雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

愛おしい物ばかり ・ 小さな小さな物語 ( 1788 )

2024-07-20 08:00:49 | 小さな小さな物語 第三十部

外は、真夏を思わせるようなお天気になってきています。今の段階(7月19日)では、近畿地方の梅雨明けはまだ伝えられていませんが、おそらく、明日には梅雨明け宣言がありそうです。
庭からは、蝉の声が聞こえてきます。抜け殻はすでに幾つか見つけていますし、立派な姿を現わしたところも見ているのですが、その蝉はどこかへ飛んで行ってしまったらしく、わが家の庭では鳴いてくれませんでした。
今、庭で鳴いている蝉がわが家生まれかどうかは分りませんが、本格的な夏だと歌っています。すでに、猛暑日もあり、熱中症への注意が繰り返されていますが、やはり、蝉の声が加わってこそ本格的な夏だと思うのです。

ところで、蝉が幼虫から殻を破って羽ばたくのを、「羽化」と言っていいのでしょうかねぇ。蝉は「不完全変態」の昆虫で、蛹(サナギ)の期間がなく、幼虫から直接成虫になる昆虫で、蝶などとは少し違います。
儚いものの例えに、蝉の生涯をあてることがありますが、それは、成虫になって激しく鳴く姿とその期間の短さに儚さを感じるのではないでしょうか。
ただ、蝉の成虫としての寿命は1~2週間とも言われることが多いですが、条件さえ良ければ、1か月以上生存できるそうです。また、地中での生活となると、日本の蝉の多くは3~5年くらいのようですが、米国には、13年とか17年といった蝉がいるそうですから、こちらは犬や猫に近いほどの寿命を持っていることになります。

わが家の庭の一画に、女郎花が黄色い花を咲かせています。この花は、匂いが気になって植えることはなかったのですが、「何種類もの花が咲きます」という種を蒔いた中から、一番元気に勢力を張ったのが女郎花でした。ところが、切り花にそれほど良いとは思えませんし、やたら大きくなりますし、小さな庭には不向きなような気がしながらも、何とも愛着を感じるようになりました。そして、今年も芽を出してくれて、今、真夏の陽光に一歩もひけを取ることなく黄色い花を咲かせてくれています。
今年は、ひまわりを植えていませんので、わが家の庭の夏のエースは女郎花に託しています。

この夏は、十年に一度の暑さになるといった報道を見ました。わが国のすばらしい風土の象徴ともいえる四季が、そう遠くない時期に、夏と冬だけの二季になるという意見を述べられている人がいました。
今日という一日が終っても、また明日には同じような一日がやって来るものだと思って、それも、何の疑問も抱くことなく、この数年を生きているような気がします。
ほんとうは、自然でさえも変化しており、わが家の小さな庭でさえ、日々、一刻一刻その姿を変えているはずです。
少々大げさな表現かも知れませんが、そう考えながら、ぎらぎら陽光に輝いている庭を見ていますと、わが身の周辺だけは、何の変化も起らないことを条件に成り立たせていることに驚きを感じます。
と言って、何が出来るわけではありませんが、動物にも、植物にも、自然の変化にも、そして人に対しても、今よりほんの少しでも優しくありたいと思えてきます。


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蟻の一穴 ・ 小さな小さな物語 ( 1787 )

2024-07-17 07:59:47 | 小さな小さな物語 第三十部

トランプ前大統領に対する暗殺未遂事件は、各界に大きな波紋を広げているようです。
トランプ氏自身は、本当に危機一髪という状態でしたが、耳の負傷だけで済んだようなので不幸中の幸いとも言えますが、事件全体としては、一人が亡くなり二人が重症ということですから、まことに不幸な事件だったと言えます。
事件の背景などは、まだ詳しくは伝えられていないようですが、まだ若い青年の単独犯の可能性が高いようにも報じられています。大規模な組織や政治的な背景などの影は薄いようにも見えますが、それはそれで恐ろしさを感じます。

