雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

おだやかな午後に ・ 心の花園 ( 11 )

2012-10-31 08:00:24 | 心の花園
        心の花園 ( 11 )

           おだやかな午後に


たまたま通りかかった小さな公園で、子供が三人砂場で遊んでいた。
まだ、幼児と表現する方がよいような幼い子供たちで、少し離れたベンチで母親らしい女性が二人坐って話をしている。
いくら小さな児童公園でも、必ずといっていいほど砂場はあるけれど、幼い子供が服や手足の汚れるままに楽しげに遊んでいる姿を見るのなんて、実に久しぶりだ。
その子供らの様子を見ながら、注意することもなく話し合っている若い母親に、おだやかな午後の光が木漏れ日となって降り注いでいる・・・。

ああ、一度、ふるさとに帰ってみるかなあ・・・。


心の花園に咲いている、ヒナギクを一本摘んでみてはいかがでしょうか。
最近では「デージー」と呼ばれることの多いこの花は、イギリスではマーガレットなどと同じように、子供たちは花びらを一枚ずつちぎりながら、「好き、嫌い、好き、嫌い・・・」とうらない遊びをするそうです。
「帰る、帰らない、帰る、帰らない・・・」と、あなたも占ってみてはいかがですか。
デージーはもともとは一重の花ですが、最近の園芸種はほとんどが八重なので、結論を出すのには少々時間がかかるかもしれませんね。

デージーの花言葉は、「無垢、無邪気」そして「平和」です。
きっと、あなたのふるさとにも、おだやかな午後の光が差していますよ。
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苦しい時に ・ 心の花園 ( 10 )

2012-10-25 08:00:28 | 心の花園
        心の花園 ( 10 )


          苦しい時に


嫌なことは続く。
自分の気持ちが呼びこんでいるのかもしれないけれど、嫌なことは続くものだ。
何をしたというのか? これほど追い込まれるほどのことを私がしたというのか?
何もかも投げ出したくなってしまう。
こんな時は、酒でも飲んで、何もかも忘れてしまうしかないのか・・・


苦しくても、心の花園を少し歩いてみよう。
少し奥まったあたりだけれど、「白梅」が見えるはず。
季節など関係なく、傷つきかけているあなたに、白梅はすっきりとした姿を見せてくれる。かぐわしい香りも漂ってくるはずだ。
言いたいことはあるでしょう。逃げ出したい気持ちにもなるでしょう。
しかし、あの白梅は、あなたが生まれてくるよりずっと前から、あそこでつつましやかに咲いているのです。
さあ、顔を上げて、一歩前へ進んでみましょう。


白梅の花言葉は『高潔』
しばらく、この花を眺めているのもいいのでは?
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運命紀行  美しきがゆえに

2012-10-22 08:00:11 | 運命紀行
      運命紀行

          美しきがゆえに


『 小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず、言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。 』

これは、古今和歌集の紀貫之による仮名序のうちの小野小町について書かれている部分である。
衣通姫(ソトオリヒメ)というのは、記紀に登場する絶世の美女とされる女性である。古事記と日本書紀とでは伝承は異なるが、第十九代允恭天皇の皇女とも皇后の妹ともされる女性で、その美しさは衣を通して光り輝くほどであったという麗人で、哀しい物語も伝えられている。
紀貫之は、小町をこの衣通姫の流れを汲むものであると評論しているが、この一文が小町の実像に多くの影響を与えてしまったと考えられる。

すなわち、小町は当時すでに伝説上の美人であったとされる衣通姫の流れと評したことにより、小町が絶世の美女という評価を受ける大きな一因になったと考えられる。
同時に、貫之の文章は、和歌の作風についてのものであり、従って小町の容姿とは関係ないという意見も生まれ、それが転じて、小町は美人ではなかったと論じる根拠にされることもある。
しかし、貫之の文章は確かに歌の実力について述べていることは確かであろうが、衣通姫の歌とされるものは、日本書紀に二首伝えられているだけで、おそらく貫之の時代も同じと推定すれば、作風を云々するのも乱暴な話である。

古今和歌集の仮名序は、
『 やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。 』
に始まる名文であるが、後に六歌仙と呼ばれることになる、貫之と近い時代の歌人に対する論評は極めて辛辣である。
貫之によれば、柿本人麻呂と山部赤人を「歌聖」として別格扱いとし、それには遥かに及ばないが、として六人の作風を評している。
引用してみる。

『 * 僧正遍照は、歌の様は得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
 * 在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色なくて匂ひ残れるがごとし。
 * 文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におはず。言わば、商人のよき衣着たらんがごとし。
 * 宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。
 * 小野小町については既述している通りで、情緒はあるも歌に力がない、と評している。
 * 大伴黒主は、そのさまいやし、言わば、薪背負へる山人の、花のかげに休めるがごとし。 』
と、「お前はどれほどの歌を詠むのか」と反論したくなるほどの辛辣さである。

ただ、上記の文章に続いて、
『 この他の人々、その名聞こゆる、野辺に生ふるかづらの、這ひ広ごり、林の繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様しらぬなるべし。 』
と述べている。つまり、その他の歌人は論評にも値しないというわけである。
そのため、さんざん酷評された六人は、他の人よりは格が上ということになり、後世の人々により、六歌仙と評価されるようになったのである。

いずれにしても、小町は貫之の評価を基にして後世の人から、ただ一人の女性で六歌仙とされているのである。さらに、三十六歌仙や女房三十六歌仙にも加えられている。
三十六歌仙は、平安中期に藤原公任の三十六人撰に載っている歌人のことを指し、女房三十六歌仙は、撰者は不詳であるが、鎌倉中期の頃の女房三十六人歌合に撰出された女流歌人のことを指している。
それぞれの撰定については、撰者の好みや政治的な配慮がなされている面もあるが、いずれにおいても小町は堂々と文句なしに撰ばれているのである。

