雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語 第二十六部

2022-07-25 15:08:50 | 小さな小さな物語 第二十六部

   小さな小さな物語  第二十六部


    NO.1501 から NO.1560 まで収録しています

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小さな小さな物語  目次

2022-07-25 14:50:15 | 小さな小さな物語 第二十六部

        小さな小さな物語  目次


     NO.1501  ご破算で願いましては
        1502  その角を曲がりますか
        1503  ぼつぼつ大胆な決定を
        1504  話せば分かるか
        1505  距離を測る

        1506  お正月がいっぱい
        1507  死生観
        1508  「春は名のみ」の時
        1509  一日二本のタバコ
        1510  灰色のルールブック

        1511  「パシュート」的な考え方
        1512  虚々実々
        1513  価値観の共有
        1514  ボタンの掛け違い
        1515  どうすることも出来ないこと

        1516  おかげさまで
        1517  露と落ち露と消えにし
        1518  リーダーシップの姿
        1519  境界線
        1520  絶対的な正義        

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ご破算で願いましては ・ 小さな小さな物語 ( 1501 )

2022-07-25 14:49:39 | 小さな小さな物語 第二十六部

「ご破算で願いましては・・・」
この言葉、今も元気に使われているのでしょうか。
おそらく、そろばん(珠算)を学んだことがある人であれば、読み上げ算で、先生なりリーダーなりの人が、「ご破算で願いましては」と声高く呼びかけるのに対して、緊張しながらそろばんに向かった記憶があるのではないでしょうか。
この言葉の意味は、というほど考えることもないのでしょうが、「いま、そろばん上にある数字を崩して下さい」といったものだと思うのですが、最後の部分の「は」は、「は」が正しいのか、「わ」が正しいのか、なんて考えてしまいました。まあ、文章としては「は」なのでしょうが、経験的には「わァ-」と気合いを入れられていたような気もするのです。 

時々テレビなどで、「そろばん日本一」とか「暗算の名人」といった人が紹介されることがありますが、まるで神業と表現したいような、すばらしい技術(?)を見せてくれます。
電卓が登場して以来、そろばんの出番は大幅に減少しました。おそらく、企業の事務現場では、よほど特殊な例を除けば、そろばんを常備している所はないのでしょう。
ただ、少し前から、子供の教育の一環として、そろばんの効用が見直されているそうです。
わが国にそろばんが伝えられたのは、西暦1500年より以前のようですが、現存しているそろばんで最古の物は、戦国時代の名将前田利家愛用の物(異説あり)だというのですから、案外歴史は新しいのかも知れません。
そろばん発祥の地ということになりますと、おそらく中国ということになるのでしょうが、実は、現在私たちが目にする形体とは全く違うのでしょうが、軸や玉を用いて計算するような道具は、世界中の広い地域で、それも相当古い時代から用いられていたようなのです。
つまり、私たちの文明は、戦いと共にあったと言われることが多いのですが、それと同じ程度に、そろばんが寄り添っていたのかも知れません。

「ご破算で願いましては」という言葉が古いというわけではありませんが、今風に表現すれば、「リセット」ということになるのでしょうか。
ずいぶん歯切れの良い言葉ですが、それだけ軽く感じてしまうのは私だけなのでしょうか。
例えば、ゲームなどにおいて、思い通りに行かないと思うと、その時点で「リセット」して、もう一度やり直し、また、うまく行かなければ「リセット」する。まことに安易で便利な機能です。

私たちは、日々の生活を送っている中で、他人の目にはいかにも平々凡々に見えるものであっても、時には、ここで「ご破算にすることは出来ないか」と思った経験の一度や二度はあるのではないでしょうか。
残念ながら、誰かが「ご破算で願いましては」と言ってくれるようなことはまずありません。まして、自分自身が気楽に「リセット」することなど出来るものではありません。
いかに先が見えず、挽回不可能の状態であっても、「ご破算」は叶わず、傷ついた体を嘗めながらでも自らが進むべき道筋を見つけざるを得ないのでしょう。
ただ、どのような難題であっても、完全な敗北も含めれば、解決できないことなどないはずです。そして、もしかすると、「ご破算で願いましては」の状態の時にこそ、私たちが学ぶべき何かがあるような気はするのですが・・・。

