雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  非難は覚悟の上

2012-06-24 08:00:24 | 運命紀行
       運命紀行 

          非難は覚悟の上    


非難を受けることは覚悟の上であった。
世間ばかりでなく、子供や一族の反対は予想されることであったし、家来たちの多くが良しとしないであろう。そればかりか、当の相手からも激しく拒絶される可能性も小さくなかった。
しかし、熟慮に熟慮を重ねた上での決断であったが、四十八歳の後家の身としては、白無垢の花嫁衣装はいかにも面映ゆく、輿に乗り込むために進む足が震えるのを抑えることが出来なかった。


竜造寺本家に不幸が続き、わが子隆信が家督を継ぐことになったのは、慶尼(ケイギンニ)が四十歳の頃のことで、隆信も二十歳になっていた。
夫の周家(チカイエ)が戦死して三年が経っており、隆信は分家筋とはいえ名門の水ヶ江氏の当主を継いでおり宗家の当主になるなど予期していなかった。
そして、いざ竜造寺本家を継いでみると、一門や重臣たちの中にはこれを快く思わない者たちがおり、さらに、この機に侵略を狙う外部勢力もあって、一時隆信は佐賀の地を追われて筑後に逃れるなど、その立場は極めて不安定な状態にあった。

慶尼は、この状況を打破するためには隆信をしっかりと補佐してくれる人物を見つけ出すことが必要だと考えたのである。
そこで慶尼は家中の人物を慎重に選別した結果、重臣の鍋島清房とその子直茂に狙いを定めた。
鍋島家は名門であり、清房は武勇に優れた人物であった。そして何よりも、その子直茂は若輩ながら、文武両面に優れ人格的にもひときわ優れた逸材であった。
直茂はこの時十九歳で、隆信より九歳年下であった。やや粗野な部分が目立つ隆信に、この直茂が参謀としてついてくれれば心強い限りである。

しかし、そこには一つ難問があった。
鍋島清房は、隆信の武勇面で優れていることは認めながらも粗暴な行動を嫌い、家督相続において最後まで反対した人物であった。その事は家中の誰もが承知していることであったが、鍋島父子を味方につける以外に竜造寺家の安泰は望めないと確信した。そして慶尼は、熟慮の末ついに妙案を見つけ出したのである。

弘治二年(1556)春、慶尼は鍋島清房に再婚を勧めた。清房は七年前に妻を亡くし、四十五歳の今日まで独り身を通していた。
これまで再婚することなく一家を守ってきた清房には再婚の意思はなく、その旨謝絶したが、慶尼は「とても良い連れ合いだから、ぜひとも」と強引なまでに決断を迫った。本家の後家とはいえ、実質的な当主の立場にある慶尼の申し出を無視することも出来ず、押し付けられる形で承諾した。

そして、その日がやってきた。
鍋島家は竜造寺家家中では一番の名門である。慶尼のいう良い後添えという相手が思いつかないまま花嫁を迎えることになった鍋島家の大広間に、直接花嫁の輿が運び込まれた。
「無作法な」という思いを抱きながら迎える清房の前に降り立ったのは、この日のために還俗し髪も豊かに伸びた慶尼であった。
慶尼が四十八歳、清房が四十五歳の時のことである。


     * * *

慶尼は、永正六年(1509)に誕生した。父は、竜造寺家十六代当主胤和(タネカズ)である。慶尼というのは、後に出家してからの名前であるが、本名は未詳である。
竜造寺氏は、源頼朝の旗揚げに参加しており、以来北条・足利と続く代々の将軍に忠義を尽くしてきた肥前国の名族であった。
慶尼は、この名族の宗家の娘として生まれ、長じて分家に当たる水ヶ江周家に嫁ぎ、嫡男隆信を儲けた。しかし、夫は戦死、三十七歳で落飾した。彼女が慶尼と名乗るのはこの時からである。

それから三年後のことである。
竜造寺宗家は父胤和の弟胤久が継いでいたが、その宗家で不幸が相次ぎ、血脈が途絶えるという危機に直面した。そのため、二十歳になっていた隆信が本家を継ぐことになった。
しかし、この家督相続は簡単なものではなかったらしく、隆信の粗暴なふるまいにも原因があったようであるが、一門や重臣たちの中にも反対する勢力があり、その動揺につけ込んだ外敵に攻められ、隆信が筑後に逃れるという事態まで起こった。

慶尼は、わが子と竜造寺家の安泰のために乗り出す決意をした。
わが子隆信は、武者としては勇猛ではあるがやや粗暴なふるまいが目立ち、敵を作りやすく人望を集める点でも問題があった。藩主として一人前の人物に育てるためには、しっかりとした後見者と智謀に優れた参謀がが必要であった。
慶尼は熟慮を重ねた結果、鍋島清房・直茂親子を置いて他にはないと結論したが、問題は清房が隆信の粗暴さを嫌っていることであった。
それらの様々な問題点を一気に解決させる方法は、ただ一つ、自分と清房とが結婚することであった。

