雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語 第十九集

2018-11-19 15:27:37 | 小さな小さな物語 第十九部
     小さな小さな物語  第十九集


        NO.1081 から NO.1140 まで収録しています
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小さな小さな物語  目次

2018-11-19 15:26:41 | 小さな小さな物語 第十九部
          小さな小さな物語  目次

     No.1081  どちらに向かっているのか
        1082  「街ぐるみ」のあり方
        1083  スポーツの存在価値
        1084  一歩踏み出す前に
        1085  覆水は盆に返らないが


        1086  生態系の変化
        1087  悪貨は良貨を駆逐する
        1088  マルかバツか
        1089  順繰り
        1090  区画割り


        1091  合意文書に署名
        1092  へその在り処
        1093  またも地震の悲劇が
        1094  ライフラインを考える
        1095  輝ける我が国土


        1096  重い荷軽い荷
        1097  究極の決断
        1098  木を見て森を見ず
        1099  大雨続く
        1100  国土防衛
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どちらに向かっているのか ・ 小さな小さな物語 ( 1081 )

2018-11-19 15:25:49 | 小さな小さな物語 第十九部
今、私たちの国はどちらに向かっているのでしょうか。
この数日、あるいはこの数か月、主として国会や政党や国会議員、さらにいえば地方政治にかかわる人などに関する情報を、新聞やテレビなどで見聞きする限り、わが国の未来に若干の不安を感じています。
国政や地方政治に関わる人たちが、厚顔無恥とでも表現せざるを得ないような事件が表面化するたびに、「大部分の人はまじめに任務を果たしており、これほどの事件を起こすのはごく一部の人間だ」といった論評を、時々目にします。特に、テレビのコメンテーターの中には、問題人物を厳しく糾弾した後、まるでアリバイ作りのように、このような言葉をまるで台詞のように付け加えるのです。

まあ、国会議員の全員が、あるいは、私たち国民が選出した政治の代表者たちの多くが、とんでもない事件を起こしたり、ケチ臭いごまかしをしてみたり、無知からだと思うのですが、常識外れの発言をするような人ばかりだとは思わないのですが、同時に、法的な白黒はともかく、表面化していない同類の人間も少なくないように思ってしまいます。
まだ二十歳未満の警察官が、先輩の警察官を拳銃で射殺するという悲惨な事件がありましたが、未成年に拳銃を持たせることの是非が話題になりました。政治家に対しても、年齢制限の他に国政なり地方政治なりに参画するための最低条件のような資格を定める方法が無いものでしょうか。

物事には優先順位があり、物事には軽重の差もあります。
しかし、これらの判断には個人差が大きいように思われます。
現在、北朝鮮をめぐる諸問題は大きく変動しています。わが国がカヤの外に置かれようとしているのかどうかはともかく、そうそう楽観視していいのかどうかもともかく、変わろうとしていることは事実のようです。しかし、世界中が一番の重大事として見ているかどうかとなれば、シリアの問題があり、イランに関する問題の方が遥かに重大と考える国家は少なくないでしょう。
それどころか、わが国のように、内政のゴタゴタしている問題の解明こそが一番大切だと考える人も少なくないというのも事実でしょう。

第二次世界大戦で壊滅的な状態になったわが国は、まさに不死鳥のように蘇りました。
特に経済面では、もしかすると世界NO.1も可能ではないかというほどの夢も描きました。その後、長期の停滞を余儀なくされ、個人生活面では、まだ回復軌道に戻らない状態です。
しかし、個人生活でいえば、全体的な基準としては、これ以上を望む方が無茶なのかもしれません。別の視点に立てば、これまでのような、アメリカの国力・軍事力の恩恵に頼り切ることでわが国が存在し続けることが可能なのかどうか、現実の問題として浮上してくる予感があります。
私たちの国はどちらに向かっているのか。世界中が激しく動いている中で、相変わらず、チマチマとした問題で右往左往している自分の国に悲しさを感じてしまいますが、もしかすると、それこそが平和である証拠なのかと考えたりもします。
ただ、それによって、わが国が明るい未来に向かっているとは思えないのですが。

( 2018.05.14 )
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「街ぐるみ」のあり方 ・ 小さな小さな物語 ( 1082 )

