雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

慢心を戒める ・ 今昔物語 ( 20 - 39 )

2024-07-10 07:59:01 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 慢心を戒める ・ 今昔物語 ( 20 - 39 ) 』


今は昔、
清滝河の奥に庵を造って、長年修行を続けている僧がいた。
水瓶(スイビョウ)に水を入れようと思う時には、水瓶を飛ばして、この河の水を汲ませた。
このようにして年月を過ごしていたので、「これほどの修行者は他にはおるまい」と、時々自ら思う時もあった。そのような慢心を抱くことは悪いという事も、知恵がないため知らなかった。

ところが、時々、その庵の川上の方から水瓶が飛んで来て水を汲んでいく。
僧はこれを見て、「如何なる者が、この川上にいて、このように水を汲むのか」と、ねたましく思って、「どんな奴か見てやろう」という気になった。
そう思っていると、いつもの水瓶が飛んで来て水を汲んでいく。そこで、僧は水瓶が返っていく方向を目指して、あとをつけていくと、河に沿って上流に五、六十町ばかり登った。見ると、ぽつんと庵がある。
近くに寄って見ると、間口三間ほどの庵である。持仏堂や寝所などがある。庵の様子はたいそう貴気である。庵の前に橘の木がある。その下に踏みつけられた行道(仏像の周辺を回り歩いて、仏を礼拝する作法。)の跡がある。閼伽棚(アカダナ・仏前に供える水や花を置く棚。)の下に、花柄がたくさん積もっている。庵の屋根にも空地にも苔が隙間なく生えていて、長い年月を経ているらしく神々しいことこの上ない。
そっと近寄り、窓のある所からのぞいてみると、文机の上に法文などが散らばっていて、経典も置かれている。不断香(フダンコウ・常に焚きしめている香。)の香りが庵の内に満ちていて、たいそう芳しい。
さらによく見ると、年が七十ばかりで、たいそう貴気な僧が、独古(ドッコ・法具の一つ。もともとは古代インドの武器。)を握り、脇息に寄り掛かって寝入っている。

やって来た僧は、その姿を見て、「あれはどういう人だろう。試してやろう」と思って、静かに近寄り、そっと火界の呪(カカイノシュ・不動明王の陀羅尼。)を唱えて加持すると、庵の聖人は、眠りながら散杖(サンジョウ・加持祈祷の際に香水を散らす棒状の仏具。)を取って、香水(コウズイ・仏に供える香気ある清浄な水。)に差し浸して四方に濯いだ。その香水が、やって来た僧の上に濯ぎ懸かったと思うと同時に、衣に火が付き、どんどん燃え上がった。
たまらず、やって来た僧は大声を挙げて慌て騒ぐ。どんどん燃え上がるので、庭の中を転び回った。

その時、庵の聖人は眠りから覚めて、目を見開いてその様子を見ると、また散杖を香水に差し浸して、この焼け惑っている僧の頭に濯いだ。
すると、たちまち火が消えたので、庵の聖人はやって来た僧のそばにより、「いかなる御坊ですかな。こんなひどい目に遭われているのは」と言った。
やって来た僧は、「長年、吉野河(清滝河が正しい。)の辺に庵室を造って修行をしている修行者の聖人でございます。ところが、川上からいつも水瓶が飛んで来て水を汲むのを見て、怪しく思って、『どのような人の水瓶だろう』と後を追って来ましたところ、御坊がいらっしゃるのを見て、『お試ししてみよう』と思って、加持を致しましたところ、このように大変な目に遭いましたので、返す返すも貴く、畏れ多いお方と存じ上げます。今は、御坊の御弟子となってお仕えしたいと思っています」と答えた。
庵の聖人は、「たいへん良いことですな」と言ったが、視線は遠くを見ていて、この僧のことは気にもかけていない様子であった。
やって来た僧は、「わしは知恵がないのに、慢心を抱いているのを、仏が『憎い』とお思いになって、このように勝れた聖人に会わせて下さったのだ」と、悔い悲しんで、もとの庵に返っていった。

されば、人は、「自分は賢い」と思って、慢心するようなことがあってはならない、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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仏罰を受けた沙弥 ・ 今昔物語 ( 20 - 38 )

2024-07-07 08:00:13 | 今昔物語拾い読み ・ その5

    『 仏罰を受けた沙弥 ・ 今昔物語 ( 20 - 38 ) 』


今は昔、
石川の沙弥という者がいた。
幼いときに剃髪したが、受戒していないので、法名は無い。ただ、世間では石川の沙弥と呼ばれていた。
そのわけは、その沙弥の妻は、河内国の石川郡の人だったので、沙弥がそこに住んでいたからである。
姿は僧ではあるが、心は盗賊のようであった。ある時には、「塔を造る」と言って、人々をだまして財宝を寄進させて、それを妻に与え、魚や鳥を買ってこさせて食べるのを日常のこととしていた。
また、ある時には、摂津国豊島郡に住んでいて、舂米寺(ツキヨネデラ・所在不詳。)の塔の柱を切って薪(タキギ)にした。
世間には、仏法を破り犯す人は多いが、この人に過ぎる者などいない。