小町の和歌とされるものは、数多くの作品が現在まで伝えられている。
家集である小野小町集には百余首の和歌が収録されている(七十首弱の異本もある)。しかし、この歌集は、後世に他撰されたものであり、他人の作品が多く混入しているというのが定説となっている。小町の作品として勅撰和歌集に収録されている数は総計六十七首にのぼるが、やはり疑われるものが少なくない。
小町の作品として疑義がないと思われるものは、古今和歌集に収録されている十八首のみともいわれ、さらに加えるとしても、後撰和歌集にある四首程度で、後はいずれも疑わしいとされている。

後世の人が、これほど多くの和歌を小町に成りすまして作品を加えていったことは、それだけその作風に魅力がある証左といえるが、同時に、小町が活躍の場を離れて間もなくに伝説化していたためとも思われる。
そのことは、小町本人に責任があることではなく、むしろ不本意であると思われるうえに、その類まれな美貌までもが、心ない中傷を受けることがあるのは気の毒でならない。


     * * *

小野小町の正確な生没年は不詳である。

一説によれば、天長二年(825)に誕生し、昌泰三年(900)に没したという。仁明朝(833~850)文徳朝(850~858)の頃、後宮に仕えていたことは確からしく、生没年についても、正確性はともかく、大きくは相違していないようにも思われる。
出自についても、系図集である「尊卑分脈」によれば、小野篁の息子である出羽郡司小野良真の娘とされているが、篁との年齢差を考えると血縁の孫とするには無理がある。

生誕地として、秋田県湯沢市という説が根強く、晩年もこの地で過ごしたという言い伝えも残されているが、絶対的な確証はない。秋田説の根拠の一つには、古今和歌集の歌人目録に「出羽郡司娘」という記述によると考えられる。また、小野一族には篁など奥羽に縁を持っている人物がいることもこの説を後押ししていると思われる。
しかし、それらを勘案しても断定できるものではなく、他にも、京都府山科区、福島県小野町、福井県越前市、熊本県熊本市など全国に点在していて、それぞれにそれぞれの言い伝えが残されているようである。

さらに、終焉の地や墓所となると、さらに多い。
現に墓石などが残されていたりするが、伝承を合わせて見ても、いずれも断定に到らない。また、小町が没したと推定される頃は、皇族などは別であるが、一般の貴族も含めて、いわゆる風葬のような形が一般的であったと考えられるので、墓石や墓所さえも最初からなかったのかもしれない。
しかし、終焉の地というものはあるはずで、京都はもちろん、秋田、福島、茨城、栃木、滋賀、鳥取、岡山、山口、宮崎など、これまた全国を網羅するほどに伝承が散在している。

このように、小町の生没年や、それぞれの場所を探ろうとすれば、どれも正確なものは分からない。
しかし、平安前期に宮中に仕えた女性であることは間違いなく、優れた歌人としての評価を受けていたことも確かなことである。それは、僧正遍照、文屋康秀らとの歌の交換が記録されており、古今和歌集において紀貫之がその名前を挙げていることなどからも分かる。
ただ、小町があまりにも早くから伝説化されてしまったため、その存在を疑う説もあるという。とんでもないことである。

小町作と伝えられている和歌の多くが、後代の人によって偽作されたものであることは、小町を理解する上で誠に残念である。
そこで、偽作の懸念がないとされる古今和歌集に収録されているうちから何首かを見てみよう。

『 思ひつつ寝(ヌ)ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを 』
『 うたたねに恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき 』
『 いとせめて恋しき時はむばたまの 夜の衣をかへしてぞきる 』
この三首は、夢三首と呼ばれるもので、この三首からだけでも、小町の歌が持つ、素直で切ない情感は伝わってくる。そして何よりも特徴的なものは、その言葉遣いが現代人がそのまま読んでも、おぼろげながら理解できるという親しみやすさにあると思われる。
(「たのみそめてき」・・頼りにするようになった。 「夜の衣をかへしてぞきる」・・夜着を裏返しにして着ると、夢の続きを見ることが出来る、という俗信があったらしい)

『 人に逢はむ月のなきには思ひおきて 胸走り火にや心やけおり 』
(月がなく、恋しい人に逢う手立てもない夜には、相手のことを思いながら起きていて、胸はさわぎ、飛び跳ねる火の粉に私の心は焼けるようです)
こちらは、かなり情熱的な歌であるが、掛け詞など技巧的な工夫がなされている。
「月」と「付き(手立て)」、「起き」と「熾き」、「胸走り(胸さわぎ)」と「走り火(ぱちぱちと跳ねる炭の火花)」、といった具合である。

『 花の色は移りにけりないたずらに わが身世にふるながめせし間に 』
この歌は、小倉百人一首の九番歌として知られているが、やはり古今和歌集に載っているものである。小町の代表歌とされているが、この歌にも掛け詞が加えられている。また、その内容から、小町の晩年を不幸なものとした物語を誕生させた一因になっている感もある。

小町作という和歌は数多く伝えられているが、すでに述べたように、古今和歌集以外のものには本人以外の作品が多く加えられている。小町が詠んだ和歌が、古今和歌集に収録されているものだけというのも不自然で、伝えられていないものも含めれば相当数であったはずである。
しかし、決して悪意からではなく、おそらくすでに伝説化しつつあった美貌の歌人に対するあこがれからだと考えられるが、多くの偽作が混入してしまい、小町の実像を覆い隠してしまった感がある。

さらに、伝説は伝説を呼び、「深町の少将の百夜通い」に代表されるような物語、能、歌舞伎、御伽草子、近代では舞台や小説の題材とされることも多い。
能には小町物と呼ばれる七つの謡曲があり、鎌倉時代に描かれた「小野小町九相図」と呼ばれるものは、野ざらしにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、腐敗し風化していく様を描いた凄まじいものだという。(モデルは、同じく美人として知られる壇林皇后ともされる)
小町を題材とした作品には、晩年零落したとされる悲劇的なものが多いが、それは、和泉式部なども同様であるが、美しきがゆえの宿命かもしれない。

