雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  双六のように

2013-10-29 08:00:12 | 運命紀行
          運命紀行
               双六のように

一言に戦国武将といっても、世に知られた人物もあれば、僅かな領地に命を懸けて戦い抜いた人物もいる。
一国一城の主となり、大軍勢を率いて天下を狙う人物もあれば、大勢力の狭間で、どちらに与することで生き延びるかに腐心する生涯を送った人物もいる。
いずれにしても、戦国時代という激しい時代を生き抜く武士は、大は大なりに、小は小なりに簡単なことではなかった。

歴史上、武士がいつ登場したかということには諸説があるし、それを追及することは本稿の目的ではない。
ただ、言えることは、王族や貴族たちを護衛するために誕生してきたということではなく、部族間、あるいは集落間の利害が対立し解決が困難になった時、武力でもって有利に立とうとした人物は、王族や貴族たちの登場より遥か昔から存在したはずである。
それを武士と呼ぶか否かは別にして、戦国時代の頃ともなれば、もっぱら武力で以って一定地域に君臨していた豪族たちは、自身や一族の武力を鍛えるとともに、どの勢力と同盟を結ぶか、どの勢力の傘下に入るかは、実に重大な決断であったはずである。

戦国の始まりとされる応仁の乱を見ても、東西の二陣営に分かれて戦乱を繰り返したが、日本が真っ二つに分かれて戦ったかといえば、全くそうではない。本陣が西にあったから西陣営、東側にあったから東陣営と呼ばれただけで、それぞれの大名や豪族たちは、一族の命運をかけて、どちらに与するかを選択し、時には立場を変えたりしているのである。

応仁の乱ほど全国的でなくとも、例えば、毛利氏が台頭してくる頃の中国地方は、大内氏と尼子氏が抜きん出た勢力を有し対立していたので、その狭間にある豪族たちは、毛利氏をはじめ、大内に付くべきか尼子に付くべきかが、一族を守る最大課題だったのである。
同じことは、武田氏と上杉氏の間に位置していた豪族たちも同様であるし、若い頃の徳川家康などもそのような流れに翻弄されていたといえるのである。
つまり、一族を率いる武将はもちろんのこと、一人の武士にとっても、誰に仕えるか、誰に与するかによって将来が変わり、それはまさに命を懸けた判断が必要だったのである。

織田氏は、尾張国守護斯波氏の守護代として勢力を有していたが、信長という麒麟児の出現により、織田家中の力関係は大きく変わり、やがて尾張を手中に収め、美濃から近江へと勢力圏を広げて行く。その過程では、信長に従ったものは勢力を伸ばしたが、反抗した者は衰退あるいは滅亡にいたっている。
さらに、信長に与したり家来になったからといって繁栄が約束されたわけではなく、敵軍と戦って戦死したのならともかく、僅かな罪を問われて追放されたり誅殺された者の数も少なくない。
武士といえども、単に戦陣で活躍すればよいということではなく、誰に仕え誰に与するかは、そうそう簡単なことではなかったのである。

その激しい戦国の世にあって、次々と主君を変えながら、まるで双六遊びのように浮沈の激しい時代を、サイコロの目に翻弄されながらも遂に上がりにまで到着した人物もいる。
藤堂高虎という人物は、まさにそのような武将であった。


     * * *

藤堂高虎は、弘治二年(1556)近江国犬上郡藤堂村の土豪藤堂虎高の次男として誕生した。幼名は与吉。通称は与右衛門である。高虎は次男であるが、長男は夭折しており嫡男として育てられた。
藤堂家は、先祖代々の小領主であったが、高虎誕生の頃には没落していて、農民とほとんど変わらない生活であったようである。

元亀元年(1570)、浅井長政に足軽として仕え、織田軍と戦った姉川の合戦で初陣を果たし、早速に戦功を挙げている。十五歳の時であるから、元服間もない頃と思われる。
実は高虎は、浅井長政を最初の主君としてこのあと次々と主君を変えて行くのである。やむをえない事情もあり、自らの意思で変えている場合もあるが、その数は十一人に及ぶのである。
そのことに対して、例えば後年仕えた徳川家康の近臣などからは日和見的で信用できないような非難も受けているようであるが、主君を変えて行くということはそうそう簡単なことではないはずである。

高虎が一度でも主君として仰いだ人物を列記してみると、浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄・豊臣秀長・豊臣秀保・豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川家康・徳川秀忠・徳川家光の十一人である。
この激しい高虎の遍歴を見る上で、判断を間違えてはならないことが二つあるように思われる。
その一つは、「武士は二君に仕えず」といった考え方についてであるが、実はこのそのような生き方が当然のように考えられるようになるのは、江戸時代に入ってからのことなのである。それ以前の主君と家臣の関係は、家臣となった上は主君のために命を投げ出すが、主君は家臣の忠義や働きに相応の恩賞によって報いる責務を担っていたのである。それが果たされない場合には、家臣が新しい主君を求めることは当然あり得る選択肢なのである。

もう一つは、主君を変えているといっても、「秀長→秀保」「秀吉→秀頼」「家康→秀忠→家光」については、先代が死去または隠居したために主君が変わったためで、主君を変えたことにはならないという考え方についてである。実際その考え方に立っている研究者の方が多い。
しかし、代が変わって新しい当主に変わらず出仕するということは、そうそう簡単なことではないのである。徳川の歴代将軍の代替わりにより失脚した重臣の数は少なくなく、他の有力大名においても同様の現象が起きている。
高虎の場合、「家光」については、秀忠がまだ生存中であったので主君を変えた数のうちに入れるのは不適切だと思うが、その他については、いずれも外様でありしかも先代に重く用いられていた高虎のような立場は、非常に微妙な状態に置かれることが少なくないのである。

それでは、高虎が双六遊びのように、頂点を目指して必死に生きた軌跡を見てみよう。
最初に仕えた浅井長政は、高虎が初陣を果たした姉川の合戦で敗北を喫し、三年後の天正元年(1573)九月に小谷城は落城、浅井氏は滅亡した。高虎が次々と主君を変えることになる原因の一つは、最初に仕えたのが浅井氏であったことともいえる。

浅井氏滅亡後は、阿閉貞征(アツジサダユキ)に仕えた。
貞征も浅井氏に仕える重臣であった。
阿閉氏は近江国伊香郡の国人(在地の領主。豪族)で、浅井氏が台頭してくると従属するようになり、姉川の合戦には、1000騎を率いて参陣したというから、かなりの有力者であった。北国街道や湖北を睨む要害の地にある山本山城を任されていて、織田軍を苦しめたという。
姉川の合戦の後、没落の気配が濃厚となった浅井氏に見切りをつけたのか、嫡男と共に織田方に降り、小谷城の孤立化に一役買っている。
浅井氏・朝倉氏が滅亡した後は、旧領を安堵され羽柴秀吉の与力として働いたが、本能寺の変では明智光秀に味方して秀吉の居城長浜城を占拠した。しかし、光秀はあっけなく敗れ、阿閉親子は秀吉軍に捕らえられ一族ともども処刑されている。

