運命紀行
双六のように
一言に戦国武将といっても、世に知られた人物もあれば、僅かな領地に命を懸けて戦い抜いた人物もいる。
一国一城の主となり、大軍勢を率いて天下を狙う人物もあれば、大勢力の狭間で、どちらに与することで生き延びるかに腐心する生涯を送った人物もいる。
いずれにしても、戦国時代という激しい時代を生き抜く武士は、大は大なりに、小は小なりに簡単なことではなかった。
歴史上、武士がいつ登場したかということには諸説があるし、それを追及することは本稿の目的ではない。
ただ、言えることは、王族や貴族たちを護衛するために誕生してきたということではなく、部族間、あるいは集落間の利害が対立し解決が困難になった時、武力でもって有利に立とうとした人物は、王族や貴族たちの登場より遥か昔から存在したはずである。
それを武士と呼ぶか否かは別にして、戦国時代の頃ともなれば、もっぱら武力で以って一定地域に君臨していた豪族たちは、自身や一族の武力を鍛えるとともに、どの勢力と同盟を結ぶか、どの勢力の傘下に入るかは、実に重大な決断であったはずである。
戦国の始まりとされる応仁の乱を見ても、東西の二陣営に分かれて戦乱を繰り返したが、日本が真っ二つに分かれて戦ったかといえば、全くそうではない。本陣が西にあったから西陣営、東側にあったから東陣営と呼ばれただけで、それぞれの大名や豪族たちは、一族の命運をかけて、どちらに与するかを選択し、時には立場を変えたりしているのである。
応仁の乱ほど全国的でなくとも、例えば、毛利氏が台頭してくる頃の中国地方は、大内氏と尼子氏が抜きん出た勢力を有し対立していたので、その狭間にある豪族たちは、毛利氏をはじめ、大内に付くべきか尼子に付くべきかが、一族を守る最大課題だったのである。
同じことは、武田氏と上杉氏の間に位置していた豪族たちも同様であるし、若い頃の徳川家康などもそのような流れに翻弄されていたといえるのである。
つまり、一族を率いる武将はもちろんのこと、一人の武士にとっても、誰に仕えるか、誰に与するかによって将来が変わり、それはまさに命を懸けた判断が必要だったのである。
織田氏は、尾張国守護斯波氏の守護代として勢力を有していたが、信長という麒麟児の出現により、織田家中の力関係は大きく変わり、やがて尾張を手中に収め、美濃から近江へと勢力圏を広げて行く。その過程では、信長に従ったものは勢力を伸ばしたが、反抗した者は衰退あるいは滅亡にいたっている。
さらに、信長に与したり家来になったからといって繁栄が約束されたわけではなく、敵軍と戦って戦死したのならともかく、僅かな罪を問われて追放されたり誅殺された者の数も少なくない。
武士といえども、単に戦陣で活躍すればよいということではなく、誰に仕え誰に与するかは、そうそう簡単なことではなかったのである。
その激しい戦国の世にあって、次々と主君を変えながら、まるで双六遊びのように浮沈の激しい時代を、サイコロの目に翻弄されながらも遂に上がりにまで到着した人物もいる。
藤堂高虎という人物は、まさにそのような武将であった。
* * *
藤堂高虎は、弘治二年(1556)近江国犬上郡藤堂村の土豪藤堂虎高の次男として誕生した。幼名は与吉。通称は与右衛門である。高虎は次男であるが、長男は夭折しており嫡男として育てられた。
藤堂家は、先祖代々の小領主であったが、高虎誕生の頃には没落していて、農民とほとんど変わらない生活であったようである。
元亀元年(1570)、浅井長政に足軽として仕え、織田軍と戦った姉川の合戦で初陣を果たし、早速に戦功を挙げている。十五歳の時であるから、元服間もない頃と思われる。
実は高虎は、浅井長政を最初の主君としてこのあと次々と主君を変えて行くのである。やむをえない事情もあり、自らの意思で変えている場合もあるが、その数は十一人に及ぶのである。
そのことに対して、例えば後年仕えた徳川家康の近臣などからは日和見的で信用できないような非難も受けているようであるが、主君を変えて行くということはそうそう簡単なことではないはずである。