その昔、平安時代前期に、小野小町という類まれな美貌の女房がいた。彼女は、たおやかにして激しい愛を歌い上げ、後の平安女流文学興隆の魁となった。
虚実さまざまの多くの伝説に包まれた小町は、それでもなお、絶世の美貌と感情豊かな歌の数々は、確かに現代に語り継がれている。

                                        ( 完 )




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さっそうとして ・ 心の花園 ( 9 )

2012-10-19 08:00:04 | 心の花園
        心の花園 ( 9 )


           さっそうとして


あら、いつもと少し違いますね。
ええ、とても、さっそうとしていますよ。
髪を切ったのかしら? 口紅、変えましたか? それとも、新しい靴にしたのかな?
どれも違いますか・・・。
でも、とてもさわやかな感じで、さっそうとしていますよ。


ほら、やっぱり、心の花園には「ヤマトナデシコ」が咲いていますよ。
それほど目立つ花ではないけれど、とても鮮やかな色ですよね。
この花、本当の名は「カワラナデシコ」という日本原産のものなんですよ。唐ナデシコや西洋ナデシコと区別するため大和ナデシコと呼ばれるようになったのです。
秋の七草の撫子は、この「カワラナデシコ」を指しますが、野生種は、一部の地域では絶滅の危機にさらされているそうです。

「ヤマトナデシコ」の花言葉は、「大胆」です。
大和なでしこといえば、楚々とした美しさを指すと思うのですが、その実、意外と大胆な一面を持っているのかもしれませんね。
さっそうとして見えるあなたも、もっと大胆に振舞っても良いのかもしれませんよ。
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運命紀行  平安の怪人

2012-10-16 08:00:00 | 運命紀行
       運命紀行

           平安の怪人


「小倉百人一首」の歌人の中には、謎の人物と表現したくなる人がいる。猿丸大夫や蝉丸がそうである。
ただ、彼らを謎の人物と評するのは、出所や来歴が謎めいているからである。
しかし、小野篁(オノノタカムラ)となれば、少しばかり様子が違う。いや、少しばかりではなく、およそスケールが違うのである。

小野篁は官位を持つ歴とした貴族であるが、裏の顔を持っていた。
もっとも、どちらが裏なのか表なのかははっきりしないが、閻魔大王の補佐官を務めていたのである。
閻魔大王といえば、人間の生前の行いの善悪を審判して、死者を極楽へ行かせるか地獄へ落とすかなどを判断する死者の王である。その判決は独断により下されると思われがちであるが、そうではなくて、どうやら補佐役もいたようなのである。
小野篁がいつからいつまでその任にあったのか明確ではないが、形式的な補佐役などではなく相当の発言力を持っていたらしい。

今昔物語には、「小野篁、情により西三条の大臣を助くる語」という話が載っている。
西三条の大臣が、病気で亡くなり閻魔庁に引き据えられたが、閻魔大王の補佐役についていた小野篁のとりなしで蘇生したという内容である。
西三条の大臣というのは、藤原良相のことであるが、幼い頃から度量の大きな人物として知られていたらしい。また、小野篁が罪に問われた時に弁護してくれたという恩義もあったらしく、生前の善行や、なお現世で成さねばならない役目がある、などと閻魔大王を説得したらしく、大王は補佐役小野篁の申し出を受け入れて、娑婆に送り返したらしい。
「地獄の沙汰も金次第」という言葉があるが、どうも地獄の審判にも情状酌量の余地はあるらしい。

藤原良相は小野篁とほぼ同時代の人物なので、この審判がなされたのが何時のことなのかも興味深い。
良相が右大臣になったのは四十五歳の頃で、その五年ほど前に小野篁は亡くなっている。良相が大臣になってからのことであれば、小野篁は閻魔庁の専任役人になっていたのかもしれないし、もっと若い頃のことであれば、パートというわけではないのだろうが、現世と掛け持ちしていたことになる。
しかし、それは別に不思議なことでもなんでもない。小野篁は地獄への専用通路を持っていたからである。
京都東山にある六道珍皇子にある井戸は「死の六道」と呼ばれ、小野篁が地獄へ向かう通路であり、京都嵯峨の福生寺(明治期に廃寺)にあった井戸は「生の六道」と呼ばれ、現世に戻って来る道であったらしい。

小野篁が閻魔大王と関わりがあったということは、何もこの話だけではない。
京都市北区にある小野篁と紫式部の墓は、現在は島津製作所の敷地にあり整備されているが、かつてこの辺りは、蓮台野と呼ばれる葬送の地であった。この辺りに二人の墓があったことは文献で確認されているそうであるが、異色と見える二人の墓が並んでいるのには理由があるらしい。
紫式部は、生前、あることないことに構わずに何とも妖艶な文章を書き残したため、閻魔大王の怒りにふれて地獄に落とされて苦しんでいたが、その姿を憐れみ小野篁が救いの手を差し伸べたのである。
その頃には、小野篁はすでに亡くなっていたので、閻魔庁専任で然るべき役職にあったと想像できるが、紫式部の罪は重く、自分と並んで墳墓を作ることで閻魔大王の許しを得たらしい。