2018-11-19 15:24:40 | 小さな小さな物語 第十九部
新潟の女児殺害事件は、あまりに残酷で、目をそむけたい気持ちも強いのですが、あえてテーマとしました。
事件そのものについて触れるのは避けたいと思いますが、昨今、子供が被害者となる事件が多見されるような気がしています。
もちろん、表面化したものだけでも、第二次世界大戦後だけでも、子供にまつわる悲惨な事件は数多く起きています。最近は、家庭内の事件、つまり、両親などによる乳幼児への虐待や暴行が特に増えているような気もします。同時に、この種のデーターがどの程度あるのか、全く把握していないのですが、今回の事件のような残虐犯罪はともかく、家庭内の事件となれば、以前はもちろん、最近であっても表面化していないものも少なくないと思われます。

この種の事件が発生すると、再発防止のための対策が報道などで盛んに検討され提示されます。しかし、そのいずれもが、どの程度効果があったのか、科学的な追跡調査されたデーターを、私は聞いたことがありません。
「二度とこのような悲劇が起きないように」などといった発言は嫌というほど聞くのですが、残念ながら、実現可能な対策は、ほとんどの場合に存在していないような気がします。
ただ、発生を絶滅させることは困難だとしても、明確に減少させる対策はないものでしょうか。

こうした事件の後の対策として挙げられる一つに、「街ぐるみ」の見守りの重要性が語られます。
近隣住民間の日頃の付き合いや情報共有がその基本であり、今少し広い範囲の「町内」ぐるみでの組織的な見守り体制などです。
町内会や小学校の校区単位などで、自転車等に「見守り中」といったステッカーを付けたり、商店や一般家庭が危険を感じた子供が駆け込める場所を提供するなど、様々な対策が進められています。通学路の見守りや、集団登校などはかなりの地域で実行されています。
しかし、子供や乳幼児に対する犯罪は、あとを絶ちません。しかも、町内会の紐帯は年々薄まっていく傾向にあり、近隣間でも、互いの家族構成さえ分からないというのも別に珍しいことではないようです。その上、何かといえば「個人情報云々」とやらで、ちょっとした名簿作成さえ簡単ではないようです。

私たちは、社会生活、つまり集団生活をさけることができない環境で生きている限り、恩恵を受けると同時に、犯罪やトラブルを皆無にすることは出来ないのかもしれません。
もし、そうだとすれば、そうであればあるほど、少なくとも、乳幼児や児童と呼ばれる程度の子供に対しては、「街ぐるみ」での見守りや相互扶助の重要性は、高まりこそすれ不用になる事などないでしょう。ただ、もっと有効性を高めるシステムを構築することは期待できないのでしょうか。
あまり好きな言葉ではないのですが、「高齢化社会」という言葉をよく目にします。そういう社会にすでに突入しているとすれば、いわゆる高齢者こそが、地域社会の見守り隊の中核になれるような気もするのですが。

( 2018.05.17 )
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スポーツの存在価値 ・ 小さな小さな物語 ( 1083 )

2018-11-19 15:23:40 | 小さな小さな物語 第十九部
アメリカンフットボールで、とんでもない事件が起こっていたようです。
映像で見る限り、あんなものはタックルでも何でもない明確な暴力行為だと私には見えました。
幸い、詳細な映像が、多くのメディアで繰り返し流され、様々な立場の人が非難の声を挙げており、きれいごとの言い訳や擁護は通用しない状態になりつつありますから、ある程度は、常識的な判断が下されるものと期待したいと思います。

スポーツにまつわる数々のトラブルは、何も最近になって増えたのではなく、表面化するものが増えてきただけだと思うのですが、スポーツというものには、常にドロドロとしたものや不愉快な部分が従属してるものなのでしょうか。
野球にせよ、相撲にせよ、レスリングにせよ、あるいはその他の競技においても、表面化した犯罪行為のほとんどが、うやむやに近い状態で静まって行き、「二度と同じことが起こらないように」とか「再発防止策云々」などという誰もが実現するはずがないと思いながらの「お約束ごと」で幕引きを図っているように思われてなりません。

そもそもスポーツとは何なのか、例によって辞書の力をお借りすると、『 陸上競技・野球・テニス・水泳・ボートレースなどから登山・狩猟などにいたるまで、遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素を含む身体運動の総称。 』と説明されています。
私たちは、特別深く考えることもなく「スポーツ精神」などという言葉を使うことがあります。特別厳格な意味を持って使うわけではないとしても、公平・公正・神聖といったイメージを意識して使っている感があります。あるいは、「政治の影響を受けない独立性」も看板の一つのように思われますが、これらのどれ一つを取ってみても、「立て前は」という形容詞を付けるべき、という気がしています。