高虎が一度でも主君として仰いだ人物を列記してみると、浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄・豊臣秀長・豊臣秀保・豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川家康・徳川秀忠・徳川家光の十一人である。
この激しい高虎の遍歴を見る上で、判断を間違えてはならないことが二つあるように思われる。
その一つは、「武士は二君に仕えず」といった考え方についてであるが、実はこのそのような生き方が当然のように考えられるようになるのは、江戸時代に入ってからのことなのである。それ以前の主君と家臣の関係は、家臣となった上は主君のために命を投げ出すが、主君は家臣の忠義や働きに相応の恩賞によって報いる責務を担っていたのである。それが果たされない場合には、家臣が新しい主君を求めることは当然あり得る選択肢なのである。
もう一つは、主君を変えているといっても、「秀長→秀保」「秀吉→秀頼」「家康→秀忠→家光」については、先代が死去または隠居したために主君が変わったためで、主君を変えたことにはならないという考え方についてである。実際その考え方に立っている研究者の方が多い。
しかし、代が変わって新しい当主に変わらず出仕するということは、そうそう簡単なことではないのである。徳川の歴代将軍の代替わりにより失脚した重臣の数は少なくなく、他の有力大名においても同様の現象が起きている。
高虎の場合、「家光」については、秀忠がまだ生存中であったので主君を変えた数のうちに入れるのは不適切だと思うが、その他については、いずれも外様でありしかも先代に重く用いられていた高虎のような立場は、非常に微妙な状態に置かれることが少なくないのである。
それでは、高虎が双六遊びのように、頂点を目指して必死に生きた軌跡を見てみよう。
最初に仕えた浅井長政は、高虎が初陣を果たした姉川の合戦で敗北を喫し、三年後の天正元年(1573)九月に小谷城は落城、浅井氏は滅亡した。高虎が次々と主君を変えることになる原因の一つは、最初に仕えたのが浅井氏であったことともいえる。
浅井氏滅亡後は、阿閉貞征(アツジサダユキ)に仕えた。
貞征も浅井氏に仕える重臣であった。
阿閉氏は近江国伊香郡の国人(在地の領主。豪族)で、浅井氏が台頭してくると従属するようになり、姉川の合戦には、1000騎を率いて参陣したというから、かなりの有力者であった。北国街道や湖北を睨む要害の地にある山本山城を任されていて、織田軍を苦しめたという。
姉川の合戦の後、没落の気配が濃厚となった浅井氏に見切りをつけたのか、嫡男と共に織田方に降り、小谷城の孤立化に一役買っている。
浅井氏・朝倉氏が滅亡した後は、旧領を安堵され羽柴秀吉の与力として働いたが、本能寺の変では明智光秀に味方して秀吉の居城長浜城を占拠した。しかし、光秀はあっけなく敗れ、阿閉親子は秀吉軍に捕らえられ一族ともども処刑されている。
阿閉氏のもとで高虎がどの程度の働きをしたのか不明だが、まだ足軽程度の地位であったと思われる。
そして、阿閉氏が捕らえられる前か後か分からないが、磯野員昌(イソノカズマサ)の家来になっている。
磯野氏は代々京極氏に仕えていたが、浅井氏が台頭してくるとその家臣となった。
員昌は佐和山城を継いでいて、六角氏との戦いで頭角を現し浅井軍の先鋒を任されるようになっていた。
姉川の合戦は浅井方として活躍したが、その後佐和山城は織田軍に包囲され、翌年の元亀二年二月に信長に降伏した。降伏に至ったのは秀吉の諜報活動の結果とも言われるが、その後は秀吉に取りたてられ、近江高島郡を与えられている。
しかし、天正六年(1578)、信長の叱責を受けたことから出奔、行方不明となる。
員昌は、本能寺の変の後、高島郡に戻り帰農したとも言われており、後年子息らは高虎の家臣になっている。
磯野氏のもとでの高虎の動向もよく分からない。ただ、高虎も二十歳を過ぎており、身長六尺二寸(188cm)という偉丈夫で勇猛であったと伝えられていることから、そこそこの働きはあったと思われる。後に子息が仕えていることからも、一介の足軽ではなかったと考えられる。
