今昔物語 その5
巻第十八 から 巻第二十一 までを収録しています
全体の位置付けは 「本朝付仏法」ですが
巻第十八 と 巻第二十一 は 全文欠損になっています
なお 記載順は 巻第二十一から巻第十八へと逆になっていますが
ご了承下さい
今昔物語 巻第二十一
本巻は欠巻となっています
当初から 全く作成されなかったと考えられています
『 今昔物語 巻第二十 ご案内 』
巻第二十は、全体の中の位置付けとしては、『 本朝付仏法 』です。
因果応報を中心とした仏教説話が中心ですが、物語としても
興味深い物が少なくないと思われます。
『 天狗から僧正に ・ 今昔物語 ( 20 - 1 ) 』
今は昔、
天竺に天狗がいた。
その天狗が、天竺から震旦に渡ってくる途中、海の水の一筋に
「 諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽 」
( ショギョウムジョウ ゼショウメッポウ ショウメツメツイ ジャクメツイラク )
( 涅槃経にある偈。 万物が無常であることは 必然の法則であるが その法則を超越して初めて涅槃に達し 安楽自在の境地を得る )
と鳴ったので、天狗はこれを聞いて、大いに驚き、「海の水が、このように尊く深遠な法文を唱えるはずがない」と怪しく思い、「この水の正体をあばき、何としても妨げてやろう」と思って、水の音を辿って捜していくうちに、震旦まで来たが、なお同じように鳴っている。
そのため、震旦も過ぎ、日本の近くの海まで来たが、なお同じように唱えている。
そこから筑紫の波方(博多)の港を過ぎて、文字(門司)の関まで来て聞くと、さらに高く唱えている。
天狗はいよいよ怪しく思い、さらに捜して行ったが、幾つもの国を過ぎて河尻(淀川の河口にある地名)に至った。
そこから声を追って淀河に入った。さらに声は高くなる。
淀から宇治河に入ると、そこではさらに高く唱えているので、河上に声を追っていくと、近江の湖に入っていったが、ますます高く唱えているので、さらに追っていくと、比叡山の横川(ヨカワ・東塔、西塔と共に比叡山三塔の一つ。)より流れ出ている一筋の河に入っていったが、この法文を唱える声はやかましいほどである。その河の上流を見れば、四天王や諸々の護法童子がいて、この流れを守っていらっしゃる。
天狗はこれを見て驚き、近くに寄ることも出来ず、この様子を不審に思いながら隠れて聞いていたが、何とも怖ろしい。
しばらくすると、[ 欠字。仏たちの名が入るらしい。]中に、それほど高位ではない天童子が近くにおいでになったので、天狗は恐る恐る近寄って、「この水が、かくも尊く深遠な法文を唱えているのは、どういうわけですか」と尋ねると、天童子は、「この河は、比叡山で学問をする多くの僧の厠から出る水の末に当たっています。それで、この水もこのように尊い法文を唱えているのです。それによって、この天童子も護って下さっているのです」と答えた。
天狗はそれを聞いて、「妨げてやろう」と思っていた気持ちはたちまち消え去って、「厠から流れ出る水でさえ、このように深遠なる法文を唱えている。いわんや、この山の僧の尊い有様を思いやるに、とても計り知れない。されば、我もこの山の僧になろう」と誓って、姿を消した。
その後、天狗は、宇多法皇の御子である兵部卿有明親王という人の子となって、その妃の腹に宿って誕生した。
その子は、誓い通りに法師となって、この山の僧となった。その名を明救(ミョウグ・有明親王の五男。)という。
延昌(エンショウ・第十五代天台座主。)僧正の弟子となり、尊い位へと上り僧正にまでなった。浄土寺の僧正といい、また、大豆の僧正(マメノソウジョウ・大豆しか食べなかったという伝承があったらしい。)といった、
となむ語り伝へたりと也。 (最後の部分が少し変わっている。)
☆ ☆ ☆
『 震旦の天狗 ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 20 - 2 ) 』
今は昔、