辞書の説明の上げ足を取るわけではありませんが、スポーツに定義される範囲は極めて広いものらしく、身体を使う行為はほとんど包含されるような気もしますが、まさかその中には暴力行為も入っているのではないと思うのです。
スポーツはルールに従って運営され、ルールに反する場合には相応の罰則が課されます。しかし、それはルールに違反した場合であって、犯罪行為に対してゲームのルール違反に定められている罰則で対応できると考えていれば、お話になりません。
どのような競技であれ、それが試合中であれ、競技場内であれ、犯罪行為に対しては刑法なりが適用されるのは当然だと思うのです。
アメリカンフットボールのわが国における知名度がどの程度かはともかく、今回問題となっているチームは、わが国のトップレベルにあるチームの一つです。今回の事件の対応を誤れば、このスポーツに対するダメージは小さいものではなく、当該大学の在り方にさえ影響があると考えられます。

( 2018.05.20 )
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一歩踏み出す前に ・ 小さな小さな物語 ( 1084 )

2018-11-19 15:22:37 | 小さな小さな物語 第十九部
苦しい事に対してであれ、楽しい事に対してであれ、一つの決断をし、実行に移すにあたっては、その第一歩を踏み出す前に、ぜひ一呼吸置きたいものだと思います。
その第一歩が、右足から出すか左足から出すかという判断もあるかもしれませんし、どの程度の歩幅にすべきかという選択もあるかもしれません。場合によっては、人生を左右するような第一歩、命さえ左右するような第一歩というものさえあるかもしれません。

今話題になっているアメリカンフットボールの事件、事件そのものは不愉快極まりないものですが、被害を受けた側の父親の会見、加害者とされる側の本人の会見を見ていますと、何とも切なくなってしまいました。
起こった状況は克明に映像が残っているので、白黒の判断は疑念の予知などないと思われますが、あのタックルに至った背景となれば、かなりドロドロとしたものがありそうですが、おそらく、警察の捜査が入るでしょうから無責任な推察は避けたいと思います。

ただ、この不愉快な事件が発生するまでに、踏みとどまることが可能な時点が何度かあったと思われます。
直近から遡るとすれば、まず「タックルする瞬間」、その前の「無防備な選手にダッシュのスタートを切る時」、これらの寸前に、自分を見直すことが出来なかったのか残念です。もっともこのような意見は、土俵外からであれば誰でも言えることですが、当時者にとっては至難のことだと思われます。しかし、「一歩踏み出す前に」理性を取り戻すことの重要性は、難しい状況下でこそ必要であって、誰でもできるような一呼吸は、大して重要なわけではないのです。つまり、そのようなことは出来ない、と思われるような状況下で「一歩踏み出す前に」一呼吸を置くためには、訓練なり研鑽なりが必要になってくるわけです。
さらに言えば、直接の加害者とされる選手をこの状態に追い込んだ背景には、極めて具体的な動機が存在しているようですし、その動機が生まれる背景となれば、その範囲は広がり、大学の体質云々の問題まで浮上する予感がします。
そして、もしそうだとすれば、お話にならないような多くの問題のすべてに、当時者や関係者が、「一歩踏み出す前に」何らかの行動を取る機会は数多くあったはずです。

私たちは、多くの時間を特別な神経を使うようなこともないままに生活しています。実は、その何気なく過ごしている時間の中にも、無意識のうちに多くの決断を行っているのかもしれません。その決断は、これまでの知識や経験などをベースに瞬時に行われていて、少々の間違いはあるとしても、人生を左右するほどの間違いを起こすことは少ないものです。従って、「これは・・」と直感するような時には、「一歩踏み出す前に」一呼吸置く訓練は、絶対に必要だと思うのです。
ただ、残念ながら、報道などでは、事件などを起こした多くの人に付いて、「ふつうの人」「立派な人」「冷静な人」などといった評判が伝えられることがあります。そう考えれば、日頃、普通の生活をしている人にとって、人生の大事といった状況下においては、「一歩踏み出す前に」などといった対応は、至難の業ということだと考えられます。
それでもなお、特にまだ若いお方には、大事を直感した時に「一歩踏み出す前に」という自己研鑽を願っています。