磯野員昌が出奔した後の所領は津田信澄(織田信澄)が引き継ぎ、高虎も信澄に仕えることになった。
信澄は織田信長の甥にあたるが、三歳の頃、父の信長の同母弟信行が謀反を企てたとして信長に暗殺されている。信澄は信長・信行の実母である土田御前の助命嘆願により救われ、信長の指示で柴田勝家のもとで育てられた。そのため織田の名乗りを憚り津田姓になっていた。
信澄は員昌の養子になっていたらしく、信長が員昌に、信澄に家督を譲るよう迫ったことが出奔の原因とも言われている。
高虎は、信澄のもとで幾度も戦功を挙げているようだが、それを評価してくれないことが不満で所領を返上して浪人している。
信澄は、その後多くの戦に出陣し、一族としての評価を受けるようになっていった。
本能寺の変勃発時は、四国征伐のため大坂城にあった。信長の命令によるもので、総大将が織田信孝、副大将が丹羽長秀・蜂屋頼隆・信澄といった陣容であったが、光秀謀反の報が伝えられると、信澄が光秀の娘を正室としていたため光秀に加担しているものとみられ、信孝・長秀らに襲撃され討たれている。
信澄のもとを去った高虎は、苦難の浪人生活を送ったようである。無銭飲食をするほどに厳しかったようで、講談などには『無銭飲食を咎めることなく路銀まで恵んでくれた餅屋に、大名となった高虎が参勤交代の途上で餅代を返す』という人情話も作られている。
天正四年(1576)、高虎は羽柴秀長に300石で召し抱えられた。ようやく高虎に光が当たり始めたのである。
秀長は秀吉の弟であるが、常に秀吉の後を控えめに歩いているような人物であったが、その人望は高く、秀吉が天下人にまで上り詰めた陰には、この人の功績は極めて大きい。惜しむらくか、この人が今しばらく長生きしていれば、豊臣家の将来はかなり違ったものになっていたと思われる。
高虎は懸命に働き、秀長はそれに応えて行った。五年後には所領は3000石となり、鉄砲大将になっている。
天正十三年(1585)、秀長に従い各地を転戦、さらに加増を受けていた高虎は、秀吉からも5400石の領地を与えられ、ついに1万石の大名になる。
この後も、紀州征伐の功で5000石、九州征伐の功で2万石の加増と、その所領は拡大していった。
なお、紀州粉河に領地を加増された頃、猿岡山城、和歌山城の普請奉行を務めており、これが最初の築城経験であるが、やがて加藤清正と共に築城の上手といわれるようになる。
天正十九年(1591)、順調に出世街道を走り始めた高虎に試練が訪れた。豊臣秀長が死去したのである。
この時秀長は、大和・紀伊・和泉の三か国に河内の一部も加えた110万石の大大名であり秀吉を支える最大の柱であった。享年五十二歳であるから、当時としては特別早い死去というわけではないが、豊臣政権にとっては、致命的ともいえる人材を失ったのである。
秀長の跡は、養子としていた甥の秀保が継いだ。秀吉の養子として関白となる秀次の弟である。
高虎は重臣として仕え、文禄の役では秀保の代理として出陣している。
ただ、豊臣秀保という人物については多くの資料はないらしく、あまり良くない伝承もあるが、伝承には秀次の影響が働いている可能性もある。
その秀保は、文禄四年(1595)に享年十七歳で早世。高虎はその責任を取り出家して高野山に入ってしまった。
しかし、高虎の才能を惜しんだ秀吉は、生駒親正に説得させて還俗させ、伊予国板島七万石の大名として召し抱えた。
慶長二年(1597)からの慶長の役では、水軍を率いて参加して武功を挙げ、1万石の加増を受けている。
帰国後、板島丸串城を大改修し、完成後に宇和島城と改めている。
慶長三年(1598)八月に秀吉が死去。この前後から、高虎は積極的に徳川家康に接近していたようである。
その理由は、必ずしも時勢を呼んだ上のことだけではなく、かねてより家康とは親交があり、その高邁な志に魅かれていたからと思われる。