民主主義国家を代表するともいえる米国において、大統領選挙は大変大きな行事です。イベントと言ってもいいほど、国家を上げて、長期間にわたって、激しい選挙戦が行われますが、ほぼ完全な二大政党制だけに、互いの陣営同士の戦いは激しく、政策論争以上に相手をこき下ろすことに注力し合っているように見えます。そうした選挙戦は、国家の分断化を助長しているとも指摘されていますが、米国の社会不安の一因になっているように見えてしまいます。
そのような、互いに相手を激しく罵倒し合うような選挙戦の中で、この事件は発生しました。そのような選挙のあり方について反省の機会を与えられたような気もしないでもありませんが、この事件の映像を見て第一に感じましたのは、「蟻の一穴」という言葉でした。

「蟻の一穴」という言葉、わが国で誕生した言葉のようですが、古くから使われているようです。その多くは、「蟻の一穴、天下の破れ」とか、「千丈の堤も、蟻の一穴から崩れる」と言ったように、蟻がえぐる小さな穴が、天下や千丈の堤といった一見盤石な物を砕くとの教えとして使われるようです。
米国という強大な国家を建設した人々が、長い時間をかけて築き上げてきた民主主義政治の根幹をなす大統領選挙が、たった一発の銃弾において、たった一人の青年の行動によって大きく揺らぐという現実を見せつけられたような気がしました。
もしかすると、私たちが身を寄せ、命を託している国家や社会という物は、「砂上の楼閣」のような物で、日本列島が沈むほどの大地震でなくても、地球全体が歪められるほどの巨大隕石が衝突しなくても、私たちが拠り所としている場所は、少しでもバランスを崩せば倒壊してしまう「砂上の楼閣」であり、至る所に「蟻の一穴」が潜んでいる堤に過ぎないのも知れません。

米国の今回の事件に関しては、両陣営が、あまりにも下品すぎるような相手批判を控える方向に動きそうな気配がありますので、ぜひとも、民主主義政治の選挙のあり方を示してほしいものです。
そして、「砂上の楼閣」を心配する必要は、先日の都知事選挙一つ取って見ても、わが国こそ少なくないのだと思います。
おそらく、その様子が他国でも報道されて、それもお笑い番組のようなコーナーで紹介されたのでしょうね。わが国の選挙制度は、制度その物も、投票の管理についても、どこにも負けないすばらしいものだと思うのですが、残念ながら、一部の候補者の行動や言動は、世界でも例を見ないほど低俗な物であったように思うのです。
社会の制度や品格が砕かれるのは、他国からの侵略や大災害などにのみ起因するのではなく、「蟻の一穴」のような物により砕かれていくのではないでしょうか。
悲しいかな、わが日本列島には、数限りないほどの「蟻の一穴」が存在しているのでしょうが、一つ一つ、地道に埋め直していくことが必要なのでしょうねぇ。 

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それなりの能力 ・ 小さな小さな物語 ( 1786 )

2024-07-14 08:03:14 | 小さな小さな物語 第三十部

テレビ大好きの私は、ニュース番組や、いわゆるワイドショー番組などもよく見ます。
ドラマなども含めて、番組に集中してみることは限られていて、ほとんどは、何かをしながらの「ながら族」です。これ、もう死語になっているかも知れませんが。
映画やドラマなどと違って、ニュースやワイドショーは、その時々の出来事などを教えてくれますが、時には、色々な人物の人間性や生き様などを垣間見せてくれます。生意気な見方かも知れませんが、ドラマなどよりよほど「人間」を勉強させてくれるような気がするのです。

