雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ちょっぴり『老子』  ご案内

2024-05-25 08:00:54 | ちょっぴり『老子』

          ちょっぴり『老子』 ご案内


      『老子』全八十一章を若干の個人的な文章と共に載せています。
       稚拙な部分が多いと思いますが、ぜひ、一度ご覧になってください。
 

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『老子』に触れてみたい ・ ちょっぴり『老子』 ( 1 )

2015-06-19 15:09:42 | ちょっぴり『老子』
     ちょっぴり『老子』 ( 1 )
               『老子』に触れてみたい

『老子』に触れてみたい

今回を第一回として、『老子』について書かせていただきたいと思います。
まず最初に、お断りしておきたいことは、本稿は『老子』について研究するものでも学習するものでもないということです。
『老子』に関しましては、その人物についても、その書についても、中国はもちろんわが国でも多くの研究がなされてきています。しかも、今なおその研究は道半ばと言っていい状態だ思うのですが、そのようなテーマに素人の私が挑戦してみても意味のないことです。

しかし、『老子』は、その人物であれ、その書であれ、魅力にあふれ、不思議な力で私たちを引き付けてやみません。
私はその魅力に負けて、ほんの少しでもいいから触れてみたい、という思いが募り、本稿を書き進めることにさせていただきました。
願わくば、これまで『老子』とは余り接点を持つ機会のなかった人が、興味本位で結構ですから一人でも多くお付き合いいただきまして、『老子』の魅力の一端に触れていただき、場合によっては、もっと深く研究されている方の著書なりに進まれる切っ掛けになれば、本稿の目的は達せられることになります。

『タオ』という言葉を聞かれたことがありませんか

『老子』の思想の根本を成すものは、『道』という文字であらわされます。
『道』は、通常は「ミチ」と読まれ、本稿でもそうさせていただきます。
道教関係などでは、この『道』にあたるものを、『タオ』と紹介されていることがよくあります。
これは、「道」という文字を中国の言葉では、「タオ」あるいは「ダオ」と発音するそうです。もちろんこの表記は正しい音を表しておりませんので、その点はご勘弁ください。因みに、この「ダオ」といった発音が、わが国の言葉の「道場」とか「柔道」といった言葉の発音になっているようです。

従って、『老子』の教えるところの思想は、『道』でも『タオ』でも同じものを指しています。
ただ、私たちが、ついつい勘違いしてしまうのは、「道」と書いたり発言してしまった場合、『老子』の教えとは違うものを思い浮かべてしまう危険性があります。文章なり話の前後から、「道」を道路だとは考えないまでも、わが国の「道」という文字にも、教えとか方向性であるとかといった意味もありますから、その意味で捉えてしまう危険性があるのです。

かと言って、わが国の多くの『老子』に関する研究書は、『タオ』ではなく『道』を用いているようですので、本稿もそれに従うことにさせていただきます。
ただ、国際的には、たとえば英語では、『Tao』と表記された言葉は、『老子』あるいは道教の教えるところの『道』を指しているそうてす。ちょうど、「禅」が「Zen」として表記されているのと同じ扱いということになります。

触れるだけでも意味がある

『老子』の教えは難解、というのが常識と言ってもよいほどだそうです。
特にわが国の文化には、仏教思想も極めて強いですが、儒教的な考え方が私たちの日常の道徳や儀礼などに染み込んでいます。道教は儒教とは対照的といえる教えが少なくないようですから、理解するのが余計難しいのかもしれません。
もちろん、道教は『老子』が開いたものではありませんが、その教えが重要な役割を担っていることは確かで、乱暴に言えば、『老子』の道教、孔子の儒教ということになります。

では、それほど難解な教えを、私ごときが学んだり、いわんや文章にして公表するのは、何の意味もなく、むしろ害があるだけではないのかという心配があります。
その懸念もないことはないのですが、何せ、相手は『老子』です。そんな心配は無用だと思うのです。
特別に優れた人物だけが理解できるような教えなど、しょせん大した教えではないはずです。
優れた人物にはそれなりに、私のような凡庸な人物にもそれなりに、理解し習得できる教えこそが優れた教えのはずで、『老子』はきっとそのような大先生であるはずです。

まあ、このような自分に都合のよい判断をもとに、「 『ちょっぴり『老子』 」 という作品を進めて参りますので、よろしくお願いいたします。

     * * *
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『老子』は『老子』 ・ ちょっぴり『老子』 ( 2 )