豊臣の家臣団が武断派と文治派の対立が表面化し、きな臭い臭いが漂い始めると、高虎は家康に与することを鮮明にした。福島正則・黒田長政ら武断派と呼ばれる武将たちが家康のもとに集結するより先立ってのことである。
慶長五年の関ヶ原の合戦においては、家康の会津征伐に従軍し、その後西進した後は岐阜城攻撃に参戦、関ヶ原での本戦では、大谷吉継隊と戦った。また、脇坂安治、小川祐忠らの東軍への寝返りの調略にも当たっている。
戦後の論功行賞では、宇和島を含む今治20万石に加増される。
その後は家康に仕え、江戸城改築でも手腕を発揮し、慶長十三年(1608)には、伊賀一国並びに伊勢八郡を合わせた22万石に加増され津藩主となった。家康の高虎に対する信頼は厚く、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として扱われた。
慶長十九年からの大坂の陣にも徳川方として参陣、夏の陣では河内方面先鋒隊として豊臣方の長宗我部盛親隊と激戦を交わし、重臣を含む六百人余の死傷者を出す損害を喫している。
戦後には、その功として32万石に加増された。
家康の死にあたっては、枕元に侍ることを許されるなど厚遇が与えられている。
その後秀忠に仕えるようになってからも、元和六年(1620)の秀忠五女和子の入内にあたっては、露払いの役を務め、まだ反対派の公家も少なくない中を堂々と押し進んだという。
藤堂高虎は、徳川体制が堅固となりつつなる中、寛永七年(1630)十月、静かな最期を遂げた。享年七十五歳であった。
荒々しい戦国武将そのものともいわれる高虎は、手足の指には欠損や爪を失くしている部分があり、全身の矢玉や刀槍の傷跡は数知れなかったといわれ、まさに激戦の最前列を駆け廻った武将であったようだ。
一方で、築城術にすぐれ、藩内政治や文化面での功績も高く評価され、大坂の陣の戦没者の供養のため造営された南禅寺の三門は名高い。
戦国の激しい時代を生き抜いた武将の生涯を、双六遊びに例えるのはあまりにも不適切とは思うが、その生きざまは私たちに息吹いているように伝わってくるのである。
( 完 )
双六のように
一言に戦国武将といっても、世に知られた人物もあれば、僅かな領地に命を懸けて戦い抜いた人物もいる。
一国一城の主となり、大軍勢を率いて天下を狙う人物もあれば、大勢力の狭間で、どちらに与することで生き延びるかに腐心する生涯を送った人物もいる。
いずれにしても、戦国時代という激しい時代を生き抜く武士は、大は大なりに、小は小なりに簡単なことではなかった。
歴史上、武士がいつ登場したかということには諸説があるし、それを追及することは本稿の目的ではない。
ただ、言えることは、王族や貴族たちを護衛するために誕生してきたということではなく、部族間、あるいは集落間の利害が対立し解決が困難になった時、武力でもって有利に立とうとした人物は、王族や貴族たちの登場より遥か昔から存在したはずである。
それを武士と呼ぶか否かは別にして、戦国時代の頃ともなれば、もっぱら武力で以って一定地域に君臨していた豪族たちは、自身や一族の武力を鍛えるとともに、どの勢力と同盟を結ぶか、どの勢力の傘下に入るかは、実に重大な決断であったはずである。
戦国の始まりとされる応仁の乱を見ても、東西の二陣営に分かれて戦乱を繰り返したが、日本が真っ二つに分かれて戦ったかといえば、全くそうではない。本陣が西にあったから西陣営、東側にあったから東陣営と呼ばれただけで、それぞれの大名や豪族たちは、一族の命運をかけて、どちらに与するかを選択し、時には立場を変えたりしているのである。
応仁の乱ほど全国的でなくとも、例えば、毛利氏が台頭してくる頃の中国地方は、大内氏と尼子氏が抜きん出た勢力を有し対立していたので、その狭間にある豪族たちは、毛利氏をはじめ、大内に付くべきか尼子に付くべきかが、一族を守る最大課題だったのである。
同じことは、武田氏と上杉氏の間に位置していた豪族たちも同様であるし、若い頃の徳川家康などもそのような流れに翻弄されていたといえるのである。
つまり、一族を率いる武将はもちろんのこと、一人の武士にとっても、誰に仕えるか、誰に与するかによって将来が変わり、それはまさに命を懸けた判断が必要だったのである。