震旦に強い天宮(天狗)がいた。智羅永寿(チラヨウジュ・伝不詳)という。この者が、わが国に渡ってきた。
その者が、わが国の天狗を尋ねて会い、「わが震旦の国には、とんでもない悪行を働く僧共が数多くいるが、我等の意のままにならない者はいない。そこで、この国にやって来たが、修験の僧共がいると聞いたからには、『その者共に会って、ひとつ力比べをしてやろう』と思うが、どうだろうか」と言った。
わが国の天狗をそれを聞いて、「大変良いことだ」と思って、「この国の徳の高い僧共は、我等の意のままにならない者はいない。懲らしめてやろうと思えば、思うままに出来る。されば、近く懲らしめるべき者共がいるので、お教えしよう。ついておいでなさい」と答えて飛び立つと、その後について震旦の天狗も飛んで行く。
そして、比叡山の大嶽(オオタケ・主峰を指す。)の石の卒塔婆の近くに飛び登ったので、震旦の天狗も道の脇に並んで座った。
そこで、わが国の天狗は、震旦の天狗に、「我はここの人に顔を知られているので、姿を見せるのはまずい。谷の方の藪の中に隠れている。あなたは、老法師の姿になって、ここに居て、通りかかる人を必ず懲らしめてやるといい」と教え置いて、自分は下の方の藪の中に隠れ、横目で様子を窺っていると、震旦の天狗は、いかにも修行を積んだような老法師に化けて、石卒塔婆の側にしゃがみ込んでいる。
その目つきはただならず、怖ろしげなので、「かなりの事を必ずやってくれるぞ」と見えるので、嬉しく思っていた。
しばらくすると、山の上の方から、余慶律師(ヨキョウリッシ・後に第二十代天台座主に上る。律師は僧正、僧都に次ぐ階位。)という人が、腰輿(タゴシ・手で腰の高さに支えて運ぶ乗り物。)に乗って、京の町に下ろうとしていた。
この人は、ただ今名僧との評判が高いので、「この者をどのように懲らしめるのだろう」と思うと、大変嬉しくなっていた。
やがて、卒塔婆の近くを過ぎようとしたが、「何かやるぞ」と思って、あの老法師の方を見ると、その姿がなく、律師もごく平然と多くの弟子共を引き連れて下っていく。
わが国の天狗は不審に思い、「どうしていなくなったのだろう」と思って、震旦の天狗を捜してみると、南の谷に尻を逆さまにして隠れていた。わが国の天狗は近寄って、「どうして隠れているのですか」と尋ねると、震旦の天狗は、「今すれ違った僧は誰なのか」と逆に尋ねる。
わが国の天狗は、「あれは、ただ今評判の験者、余慶律師という人です。山の千寿院から内裏の御修法を行うために下っているのです。貴い僧なので、『必ず恥をかかせてやろう』と思っていましたのに、口惜しくも見逃してしまいましたなぁ」と言うと、震旦の天狗は、「そう、その事ですよ。『人品尊げに見えたので、この者のことだろう』と嬉しく思って、『飛び出そう』と思って見たところ、僧の姿は見えずして、腰輿の上に、高く燃え上がっている焔だけが見えたので、『近寄っては火に焼かれるに違いない。この者だけは見逃そう』と思って、そっと隠れたのですよ」と言ったので、わが国の天狗はあざ笑って、「遙々震旦から飛び渡ってきて、この程度の者を引き転がすことが出来ず見過ごすとは、情けないことだ。今度こそ、やってくる人を必ず引き止めて、懲らしめてくれ」と言って、前のように石卒塔婆の側にうずくまった。
そして、わが国の天狗も前のように谷に下りて、藪の中にうずくまって見ていると、また、がやがやと声を挙げて人が下ってくる。飯室(地名。横川六谷の一つ。)の深禅(ジンゼン・正しくは尋禅。後に第十九代天台座主に上る。)権僧正が下って来られたのである。
腰輿の一町(約 109m )ほど前を先払いの髪の縮れた童子が杖を手に持って、老法師姿で腰をかがめている前を(欠字あり、一部推定。)、人払いしながら歩いて行く。
「あの老法師はどうするのかな」と見ていると、その童子は老法師を追い立て打ちすえながら先へ先へと追い立てて行く。老法師は、頭を抱えて逃げだし、とても輿の近くに寄りつくどころでない。一行は、老法師を打ち払って過ぎていった。
