『 行く年も来る年も 』
紅白歌合戦が 始まっています
今年も あと四時間足らず
いろいろな事が ありすぎるほどだった一年も
間もなく除夜の鐘に 送られて行き
新しい年は ごくさりげなく 私たちに時間を与えてくれる
悲しみも苦しみも含んだうえの 時間だが
それらを受け入れながら 穏やかな日々に仕上げたいと思う
『 この一年 当ブログを支援いただき 感謝申し上げます
新しい年が 皆様に取りまして
心豊かな一年になりますよう 祈念申し上げます 』
☆☆☆
『 ふるさとへ向かう人々 』
ふるさとへ向かう人々の姿が 報道されていた
交通機関や高速道路の 混雑のピークは
昨日と今日あたりだそうだ
報道されている限り 昨年よりかなり混雑しているようだ
制約の多い中ではあるが
ふるさとへ向かう人々の姿は やはり 温かく優しい
穏やかな 年末年始を送っていただきたいと
つくづくと思う
☆☆☆
『 第六波 始まったか 』
新型コロナウイルスの感染拡大
どうやら 第六波が始まった模様
まだ全国的というわけではないが
感染者の多い都道府県では 増加傾向にあるのは確実だ
オミクロン株が 心配されているが
むしろ デルタ株で新規感染者が増えている方が 心配だ
いずれにしても
この二年間に及ぶ経験を 無駄にしないようにして
冷静に 第六波と向かい合いたい
わが国の 対応力を示す機会が 近付いている
と 考えたい
☆☆☆
今昔物語 巻第十五 ご案内
本巻は全体の中の位置付けは 本朝付仏法 です。
全五十四話から成り立っていますが、その多くは 僧尼を中心とした極楽往生といった仏教賛歌的なものですが、物語としても楽しめる物が多く含まれています。
浄土への道 ・ 今昔物語 ( 15 - 1 )
今は昔、
元興寺(ガンゴウジ・奈良にあった大寺)に智光・頼光(チコウ・ライコウ・・共に実在の人物)という二人の学僧がいた。
長年この二人は、同じ僧房に住んで修学していたが、頼光は老境に至るまで怠けていて学問もせず、話をする事もなく、いつも寝てばかりいた。智光はたいへん聡明で熱心に学問に励み、優れた学僧になった。
やがて、頼光は死んでしまった。その後、智光はこれを嘆いて、「頼光はまことに長い間にわたる親しい友であった。しかし、彼は長年、物を言う事もなく、学問をする事もなく、いつも寝ていた。死んだ後、どのような報いを受けているのだろう。善悪どちらの果報を受けているのか見当がつかない」と言った。
このように嘆き悲しんで、二、三か月の間「頼光が生れ変った所を知りたい」と心中で祈念していたところ、智光は夢の中で頼光が居る所に行った。見れば、そこは荘厳微妙(ショウゴンミミョウ・飾り付けが美しいさま)にしてまるで浄土のようであった。
智光は不思議に思って、頼光に訊ねた。「ここはどういう所なんだ」と。頼光は「ここは極楽です。あなたが[ 欠字。「知りたいと願っている」といったもの、らしい。]によって、私が生れ変った所を示したのです。さあ、もう早く帰りなさい。ここは、あなたが居る所に[ 欠字。「非ず」か ]」と答えた。
智光は、「私は、ぜひとも浄土に生まれたいと願っているのだ。どうして帰ることができようか」と言った。頼光は、「あなたは、浄土に生まれるべき善業(ゼンゴウ)がない。しばらくの間も、ここに留まってはならないのだ」と言った。
智光は、「あなたは、生前何の善業も行わなかったではないか。それが、どうしてここに生まれたのか」と言った。頼光は、「知らなかったのか。私は極楽往生すべき因縁があるからここに生まれたのです。私は昔、多くの経論を開き見て、極楽に生まれ変わることを願ってきました。この事を心に深く願っていたので、物を言うことがなかったのです。四つの威儀(戒律にかなった四種の作法。行・住・坐・臥の四種における正しい振る舞い。)の中で、ただ弥陀如来のお姿と浄土の美しい浄土のさまを観想するばかりで、他に気を散らさず、静かに寝ていたのです。長年のその功徳が積もって、今この地に生まれ変わることができたのです。あなたは、法文を覚えて、その意義と道理を悟って知恵明らかといえども、心は雑念で乱れ、善根は極めて少ない。されば、未だ極楽往生への良い因縁はつくっていないのです」と答えた。
