厩戸皇子は、この時十九歳くらいと思われ、若年過ぎると考えられたらしい。
三人目は、敏達天皇と推古天皇との子である竹田皇子がいた。おそらく推古天皇はこの皇子を即位させたかったと考えられるが、年齢は厩戸皇子より年少で、十七歳くらいであったようだ。推古天皇が即位を決意した裏には、やがて竹田皇子に皇位を継承させたいと考えていたと想像できるのである。

このように、三人の候補者に皇位を引き継ぐことが難しいため、天皇暗殺という難局を乗り切るために推古天皇が誕生したと考えられることが多い。確かに、客観情勢はそのように見えるが、この間の推古天皇の周囲を見直してみると、少し違う物が見えてくる。
まず、敏達天皇が崩御して用明天皇が即位する間には、皇位を狙っていた穴穂部皇子が未亡人である額田部皇后(推古天皇)を我がものにしようと襲うという事件が起きている。事件は未遂に終わっているが、これは決して色恋騒動ではなく額田部皇后の存在の大きさを示す事件であり、用明即位にも少なからぬ影響があったと想像できる。
用明天皇崩御後には、再び穴穂部皇子は皇位を狙い物部氏らの支援を受けて戦となった。この時立ち向かったのは蘇我氏を中心とした勢力であるが、蘇我氏が奉じたのは用明天皇の皇后ではなく、その前の皇后である額田部皇后を奉じているのである。つまり、名目的には討伐軍の旗頭ということになる。そして、崇峻天皇擁立には、蘇我氏と共に額田部皇后の推挙は絶対条件であったと思われる。
また、崇峻天皇の暗殺事件は、蘇我馬子が命じて実行されたことは確かだと思われるが、その後に額田部皇后が即位するのに一か月ほどの日時しか要していないのである。馬子と額田部皇后の間には、密約とまではいかなくとも阿吽の呼吸のようなものを感じてしまうのである。
こうした流れを考えた時、推古天皇の登場は、天皇暗殺という危機を乗り切るための苦肉の策でもなければ、次の男性天皇誕生までの繋ぎであるなどとはとても考えられない気がする。

推古天皇の御代は三十六年に及ぶ。短い期間ではなく、政治的あるいは社会的な成果も少なくない。
朝鮮半島の国々とは難しい折衝が続いており、国内的には蘇我氏の権勢がますます高まり、仏教が政治・文化両面で大きな影響を与えている。
歴史書などを見れば、遣隋使の派遣、冠位十二階の制定、憲法十二条の制定、四天王寺や飛鳥寺などの大寺建立などが記されている。
同時に、推古天皇の治世の実権者は、蘇我馬子であり、厩戸皇子(聖徳太子)であったとする書も少なくない。果たして、そうであったのだろうか。
これは全く個人的な意見であるが、わが国の政治権力の中枢は、少なくとも平安時代初期の頃までは天皇であったと考えられるのである。本稿もその考えのもとで書いている点はご承知いただきたい。
確かに、物部氏を打ち果たした蘇我氏の勢力は絶大なものとなり、推古朝を通じて大きな影響力を与えたと考えられる。一説には、馬子が天皇であったというものさえある。しかし、有力豪族は朝廷内で権力は振るうことはこれまでもあり、この後も続いている。しかしその豪族たちは、後で言えば貴族たちは、天皇の外戚などの地位を得ることにより政権を握ろうとしており、少なくともこの時代には政権の中枢は天皇と考えられていたと思われる。

それでは、厩戸皇子の場合はどうであったのか。
この厩戸皇子すなわち聖徳太子という人物については、どう評価すればよいのかなかなか分かりにくい。
推古朝において厩戸皇子が政治文化の中心人物であったとする論調は、今も少なくない。その機会を得たのは、推古天皇即位の翌年四月に皇太子となり、摂政の地位に就いたからである、と考えられる。本来ならば、推古天皇が愛する竹田皇子が皇太子になるはずであるが、おそらくこの頃に亡くなったと考えられる。推古天皇としては、厩戸皇子の立太子は、涙ながらの選択であったはずである。また、厩戸皇子がわが国における最初の摂政と言われることがあるが少し違う気がする。
日本書紀の中に、「仍録摂政、以万機悉委焉」(よりて録(マツリゴト)摂政(フサネツカサド)らしめ、万機をもちて悉(コトゴトク)に委(ユダ)ぬ)という一文がある。つまり、「一切の政務を取らせて、政すべてを委任された」というのである。後世、この一文から、厩戸皇子が摂政に就いた、とされるようになったと言われるようになったと思われるが、「日本書紀」が記述していることは、政務全般に全権を与えて執行させた、と言った意味で、厩戸皇子はあくまでも推古朝における有能なスタッフの一人と考えるべきだと思うのである。第一、摂政という役職は律令の中にはなく、正式職務として登場するのは、平安時代に藤原氏が勢力を高めてからのことなのである。

それにしても、「日本書紀」における厩戸皇子への称賛は大変なものである。後世においても、太子信仰と言われるほど、聖徳太子の逸話は数多く伝えられている。しかし、この聖徳太子という尊命からして、生前に使われたものではなく、没後百年余りしてから登場しており、現在では、聖徳太子の業績とされるものの多くを否定する説もあり、その存在さえ疑問視する研究者もいる。
歴史の事実として、厩戸皇子は存在し、推古天皇の皇太子として極めて有能な人物であったことは確かと考えるが、推古天皇は飾り物のような存在ですべてを厩戸皇子が取り仕切ったという考えには納得できない。第一そうであれば、蘇我馬子という傑物がおとなしくしているとは思えないのである。
さらに加えれば、ここでは詳しく述べないが、厩戸皇子の一族は、その子・山背大兄皇子の時に滅亡してしまっているのである。