阿閉氏のもとで高虎がどの程度の働きをしたのか不明だが、まだ足軽程度の地位であったと思われる。
そして、阿閉氏が捕らえられる前か後か分からないが、磯野員昌(イソノカズマサ)の家来になっている。
磯野氏は代々京極氏に仕えていたが、浅井氏が台頭してくるとその家臣となった。
員昌は佐和山城を継いでいて、六角氏との戦いで頭角を現し浅井軍の先鋒を任されるようになっていた。
姉川の合戦は浅井方として活躍したが、その後佐和山城は織田軍に包囲され、翌年の元亀二年二月に信長に降伏した。降伏に至ったのは秀吉の諜報活動の結果とも言われるが、その後は秀吉に取りたてられ、近江高島郡を与えられている。
しかし、天正六年(1578)、信長の叱責を受けたことから出奔、行方不明となる。
員昌は、本能寺の変の後、高島郡に戻り帰農したとも言われており、後年子息らは高虎の家臣になっている。
磯野氏のもとでの高虎の動向もよく分からない。ただ、高虎も二十歳を過ぎており、身長六尺二寸(188cm)という偉丈夫で勇猛であったと伝えられていることから、そこそこの働きはあったと思われる。後に子息が仕えていることからも、一介の足軽ではなかったと考えられる。

磯野員昌が出奔した後の所領は津田信澄(織田信澄)が引き継ぎ、高虎も信澄に仕えることになった。
信澄は織田信長の甥にあたるが、三歳の頃、父の信長の同母弟信行が謀反を企てたとして信長に暗殺されている。信澄は信長・信行の実母である土田御前の助命嘆願により救われ、信長の指示で柴田勝家のもとで育てられた。そのため織田の名乗りを憚り津田姓になっていた。
信澄は員昌の養子になっていたらしく、信長が員昌に、信澄に家督を譲るよう迫ったことが出奔の原因とも言われている。
高虎は、信澄のもとで幾度も戦功を挙げているようだが、それを評価してくれないことが不満で所領を返上して浪人している。
信澄は、その後多くの戦に出陣し、一族としての評価を受けるようになっていった。
本能寺の変勃発時は、四国征伐のため大坂城にあった。信長の命令によるもので、総大将が織田信孝、副大将が丹羽長秀・蜂屋頼隆・信澄といった陣容であったが、光秀謀反の報が伝えられると、信澄が光秀の娘を正室としていたため光秀に加担しているものとみられ、信孝・長秀らに襲撃され討たれている。

信澄のもとを去った高虎は、苦難の浪人生活を送ったようである。無銭飲食をするほどに厳しかったようで、講談などには『無銭飲食を咎めることなく路銀まで恵んでくれた餅屋に、大名となった高虎が参勤交代の途上で餅代を返す』という人情話も作られている。

天正四年(1576)、高虎は羽柴秀長に300石で召し抱えられた。ようやく高虎に光が当たり始めたのである。
秀長は秀吉の弟であるが、常に秀吉の後を控えめに歩いているような人物であったが、その人望は高く、秀吉が天下人にまで上り詰めた陰には、この人の功績は極めて大きい。惜しむらくか、この人が今しばらく長生きしていれば、豊臣家の将来はかなり違ったものになっていたと思われる。
高虎は懸命に働き、秀長はそれに応えて行った。五年後には所領は3000石となり、鉄砲大将になっている。
天正十三年(1585)、秀長に従い各地を転戦、さらに加増を受けていた高虎は、秀吉からも5400石の領地を与えられ、ついに1万石の大名になる。
この後も、紀州征伐の功で5000石、九州征伐の功で2万石の加増と、その所領は拡大していった。
なお、紀州粉河に領地を加増された頃、猿岡山城、和歌山城の普請奉行を務めており、これが最初の築城経験であるが、やがて加藤清正と共に築城の上手といわれるようになる。

天正十九年(1591)、順調に出世街道を走り始めた高虎に試練が訪れた。豊臣秀長が死去したのである。
この時秀長は、大和・紀伊・和泉の三か国に河内の一部も加えた110万石の大大名であり秀吉を支える最大の柱であった。享年五十二歳であるから、当時としては特別早い死去というわけではないが、豊臣政権にとっては、致命的ともいえる人材を失ったのである。
秀長の跡は、養子としていた甥の秀保が継いだ。秀吉の養子として関白となる秀次の弟である。
高虎は重臣として仕え、文禄の役では秀保の代理として出陣している。
ただ、豊臣秀保という人物については多くの資料はないらしく、あまり良くない伝承もあるが、伝承には秀次の影響が働いている可能性もある。
その秀保は、文禄四年(1595)に享年十七歳で早世。高虎はその責任を取り出家して高野山に入ってしまった。

しかし、高虎の才能を惜しんだ秀吉は、生駒親正に説得させて還俗させ、伊予国板島七万石の大名として召し抱えた。
慶長二年(1597)からの慶長の役では、水軍を率いて参加して武功を挙げ、1万石の加増を受けている。
帰国後、板島丸串城を大改修し、完成後に宇和島城と改めている。

慶長三年(1598)八月に秀吉が死去。この前後から、高虎は積極的に徳川家康に接近していたようである。
その理由は、必ずしも時勢を呼んだ上のことだけではなく、かねてより家康とは親交があり、その高邁な志に魅かれていたからと思われる。
豊臣の家臣団が武断派と文治派の対立が表面化し、きな臭い臭いが漂い始めると、高虎は家康に与することを鮮明にした。福島正則・黒田長政ら武断派と呼ばれる武将たちが家康のもとに集結するより先立ってのことである。

慶長五年の関ヶ原の合戦においては、家康の会津征伐に従軍し、その後西進した後は岐阜城攻撃に参戦、関ヶ原での本戦では、大谷吉継隊と戦った。また、脇坂安治、小川祐忠らの東軍への寝返りの調略にも当たっている。
戦後の論功行賞では、宇和島を含む今治20万石に加増される。
その後は家康に仕え、江戸城改築でも手腕を発揮し、慶長十三年(1608)には、伊賀一国並びに伊勢八郡を合わせた22万石に加増され津藩主となった。家康の高虎に対する信頼は厚く、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として扱われた。