今昔物語や伝説を、全て単なる作り話や戯言と一笑してしまえば、何もかも与太話に過ぎない。
かといって、すべて真実とするには、並の常識では理解し難い。
さて・・・。


     * * *

小野篁が生まれたのは、延暦二十一年(802)、まだ桓武天皇が在位している平安時代初頭のことである。
小野氏は、第五代孝昭天皇の第一皇子天足彦国押人命(アマタラシヒコクニオシヒトノミコト)の末裔とされる。
孝昭天皇は、紀元前475年から八十二年余りも在位していたとされるが、いわゆる欠史八代と呼ばれる天皇の一人であり、小野氏は神代につながる古い家系を誇っている。
篁の五代前には、遣隋使を務めたことで知られる小野妹子がおり、孫には能筆家として知られる小野道風がいる。また、美人の代名詞のような小野小町も篁の孫にあたるという家系図も残っているらしいが、二人の年齢差は二十数歳程度と推定されるので、血のつながった孫娘というのは少し無理がある。

篁は、身の丈六尺二寸(188cmほど)と伝えられ、現代人よりかなり小柄であったと考えられる当時としては、とてつもない長身であったらしい。
若い頃は、父に従って陸奥国に赴いているが、その頃は弓馬の道に優れていて、体形からしても天晴れな若武者ぶりだったと想像できる。
その後、嵯峨天皇の言葉を受けて発奮、学問に励んだという。
さすがに父も参議まで務める学問の家柄の御曹司らしく、たちまちのうちに才能をあらわしていった。

二十一歳の頃には文章生に補せられ、蔵人などを経て三十一歳で従五位下に叙せられた。そして、翌年には仁明天皇の皇太子に恒貞親王がつくと、東宮学士に任ぜられている。
藤原氏の全盛期には、異例の速さで出世していく貴族が続出するが、小野氏としては順調な宮仕えであったと考えられる。ただ、惜しむらくは、皇太子である恒貞親王が後見者である嵯峨上皇の崩御もあって政争に巻き込まれ、廃太子となってしまったことである。篁の官位昇進に大きな影響を与えたことは間違いあるまい。

承和元年(834)、三十三歳の篁は遣唐副使に任ぜられる。学識の高さを認められたもので、特に漢詩文の分野では抜群の才能を示していて、篁が遣唐使の一員となったことを遥かな唐で知った白居易(詩人)は、篁と会うのを楽しみにしていたという。
ところが、承和五年、正使である藤原常嗣といさかいを起こし、病気と称して乗船を拒否してしまったのである。このいさかいの原因は、遣唐使一行の渡海が二度失敗し、三度目の出帆に際して正史である常嗣が乗る予定の第一船が破損しているため、副使である篁が乗る予定の第二船に乗り換えようとしたことが原因らしい。
いずれにしても、小野篁という人物は、血気盛んであり且つ凡庸な人物ではなかったことがうかがえる。

遣唐使一行は、篁を残して同年六月に出発し、仮病で乗船しなかった篁は苦しい立場におかれた。さらに、朝廷を批判するような詩を作ったことで嵯峨上皇の怒りを買い、官位を剥奪された上、隠岐への配流に処されてしまった。
「小倉百人一首」の十一番歌は、
『 和田の原八十島かけてこぎ出ぬと 人にはつげよあまのつり舟 』
という篁の和歌が採録されている。
和田の原とは、特定の地ではなく大海原といった意味なので、この歌はその時の心境のものかもしれない。

その後許されて都に戻り、もとの身分に戻ることが出来たが、この間の出来事が官位昇進という面では悪影響となったことは確かであろう。
しかし、その後も蔵人頭などの要職を歴任し、陸奥の国司も経験している。
そして、承和十四年(847)には参議として公卿に列し、仁寿二年(852)十二月に従三位に叙せられたが、ほどなく没した。享年五十一歳であった。

小野篁は公卿にまで昇った貴族であり、その政務能力は高く評価され、漢詩文の分野では当代屈指と伝えられている。
同時に、何とも魅力的な逸話を数多く残してくれた人物でもある。
最後に、「宇治拾遺物語」にも載せられている逸話をご紹介する。

嵯峨天皇の御代、「無悪善」という落書が書かれているのを知った天皇が小野篁に
「これが読めるか」とお尋ねになった。
「読めますが、少々障りがあります」と篁が答えた。
「かまわないから読め」と、強く求められたので、それではと、篁は読み上げた。
「悪さが(嵯峨) 無くば 善けん」(悪人の嵯峨天皇がいなければ良いのに)
これを聞いた天皇は、「このような文字を簡単に読み説いたのは、お前が書いたからに違いない」とひどく怒られたので、「滅相もありません。私には読めない文字などございません」と篁が答えると
「それほど言うなら、この文字を読んでみよ」と天皇は『子子子子子子子子子子子子』と「子」という字を十二並べたものを見せました。
篁は単調な文字の羅列をしばらく見ますと、『ネコのコ コネコ シシのコ コシシ』(猫の子 子猫 獅子の子 子獅子)と読み解き、事なきを得たのだと伝えられている。

                                        ( 完 )
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心を静めて ・ 心の花園 ( 8 )

2012-10-13 08:00:31 | 心の花園
        心の花園 ( 8 )


          心を静めて


どうしましたか? 何だか、ご機嫌斜めのようですね。
そうですか、ありますよ、ね。何もかもが思い通りに行かなくて、その上、分かったような顔をして同情してくれる人まで出てきて・・・。
余計なお世話というもんですよねぇ・・・。


心の花園に「ホウセンカ」が咲いていますよ。赤や紫を中心に、きれいでしょう。
でも、「ホウセンカ」の花言葉は、「私に触らないで」だそうです。ちょうど、今のあなたの心境みたいですね。
「ホウセンカ」は漢字で書くと「鳳仙花」となります。鳳凰の「鳳」に仙人の「仙」ですよ。たいそうな名前ですよね。
これは、鳳仙という仙人に助けられたきこりの青年が、土産にもらった種をまくとこの花が咲いたというお話からきているそうです。

かつて、幼い女の子たちは、「ホウセンカ」の赤い花の汁を爪に塗って遊んだそうですよ。
さあ、あなたも、いつまでも「私に触らないで」と突っ張っていないで、心を静めてくださいな。
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運命紀行  平安女流文学の主役