部屋の中まで乗り入れてきた花嫁の輿に清房は少々戸惑ったが、降りてきた花嫁が実質的な当主ともいうべき藩主の母親であったのにはさらに驚いたことであろう。
四十八歳にして自らを売り込んだ慶尼は、類まれな美貌の持ち主であったのか、それともその真剣さに打たれたのかは伝えられていないが、清房は思いもかけなかった花嫁を温かく迎え入れた。
これにより隆信は、家中第一の実力者である清房が義父として後見することとなり、若くとも勇気、智謀ともに優れた直茂は義弟として心許せる参謀となった。

竜造寺家の結束は固まり、肥前を制圧し北九州一帯にも進出し、戦国大名としての全盛を迎える。しかし、隆信の戦いぶりはあまりにも激しく、無用な敵をつくることも多く、その勢力はもろいものであった。
天正十二年(1584)、有馬・島津の連合軍に敗れ、隆信は戦死してしまう。これにより、竜造寺家の家運は一気に衰退に向かう。
慶尼は隆信の子政家を後見して立て直しを図るが、この前後に夫である清房も没していて、頼りになるのは、有馬・島津軍との戦いで辛くも生き延びていた直茂だけであった。

しかも、政家は病がちで早々に隠居し家督をまだ五歳の嫡男高房に引き継いでしまう。天正十五年のことである。
ここに至って慶尼は、高房の後見を直茂に託し、藩政のすべてを任せる決意を固めた。
藩主とはいえ高房はまだ五歳。まだまだ慶尼の威光は衰えを見せていなかったが、すでに八十歳に近い。高房が一人立ち出来るまで後見を続けることは困難と考えざるを得なかった。しかも直茂は義理とはいえ自分の息子であり、その人物に惚れ込んで四十八歳で花嫁になる決意をさせた男であった。
時の権力者秀吉の了解も得て、佐賀藩は名目上は竜造寺氏が藩主であり、実権は鍋島氏が握るという体制が出来上がったのである。そして、その体制の中核となったのは、竜造寺氏本流の娘であり、鍋島氏本家の妻であり、さらにいえば、藩主の曾祖母であり実権者の母である慶尼であった。

佐賀藩のこの体制は、豊臣政権下から徳川政権下へと移り行く難しい時代を乗り越えていった。
慶尼は、竜造寺氏と鍋島氏の複合体としての佐賀藩を見守りながら、静かな最期を迎えた。
慶長五年(1560)三月、関ヶ原の戦いを目前にした頃ことである。享年九十二歳であった。

慶尼の死後七年経った時のことであるが、佐賀藩藩主竜造寺高房が憤死するという事件が起こっている。不詳な面も多いが、高房は直茂の娘を妻に迎えていたが、この妻を殺し自らも自殺を図ったという。その傷がもとでの死去らしく、間もなく父の政家も亡くなり、竜造寺氏の本流は断絶した。
ここに佐賀藩は、名実ともに鍋島氏の藩となる。
これらの経緯から、「鍋島藩の化け猫騒動」という怪談など、両家の確執を伝える物語がいくつか伝えられている。

しかし、佐賀鍋島藩は、三十五万七千石の大藩として一度の転封もなく明治維新を迎えており、竜造寺氏の庶流四家も、鍋島藩の重臣として繁栄を守っているのである。

                                        ( 完 )

 
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運命紀行  自ら輝く

2012-06-18 08:00:56 | 運命紀行
       運命紀行 

          自ら輝く


明治十八年(1885)、わが国政府の要請で軍事顧問として来日したドイツのメッケル少佐は、陸軍大学の教官を務め、わが国軍隊の近代化に多大な貢献があったという。
そのメッケル少佐の教官時代に、こんな逸話が残されている。
関ヶ原の戦いにおける東西両軍の配置図を見て、メッケル少佐は即座に西軍の勝利を断言したと伝えられている。

この戦いは、わが国歴史の中でももっとも名高く壮大な戦いであったといえる。関ヶ原に集結した戦力でいえば、諸説はあるが、東軍およそ十万、西軍およそ八万といわれており、戦力数からいえばほぼ拮抗しているか、若干東軍の方が多かったと考えられる。
それらのことを承知の上と考えられるが、両軍各部隊の布陣の様子から、メッケル少佐は西軍の勝利を迷うことなく予測したのである。
しかし結果は、東軍の勝利に終わった。それもわずか半日で西軍は壊滅状態となったのである。

それでは、メッケル少佐の情勢判断が未熟であったのかといえば決してそうではなく、彼には決定的な情報が伝えられていなかったのである。
戦力数や、地勢や天候、各部隊の配置、保有兵力などは伝えられていたのであろうが、小早川秀秋らの反逆については伝えられていなかったのである。戦端が開かれた後、小早川秀忠軍一万五千、脇坂安治らの諸軍四千二百が寝返ったのであるから、とても西軍が互角に戦える合戦ではなかったのである。
小早川秀秋の寝返りを卑怯とするか、あまりに無防備な西軍首脳を未熟とするかはともかく、小早川秀秋の決断が、この合戦の勝敗に大きな影響を与えたことだけは間違いない。