その後、わが国の天狗は、震旦の天狗が隠れている所に行き、前のように辱めると、震旦の天狗は、「ずいぶんひどいことを言われますなぁ。あの先払いの童子のとても寄りつけないような気配を感じ、『捕らえられて頭を打ち割られぬ前に』と思って、急いで逃げたのですよ。我の飛ぶ速さは、遙かな震旦から片時の間に飛んでくるほどだが、あの童子の素早さは、我を遙かに勝っている様子なので、争っても無駄だと思って隠れたのですよ」と答えたので、わが国の天狗は、「それでは今一度、今度こそは全力で、やってくる人に襲いかかってくだされ。この国にやって来られて、為す術も無く帰られては、震旦のために面目ないでしょうから」と、繰り返し辱めながら言い聞かせ、自分は本の所に隠れていた。
( 以下 ( 2 ) に続く )
☆ ☆ ☆
『 震旦の天狗 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 20 - 2 ) 』
( ( 1 ) より続く )
さて、しばらくすると、多くの人の声がして、下の方から上ってくる一行がある。
先頭には、赤い袈裟を着た僧が先払いしながらやって来る。
その次には、若い僧が三衣筥(サンエノハコ・三衣を入れる箱。三衣は、僧の個人所有が許された三種の袈裟。)を持ってやって来る。
そして、その次に輿(コシ)に乗ってやって来られる人を見ると、比叡山の座主が登って来られたのである。その座主と申すのは、横川の慈恵大僧正のことである。
「この法師に襲いかかるのだろうか」と思ってみていると、髪を結った小童子が二、三十人ばかり、座主の左右について歩いている。
ところが、あの震旦の天狗が化けた老法師の姿が見えず、前のように隠れている。
すると、その小童子の一人が、「こういう所には、つまらない者が潜んでいて、隙を窺っている事があるので、あちらこちらに散って、よく捜しながら行こう」と言っているのが聞こえ、威勢のよい小童子たちが木の鞭を振るって、道の両側に広がってやってくるので、どうしようもなく、さらに谷の下の方に降りて藪の中に深く隠れた。そして、聞いていると、南の谷の方で、先ほどの小童子の声がして、「ここに様子が怪しい者がいるぞ。こいつを捕らえよ」と言っている。
他の小童子たちが「どうした」と尋ねると、「ここに老法師が隠れているぞ。こいつは只者ではなさそうだ」と言うと、他の小童子は「必ず搦め取れ。逃がすな」と言って走りかかって行った。
「大変だぞ。震旦の天狗が搦め取られたらしい」と伝わってきたが、怖ろしくて、さらに頭を藪の中に差し入れて、うつ伏した。そして、恐る恐る覗いてみると、小童子十人ばかりが、老法師を石卒塔婆の北の方に引きずり出して、打ったり踏んだりしてやっつけている。
老法師は大声で叫んだが、助ける者などいない。
「いったい、何処の老法師だ。申せ、申せ」と言って打つので、老法師は、「私は、震旦からやって来た天狗です。ここを通られるお方を拝見しようとここに控えておりました。最初にお通りになった余慶律師と申す人は、火界の呪(不動明王の呪文)を十分に誦して通られると、輿の上に大きく燃え上がる火が見えましたので、それをどうすることが出来ましょうか。自分が焼けてしまいそうなので、逃げ去りました。
次にやって来られた飯室の僧正は、不動の真言をお読みになられていたので、制多迦童子(セイタカドウジ・不動明王を守護する八大童子の一人。)が鉄の杖を持ち、側に付き従っていたのですから、誰が手向かいできますでしょうか。それで深く隠れてしまったのです。
この度やって来られた座主の御坊は、前々のように、猛々しく早い真言を誦しておらず、ただ止観(摩訶止観の略)という法文を心中に念じただけで登ってこられたので、猛々しさも恐ろしさも感じませんでしたので、深く隠れもせず、近くに寄っていったところ、このように搦め取られ、ひどい目に遭ってしまいました」と答えた。
小童子はこれを聞いて、「重い罪を犯した者ではないようだ。許して追っ払ってやれ」と言うと、小童子たちは皆一足ずつ老法師の腰を踏みつけて行ったので、老法師の腰はひどい状態になった。