2012-10-10 08:00:28 | 運命紀行
       運命紀行

          平安女流文学の主役


一条天皇の御代、平安王朝文学はその絶頂期を迎えようとしていた。
一条天皇が即位したのは、寛和二年(986)のことで、数え年で七歳の時である。そして、寛弘八年(1011)に三十二歳で没するまでの二十五年間天皇の地位にあった。
もちろん、即位時は幼年天皇であり父円融天皇が存命していたので、その影響はあったとしてもいわゆる院政とは違う。むしろこの時代は、藤原氏による摂関政治が最も力を有している頃で、院政時代と呼ばれるのは半世紀余り後のことである。

一条天皇が即位した時の摂政は、天皇の母詮子の父である藤原兼家である。兼家の死没後は長男の藤原道隆が外戚として、また摂政関白として政治の実権を握り藤原氏の全盛期を築いていく。
道隆の娘定子が一条天皇のもとに入内したのは、正暦元年(990)のことで、定子十四歳、天皇は三歳下であった。
やがて定子は中宮となり、天皇との仲はとても良く、仕える女房たちには才媛が多く集まった。定子自身もとても優れた女性であったらしく、側近く仕えた清少納言はその著書「枕草子」の中で褒め称えている。

しかし、長徳元年(995)に道隆が没すると、中関白家と呼ばれた一族は急速に勢いを失っていった。
ほどなくして、藤原氏の絶頂期を築き上げた道隆の弟である道長が氏長者となり、朝廷を牛耳るようになる。道長が、わが娘彰子を入内させたのは長保元年(999)のことで、彰子十二歳の頃である。
一条天皇の中宮定子に対する想いは深く、また文化面にも造詣が深く、定子を取り巻く清少納言をはじめとした女房たちの作り上げた文芸サロンのような雰囲気は、天皇にとって心休まる場所であった。

彰子を入内させた道長は、定子を取り巻く女房たちに負けないような才媛を集めるように腐心した。
彰子入内の翌年には、中宮定子を皇后とし、彰子を中宮に付けることに成功する。地位的には、中宮より皇后の方が上位に映るが、天皇の寵愛の中心となるのは中宮であった。さらに、皇后となった失意の定子は、その翌年、皇女誕生後に没した。
名実共に内裏の中心となった彰子のもとには、才能豊かな女房たちが次々と集められていった。紫式部、和泉式部、伊勢大輔など今日にまで伝えられる女房たちが集められた。道長と面識があった清少納言にも誘いがあったらしいが、定子を敬愛する彼女は応じなかったらしい。

このように定子、彰子を中心とした一条天皇を取り巻く后妃や女房たちによって、平安王朝に絢爛と輝く女流文学の全盛期が築かれたのである。
そこで、この女流文学の中心人物を選ぶとなると、もう一人の女房が登場してくるのである。
同じく彰子に仕えた、赤染衛門である。

赤染衛門は、道長の妻であり彰子の母である倫子に仕えていたが、その後に彰子に仕えているが、これは彰子入内に伴い、多くの女房たちの文芸面でのリーダー役として道長が送り込んだものと考えられるのである。
現代からみれば、他にもそうそうたる女流文学者がいるかに見えるが、いずれも彰子入内後に集められた女房たちで、彰子や母の倫子はもちろん、道長も衛門の才能と人柄に多くを託したに違いない。
清少納言という女性は、紫式部がその日記の中でなじるほどに才能豊かな女房であったが、定子に仕えていて、定子没後は文芸面での活動は力を失っている。紫式部は、果たして現代ほどの評価を得ていたのかどうか疑問が残る。当時の文学や教養の中心となるものは和歌であった。その点では明らかに見劣りする。
伊勢大輔となれば、彰子入内時は十一歳くらいで、いささか年齢が若すぎる。

和歌となれば、当時の第一人者は間違いなく和泉式部であろう。作品の良否については個人的な好き嫌いがあるとしても、勅撰和歌集に収録されている和歌の数が圧倒的に多いことは客観的な評価と考えることができよう。ただ、容貌特に優れていたとされるこの女性は、あまりに情熱的であり、当時の奔放な風俗の社会にあっても、世間からの非難は小さなものではなかったらしい。
和歌の上手として、この和泉式部と並び称されたのが赤染衛門である。

情熱をほとばしるような和泉式部の歌風に対して、赤染衛門のそれは穏やかで典雅なものと評されている。激しさの面で見劣りするとしても当時としては双璧と評価されており、何よりもその人柄に魅せられて、多くの歌人との交流が伝えられている。
平安女流文学の興隆には、多くの女房に后妃も加わり、さらには為政者や男性歌人などの影響も無視することは出来ないが、もし、そこに一人の主役を求めるとすれば、赤染衛門を挙げたい。


     * * *

『 やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな 』

この和歌は「小倉百人一首」の五十九番歌で、赤染衛門の作品である。
歌の意味は、「おいでにならないのが分かっていれば、ためらうことなく寝てしまったでしょうに、ずっとお待ちしているうちに、夜が更けてしまって、西の山に沈もうとする月を見てしまいました」といった実に切ない歌である。
赤染衛門の代表歌の一つと思われるこの歌を、単に歌意だけで受け取ると情熱的な恋の歌ということになるが、真相は少し違う。

この和歌は、後拾遺和歌集に収録されているものであるが、その詞書には、「中関白少将に侍りける時、はらからなる人に物言ひわたり侍りけり、頼めてまうで来ざりけるつとめて、女に代わりてよめる」とある。
つまり、若き日の関白道隆が衛門の妹(あるいは姉)のところに通っていたが、ある夜、約束していながらついに来なかったことに対して、妹に代わってその感情を詠んだものなのである。
妹に対してこのように親身になって詠うことのできる衛門は、実は、身内ばかりでなく、同僚の女房たちにも親しく接しており、仕える中宮が違うことから微妙な関係と思われる清少納言とも交流があったのである。どうやら、多くの人たちから慕われ、頼りにされる存在であった節が見られるのである。