関ヶ原において激突した合戦については、小早川秀秋が大きな鍵となったわけであるが、東西両軍の激突は関ヶ原だけで行われたわけではない。個々の戦いの規模はともかく、全国各地で両陣営の誘引合戦があり、激しい戦いも繰り広げられたのである。
そして、徳川家康が天下の権を握ることになるこの戦いの鍵となったのは、ひとり小早川秀秋だけではなかったのである。


慶長五年(1600)九月一日、京極高次(キョウゴクタカツグ)は大津城を出発した。東へ向かう西軍に加わっての出陣であった。
大津城は、京・大坂と東海との重要拠点にあり、東西両軍からの働きかけは熾烈を極めていた。
上杉征伐に向かう徳川家康は、わざわざ大津城に立ち寄り京極高次に味方するように働きかけている。かねてから家康とは資金援助を受けるなど良好な関係にあり、何よりもその器量の大きさは群を抜いていた。高次は、弟の京極高知と重臣山田大炊を徳川軍に参加させている。
しかしその一方で、西軍からの働きかけもさらに激しいものであった。というより、高次は豊臣秀吉に可愛がられており、今日の地位を得ているのはひとえに秀吉の引き立てあってのものであった。羽柴の姓を与えられ、従三位参議となり羽柴大津宰相と呼ばれることもあったほどなのである。しかも、妻は淀殿の妹であり、大坂方からすれば、むしろ中心戦力のように考えていた節がある。

大津城は、明智光秀の坂本城の後継として浅野長政が築いた堅城である。とはいえ六万石の城構えでは、東に向かう大坂方の大軍を防ぎ切ることなど不可能であった。
高次は西軍に味方することを決意し、嫡子熊麿(のちの忠高)を人質として大坂城に送り、東に向かう石田三成と大坂城で面談し味方することを伝えている。
その一方で、西軍の動向などを東軍方に伝えており、いかにも高次らしい行動ではある。

大坂方の進軍に合わせて出陣した高次は、二日には越前国東野に到着するが、ここで大決断をするのである。蛍大名などと揶揄されることの多かった京極高次が、自ら輝くための一世一代の決断であった。
高次は従軍する大津兵を無断で海津に向かわせ、ここから船で大津城に引き返したのである。
帰城と同時に、城内に兵員を集め兵糧を運び込んで籠城戦の体制を固め、家康の重臣井伊直政に西軍を迎え撃つと伝えた。
東軍陣営に加わることを高らかに宣言したのである。

京極勢の動きを知った西軍方は、近くにいた毛利元康に大津城攻撃を命じた。さらに、立花宗茂軍も加わり、大津城は瞬く間に一万五千とも、四万とも伝えられる大軍に襲いかかられた。
十重二十重に囲まれた上、大砲も撃ち込まれ、戦いは一方的な状態で、京極方はただ耐え忍ぶばかりであった。
それでも、十一日には逆に夜襲をかけて戦果を上げたりもしたが、態勢に変化をもたらすほどのものではなかった。
十二日には堀が埋められ、十三日には防備の落ちた城に対して総攻撃が開始された。高次は手傷を負いながらも自ら奮戦、ここを己の輝き場所と決めて懸命の働きを尽くしたが、衆寡敵せず三の丸、二の丸と落とされていった。
勝敗が明らかになった十四日には、和睦の使者が送られてきたが高次はこれを拒否、名門京極家の当主としての輝きの中での死を決意する。しかし、秀吉未亡人である北政所ねねの使者として孝蔵主の訪問を受け、さらには重臣らの説得もあって、夜になって降伏を受け入れた。

十五日の朝には、大津城から近い園城寺において剃髪し、七十人ほどの家臣らと共に宇治へと去り、その後に高野山に入った。
ちょうどこの日は、関ヶ原では合戦の火蓋が切られていて、高次が宇治に落ちて行った頃には、西軍はすでに敗走に移っていたのである。
京極高次、一世一代の決断は、西軍数万の戦力を大津城に釘付けにして、関ヶ原における東軍勝利の大きな要因を生み出していたのである。


     * * *

京極氏は、宇多源氏の流れをくむ近江源治佐々木氏の別家に当たる。
鎌倉時代、近江ほか数カ国の守護に任じられていた佐々木信綱は四人の息子に近江を分割相続させたが、そのうちの一人氏信は北近江と京都の京極高辻の邸を与えられたが、その末裔が京極氏を名乗るようになる。
その京極氏は、室町時代には出雲・隠岐・飛騨の守護を務め、代々侍所所司に就ける四職の一つとして繁栄した。
しかし、応仁の乱後は家督争いなどの混乱で一族は力を失い、出雲・隠岐などは守護代である尼子氏に実権を奪われ、さらに飛騨は三木氏に、北近江は浅井氏の圧迫を受けていた。