座主が過ぎて行かれた後、わが国の天狗は谷の底から這い出して、老法師が腰を踏み折られて伏せっている所に近寄り、「どうでしたか。今度はうまく行きましたか」と尋ねると、「いや、いや、黙られよ。ひどいことを申されるな。我は、あなたを頼りにして、遙かな所まで渡ってきたのですぞ。それなのに、このように待ち受けている間に、ちゃんと教えて下さらず、生き仏のような人たちに立ち向かわせて、このように腰を踏み折られてしまったではないか」と言って泣いている。
わが国の天狗は、「仰せの事、もっともです。とは申せ、『大国の天狗でいらっしゃいますので、小国の人など、思うままに懲らしめることが出来る』と思い、お教えしたのです。それを、このように腰を折ってしまわれたのは、大変お気の毒なことです」と言って、北山の鵜の原という所に連れて行って、湯治により腰を治したうえで、震旦に還してやった。
その湯治している時に、京に住んでいる下人が、北山に木を伐りれに行って帰る途中、鵜の原を通りかかり、湯屋に煙が立っているので、「湯を沸かしているようだ。立ち寄って湯浴みしていこう」と思って、木を湯屋の外に置いて、中に入ってみると、老法師が二人、浴場に下りて湯浴みしている。
一人の僧は腰に湯を掛けさせて横になっている。木こりを見ると、「そこに来たのは誰かな」と尋ねるので、「山から木を伐ってきて帰る途中の者です」と答えた。
ところが、この湯屋の中が大変臭くて(天狗が正体を現わすととても臭い、といういわれがあるらしい。)、そら恐ろしくなり、木こりは頭が痛くなってきたので、湯も浴びずに帰った。
その後、わが国の天狗が人に乗り移ってこの話を語ったのを、この木こりが伝え聞いて、あの日のことを思い合わせ、鵜の原の湯屋において老法師が湯浴みしていた事も思い合わせて、人に語った。
日本の天狗が人に乗り移って語った話を、聞き継いで、
此(カ)く語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆☆
『 仏に化ける ・ 今昔物語 ( 20 - 3 ) 』
今は昔、
延喜の天皇(第六十代醍醐天皇)の御代に、五条の道祖神(サエノカミ)が鎮座されている所に、大きな実のならない柿の木があった。
その柿の木の上に、にわかに仏が出現なさるということがあった。有り難き光を放ち、様々な花などを降らすなどして、極めて貴い有様であったので、京じゅうの上中下の人々が詣でるために集まってきた。
車も止めておくことが出来ず、歩いてくる人となるとその数さえ分からない。このように、参拝に大騒ぎしているうちに、いつしか六日、七日にもなった。
その当時、光の大臣(ヒカルノオトド・源光。仁明天皇の第十一皇子。菅原道真が左遷された後任として右大臣となる。)という人がいた。深草天皇(第五十四代仁明天皇)の御子である。
才能豊かで知識ある御方なので、仏がこのように出現なさることが、とても合点がいかないことだとお思いになった。「本当の仏が、このように、にわかに木の先端に現れるはずがない。これは、天狗などの所作であろう。外道の幻術だとすれば、七日が限界であろう。今日、わしが行って見てやろう」と思われて、お出かけになった。
きちんとした正装をなさり、檳榔毛の車(ビロウゲノクルマ・四位以上の高位者が乗れる高級な牛車。)に乗り、従者も定められたとおりに正装させて、問題の場所に出掛けられた。
多くの人が集まっているのを追い払わせ、牛を車から外し、榻(シジ・車のながえを乗せる台。乗降の時の踏み台にもなる。)を立ててから、車の簾を巻き上げてご覧になると、確かに、木の先端に仏が在(マ)します。金色の光を放ち、空から様々な花を雨のように降らしている。見る限り、まことに貴い有様である。
ところが、大臣は、たいそう怪しいと思っていたので、仏に向かって、まばたきもせず、じっと一時(ヒトトキ・二時間ほど)ばかり見続けていらっしゃると、この仏は、しばらくの間は光を放ち花を降らせなどしていたが、なおも強く見続けられると、遂に堪えきれなくなって、突然大きな糞鵄(クソトビ)となり、翼が折れて、木の上から地面に落ちて[ 欠字。「もがいている様子」らしい ]いた。