慶長十九年からの大坂の陣にも徳川方として参陣、夏の陣では河内方面先鋒隊として豊臣方の長宗我部盛親隊と激戦を交わし、重臣を含む六百人余の死傷者を出す損害を喫している。
戦後には、その功として32万石に加増された。
家康の死にあたっては、枕元に侍ることを許されるなど厚遇が与えられている。
その後秀忠に仕えるようになってからも、元和六年(1620)の秀忠五女和子の入内にあたっては、露払いの役を務め、まだ反対派の公家も少なくない中を堂々と押し進んだという。

藤堂高虎は、徳川体制が堅固となりつつなる中、寛永七年(1630)十月、静かな最期を遂げた。享年七十五歳であった。
荒々しい戦国武将そのものともいわれる高虎は、手足の指には欠損や爪を失くしている部分があり、全身の矢玉や刀槍の傷跡は数知れなかったといわれ、まさに激戦の最前列を駆け廻った武将であったようだ。
一方で、築城術にすぐれ、藩内政治や文化面での功績も高く評価され、大坂の陣の戦没者の供養のため造営された南禅寺の三門は名高い。

戦国の激しい時代を生き抜いた武将の生涯を、双六遊びに例えるのはあまりにも不適切とは思うが、その生きざまは私たちに息吹いているように伝わってくるのである。

                                    ( 完 )
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運命紀行  家康の懐刀

2013-10-17 08:00:51 | 運命紀行
          運命紀行
               家康の懐刀


応仁の乱以来の戦乱の世を収め、二百六十余年に渡る幕藩体制を確立することが出来たのは、何よりも徳川家康という卓抜した人物の資質による部分が大きいことは確かである。
しかし、そこに至るまでには、幾つもの試練があり、奇跡といえるほどの幸運に恵まれていることも一度や二度ではない。
また、いくら家康に卓越した天賦の才能があり、血の滲むような研鑽が積み重ねられていたとしても、一人の天才で事が成就するはずがないことは当然のことである。
そこには、徳川四天王と呼ばれるような有能な武将や、粘り強く逞しい将兵たちに恵まれていたことも要因として挙げることができよう。

さらに言えば、激突し合う戦場での働きではなく、情報や謀略や外交、あるいは経済基盤の拡充、家中の結束なども重要な要因と考えられる。そして、それらの面で大きな働きをした人物たち、とくに、懐刀と呼ばれるような人物が家康を支えていたことも見逃すことが出来ない。
家康の懐刀ということになれば、まず本多正信・正純などがよく知られている。さらに、黒衣の宰相とまで呼ばれた、金地院崇伝・南光坊天海などの存在も挙げられよう。
そして、今一人、阿茶局(アチャノツボネ)という女性の存在も忘れてはならないだろう。

荒々しい武者働きが表に立つ戦国時代であるが、その要所要所で女性が果たした役割や影響は決して小さなものではない。
幾つか例を挙げてみよう。
織田信長の後継者の地位を争っていた羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いにおいて、前田利家は勝家方として戦陣を張っていたが、勝家軍が敗走すると利家はさっさと息子の居城である越前府中城に引き籠ってしまった。追撃してきた秀吉は、単身府中城に乗り込んで、利家ではなく妻女のまつに面会すると、「この度の合戦は又左衛門(利家)に勝たせてもらった」と利家を責めることなく今後味方するようにまつに斡旋を頼んだのである。もちろん言葉に出したわけではなく、「湯漬けを一杯所望」することでその意を示し、まつはしっかりと受け止めたというのである。

もっとも、利家夫人のまつという人は、おそらく戦国期における第一級の人物だったようで、秀吉は利家を味方にするためにはまつを味方にすることが重要であると認識していたのであろう。
まったく同じように、利家が亡くなった後、跡を継いだ利長が家康から謀反の疑いをかけられて窮地に陥ったことがある。この時も、家康はまつを江戸に人質として迎えることで収束を図っている。
家康もまた、前田家を押さえるためにまつがいかに重要であるかということを承知していたのである。

東西両陣営が関ヶ原の戦いに向かって動きが慌ただしくなっていた時、大坂方は、大坂屋敷に残っている諸大名の妻子を人質として押さえようとして動いた。
細川忠興の夫人ガラシャは、人質となることを拒み自刃した。正しくは、キリシタンであるガラシャはその教えにより自殺するわけにはいかず、家老に討たれたのであるが、これにより大坂方は強硬手段がとれなくなっている。一人の女性の抗議が、関ヶ原の戦いに少なからぬ影響を与えたと思われる。

秀吉没後、正室であるねねは大坂城を出て、豊臣政権とは距離を置いていた。淀殿との確執もあったのかもしれないが、豊臣政権はねねの影響力を正しく評価していなかったようだ。
家康は、そのあたりの機微を承知していて、何かと援助をし誼を深めている。高台院の建立にあたっても家康の援助は少なくない。
関ヶ原の戦いにおいて、秀吉恩顧の大名の大半が家康に味方したのには、石田三成憎しの声も大きかったかもしれないが、高台院ねねの存在も関係しているはずである。

たとえ話が長くなったが、家康が東奔西走する中で、常に側近くにあって、奥向きのことをまとめ、時には重要な外交使として働いた阿茶局もそのような女性の一人で、徳川の長期政権の基盤を作り上げる上で、無視できない存在であったように思われるのである。

阿茶局は、弘治元年(1555)、甲斐国で生まれた。名前は須和といい、阿茶局というのは家康に召し出された後の女房名である。父は、武田家に仕える飯田直政である。
十九歳の頃、駿河国の今川氏の家臣神尾忠重に嫁いだ。この頃、武田氏と今川氏とは同盟を結んでおり何らかの交流があったのだろう。
間もなく一子を儲けるが、夫の忠重は四年後に亡くなっている。戦で亡くなったらしい。
その後須和は実家に戻ったようであるが、甲斐・駿河あたりは戦乱が絶えない頃で、実家に落ちつける状態ではなかったらしい。

家康と須和が出会ったのは、天正七年(1579)のことであるが、その経緯ははっきりしない。
須和が儲けた子供は男子で猪之助という名前だとも伝えられているが、その消息はよく分からない。また、須和が嫁いだ神尾忠重は侍大将で、家康と面識があったという話もあるようだがはっきりしない。
確かに、家康は長らく今川氏の人質として駿府にあり、元服も結婚も今川氏のもとで行われているが、今川義元討死の時に今川氏のもとを離れているので、すでに二十年近い年月が過ぎている。忠重を知っていたというのは微妙であるが、神尾家のことは承知していた可能性が高い。