推古天皇の御代は、厩戸皇子をはじめとした官僚や蘇我馬子を頂点とした諸豪族の力に支えられて、後に飛鳥文化と呼ばれる繁栄を築き上げたのである。
その御代は三十六年におよび、世に女帝による統治に何の不安もないことを示したのではないだろうか。
推古三十六年(628)春三月の七日、病のため崩御。御年七十五歳であった。翌月、夏の四月でありながら、十日には桃の実ほどの雹が降り、十一日にはすももの実ほどの雹が降った。春から夏にかけて旱魃であった。と、「日本書紀」は記している。
そして、波乱とはいえ栄華を築いた女帝に何とも哀れを感じさせるのは、『竹田皇子の陵に葬りまつる』と「日本書紀」が結んでいることである。

     ☆   ☆   ☆




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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 8 )

2017-02-22 11:17:34 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 8 )

推古天皇の後継

推古女帝は七十五歳で身罷った。
推古天皇を支え飛鳥文化の繁栄に貢献したとされる厩戸皇子と蘇我馬子は共に推古に先立って他界していた。厩戸皇子は七年前に没しており、その後継は山背大兄王となり、蘇我氏には、馬子の子の蝦夷(エミシ)、さらには孫の入鹿(イルカ)という逸材を輩出している。しかし、推古天皇の後継者は定められていなかった。
もし、などと言ってしまえば歴史において何事も実現できてしまうことになるが、皇太子であった厩戸皇子が推古天皇に先立つことがなければ、厩戸皇子が即位する可能性は高く、そうであれば、後に聖徳太子と呼ばれる人物の実像が今少し明確になっていたはずである。

それはさておき、推古天皇が崩御した時点での有力な後継者候補は、山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)と田村王(タムラノミコ)の二人にほぼ絞られていた。山背大兄王は厩戸皇子の子であり用明天皇の孫に当たる。田村王は押坂彦人大兄皇子の子であり敏達天皇の孫に当たる。共に二世王であるが、推古天皇が長命であったため、天皇の皇子の世代がいなくなってしまったのである。
推古天皇は後継者を定めていないとされているが、日本書紀には、崩御の前日にこの二人の王に遺言したと記録している。まず田村王には、「天位に昇って天下を治め整え、国政を統御して人民を養うことは、もとより容易く言うことではない。重大なことである。そなたは慎重に考え軽々しく言うべからず」といった言葉を伝え、同じ日に、山背大兄王には、「そなたは未熟である。もし心で望んでいるといえども、あれこれ言ってはならない。必ず群臣の言葉を待って、それに従うように」と伝えた、という。この二人への言葉は、どちらにも後継者だとは言っていない、とも、田村王を推しているようにも取れる。ただ、後継者を決める有力発言にはならなかったようである。

そうであっても、次期天皇の有力候補がこの二人であることは、推古天皇も認識していたようではある。
推古朝廷を支えた有力者は、厩戸皇子と蘇我馬子であったことは定説と言っていいほどである。厩戸皇子は推古天皇より七年ほど先立って亡くなっており、次期天皇継承問題では当然影響力を発揮できないと思われるが、生前の功績が日本書紀などに記されているほど抜群のものであるなら、山背大兄王に多くの期待が集まっていたのではないだろうか。さらに、蘇我馬子も推古天皇に先立っているが、彼には蝦夷・入鹿という優れた後継者がおり、朝廷内の蘇我氏の勢力にかげりなどなかったと思われる。そして、厩戸皇子と山背大兄王は、蘇我氏の血が極めて濃く、ぜひとも皇位につけたい人物だったはずである。
一方の田村王は血族的に蘇我氏と繋がりがなく、父の押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の長子でありながら皇位に就けなかったのは、ひとえに蘇我氏の支援を受けられなかったからである。しかし、推古天皇の後継者となったのはその田村王で、第三十四代舒明天皇が誕生するのである。

当時の人々がどう考えたかは分からないが、舒明天皇の誕生は意外性を感じる。その原因については、様々な説や憶測がなされている。 
一つは、推古天皇の遺言とされる言葉を借りれば、山背大兄王は皇位に就くには若過ぎたという可能性である。当時、皇位に就くためには相応の年齢に達していることが重要視されていたようで、おそらくその年齢は三十歳前後のような気がする。勝手な想像であるが。では、山背大兄王が何歳であったかとなると、なかなか推定することさえ難しいのである。
今一つは、蘇我一族内で次期天皇をめぐる争いがあったようで、蝦夷・入鹿の蘇我氏本宗家といえども大きくなりすぎた一族を取りまとめるためには山背大兄王は不適だったのかもしれない。
あるいは、用明天皇以後蘇我氏色の強い天皇が続いているため、反蘇我豪族の不満を抑えるためであったという見方もある。
どの考え方もそれなりの説得力はあるが、同時に今一つ納得しきれない感じもする。むしろ、蘇我氏ばかりでなく、当時の朝廷及び朝廷周辺は、厩戸皇子・山背大兄王、つまり上宮王家の即位は望んでいなかったのではないかという気がしてならない。

その原因は何なのか? 
この事に関する仮説も幾つか提示されている。興味深いものもあるが、史実となれば何とも評しきれない。もしかすると、現在の私たちが承知していない、決定的な理由があるのかもしれないような気もするが、それこそ単なる想像の域を越えない。
そうした中で、歴史は舒明天皇という絶妙の天子を選んだように思われる。

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