最近で言えば、先日行われた東京都知事選挙は、大変興味深く拝見しました。選挙権さえない身ですが、やはり、わが国の首都東京の動向には関心があります。一極集中の弊害が指摘され始めてから久しいと思うのですが、ほんのお印みたいな変更はあるとしても、集中度はむしろ増しているのではないでしょうか。
個人的には、災害に対する行政などのバックアップ体制は不可欠だと思うのですが、都市としての東京には、もっともっと洗練された世界に冠たる都市になって欲しいと願っています。
それだけに、今回の都知事選挙に注目していました。掲示板や選挙妨害のような行動、選挙制度が予想していないような立候補者の登場など、多くの課題を表面化してくれたように思います。
選挙結果については、今さら語るのもどうかと思いますが、小池現職知事の安定度が目立ったように思われます。その結果もあって、蓮舫さんの惨敗ぶりは、想像以上だったように思いました。

また、このところの国家や地方自治体のトップに立っている人の動向が、とても気になっています。
おそらく世界中が注目していると思われる、バイデン大統領の言動はどう考えれば良いのでしょうか。今秋の米国の次期大統領選挙がどういう形になるのか興味津々ですが、世界をリードすべき彼の国ですから、最善を求める選挙になってくれることでしょう。
ぐっとスケールが小さくなりますが、わが国の政権の動向も、水面下では激しく動いているとも報じられています。自民党の総裁選挙に向けて、どのような動きが出てくるのでしょうか。
さらにスケールが小さくなりますが、わが兵庫県では、知事のパワハラ問題が解決の見通しが立たなくなっています。
スケールに関わらず、一群の長ともなれば、自分の姿は見え難くなるのでしょうか。

経営学者として有名なピーター・ドラッカー( 1909 - 2005 )は、「どんな人でも努力すれば『それなりの能力』は身につけることが出来る。そして、この世で成功するためには『それなりの能力』があれば十分なのである」と述べています。
世界中には、数限りないほどのリーダーが存在しています。その中には、天才と言われるような類い希な人物もいるのでしょうが、そのほとんどは、『それなりの能力』の持ち主に過ぎないはずです。あらゆるリーダーたちは、それを自覚すべきだと思えてなりません。
また、ドラッカーはこんな言葉も残しています。「人間は、『自分でなければ出来ない』と錯覚している人が多すぎる」と。
自戒したい言葉と思います。

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「1」ですか「2」ですか ・ 小さな小さな物語 ( 1785 )

2024-07-11 07:59:59 | 小さな小さな物語 第三十部

江戸時代の長屋暮らしの人や、町奉行所の与力や同心が登場してくるドラマや小説が好きです。必ずしも長屋暮らしでなくても、江戸城下の町人たちの喜怒哀楽を見守るように描かれている作品が好きです。
そうした作品の中に、「九尺二間」の棟割長屋がよく登場してきます。そうした長屋は、裏店(ウラダナ)と呼ばれ、大通りに面した表店の裏側に当たる一画に造られました。当然、日当たりも、水はけも良くない不健康な立地です。住民のほとんどは最下層の人たちなのでしょうが、かといって、貧民街とは違って、ほとんどの人たちは様々な生業を持っていて、その日暮らしに近い生活ながら、みずみずしい生き様を、そうした作品は垣間見せてくれます。

その「九尺二間」の長屋ですが、一戸あたりの広さは三坪、およそ畳六枚分です。入り口から入ったところは土間で、畳一枚半の広さに台所が備えられていて、その奥に四畳半の部屋があります。押し入れなどなく、夜具などは、昼間は衝立で隠したようです。
少し上等の長屋は、「九尺三間」だったようですが、三畳分広くなるだけです。
その長屋には、実にさまざまな人が住んでいたようです。一人暮らしの若者は、商店や職人のもとに通ったり、棒手振や、わけの分からない日雇いの労働者もいたのでしょう。若い娘さんの一人暮らしはほとんどいなかったようですが、若い男がこの長屋に住みつく理由は、田舎から出て来たり、年季奉公を途中で挫折した人など、何らかの試練を受けたひとが多いようです。
こうした長屋には、夫婦者が数多く見られます。庶民が相思相愛で一緒になった場合の最初の住処は当然裏店の長屋ですし、訳ありの二人が身を隠す場合もあったようです。
そして、何より驚くのは、子供が三人の五人暮らしで「九尺二間」で生活している例も珍しくなかったようです。四畳半で五人が暮らすのですよ。大勢が集まっている姿は、ぞっとしますが、幸せなのでしょうね。