( 2022.01.17 )

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その角を曲がりますか ・ 小さな小さな物語 ( 1502 )

2022-07-25 14:46:56 | 小さな小さな物語 第二十六部

私は今『今昔物語』を勉強中ですが、この膨大な説話集は、仏教にまつわる物語が中心ですが、仏教との関連がほとんどない物語も沢山あります。
中には、かなり残酷なものや、差別的なもの、年令制限をつける必要があるのではないかと思うものも含まれています。それらを拙い訳文で紹介させていただいていることに躊躇することもあるのですが、時代背景によるものと勘弁していただくことにしています。

そうした作品の中で、「鬼」とか「妖怪」とか「妖精」といった物(?)がよく登場します。残虐な性質の持ち主もいれば、案外良い奴の場合もあります。いずれの場合でも、少なくとも平安時代の頃までは、妖怪などと人間との境界はかなり低かったのかも知れません。
「栄花物語」などでも再々登場しますが、物の怪というのも怖ろしい存在で、冷泉天皇が常に苦しめられていたという場面もあります。
崇徳天皇や菅原道真などの祟(タタ)りは特に有名ですが、古代史を学ぶにあたっては、祟りとか物の怪の存在を理解しなくては、歴史の真実に近づけないという人もいらっしゃいます。
そして、それは何も遠い祖先たちの迷信だと笑うことなど出来ないことで、現在においても、その種の様々な伝説に基づく遺跡は存在し祀られています。有名な物では、平将門の首塚とされるものは、綿々と引き継がれていて、今では東京都のど真ん中ともいえる千代田区大手町に立派な石碑になって祀られています。

さて、そうした鬼や妖怪や精霊たちは、時と場所を選ばずに現れるかといえば、必ずそうではなく、大体決まった条件下に姿を見せるようです。昼よりは夜、喧騒地より静かな所、水辺なども好まれるようです。
そして、案外以外なのは、道路にもよく出現するようで、百鬼夜行といわれる百人にも及ぶ鬼の団体は、都大路などを真夜中に堂々と行進しているそうです。
また、道の中でも交差点、つまり四つ辻、あるいは三叉路なども妖怪や精霊に好まれる場所のようです。この傾向は、わが国に限ったことではなく、他国の伝承などでも四つ辻に絡む妖怪や精霊がいらっしゃるようです。

ところで、現代に生きる私たちは、都大路や高速道路上に百鬼夜行の一団を見たという情報に接することは、まあ、ないでしょう。
しかし、真夜中に、田舎道の、それも細い曲がりくねった道で、両側は雑草地のような所で、さらに墓地でもあれば、一人で歩くのは少々勇気がいります。そうかといって、妖怪や精霊は簡単に姿を見せてはくれないでしょうし、鬼となれば、人間の方が遙かに性悪であることを知ってしまったのか、滅多に現れないものです。
ただ、その一人で歩かなければならない道が、人生という道であったとした場合は、どうでしょうか。少々曲がりくねっていても一本道であれば、速度はともかく進む方向に困ることはありません。しかし、三叉路や四つ辻に行き着いたとすれば、難しく苦しい判断を迫られます。
「ああ、あの時、反対側の道を選んでいたら」と、甘酸っぱい思いと共に、取り返すことの出来ない時の流れを感じることもあるかもしれません。
さあ、あなたは、その角を曲がりますか・・・。

( 2022.01.20 )

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ぼつぼつ大胆な決定を ・ 小さな小さな物語 ( 1503 )