ともあれ、須和はに召し出され、側室となり阿茶局を名乗る。阿茶局が二十五歳、家康が三十八歳の時である。
この頃の家康は、浜松城を居城にして、武田・北条との戦いに明け暮れていた。固い同盟を結んでいる織田信長は、天下統一を目指し西に向かっており、東を押さえることが家康の役目でもあった。
家康は、武芸を身につけ馬術にも優れており、細やかな気配りや奥向きの支配も出来る阿茶局を手厚く遇し、常に側に置くようになっていった。
戦陣にも同行させ、阿茶局は若武者姿で馬上にあることも少なくなかった。
阿茶局が召し出された三年後には、武田氏が滅亡し、さらには信長が本能寺の変で討たれるなど大事が続くが、家康の阿茶局に対する信頼は変わらなかった。

家康と秀吉との唯一度の戦いである小牧・長久手の戦いにも阿茶局は陣中にあったが、この時懐妊するも流産し、この後は家康の子を儲けることはなかった。
しかし、家康の阿茶局に対する信頼と心遣いは変わることなく、奥行きの采配を阿茶局に委ねられるようになり、家中の女性の中で最高位ともいえる立場になって行った。

やがて、家康は秀忠に将軍職を譲るが、隠居後も大御所として政治の実権を握っていた。
阿茶局に対する家康の信頼はますます高まり、奥向きの事はもちろん、外交面でも重要な役割を担い、まさに懐刀と呼ばれるに相応しい存在となる。
慶長十九年(1614)に起こった方広寺の鐘銘事件は、徳川方の作為が窺える事件であるが、この時も豊臣方との交渉の窓口となり、これにより勃発する大坂冬の陣においては、家康の全権を担い交渉にあたっている。
すでに六十歳になっていた阿茶局は、矢弾の飛び交う中を特別製の輿に乗って、大坂城との間を行き来して、淀殿の妹である常高院(お初・お市の方の三姉妹の中の姫)を相手に、徳川方有利の講和を成功させている。

翌年の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡、家康も、長年の懸案を果たしたかのように、翌元和二年(1616)に世を去った。享年七十五歳、阿茶局は六十二歳になっていた。
豊臣を亡ぼし、かねてより二代将軍秀忠の体制を固めてきた家康であるが、まだまだ豊臣に恩義を感じている勢力を恐れていた家康は、側室すべてが仏門に入る中、阿茶局には落飾を許さぬ旨の遺言を残し、秀忠を援けるよう言い残したのである。
阿茶局は、江戸城竹橋に邸を賜り、中野村に三百石の賄い料が与えられたという。

そして、阿茶局には、家康がやり残していた仕事を見届ける役目が待っていたのである。


     * * *

徳川家康という人は、子福者といえるほど多くの子供に恵まれている。
中には悲劇的な最期を迎えさせてしまった子供もいるが、徳川家による盤石の政権を築くことが出来た一因には、多くの子供や養子を手中にし、それによる婚姻政策により政権の安泰を果たしている点が挙げられる。
あまりにも脆弱であった豊臣政権を見た場合、血縁・姻族などの結束に大きな差があるように思われる。

家康は、そのことを何よりも熟知している武将であり政治家であったようだ。
家康の正室は、悲劇の死を迎えることになった築山殿と、継室に迎える秀吉の妹朝日姫の二人である。
しかし、側室となると、手元の資料だけでも十八人が記されており、そのほかにも子をなしたらしい女性だけでも数人が挙げられている。
子供となると、男子十一人、女子五人を儲けており、落胤の噂があったらしい子も何人かいる。
さらに、それでだけでは家康が描く遠大な構想には駒不足で、猶子・養子が四人、養女は十八人を数えている。
そして、こうした家康の大構想の最後の仕上げとなるべきことは、徳川の娘を入内させることであった。
家康が阿茶局に託した仕事とはそのことであった。

家康は生前、慶長十六年(1611)に即位した後水尾天皇に秀忠の娘・和子を入内させるべく働きかけていた。
慶長十九年四月には、入内宣旨が出されたが、大坂の陣の勃発で実現に至らず、さらに肝心の家康が実現の日を迎えることが出来ず、秀忠に後を託して世を去ってしまったのである。
阿茶局の落飾を認めなかった最大の理由は、和子の入内実現のためには阿茶局の力が欠かせないと考えたからと思われる。

家康の死去により入内の実現は伸び、さらに後水尾天皇の父である先帝・後陽成院が亡くなるなど、障害が続いた。
元和四年(1618)に至り、ようやく女御御殿の造営が始まったが、後水尾天皇が寵愛する女官に皇子が誕生していることが表面化し、和子の入内は危機に面した。結局、翌年に秀忠が直接上洛し参内するという騒動となり(およつ御寮人騒動)、宮廷に爪痕を残すような形で解決を図っている。
将軍自らが騒動解決に動くにあたっては、何人もの幕臣が奔走しているはずであるが、その中には阿茶局も加わっていたことであろう。

元和六年(1620) 、和子は女御として入内する。家康が宮廷に申し入れた時には、和子はまだ五歳であったが、この時には十四歳になっていた。
阿茶局は、御母代(オンハハシロ)として上洛、後水尾天皇から従一位を賜っている。
和子が懐妊すると、再び上洛して身の回りの世話をし、幕府と宮廷を繋ぐ重要な地位を占めて行った。
元和九年(1623)に誕生した皇女は、後の明正天皇である。
和子は翌年には、中宮に冊立されている。
なお、和子は「まさこ」と読まれるが、もともとは「かずこ」であったが、宮中では濁音が避けられるため「まさこ」と呼ばれることになったらしい。

秀忠が将軍職を家光に譲った後も、朝廷との融和、宗教政策の連携などにも加わり、重要な役割を果たし続けた。
寛永三年(1626)に秀忠と家光が上洛し、二条城に後水尾天皇の行幸を得た時も、その手配や饗応に尽力している。
阿茶局は、家康から厚い信頼を得ていたことに加えて、秀忠が十一歳の時からは親代わりとして養育しており、秀忠の将軍職継承は必ずしも定められた路線ではなかったことを考えると、阿茶局の影響も少なくなかったと考えられる。おそらく秀忠も、家康と同様か、あるいは遥かに大きな信頼を置いていたと思われる。

寛永九年(1632)に秀忠が他界すると、阿茶局は落飾した。七十八歳になっていた。
その後は京都での生活だったらしいが、当然陰に陽に和子の力になっていたのではないだろうか。
そして、五年後の寛永十四年(1637)、京都でその生涯を終えた。享年八十三歳、家康に側室として仕えてからでも五十八年が経っていた。
晩年の活躍が京都であったことから、京都東山の金戒光明寺に葬られ、阿茶局開基の上徳寺を菩提所とし、江戸では、同じく阿茶局が開創した雲光寺にも分骨されたという。

江戸幕府の草創期にあたって、阿茶局という一人の女性の果たした役割は、決して小さなものではなかったと思われるのである。

                                      ( 完 )

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夏から秋へ ・ 心の花園 ( 49 )