ところが、この沙弥が、嶋下郡味木の里(大阪府摂津市辺りか?)にやってきて、突然病気にかかった。「熱い、熱い」と大声で叫びながら、地面から三尺ばかりも踊り上がった。
その辺りの人が集まってきて、これを見て、沙弥に訊ねた。「あなたは、なんでそんなに叫んでいるのか」と。沙弥は、「地獄の火がここにやってきて、わしの体を焼いている。だから叫んでいるのだ」と答えた。だが、その後すぐに死んでしまった。

思うに、沙弥はどれほどの苦しみを受けたのであろう。
「哀れなことだ」と、見聞きした人は、みな悲しんだ。勝手気ままに罪を造る者は、明らかにこのような報いを受けるのである。
されば、人はこの事を知って、罪を造ってはならないのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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財宝に目がくらんだ父母 ・ 今昔物語 ( 20 - 37 )

2024-07-04 07:59:11 | 今昔物語拾い読み ・ その5

   『 財宝に目がくらんだ父母 ・ 今昔物語 ( 20 - 37 ) 』


今は昔、
大和国十市郡庵知村(アンチノムラ・現在の天理市の一部らしい。)の東の方に住んでいる人がいた。家はたいへん豊かで、姓は鏡造(カガミノツクリ・氏族の一つ。鏡作造とも。)といった。娘が一人いたが、容姿端麗で、とてもこのような田舎人の娘とは思えなかった。

まだ結婚していなかったので、その辺りの然るべき家の男たちが、挙って求婚した。しかし、何れも固く断り続けていた。
そのうち年月が過ぎたが、一人の男が特に強く求婚したが、やはり、これも固辞していたが、その男は、多くの財宝を車三台に積んで送ってきた。
娘の父母はそれを見ると、たちまち財宝に目がくらんで、娘を嫁がせる気になった。
そのため、父母はその男の申し出を受け入れた。そこで、吉日を定めて、その男は婿入りしてきた。男はすぐに寝所に入り、娘と結ばれた。

ところが、夜中頃、娘が大きな声で、「痛い、痛い」と三度ばかり叫んだ。
父母はこの声を聞いたが、顔を見合わせて、「娘は初めてのことなので、結ばれて痛がっているのだ」と言って、そのまま寝てしまった。
夜が明けた後、娘がなかなか起きてこないので、母が娘の部屋に行って大声で呼んだが、何の返事もないので、不審に思って近寄って見ると、娘の頭と一本の指だけがあって、体の部分が無い。また、多くの血が流れていた。

父母はこれを見て、泣き悲しむこと限りなかった。
すぐに、あの男が送ってきた財宝を見てみると、多くの馬や牛の骨であった。財宝を積んできた三台の車を見ると、カワハジカミ(山椒の一種とも。)の木であった。
「これは、鬼が人に化けてやってきて喰い殺したのか、あるいは、神がお怒りになって、さらにたたりをなさったのか」と思い惑って、嘆き悲しんでいたが、その辺りに住んでいる人も、これを聞いて集まってきて、この様子を見て怪しまない者はいなかった。
その後、娘のために仏事を営み、その娘の頭を箱に入れて、初七日に当たる日に、仏前に置いて斉会(サイエ・僧尼に食事を提供する法会。)を行った。

これを思うに、人は財宝を欲しがり、それに目をくらまされてはならない。この事は、財宝に目をくらまされたために起ったことだと、父母は悔い悲しんだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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強欲な国守 ・ 今昔物語 ( 20 - 36 ) 

2024-07-01 08:00:06 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 強欲な国守 ・ 今昔物語 ( 20 - 36 ) 』


今は昔、
河内の国讃良郡(サララノコオリ)に郡司の男がいた。三宝(仏法僧)を信じて、ひたすら後世のことを恐れていたので、仏の姿を写し奉り、経を書写し奉ったが、長い間供養しないでいたが、晩年となり、一生の貯えを投げ棄てて、吉日を選んで、供養を営むことにした。
そこで、比叡山の[ 欠字。人名が入るが不詳。]阿闍梨という人を、わざわざ招いて講師とした。