2022-07-25 14:45:35 | 小さな小さな物語 第二十六部

新型コロナウイルスの感染拡大が止まる気配がありません。
わが国の感染者数の累計はすでに207万人を超えています。昨日一日の感染者数は49,855人で、一日辺りの最高記録を更新し続けています。この記事を書いている1月22日の数字はまだ報道されていませんが、5万人突破が懸念されるところです。
その結果、当然のように、まん延防止等重点措置の適用申請が相次ぎ、来週中には、適用される都道府県の数は全体の半数を超えそうです。人口数にすれば、その比率はさらに高くなり、むしろ、わが国全土に適用すれば良いような気もします。

ただ、まん延防止等重点措置により、感染防止にどの程度の効果が期待できるのでしょうか。
相変わらず、飲食店を中心とした対策のようですから、協力支援金を出すことが出来るという利点はあるのでしょうが、これも、まるで飲食店を狙い撃ちにして苛めているように見えがちですが、実は、仕入れ先や、協力金の対象外の小売店などの方が、遙かに厳しいのではないかと感じられるのです。
コロナ騒動も三年目に入っていますが、これといった対応が見い出されていないようです。ワクチンは相当の効力を示してくれていますし、投薬治療も新薬・既存薬を合わせればかなりの戦力になっているようですし、何よりも治療技術は相当向上しているようです。
ただ、社会生活をどうコントロールするかという点では、あまり進歩がないようです。
それどころか、「人流」とか「ホームステイ」とか「マンボウ」とか、やたら新しい言葉が登場するばかりで、その効果の検証はほとんど公表されず、この数日は、「どうすれば良いのか」と突っ込みたくなるような発言がテレビ上で堂々と語られています。

そして今は、オミクロン株によるものが、ほとんどを占めているようです。海外の国々、例えばアメリカやヨーロッパ諸国の感染者数を見ますと、まだわが国の感染者数は少ない方です。しかし、社会的なダメージは、わが国の方が遙かに大きいような気がします。
社会風土が違うわけですから、外国と単純比較することに意味があるとは思われませんが、オミクロン株が主流となった今は、大胆な対策の見直しが必要だと思えてなりません。

岸田総理の意思決定について、「朝令暮改」だと揶揄する声があります。一方で、それを柔軟な対応だと評価する声も少なくないようです。
オミクロン株の正体はまだ完全に解明されているわけではありませんが、かなりの部分は分かってきていると思うのです。そうだとすれば、ぼつぼつ思い切った対策の大転換が必要なのではないでしょうか。これは、朝令暮改にあたりませんが、ぜひ果敢な決断を期待したいと思います。
重症者が少ないとはいえ、これだけ新規の感染者が増加すれば、重症者が増えるでしょうし、残念ながらお亡くなりになる方も出るでしょう。
しかし、社会生活に制限をかけることによる犠牲者や、他の疾病者へのしわ寄せによる犠牲者とを比較して、冷静な判断を下す時期にきているのではないでしょうか。
まさか、コロナによる犠牲者数は公表されるが、その他の疾病による犠牲者数はそうでもないと考えているようなことはないでしょうが、オミクロン株が主流となった現時点では、コロナ対策のために、その他の疾病者のベッドを奪うようなことだけは、止めるべきだと思うのです。

( 2022.01.23 )

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話せば分かるのか ・ 小さな小さな物語 ( 1504 )

2022-07-25 14:44:20 | 小さな小さな物語 第二十六部

某現職の国会議員が、某元知事に対して、『ヒトラーを思い起こす』とツイッターに投稿したことが話題となっています。
さっそく、当事者ばかりでなく、ヒトラーにたとえられた側にあたる日本維新の会は、某国会議員が所属する立憲民主党に謝罪を求める会見を行っています。
問題とされるツイッターの全文を見ていませんので、また見るつもりもありませんので、本意がどういうものであったかは分かっていませんが、いかにも低俗で非常識な引用であることは間違いないでしょう。
まあ、この議員であれば、この程度の発言があっても驚きもしませんし、それほどの影響はありませんでしょう。また、ヒトラーにたとえられたお方も、この程度の発言でひるむお方でもないでしょうから、大声を出すほどのことでもないかもしれません。