2013-10-14 08:00:20 | 心の花園
          心の花園 ( 49 )
               夏から秋へ


季節は夏から秋へと移って行きます。
ごく自然な時の流れだと思うのですが、今年はあまりにも残暑が厳し過ぎて、どのあたりに秋の気配を感じればよいのか、悩んでしまいます。

心の花園の「ニチニチソウ」は、まだまだ元気なようです。
初夏から夏の終りまで、次々と花を咲かせ続けてくれる「ニチニチソウ」も、ぼつぼつお役御免の頃かと思うのですが、まだまだ元気に花をつけています。
それでも、鉢植えにしている物の中には、かなり弱ってきているものも見受けられます。
やはり、季節は夏から秋へと移っているのでしょう。

「ニチニチソウ」の原産地はマダガスカルですが、熱帯地帯の各地に自生している物が見られます。
温帯での栽培も可能で、わが国でも園芸種として人気の草花の一つです。
花色は、白・桃・赤・赤紫など多くはありませんが、中心に違う色をつけるものもあります。
花は、一日花ではありませんが、3~5日程度と短命ですが、次々と新しい花を咲かせ、厳しい夏の間も休むことがありません。
栽培も比較的やさしく、初心者には嬉しい草花といえます。わが国の冬を越えるのは無理で、秋には枯れてしまいますが、花壇に植えている場合には、翌春、あちらこちらから新しい芽を出してくれますよ。

「ニチニチソウ」の花言葉には、「楽しい想い出」「優しい追憶」「生涯の友情」などが付けられていて、いずれも心が優しくなるようなものばかりです。
間もなく、心の花園の「ニチニチソウ」も、全てがその命を終えるのでしょうが、私たちに優しい心を芽生えさせてくれたかもしれません。
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運命紀行  大輪の花    

2013-10-11 08:00:25 | 運命紀行
          運命紀行
               大輪の花

歴史上の人物の中には、せめて後しばらく生きていたなら、と思わせる人物が何人かいる。
遥か後の世に生きる私たちが、「もし」とか、「せめて」などと考えることは、無責任な妄想であって、歴史を正しく認識する上で何の意味もないことは承知している。しかし、それでもなお、そう思わせる人物はいるものである。
蒲生氏郷という人物は、少なくとも私にとってはそのような人物の一人である。

蒲生氏郷は、弘治二年(1556)、近江国蒲生郡日野において、日野城城主蒲生賢秀の嫡男として生まれた。幼名は鶴千代である。
蒲生氏は、藤原秀郷の系統を引く鎌倉時代からの名門とされる。この藤原秀郷という人物は、平安時代の貴族・武将であるが、百足退治の武勇で名高い俵藤太のことである。
この頃は、日野を拠点とする豪族で、六角氏の重臣として仕えていた。

永禄十一年(1568)、六角氏が織田信長により亡ぼされると、蒲生賢秀は嫡男鶴千代を人質として差し出して、信長に臣従することになる。
鶴千代が十三歳の時であるが、これが後の氏郷が信長と出会う切っ掛けとなったのである。
信長は、十三歳の鶴千代を見て、「ただ者ではない」とその天賦の才を見抜いたと伝えられている。

人質となった鶴千代であるが、この年には初陣を果たし、北畠氏との戦いや伊勢大河内城の戦いにおいて目覚ましい働きを見せ、信長の期待に応えた。
信長は、娘の冬姫を鶴千代に娶せることにして、自ら烏帽子親になって岐阜城において元服させ、忠三郎賦秀と名乗り、この後は織田一門として手厚く遇せられるのである。
なお、氏郷を名乗るのは、天正十三年(1585)の頃で、羽柴秀吉に仕えるようになり、「秀」の字が下に付くのを遠慮したことから改名したとされている。本稿では、この後は氏郷に統一する。

元服し冬姫を妻とした後には、人質の身から解放され日野城に戻ったようである。十五、六歳の頃のことである。
この後は、父と共に戦陣に出ることも多かったようであるが、天下を目指す信長軍の一員として慌ただしい日を送ることになる。
姉川の戦い、越前朝倉氏との戦い、浅井氏の小谷城攻撃、伊勢長島攻め、長篠の戦いなど大きな合戦に加わり、武功を挙げている。

天正十年(1582)、順調に天下掌握に向かっていたと思われた織田信長が、本能寺の変により無念の最期を遂げたのは、氏郷が二十七歳の時であった。
この時、父賢秀は安土城の留守居役を勤めていた。氏郷はおそらく日野城にあったと思われるが、父と共に、安土城にいた信長の妻子を保護し、日野城に籠り明智光秀に対抗する意思を示した。
光秀は、明智光春らに命じて、近江国の長浜、佐和山、安土城を次々に攻略していった。その一方で、光秀からは賢秀に対して、法外な恩賞を提示して勧誘がなされたが、父子ともに信長の厚誼に殉ずるとして拒絶した。
連勝の勢いで、明智軍は一気に日野城に襲いかかる手筈が進められたが、その直前に光秀が敗死してしまったのである。

その後は、歴史上名高い「中国大返し」強行に成功して明智軍を打ち破った羽柴秀吉に仕えることになる。
秀吉は、氏郷に伊勢松ヶ島十二万石を与えているが、秀吉も信長同様に秀郷の器量を認めていたのである。
清州会議を優位に導くことに成功した秀吉は、信長後継者の立場を固めて行った。氏郷は、秀吉に従って合戦に加わり、天正十二年(1584)には羽柴姓を与えられている。
なお、父の賢秀が没したのはこの頃のことであり、氏郷を名乗るのもこの頃からと思われる。

その後も、九州征伐や小田原征伐にも従軍しているが、この頃には、秀吉軍の主力部隊の一角を占めるようになっていた。
また、高山右近らの影響からキリスト教の洗礼を受け、有力なキリシタン大名の一人に数えられるようになる。また、文化面での成長も著しく、特に茶道においては千利休に師事し、「利休七哲」の筆頭に数えられている。
天正十六年には豊臣姓が与えられ、豊臣政権の重要人物として認知されていたことが分かる。

天正十八年(1585)、関東の北条氏を降しほぼ天下統一を果たした秀吉は、奥州の仕置きにおいて、氏郷を伊勢から陸奥会津四十二万石に大幅な加増の上移封させた。奥羽の地は検地が十分行われておらず、その後の検地では九十二万石となり、徳川家康は別格としても有力大名に躍進したのである。
氏郷を上方から遠く離れた会津の地に移したことについては、もちろん秀吉の意図が込められていることは確かである。
単純に、これまでの武功に応える大加増という面ももちろんあろうが、同じく関東に移した徳川氏の背後を押さえる役目を担っていたことは確かであろう。
さらに、野心に溢れた伊達政宗に対抗させる役目も期待されていたことであろう。実際に、この後、蒲生氏と伊達氏は対立が激しくなって行くのである。