やがて、その日となり、法会が始まると、国内の上下の人が聴聞のためにやってきて、市を成すように居並んだ。
壇越(ダンエツ・施主。ここでは郡司のこと。)は高座の近くで合掌してうずくまって坐っている。
講師は声を張り上げて、表白文(ヒョウハクブン・法会の趣旨を記した文。)を読み上げようとした時、この居並んでいる聴聞の者たちが、突然縁側から慌ててばらばらと飛び降りて騒ぎ始めた。
壇越は、「何事だ」と訊ねたが、誰も答えない。講師も[ 欠字。「あきれ」か。]て、しばらく何も言わずにいたが、ほどなく、国守の[ 欠字。人名が入るが不詳。]という人が姿を見せた。国守はたいそう高齢なので、郎等共に抱かれて馬から下ろされ、背負われてやってきた。

縁側に上がり、中央部の部屋に坐ると、「ここで『尊い法会が行われる』と聞いたので、『結縁(ケチエン・仏縁を得て往生の頼りにすること。)しよう』と思ってやってきたのだ」と言って、手を摺り合わせて、講師に向かって、「早く表白を申し上げて下さい」と勧めたので、講師は、「物の道理など分らない田舎者ばかりなので、闇夜などのように(何を説いても張り合いのない例え。)思っていたが、この国守は高齢であり、昔の高僧たちの説法の様子などもよく聞き集めているだろう。また、学才も当代一流の者なのだから、然るべき因縁や譬喩(ヒユ)なども聞いて知っているだろう。されば、この者が聞くからには、知識の限りを尽くして聞かせてやろう」と思って、声を張り上げて、扇を開いて使い、如意(ニョイ・法具の一つ。)を高々と振り上げて、臂をぐっと伸ばし、今まさに説法を始めようとした。

すると、その時、国守は、「この翁は、参拝に来てすっかり疲れてしまった。結縁さえ出来れば十分だ。退出して休息しよう」と言うと、講師のために設けた控え室の方に立って行った。そのため、壇越も説教を聞き終わることなく国守のもとに行った。
講師は、国守も説教を聞くことなく席を立ち、壇越も行ってしまったので、あきれるばかりであった。
「せめて、壇越が戻ってきてから説教を終らせよう」と思って、どうということもないつまらない話をぐだぐだと続けていた。前もって段取りしていた事がみな狂ってしまったので、説教の良し悪しが分る者もいないままに、適当に話していたのである。
それでも、「どれも法文なのだから、功徳にはなるだろう」と思いながらも、情けないことは例えようもない。

国守の前には、食膳など調えられていたので、国守は「まことに結構だ。腹も空いたので頂戴しよう」と言って、酒も二、三杯ばかり呑んだ。そして、壇越に、「この講師は、当代の尊い名僧であられる。布施もいい加減な物であれば恥をかく。そのようなことは、田舎者では分るまい。どのように準備しているのか、出してみよ。包み方も調べてやろう。また、布施はお供の僧たちにも取らせよ」と言ったので壇越は喜び、説教も聞かず罪を得るだろうと心配していたが、守がこう言ってくれたので、嬉しくなり、布施を取り出して、三包み守の前に置いた。
一包みには綾織りの絹三十疋(一疋は反物二反分。)、一包みには八丈絹三十疋、一包みには普通の絹五十疋、いずれもきれいな絹で包んでいた。

守はこれを見て、「とても良く準備されている。そなたは、なかなかの物知りだ。それに、大変な財産家だから、このように準備することが出来たのだろう。ところで、そなたには納めねばならない租税がたくさんある。これらは、その代わりとして我がもらおう。講師には、また取り出して、これと同じように、数が劣らぬように急いで包んで、差し上げるのだ。決して、手を抜いてはならぬぞ」と言うと、「これ、こちらに来て、これを持っていけ」と命じると、郎等二人がやってきて、三包み全部を抱きかかえて持っていった。
そして、守は馬を引き出させ、這い乗って、行ってしまったので、壇越は目も口も開けて、あきれかえって物も言えなかった。しばらくすると、目から大きな涙を雨のように落して、泣くこと限りなかった。そのまま泣き崩れて伏してしまったので、子供や親類などは気の毒がり、それぞれ走り回って、粗末な絹を三十疋ばかり探し集めて、講師への布施とした。

その時、壇越は高座にいる講師のもとに行き、「あのような貧道(ヒンドウ・乞食野郎などと守をののしった言葉。)に功徳を妨げられ、悲しいことです」と言って、大声で泣き叫んだので、講師は説教する気も無くなって、高座から降りて、「どうなさったのです」と訊ねると、泣き入って答えようとしない。
壇越の息子がやってきて、「このような事がございました」と話すと、講師は、「何も嘆かれることはありませんよ。私は布施が無くても、決して不満には思いません。あなたは、すでにご高齢とお見受けします。しかも、貧しい身でありながら長年の貯えをこの法会の費用に充てて、ようやく願いを遂げようとしているところに、突然大悪魔が現れて妨げたというのは、私の功徳の至らぬ結果でもあります。そうだとはいえ、私としては、道心を起こして、真剣に経文を講釈させていただきましたので、『後世の事は、必ず助かる』とお思い下さい。講師の説教が疎かだったので悪魔に妨げられたのでしょう。私への布施の手違いなど、そのようなお話しをお聞きした上は、いただいたのと同じことです。決してお嘆きになることなどありません」と言ったので、壇越は、「そのように仰せ下さることは、嬉しいことでございます」と泣く泣く言った。