電車内で優先席で横になってタバコを吸っていた男に注意した高校生が、暴行を受け重傷を負ったという痛ましい事件がありました。他の乗客は何をしていたのか、などと言った意見もあるようですが、さて、その場に自分が立ち合っていたとすれば、果たしてどのような行動を取ることが出来るのかと考えますと、何とも難しい問題です。
この男はほどなくして逮捕されていますが、「正当防衛だった」と主張しているそうですから、とても、注意したり手出しできる相手ではなかったのかも知れません。

折から、ロシアとウクライナの間が、危うげな様相になっています。ロシアは、かなり前から国境線辺りに大軍を展開させていますし、ウクライナ側も、アメリカが全面に立つかの様相を示しているなど、一地域の紛争の域を超えてしまっているようです。
現に、世界中の株式市場は動揺を見せていますし、大使館の関係者や自国民の国外退避を指示している国が出ています。
この種の対立は世界の各地で見られることです。それぞれの地域で解決に向かって話し合いが行われているのでしょうが、その多くは、軍事力を背景にしてのものが大半だということも歴然とした事実ではないでしょうか。

「話せば分かる」は、クーデターまがいの襲撃で重傷を負った政治家の言葉として紹介されることがありますが、私たちは、本当に「話せば分かる」のでしょうか。
個人的には、ぜひそうあるべきだとは思うのですが、最近では、「話せば分かる」のは、話が通じる人同士だけであって、通じ合わない相手とはいくら話し合っても通じることがない、と思えてならないのです。
国家間の同盟の条件の一つに、「価値観の共有」といったことがよく挙げられますが、つまり、「話せば分かる」関係なのかどうかということになるように思うのです。
上記に挙げましたいくつかの対立の事例は、果たして「話せば分かる」ことが出来るのか、大いに疑問を感じるものとして紹介させていただいたのですが、さて、どういう結果を見るのでしょうか。
そして、今私たちが必要としている知恵の一つは、「話しても分からぬ者同士」が分かり合う手段ではないでしょうか。

( 2022.01.26 )


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距離を測る ・ 小さな小さな物語 ( 1505 )

2022-07-25 14:42:51 | 小さな小さな物語 第二十六部

『 宇宙には無数の銀河がありますが、今回はかみのけ座にある渦巻銀河NGC4559を紹介していきます。渦巻銀河とはその名の通り、渦を巻いたように回転する円盤状の銀河のことです。また一般に銀河までの距離の測定は難しい問題なのですが、NGC4559までの距離の推定はおよそ2,000万光年から4,500万光年と大きな幅があり、まだ定まっていません。
遠くにある銀河までの距離はどのように測ればよいでしょう? ( 以下 割愛させていただきました。)』
以上は、毎日新聞 1月27日朝刊の「『はるかな宇宙へ』 県立大西はりま天文台からの便り 」を引用させていただきました。

記事は、このあと測定方法について簡潔に説明して下さっているのですが、残念ながら私には少々難問に過ぎました。
それを承知の上で説明させていただきますと、測定の一つの手法は、渦巻きの回転速度から銀河の明るさを知る経験則である、タリー・フィッシャー関係を用いるものだそうで、多くの研究者が距離の決定に挑み、前記の数字を導き出したそうです。
一方、別の手法で距離を算出したグループもあり、こちらは、銀河に存在する赤色巨星分枝星を用いて距離の推定を行ったそうで、導き出した距離はおよそ2,900万光年だそうで、以外に似た数字だともいえます。