2015-06-19 15:08:54 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 2 )
               『老子』は『老子』

『老子』とはどういう人物なのか

古来、『老子』というのは誰なのか、あるいはどういう人物だったのか、いろいろ研究が進められてきたようです。
しかし、結論からいえば、「よく分からない」ということになります。

中国の著名な書物の中で『老子』について記されている最初のものは、あの司馬遷の著した「史記」だそうです。
それによりますと、ほぼ孔子と同時代の人で、つまり中国の春秋時代から戦国時代にかけて活躍した「老聃(ロウタン)」という人物らしいのです。姓は「李(リ)」、名は「耳(ジ)」、字(アザナ)は伯陽、諡(オクリナ)は「聃(タン)」と「史記」には記されています。
但し、ほぼ同時代に、「老來氏(ロウライシ)」という人物も著書を残したとされ、この人物が『老子』である可能性も否定できないようで、さらに、孔子の死後百二十九年後に、秦の献公に面会した「太史儋(タン)」という人物もそれらしいとも書き加えているのです。
そして、結論としては、「よく分からない」としているのです。「史記」が書かれたのが紀元前百年を少し過ぎた頃のことでしょうから、今から二千百年前でも、かの司馬遷をもってしてもよく分からない状態だったようです。

その後さまざまな説が登場しているようですし、『老子』などという人物は存在せず、複数の人物が凝縮されたものだという意見も根強いようです。
『老子』という名前の意味じたいが、「偉大な人物」という意味で、例えば、「老聃」がそうだとすれば、当時の呼び名としては孔子や孟子と同様に「李子」となるのが普通だとすれば、特定な存在として名付けられた可能性も否定できません。
また、孔子が若い頃に『老子』に会って教えを請うたという逸話が残されています。それによれば、『老子』は孔子の態度や処世について忠告を与えたといい、故郷に帰った孔子は弟子たちに、『老子』を龍のような人物だと評したそうです。
この逸話に従えば、『老子』は孔子よりも年長と思われます。そして、孔子が没してから百数十年たった孟子の時代にも『老子』はかくしゃくとして登場してきているのです。

『老子』は『老子』

孔子に忠告を与え、孟子の時代にも活躍しているとなれば、年齢は二百歳を超えてしまうではないかという指摘があります。従って、それは別の人物が混同してしまっているのだと考える人が多いようです。
一見正しい指摘のような気もするのですが、同時に、そう指摘することも凡人の常識のような気もするのです。

『老子』という書物にしても全く同様です。
一人で書かれたものではない、という考え方は根強いものがあります。あるいは、書き加えられたり改ざんされている部分も少なくないという意見を持つ学者は多いようです。実際に、現在に伝えられている『老子』という文献の内容にも、それぞれに異なっている部分が少なくありません。

しかし、そのようなことを追及し研究するのは本稿の目的ではありません。
かつて、『老子』というとてつもない人物がいて、全文五千四百字・八十一章からなる『老子』という文献を後世に残してくれた、ということをそのまま信じたいと思うのです。
『老子』は『老子』なのです。
改ざんがあろうと、他の人物の行跡が入り込んでいようと、そんなことで揺らぐような人物ではないのですよ、『老子』は。

なお、本稿では、特別な場合を除き、人物を指す場合も、文献を指す場合も、あるいはその両方を指す場合も、すべて『老子』と表記していこうと考えていますので、ご了解ください。

     * * *

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『道』を尋ねて ・ ちょっぴり『老子』 ( 3 )

2015-06-19 15:08:04 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 3 )

               『道』を尋ねて

『道』って何?

『 道可道 非常道。 』
これが、『老子』の冒頭部分の言葉です。
日本語の読みとしては、「道の道とすべきは 常の道に非ず」(ミチのミチとすべきは ツネのミチにアラず)となります。
なお、この部分に限りませんが、読み方については研究者により異なりますし、原文さえも文献により違う部分があることはご承知おきください。

さて、この冒頭部分ですが、『老子』の中で最も難解な部分だと説明している研究者さえいます。
まあ、どんな物事であっても、難しいといえば限りなく難しくなってしまうわけですが、この部分が完全に理解できてしまえば、『老子』の大半を理解したことになるということなのかもしれません。
冒頭部分でこんなことを言ってしまえば、後は何のために読むのかということになりますが、極論すれば、『道』とは何ぞかを理解し、体得するためのヒントのようなものが列記されているということなのかもしれません。