多くの人はこれを見て、「不思議な事だ」と唖然としている。子供たちは飛んでいって、その糞鵄を打ち殺してしまった。
大臣は、「思った通りだ。本当の仏がどういうわけで突然木の梢に姿をお見せになるのか。人々がこうした事も分からず、何日も拝んで大騒ぎするなど愚かなことだ」と言って、お帰りになった。
そこで、その場にいた多くの人々は、大臣をお誉め申した。世間の人もこれを聞いて、「大臣は賢いお方だなあ」と言って、お誉め申した、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 天狗を祭る法師 ・ 今昔物語 ( 20 - 4 ) 』
今は昔、
円融院の天皇が長らく御病であられたので、さまざまなご祈祷が行われた。
中でも、御物の怪の仕業だということで、世間で験力があると知られた僧を数を尽くして召して、御加持を行わせたが、まったくその効験がない。
その為、天皇はたいそう恐れていらっしゃったが、ある人が「東大寺の南に高山(カグヤマ・春日山の南腹にある香山のこと。大和三山の香具山とは別。)と言う山があります。その山に、仏道を修行して、長く住んでいる聖人がいます。長年の修行の功績が積もり、野を走る獣を加持の力で止まらせ、空を飛ぶ鳥を加持の力で落すことが出来ます。その聖人を召して、御加持を行わせれば、必ずその効験がございますでしょう」と奏上した。
天皇はこれをお聞きになって、すぐに召し出すよう仰せになり、使者を遣わせて召すと、使者と共に参上した。
その参上する途中、奈良から宇治までは、空から様々な花を降らせながらやって来たので、それを見る人々は、たいそう貴んだ。ところが、宇治から北では、花が降ることがなかったようだ。
やがて、内裏に着くと、御前に召して御加持を行ったが、その後、幾ほどもなくして、御病は掻きぬぐうように平癒なさった。
ところで、以前から御祈祷を勤める高僧たちが多数いた。その人たちによって、五壇の御修法(ゴダンノミシュホウ・悪魔退散などを祈祷する密教修法。)が行われていたが、その中に、広沢の寛朝僧正(カンチョウソウジョウ・宇多天皇の孫に当たる。)が中壇の僧として、当代の高僧と言われる方々と共に行われたが何の効験もなかったのに、この高山の僧が参内して御祈祷を勤めると、たちまち平癒なされたので、「不思議な事だ」と皆が思っていたが、余慶(ヨキョウ・のちに天台座主に上る。)僧正は当時律師であったが、金剛夜叉の壇を受け持っていて、中壇の寛朝僧正に、「私たちは仏に頼み奉って、仏法を修行し、皆長年励んできました。その者たちが心を尽くして、毎日毎日御加持を勤めましたが、全く効験がございませんでした。ところが、あの法師はどういう者なのか、たちまちその効験が現れました。たとえ、その霊験が私たちより勝っているとしても、私たち大勢の力が、彼一人に劣っているとは考えられません。いわんや、いかに優れていても相当の時間をかけて、霊験は現れるはずで、納得できません」と話した。
そこで、御加持を奉仕するついでに、あの法師が座っていた所に行き、皆が心を合わせて渾身の力を込めて一時(ヒトトキ・約二時間)ばかり加持を行った。
あの高山の僧が座っていた所には、几帳を立て廻らせて、その内に座らせていたが、高僧たちが心を尽くして加持すると、あの僧がいた几帳の内側で、何かがバタバタと音を立てるので、「何の音だろう」と皆が思っていると、にわかに犬の糞の臭いが、清涼殿の内いっぱいに広がり、とても臭いので、伺候していた人々は、「これは、いったいどういう事だ」と騒ぎ立てた。
この加持していた高僧たちは、「思った通りだ。これは何かわけがあるぞ」と思って、このように怪しいことがあるので、一段と心を励まして、それぞれが長年の修行の力を頼みとして加持を続けた。
すると、あの法師が、突然几帳の外に仰向け様に投げ出されてきた。
上達部(カンダチメ・上級貴族)や殿上人などはこれを見て、「これは、どういう事だ」と不審に思った。天皇も驚かれる。