それともう一つ、秀吉にとっては神ともいえる存在であった信長が高く評価していた氏郷の器量を恐れたためともいわれている。信長亡き後、実際に幕下として見てきた秀吉にとって、氏郷を恐れるとまではいかなくとも、近くで大勢力を持たせることを危険視した可能性はある。
家康を、先祖伝来の地から関東に移したのも同様の考えからであろうが、家康は家臣が不満を述べるのを押さえて粛々と関東に移って時を待ったが、氏郷は、これでは天下は望めないと家臣に嘆いたとも伝えられている。

会津に移った氏郷は、町の名前を黒川から若松に変え、城下の拡充を図っている。七層の天守を有する(現存のものは五層)城は、氏郷の幼名に因んで鶴ヶ城と名付けられた。
城下町には、旧領の日野や松坂から商人たちを迎え入れ、商業を重視する施策がとられた。おそらく、信長の安土の町割りを参考にしたと思われる。
その一方で、会津はもとは伊達政宗の領地であったことから、政宗との衝突は少なくなかった。頻発する一揆の背後には、政宗の策謀があったと告発している。

文禄元年(1592)の文禄の役では、肥前名護屋城まで出陣しているが、この陣中で病を得て、翌年十一月に会津に帰国している。
しかし、病状は回復せず、翌文禄三年(1594)春に上洛し療養を続けた。この年の秋には、秀吉をはじめ諸大名を招いて大掛かりな宴会を催しているが、この頃には誰の目にもあきらかなほどに病状は悪化していた。
秀吉は、前田利家、徳川家康に名のある医師の派遣を要請するとともに、自らも曲直瀬玄朔を派遣している。

しかし、病状は完治することなく一進一退を続け、文禄四年(1595)二月、ついに帰らぬ人となった。
辞世の句が残されている。
『 限りあれば吹かねど花は散るものを 心短き春の山風 』 
享年四十歳、大輪の花が咲き切らぬうちの旅立ちであった。


     * * *

蒲生氏郷と戦国の世を統一へと動いた武将たちの年齢を比べて見ると、織田信長が二十二歳上、豊臣秀吉が十九歳上、徳川家康が十四歳上である。さらに言えば、明智光秀は二十八歳上になり、上杉謙信、武田信玄なども、信長より上の年代である。
つまり、単純に年齢だけでいえば、戦国の世の統一は、氏郷より少し年長の武将たちによって成されたといえるかもしれない。
伊達政宗も天下に野望を抱いていたとも言われるが、政宗は氏郷より十一歳下である。両者ともに、天下を狙うには、生まれてくるのが少々遅かったのかもしれない。

氏郷の戦歴などを見てみると、天下を狙っていたという痕跡のようなものはあまり見当たらない。信長は義父にあたり、秀吉に対してもあまりにも密着して仕えているからと思われる。むしろ、若き日の伊達政宗の方が野心に満ちているように思われる。
しかし、それにしては、氏郷が天下に野心を抱いていたような逸話がいくつか残されている。

先にも述べたが、氏郷が会津九十二万石を拝領した時、「たとえ大領であっても奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることは出来ない」と嘆いたという話が残されている。もし事実だとすれば、このような話が世間に漏れるようでは、一流の武将とはいえなくなってしまう。
秀吉が、「氏郷を近くに置いておくのは危険だ」と言ったということとセットになっている話で、どこまで真実として捉えるべきか疑問である。

また、秀吉が側近を集めて、自分が亡きあとの天下人が誰になるか自由に話させたことがあったという。
「血統や年齢での順序なら秀吉の甥であり養子である秀次である」という意見に対して氏郷は、「彼の愚人に従う者があろうか」と酷評した。
「関東で大領を支配する徳川家康」という意見に対して、「彼の人は吝嗇に過ぎる。天下を得るべき人にあらず」と評した。
「それでは、家康に次ぐ実力者である加賀の前田利家」という意見に対して、「加賀少将は御高齢。もし利家が天下を得ずば、我が得るべし」と答えたという。
いくら無礼講であったとしても、秀吉の面前でこのような発言をするほど、氏郷は軽率な男ではなかったはずである。後世に作られた話と考えられるが、そこには、氏郷に対する期待があったと思われる。
ただ、惜しむらくは、氏郷はいずれの人にも先立って世を去っているのである。
氏郷の死に関して、暗殺の可能性が語られることが古くからある。しかし、長く病に苦しんでいたことや、医師の記録などからみて、その可能性は少ないと考えられる。

氏郷は、城下町の建設にあたっても非凡なところを見せているし、茶道は超一流の域にあった。キリシタンの洗礼を受けているのも、宗教的な意味を否定するわけではないが、その文化や清新さに魅かれた部分も大きいと思われる。
このあたりは、何か、信長をほうふつさせる雰囲気を感じるのである。
氏郷という人物に、天下への野望や、傲慢なほどの大胆さなどが逸話として残されている背景には、織田一門として厚く遇せられていたことがあるのかもしれない。氏郷にとっては、明智も羽柴も織田の臣下に過ぎず、家康といえども実力にかなりの差がある弟分といった位置付けだったのである。

氏郷が亡くなった後、嫡男の秀行が跡を継いでいる。その後は減封や移封などで厳しい経験をするが、秀行が家康の娘を正室に迎えていたことから何度か厚遇を得て次代に家督を継いでいるが、やがて嫡子が無いことから断絶している。

氏郷が、せめてあと十年健在であれば、歴史の流れに少なからぬ影響を与えていたような気がする。
たとえ二十年長生きしたからといって、氏郷が秀吉にとって代わったり、家康の偉業を阻むことなど出来なかったと思う。戦国時代の末期にあって、際立った輝きを見せる人物であったことは確かだと思うが、天下人というイメージは湧いてこない。
ただ、少なくとも、関ヶ原の合戦はかなり違う形のものとなり、あの合戦そのものが勃発に至らなかったかもしれないと思うのである。
詮ない想像であるが、蒲生氏郷という人物は、そのような空想を駆り立ててくれる。

                                      ( 完 )
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運命紀行 ・ 今一つの三本の矢  

2013-10-05 08:00:27 | 運命紀行
          運命紀行
               今一つの三本の矢

毛利元就という人物が、戦国期の諸大名の中でも傑出した人物であったという評価には異論はあるまい。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と戦国の世を駆け抜けて行き、天下統一に至った人物たちに比べれば、いかにも地味であることは確かである。しかし、それをもって、元就という人物を過小評価するのは間違いだと思う。

元就という人物が評価される場合、幾つかの固定観念のようなものがあるように思われる。
例えば、「優柔不断であった」とか、「大器晩成型であった」とか、「もっぱら謀略を得意とした」などである。
元就の生涯を調べてみると、言われている評価がとんでもない間違いだというわけではないが、それらのことが過大評価されているように思われる。