京極高次は、凋落してゆく名門の嫡男に生まれた。
高次の祖父高清は近江にあり、京極氏の当主として君臨していたが、実際はすでに凋落は誰の目にも明らかな状態であった。家督継承についても、高清の推す次男高吉と浅井亮政らの推す長男高広との間で争いが生じ、高清方が敗れ追放されるという事態が起きている。この時は、すぐに和睦が成立して江北の地に戻れたが、これは京極氏を名目上の守護として実質支配を狙った浅井亮政の思惑からのもので、この頃にはまだ京極という名前の威光は残っていた。
しかし、しばらく経って、京極高吉が六角氏と組んでかつての栄光を取り戻そうと挙兵したが敗れ、京極氏の江北支配は終りを告げる。

高次の父高吉は足利義昭に仕えていたが、義昭が織田信長と対立した時に出家し、高次は美濃国へ人質として送られ、幼少期は人質としての生活であった。
しかし、元亀四年(1573)七月、宇治の槇島城にこもる義昭を攻めた信長に従っており、その功により近江国奥島五千石が与えられている。高次十一歳の頃のことであり、いかに名門の血筋とはいえ、信長は高次の将来性を評価してでのことと思われる。

天正十年(1582)六月二日、本能寺の変が起こり、信長は明智光秀に討たれる。
この時二十歳の高次は、姉が嫁いでいた若狭国の武田元明と共に光秀方に与し、秀吉の居城長浜城を攻撃するも、十三日の山崎の戦いで光秀はあっけなく敗れてしまう。十九日に武田元明は自害するが、高次は美濃国に逃れ、さらに若狭国の武田領へと逃げのび、一時は柴田勝家に匿われていたらしい。
自害した武田元明に嫁いでいた姉の竜子は捕らえられ、その後秀吉の側室となる。
この竜子は、数多い秀吉の側室たちの中で美貌第一といわれた女性であるが、高次の妹とする説も根強い。ただ、夫が自害した時には三人の子供がいたということなので、姉である可能性の方が高いように思われる。

大変下世話な表現ではあるが、京極高次は蛍大名と表現されることが、ままある。
これは、秀吉の側室となり京極殿、あるいは松の丸殿と呼ばれた姉の竜子や、後に妻となる浅井長政とお市の三姉妹の中の姫お初という二人の閨閥により高次は出世したのだと揶揄されたものである。
実際に秀吉が側室から受ける影響は小さなものではなかったが、中でも松の丸殿に対する秀吉の執着は相当のものであったらしい。夫が自害した後捕らえられ、その後秀吉の側室になった彼女の心境を推し量る資料は見当たらないが、二十歳そこそことはいえすでに三人の子を儲けていた。しかし、それでいてもなお秀吉の側室第一と噂される美貌は、その血統と共に秀吉を惹きつけるに十分であったと思われる。
しかも、なかなかに見識も高く、淀殿と杯の順番をめぐって争ったとの逸話があるように、淀殿の浅井氏などはわが京極の家来筋だとの思いを持っていたのであろう。

明智方の敗軍の将として逃げ隠れていた高次は、松の丸殿の嘆願が功を奏してか、許されて秀吉に仕えるようになり、近江国高島郡に二千五百石が与えらた。翌々年には五千石に加増され、同年の九州征伐の功により一万石に加増、大溝城を与えられ大名になるのである。
蛍大名の面目躍如ということであるが、あの怜悧な目を持つ信長が、十一歳の高次に五千石を与えたことを考えると、高次自身にも人心を引きつける何かを持っていたに違いない。

天正十八年(1590)の小田原征伐の功により近江八幡山城主として二万八千石に加増され、文禄四年(1595)には近江大津城主として六万石が与えられている。大津城は、京都防衛の意味からも南西近江の要衝の城である。さらには、羽柴姓を称することがゆるされ、官位も従三位参議にまで引き上げられ、羽柴大津宰相と呼ばれるまでになったのである。

この頃までの出世の要因は、その大部分が姉や妻、あるいは名門の出であることの恩恵とされることが多いが、実際その面が少なくないことを認めるとしても、秀吉が没し、豊臣政権を守ろうとする大坂方と徳川に将来を託す陣営との対立が深まっていくと、両陣営とも京極高次を自陣に取り込もうと画策しているのである。大津という要衝に城を持っていたことも理由に挙げられるが、やはり、高次という人物の持つ魅力も少なくなかったと思われてならない。
そして、蛍大名と揶揄されるのを耐え忍んでいた京極高次はついに自ら輝くべく決断したのである。

関ヶ原の戦いのあと、家康は高次の働きを高く評価した。
高次は井伊直政からの使者を受け、早々と高野山を下りるよう伝えられる。剃髪までした身であり、さすがに再三辞退するも、弟の京極高知まで説得に加わるにおよび下山する。
大坂で家康に面会、その働きを称えられ若狭国八万五千石への栄進が伝えられた。
ついに、自らの輝きを見せたのである。