( 2018.05.23 )
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覆水は盆に返らないが ・ 小さな小さな物語 ( 1085 )

2018-11-19 15:20:45 | 小さな小さな物語 第十九部
アメリカンフットボールの事件は、収束などとは正反対の方向に勢いを増している感があります。
事件そのものは、私個人は、加害者となった選手が会見で語ったことがほぼ真実に近いものだと断定していますので、当該大学やチーム指導者の対応の拙さが際立って見えてしまいます。
特に、監督とコーチの会見は、司会者のあまりにもひどい状態を見ていますと、監督とコーチを悪役に仕立てるのに協力しているかのように見えてしまいました。何か問題が発生した場合、『危機管理』という言葉が辟易するほど強調される昨今ですが、今回の場合は、当該大学そのものは、この問題を過小評価しているのか、見放しているのか、あるいは、『危機管理』という意味など全く関心がないかのように思ってしまいます。
ただ、加害者となってしまった選手の立派な会見を思えば、チーム仲間や当該大学内にも心ある人物はいるはずだと思われ、そうした人たちの決起を期待しています。

「覆水盆に返らず」という諺があります。一度起きてしまったことは元に戻すことは出来ない、といった意味でしょう。
この言葉の源は中国の文献にあるようですが、それによれば、
「かの有名な太公望が、まだ立身する以前に結婚していたが、仕事もしないで本ばかり読んでいたため、妻は愛想を尽かして離縁となってしまった。やがて太公望が世に出て高官の地位を得ると、元妻がやって来て復縁を求めた。太公望は、水の入った盆(ボン・鉢。ボウル状の容器。)を持ってきて、水を床にこぼした。そして、元妻に、水をもとのように戻すように言った。当然、元妻が試みても出来るはずがなかった。太公望は、このように一度起こってしまった事を元に戻すことは出来ないと言って、復縁を拒絶した。」と言ったものです。
この話は、史実というよりも伝説の類のようですが、現在でも時々目にする諺ですが、離婚問題の教訓というのは少々意外です。

「覆水盆に返らず」と言われるように、こぼれた水をもとに返すことは出来ませんが、同時に、起きてしまった事を無い事にすることも出来ません。
もし、何か対策があるとすれば、起きてしまった出来事を事実のままに認めるしかないのではないでしょうか。うまく糊塗する方法があるはずだと多くの人は考えてしまうのですが、それが出来るのは、ごく限られた無知の人に対してか、騙されているのを承知の上で騙される人位で、真実を隠しきることは、それほど簡単なことではないようです。

今回のアメリカンフットボールの事件は、何とも不愉快な事件ではありますが、それによって、多くのことを考えさせてくれました。
例えば、「スポーツというものは、運用の仕方によっては如何に汚らわしいものになり得るということ。」「洗脳教育の恐ろしさ。」「知性、品格などといった人間の価値を決める重要な要素を見分けることの難しさ」「保身のためには人は嘘をつくことが出来るということ」など、まだまだ挙げたいこともありますが、そのいずれもが、自分自身に置き換えてみますと、忸怩たる思いがあることも認めざるを得ません。
この事件が、今後どのように進展し収束するのか見守りたいと思いますが、それらを他山の石として、たとえ少しでも、今よりは謙虚な生き方を心がけたいと思います。

( 2018.05.26 )
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生態系の変化 ・ 小さな小さな物語 ( 1086 )

2018-11-19 15:19:31 | 小さな小さな物語 第十九部
群馬県の街中に孔雀がやって来たと話題になっていました。
飛んでいるのを見たとか、走っているのを見たという程度ではなく、むしろ住みついているという感じだそうです。
動物園で見る孔雀は、たていていは歩いていて、運が良ければ見事な羽を広げてくれます。
群馬県にやって来ている孔雀は、時々力強く飛ぶそうですし、夜は電柱の上で寝るらしいのですが、人の近くまでやって来て、愛を告白しているわけではないのでしょうが、時々見事な羽を披露してくれるそうです。