「優柔不断である」という部分については、元就が登場する小説などにおいては、そのように描かれている場合が多いことと、元就という人は正室の妙玖(ミョウキュウ・名前は伝わっておらず、法名である)をとても大切にしていて、何かと相談していたらしいことにも原因しているようだ。また、戦にあたっては、事前の準備を重視したことにも原因しているかもしれない。
しかし、元就の数多い合戦歴を見ると、無謀なほど果敢な戦いに臨んでいることも少なくない。

「大器晩成型であった」というのは、少し違う気がする。
その根拠は、毛利元就が広く天下に知られるようになった戦いは厳島合戦だとされるが、この時元就は五十五歳であり、元就の領土はこの戦い以降に急激に拡大していることから、大器晩成型という評価がされることがあるらしい。
しかし、元就の初陣は二十歳で、これも当時の武将の子としてはかなり遅い方だが、それは元就の家中での地位が高くなかったからであって、この初陣は、銀山城主武田元繁が吉川領の有田城を攻撃してきたのを救援するためで、毛利家の命運を賭けた戦いだったのである。この戦いに、元就は甥の幼い当主の代理として采配を振るっているのである。
その後は、元就の生涯は戦いの生涯であった。厳島合戦に至るまでの戦歴を見れば、とても大器晩成型の人物だとは思えないのである。

「もっぱら謀略を得意とした」ということについては、当時の記録などにも書き残されており、「稀代の謀将」とまで言われていたようであるから、否定は出来ない。周辺の有力国人(豪族)を婚姻によって味方陣営に加えて行っていることは、歴とした事実でもある。それも、家督争いなどの内紛に介入して、わが子を養子として送りこむ方法などが多く、謀略に長けていたと表現される部分も少なくない。
しかし、養子として送り込まれる相手も、そうそう凡庸な人物ばかりではないわけで、そこには例え不承不承であったとしても、誼(ヨシミ)を結んでみようと思わせる魅力が元就にはあったともいえる。

さて、伝えられている元就の人物像の中で、正室の妙玖と仲が良かったということは真実らしい。妙玖は毛利と同じような国人の吉川国経の娘であるが、とても大切にしていたようである。
元就には側室も何人かいたが、妙玖の生んだ子供と側室の生んだ子供とは相当差別していたらしいことが伝えられている。
それに、妙玖は三人の男子と二人の女子を儲けているが、いずれも優れた人物だったらしい。

長女は、幼くして高橋氏の人質となり、その結果殺害されるという悲運のうちに夭折している。
次女の五龍局は、その名前のように才気に溢れた女性だったようであるが、長年敵対関係にあった有力国人の宍戸隆家に嫁ぎ、宍戸隆家は毛利家一門の筆頭として毛利本家を支える存在になる。
長男隆元は、嫡男として元就から家督を継ぐが、四十一歳で亡くなっている。病死とされているが暗殺された疑いもあり元就も対応するような行動をしている。隆元は温和な性格で、弟たちのような武勇の誉れは少ないが、亡くなった後にその存在の大きさが分かったといわれている。元就の悲しみは方は尋常ではなく、幾多の難関を切り抜けた元就の生涯にとって、隆元の死は最大の誤算であったといわれている。
次男元春は、妙玖の実家を継ぎ吉川元春となる。
三男隆景は、小早川に入る。
この二人は武勇に優れ、吉川氏は安芸・石見に勢力をもっており、小早川氏は安芸・備後・瀬戸内海に勢力を張っていて、「毛利の両川体制」と呼ばれる強力な軍事力で毛利本家を支えている。

元就が、隆元・元春・隆景の三人に対して、三本の矢を示して協力し合わなければならないと諭したとされる「三本の矢の教え」は、大変有名な話である。
この逸話が事実であるか否か、あるいは事実だとしてもどのような場で述べたものかについては諸説ある。
しかし、逸話の真否はともかく、毛利氏が中国地方に強大な領土を手中に収めて行く過程において、元就個人の能力もさることながら、三本の矢にたとえられた優秀な三人の息子なしでは成しえなかったことは確かであろう。

だが、毛利氏の歴史を今少し長い時間帯で見た場合、少し違ったものが見えてくる。
順調に領土を広げ、中国地方の覇者となった毛利氏であるが、やがて関ヶ原の戦いという試練にぶつかる。
滅亡の危機を切り抜けた毛利氏は、幕末期には再び長州藩として歴史の檜舞台に登場してくるのである。
関ヶ原の戦いの後大幅に領地を減らされ、忍従の時を強いられるが、それに耐え抜いた部分まで広げて考えた場合、「今一つの三本の矢」とでも表現したいような、三人の兄弟が浮かび上がってくる。
それは、元清・元政・秀包という毛利の三人の兄弟であり、その母が今回の主人公である「乃美大方」なのである。


     * * *

乃美大方(ノミノオオカタ)が元就に輿入れしたのは、天文十七年(1548)の頃と思われる。元就の正室妙玖が亡くなってから二年ほど経っていた。
乃美氏は小早川氏の一族で、隆景に協力していた乃美隆興の妹である。(娘とする説もある)
当然政略が絡んだ結婚であるが、元就が正室を亡くした後でもあり、継室として嫁いだと考えられるが、側室扱いだったとも言われる。いずれにしても、元就は妙玖に対する思いやりは深く、たとえ継室であったとしても、妙玖と乃美大方との扱いにははっきりと区別をつけていたようである。

乃美大方の生年は不詳である。従って、元就のもとに嫁いだ時の年齢も分からないが、三年後の天文二十年(1551)に元就の四男にあたる少輔四郎を儲け、永禄二年(1559)に七男にあたる少輔六郎を儲け、永禄十年(1567)に九男にあたる才菊丸を儲けている。
偶然とはいえ八年ごとに三人の男児を誕生させているが、才菊丸の誕生時には元就は七十一歳であり、四年後には亡くなっている。
元就には他にも側室がおり、子供も儲けているが、かねがね正室以外の子供のことを、「虫けらのような子供たち」と表現している。また、三本の矢にたとえられた妙玖の子供たちに、「もし、この子等が賢ければ取り立てるように」と親らしい言葉も残しているが、同時に「たいていは間抜けで無力だろうから、その時にはどのように取り扱っても構わない」と言い残しているともいう。

元就の真意が那辺にあるのかはともかく、妙玖の子供たちが際立って優れていたことも事実のようである。そのような環境の中で、乃美大方はどのように三人の息子たちを養育していったのであろうか。
もちろん、今日のように、子供たちを母親が手塩にかけて育てられるわけではなかった。それぞれに乳母が付き守役が付いたことであろうし、子供たち自身も早くから試練にさらされている。
しかし、乃美大方の儲けた三人の息子たちは、父親の評価を裏切るかのように母親の期待に応えて、それぞれに毛利家存続のために大きな役割を果たしているのである。