法師は、投げつけられ、激しく打ちのめされた後、「お助け下さい。この度だけは、命を助けて下さい。私は、長年高山に住んで、天狗を祭る事を専らとして、『しばらくでも人に貴ばれるようにさせて下さい』と祈ってきましたが、その効験が有り、このように召し出されました。このような目に遭うのは当然でございます。今はすっかり懲りております。どうぞお助け下さい」と、大声で泣き叫んだので、加持していた高僧たちは、「そのようなことであろう」と言って、皆喜んだ。
天皇はこれをお聞きになって、「速やかに捕らえて獄舎に入れよ」とお命じになったが、その後、「すぐに追い払え」との仰せが有り、追い出されると、法師は大喜びで、逃げ出し姿を消した。
これを見ていた人たちは、嘲笑し、また憎んだ。
御病をお治しした時は、仏のように貴ばれたが、追い出される時はまことに悲しそうであった。
されば、このような者を祭る者は、一時は霊験あらたかなようではあるが、結局は化けの皮を剥がされるのだ。
それにしても、このように加持し正体をあばいた高僧たちを、世間の人たちは尊んだのである。
その後、あの法師がどうなったのか、その様子を知る人はいない。あの高山で天狗を祭った所の跡は、今も残っている、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 尼天狗に奪われる ・ 今昔物語 ( 20 - 5 ) 』
今は昔、
仁和寺(ニンナジ・代々法親王が門跡を継承する門跡寺院の筆頭。)に成典(ジョウテン・1044 没)僧正という人がいた。俗姓は藤原氏である。
広沢の寛朝大僧正を師として、真言の密法を学び、長年にわたり修行を怠ることなく積んで、僧正にまで上った人である。
そこで、この人は仁和寺で修行していたが、同じ仁和寺の中の辰巳(東南)の角に、円堂(エンドウ・八角御堂とも称された。)という寺があった。
「その寺には天狗がいる」といって、人々が大変恐れている所である。
ある時、この僧正が夜中に、たった一人でその堂の仏前に座って、秘密の修法を行じていると、堂の戸の隙間から、頭に帽子を被った尼が覗いたので、僧正は、「この夜中に、何処の尼がこのように覗いているのか」と思っていると、尼はすっと入ってきて、僧正が傍らに置いている三衣筥(サンエノハコ・僧が個人所有が許されている三種の衣を入れておく箱。)を取って逃げていくので、僧正がすぐに追いかけていくと、尼は堂の後ろの戸から出て、堂の後ろにある高い槻の木に登っていったので、僧正はその木を見上げて加持を始めると、尼はその加持の力に堪えられず、木の先端から地面に落ちたので、僧正は近寄って、三衣筥を奪い返そうとした。
しばらくは引っ張り合っていたが、僧正が奪い取ると、尼は三衣筥の片端を引き破り、それを取って逃げ去ってしまった。
その尼が登った木は、今もある。その尼のことを尼天狗といっている、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 阿闍梨を誘う女 ・ 今昔物語 ( 20 - 6 ) 』
今は昔、
京の東山に仏眼寺(ブツゲンジ・不詳。京都市左京区にあったともされる。)という所がある。
そこに仁照阿闍梨(ニンショウ アジャリ・伝不詳。同名の人はいるが別人らしい。阿闍梨は高僧の敬称。階位として用いられることもある。)という人が住んでいた。極めて貴い僧である。
長年その寺で修行し、寺から出ることもなく過ごしていたが、ある時、思いがけず、七条辺りにある金箔を打つ職人の妻で、年が三十余りから四十ばかりの女が、この阿闍梨の僧房にやって来た。餌袋(エブクロ・食糧を入れる袋)に干飯(ホシイイ)を入れて、堅い塩(精製していない塩が堅くなった物らしい。)、和布(ニギメ・わかめの古称。)などを持ってきて、阿闍梨に差し出して、「お噂によりますと、『たいそう貴いお方』と聞きまして、お仕えしたいと思いまして参りました。御帷(カタビラ・一重の衣服。)などご用意することはお安いことでございます」と、言葉巧みに言って返っていった。