なお、弟の高知も丹後国守となり、名門の復活を見せ、子孫たちは転封や改易などを経験しながらも、大名家として明治維新を迎えている。

                                         ( 完 )
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運命紀行  次郎法師

2012-06-12 08:00:25 | 運命紀行
       運命紀行

          次郎法師


天正三年(1575)、直虎は運命の時を迎えていた。
珠玉のようにして、慈しみ、鍛え上げてきた虎松は十五歳になっていた。
かねてから徳川方によしみを結び、あらゆる伝手を頼って、虎松を家康に拝謁させようとしてきたのは、今川氏の圧迫を受け続けてきた井伊の家を存続させるためには、徳川家康に命運を託す以外に手段はないと考えていたからである。
その願いが今まさに実現しようとしていた。直虎は、虎松の拝謁がただただ無事に終えることを、遠くから見守っていた。

家康が三方ヶ原に鷹狩を行うのに合わせて用意された引見は、直虎の願いが叶ってか、期待以上に順調に行われた。
家康は、直虎に対して長年の辛苦をねぎらい、虎松の出仕を許して三百石を与えることを約した。それは、今川氏の圧迫を受け続け、滅亡との瀬戸際を這いつくばるようにして凌いできた井伊家にほのかな灯りがともった瞬間でもあった。
男として生き続けてきた直虎の頬を、一筋二筋涙が流れた。
井伊次郎法師直虎、三十代半ばの頃のことであった。


     * * *

徳川四天王と称せられる人物がいる。
家康が天下人へと上って行く段階で側近として仕え、大きな功績を果たした酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人の武将に対する尊称である。
いずれも、織田信長、豊臣秀吉という巨星が没してゆく動乱の時を、家康を支え徳川幕府創立へと導いた功臣であることは多くの記録によって認められる。

その子孫も、徳川政権下の二百六十余年を家系を守り通した有力譜代大名であるが、徳川四天王と称せられる四人の経歴を見てみると、不思議な人物が加わっていることに気づく。井伊直政である。
酒井と本多は徳川家臣団の中でも最古参である三河安城御譜代であり、榊原と井伊は三河岡崎譜代とされているが、直政が家康に仕えたのは、天正三年(1575)のことで、この年は織田・徳川の連合軍が武田勝頼の騎馬軍団を破った長篠の戦いが行われた年である。
家康が天下人を意識するのはまだ先のことであるとはいえ、すでに信長との固い同盟に支えられた有力大名になってからのことなのである。

さらにいえば、彼らの年齢にも大きな差がある。
例えば、信長が討たれた本能寺の変(天正十年・1582)の時点でいえば、酒井忠次五十六歳、本多忠勝三十五歳、榊原康政三十五歳なのに対し、井伊直政は二十二歳に過ぎない。因みに、徳川家康は、四十一歳であった。
しかも、直政の元服は極めて遅く二十二歳の頃であるから、この時点では、他の三人に比べてはるかに軽輩であった。また、まだ外様扱いされていたようなのである。
しかし、やがて井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊と噂されるようになり、徳川四天王の一人と称せられ、幕末の頃には譜代大名筆頭とされるのである。


井伊氏は、藤原北家の後裔を称する名門で、遠江国井伊谷を本貫地として五百年に渡って勢力を保つ豪族であった。
南北朝時代、南朝方に属した井伊氏は、井伊谷に宗良親王を迎えて戦ったが、北朝方の今川了俊に屈服し、以後、今川氏の尖兵として戦わされることになったのである。
応仁の乱では、今川氏の支配から脱すべく西軍の斯波氏に味方したが敗戦となり、今川氏からさらなる圧迫を受けるようになっていった。同族間の結束も弱まり、戦国期の井伊氏はまさに存亡の危機に陥っていた。

井伊氏第十八代の当主、直盛には男児がおらず、娘一人であった。
天文十一年(1542)、祖父の直宗が戦死、父の直盛が家督を継ぐが、嫡男がいないことから、一人娘を男児として養育することを決意するのである。名前も次郎法師と名付けられたが、、次郎も法師も代々の井伊家の総領名で、その二つともを合わせて名付けたものらしい。
さらに、婿養子を迎えるために直盛の叔父直満の息子である亀之丞との許嫁の約束を結んだ。
実は、次郎法師の生年は未詳であるが、この天文十一年には誕生していたこと、亀之丞もこの時八歳であること、すぐに結婚ということにならなかったことなどを考え合わせると、おそらく次郎法師の誕生は、天文十年前後ではないかと推定される。

しかし、この婚約を不満に思う人物がいた。重臣の小野和泉守は、直満との仲が悪く、亀之丞が宗家を相続することになれば直満が実権を握ることになり、自分が追放されることを恐れたのである。
小野和泉守は、主家の今川義元に直満とその弟直義が今川家に逆意を抱いていると訴え、義元はそれを信じて直満兄弟を駿府に呼び出して殺害してしまった。
亀之丞にも危険が及んだが、信州伊那に逃げ、土豪の奥山親朝に匿われたが、井伊谷に戻るのは和泉守が死んだ十二年後のことになる。しかも、その間に、亀之丞は恩人である親朝の娘と結婚してしまうのである。