講師は、心の内では、「あの国守は、大変な罪を造ったものだ」と思い、京に上って、憎さのあまり、この事を言い広めた。
その後、幾らも経たないうちに、守は死んでしまった。

これを思うに、守は、死後にどれほどの罪を受けるのであろうか。
人は、決して見る物に心を奪われて、このように仏物を盗用してはならない、
となむ語り伝へたるとや。

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法会を台無しにした僧 ・ 今昔物語 ( 20 - 35 )

2024-06-28 08:00:48 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 法会を台無しにした僧 ・ 今昔物語 ( 20 - 35 ) 』


今は昔、
比叡山の東塔に心懐(シンカイ・伝不詳)という僧がいた。
この山で法文を学んでいたが、年も若く、さしたる才能もなかったので、このまま比叡山に住みつくことも出来ないでいたところ、その頃、美濃守[ 欠字。氏名が入るが不詳。]と言う人がいたが、その人に付いて美濃国に行くことになった。美濃守の北の方の乳母が、この僧を養子にしたのである。
そこで、美濃守もその関係で、この僧を何かにつけて引き立てた。そのお陰で、その国の人々は、この僧を一の供奉と名付けて、たいそう敬意を払うようになった。

ある時、その国に疫病が大流行して、病死する人が多く出た。
国の人たちはこれを嘆いて、守が上京中に申上して、国の人たち皆が心を一つにして、南宮(美濃国
にあった神社らしい。)と申す社の前で、百座の仁王講(仁王経を百座に渡って講説し、鎮護国家や厄除けを祈願する法会。)を行うことになった。経に説かれている通りに、力を尽くして、荘厳な大法会の準備をした。
必ずやその効験があるものと、国の人は皆頼りにして、一人としてこの法会に奉仕しない者はいなかった。大きな幡などを懸け並べて、千の灯明をかかげて、音楽を奏した。

そして、その法会の総講師には懐国供奉(カイコクグブ)という人を招請した。その法師は、筑前守源道成朝臣(道済が正しい。1019 年没。光孝源氏。中古三十六歌仙の一人。)の弟である。学僧としても人に勝れ、説教も上手であった。また、兄に似て、和歌も巧みに詠み、話術も巧みであったので、多くの俗人たちがこの人を親しい知人として遊び楽しんだので、世間に知られた有名な僧であった。
ところが、後一条天皇の御読経衆として長年伺候していたが、天皇が崩御なさると、世情は大きく変化して、頼みとする所もなくなり、世の無常が身にしみて、「自分も老いてしまった。頼みとする縁もなく、阿闍梨になれそうもなく、頼み奉っていた帝もお亡くなりになってしまった。もう、この世にあっても何があるというのか」と思い込み、たちまち道心を起こして、美濃国へ行き、尊い山寺に籠居していたのである。
こういう人なので、「わざわざ講師にお迎えするのだから、ぜひとも、こういうお方をお招きすべきだ。それに、国内にいらっしゃるとは、大変好都合だ」と思って、招請したのである。

そもそも、このお方は比叡山においても尊いお方であった。然るべき方々が学僧として比叡山にいると言うことだ。
そこで、「まずはご意向をお聞きしよう」ということで、この法会の講師にお招きしたい旨を内々に伺うと、供奉(懐国)は、「お聞きすれば、国を挙げての祈祷だと言うことです。私はこの国を頼って、ここに住んでおります。どうして、疎かに思いましょうか。されば、必ずご参加させていただきます」と言った。

やがて、その日になって、いよいよ法会が始まると、供奉は出て行って、僧房の控え室で法服をきちんと調えて控えていると、輿を担ぎ、天蓋(テンガイ・長柄の大傘)を捧げ、楽人は音楽を奏しながら、整然と並んで迎えに来た。
講師である供奉は香炉を取り、付き人が輿に乗せると、その上に天蓋を差し掛けて、供奉を迎えて高座に登らせた。その他の講師たち百人も皆高座に登った。
百の仏像、百の菩薩像、百の羅漢像、これらを皆立派に描き奉り、懸け並べている。様々な造花を瓶にさし、色とりどりのお供え物も美しく盛り並べている。