織田氏は、尾張国守護斯波氏の守護代として勢力を有していたが、信長という麒麟児の出現により、織田家中の力関係は大きく変わり、やがて尾張を手中に収め、美濃から近江へと勢力圏を広げて行く。その過程では、信長に従ったものは勢力を伸ばしたが、反抗した者は衰退あるいは滅亡にいたっている。
さらに、信長に与したり家来になったからといって繁栄が約束されたわけではなく、敵軍と戦って戦死したのならともかく、僅かな罪を問われて追放されたり誅殺された者の数も少なくない。
武士といえども、単に戦陣で活躍すればよいということではなく、誰に仕え誰に与するかは、そうそう簡単なことではなかったのである。
その激しい戦国の世にあって、次々と主君を変えながら、まるで双六遊びのように浮沈の激しい時代を、サイコロの目に翻弄されながらも遂に上がりにまで到着した人物もいる。
藤堂高虎という人物は、まさにそのような武将であった。
* * *
藤堂高虎は、弘治二年(1556)近江国犬上郡藤堂村の土豪藤堂虎高の次男として誕生した。幼名は与吉。通称は与右衛門である。高虎は次男であるが、長男は夭折しており嫡男として育てられた。
藤堂家は、先祖代々の小領主であったが、高虎誕生の頃には没落していて、農民とほとんど変わらない生活であったようである。
元亀元年(1570)、浅井長政に足軽として仕え、織田軍と戦った姉川の合戦で初陣を果たし、早速に戦功を挙げている。十五歳の時であるから、元服間もない頃と思われる。
実は高虎は、浅井長政を最初の主君としてこのあと次々と主君を変えて行くのである。やむをえない事情もあり、自らの意思で変えている場合もあるが、その数は十一人に及ぶのである。
そのことに対して、例えば後年仕えた徳川家康の近臣などからは日和見的で信用できないような非難も受けているようであるが、主君を変えて行くということはそうそう簡単なことではないはずである。
高虎が一度でも主君として仰いだ人物を列記してみると、浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄・豊臣秀長・豊臣秀保・豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川家康・徳川秀忠・徳川家光の十一人である。
この激しい高虎の遍歴を見る上で、判断を間違えてはならないことが二つあるように思われる。
その一つは、「武士は二君に仕えず」といった考え方についてであるが、実はこのそのような生き方が当然のように考えられるようになるのは、江戸時代に入ってからのことなのである。それ以前の主君と家臣の関係は、家臣となった上は主君のために命を投げ出すが、主君は家臣の忠義や働きに相応の恩賞によって報いる責務を担っていたのである。それが果たされない場合には、家臣が新しい主君を求めることは当然あり得る選択肢なのである。
もう一つは、主君を変えているといっても、「秀長→秀保」「秀吉→秀頼」「家康→秀忠→家光」については、先代が死去または隠居したために主君が変わったためで、主君を変えたことにはならないという考え方についてである。実際その考え方に立っている研究者の方が多い。
しかし、代が変わって新しい当主に変わらず出仕するということは、そうそう簡単なことではないのである。徳川の歴代将軍の代替わりにより失脚した重臣の数は少なくなく、他の有力大名においても同様の現象が起きている。
高虎の場合、「家光」については、秀忠がまだ生存中であったので主君を変えた数のうちに入れるのは不適切だと思うが、その他については、いずれも外様でありしかも先代に重く用いられていた高虎のような立場は、非常に微妙な状態に置かれることが少なくないのである。
それでは、高虎が双六遊びのように、頂点を目指して必死に生きた軌跡を見てみよう。
最初に仕えた浅井長政は、高虎が初陣を果たした姉川の合戦で敗北を喫し、三年後の天正元年(1573)九月に小谷城は落城、浅井氏は滅亡した。高虎が次々と主君を変えることになる原因の一つは、最初に仕えたのが浅井氏であったことともいえる。