井伊直盛は娘が不憫であったが、宗家を守っていくためには手段がなく、やむなく亀之丞を養子として直親と名乗らせた。
まだ幼い時に親により決められた許嫁とはいえ、その相手が妻を連れて戻ってきた時の次郎法師の衝撃は小さなものではなかったことであろう。
さらに、永禄三年(1560)五月、今川義元に従軍していた父直盛は、桶狭間で討死してしまったのである。
井伊家の家督は養子の直親が継ぎ、翌永禄四年二月には嫡子虎松が誕生する。井伊宗家にとってめでたい出来ごとではあったが、次郎法師の心境は複雑なものであった。
次郎法師は、宗家の将来の形が固まったこともあって、出家を決意するのである。

後見人的な立場にあった大叔父に当たる南渓和尚は、「出家は許すとしても、そなたはなお男であれ。宗家の後継者は出来たとはいえ、直親父子のみ。他には井伊の血を引くものはいないのだから」
と、次郎法師の僧名で出家した。おそらく、二十歳代前半のことであったと思われる。
そして、この南渓和尚の危惧は現実のものとなってしまうのである。
かつて直満を讒言した和泉守の子で家老の小野但馬守が、義元の跡を継いでいた今川氏真に、「直親は徳川や織田と通じている」と告げたのである。事実無根の讒言であったが、氏真はこれを信じ、釈明のため駿府に向かう直親主従を討たせてしまったのである。
直盛・直親父子に起こったことと全く同じ悲劇が、直親・虎松父子を襲ったのである。

当時、次郎法師の曽祖父直平はまだ健在であった。宗家を継ぐ者がいなくなってしまったため、当主に返り咲くことになった。ところが、それを良しとしない今川の手のものによって毒殺されてしまう。当然、虎松の身も危険となり、頭を丸めて蓬莱寺に逃げ込むという事態になってしまった。
ついに宗家を継ぐものが全くいなくなってしまい、次郎法師は還俗し、直虎と名乗り、地頭職を継いだのである。

直虎は重臣たちに補佐されて、井伊谷城の城主となり、地頭としての職務を担って行った。
龍潭寺には、永禄八年九月十五日付で「次郎法師」と署名され、黒印が押された寄進状が残されているという。領内の万福寺の鐘の銘文には「大檀那 次郎法師」と刻まれており、蜂前神社の文書には「次郎直虎」の署名と花押が残されている。
おそらく女性で花押を用いた記録は他にはなく、彼女が井伊直虎という男性として地頭職を務めていたことが窺われる。

直虎自身にとっては、やむなく引き継いだ家督であり、周囲もそう見ていたと考えられるが、決してお飾りの城主ではなかった。
依然厳しい今川氏からの圧迫に対して抵抗を示しているし、時代の流れを冷静に見つめて、今川氏の勢力の衰えを察知して徳川家康への接近を計っていたのである。

そして、やがてその苦労は日の目を見ることとなり、手塩をかけて養育してきた虎松が家康に出仕することが叶う。
家康に仕えることになった虎松は万千代と名を改めて奮迅の働きをするが、正式に井伊家の家督を受け継ぐのは、二十二歳という遅い元服で直政と名乗った頃のことである。
井伊家の家系を見ると、「十八代当主直盛・十九代当主直親・二十代当主直政」となっているが、直親が亡くなったのは直政が三歳にも満たぬ頃のことで、その間には二十年近くの空間が出来てしまう。
その二十年近くの、井伊家最大の危機の期間の大半を、次郎法師、そして井伊直虎と名乗る女性が守り通したのである。

次郎法師直虎が亡くなったのは、天正十年(1582)八月のことである。
その生涯は悲しみや苦難ばかりが多かったかに見える。
しかし、虎松すなわち井伊直政という英傑を育て上げ、井伊家を徳川幕府の譜代大名の筆頭にまで上り詰めさせた最大の功労者であることは、例え正式な系図に示されることがなくとも、燦然と輝いていることであろう。

                                        ( 完 )

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運命紀行  それぞれの道

2012-06-06 08:00:42 | 運命紀行
       運命紀行

          それぞれの道


「誰も、我が下知を聞かず。もはや城中にあっても無意味」
織田有楽斎は、大坂方と関東方の斡旋を計るのが、自らの力では成し難いことを家康のもとに伝えた上で、大坂城を退出した。

天下統一を成し遂げた秀吉であったが、豊臣家は所詮秀吉という稀代の傑物あってのものであった。
秀吉が没すると、盤石を計ったはずの豊臣体制は一気に揺らぎ始め、関ヶ原の合戦を経て天下の実権は徳川家康が握り、征夷大将軍の宣下と共に徳川政権は強大な体制を固めていった。もはや、徳川幕府政権は、完全に天下を掌握したと見えたが、なお頑強にその現実を認めない勢力も残っていた。
淀殿を中心とした勢力であった。