そして、総講師は仏に法会の趣旨を申し上げるために、仏を見奉っていると、あの一供奉(イチノグブ・心懐のこと。)が甲の袈裟(袈裟の一種。高位の僧が着用。)を着て、袴のくくりを上げて、長刀(ナギナタ)をひっさげた恐ろしげな様相の法師を七、八人ばかり引き連れて、高座の後ろにやってきて、三間ばかり離れて立って、両腕を組んで脇を上げて扇を高々と使い、声を怒らせて言った。
「そこの講師の御坊、比叡山においては尊い学僧として遠くから拝見しておったが、この国においては、守殿がこの我こそをこの国の第一の法師として重用なさっているのだ。他国は知らず、この国の内においては、上下を問わず、功徳を営む法会の講師には、この国の一供奉を必ず招請することになっている。御坊がいかに尊くおわしても、賤しい我を招請すべきなのに、この我を
捨て置いて、この御坊を招請するのは、守殿をひどく侮ることにならないか。今日、法会がうまく行かないとしても、そなたに講師をさせるわけにはいかぬ。気の毒なことだがな」と。
さらに、「法師共、こちらへ来い。この総講師の御坊が坐っている高座をひっくり返せ」と言ったので、すぐに法師たちが駆け寄って、ひっくり返そうとしたので、講師は転がるように飛び降りたが、背丈が低いので真っ逆さまに倒れた。
お供の僧たちが抱きかかえ合いながら高座の隙間から連れて逃げたので、その後で、一供奉が代わりに飛び登って、怒りの様相で講師の作法などを行った。

その他の講師たちは、何が何だか分らない心地で、仏事を行うこともなく、法会は滅茶苦茶になってしまった。
国の者たちも、まだ一供奉に会ったことのない者たちは、「関わり合いになっては大変だ」と思って、後ろの方から皆逃げて行ってしまったので、人は少なくなってしまった。
そのため、法会はすぐ終ってしまい、総講師のために準備していた布施などは、全部一供奉に与えた。
最後まで残っていた国の人たちのぼんやりとした表情は、まことに情けなさそうであった。

その後、いつしか国司の任期も終ったので、一供奉も京に上った。
守は、二、三年ばかりして亡くなったので、一供奉は頼る所が無くなって、極めて生活が厳しくなった。そのうち、白はだけ(白なまず。皮膚病の一種。)という病にかかり、親子の縁を結んでいた乳母も汚がって寄せ付けないので、行く所もなくなり、清水や坂本の庵に行って住んでいた。しかし、そこでも、落ちぶれた者たちからも嫌われ、三月ばかりして死んでしまった。

これは他でもない、厳粛な法会を妨げ、賤しい身でありながら尊い僧を嫉妬した為に、現世において明らかな報いを受けたのである。
されば、人はこの事を知って、決して嫉妬の心を起こしてはならない。嫉妬は、まさに天道がお憎みになることである、
と語れり伝へたりとや。

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夢のお告げを守らぬ報い ・ 今昔物語 ( 20 - 34 )

2024-06-25 08:01:11 | 今昔物語拾い読み ・ その5

    『 夢のお告げを守らぬ報い ・ 今昔物語 ( 20 - 34 ) 』


今は昔、
上津出雲寺(カムツイヅモデラ・京都市上京区にあった寺。)という寺があった。建立されて以来長い年月が過ぎ、まさに倒壊寸前であるが、修理をしようとする人は誰もいなかった。

この寺は、伝教大師(最澄)が震旦(シンダン・中国)において、わが国で達磨宗(菩提達磨を宗祖とする禅宗の別称。)を起こすのに良い場所を選ぼうと手紙を寄こしたので、この寺の場所を絵に描いて、「高尾、比良、上津出雲寺の地、この三つの場所の何れかが良いでしょう」と伝えた。
すると、「この上津出雲寺の地は、特に優れて良い土地であるが、寺に住む僧が戒律を守っていない」と返事があり、取り止めになった所である。
尊い所であるのに、どういうわけか、このように破壊されてしまっているのである。

ところで、この寺の別当(事務を統括する役僧)は、妻子を持つ僧が代々後を継いできていたが、近年、その別当に浄覚(ジョウガク・伝不詳)という僧がいた。この者は前の別当の子である。
ある時、浄覚の夢に、死んだ父の別当が、たいそう老いぼれて、杖を突いて現れて、「我は仏の物を勝手に使ってしまった罪により、大きさ三尺ばかりの鯰(ナマズ)の身となって、この寺の瓦の下(屋根裏のことらしい)にいる。どこに行くことも出来ず、水も少なく、狭くて暗い所で、とても苦しく辛い思いをしている。そのうえ、明後日の未時(ヒツジノトキ・午後二時頃)に大風が吹いてこの寺は倒れようとしている。そして、寺が倒れると、我は地面に放り出されて這って行くうちに、子供らが我を見つけて打ち殺そうとするだろう。お前は、その鯰を子供たちに打たせないようにして、桂河に連れて行って放してくれ。そうすれば、我は大水の中に入り、広々として楽しく過ごせるだろう」と告げた、ところで夢から覚めた。
その後、浄覚は妻にこの夢のことを話すと、「それは、いったいどういう夢なのでしょうねぇ」と言ったが、そのままになった。