智光はそれを聞いて、泣き悲しんで尋ねた。「それでは、どうすれば、間違いなく往生することができるのでしょうか」と。
頼光は、「その事について、私は答えることができない。されば、阿弥陀仏にお尋ね申しなさい」と言って、すぐに智光を連れて、一緒に仏の御前に詣でた。
智光は阿弥陀仏に向かい奉り、合掌礼拝して「どのような善根を行えば、この地に生まれることができるでしょうか。どうぞそれをお教えください」と申し上げた。
仏は智光に、「仏の姿、浄土の荘厳を観想すべし」とお告げになった。
智光は、「この地の荘厳微妙なることは広大無辺で、私の心や目の及ぶところではありません。私のような凡夫の心では、とても感想など出来るものではありません」と申し上げた。
その時、仏は即座に右手を挙げて、掌(タナゴコロ)の中に小さな浄土を現わされた。それを見た、と思ったところで、智光は夢から覚めた。
智光は、すぐに絵師を呼んで、夢で見た仏の掌の中の小さな浄土の有様を描かせ、一生の間これを観想し続け、智光もまた遂に往生を遂げたのである。
その後、智光の住んでいた僧坊を極楽坊と名付けて、その写し描いた絵像を掛け、その前で念仏を唱え、講会を行うことが今も絶えることなく続いている。
信仰心があるならば、必ず礼拝奉るべき絵像である、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
見事な往生 ・ 今昔物語 ( 15 - 2 )
今は昔、
元興寺(ガンゴウジ・奈良にあった大寺)に隆海律師(リユウカイリッシ・815-886。律師は僧官の一つ。僧正・僧都・律師の順。)という人がいた。俗称は清海氏(キヨウミシ)、もとは摂津国の河上(実在地不詳)の人である。幼い頃から魚釣りを仕事としていた。十七、八歳までは元服もせず童髪であった。
ところで、この摂津国の国分寺の講師に薬仁(ヤクニン・伝未詳)という人がいたが、長年の宿願があって、仏典を書写して供養しようとしていたが、ある縁があることから、元興寺の願暁(ガンギョウ・874没。多くの著作がある。)律師という人を講師に招請した。
やがて、供養の当日となり、かの隆海律師はまだ魚釣りの童であったが、その供養の場所に行き、見物しながら遊んでいたが、講師の説教を聞いて、たちまち「法師となって仏法を学びたい」と思う心が生まれて、家に帰ると父母に「私は大寺に入って、法師となって仏法を学びたいと思います」と申し出た。
父母はその申し出を許したが、すぐの事とは思っていなかったのに、この童は「私はあの講師がお帰りになるのを追いかけて、大寺に行って弟子になろう」と考えていて、次の日、願暁律師の帰り道に追いついた。
律師は童を見て、「お前はどういう者なのか」と尋ねると、童は「私はあの薬仁講師の近くに住んでいる童でございます。実は『大寺に入って、法師になりたい』という願いがありまして、参ったのでございます」と答えた。
律師はこれを聞いて、感心し、童を連れて元興寺に帰って行った。
その後、童は望み通りに出家して、律師のそばで日夜仕えて法文を学んだが、たいそう聡明で理解力に優れていた。されば、遂には立派な学僧となった。また、[ 欠字あり。他の文献から「真如法親王」が正しいらしい。]について真言密教も学んだ。
そして、貞観十六年(874)という年に維摩会(ユイマエ・維摩経を講説して本尊を供養する法会。)の講師を勤めた。元慶八年(884)という年に、律師という位となった。