有楽斎と淀殿の間に軋轢がなかったわけではない。
本能寺の変が勃発した時、有楽斎は信長の嫡男信忠と共に二条御所にあった。本能寺と同様に二条御所も明智光秀の軍勢に包囲され、信長後継者である信忠も自刃して果てた。しかし、有楽斎は脱出に成功し、安土を経て岐阜城に逃れた。この有楽斎の行動を京童は軽蔑を込めて噂をしたが、淀殿の耳にも達していたことだろう。
また、その後の徳川家康との関係や、特に関ヶ原の戦いでは東軍に加わって戦っており、心から信頼できる人物として見られていなかったことは確かであろう。

しかし、秀吉恩顧の大名たちが続々と家康陣営へと去ってゆく中で、淀殿にとって有楽斎は数少ない血族であった。それも、単に叔父であるということばかりではなく、大坂城にいる武将たちの器量を考えると、武将としての働きは目立たなかったとはいえ、有楽斎は信長の実弟である。天下人を自負している家康といえども、有楽斎をそうそう軽くは扱えないはずである。少なくとも淀殿はそのように考えていた。

有楽斎にとっても、淀殿と秀頼は、大切な織田の血統であった。
大坂城にある将兵たちにとっては、豊臣の大事が何より優先されることであるが、有楽斎の描いているものは少し違った。秀吉も秀頼も、確かに有楽斎の主君であり、そのように仕えもしたが、心の奥にあるのは、本来織田の下風にあるべき者たちであった。哀しいかな、織田の没落著しい今は、淀殿こそが織田再興の頼みであり、秀頼もまたそのための奇貨であった。

徳川体制が固まっていく中でも、有楽斎は嫡男と共に秀頼の側近くに仕えた。
徳川との並立が困難になった大坂冬の陣においても、有楽斎は大野治長らと淀殿と秀頼を支え、家康との連絡役を務め和解を主導した。だが、和平は長くは続かず、結局は不利な条件での和解は豊臣の命運を縮めることになってしまった。
さらに、嫡男の頼長は、強硬派として突出的な意見や行動も多く、穏健派として行動する有楽斎の足を引っ張る形となり、加えて、有楽斎が関東方に通じているという疑念が常につきまとい、その発言力は低下していった。

再び徳川軍の進攻が伝えられる中、有楽斎は大坂城から退出することを決意した。
淀殿周辺に対する発言力を失った以上、城中にとどまることは無意味であった。徳川の政権下で安泰を計る意思がなければ、豊臣家の将来はなく、秀頼を通しての織田家の復興など望むべきもなかった。
有楽斎は、おのれの進むべき方向を模索しながら大坂城を退出した。
元号がやがて元和と変更される、慶長二十年(1615)の春のことである。
     

     * * *

織田長益(オダナガマス・のちに有楽斎)は、織田信長の実弟である。
天文十六年(1547)の誕生なので、信長とは十三歳ほどの年齢差がある。
父は織田信秀で、その十一男(諸説ある)と伝えられているように、信秀には土田御前以下複数の妻妾がおり、子供の数も多い。信長が尾張を統一するのにあたって、肉親との苛烈な争いがあったことはよく知られている。

長益は、信長との年齢差が大きかったこともあり、兄弟間の争いに直接かかわることはなかったらしく、そのためもあって、幼年時代の逸話は少ない。
信長の血統は、美男美女を輩出しており、信長自身もそうであるが、妹とされるお市の方やお犬の方は戦国有数の美女と伝えられており、長益もまた美男の武将であった可能性は高い。

天正二年(1574)、長益二十八歳の頃であるが、尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修したあたりから歴史上に登場してくる。
この頃は、信長の嫡男信忠の旗下にあったと思われ、武田征伐などに従軍している。
天正九年に行われた京都御馬揃えでは、信忠・信雄・信包・信孝・津田信澄の次に続いており、天正十年の左義長では、信忠・信雄・長益・信包の順になっていて、一門の中でも相応の評価を受けていたことが分かる。
また、武田征伐では、木曽口からの戦いに加わり、鳥居峠を攻略、降伏した深志城の受け取り役を務めている。さらに、上野国への進軍時には小幡氏を降伏させる戦いで働いている。
ややもすると、織田長益、すなわち有楽斎は、お茶の達人であったことや秀吉の御伽衆を務めたことなどから、軟弱な人物との印象を受けがちであるが、戦上手とまではいかないまでも、相応の武将であったことは間違いない。

天正十年(1582)六月二日、本能寺の変勃発。
この時長益は、信忠に従っていて二条御所にあった。明智光秀の下知のもと厳重な包囲網が敷かれたと考えられるが、やはり、本能寺に重点がおかれ、信忠の宿営地である妙覚寺や二条御所への包囲は遅れたようである。信忠が事変を知った時にはすでに本能寺は勝敗が決していたようで、信忠も脱出を勧められたようであり、ここからは何人かの武将も脱出に成功している。
結局信忠は脱出を良しとせず、二条御所で自刃するが、長益は、前田玄以らと共に脱出に成功、安土を経て岐阜へと逃れたらしい。このことが、後々まで主君を捨てて逃げ出したと京童たちに噂されたらしい。