その日になって、午時(ウマノトキ・正午頃)の頃になると、一天にわかにかき曇り、激しく風が吹き始めた。木を折り倒し家を壊す。
人々は風の吹きつけた跡を繕ったが、風はますます強くなり、村里の人家を皆吹き倒し、野山の木も草もことごとく折れて倒れた。
そして、未時の頃になるとこの寺が吹き倒された。柱が折れ、棟が崩れて倒れてしまったので、屋根裏の杉の中に長年水たまりが出来ていて、大きな魚がたくさんいたが庭に落ちてしまったので、そのあたりの者どもが桶を下げて、大騒ぎして拾い集めていたが、その中に三尺ばかりの鯰が這い回っていた。まことに、夢の通りであった。

ところが、この浄覚は慳貪邪見(ケンドンジャケン・けちで欲が深く、よこしまであること。)の心が深い男だったので、夢のお告げの事など思いもかけず、たちまち魚が大きく太っているのに心を奪われ、[ 欠字あるが不詳。]長い金属製の杖で魚の頭を突き立て、長男の子供を呼んで、「これを捕まえろ」と言ったが、魚が大きくて捕らえることが出来ないので、草を刈るときに使う鎌という物で、鰓(エラ)のところを掻き切り、蔦を通して、他の魚といっしょに桶に入れ、女どもに頭に載せて家に持ち帰った。
すると、妻はそれを見て、「この鯰は、あなたの夢に現れた鯰に違いありませんよ。どうして殺したのですか」と言った。
浄覚は、「他所の子供らに殺されるのも同じ事だ。なに、構わない。儂が捕らえて、他人を交えることなく、家の子供らと十分に食べてこそ、亡き別当はお喜びになるだろう」と言って、ぶつぶつと切り、鍋に入れて煮て、満腹するまで食った。

そして、浄覚は、「おかしな事に、どういうわけか、他の鯰より格別に味が良い。亡き別当の肉だから味が良いのだろう。この汁を飲んでみよ」と妻に言って、うまそうに食っているうちに、大きな骨が浄覚の喉に突き立ち、「えふ、えふ」と吐き出そうと悶えたが、骨を取り出すことが出来ず、遂に死んでしまった。そのため、妻は気味悪がって、この鯰を食わなかった。

これは他でもない。夢のお告げを信じなかったために、その日のうちにたちまち報いを受けたのである。思うに、どのような悪趣(悪道と同じ。地獄などを指す。)に堕ちて、無量の苦しみを受けるのであろうか。
これを聞く人は皆、浄覚を謗り憎んだ、
となむ語り伝へたるとや。

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親の心子知らず ・ 今昔物語 ( 20 - 33 )

2024-06-22 08:18:06 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 親の心子知らず ・ 今昔物語 ( 20 - 33 ) 』


今は昔、
武蔵国多磨郡鴨の郷(所在地不詳)に、吉志火丸(キシノヒマロ)という者がいた。その母は、クサカベノマトジ(日下部真眉か?)である。

聖武天皇の御代に、火丸は筑前の守[ 欠字。人名が入るが不詳。ただし、このあたり原話から誤訳しているらしい。]という人について、筑前国に行き、三年を過ごしたが、その母も火丸について行ったので、その国で母を養っていた。
火丸の妻は本国に残って留守宅を守っていたが、火丸は妻が恋しくなり、「自分は妻のもとを離れて久しく会っていない。しかし、許可が下りないので本国へ行くことが出来ない。されば、この母を殺して、その服喪の期間に許可を得て本国に行き、妻とともに過ごそう」と考えた。

この母は、慈悲の心があり、常に善行積んでいた。
ある時、火丸は母に、「この東の方角の山の中に、七日の間法華経を講ずる所があります。行って聴聞なさい」とすすめた。
母はこれを聞いて、「それは私が願っている所です。早速に行かせていただきます」と言って、信仰心を起こし、湯を浴び身を清めて、火丸と共に出掛け、遙か遠くまで出掛けたが、仏事を営むような山寺は見当たらなかった。