ところで、この人はもともと仏道心が深く、常に念仏を唱えて、極楽に生まれたいと願っていた。それゆえ、いよいよ臨終を迎えた時に、沐浴して身を清めて、弟子に告げて、念仏を唱え、諸経のうち極楽往生に関する重要な経文を誦して、その声は絶えることなく、西に向かって端座して息が絶えた。一人の弟子が、師の頭を北にして寝かせた。
明くる朝、その姿を見ると、律師の右手は阿弥陀の定印(ジョウイン)を結んでいた。葬る時にもその印は乱れることがなかった。これを見聞きした人は、感動し尊ばない人はなかった。
その往生は、仁和二年(886)という年の十二月二十二日の事である。行年七十二。この人を元興寺の隆海律師といった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
臨終に音楽を聞く ・ 今昔物語 ( 15 - 3 )
今は昔、
東大寺に戒壇の和上(カイダンノワジョウ・戒を授ける和上(和尚に同じ)。東大寺では別当に次ぐ要職。)である明祐(ミョウユウ・878-961)という人がいた。
この人は一生の間、持斉(ジサイ・食事に関する戒律を保つこと。)を続け、戒律を守って破ることがなかった。毎夜仏堂に籠って、自分の僧房で寝ることがなかった。されば、寺の僧たちはみな彼を尊び敬うこと限りなかった。
さて、天徳五年(961)という年の二月の頃、明祐和上は一両日ほど少しばかり体調を崩し、飲食がいつものようにできなかった。周囲の者が食事を勧めても、「持斉の時間はすでに過ぎた。それに、我が命の終わる時も近い。どうしてここで戒律を破ることができようか。この二月は、寺で恒例の仏事がある。我は『その仏事を最後まで勤め上げよう』と思い、何とか生きながらえてきているのだ」と言う。弟子たちはそれを聞いて、尊いことだと思っていたが、その月の十七日の夕べ、弟子たちが阿弥陀経を誦して回向し終わると、師は弟子たちに言った。
「お前たちは前のように阿弥陀経を誦していなさい。我には只今、音楽が聞こえている」と。
弟子たちは、「今は、音楽など全くしておりません。いったい何を仰せなのでしょうか」と尋ねると、師は「我は正気を失っているのではない。確かに音楽が聞こえている」と言う。
弟子たちは師の言葉を不思議に思っていたが、明くる日、明祐和上は心を乱すことなく念仏を唱えながら息絶えた。
臨終に臨んで音楽を聞くからには、極楽に往生したことは疑いがない、と言って人々は尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
火の車を追い返す ・ 今昔物語 ( 15 - 4 )
今は昔、
薬師寺に済源僧都(サイゲンソウズ・(882-964) 後に薬師寺別当。)という人がいた。俗称は源氏(ミナモトノウジ)。
幼くして出家し、薬師寺に住んで、[ 欠字。師僧名が入るが未詳。]という人を師として法文を学び、優れた学僧となった。その後しだいに位が上がって、僧都にまでなりこの寺の別当(ベットウ・特別な大寺に置かれた位で、寺務を統括した。)として長年勤めていたが、格別に仏道心が深く、別当という高位になっても、寺の物を私用することなく、常に念仏を唱えて、極楽に生まれることを願っていた。