赤染衛門の誕生は、天暦十年(956)の頃と推定されている。
父は、大隅守などを務めた赤染時用とされているが、複雑な経緯もある。
母は、もと平兼盛の妻であったが、離縁し赤染時用と再婚した。しかし、その時すでに妊娠していたらしく、実際の父は平兼盛というのが定説である。後に、兼盛は娘の親権を求めて裁判を起こしているが敗れており、公式には父は赤染時用となる。
因みに、平兼盛は従五位上駿河守などを務めており、時用より若干うえ程度の同じ受領階級であるが、父は光孝天皇の曾孫であり、兼盛自身も歌人として知られていた。衛門の文才はこの人の血を引いているのかもしれない。

赤染衛門は、最初道長の妻倫子に仕えたが、その後その娘彰子に仕えている。これは先にも述べたように、彰子の入内にあたって、中宮定子を取り巻く女房たちと対抗できる陣容を整えるための文芸面での指導役として送り込まれた可能性が高い。
彰子入内の時、衛門は四十四歳の頃と考えられるが、女房としてはかなり高齢である。
当時の女性の生没年を正確に知ることは難しいが、清少納言より十歳、紫式部より十四歳、和泉式部より二十四歳、伊勢大輔とは三十三歳ほども年長であった。従って、年齢面でも、現在私たちがよく知る女流作家とは張りあうような関係ではなく、頼りとされるような年齢差があり、実際にアドバイスなどをしていたようなのである。

例えば、和泉式部に贈った和歌が残されている。
『 うつろはでしばし信太の森を見よ かへりもぞする葛のうら風 』
これは、和泉式部が夫橘道貞との仲が壊れかけた時、ほどなく敦道親王との交際が始まったと聞いた時に贈ったものである。歌意は、「心移りせずに、しばらくは和泉国の信太の森を見守りなさい。葛に吹く風で葉が翻るように、あの人が帰ってくるかもしれませんから」といったものであろう。
これに対する和泉式部の返答は、
『 秋風はすごく吹くとも葛の葉の うらみがほには見えじとぞ思ふ 』
というものであった。この後和泉式部は、激しい恋にのめり込んでいくが、その様子は「和泉式部日記」に残されている。
他にも、伊勢大輔の相談に応じたり、清少納言と交際があったことなども残されている。

また、二十一歳の頃、菅原氏と並ぶ学問の家柄である、文章博士大江匡衡(マサヒラ)と結婚しているが、その仲はとても良かったらしく、「匡衡衛門」とあだ名されたらしいことが「紫式部日記」に残されている。
匡衡は尾張国の国司などを務めているが、地方官としてその地の教育などに尽力しており、同行した衛門の内助の功もあったらしい。
子孫にも恵まれ、曾孫には平安期屈指の学者といわれる大江匡房がおり、その子孫には鎌倉幕府草創期の重臣大江広元がおり(他説もある)、そこから安芸毛利氏など有力氏族を誕生させている。

夫とは、五十七歳の頃に死別、匡衡が六十一歳の頃である。
『 君とこそ春来ることも待たれしか 梅も桜もたれとかは見む 』
『 五月雨の空だにすめる月影に 涙の雨ははるるまもなし 』
などの挽歌を残している。

仲の良い永年の伴侶を失くした衝撃は大きかったと思われるが、衛門はその後も文芸面での活動を続けていった。
藤原道長の栄華を記した「栄花物語」の作者であるとされており、少なくとも全四十巻のうちの正編三十巻には衛門が関わっていると考えられている。さらに、道長という時の権力者近くに仕えていたこともあって、当時の一流といわれる文学者との交流はきわめて広かったようである。

長久二年(1041)、後に大学者となる曾孫匡房の誕生には、産衣を縫い、喜びの歌を残している。
『 雲のうへにのぼらむまでも見てしがな 鶴の毛ごろも年ふとならば 』
「鶴が雲の上まで羽ばたくように、この子が成長して雲上人として栄達するまで見たいものだ」と意気軒高と歌い上げた赤染衛門であるが、この後まもなく没したらしい。
享年は、八十五歳前後と考えられるが、最期のその時まで、作歌の感性は衰えることがなかった。

ゆったりと、激しく人と争うこともなく、多くの女流文学者に影響を与えた赤染衛門こそ、平安女流文学界の主役のように思われてならないのである。

                                       ( 完 )
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ちょっぴり嬉しい ・ 心の花園 ( 7 )

2012-10-07 08:00:42 | 心の花園
        心の花園 ( 7 )


          ちょっぴり嬉しい


特別占いに関心があるわけではないけれど、朝のテレビの番組の中で、わたしの生まれ年なり星座なりが、今日はとても良い運勢だと説明しているのを見ると、ちょっぴり嬉しい。

占いをそれほど信じていないし、おみくじや占いが当たったとい経験もあまりない。それでもついついテレビや雑誌の欄も見てしまう。
現に、良い運勢だと聞いた今は、ちょっぴり嬉しく、ちょっぴり幸せ。
朝の支度も、いつもより順調だし、心も少し弾んでいるみたい。これ、何なのかしら・・・。


心の花園で「タンポポ」の花を探してみませんか。
春になれば、少し郊外に行けば黄色い花が見られます。心の花園では、ちょっとその気になって探せば、いつでも簡単に見つけられる花です。
西洋では子供たちがその花びらで、占いをするそうです。「来る、来ない、来る、来ない・・・」あるいは、「愛している、愛していない・・・」などというのもあるかもしれません。
また、白い綿毛が舞う姿も幻想的なものです。