やがて、人里を遙かに離れた所まで来ると、火丸は母を睨みつけ、恐ろしげな顔つきになった。
母はその顔を見て、「お前は、どうしてそのように恐い顔をしているのですか。もしかすると、鬼でも乗り移ったのですか」と言った。
すると、火丸は刀を抜いて母の首を切ろうとしたので、母は、子の足もとにひざまずいて言った。「人が樹を植えるのは、果実を得たり、その木陰で休むためです。子を育てるのは、子の力によって養ってもらうためです。それなのに、どうしてわたしの子は思いと違って、わたしを殺そうとするのですか」と言った。
火丸は、母の言葉を聞いても思い止まろうとせず、なおも殺そうとするので、母は、「これ、しばらく待ちなさい。わたしは言い残しておくことがあります」と言うと、着ている着物を脱ぐと、三つに分けて置き、火丸に「この一つを嫡男であるお前にあげます」と言い、「もう一つは、わたしの次男であるお前の弟に渡して下さい。そしてもう一つは、末の子の弟に渡して下さい」と遺言したが、火丸はなおも刀で以て母の首を切ろうとした。

その時、突然地面が裂けて、火丸はその穴に落ち込んだ。
母はそれを見ると、火丸の髪を捕まえて、天を仰いで泣く泣く言った。「わたしの子は、鬼に取り付かれたのです。これがこの子の本心ではありません。どうか天道様、この子の罪をお許し下さい」と。
しかし、いくら叫んでも、火丸は穴に落ちて行ってしまった。母が捕らえていた髪は抜けて、母の手に握られたまま残った。 
母は、その髪を持って、泣く泣く家に帰り、子のために法事を営み、その髪を箱に入れて仏前に置き、謹んで諷誦(フジュ・経文などを声を出して読誦すること。)をしてもらった。母は慈悲の心が深いので、自分を殺そうとした子を哀れんで、その子のために善根を積んだのである。

これでよく分ることは、不幸の罪を天道は明らかに憎まれるのである。世の人はこの事を知って、親を殺すようなことはあるまいが、ひたすら心から父母に孝養を尽くし、決して不幸をしてはならない、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆




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親不孝の天罰 ・ 今昔物語 ( 20 - 32 )

2024-06-19 08:13:03 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 親不孝の天罰 ・ 今昔物語 ( 20 - 32 ) 』


今は昔、
古京(コキョウ・藤原京、飛鳥京を指す。)の時に、一人の女がいた。孝養の心がなく、母を養おうとしなかった。

その母は寡婦で、家には食糧も乏しく、ある時、家で飯を炊かなかったので、「娘の家に行って、飯をもらって食べよう」と思って訪ねて行き、「ご飯はあるかい。食べさせておくれ」と言うと、娘は、「今のところ、夫とわたしの分はありますが、お母さんに食べていただくご飯はありませんわ」と言って与えなかった。
母は幼い子を連れていた。その子を抱いて家に帰ろうとしたが、その途中で、道端を見ると、包まれたご飯があった。母はそれを拾い、家に持ち帰って、食べたので飢えが治まった。
「今夜は食べる物がなくてひもじい思いをするだろう」と思っていたので、これを食べることが出来たので、喜んで寝た。

ところが、その夜の真夜中を過ぎた頃、誰かが戸を叩いて大声を出して、「お前の娘が、今大きな声を挙げて『私の胸に釘が刺さっている。今にも死にそうだ。助けてくれ』と叫んでいるぞ」と告げた。
母はその声を聞いたが、真夜中のことなので、すぐには行かなかったので、その娘は遂に死んでしまった。
その為、母と会うことなく死んだのである。

これは、実に愚かな事である。母に孝養を尽くすことなく死んだので、後世において、また悪道(アクドウ・・死後に生まれ変わるとされる六道のうちの、地獄・餓鬼・畜生の三道をさす。)に堕ちることは疑いない。
飯がなければ、自分の分を譲って母に食べさせるべきなのに、自分と夫の二人して食べて、母に食べさせないまま死んでしまったことは、これ、天罰を蒙ったからである。その日のうちに、報いを受けたとは哀れなことである。

この世に生を受けている者は、やはり、ぜひとも父母に孝養を尽くすべきである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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不孝者の報い ・ 今昔物語 ( 20 - 31 )

2024-03-12 08:00:02 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 不孝者の報い ・ 今昔物語 ( 20 - 31 ) 』


今は昔、
大和国添の上郡に住んでいる一人の男がいた。字(アザナ・通称)をミヤスという。
この男は、朝廷に仕える学生(ガクショウ・大学寮の学生。)である。日夜、漢籍を学んではいたが、物の道理の分らない心の持ち主であったのか、母に対して不孝者で、養おうとしなかった。