その後、阿闍梨は、「何処の奴が、あのようなことを言ってきたのか」と怪しく思っていると、二十日ばかり経って、また、この前の女がやって来た。また、餌袋に白米を入れて、折櫃(オリビツ・薄い板で作ったお盆状の入れ物。)に餅や然るべき果物などを入れて、下女の頭に乗せて持ってきた。
このようにして、様々な物を持ってくるのが数度に及んだので、阿闍梨は、「本当に私を尊ぶ気持ちがあるので、このように何度もやって来るに違いない」と、ありがたく思っていると、七月頃、この女は瓜や桃などを持たせてやって来た。
ちょうどその時、この僧房の法師たちは京に出掛けていて誰もいなかった。
阿闍梨がただ一人いるのを見て、この女は、「この御房には、何方もいらっしゃらないのですか。人の気配がありませんね」と言う。阿闍梨は、「いつもは一人二人いる法師たちは、用事があって、京に行っているのだよ。そのうち帰ってくるだろう」と答えた。
女は、「ちょうど良い折に参りましたわ。実は、申し上げたいことがございまして、これまで何度もお伺いいたしましたが、いつも何方かがいらっしゃいましたので、申し上げることが出来ませんでした。折り入って申し上げることがございます」と言って、人気のない所に呼び出した。
阿闍梨は、「何事なのか」と思って、近寄って聞くと、この女は阿闍梨の手を捕らえて、「長年の間、心からお慕いしておりました。どうぞ、わたしをお助け下さい」と言って、どんどん体を押しつけてくるので、阿闍梨は驚いて、「何をするのだ、何をするのだ」と言って、押しのけようとしたが、女は、「お助け下さい」と言って、ひたすら抱きついてくるので、阿闍梨は困ってしまい、「止めて下され。よく分かりました。言われることをお聞きしよう。容易いことです。ただ、仏に申し上げない前には駄目だ。仏に申し上げた後に」と言って、立ち上がって行こうとすると、女は、「逃げようとしているのだ」と思って、阿闍梨の手を捕らえたまま、持仏堂の方へ連れて行った。
阿闍梨は仏の御前に行き、「思いがけず、私は魔縁(マエン・魔物)に取り付かれました。不動尊、どうか私を助け給え」と言って、念珠を砕けるほどに押しもみ、額を板敷に当て、板敷を打ち破るばかりに額を打ち付けて礼拝した。
すると、女は二間ばかり投げ飛ばされ、打ち倒された。二つの腕をさし上げて、仏の呪縛にかかって、まるで独楽が回るようにくるくる回った。しばらくすると、天にまで届くような大きな声で叫んだ。
その間、阿闍梨は念珠を押しもみ、なお仏の御前にうつ伏していた。
女は、四、五度ばかり叫んで、頭を柱に当てて、頭も砕けんばかりに四、五十度も打ち付けた。そして、「お助け下さい。お助け下さい」と叫んだ。
そこで、阿闍梨は頭を持ち上げて起き上がり、女に向かって、「これはどうしたことだ。何が何だか分からない」と言った。
女は、「もはや、隠しておくことでもありません。わたしは、東山の大白河に行き来している天狗でございます。ところが、この御房の上を飛んで行き来していますうちに、あなたのご修行がたゆむことなく、鈴の音がたいそう貴く聞こえておりましたので、『この方を、何としても堕落させよう』と思いまして、この一年ばかり、この女に乗り移って、たくらんでいたのです。ところが、聖人の霊験が貴くて、このように搦め取られてしまいました。長年妬ましく思っておりましたが、今はすっかり懲りております。速やかにお許し下さい。すっかり翼を打ち折られ、堪え難いほど苦しく、どうすることも出来ません。どうぞお助け下さい」と、泣く泣く言ったので、阿闍梨は仏に向かい奉り、泣く泣く礼拝して、女を解き放してやった。
すると、女は心が醒めて、正気を取り戻し、髪をなでつけなどして、何も言うことなく、腰を引きずるようにして出て行ってしまった。
それ以後、女はまったく現れなかった。
阿闍梨も、これから後は、いっそう慎んで、ますますたゆむことなく修行を続けた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