「『1+1=2』であることを証明せよ」などと言われますと、これは私の守備範囲を超えてしまいますので勘弁していただくとして、私たちの日常生活において、「1ブラス1は、必ずしも2ではない」という言葉を聞くことがあります。
多くの場合、指導的立場にある人が、チームワークや協力の大切さを説明する場合に、互いの協力や工夫によって、「1プラス1が、3にも4にもなり得る」と続きます。
3にも4にもなるかはともかく、スポーツや作業工程、事務作業などにおいても、2以上の力を発揮する可能性は十分にあります。
ただ、現実の世界では、「1プラス1が2以下になる」ということも少なくないような気もします。

高齢化社会には多くの課題がありますが、一人暮らしの問題があります。
「人は誰でも死ぬときは一人っきりだ」とうそぶく人もいますが、凡人にはなかなか荷の重い問題です。
二世代、三世代家族で生活している人は、死ぬ瞬間はともかく、相当の高齢期になっても、孤独死という問題は無縁でしょう。
しかし、現に一人暮らしであったり、夫婦二人の生活である場合の高齢者は、孤独死という現状を無視することが出来ないように思われます。
そして、その解決方法の一つは、「死ぬ時は誰でも一人だ」という悟りの境地を身につけるか、精神的なものを中心とした相互扶助の関係を見つけ出す必要がありそうです。その関係を医療や介護施設に求めるのも一つですが、別の方法もあるような気もするのです。
「1プラス1」が、「2」になろうがなるまいが、「1」より良いとするのであれば、結婚といった関係に限らず、同性間であれ、異性間であれ、また世代の差にも関係なく、何か有終の美を飾る関係が生み出せそうな気もするのです。
具体案がないのが残念ですが。
 

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経験の落とし穴 ・ 小さな小さな物語 ( 1784 )

2024-07-08 07:59:09 | 小さな小さな物語 第三十部

先日、当コラムで経験について書かせていただきました。私たちの知恵や知識は、経験から得る物が多いといった意味で書かせていただきました。
確かに、様々な分野の専門家といわれる人や古老などが語る経験談は、興味深い内容であることが多く、教えられることも少なくありません。
また、私たちが何か行動を起こす場合、意識的に資料を調べてみたり、無意識のうちに過去の経験を参考にしていることは、むしろ当然のことと思われます。
経験が、私たちが知恵や知識の習得していく上で大きな働きを果たしていることは確かだと思われます。

その一方で、やたら自分の経験を押しつけがましく語られる場面に出会ってしまうと、聞き流すことが出来る場合はいいのですが、そうできない場合には反感のような気持ちが生れてきます。
分りやすい例としては、政治家の会見や、選挙運動での立候補者の自己主張などの中には、自分がなしてきた業績(経験)を過大化させたり、一部だけを切り取ったりして、その業績を錦の御旗のように打ち振っている姿を見ることがあります。
立候補者の主張などは、気に入らなければ立ち去ればいいだけのことですが、それが、半強制的な席であったり、相手が無下にすることが出来ない人であったりすると、これはもう虐待に近いものになります。

経験は、自分のものはもちろん、他人のものであっても、私たちに多くの示唆を与えてくれます。ところが、前記しましたように、経験には諸刃の剣のような性格が含まれているようです。
その原因を考えてみますと、気軽に「経験」という言葉を使っていますが、経験は千差万別だと言うことだからと思われます。ある人にとって有意義であっても、ある人には無意味であったり、時には悪影響を与える場合さえあります。一つの事象に遭遇した場合でも、それを体験として取入れた場合には同一と言うことなどあり得ません。また、身につけたはずの体験も、時間と共に変化していくことは、誰もが経験することではないでしょうか。
そうした様々な要因によって、経験は様々な姿を持っているにも関わらず、一つの事象を、たまたま自分が体験として身につけているからといって、それを人に語る場合には繊細な注意が必要な気がします。
つまり、経験という貴重な知恵には、落とし穴のようなものを有していることを認識する必要がありそうです。