やがて老境に至り、まさに命が終わろうとして、念仏を唱えて息絶えようとする時に、突然起き上って、弟子たちを呼んで言った。「お前たちが長年見て来たように、この寺の別当だといっても、寺の物を勝手に私用したことはなく、他念なく念仏を唱えて、命が終われば必ず極楽からのお迎えがあるものと思っていたが、極楽のお迎えは見えず、不本意なことに火の車(火が燃えさかる車で、罪人を乗せて地獄に連れて行く車。)がここに寄せてきている。私ははそれを見て、『これはどういうことだ。全く不本意な事だ。こんなことは思いもかけなかった。何の罪によって、地獄の迎えを受けなくてはならないのか』と言ったら、この車についている鬼どもは『先年、お前はこの寺の米五斗を借りて使った。それなのに、未だにそれを返していない。その罪によって、このような迎えを得たのだ』と言うので、私は『そのくらいの罪によって、地獄に堕ちるはずがない。その米は返却します』と言うと、火の車は隅に寄せたが、まだここにいる。されば、速やかに米一石を寺にお返ししてくれるように」と言ったので、弟子たちはこれを聞いて、急いで米一石を寺にお返しした。
弟子たちは、米を返却し誦経を始めたが、その鉦(カネ)の音が聞こえてくる頃、僧都が「火の車は返って行った」と言った。
その後しばらくして、僧都は「火の車は返り、たった今、極楽のお迎えがあった」と言って、掌(タナゴコロ)を合わせて、それを額に当てて涙を流して喜び、念仏を唱えて息絶えた。
その往生を遂げた僧房は、薬師寺の東門の北の脇にある僧房で、今もその僧房は失せずして存在している。
これを思うに、寺の米を五斗借用して返さなかったというほどの罪であっても、火の車が迎えに来たのである。まして、勝手気ままに寺の物を私用するような寺の別当の罪がどのような物であるか、想像すべきである。
その往生した日は康保元年(964)という年の七月五日のことである。僧都の行年は八十三歳であった。
薬師寺の済源僧都というのはこの人である、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
極楽往生を伝える ・ 今昔物語 ( 15 - 5 )
今は昔、
比叡山の定心院(ジョウジンイン・比叡山東塔南谷の一院。)という寺の十禅師(ジュウゼンジ・宮中の内道場に奉仕して、天皇の安泰を祈念する十人の高僧。)である成意(ジョウイ・伝不詳)という僧がいた。心が清らかで、物事に執着するところがなかった。
ところで、この成意は、もともと持斉(ジサイ・食事に関する戒律を守ること。僧は午前中に食事をとることが決められている。)を好まず、心のままに朝夕に食事をした。
ある弟子が、師の成意に尋ねた。「この比叡山の高僧方は、概ね持斉をされています。[ 欠字。「どうして」といった言葉か? ]私のお師僧様だけが持斉をされず、朝夕に食事をなさるのでしょうか」と。
師は、「私は、もともと貧しくて、この院の日々提供される食事以外に、得られる食べ物がない。されば、ただ有るに従って食べるのだ。ある経文に、『心は菩提を妨げるが、食物は菩提を妨げない』とある。それゆえ、食事によって後世の菩提(成仏すること)が妨げられることはない」と答えた。
弟子はこれを聞いて、「なるほど」と思って引き下がった。
その後数年を経て、成意が弟子に言った。「今日の私の食事の量を、いつもより増やして食べさせてくれ」と。弟子は師の言葉に従って、食事の量を増やして用意した。
師はこれを食べ、またすべての弟子たちにもこれを分け与えて、そして言った。「お前たちが、私が用意した食膳の物を気ままに食べるのも、もう今日で終わりだ」と。
そして、一人の弟子に、「お前は、無動寺(ムドウジ・比叡山東塔の一寺)の相応和尚(ソウオウカショウ・(831-918))の御房に行って申し上げよ。『成意は只今極楽に参ります。お目にかかりますのは、彼の極楽に致しましょう』と」と命じた。また、別の弟子を呼んで、「千光院(センコウイン・比叡山西塔の一院)の増命和尚(ゾウミョウカショウ・増命は諡号。正しくは静観。のちに第十代天台座主。)の御房に行って、前と同じように申し上げよ」と命じた。
弟子たちはそれぞれこれを聞いて、「このお言葉は、きっとご冗談なのでしょう」といったが、師は、「私が言ったことが虚言で、もし今日死ななければ、私が正気を失っていたのだと思いなさい。お前たちは、嘘を言いに行くのではないから、何も恥じることはないのだ」と言う。
