運命紀行
非難は覚悟の上
非難を受けることは覚悟の上であった。
世間ばかりでなく、子供や一族の反対は予想されることであったし、家来たちの多くが良しとしないであろう。そればかりか、当の相手からも激しく拒絶される可能性も小さくなかった。
しかし、熟慮に熟慮を重ねた上での決断であったが、四十八歳の後家の身としては、白無垢の花嫁衣装はいかにも面映ゆく、輿に乗り込むために進む足が震えるのを抑えることが出来なかった。
竜造寺本家に不幸が続き、わが子隆信が家督を継ぐことになったのは、慶尼(ケイギンニ)が四十歳の頃のことで、隆信も二十歳になっていた。
夫の周家(チカイエ)が戦死して三年が経っており、隆信は分家筋とはいえ名門の水ヶ江氏の当主を継いでおり宗家の当主になるなど予期していなかった。
そして、いざ竜造寺本家を継いでみると、一門や重臣たちの中にはこれを快く思わない者たちがおり、さらに、この機に侵略を狙う外部勢力もあって、一時隆信は佐賀の地を追われて筑後に逃れるなど、その立場は極めて不安定な状態にあった。
慶尼は、この状況を打破するためには隆信をしっかりと補佐してくれる人物を見つけ出すことが必要だと考えたのである。
そこで慶尼は家中の人物を慎重に選別した結果、重臣の鍋島清房とその子直茂に狙いを定めた。
鍋島家は名門であり、清房は武勇に優れた人物であった。そして何よりも、その子直茂は若輩ながら、文武両面に優れ人格的にもひときわ優れた逸材であった。
直茂はこの時十九歳で、隆信より九歳年下であった。やや粗野な部分が目立つ隆信に、この直茂が参謀としてついてくれれば心強い限りである。
しかし、そこには一つ難問があった。
鍋島清房は、隆信の武勇面で優れていることは認めながらも粗暴な行動を嫌い、家督相続において最後まで反対した人物であった。その事は家中の誰もが承知していることであったが、鍋島父子を味方につける以外に竜造寺家の安泰は望めないと確信した。そして慶尼は、熟慮の末ついに妙案を見つけ出したのである。
弘治二年(1556)春、慶尼は鍋島清房に再婚を勧めた。清房は七年前に妻を亡くし、四十五歳の今日まで独り身を通していた。
これまで再婚することなく一家を守ってきた清房には再婚の意思はなく、その旨謝絶したが、慶尼は「とても良い連れ合いだから、ぜひとも」と強引なまでに決断を迫った。本家の後家とはいえ、実質的な当主の立場にある慶尼の申し出を無視することも出来ず、押し付けられる形で承諾した。
そして、その日がやってきた。
鍋島家は竜造寺家家中では一番の名門である。慶尼のいう良い後添えという相手が思いつかないまま花嫁を迎えることになった鍋島家の大広間に、直接花嫁の輿が運び込まれた。
「無作法な」という思いを抱きながら迎える清房の前に降り立ったのは、この日のために還俗し髪も豊かに伸びた慶尼であった。
慶尼が四十八歳、清房が四十五歳の時のことである。
* * *
慶尼は、永正六年(1509)に誕生した。父は、竜造寺家十六代当主胤和(タネカズ)である。慶尼というのは、後に出家してからの名前であるが、本名は未詳である。
竜造寺氏は、源頼朝の旗揚げに参加しており、以来北条・足利と続く代々の将軍に忠義を尽くしてきた肥前国の名族であった。
慶尼は、この名族の宗家の娘として生まれ、長じて分家に当たる水ヶ江周家に嫁ぎ、嫡男隆信を儲けた。しかし、夫は戦死、三十七歳で落飾した。彼女が慶尼と名乗るのはこの時からである。
それから三年後のことである。
竜造寺宗家は父胤和の弟胤久が継いでいたが、その宗家で不幸が相次ぎ、血脈が途絶えるという危機に直面した。そのため、二十歳になっていた隆信が本家を継ぐことになった。