乃美大方の最初の子少輔四郎は、永禄九年(1566)長兄の嫡男である当主輝元の加冠を受けて元服した。元清を名乗るのはこの時からと思われる。
この時元清は十六歳であるが、当主の輝元はまだ十四歳であった。
永禄十一年(1568)、村上通康の娘を妻に迎える。村上水軍との関係強化を図るための結婚であった。
この年、毛利の主力が北九州に進出すると、宇喜多直家が背いて備中松山城と猿掛城が攻め落とされてしまった。元清は、父元就の命令により、三村元親と共に両城を奪還した。
翌年には、北九州の大友氏との戦いに加わり、暮には三村元親らと宇喜多軍と戦っているが、この時は大敗を喫している。
元清は、すぐ上の兄隆景とでも十八歳違うが、元服と共に次々と出陣しており、すでに武勇に優れていたようである。

その後も宇喜多軍との攻防は続き、松山城などを奪い返した後、元亀三年(1572)安芸桜尾城を与えられ、終生の居城とした。
天正二年(1574)には、元春・隆景の兄たちに従って、三村元親討伐軍に加わっている。三村元親とは、共に宇喜多軍と戦ってきた仲であるが、毛利氏が宇喜多氏と同盟することとなり、これに反発した元親が織田信長と通じたためであった。この頃の中国路は、敵と味方が入れ替わる動乱の時期であった。

天正三年(1575)、毛利氏に従った猿掛城の城主で、三村一族でもある穂井田元祐の養子となり、この後は穂井田姓を名乗り、毛利氏の東の守りの重鎮となる。
天正十年(1582)には、備中鴨城において羽柴秀吉軍と戦い、備中高松城の戦いで毛利氏が秀吉と講和を結んだ後は、秀吉に臣従した毛利軍として戦い続けた。
天正十三年(1585)、長男の秀元が当主である輝元の養子となったため、元清も毛利姓に復している。

天正十七年(1589)には、安芸広島城の築城に参画し、城下町建設においても普請奉行として采配を振るい、武略ばかりではない才能を示している。
文禄元年(1592)の文禄の役においては、病床の輝元に代わって毛利軍の総大将についている。
この後も、吉川氏・小早川氏が独自路線に傾いて行く中、元清は毛利の重臣筆頭として輝元を補佐し続けるのである。
元清は、慶長二年(1597)桜尾城において没した。享年四十七歳であった。

乃美大方の二番目の子は、永禄十二年(1569)、安芸国の有力国人である天野氏の養子となった。十一歳の頃である。
天野氏当主の元定が死去したのち、家督をめぐって内紛が起きていた。これに元就が介入し、元政(少輔六郎)を元定の婿養子としてその娘と娶せ家督を継がせることで事態を収束させたのである。元就の最も得意とする戦略ともいえる。
その後、大内氏庶流である右田氏の養子となり、その名跡を継いでいる。
元政も武人として兄元清と行動を共にすることが多かったようだ。
後に毛利姓に戻り、右田毛利氏として一家を立てる。
慶長十四年(1609)萩で没した。享年五十一歳であった。

一番下の子の生涯は、もっとも波乱に満ちていたといえる。
秀包(ヒデカネ)と名乗ることになる元就の九男は、誕生した時にはすでに長兄は亡くなっており、当主は甥にあたる輝元であった。つまり、秀包は生まれた時にはすでに当主の叔父にあたったわけである。さらに、父も五歳の頃には死去するので、元就の教えを受けることはなかったといえる。

元亀二年(1571)、五歳にして備後国内に所領を与えられているが、父の死と関係があると思われ、早くも独立を促されている感じである。
しかし、この年の五月に備後国の国人太田英綱が死去すると、その近臣たちに懇願されて後継者となり太田元綱と名乗ることになる。この時は、元就は死の直前であり、毛利氏から介入したものではないらしく、後継者になることを決定したのは、元春か隆景と想像される。

天正七年(1579)、兄の隆景に嫡子がいなかったため、その養子となり小早川元総を名乗った。これには、母出自の乃美氏が小早川庶流であることが関係していたようだ。
天正十一年(1583)、人質として吉川広家と共に羽柴秀吉のもとに送られた時に、「秀・藤」の字を賜り、藤四郎秀包と改名した。
秀包は秀吉に可愛がられ、人質の身でありながら小牧・長久手の戦いには秀吉に従って出陣しており、天正十三年には、河内国内に一万石が与えられ、四国征伐で功を挙げると、伊予国大津城三万五千石が与えられた。秀包が十九歳の頃である。

天正十四年(1586)からの九州征伐では、兄であり養父である隆景に従って従軍し、戦後に隆景が筑前・筑後に領地を与えられると、筑後国内に七万五千石が与えられ、翌年には久留米城を築いた。
その後、大友宗麟の娘を妻に迎え、宗麟との関係から洗礼を受け、キリシタン大名としての活躍もしている。
秀吉からは豊臣性を与えられ、久留米は十三万五千石に加増されるなど、厚遇され続けていた。
しかし、文禄三年(1594)、秀吉の養子木下秀俊(後の小早川秀秋)が隆景の養子となったため、秀包は廃嫡されることになり、別家を創設した。これは、秀吉が毛利本家に養子を送りこもうと画策していることを察知した隆景が、小早川が養子を受け入れることで毛利本家を守ったのだといわれている。

関ヶ原の合戦では、西軍に属したため改易され、領地を没収されたため輝元より長門国内に所領が与えられたが、毛利姓に復した後出家している。
この頃から体調を崩していて、慶長六年(1601)に病没した。波乱に満ちた三十五年の生涯であった。
なお、嫡男は、吉敷毛利家を興している。

乃美大方の三人の息子たちは、秀吉没後の激しい時代を大幅に領地を減らした毛利本家を守り抜くのに大きな貢献を果たしているのである。
特に、元清の子孫たちは、本家萩藩の支藩として長府藩・清末藩の藩主として存続し、輝元の直系が絶えた時には、本家の養子として萩藩藩主となり、元就の血統を幕末まで守り続けたのである。
乃美大方は、関ヶ原の合戦の後、毛利氏の移封に従い長門国秋根に移り、慶長六年(1601)九月に、毛利家の安泰を願いながら生涯を終えている。

元就の正室妙玖の生んだ、隆元・元春・隆景という三本の矢は確かに偉大であるが、継室乃美大方の生んだ、元清・元政・秀包の三人も、毛利家にとって「今一つの三本の矢」と評するに値する存在であったと思うのである。

                                   ( 完 )




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