浅井氏滅亡後は、阿閉貞征(アツジサダユキ)に仕えた。
貞征も浅井氏に仕える重臣であった。
阿閉氏は近江国伊香郡の国人(在地の領主。豪族)で、浅井氏が台頭してくると従属するようになり、姉川の合戦には、1000騎を率いて参陣したというから、かなりの有力者であった。北国街道や湖北を睨む要害の地にある山本山城を任されていて、織田軍を苦しめたという。
姉川の合戦の後、没落の気配が濃厚となった浅井氏に見切りをつけたのか、嫡男と共に織田方に降り、小谷城の孤立化に一役買っている。
浅井氏・朝倉氏が滅亡した後は、旧領を安堵され羽柴秀吉の与力として働いたが、本能寺の変では明智光秀に味方して秀吉の居城長浜城を占拠した。しかし、光秀はあっけなく敗れ、阿閉親子は秀吉軍に捕らえられ一族ともども処刑されている。
阿閉氏のもとで高虎がどの程度の働きをしたのか不明だが、まだ足軽程度の地位であったと思われる。
そして、阿閉氏が捕らえられる前か後か分からないが、磯野員昌(イソノカズマサ)の家来になっている。
磯野氏は代々京極氏に仕えていたが、浅井氏が台頭してくるとその家臣となった。
員昌は佐和山城を継いでいて、六角氏との戦いで頭角を現し浅井軍の先鋒を任されるようになっていた。
姉川の合戦は浅井方として活躍したが、その後佐和山城は織田軍に包囲され、翌年の元亀二年二月に信長に降伏した。降伏に至ったのは秀吉の諜報活動の結果とも言われるが、その後は秀吉に取りたてられ、近江高島郡を与えられている。
しかし、天正六年(1578)、信長の叱責を受けたことから出奔、行方不明となる。
員昌は、本能寺の変の後、高島郡に戻り帰農したとも言われており、後年子息らは高虎の家臣になっている。
磯野氏のもとでの高虎の動向もよく分からない。ただ、高虎も二十歳を過ぎており、身長六尺二寸(188cm)という偉丈夫で勇猛であったと伝えられていることから、そこそこの働きはあったと思われる。後に子息が仕えていることからも、一介の足軽ではなかったと考えられる。
磯野員昌が出奔した後の所領は津田信澄(織田信澄)が引き継ぎ、高虎も信澄に仕えることになった。
信澄は織田信長の甥にあたるが、三歳の頃、父の信長の同母弟信行が謀反を企てたとして信長に暗殺されている。信澄は信長・信行の実母である土田御前の助命嘆願により救われ、信長の指示で柴田勝家のもとで育てられた。そのため織田の名乗りを憚り津田姓になっていた。
信澄は員昌の養子になっていたらしく、信長が員昌に、信澄に家督を譲るよう迫ったことが出奔の原因とも言われている。
高虎は、信澄のもとで幾度も戦功を挙げているようだが、それを評価してくれないことが不満で所領を返上して浪人している。
信澄は、その後多くの戦に出陣し、一族としての評価を受けるようになっていった。
本能寺の変勃発時は、四国征伐のため大坂城にあった。信長の命令によるもので、総大将が織田信孝、副大将が丹羽長秀・蜂屋頼隆・信澄といった陣容であったが、光秀謀反の報が伝えられると、信澄が光秀の娘を正室としていたため光秀に加担しているものとみられ、信孝・長秀らに襲撃され討たれている。
信澄のもとを去った高虎は、苦難の浪人生活を送ったようである。無銭飲食をするほどに厳しかったようで、講談などには『無銭飲食を咎めることなく路銀まで恵んでくれた餅屋に、大名となった高虎が参勤交代の途上で餅代を返す』という人情話も作られている。
天正四年(1576)、高虎は羽柴秀長に300石で召し抱えられた。ようやく高虎に光が当たり始めたのである。
秀長は秀吉の弟であるが、常に秀吉の後を控えめに歩いているような人物であったが、その人望は高く、秀吉が天下人にまで上り詰めた陰には、この人の功績は極めて大きい。惜しむらくか、この人が今しばらく長生きしていれば、豊臣家の将来はかなり違ったものになっていたと思われる。
高虎は懸命に働き、秀長はそれに応えて行った。五年後には所領は3000石となり、鉄砲大将になっている。