しかし、この家督相続は簡単なものではなかったらしく、隆信の粗暴なふるまいにも原因があったようであるが、一門や重臣たちの中にも反対する勢力があり、その動揺につけ込んだ外敵に攻められ、隆信が筑後に逃れるという事態まで起こった。
慶尼は、わが子と竜造寺家の安泰のために乗り出す決意をした。
わが子隆信は、武者としては勇猛ではあるがやや粗暴なふるまいが目立ち、敵を作りやすく人望を集める点でも問題があった。藩主として一人前の人物に育てるためには、しっかりとした後見者と智謀に優れた参謀がが必要であった。
慶尼は熟慮を重ねた結果、鍋島清房・直茂親子を置いて他にはないと結論したが、問題は清房が隆信の粗暴さを嫌っていることであった。
それらの様々な問題点を一気に解決させる方法は、ただ一つ、自分と清房とが結婚することであった。
部屋の中まで乗り入れてきた花嫁の輿に清房は少々戸惑ったが、降りてきた花嫁が実質的な当主ともいうべき藩主の母親であったのにはさらに驚いたことであろう。
四十八歳にして自らを売り込んだ慶尼は、類まれな美貌の持ち主であったのか、それともその真剣さに打たれたのかは伝えられていないが、清房は思いもかけなかった花嫁を温かく迎え入れた。
これにより隆信は、家中第一の実力者である清房が義父として後見することとなり、若くとも勇気、智謀ともに優れた直茂は義弟として心許せる参謀となった。
竜造寺家の結束は固まり、肥前を制圧し北九州一帯にも進出し、戦国大名としての全盛を迎える。しかし、隆信の戦いぶりはあまりにも激しく、無用な敵をつくることも多く、その勢力はもろいものであった。
天正十二年(1584)、有馬・島津の連合軍に敗れ、隆信は戦死してしまう。これにより、竜造寺家の家運は一気に衰退に向かう。
慶尼は隆信の子政家を後見して立て直しを図るが、この前後に夫である清房も没していて、頼りになるのは、有馬・島津軍との戦いで辛くも生き延びていた直茂だけであった。
しかも、政家は病がちで早々に隠居し家督をまだ五歳の嫡男高房に引き継いでしまう。天正十五年のことである。
ここに至って慶尼は、高房の後見を直茂に託し、藩政のすべてを任せる決意を固めた。
藩主とはいえ高房はまだ五歳。まだまだ慶尼の威光は衰えを見せていなかったが、すでに八十歳に近い。高房が一人立ち出来るまで後見を続けることは困難と考えざるを得なかった。しかも直茂は義理とはいえ自分の息子であり、その人物に惚れ込んで四十八歳で花嫁になる決意をさせた男であった。
時の権力者秀吉の了解も得て、佐賀藩は名目上は竜造寺氏が藩主であり、実権は鍋島氏が握るという体制が出来上がったのである。そして、その体制の中核となったのは、竜造寺氏本流の娘であり、鍋島氏本家の妻であり、さらにいえば、藩主の曾祖母であり実権者の母である慶尼であった。
佐賀藩のこの体制は、豊臣政権下から徳川政権下へと移り行く難しい時代を乗り越えていった。
慶尼は、竜造寺氏と鍋島氏の複合体としての佐賀藩を見守りながら、静かな最期を迎えた。
慶長五年(1560)三月、関ヶ原の戦いを目前にした頃ことである。享年九十二歳であった。
慶尼の死後七年経った時のことであるが、佐賀藩藩主竜造寺高房が憤死するという事件が起こっている。不詳な面も多いが、高房は直茂の娘を妻に迎えていたが、この妻を殺し自らも自殺を図ったという。その傷がもとでの死去らしく、間もなく父の政家も亡くなり、竜造寺氏の本流は断絶した。
ここに佐賀藩は、名実ともに鍋島氏の藩となる。
これらの経緯から、「鍋島藩の化け猫騒動」という怪談など、両家の確執を伝える物語がいくつか伝えられている。
しかし、佐賀鍋島藩は、三十五万七千石の大藩として一度の転封もなく明治維新を迎えており、竜造寺氏の庶流四家も、鍋島藩の重臣として繁栄を守っているのである。