この『道』というのは、道教などでいわれる『タオ』にあたります。
つまり、『老子』の教えの根源を成すものといえましょう。
では、『道』とはどういうことなのかについて、まず冒頭に記されているわけです。
つまり、「『道』とは、こういうものだよ、と説明されるようなものは、本当の『道』ではないよ」と、『老子』はまず述べているわけです。

言葉に出して、あるいは文字にして伝えられるようなものは、いくら立派なことを言っても、それは正しい『道』を説明していることにはならない、というわけです。

『道』を尋ねて何千年

『老子』の教えの根源となるものは間違いなく『道』だと思うのですが、それがどのようにものであるか、言葉で表せないとしても例えばこのような感じだということで例を挙げてみますと、「全てを司っているもの」「大いなるもの」「絶対的な真理」といったものをイメージしていただきたいと思うのですが、これらのすべてが、「ただしい『道』ではない」ということも、同時にご承知していただく必要があるわけです。

『老子』という大人物が出現し、『老子』という文献を後世に残してくれたのは、おそらく二千五百年ばかりも昔のことです。
その後、多くの人たちが、『老子』について学び、研究して来ているのでしょうが、それはまさに「『道』を尋ねて何千年」という歴史なのかもしれません。
その過程で『道』を体得したいわゆる聖人といわれるような人は数知れずいるのでしょうが、今なお、「これが『道』ですよ」と言葉や文字に出来る人はいないようです。

では、ほんのちょっぴり『老子』に触れようとしている私たちはどうすればよいのかということになります。
とりあえずは、私たち一人一人が「『道』とはこういうものだろう」というものを心に描いて、この後『老子』に触れて行きながら修正していくことではないかと考えています。

                                   (第一章、より)

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万物の母 ・ ちょっぴり『老子』 ( 4 )

2015-06-19 15:06:46 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 4 )

               万物の母

天地の始め

『老子』の冒頭部分「道可道 非常道」に続く部分は、
『 名可名 非常名、無名 天地之始、有名 萬物之母 』となっています。
日本語にすれば、「名の名とすべきは 常の名に非ず、名なし 天地のはじめには、名あり 萬物の母によってこそ」(ナのナとすべきは ツネのナにアラず、ナなし テンチのはじめには、ナあり バンブツのハハによってこそ)といった感じです。
これが『道』だと説明されたようなものは、本当の『道』ではない、というのと同様に、これは何々だと名付けられているものなどは、不変の名前ではない、と続いています。

つまり、天地の始めには、あらゆるものに名前など付けられていなかったというのですが、これは私たちでも十分理解できます。万物の母である天地が拓かれて初めて、天・地という名が登場し、あらゆるものに名前が付けられていったのです。
従って、例えば「山」であれば、天地が拓かれたことにより「ヤマ」は生まれてきましたが、それは便宜上「山」という名前が付けられているだけであって、「山」という名前が、「ヤマ」の本質を表しているわけではない、ということなのでしょうか。

本質を見よう

『老子』第一章は、今少し続いていますが割愛させていただきます。
おそらく『老子』の教えとはかなり外れた説明になると思うのですが、私たちの身の回りにあるものには、全て名が付けられています。しかしそれらは、便宜上付けられた名前であって、本質を表しているわけではない、ということは理解できます。
だからといって、それがどうした、ということになります。

しかし私たちは、例えば、これは「ダイヤモンド」だといわれれば、値打は分からなくとも高価なものだと考えてしまいます。つまり、本質が分かっていないのに名前に判断が左右されてしまうことはよくあります。
それは、品物ばかりでなく、人物にしても同様です。学歴という名前、資産という名前、職業という名前等々、私たちは、いろいろな名前によって本質を見失っていることがよくあります。

もっとも、その本質というのが何かといえば、これがまた難しくなってしまうのでしょうが、『老子』先生に言わせれば、「『道』を体得していれば自ずから見えてくる」とでも仰るのでしょうねぇ。

                                  (第一章より)

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美しさとは ・ ちょっぴり『老子』 ( 5 )

2015-06-19 15:05:56 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 

               美しさとは

美しさとは

『老子』第二章の冒頭部分は、
「天下皆知美之為美、斯悪己。皆知善之為善、斯不善己」です。
日本語読みにしますと、「天下 皆 美の美たるを知る、これ悪のみ。 皆 善の善たるを知る、これ不善のみ」といった感じです。
つまり、「世間一般の人は、美しいものを、単純に美しいものとして知っているだけで、それは正しくない。皆、善というものを、単純に善だとして知っているが、それは良くないことだ」という指摘をされているのです。