私たちは、日々新しい時間と出会っています。
「毎日毎日、同じ事の繰り返しだ」などという言葉を聞くことがありますし、私自身も似たような思いを抱いたこともあります。
しかし、そうしたことなど有るはずはなく、今、私たちが向き合っている時間は、昨日と同じで有るはずはなく、過去のどの経験とも同一であるはずもありません。
私たちは、日々新しい時間を迎えており、全く経験したことのない時空を生きていっているわけです。考えようによっては恐ろしいような気もしますが、その未知の時空と接するための助けに、やはり、経験は大きな役割を果たしているようです。
これまでに積んできた多くの経験を、あるいは、他人様から頂戴した経験談を、「経験には落とし穴がある」ということも承知しながら頼りにしたいと思うのです。


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金が敵の世の中 ・ 小さな小さな物語 ( 1783 )

2024-07-05 07:59:50 | 小さな小さな物語 第三十部

新しい紙幣が発行されましたが、すでにご覧になられましたか? 私はまだお目に掛かっていないのですが、テレビの報道を見ていますと、大きな話題を集めているようです。
発行間もない紙幣の番号とか、その番号がぞろ目になっていたり、特殊な並びになっている場合には、新しい紙幣でも高価な値段が付くそうですから、銀行の窓口に行列が出来たのは、それを狙ってのことかと思っていましたら、それはごく少数派で、新しい紙幣を実際に手にしてみたいという、まことに純粋な心根からのようです。
電子マネーなど、様々な決済手段が広がりつつあり、いまさら膨大なコストをかけて新しい紙幣を発行する必要があるのか、などと発言されている人を見たことがありますが、何の何の、わが国には「お札大好き」人間もたくさんいることを証明してくれたようで、嬉しくなりました。

新しい紙幣に描かれている人物が話題を集めているようです。
今回は、一万円札が渋沢栄一さん、五千円札が津田梅子さん、千円札が北里柴三郎さんの三人ですが、いずれも、経済界、教育界、医学界の分野で近代日本をリードした方々が採用されています。
人物像の選定には、喧々諤々の議論があったそうですが、今回のように、近代の方々に登場願うのは、難しいところがあるのでしょうねぇ。
因みに、わが国の紙幣に登場している人物は、前記の三人の他に十八人いるそうです。
列記してみますと、『 神功皇后、日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、和気清麻呂、聖徳太子、菅原道真、二宮尊徳、板垣退助、高橋是清、岩倉具視、伊藤博文、夏目漱石、新渡戸稲造、福沢諭吉、紫式部、野口英世、樋口一葉 』です。
今回分を含めますと二十一人になりますが、さて、あなたはお札を通じて何人の方と会っていますか??
なお、紫式部は、かの有名な二千円札に登場していますが、今回の新札への切り替えの対象になっていませんから、源氏物語と同様に、ロングランが期待できそうです。

お札の歴史となりますと、おそらく、人類の歴史の初期に近い頃まで遡るのではないでしょうか。
石器時代には、マンガなどに登場するような、大きな石のお金を担いでいたかも知れませんし、これもおそらくですが、人々がグループをなし、そのグループ同士が接する機会が出来ると、戦いと同時に物々交換が生まれたのではないでしょうか。最初の貨幣の役割は、珍しい貝や石などや、穀物や布などが担ったのでしょう。
金属貨幣が登場したのは、紀元前670年の頃とされていますが、わが国では、708年に発行された「和同開珎」だと、私など教えられていたのですが、それより以前の683年に「富本銭(フホンセン)」が誕生していたようです。どちらも、どの程度流通したのかは未詳ですが、「和同開珎」の方は、一日分の労働の対価だったという研究もされているようです。
紙幣の発行となれば、海外の例でも、西暦1000年以降のことのようです。