( 完 )
非難は覚悟の上
非難を受けることは覚悟の上であった。
世間ばかりでなく、子供や一族の反対は予想されることであったし、家来たちの多くが良しとしないであろう。そればかりか、当の相手からも激しく拒絶される可能性も小さくなかった。
しかし、熟慮に熟慮を重ねた上での決断であったが、四十八歳の後家の身としては、白無垢の花嫁衣装はいかにも面映ゆく、輿に乗り込むために進む足が震えるのを抑えることが出来なかった。
竜造寺本家に不幸が続き、わが子隆信が家督を継ぐことになったのは、慶尼(ケイギンニ)が四十歳の頃のことで、隆信も二十歳になっていた。
夫の周家(チカイエ)が戦死して三年が経っており、隆信は分家筋とはいえ名門の水ヶ江氏の当主を継いでおり宗家の当主になるなど予期していなかった。
そして、いざ竜造寺本家を継いでみると、一門や重臣たちの中にはこれを快く思わない者たちがおり、さらに、この機に侵略を狙う外部勢力もあって、一時隆信は佐賀の地を追われて筑後に逃れるなど、その立場は極めて不安定な状態にあった。
慶尼は、この状況を打破するためには隆信をしっかりと補佐してくれる人物を見つけ出すことが必要だと考えたのである。
そこで慶尼は家中の人物を慎重に選別した結果、重臣の鍋島清房とその子直茂に狙いを定めた。
鍋島家は名門であり、清房は武勇に優れた人物であった。そして何よりも、その子直茂は若輩ながら、文武両面に優れ人格的にもひときわ優れた逸材であった。
直茂はこの時十九歳で、隆信より九歳年下であった。やや粗野な部分が目立つ隆信に、この直茂が参謀としてついてくれれば心強い限りである。
しかし、そこには一つ難問があった。
鍋島清房は、隆信の武勇面で優れていることは認めながらも粗暴な行動を嫌い、家督相続において最後まで反対した人物であった。その事は家中の誰もが承知していることであったが、鍋島父子を味方につける以外に竜造寺家の安泰は望めないと確信した。そして慶尼は、熟慮の末ついに妙案を見つけ出したのである。
弘治二年(1556)春、慶尼は鍋島清房に再婚を勧めた。清房は七年前に妻を亡くし、四十五歳の今日まで独り身を通していた。
これまで再婚することなく一家を守ってきた清房には再婚の意思はなく、その旨謝絶したが、慶尼は「とても良い連れ合いだから、ぜひとも」と強引なまでに決断を迫った。本家の後家とはいえ、実質的な当主の立場にある慶尼の申し出を無視することも出来ず、押し付けられる形で承諾した。
そして、その日がやってきた。
鍋島家は竜造寺家家中では一番の名門である。慶尼のいう良い後添えという相手が思いつかないまま花嫁を迎えることになった鍋島家の大広間に、直接花嫁の輿が運び込まれた。
「無作法な」という思いを抱きながら迎える清房の前に降り立ったのは、この日のために還俗し髪も豊かに伸びた慶尼であった。
慶尼が四十八歳、清房が四十五歳の時のことである。
* * *
慶尼は、永正六年(1509)に誕生した。父は、竜造寺家十六代当主胤和(タネカズ)である。慶尼というのは、後に出家してからの名前であるが、本名は未詳である。
竜造寺氏は、源頼朝の旗揚げに参加しており、以来北条・足利と続く代々の将軍に忠義を尽くしてきた肥前国の名族であった。
慶尼は、この名族の宗家の娘として生まれ、長じて分家に当たる水ヶ江周家に嫁ぎ、嫡男隆信を儲けた。しかし、夫は戦死、三十七歳で落飾した。彼女が慶尼と名乗るのはこの時からである。
それから三年後のことである。
竜造寺宗家は父胤和の弟胤久が継いでいたが、その宗家で不幸が相次ぎ、血脈が途絶えるという危機に直面した。そのため、二十歳になっていた隆信が本家を継ぐことになった。