「タンポポ」の花言葉は、「信託」
素敵な占いを聞いた今日一日は、きっと幸せな日になりますよ。たとえ、ちょっぴりだとしても・・・。


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運命紀行  謎の歌集

2012-10-04 08:00:09 | 運命紀行
       運命紀行

          謎の歌集


『 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆへに物おもふ身は 』

『 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり 』 

この二つの和歌は、「小倉百人一首」のうちの九十九番歌後鳥羽院作と、百番歌順徳院作である。
撰者とされる藤原定家は、何故この二人の作者を小倉百人一首の中に加えたのであろうか。

「小倉百人一首」は、宇都宮頼綱の求めに応じて、障子の色紙として古来からの歌人の和歌一首ずつを定家が揮毫したものであるとされる。
その意味では、歌集というには若干性質を異にしているともいえるが、その撰定においては、相応の工夫や推敲がなされたはずである。歌人の撰定しかり、歌人ごとの和歌を選び出すこともしかり、さらには百首となれば、その内容の配置についても検討されたことは当然のことであろう。
障子に張る色紙とはいえ、また、わずか百人であり百首であるということは、歌集として捉えれば小ぶりではあるが、それだけに厳しい選定かなされたと思われるのである。
しかし、歌集として「小倉百人一首」を見た場合、それは、あまりにも謎の多い歌集だといえるのである。

「小倉百人一首」が現在のようなカルタとして広く知られるようになるのは、江戸時代になってからであるが、古来多くの歌人や学者がこの歌集に謎めいたものを感じていたようである。
定家がこの小さな歌集に、和歌の真髄を示そうとしたという意見もあるが、そうであれば、特別に謎めいているという表現など必要がない。
それよりさらに奥深く、和歌の秘伝のようなものが隠されているという意見もあるが、そうなるとその謎を解き明かそうということになり、謎の歌集と呼ぶにふさわしくなってくる。さらに、もっと大きな秘密、例えば、定家の血統である御子左家に関する秘伝を子孫に書き残したものであるとか、易経の秘伝であるとか、卜占に関する秘伝であるとかが隠されているということになれば、これはまさしく謎の歌集ということになる。
そこで、研究者たちが指摘する謎の幾つかを挙げてみよう。

最初にも掲げているが、後鳥羽院と順徳院の歌が入っていることが最大の謎といえる。
障子色紙を依頼したとされる宇都宮頼綱は、下野国の豪族宇都宮氏の第五代当主であるが、鎌倉御家人の一人である。幕府との確執もあり波乱の経歴を有しているが、承久の乱(1221)においては鎌倉留守居を務め、その功により伊予国の守護職に任じられている。定家に色紙を依頼したのは嘉祿元年(1225)とされるので同国守護の地位にあったと考えられる。
後鳥羽院と順徳院は鎌倉幕府討伐を計ったとされる承久の乱により、共に流罪されているのである。これより少し後になるが、新勅撰和歌集においては、定家が撰入していた二人の百余首を幕府の圧力により除外しているのである。
定家が宇都宮頼綱のために完成させた障子色紙は、どうやら二人の作品を除く九十八首から成っていたようであるが、いつの間にか流罪中の二人の上皇が加えられているのには、人物になのか、和歌の内容になのか、どうしても加えなくてはならない理由があるのかもしれない。

「小倉百人一首」には一番歌から百番歌まで順番が付けられているが、その配列方法に規則性がなく、何らかの特別な意図が込められているような雰囲気を漂わせている。
大まかに年代別にされているようにも感じられるが、少し詳しく見れば相当前後されている。
一番歌天智天皇、二番歌持統天皇、そして九十九番歌と百番歌に問題の二人の天皇で締めくくっている辺りは整合性があるようにもみえるが、他にも天皇の歌が撰ばれているので特別な形式でもないらしい。
ただ、何かと手を加えたがる後世の研究者たちも順番について手を付けていないということは、順番そのものに重要な秘密があるのかもしれない。

いにしえからの著名な歌人を集めたのだとすれば、納得し難い撰定が見られる。
例えば、額田王、山上憶良、大伴旅人らが撰ばれていない。また、「三十六歌仙」は定家の父俊成が撰んだもので、御子左家の歌道にとって重要な意味を持っていると思われるが、そのうち十一人が漏れている。俊成の撰がとても優れているとは言えないが、わざわざ撰ぶほどのこともないと思われる歌人が何人も加えられている。そこには、何らかの意図が感じられるようにも思える。

また、撰ばれている歌も、作者の代表歌とはとてもいえないものが多いと指摘する研究者もいる。正岡子規は、「悪歌の巣窟なり」と評したそうである。
和歌の評価は、受け手の感性や環境により大きく変化するものであるから、一概に悪歌・良歌と決められるものではないが、代表歌とされる歌が撰ばれていない点はあるようである。
例えば、菅原道真の『 東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ 』
藤原敏行の『 秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる 』
などは、大変有名な名作であるが別の歌が撰ばれている。
歌人にしても、撰歌にしても、定家としては他では役に立たない、何らかの重大な理由があったのかもしれない。

この他にも、秘伝、秘説が隠されているという研究が数多く行われてきたようである。
室町・戦国の時代に至っても、「古今伝授」という秘伝の継承者に関する出来事が時々登場してくる。これは、古今和歌集に関する秘伝かと思われるが、もしかすると、とてつもない秘伝が込められていたものなのかもしれない。
同じように、「小倉百人一首」にも、藤原定家という人物の渾身の秘伝が隠されているのかもしれないし、案外、後世の人々を思い迷わすだけの思惑だったのかもしれない。


     * * *

現代の私たちは、藤原定家といえば、偉大な文学者として知られている。歌人として、「新古今和歌集」や「新勅撰和歌集」の撰者として、あるいは日記「明月記」を書き残したことでも知られるが、特に歌論書などについては鎌倉前期の第一人者としての評価は確定しているかのように見える。
しかし、定家の履歴を辿ってみると、少し違う姿が見えてくる。