わが国では、その後貨幣は余り発達しなかったようです。
平安時代は物々交換が主流のようで、平安時代の後期になって宋銭が流入するようになって、ごく限られた階層でしょうが、貨幣経済が機能したようです。
その後、通貨に対する様々な危機などを経ながらも、今も私たちにとっては、身近であり、それでいて、すぐに逃げたがる存在として共存し続けています。
今日では、電子マネー的な物のウエイトが増えてきていますが、「金が敵の世の中」と大見得を切るには、やはり、渋沢栄一さんが扮するところの一万円札の方が似合うような気がするのですが・・・。



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迷うことは悪くない ・ 小さな小さな物語 ( 1782 )

2024-07-02 07:58:59 | 小さな小さな物語 第三十部

「道に迷うことは悪くない。それこそが道を知る一番の方法だから」といった言葉を見た記憶があります。正確かどうか自身がないのですが、外国の諺のようです。
言葉の意味はそれほど難しくないとは思うのですが、この「道」を単に道路といった意味で捉えても十分感じるところがありますが、様々な「専門」とか「分野」などと置き換えますと少し複雑になってきますし、かの古代中国の大思想家・老子が述べるところの「道」となりますと、これは、手が付けられなくなってしまいます。

私たちの知識の習得の仕方を考えてみますと、極論しますと、人真似と経験の二つのような気がします。
「猿真似」という言葉がありますが、本質を理解せずに、うわべだけ真似することで、むやみに他人の真似をすることを軽蔑している言葉です。その通りだと思いますが、この戒めは、ある程度の知恵を有している人を戒めるものであって、たとえば、生まれて間もない赤ん坊などに、この言葉で戒めることなど出来ないと思うのです。
それは、何も赤ん坊に限ったことではなく、新しい環境や新しい分野に入っていくときには、まずは教えられた事や見聞きした物を真似ることから始まるのではないでしょうか。

経験も同様で、これまでに蓄積してきた知恵や知識はあるとしても、未知の事象に取り組む場合には、やはり、不安があり未熟が露呈しがちです。いくら教えられ、見聞きしてきたとしても、実際に体験することは、やはり別物です。経験というものは、どうしても知恵や知識の習得に重要な要素のようです。
経験を積む、経験を重ねる、経験を生かす、経験を活かす、などと使われますが、それぞれの言葉に少し違う意味合いがあると説明されている文献もあります。
真似ることも経験も、知識を習得する上で、とても重要な要素ですが、実社会においては、時には、盗作という問題を生んだり、経験を重しとして後進を潰す懸念もあります。

目下、次の都知事を選ぶ選挙戦が展開されていますが、この選挙に限ったことではありませんが、選挙戦は一国の文化を赤裸々にさらけ出すような気がします。
「そこまで言うか」と言いたいほど相手をこき下ろす例がよく見られます。あまり良い気がしないのですが、先進国と考えられる某国においても、ひどすぎる罵倒合戦が見られます。ああしたことが自分に有利になると思われるのか、多くの立候補者は必死に「真似て」いるのでしょうか。
また、多くの立候補者はやたら改革を叫びます。極端な場合には、これまでの政策をリセットするとさえ言っています。国家であれ、市長町であれ、いくら問題が多いとしても、運営されている施策にはそれなりの意義があり、積み重ねられた経験もあるはずです。それは政治家に限ったことではなく、企業や様々なグループにおいても同様でしょう。いやしくも、そうしたリーダーを目指す上では、人から学び、経験をし、それでも迷い苦しむことが必要のようです。
もしかすると、私たちが知恵や知識を習得するためには、「真似」と「経験」に加えて、冒頭で述べましたように、「迷う」ことも必要なのかも知れません。


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七十五歳など洟垂れ小僧 ・ 小さな小さな物語 ( 1781 )

