『 遅い春 』
時の流れなど、何の定めもなく自由気ままに流れているように見える。
時の流れが水の流れにたとえられることがあるように、ときにはゆったりと、ときには激しく、そして逆流するかのように見えることがある。
しかし、山並みを離れた水は、様々な経路を辿っているかのように見えても、結局は海に流れ込む一筋の流れであることに変わりがない。
時の流れも同じだと思いながら、何故か人は、その僅かな変化に驚き、戸惑い、涙する。行き着く先は分かっているはずなのに、身を任せきることなどとてもできない。
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桜木志織と初めて会ったのは、牧村恭一が二十六歳の時であった。
当時牧村が勤務していた銀行は、全国に店舗が配置されている関係もあって、普通の会社では考えられないほど頻繁に転勤が行われていた。もちろんそれは、彼が勤めている銀行に限られたことではなく、多くの支店や営業所を展開している企業の場合は、転勤は避けられない制度といえる。
牧村が東京都品川区にある支店に勤務することになったのも、定例の人事異動によるものであった。
そして、その支店で営業課に配属された牧村は、前任者から担当先の引き継ぎを受けたが、その中の一人が桜木志織であった。
志織の自宅は、当時すでに高級住宅地として知られていた大田区××町にあった。彼女の父が経営する桜木製作所は、精密ネジなどを製造するメーカーであるが、業界では技術力が高く評価されている優良企業であった。
桜木製作所の取引銀行は、有力都市銀行の一つであるA銀行であった。創業当初から同行と親密な取引関係にあるが、単に親密だというだけではなく、今はA銀行と合併して名前が無くなったある銀行の創立に、現社長の先代だか先々代だかが加わったとかで、並みの親密さではなかった。
桜木製作所は従業員数もそれほど多くなく、中堅企業といった規模の会社なのだが、A銀行の大株主に名を列ねており、このことからでも他の銀行とは違う関係にあることは明らかだった。同時に、所有しているA銀行の株式の含み益だけでも膨大なもので、桜木製作所の資産内容が優良なことは十分に推定できた。
多くの銀行がA銀行の牙城を崩さんと挑戦していたが、虚しい結果に終わっていた。牧村の銀行も同様であった。歴代の支店長や担当者が取引獲得に努めてきていたが、成果を得ることが出来ないままであった。
しかし、牧村の前任者は大変優秀な人物だったらしく、個人関係の取引の一部を利用してもらえるようになっていた。前任者の大金星であった。
その当時の銀行といえば、預金さえ集めることが出来れば勝つ時代であった。企業間の競争が厳しいことは業種を問わないが、当時の銀行の預金獲得競争の凄まじさは、どの銀行も預金獲得こそが収益拡大に直結していることを認識しているからである。
東京オリンピック後の特需景気の反動による景気の停滞は続いていたが、まだわが国経済界の資本不足は大きく、企業全体の資金需要は根強いうえ、今日のような資本調達機能はまだ確立されていなかった。資金を貸すのには困らない時代であった。
桜木志織は、正しくいえば彼女の父である桜木次郎ということになるが、その支店にとって重要な預金取引先であった。
個人顧客との取引は、銀行員にとって難しいものである。当時は今日ほど商品構成は複雑ではなく、営業に関する知識を習得するのはそれほど難しいことではなく、一般に言われるような優れた営業力や豊富な経験さえも絶対に必要な条件ともいえなかった。
何らかの面で顧客に好感を持ってもらうことが出来れば、銀行員としての経験や知識や資質さえも越えてしまう決め手になってしまうことが珍しくなかった。すぐれた知識や能力、あるいは豊富な経験が不必要ということではないが、個人顧客との預金取引は、顧客の好みに合うかどうかでかなりの部分の勝負がついてしまう面を持っていた。
それは銀行に限らず、個人顧客を相手とした営業が泥臭く見えるのは、この部分が強い影響を与えているように思われる。本当は、個人顧客を相手とした営業こそ全人格的な優劣が比べられているのであって、それだけに地道な努力の積み重ねが必要とされているに違いない。
桜木家との取引を獲得する経緯も、おそらく同じような状況であったと思われる。
牧村の前任者は、大変優秀で粘り強い男であったらしく、彼は、桜木製作所で語り草となっているほど熱心に同社に通いつめた結果、さすがの桜木社長も根負けをして、会社の取引は無理なので個人の取引を少しさせてもらいましょう、ということで取引が始まったのである。
どの分野であれ営業職にとって何より重要なことは、根性と粘りだという人に出会うことが少なくないが、とんでもない話である。営業職にとって根性と粘りが重要な条件であることは認めないわけにはいかないが、前任者の事例を考えてみても、あの百戦錬磨の桜木社長が、優秀とはいえまだ若造に過ぎない銀行員に根負けすることなどありえない。
そこには、知識であるとか、努力であるとか、大げさにいえば人格としての魅力を、桜木社長が前任者に感じたからこそ根負けしたという結果に至ったはずである。
桜木家の用事といえば、給料日の翌日あたりに訪問し、預金していただく金を預かって帰ることであった。まだ給料の預金口座への振り込みが一般化しておらず、桜木製作所も給料は現金で支給されていた。
牧村の前任者は桜木社長と随分親しくなっていたし、信頼を得ている様子だった。会社との取引はなかったが、定例的に訪問し社長とも面談し、会社の事務員とも情報の交換をしているようであった。
従って、前任者の場合は会社で個人取引分も含めた営業をし、自宅へは事務的な処理に訪問しているに過ぎなかった。
しかし、牧村が担当することになって様子は大分違うものになった。
前任者と共に引継の挨拶に会社を訪問した時、要件の方は自宅で分かるようにしておくから会社への訪問は極力遠慮してくれ、と桜木社長から直接釘を刺されてしまったのである。
その席には同社の経理課長も同席しいたので、以後の会社訪問はまことに敷居の高いものになってしまったのである。
そのうえ牧村にとって厄介なことは、桜木家の取引が重要な大口取引先になってしまっていたことであった。
取引先から絶大な信頼を受けている担当者から引継を受けるだけでも気が重いことなのに、桜木家の取引は手抜きするわけにはいかない規模になっていたのである。