この孔雀が、どこからやって来たのかと話題になっていましたが、まさか群馬県に野生化した孔雀が生息しているわけではないでしょうが、沖縄の離島などでは相当数が野生化しているようで、それはそれで問題があるようです。
孔雀はキジ科の鳥ですが、キジもそれほど軽やかに飛ぶイメージがありませんし、ニワトリもキジ科の鳥ですから、遠い親戚筋にあたるとすれば、それほど飛ぶのが得手の鳥とは思えません。一度に飛べるのは数百メートルがせいぜいだそうで、人気を集めている孔雀も二百メートル四方程度の範囲に姿を見せているようです。
この地域には、野生化した孔雀の群れはいないようですから、動物園などの施設か、ペットとして飼われていたものが逃げ出したものだと思われ、この近くで飼われていたものと推定されますが、飼い主はまだ現れないようです。

ところで、孔雀は、「緊急対策外来種」に指定されているそうです。孔雀は雑食ですが、野生化すると昆虫や虫などを食べるので、生態系を壊す危険があるそうで、すでに野生化した地域では駆除されているそうです。
生態系を荒らす外来種となれば、ブラックバスなどの魚類や噛みつき亀などを連想してしまうのですが、孔雀もその仲間にされているとすれば、ペットとして飼う以上は、最期まで見守って欲しいものです。
イヌやネコなどは当然ですが、カメなども大きくなりすぎて捨てられるものが少なくないようで、孔雀も特別な手続きもなく簡単に飼えるとのことですから、今回の話題で、衝動的に飼う人が出ないか心配です。

動物に限らず、植物の世界でも、外来種により生態系が変化している例は数多くあるようです。
もっとも、わが国に生息している動植物のうち、わが国固有の物となればそう多いわけではなく、私たちの身の回りにある物を見てみても、何百年前か、千何百年前かはともかく、大半の物は外来種が定着し、あるいは交雑を繰り返して、今日のわが国の生態系は出来上がっていると考えれば、それほど深刻に考える必要はないような気もします。
ただ、これは、どうも素人の考えのようで、生態系というものは、固有の魚がいなくなるとか亀がいなくなるとかといった単純なことではなく、ある地域のすべての生物が連鎖することによって生態系が保たれているのであって、その一ヶ所を傷つけることは、自然全体を大きく変化させてしまうことになってしまうそうです。
生態系に変化をもたらすものは、何もペットを野生化することだけではなく、何かに混入して入ってしまったり、森林などの伐採や、大気汚染なども当然大きな影響を与えることになります。
動物であれ植物であれ、一つの種が消え去ることは、そうそう簡単に見過ごしていいことではないと思うのです。それといいますのも、実は、私たち日本人という人種も、絶滅への秒読みに入っているらしいのですから。

( 2018.05.29 )
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悪貨は良貨を駆逐する ・ 小さな小さな物語 ( 1087 )

2018-11-19 15:18:12 | 小さな小さな物語 第十九部
アメリカンフットボールの事件、張本人ともいえる周辺ではあまり動きはないようですが、所属団体からは相当厳しい判断が示されました。しかも、加害チームの監督やコーチに対しては、その悪質性に対して断定的にその非を認めたもので、迅速な調査を称賛するとともに、加害チーム内や周辺では、悪質な指示などは秘密でも何でもない日常茶飯事のことではなかったのではないかと思ってしまいました。
この後にも、第三者委員会とやらが調査するようですが、まだ設置さえできていないようなので、こちらはあまり期待できない気もしますので、あとは、犯罪性の有無を司法に任せることになるのでしょうか。

ところで、この裁定に関して、他チームの指導者の方が、「これほどひどい指導が行われていたチームに負けた自分たちにも責任がある」といった発言をされていました。実に、含蓄のある言葉だと感じました。
教育だとか、選手の人権だとか、健康や精神面、いわんや選手の将来など全く無視したような練習によって、所属リーグで優勝したり、全国制覇することが出来るとすれば、そして、そのことが評価され称賛されるとすれば、スポーツなどというものは、子供にとって、飲酒や喫煙以上に害悪をもたらすのではないかと悲しくなってしまいます。

