なべて世の うきになかるる あやめ草
今日までかかる ねはいかが見る
作者 上東門院小少将
( No.223 巻第三 夏歌 )
なべてよの うきになかるる あやめぐさ
けふまでかかる ねはいかがみる
* 作者は、上東門院・中宮彰子に仕えた女房である。生没年とも不詳であるが、1013年あるいはその翌年に亡くなったと推定されている。
* 歌意は、「 一般に 世の泥の中に流れる あやめ草の 五月五日を過ぎた六日まで伸びてきている 長い根を あなたはどう見ますか 」表面的には、このようなものであろうが、「ありふれた 世間の憂きことに泣かされたのですが
一夜を過ぎてもなお 声をあげて泣いているわたしを あなたはどうご覧になりますか 」といった意味を込めた和歌と思われる。
なお、「うき」は「泥」と「憂き」を掛けている。また、「ね」は「根」と「音、つまり泣く声」を掛けている。
なかなか難しい和歌である。
* 作者の父は、参議源扶義である。(異説もあるが)
扶義の父、つまり上東門院小少将の祖父・雅信は、宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で、宇多源氏の祖となる人物である。従一位左大臣に任じられているが、その娘・倫子は藤原道長の正室になっている。
小少将が彰子の女房として仕えたのには、入内した彰子の周囲に才女を求めていた道長の強い誘いがあったと推定できるのである。
* この和歌には「前書き(詞書)」があり、それを見ると和歌が詠まれた経緯がよく分かる。
前書きには、「 局(ツボネ・部屋)ならびに住み侍りけるころ、五月六日、もろともにながめ明かして、明日に、長き根を包みて、紫式部に遣はしける 」とある。
この紫式部というのは、源氏物語の作者であるが、共に中宮彰子の女房として仕えていた。前書きの中の、「ながめ」というのは、「物思いする」といった意味で、部屋が隣同士であったこともあって、一晩中悩みを語り合ったのかもしれない。
* 新古今和歌集には、この和歌の次に「返し」として、紫式部の和歌が載せられている。
『 何ごとと あやめは分(ワ)かで 今日もなお 袂(タモト)にあまる ねこそ絶えせね 』
( わたしも なぜだか分からないが 今日もなお 袂に包み切れないほどの涙で 泣く声が絶えません )
* さらに、小少将と紫式部との親交をうかがわせる和歌が新古今集には載せられている。それは、悲しい和歌ではあるが、小少将を偲ぶ数少ない消息でもあるので、加賀少納言の作品と重複するが、紹介させていただく。
No.817 「上東門院小少将見まかりて後、常にうち解けて書き交わしける文の、ものの中に侍りけるを見出て゛て、加賀少納言がもとに遣はしける 」 紫式部
『 たれか世に 長らへて見ん 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども 』
No.817 「返し」 加賀少納言
『 なき人を しのぶることも いつまでぞ 今日のあはれは 明日のわが身を 』
* 上東門院小少将の生きた時代は、藤原道長が頂点に立とうとする藤原氏の最盛期であった。そして、平安王朝文化が絢爛豪華に花開き、多くの女流文学者を輩出した時代でもあった。
その中でも、小少将の家柄、道長との距離の近さなどを考えれば、何の不自由もない生涯を送った女性のように思えるが、新古今和歌集に残されている消息は、なぜか寂しいものを感じさせる。新古今調と呼ばれる作風からくるものもあるかもしれないが、その哀れさこそが、上東門院小少将の魅力のように思うのである。
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