さて、いつも感じることですが、天文学などを研究されている方々は、何ともスケールが大きいものだと驚いてしまいます。例えば、NGC4559銀河までの距離を、2,000万光年から4,500万光年と推定していますが、この差の2,500万光年の差を誤差程度に割り切っているのかと驚いてしまいます。
私たちの日常生活においては、駅までの距離は何キロメートルとか何メートルとか、漠然と意識しています。自分の土地となれば、境界線が10センチメートル変更されるとなれば大騒ぎです。
何かと痛みつけてくれるコロナウイルスとなれば、その大きさは100ナノメートル程度のようですから、防ぐことの難しさが分かります。ところが、人間の分野であっても、半導体などは一桁のナノメートルの世界で技術競争が行われているそうですから、そうそう気楽にスマホをいじってはいけないような気がしてしまいます。

このナノメートルというのは、10億分の1メートルにあたりますが、その小ささを実感するのはなかなか難しいですが、科学技術としては幾つもの分野で実用化が進められていることを考えますと、人間の知能の優秀さというより恐ろしさを感じてしまいます。
一方で、宇宙に目を向ける人々は、光年という距離を測る単位を生み出しています。「1光年=Xナノメートル」とした場合、この「x」には、「1」の後ろに幾つの[0」をつければよいのでしょうか。
ともあれ、私たちは、物体あるいは物体間を測る単位や手法をたくさんも持っていますが、その一方で、自分の心と人の心の間を測る単位や手法は持っているのでしょうか。
「一心同体」「以心伝心」「気が合う」「阿吽の呼吸」「一蓮托生」等々、それらしいことを示す言葉は数多くありますが、いかにも抽象的で、物体間を測るような具体性にはとても及びません。
人の気持ちどころか、自分の心さえ掴みきれないのは、そのためかもしれませんねぇ・・・。

( 2022.01.29 )




 

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お正月がいっぱい ・ 小さな小さな物語 ( 1506 )

2022-07-25 14:40:25 | 小さな小さな物語 第二十六部

毎年のことながら、今年も慌ただしく一月が去ってしまいました。
「一月行って、二月は逃げて・・・」と、かつて、亡き母が口にしていた言葉を、私は何度使ったのかと考えてしまいます。このブログで使った回数だけでも、きっと少ない数ではないと思うのですが、今年もまた使ってしまいました。
この一月は、新型コロナウイルスによる新規感染者数の爆発的な増加という、私たち日本人が誰も実体験していない場面に直面してしまいました。欧米諸国などと比べるとまだまだ少ない数だともいえますが、昨秋の状況から官民両方にかなりの油断があったことは、否定することが出来ないと思われます。
そうした感染拡大の真っ最中に一月は行き、逃げ足の速い二月を迎えてしまいました。

今年は、本日二月一日が旧暦の一月一日にあたります。つまり、旧正月です。
わが国では、旧正月に特別の行事を広く行う所はほとんどないと思われますが、アジア諸国では、むしろ正月と言えば旧正月のことを指します。
中国(中華人民共和国)においては、新暦を用いるのが原則となっているようで、お正月と言えば正式には新暦の一月一日を指し、この旧暦のお正月のことは春節と呼ばれますが、実質的にはこちらがお正月を祝う日であり、ニュースでも伝えられるように国民の大移動が見られます。今年は、コロナ禍で厳しい制限が出されているようなので、どのようになるのでしょうか。
旧正月を祝う国は中国に限らず、韓国・北朝鮮・台湾・シンガポール・ベトナム・マレーシアなど多くの国があり、華僑の進出している地域では、中華街などを中心に賑やかなお祝い行事が見られるようです。
また、ロシア正教会など一部の正教会では、一月十四日に新年を祝うそうです。これは、これらの教会ではユリウス暦が用いられていて、現行のグレゴリオ暦と13日の乖離があるためです。
さらに、エチオピアなどは独自の暦を持っていて、お正月はグレゴリオ暦の九月十一日だそうです。