定家の生年は、応保二年(1162)、没年は仁治二年(1241)、およそ七十九年の生涯である。
当時としては長命といえるが、その八十年に満たない生涯は、激しい変化の渦中で耐え忍ぶ生涯であったように見える。この期間の、大きな出来事の幾つかを西暦年で列記してみる。

1167年、平清盛が太政大臣となる。
1185年、平氏滅亡。
1192年、源頼朝が征夷大将軍に就く。
1219年、北条氏による執権政治始まる。
1221年、承久の乱。後鳥羽院、順徳院ら、流罪となる。

定家の御子左家は、藤原氏の全盛を誇った御堂関白家道長の流れをくむ家柄である。定家自身は、道長の五代後の子孫にあたる。
しかし、その五代の時間の流れは、藤原氏嫡流である摂関家とはかなりの距離が生まれていた。この頃、御子左家は家格としては羽林家とされていたが、同じような御堂庶流といわれる家柄である中御門や花山院などに比べて高官を輩出することが出来ていなかった。
特に、定家の父俊成は、父に早く死別したこともあり、一時は他家の養子となり諸国の受領を務めたため、中央の高官とのつながりが薄く、歌の道の評価の高さに関わらず、上流貴族としては官位に恵まれていなかった。
さらに、定家の時代は、平清盛の台頭により藤原氏全盛の時代は終わりを告げており、平氏滅亡の後は源氏による武家政権の力が高まり、藤原氏ばかりでなく、公家社会全体が苦難の時代へと向かっていた。

しかし、定家自身は、道長に繋がる血筋に強い誇りを持っていて、高位高官への望みは極めて旺盛であったようである。
実際に、五歳で従五位下を叙任しているのであるから、その理由はともあれ、並の公家から見れば恵まれ過ぎた家柄といえる。
十四歳の頃、侍従に任用されているが、これは父俊成が右京大夫を辞したことによるものである。そして、その俊成は翌年には出家しているので、定家の宮仕えの面ではほとんど無力であった。
この後は、庶流とはいえ御堂関白道長に繋がる気位の高さと、歌道の赫々たる高名に比べて思いにまかせぬ官位昇進の狭間で思い悩む生涯であったのかもしれない。

それでも九条家を中心にあらゆる伝手を頼り、父が受領を経験していることから経済的には余裕があったと思われ、可能な限りの賄賂を贈り、おそらく和歌の上手としての力も官位昇進のためにつぎ込んだものと想像される。
それでも、従三位に昇り公卿の地位を得たのは五十歳の時であった。定家にとって不利な社会情勢もあったが、二十四歳の頃に、殿上において少将源雅行と乱闘事件を起こし除籍処分を受けている。
そして、七十一歳になって、御子左家としては一つの目標ともいえる権中納言に昇ったが、一年も経たないうちに辞任しているが、これも、関白であり藤原氏の氏長者の地位にある九条道家と何らかの対立を起こしたことが原因らしい。そして、翌年は出家したのである。
藤原定家という人物は、筆と紙のみで生きた人物などではなく、血気盛んな人物でもあったらしい。

遥か下って、昭和二十六年(1951)、宮内庁蔵書から「百人秀歌」という写本が発見された。これは、「小倉百人一首」と双子の歌集と思われるような内容で、研究者に大きな衝撃を与えた。
「百人秀歌」の内容は、不思議なことに百一人による百一首からなっていてるのである。その歌人は、「小倉百人一首」の歌人の中から、後鳥羽院と順徳院が除かれていて、一条院皇后宮、権中納言国信、権中納言長方が加えられている。また、源俊頼朝臣の歌が異なってるほか、同じ歌でも内容が少し違うものがいくつかある。並び順も大幅に違っている。
「百人秀歌」には「百人秀歌 嵯峨山荘色紙形 京極黄門撰」という表題が付けられていて、二つの歌集は双子のような関係にあることは間違いない。(京極黄門とは定家のこと)

定家が宇都宮頼綱のために障子色紙を書いたのは、六十四歳の頃である。正三位で、参議を辞して間もない頃と考えられる。まだまだ官位昇進の意欲を持っていた頃で、後鳥羽院や順徳院を加えることなど考えられず、実際に九十八首で完成させたとされている。
しかし、ほぼ同時に、「百人秀歌」も作成しているのである。その役目は何であったのだろう。

定家は、七十二歳で出家した後も、文芸面では精力的に活動している。病がちであったとも伝えらているが、記録面から見る限り、いささかの衰えも見せていない。
そして、この間のどこかで、「小倉百人一首」の画竜点睛として、後鳥羽院と順徳院の二人を加えたのである。これによって、「九十八人の障子色紙」では伝えられない何らかの奥義を完成させたのかもしれない。
やはり、「小倉百人一首」の完成には、何としても後鳥羽院と順徳院が必要だったに違いない。

                                       ( 完 )
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村祭り ・ 心の花園 ( 6 )

2012-10-01 08:00:08 | 心の花園
        心の花園 ( 6 )


          村 祭 り


子供たちが駆けて行く。
お祭だろうか、太鼓の音も聞こえてくる。
そんなに急がなくてもいいのに、浴衣の裾が乱れているよ・・・
あら、あれは、あたしなの? 幼い頃のあたしなの?


心の花園には、『アスター』が咲き乱れています。
ほら、あの一画はピンクのアスターが満ち溢れています。
幼い頃のことを思い出したのは、何が原因なのでしょうか。
幼馴染に会ったの? 古いアルバムでも見たのかしら? 
それとも、単なるセンチメンタル?


ピンクのアスターの花言葉は、『甘い夢』
もし、心が少し疲れているのなら、しばらくこの花に抱かれていてはいかがでしょうか。
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