2024-06-29 08:17:08 | 小さな小さな物語 第三十部

米大統領選挙の前哨戦として大きな注目を浴びる討論会の様子が、紹介されていました。
バイデン大統領とトランプ前大統領によるもので、四年前と同じ顔合わせでした。
その内容は全米に放映され、視聴者は六千万人とも七千万人だとも、あるいはそれ以上だという調査もあるようで、時には、無党派層の票を大きく動かせることがあるようです。
今回の場合も、史上最悪の討論会と酷評された前回の反省に立って、発言者の相手のマイクを切るなど様々な工夫がなされていたようです。
それにしても、九十分に及ぶ激しい討論を、メモが禁止され、スタッフからのアドバイスも禁じられている中だけに、公的な政策の良し悪し以上に、発言力、表情、声の調子、仕草などが、むしろ大きなポイントとして注目されています。
従って、服装やメーキャップなども工夫されているでしょうし、演壇の右左のどちらに立つかでもテレビ映りに差が出るそうで、今回もコイントスによって決めたようです。

この討論会は、日本時間の昨日のお昼頃に終りましたが、その直後から、各陣営や多くの評論家たちがその点数付を行っているようです。
当然、経済問題やウクライナ情勢や国境管理などでの主張の正当性や論破力が評価されることになるのでしょうが、それ以上に各人の一挙手一投足に注目度が高いように思われます。さらには、両人ともに相手を「史上最悪の大統領だ」と罵り合う場面がありましたが、その様子を見て、評論家はともかく、有権者の方々はどういう判定を下すのでしょうか。
そして、今回もっとも注目された視点の一つは、両者の健康問題、年齢問題だったように感じました。

米国は、わが国と違って、様々な職業や社会的立場について、年齢による制限は少ないと伝えられています。
しかし、一国の首長であり、それも米国大統領ともなれば、望む望まぬに関わらず、自国ばかりでなく世界中に少なからぬ影響力をもたらします。そう考えますと、八十一歳のバイデン大統領と七十八歳のトランプ前大統領のどちらが選ばれるとしても、これからの四年間に年齢からくる健康面の不安は完全無視することなど出来ないのではないでしょうか。
米国も含めた報道においても、この点は再三問題視されているようです。米国は様々な地位などに年齢による制限し少ないということと、心神の能力のうち加齢により低下する部分があることは確かだと思うのです。

一方で、わが国においては、多くの職業や、公的・私的双方の社会的地位などに年齢制限がなされている部分が数多く見られます。
少子高齢化社会などという言葉が誕生して何年になるのか知りませんが、少なくとも、この十年間だけを見ても、何か改善された部分があるのでしょうか。
「わが町は人口が増えている」と大見得を切っている首長もおりますが、そのほとんどは、他の地域からの流入による増加であって、人口問題には何の役にも立っていないはずですか、それさえも理解されていないようです。東京都の出生率が0.99になったと、非難めいた声がありましたが、人口動向と合わせて考える必要がありそうです。
ただ、わが国の人口が減少し続けているのは厳然たる事実ですから、小手先でない対策が待たれます。この問題は改めて考えたいと思いますが、米大統領選挙の討論会を見ていて思いましたことは、両者の今後の四年間が心配ではありますが、それ以上に、あの年齢で、これからの四年間を、あの米国を引っ張っていくとの気概を持っている人がおり、その人を熱く支援する多くの人がいることを学ぶべきだと思いました。
わが国では、七十五歳から後期高齢者だそうですが、彼ら二人に言わせれば、「七十五歳など洟垂れ小僧だ」なのでしょうね。

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小さな小さな物語 目次

2024-06-26 07:59:14 | 小さな小さな物語 第三十部

       小さな小さな物語  目次  


     NO.1761  わが家の庭は大笑い
        1762  平穏を守る知恵
        1763  踏み止まる知恵と勇気
        1764  どれだけ捨てることが出来るのか
        1765  愚者ですか? 賢者ですか?