世界には、多くのお正月が存在していますが、わが国内だけでも沢山あるのです。
ふつうにお正月と言えば、一月一日でしょうが、三が日と呼ばれるように、一月三日まではお正月として官庁は休みになります。
また、松の内という言葉がありますが、この間は正月飾りを飾っていて、お正月期間ともいえます。東京周辺は一月七日までをその期間としていますが、関西では一月十五日までとする地域が多いようです。
一月十五日は、小正月とも言われ、歴としたお正月の一つと考えられます。
また、一月二十日は二十日正月と呼ばれ、これもお正月の仲間です。二十日正月は、正月納めとか仕事始めとか呼ばれ、かつてはこの頃から本格的に世の中が動き始めたのかも知れません。
もっと乱暴な人は、「お正月」というくらいなので、一月中はお正月だと宣うお方もいたようですが、さすがに現代では受け入れないのでしょうね。

そうした豪傑を含めても、わが国においては、今日の旧正月を最後に、明日以降にお正月を唱える人はいないようです。ぼつぼつ本気を出す時期だということでしょう。
先に述べましたように、二月はあっという間に逃げ出してしまいます。
間もなく、北京オリンピックが始まります。選手の方々にはご健闘を祈りますが、わが国開催でないことが、本当に良かったと思います。
国や社会がコロナ対策だけで動いているわけでもなく、また、それでは困りますが、やはり今の状況を沈静化させないことには、あらゆる面が制約され続けます。逃げ足の速い二月のうちに、何とかオミクロン株の沈静化を実現したいものです。

( 2022.02.01 )

 

 

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死生観 ・ 小さな小さな物語 ( 1507 )

2022-07-25 14:38:55 | 小さな小さな物語 第二十六部

2月1日、石原慎太郎氏がお亡くなりになった伝えられていました。
このところお姿を見ておりませんでしたし、体調不良との情報がたまに伝えられていたようですが、お亡くなりになったとの速報には少々驚きました。
実際に、四人いらっしゃるご子息方も、四男の方が付き添われておられたほかは、急報を受けて駆けつけたという状況であったようです。
ご自宅の前で取材に応じられたご子息方によりますと、亡くなられる数日までは執筆を続けられていたそうで、病状はともかく、ご本人の気力は亡くなられる間近までしっかりした様子だったようです。
生き様に似合う見事な最後であったようです。  合掌。

石原慎太郎氏の政治思想や手法については、おそらく、賛否が大きく分かれるのではないかと思われますが、その存在感の大きさを否定される人は少ないのではないでしょうか。
また、ご本人が最後まで『自分は物書きだ』と話されていたそうですが、作家としてのデビューも強烈なものでした。大学生で発表された「太陽の季節」は、一つの若者文化を生み出したといえるほどの衝撃を社会に与えましたが、その後続けさまに発表された作品の多くは、その描写にについて非難を受けることも多かったようです。
しかし、石原氏が政界進出する頃までの十年あまりの間は、弟の裕次郎氏の活躍もあって、小説・映画を通じて若者に多くの影響を与えたことでしょう。

私は、石原氏の小説をそれほど読んでいるわけではありません。従って、初期の衝撃的な作品群はともかく、充実期の作品についてはあまり読んでいません。幾つか読んだ作品といえば、エッセー的な物や、思想や生き様や死生観といったものについて述べられている部分に興味を抱いておりました。
おそらく、その根本的なところには仏教的な物があるのではないかと個人的には感じていましたが、シャイな表情と言葉で、本心を隠されているようなことも多いようにも感じました。
亡くなられたあと、テレビで報道された映像の中でも、ある場面では、「言いたいことを言って、人に嫌われて死にたい」というものがあると思えば、「好かれたいよな」といった言葉を漏らされることもありました。
死生観について質問された場面では、「死ねば、すべて『無』だよ。『虚無』だよ。何もかも無くなり、その方がさっぱりする」といったことを述べられていました。