その母が、子のミヤスの稲を借りて使い、返済に充てる物がなかったので、返済しなかったが、ミヤスは厳しく返却しない事を責めて、母は地面にすわり、ミヤスは板敷きの上にいてうるさく責め立てたので、これを見ていた人がミヤスをなだめて、「あなたはどうして、母を責めるなど不孝な振る舞いをなさるのか。世間の人は、父母に孝養を尽くすために、寺を造り塔を建て、仏像を造り写経をして、僧を供養します。あなたは、家は豊かであるのに、どうして母が借りた稲を厳しく取り立てて、母を嘆かせるのです」と言った。
ミヤスは、この忠告を聞いても承知せず、なおも責めるので、これを見る人たちは見るに見かねて、その母が借りた稲をその数通りに弁済して、母を責めないようにしてやった。

すると、母は泣き悲しんで、ミヤスに言った。
「わたしは、お前を育てている間、日夜休む事がなかった。世間の人が親孝行しているのを見ては、『やがて自分も、あのようにしてもらえる』と思って、お前を心から頼りにしていたものだ。ところが、今、わたしに恥をかかせて、借りた稲を強引に取り立てるとは、本当に情けない。それならば、わたしも又、『お前に呑ませた乳の代価を取り立てよう』と思う。そして、今ここで母子の縁は切ろう。天道様、この事の是非をお決め下さい」と。
ミヤスは、母の言葉を聞いても、何も答える事なく、立ち上がって家の中に入った。

ところが、突然、ミヤスは気が狂ったようになり、心は錯乱し身は痛みだし、長年の間、人に稲や米を貸して利息を付けて返済させる証文を取り出して、庭の中で、自ら焼き捨ててしまった。
その後、ミヤスは髪を乱し、山に入って、あちらこちらと狂ったように走った。  三日たって、突然火事となり、ミヤスの内外の家も倉も、皆焼けてしまった。
その為、妻子は食べる物もなく、みな路頭に迷った。ミヤスも又食べ物がなく、遂に飢え死んでしまった。
不孝によって、現世で報いを受けるのは遠い先の事ではない。これを見聞きした人は、ミヤスを憎み謗(ソシ)ったのである。
されば、世の人は、心を込めて父母に孝養を尽くし、不孝の心を抱いてはならない、
となむ語り伝へたるとや。

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灰地獄に堕ちた男 ・ 今昔物語 ( 20 - 30 )

2024-03-09 08:00:29 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 灰地獄に堕ちた男 ・ 今昔物語 ( 20 - 30 ) 』


今は昔、
和泉国和泉郡の下の痛脚村(シモのアナシムラ・泉大津市辺りか?)に一人の男がいた。
邪見(よこしま)な心の持ち主で、因果の道理を知らない。常に鳥の卵を求めて、焼いて食う事を日常としていた。

さて、天平勝宝六年( 754 )という年の三月の頃、見知らぬ人がこの男の家にやって来た。その姿を見ると、兵士の格好をしている。
その人は、この男を呼び出して、「国司殿がお前をお召しだ。速やかに私について参れ」と言った。
そこで男は兵士について行ったが、その兵士をよく見ると、腰に四尺ばかりの札を付けている。やがて郡内の山真(ヤマタエ・山直とも)の里まで来ると、山の辺りに麦畠があったが、その中に男を押し入れ、兵士は見えなくなった。
畠は一町(百メートル四方ほど)余りの広さである。麦は二尺(六十センチ余り)ばかりになっている。その時、突然地面が火の海となり、足の踏み場もなくなった。そこで、畠の中を走り回って、「熱いよう、熱いよう」と叫び続けた。

その時、村人が薪を取りに山に入ろうとしていたが、ふと見ると、畠の中を泣き叫びながら走り回っている男がいた。
村人はこれを見て、「奇異なことだ」と思って、山から下りてきて男を捕らえて引き出そうとしたが、男は抵抗して引き出されないようにする。それを力いっぱい引っ張って畠の外に引きずり出した。男は地面に倒れ伏した。
しばらくすると、息を吹き返したように起き上がった。そして、やたら叫びだし足をひどく痛がった。
村人は男に、「あなたは、どうしてこのような事をしているのだ」と訊ねた。
男は、「兵士が一人やってきて私を連れ出し、ここまで連れてきてこの中に押し入れました。地面を踏むと、地面は火の海となり、足を焼くこと煮られるようです。四方を見ると、周りは火の山で囲まれていて、出ることが出来ず、叫びながら走り回っていたのです」と答えた。
村人はこれを聞くと、男の袴をまくって見ると、ふくらはぎが焼き爛れていて骨が表れて見えていた。
一日経って、男は遂に死んでしまった。

人々はこれを聞いて、「殺生の罪によって、目の前に地獄の報いを示したのだ」と言い合った。
されば、人はこれを見聞きしたならば、邪見を止めて、因果の道理を信じて、殺生をしてはならない。
「『卵を焼いたり煮たりする者は、必ず灰地獄(クエジゴク・熱灰の流れる地獄。)に堕ちる』と言うのは本当の事である」と人々は言った、
となむ語り伝へたるとや。

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