『老子』先生の申されるには、「美しい、美しいといっても、それは何かと比較して美しいと言っているだけで、揺るぎのない絶対的な美とは違うものを、美しいと言っているのは間違っている。善だといわれているものも、それより劣る何かと比べて、善だ善だと言っているのであって、揺るぎのない絶対的な善とは異質のものを、善だと思っていることは良くないことである」と言われているらしいのです。
確かに、私たちが何かを判断する場合、何かと比べる相対的な判断によってなされていることが大半と思われます。
『老子』はそのことについて、「有・無」「難・易」「長・短」「高・下」「音・声」「前・後」なども同様だと、くどいほどに列記しています。

本当の価値 

私たちの日常は、誰かと比較し、何かと比較し、良いとか悪いとか、勝っているとか負けているとか、そのような判断をベースにして動いている面が多いように思われます。
それでは駄目なんだ、というのが『老子』の教えのように思われます。
いかなるときにも揺るぎのない美しさ、何かを意識したり何かと比べたうえで評価されるといった次元ではない「善」を見分け、自らもそうなるように磨きなさい、それが『道』を身につけるということらしいのです。

                                        ( 第二章より )

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不言の教え ・ ちょっぴり『老子』 ( 6 )

2015-06-19 15:05:07 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』

               不言の教え

黙って付いて来い

「聖人處無為之事、行不言之教」
これは第二章の中にある言葉です。日本語にすれば、「聖人 無為の事に處(オ)り、不言の教えを行う」といった感じです。
この言葉の意味を、「黙って俺に付いて来い」などと同義語にしてしまうと『老子』先生に叱れるでしょうが、「沈黙は金」とか「巧言令色鮮し仁」などというのも、同様の教えだと思われます。
聖人というのは、『老子』の説く『道』を体得しているような人を指すと思うのですが、そのような人物は、小手先の知恵などを振り回すようなことはなく、無防備なほど自然体でいて、何を語ることなくして人々を導くということなのでしょうか。

功を誇ることもない

先の言葉に続いて『老子』は、「『道』というものは、天地の万物を生み出しながら一言も語ることはない。また、生み出したものを所有しようとはしない。大きな働きをしても、それから得られるものを頼みとしない。功績をあげても、それから得ることができる地位にいようとしない。そもそもそのようなことを考えてもいないから、むしろその功績はその身から去らないのである」
と、記しているのです。

わが国には、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という教えもあります。
言葉の意味はよくわかりますが、さて、実行するとなると、そうそう簡単なことではありません。
ただ、わずかな功績を我が物顔に吹聴するのだけは、慎みたいものですねぇ。

                                        ( 第二章より )

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何かを求める ・ ちょっぴり『老子』 ( 7 )

2015-06-19 15:04:17 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 7 )

               何かを求める

誰もが何時も欲しがっている

「不尚賢、使民不争。不貴難得之貨、使民不為盗」
これは、『老子』第三章の最初の部分です。日本語読みすれば、「賢を尚(タット)ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴(タット)ばざれば、民をして盗を為(ナ)さざらしむ」といった感じです。
つまり、「(為政者は)賢人を重用しなければ、人民は功名を争わなくなる。財宝を珍重しなければ、人民は盗みをしなくなる」という意味なのでしょう。

第三章は、政治の在り方について『老子』の考えが述べられています。
中国の戦国時代のことですから、為政者とは絶対君主であり、民とは、身分上低い一般大衆を指しているのでしょう。
「賢人を重用しない」というと少し違和感がありますが、賢人というのは自ら汗を流すことのない貴族や学者などのことを指していて、民とは農民を中心とした生産者階級のことを指しているのでしょう。
身分の高下を問わず、人は誰でも常に何かを欲しがっているものなので、そのことに配慮しなければよい政治はできないということなのでしょうか。

今もあまり変わらない

中国戦国時代の政治哲学など、現在の私たちとは無縁のような気もします。
しかし、政治ということではなく、私たちの日常に置き換えてみますと、案外似た現象はよく見られます。
危険な仕事や重労働に従事している人が報われないことは、残念ながら、現代の私たちの社会にも、いたるところで見受けられます。
貴重な物が出現すれば、誰も彼もがそれを欲しがり、そこから派生する利益に対して鵜の目鷹の目になるといった現象も珍しいことではありません。
また、それを餌とした詐欺行為も少なくないようなのです。