『死生観』といった重いテーマを、偉大な作家の断片的な情報をもとに、それも稚拙な知識をベースにして述べることは避けるべきかとは思いますが、石原氏に関する特別番組などを見ながら強い感銘を受けたものですから、書かせていただきました。
石原氏は、「死ねば、すべて『虚無』だ。地獄も極楽もない」といったことを述べられていました。その一方で、別の報道では、海の見える丘にある「裕次郎氏の碑」の横に自分の碑も作って欲しい、といったことを述べられていたそうです。その希望は、『すべて無だ』と言いながらも、彼の国で兄弟で話したい、という気持ちがあったのか、この世に自分が存在したことを長く残したいという思いなのか、どちらにしても、いかにも人間臭さが感じられてならないのです。
さて、私たちは、やがて必ずやって来る『死』というものと、どう向き合えばいいのでしょうか。地獄や極楽はともかく、何らかの「次の世」的なものがあると考えるべきなのか、それとも、すべては『虚無』となると考えるのがいいのでしょうか。
ただ、この『虚無』は、私たちが概念として持っている『虚無』とは、かなり違うものではないのか、と思ったりするのです。
亡くなられたとのニュースに接するまでは、ほとんど意識になかった石原慎太郎氏というお方ですが、少々自分を見つめ直す機会を与えて下さいました。

( 2022.02.04 )

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「春は名のみ」の時 ・ 小さな小さな物語 ( 1508 )

2022-07-25 14:37:52 | 小さな小さな物語 第二十六部

今年の「立春」は2月4日でしたが、私の好きなフレーズである『暦の上では春ですが』という言葉が、テレビで何度か聞かれました。この名言はまだまだ健在のようです。
立春の日は過ぎましたが、「立春の期間」となりますと、次の「雨水」の前日(2月18日)までの期間を指します。二十四節気は立春から始まり「大寒」で終りますので、『暦の上では』立春が一年の始まりともいえます。

4日に行われました北京冬期オリンピックの開会式では、二十四節気が組み込まれておりましたが、二十四節気は中国で誕生しました。
中国の戦国時代の頃といいますから、紀元前400年代から200年代の頃ですから、わが国でいえば弥生時代の終りの頃になるのでしょうか。
誕生の切っ掛けは、太陰暦の季節とのずれを補うためで、太陽の運行の一年を二十四等分させたもので、農耕文化の広がりからの必要性があったのでしょう。誕生地は中国の中原地帯といわれますから、黄河の中・下流辺りになります。二十四節気のそれぞれの意味合いも、その地方の気候に基づいていますから、わが国では違和感を感じる部分もあるわけです。

二十四節気がわが国に伝えられた時期は、今一つはっきりしませんが、奈良時代の頃には使われていたようです。おそらく、仏教文化などと共に伝えられたのでしょうが、農耕が盛んになりつつあったわが国では、貴重な季節を知る手本になったと思われます。ただ、中国の中原地帯とは気候が違いますから、必ず一致するわけはなく、特に、梅雨と台風が二十四節気には考慮されていないといわれます。
そこで、「八十八夜」とか「二百十日」といった雑節といわれるものを生み出して補完していったのでしょう。さらに、『暦の上では春ですが・・・』という名文句が生まれたのも、実際の季節感とずれがある二十四節気のお陰ということになるのかも知れません。

そして、その名文句を証明するかのように、立春と共に寒波がやって来ていて、昨日・今日あたりは日本海側を中心に広い地域で大雪になっています。ここしばらくは、『春は名のみ』という名文句も併用する必要があります。
わが家の小さな庭も、「寒がり屋の主」の意気地無しから、荒れ放題になっています。ただ、それでも、大地は季節の流れを正確に捉えているのでしょうか、わが家の庭で唯一自慢できそうなノースポールは、去年のこぼれ種から懸命に芽を出して、通路を中心に数え切れないほどの物が大分大きくなり、花もつけ始めています。そして、スイセンはすでに花をつけている物もありますが、チューリップをはじめアイリス・ユリ・ムスカリ・ヒヤシンスや名前も忘れてしまった球根たちが健気に姿を見せてくれています。
『春は名のみ』の時が今しばらく続くのでしょうが、時間は一瞬とて休むことなく進んでいることを感じさせてくれる季節でもあるようです。

( 2022.02.07 )

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