        1766  核燃料の墓
        1767  引き算の論理
        1768  物価上昇に備える
        1769  白と黒の間
        1770  命輝く季節

        1771  鬼の目にも涙
        1772  ハラスメントを考える
        1773  米大統領選挙
        1774  奇跡がいっぱい
        1775  待つ能力

        1776  水無月ってどんな月?
        1777  都知事選挙に期待する
        1778  右ですか? 左ですか?
        1779  取り返しのつかないもの
        1780  社会力の貧しさ

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社会力の貧しさ ・ 小さな小さな物語(1780)

2024-06-23 08:03:27 | 小さな小さな物語 第三十部

六月二十二日午前、天皇皇后両陛下は、イギリスを国賓として公式訪問のため、政府専用機で羽田空港から出発されました。帰国は二十九日のご予定です。
わが国の皇室とイギリス王室との交流の歴史は長く、明治二年( 1869 )にイギリスのアルフレッド王子が来日しましたが、明治天皇は国賓の礼でもてなすことを命じ、王子と面談なさいましたが、これが両国の皇室(王室)交流の最初のようです。
その後、第二次世界大戦という不幸な期間はありましたが、私たち国民もイギリスという国家に親近感を感じる人は少なくありませんし、皇室交流は極めて親密と思われます。
さらに、天皇皇后両陛下ともに、オックスフォード大学に留学経験があることも今回の訪問に彩りを添えるような気がします。

皇室外交という言葉が使われることがあります。
わが国の憲法は、天皇は「日本国と日本国民統合の象徴」と定められています。この『象徴』をどのように理解すればよいのか未だに私は分らないのですが、政府はじめ多くの機関や人々が、天皇と政治を切り離すことに腐心しているようです。
宮内庁は特に神経を使っているようで、「皇室に外交はない」として皇室外交という言葉を使うことを嫌っているそうです。その為か、大手マスコミなどではあまりお目に掛からないような気がします。
しかし、外国の方々が見る目は少し違うようで、ほとんどの国の政権を担っている人などは、わが国の憲法上の立場を承知されているのでしょうが、そうした人々も含めて、訪問先では、政治的な実権はないとしても国家元首的な存在として受け取られているように見えます。そして、そのお人柄は、訪問国に多くのものをもたらせてくれています。
ある元外交官のお方が、「皇室の方のご訪問は、あたたかな関係を築くということでは、外交官が束になっても及ばない」と言ったことを話されていた記憶があります。

最近、オーバーツーリズムが問題視されることが増えています。
経済対策として、海外からの観光客の受け入れに躍起になってきましたが、旗振りに比べて受け入れ態勢への対応が手薄であったり、ネット社会の特徴として、国内では観光地の末席にも連なっていなかったような地域が、突然、大勢の外国からの観光客が訪れるようになり、小さな自治体は手も足も出なくなっている面もあります。
また、観光客の中には、お国柄もあるのかもしれませんが、ごくごく常識的に考えて、とんでもない行動や要求する人もあるようです。
受け入れ態勢などは、小さな自治体にまかせるだけでなく、国家全体の事業として対応すべきだと思うのですが、同時に、私たち国民の一人一人が、観光立国として胸を張れるだけの心構えも必要な気がします。
あたたかなおもてなしは当然必要ですが、目に余る行動や態度を取る観光客に対しては、内外からの人に限らず、凜とした態度で接することが出来る識見を育てたいものです。
社会力を向上させるということでしょう。

国力の向上には多くの要素が必要なことは当然です。そして、それらのベースとなるものは、国民一人一人の品格であり、つまり社会力の向上だと思うのです。
残念ながら、密かに懸念していたことですが、告知されたばかりの東京都議会選挙は、世界中に、わが国の社会力の貧しさ、低俗さを振りまいてしまっているような気がします。
東京都の健全で逞しい成長は、わが国全体のレベルを引き上げてくれるはずで、そのリーダーを選ぶ都知事選挙に大きな関心を持っていましたが、まったくがっかりしてしまいました。
国民一人一人の品格を少しずつ引き上げて社会力を豊かにする手段は簡単ではありませんが、その途上としては、アレも駄目コレも駄目といった、事細かな制限を設ける必要がありそうです。全く残念です。

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