私たちの日常生活から遠い感じのする『老子』第三章ですが、やはり、学ぶべき点もあると思うのです。

                           ( 第三章より )
                            
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和光同塵 ・ ちょっぴり『老子』 ( 8 )

2015-06-19 15:03:26 | ちょっぴり『老子』
        ちょっぴり『老子』 ( 8 )

               和光同塵

「和光同塵」とは

「和光同塵(ワコウドウジン)」という言葉は、辞書にも載っています。
その説明によりますと、「自分の才能や優越性をひけらかさず大衆と同化すること」とあり、『老子』から、とあります。それともう一つ、仏教においては、「仏が本来の知恵を隠して俗世間に現れ、人々と交わること」という説明もなされています。

この言葉は、『老子』第四章から来ています。
該当の部分は、「和其光、同其塵」となっていて、「その光を和(ヤワ)らげ、その塵(チリ)に同ず」と読まれています。
この章は、『道』は万物の始祖であることを説明しようとしていると思われます。
第四章全体の内容を説明してみますと、
「『道』は空虚な器のように空っぽであるが、いくら用いても充満することはなく、後が使えなくなるようなことはなく、奥深くて万物の始祖であるような感じがする。 そして、万物の中の鋭いものをくじき、紛争を解決し、輝いているものの光を和らげ、『道』自身は塵と同じ所に身を置いている。
このような『道』は、深い水のようで表面には何も見えないが、その奥深い所には、何かが存在しているようである。その何かが『道』そのものなのだろうが、私は、それが何から生まれたものか知らない。それは、天が生ずる前から存在しているらしい」
と、『道』の正体らしいものに触れているのですが、『老子』はそれがどうして生まれてきたものか知らない、というのです。

塵と言われるのはつらいが

「和光同塵」の辞書の説明によれば、『老子』から引用されたものも、仏教の言葉と説明されているものを見ても、私たち一般大衆を「チリ」とたとえているように思われます。
『道』という存在がいかに大きいとしても、『老子』や「仏陀」がいかに優れた存在だとしても、「お前たちはチリと同じだ」と言われているとすれば、あまり素直になれない気もします。

しかし、もう少し冷静に考えて見れば、そのように思うこと自体が、「まだまだ青い」と笑われるかもしれません。
さて、「チリ」に等しい私たちは、賢人の教えをどう受け取りますか。

                                ( 第四章より )
     
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厳しすぎる ・ ちょっぴり『老子』 ( 9 )

2015-06-19 15:02:37 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 9 )

               厳しすぎる

慈愛など、何処にもない

「天地不仁、以萬物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗」
少々難解な文字も含まれていますが、『老子』第五章の冒頭部分です。
「天地不仁、万物をもって芻狗(スウク)となす。聖人不仁、百姓(ヒャクセイ)をもって芻狗となす」と読まれています。
「仁」というのは、儒教などでは最高の徳と位置付けていますが、他人に対する愛情や思いやりを指します。仏教の慈愛も同じ感じなのでしょう。
「芻狗」というのは、わらで作った犬のことで、祭祀などで祭られた。
「百姓」というのは、農民ということではなく一般大衆を指す。

つまり、「天地 というものは、いわゆる仁などといった人間的な慈愛など持っていない。天地が万物と接するにあたっては、全く虚心であって、芻狗を扱うようなものである。『道』を会得した聖人も同様で、仁などという感情ではなく、芻狗に対するように全く虚心に民衆に対する」というのである。
なお、芻狗はわらで作った人形であるが、祭祀にあたっては美しく飾り立てるが、祭祀が終わると打ち棄てられてしまう。これは、人々が、わらの芻狗を特別愛していたわけでもなく、祭祀の後憎んで蹂躙しているわけでない。人々が、わらの芻狗に特別な感情を抱いていないのと同様である、ということらしいのです。

厳しすぎるようにも思う

おそらく、この部分も、為政者の在り方について述べているのだと思われるのですが、それにしても、『道』を体得した人間は、仁などという感情を超越しているのだといわれると、厳しすぎるというか、無味乾燥のような感じがしてしまいます。
もっとドロドロとしていてもいいので、温かみのある思想の方が、私などにはありがたいような気がするのですが。

こんなことを申し上げれば、きっと『老子』先生は、『道』の何たるかを少しでも理解できるようになれば、本当の仁とは何なのか、慈愛とは何なのかが見えてくるはずだよ、と言われるような気もします。
今少し、学んでいくことにしますか・・。

                                       ( 第五章より )

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