そこで弟子たちは、それぞれ命じられた僧房に向かった。弟子が命じられた二か所に出かけて、まだ帰って来ないうちに、成意は西に向かって掌(タナゴコロ)を合わせて、座ったままで息絶えた。弟子は帰ってきて、その姿を見て、泣いて悲しみ尊んだ。また、院の内の人もこれを聞いて、皆その所に集まって尊び、感動しない者はなかった。
「病気もしていないのに、今すぐに死ぬということを知って、高僧たちにそれを告げて、西に向かって死んだのは、必ずや極楽に往生した人だ」と人々みんなが言い合った、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
瘤ゆえの極楽往生 ・ 今昔物語 ( 15 - 6 )
今は昔、
比叡山の東塔に一人の僧がいた。
首の下に瘤(コブ)があり、長年の間、医師(クスシ)の教えに従って、医術をもって治療にあたってきたが治癒しなかった。そのため、衣の襟でその所を覆い隠していたが、やはり気おくれがあり、人との交際を避けて、横川(ヨカワ)の砂磑の峰(スナウスノミネ・砂碓院という寺院らしい。なお、院のことを峰と表すことはよくあるらしい。)という所に行って籠って生活していた。
その場所で、日夜寝ても覚めても念仏を唱え、尊称陀羅尼、千手陀羅尼などを誦して、ひたすら極楽往生を願いながら年月を重ねていたが、その瘤は[ 欠字あるも内容不明。]仏力によってすっかり治癒してしまった。
しかしながら、僧は「たとえ治癒したといっても、もとの所に戻って前の生活を営むとしても、たいして長いことではない。それより、死んで悪道(アクドウ・・地獄・餓鬼・畜生道を指す。)に堕ちるよりはひたすら念仏を唱えて後世の極楽往生を祈って、ここから出て行かないことにしよう」と思い至って、籠居生活を続けた。
ところで、同じ比叡山に普照(フショウ・伝不詳)という僧が住んでいた。普照は先の僧が住んでいたのと同じ院に住んでいたが、「麦の粥を煮て、院内の人に食べさせてやろう」と思いついて、その粥を煮るために、ある夜、浴室の釜の近くにいると、にわかに何ともいえぬほどかぐわしい香りが山に満ち、妙なる音楽が空から聞こえてきた。
普照はそれを不思議には思ったが、何事であるかは分からず、そこでうたたねをしていたが、その夢に、宝物で飾られた一つの輿が現れ、砂磑の峰より西方を指して飛び去って行った。
大勢の法服を着けた高僧たちや、大勢の音楽を演奏する様々な天人のような人たちが、皆この輿の周りを囲んで、前後左右にいて、輿に従って[ 欠字あり。「行く」といった言葉らしい。]
遥かに輿の中を見れば、あの砂磑の峰に住む僧が乗っている、と見たところで夢から覚めた。
その後、普照はこの夢の虚実を知りたいと思っていると、ある人が、「あの砂磑の峰に住む僧が、昨晩死んでしまいました」と伝えた。
普照はそれを聞いて、まことに、あの僧が極楽に向かう姿だったのだと知って、仲間の僧たちに、「私はまさしく昨夜極楽に往生する人を見た」と語って尊んだ。これを聞く人も、また感激して、尊ばない人はいなかった。
これを思うに、極楽に往生する人というのも、みな因縁のあることなのである。あの僧は、身に疾患があって、それを恥じて籠居し仏道修行をして、このように往生したのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
* 文中の、「陀羅尼(ダラニ)」というのは、「よく善法を持して散失せず、悪法をさえぎる力」といった意味の梵字の呪文を翻訳せずそのまま読誦するもの。これを誦すれば諸々の障害を除いて、種々の功徳を受けるとされる。
一般に、短いものを「真言」、長いものを「陀羅尼」という。
☆ ☆ ☆