天正十三年(1585)、秀長に従い各地を転戦、さらに加増を受けていた高虎は、秀吉からも5400石の領地を与えられ、ついに1万石の大名になる。
この後も、紀州征伐の功で5000石、九州征伐の功で2万石の加増と、その所領は拡大していった。
なお、紀州粉河に領地を加増された頃、猿岡山城、和歌山城の普請奉行を務めており、これが最初の築城経験であるが、やがて加藤清正と共に築城の上手といわれるようになる。
天正十九年(1591)、順調に出世街道を走り始めた高虎に試練が訪れた。豊臣秀長が死去したのである。
この時秀長は、大和・紀伊・和泉の三か国に河内の一部も加えた110万石の大大名であり秀吉を支える最大の柱であった。享年五十二歳であるから、当時としては特別早い死去というわけではないが、豊臣政権にとっては、致命的ともいえる人材を失ったのである。
秀長の跡は、養子としていた甥の秀保が継いだ。秀吉の養子として関白となる秀次の弟である。
高虎は重臣として仕え、文禄の役では秀保の代理として出陣している。
ただ、豊臣秀保という人物については多くの資料はないらしく、あまり良くない伝承もあるが、伝承には秀次の影響が働いている可能性もある。
その秀保は、文禄四年(1595)に享年十七歳で早世。高虎はその責任を取り出家して高野山に入ってしまった。
しかし、高虎の才能を惜しんだ秀吉は、生駒親正に説得させて還俗させ、伊予国板島七万石の大名として召し抱えた。
慶長二年(1597)からの慶長の役では、水軍を率いて参加して武功を挙げ、1万石の加増を受けている。
帰国後、板島丸串城を大改修し、完成後に宇和島城と改めている。
慶長三年(1598)八月に秀吉が死去。この前後から、高虎は積極的に徳川家康に接近していたようである。
その理由は、必ずしも時勢を呼んだ上のことだけではなく、かねてより家康とは親交があり、その高邁な志に魅かれていたからと思われる。
豊臣の家臣団が武断派と文治派の対立が表面化し、きな臭い臭いが漂い始めると、高虎は家康に与することを鮮明にした。福島正則・黒田長政ら武断派と呼ばれる武将たちが家康のもとに集結するより先立ってのことである。
慶長五年の関ヶ原の合戦においては、家康の会津征伐に従軍し、その後西進した後は岐阜城攻撃に参戦、関ヶ原での本戦では、大谷吉継隊と戦った。また、脇坂安治、小川祐忠らの東軍への寝返りの調略にも当たっている。
戦後の論功行賞では、宇和島を含む今治20万石に加増される。
その後は家康に仕え、江戸城改築でも手腕を発揮し、慶長十三年(1608)には、伊賀一国並びに伊勢八郡を合わせた22万石に加増され津藩主となった。家康の高虎に対する信頼は厚く、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として扱われた。
慶長十九年からの大坂の陣にも徳川方として参陣、夏の陣では河内方面先鋒隊として豊臣方の長宗我部盛親隊と激戦を交わし、重臣を含む六百人余の死傷者を出す損害を喫している。
戦後には、その功として32万石に加増された。
家康の死にあたっては、枕元に侍ることを許されるなど厚遇が与えられている。
その後秀忠に仕えるようになってからも、元和六年(1620)の秀忠五女和子の入内にあたっては、露払いの役を務め、まだ反対派の公家も少なくない中を堂々と押し進んだという。
藤堂高虎は、徳川体制が堅固となりつつなる中、寛永七年(1630)十月、静かな最期を遂げた。享年七十五歳であった。
荒々しい戦国武将そのものともいわれる高虎は、手足の指には欠損や爪を失くしている部分があり、全身の矢玉や刀槍の傷跡は数知れなかったといわれ、まさに激戦の最前列を駆け廻った武将であったようだ。
一方で、築城術にすぐれ、藩内政治や文化面での功績も高く評価され、大坂の陣の戦没者の供養のため造営された南禅寺の三門は名高い。
戦国の激しい時代を生き抜いた武将の生涯を、双六遊びに例えるのはあまりにも不適切とは思うが、その生きざまは私たちに息吹いているように伝わってくるのである。
( 完 )