残念ながら、「悪貨は良貨を駆逐する」という現象は、今もなお堂々と社会を闊歩しているようです。
この格言は、1560年、イギリスの国王財政顧問を務めていた貿易商であるトーマス・グレシャムがエリザベス一世に提出した意見書の中にある言葉だそうです。この言葉は、1858年にイギリスの経済学者が「グレシャムの法則」と命名したことから広く知られるようになったようです。
言葉の意味は、「名目上の価値が同じで、実質上の価値が異なる貨幣が存在した場合、価値の高い方の貨幣(良貨)は人々の手元にしまい込まれ、価値の低い方の貨幣(悪貨)だけが流通するようになる」というもので、金本位制の経済学の法則の一つとされました。
ただ、言葉としてはともかく、同様の現象は、古くから各地で発生していたようで、わが国の江戸中期の思想家三浦梅園も、1773年の自著の中で、「悪弊盛んに世に行わるれば精金皆隠る」と述べているようです。

貨幣制度におけるグレシャムの法則そのものは、現在においては、すでに過去のものになっているのでしょうが、一般社会のあちらこちらでは、しぶとく生き残っているというよりは、むしろ勢いを増している場面も少なくないようです。
一つ一つ例を挙げるのは慎みますが、大きくは国家間や政治の世界、近くは町内会レベルでもその現象を見つけるのは難しい事ではありません。
けれども、むしろそうであるからこそ、本来ルールに従って行われるはずのスポーツの世界ぐらいは、単に試合そのものだけでなく、その組織や指導などにおいて、悪貨が大手を振って歩き回るような現象を払拭して欲しいと思うのです。
これとても、無いものねだりなのかもしれませんが、「これほどひどいチームに負けた自分たちにも責任がある」と発言されたような指導者がいる限り、期待し続けたいと思うのです。

( 2018.06.01 )
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マルかバツか ・ 小さな小さな物語 ( 1088 )

2018-11-19 15:16:56 | 小さな小さな物語 第十九部
「モリだカケだとソバ屋でもあるまいし」などと、当ブログ程度のコラムでも使うのが恥ずかしいようなギャグがまかり通っていますが、いつまで続くのでしょうね。
法治国家を自認するわが国としては、巨悪を見過ごすことなど断じて出来ませんが、世界が慌ただしく動いている状況を考えれば、ぼつぼついい加減にしてほしいという声も小さくないと思うのですが、国会は外交なんてあまり興味がないのでしょうか。
折から、働き方改革などというものが話題を集めていますが、一般サラリーマンのことを心配して頂くのも有難いことですが、「隗より始めよ」という教えもあることですから、まず国会議員の報酬を能率給あるいは出来高払いにすることから始めるのはどうでしょうか。

それはともかく、いわゆるモリカケ問題の注目点の一つであった、財務省職員らへの国有地売却をめぐる捜査にあたっていた、大阪地検特捜部は全員を不起訴処分としました。いずれも、容疑不十分か容疑なしと結論を出したわけです。
この後も、検察審査会あるいは国会において尾を引いていくのでしょうが、一応の結論が出たということになります。
この決定を受けて、ある人は一つの結論が出たと言い、ある人は検察の決定を厳しく非難しています。
法治国家には、確固たる法律があり、対立意見に対しては法律に基づいた判断が下され、少々不満でもその結論に従うことで社会が守られていることになっているはずです。
ところが、そうそう簡単にはいかないようです。

私たちは、物事を判断する場合、多くの場合に「マルかバツか」という基準で結論を出そうとします。
また、「限りなく黒に近い灰色」などという言葉がありますが、「限りなく白に近い黒(あるいは灰色)」という言葉はあまり耳にしません。このことは、私たちは「灰色」の存在をどう捉えているのでしょうか。これを洞察することはなかなか困難なようですが、加害者、あるいは加害者らしいとされた人は、よほど「真っ白」であることが証明されない限り、程度の差はともかく「灰色」とされてしまい、社会的な制裁を受けがちのように思われます。

無差別的な事件などを除けば、抗争事には双方にそれなりの言い分があるものです、「泥棒にも三分の道理」という言葉がある位ですから、争いごとの多くは、「灰色」の程度をせめぎ合っているのかもしれません。
私たちの日常生活においては、教育など特殊な場面を除けば、「マルかバツか」で物事を決していくのはあまり上策ではないようです。「煮え切らない」とか「卑怯だ」などという非難を受けがちですが、「足して2で割る」というのも、大切な知恵の一つではないでしょうか。
2という数字は、どんな数字でも割ることが出来ますから、難問を解決するには有効な手段であると思うのですが、この手法をとっても、二等分することはなかなか難しく、双方が不満を残すという欠点を持っていることも否定できないのが残念です。

( 2018.06.04 )

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