しかし、この家督相続は簡単なものではなかったらしく、隆信の粗暴なふるまいにも原因があったようであるが、一門や重臣たちの中にも反対する勢力があり、その動揺につけ込んだ外敵に攻められ、隆信が筑後に逃れるという事態まで起こった。
慶尼は、わが子と竜造寺家の安泰のために乗り出す決意をした。
わが子隆信は、武者としては勇猛ではあるがやや粗暴なふるまいが目立ち、敵を作りやすく人望を集める点でも問題があった。藩主として一人前の人物に育てるためには、しっかりとした後見者と智謀に優れた参謀がが必要であった。
慶尼は熟慮を重ねた結果、鍋島清房・直茂親子を置いて他にはないと結論したが、問題は清房が隆信の粗暴さを嫌っていることであった。
それらの様々な問題点を一気に解決させる方法は、ただ一つ、自分と清房とが結婚することであった。
部屋の中まで乗り入れてきた花嫁の輿に清房は少々戸惑ったが、降りてきた花嫁が実質的な当主ともいうべき藩主の母親であったのにはさらに驚いたことであろう。
四十八歳にして自らを売り込んだ慶尼は、類まれな美貌の持ち主であったのか、それともその真剣さに打たれたのかは伝えられていないが、清房は思いもかけなかった花嫁を温かく迎え入れた。
これにより隆信は、家中第一の実力者である清房が義父として後見することとなり、若くとも勇気、智謀ともに優れた直茂は義弟として心許せる参謀となった。
竜造寺家の結束は固まり、肥前を制圧し北九州一帯にも進出し、戦国大名としての全盛を迎える。しかし、隆信の戦いぶりはあまりにも激しく、無用な敵をつくることも多く、その勢力はもろいものであった。
天正十二年(1584)、有馬・島津の連合軍に敗れ、隆信は戦死してしまう。これにより、竜造寺家の家運は一気に衰退に向かう。
慶尼は隆信の子政家を後見して立て直しを図るが、この前後に夫である清房も没していて、頼りになるのは、有馬・島津軍との戦いで辛くも生き延びていた直茂だけであった。
しかも、政家は病がちで早々に隠居し家督をまだ五歳の嫡男高房に引き継いでしまう。天正十五年のことである。
ここに至って慶尼は、高房の後見を直茂に託し、藩政のすべてを任せる決意を固めた。
藩主とはいえ高房はまだ五歳。まだまだ慶尼の威光は衰えを見せていなかったが、すでに八十歳に近い。高房が一人立ち出来るまで後見を続けることは困難と考えざるを得なかった。しかも直茂は義理とはいえ自分の息子であり、その人物に惚れ込んで四十八歳で花嫁になる決意をさせた男であった。
時の権力者秀吉の了解も得て、佐賀藩は名目上は竜造寺氏が藩主であり、実権は鍋島氏が握るという体制が出来上がったのである。そして、その体制の中核となったのは、竜造寺氏本流の娘であり、鍋島氏本家の妻であり、さらにいえば、藩主の曾祖母であり実権者の母である慶尼であった。
佐賀藩のこの体制は、豊臣政権下から徳川政権下へと移り行く難しい時代を乗り越えていった。
慶尼は、竜造寺氏と鍋島氏の複合体としての佐賀藩を見守りながら、静かな最期を迎えた。
慶長五年(1560)三月、関ヶ原の戦いを目前にした頃ことである。享年九十二歳であった。
慶尼の死後七年経った時のことであるが、佐賀藩藩主竜造寺高房が憤死するという事件が起こっている。不詳な面も多いが、高房は直茂の娘を妻に迎えていたが、この妻を殺し自らも自殺を図ったという。その傷がもとでの死去らしく、間もなく父の政家も亡くなり、竜造寺氏の本流は断絶した。
ここに佐賀藩は、名実ともに鍋島氏の藩となる。
これらの経緯から、「鍋島藩の化け猫騒動」という怪談など、両家の確執を伝える物語がいくつか伝えられている。
しかし、佐賀鍋島藩は、三十五万七千石の大藩として一度の転封もなく明治維新を迎えており、竜造寺氏の庶流四家も、鍋島藩の重臣として繁栄を守っているのである。
( 完 )