事変の後は、信忠の弟である信雄に仕え、検地奉行などを務めた。小牧・長久手の戦いでは、家康・信雄連合軍に属し、秀吉軍と戦っている。この戦いは自然消滅のような形となっていくが、その原因は、信雄が秀吉と和解したためで、長益が折衝役に立ったらしい。また、秀吉と佐々成政との折衝役にもなったらしく、軍事的な実力は有していないながらも、信長の弟という名声を背景に折衝役としての価値は高まっていたようである。

天正十八年(1590)に信雄が改易された後は、秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡に二千石の領地を得た。
そして、この頃に剃髪して有楽斎と称するようになる。千利休から茶の指導を受けるなど、早くから武将としてよりも茶人としての評価が高かったが、この剃髪は、武将としての将来を捨て、風流人としての将来に懸ける決意だったのかもしれない。
大坂城にあっては、秀吉の御伽衆という立場よりも、姪である淀殿の相談役としての意味合いが強まっていたと考えられる。鶴松の出産の際には立ち合ったともいわれ、秀吉の寵愛を受けていたとはいえ、淀殿にとっては数少ない肉親であり保護者のような一面を担っていたのであろう。

淀殿の有楽斎に対する信頼は秀吉の没した後ではさらに強まり、豊臣政権下での存在感が増していったと考えられる。
しかし、その一方で、秀吉が没して間もなく、徳川家康と前田利家を仰ぐ一派が対立した時には、家康邸に駆けつけ警護にあたっている。関ヶ原の戦いでは、東軍に属して庶長子長孝と共に出陣、総勢四百五十という寡兵ながら西軍中核の小西隊や大谷隊などと戦い、一時は本多忠勝の指揮下に入って相当の働きをしている。
この働きにより、戦後の恩賞として有楽斎は大和国内で三万二千石が与えられ、長孝も美濃国に一万石を得ている。
有楽斎は淀殿相談役的な立場にあっても、天下の動きを冷静に推し量る能力を有していたのであろう。

関ヶ原の戦いの後も、有楽斎は大坂城に出仕を続け淀殿の補佐を続けた。
この間に、京都建仁寺の子院正伝院を再建し院内に茶室如庵を設けているが、この茶室は現在犬山市に移築され国宝指定を受けている。
やがて、徳川と豊臣の並立は困難となり、大坂冬の陣となる。この時も有楽斎は大坂城にあり、大野治長らと共に穏健派として豊臣家存続に腐心するも、同じく出仕していた嫡男の頼長は強硬派として主流派である穏健派としばしば対立し、有楽斎の発言力低下の原因にもなっていった。
短い和平のあと再び戦乱が避けられない頃になると、徳川とのよしみを持つ有楽斎は豊臣政権の中枢から疑惑の目を向けられるようになっていった。

有楽斎が家康の意向を受けて動いているとの噂は、早い段階からあった。実際に、関ヶ原の戦いでは東軍方として参戦しているし、冬の陣の和解では、徳川方有利の条件を推し進めた張本人だと非難する者もいた。
有楽斎自身も、自分が家康と親しいことを隠そうとはしなかった。同時に家康の間者であるがごとき非難は、片腹痛い思いであった。こそこそと間者働きをするには目立ちすぎる存在であることは、誰にでも分かるはずだと考えていた。
家康の方には、信長の弟という貴重な人物をうまく利用しようとする思惑はあったのだろうが、それは有楽斎とて同じであった。家康の力を借りて、何としても秀頼を生き延びさせるべきと考えていた。
それは、豊臣家の存続を願ってのことではなく、この数奇な運命を背負った御曹司を中心において、織田家の興隆を目指すことであった。

しかし、大坂城における自らの影響力の低下によって、全てを断念すべき時だと決意した。
戦によって徳川体制を崩すことなど不可能なことは、とっくの昔に見通していた。その体制の中で、織田の血筋をどのように守っていくのかと考えた時、有力な鍵となる人物が秀頼であったが、それも果たせぬ夢となってしまった。
大坂城を退出した有楽斎は、京都に隠棲し茶道に専念し、趣味を専らとした。

元和元年(1615)八月、豊臣家が滅亡し淀殿も運命を共にしたあとのことであるが、有楽斎は自らの所領のうち四男長政、五男尚長にそれぞれ一万石を分け与え、残りの一万石は手元に残し悠々自適の晩年を送った。
元和七年(1621)十二月、京都で死去。享年七十六歳であった。

庶長子の長孝は、関ヶ原の戦い後に与えられた美濃の一万石は、分家として幕府から野村藩として認められた。四男、五男もそれぞれ一万石の外様大名として幕末まで続いた。
嫡子の頼長は、有楽斎が創始した茶道有楽流を継ぎ、大名家である子供たちの家に伝わり、今日まで繁栄を保っている。また、東京の有楽町の地名は、かつて有楽斎の屋敷があったことに因むものである。
戦国大名の家に生まれ、武将として奔走した男は、自ら望んだ茶道を通して存分な生き方を果たしたといえよう。

                                        ( 完 )
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