小さな小さな物語 第二十一部
No.1201 から No.1260 までを収録しています
小さな小さな物語 目次
No.1201 同盟の形
1202 悲しい性
1203 未解決という解決
1204 足して2で割る
1205 不足だらけ
1206 犯人捜し
1207 立ち止まる勇気を
1208 世界の中の日本
1209 二千万円はともかく
1210 おもてなし
1211 足元を固める
1212 我慢と辛抱
1213 貿易戦争の勝者
1214 ルールの限界
1215 振り子はチクタクチクタク
1216 「知らないこと」がいっぱい
1217 怒りの種は尽きないが
1218 戦い終えて
1219 パワーハラスメント
1220 天使の分け前
トランプ米大統領の日本訪問は、多くの話題を提供しながらも無事に日程を終えたようです。
首脳会談などの内容や成果はともかく、日本国内ばかりでなく世界中に放映される大統領の姿は、日米の強固な同盟の象徴として、広く伝えられたことは確かのようです。
一方で、「トランプ大統領は観光旅行を楽しんだ」とか、「安倍首相はヨイショのしすぎ」といった揶揄する意見を示される人もいるようです。
そうした意見の多くは、とりあえず反対意見を述べることが目的という感じがしないわけでもないのですが、国賓とはいえ、ここまでしなくても良いのではないかという意見もあって当然かもしれません。
わが国が、国家として存立していくためには、わが国一国だけで立ち行けるわけではなく、何らかの同盟、それも出来るだけ多くの国家や地域との友好関係を深めていくことが必要なことは確かな事でしょう。
その中でも、アメリカとの関係は最も重要なものでしょうから、少々オーバーな面があったとしても、今回の国賓としてトランプ米大統領を迎えたことは大成功と評価すべきのように思います。
特に、近隣国との関係が微妙な状態の所が多く、中には、同盟関係などと表現することに違和感を感じる状態になりつつある国家もあるだけに、日米関係の重要性は一段と増している感があります。
同盟関係、あるいは友好関係とはどういう形で保たれているものなのでしょうか。
もちろん、条約などで国際的に認知された形がそのベースにあることは当然ですが、ここでは、もっと実質的な意味での同盟の形を考えています。
例えば、米大統領とわが国の首相のツーショットをみる限り、今回の訪日期間だけの事ではなく、世界中で最も緊密な関係に見えるのではないでしょうか。首脳同士の親密な関係は、国家同士の同盟あるいは友好関係には重要な要素ではありますが、それで全てというわけではないことも当然です。国家間には多くの利害や思惑が入り組んでいるわけですから、各層での幅広い信頼関係を深めていくことが必要になってきます。
「君子の交わりは淡きこと水の如し」というのは『荘子』にある言葉です。その後には、「小人の交わりは甘きこと醴(レイ・甘酒のような物)の如し」と続いています。
『老子』も、「上善は水の如し」と述べていますが、どうやら、あまりベタベタした関係より、水のように淡く自由自在な形を良しとしているようです。
「鉄の団結」という言葉もありますが、『老子』は柔らかな物こそが強いと述べています。
わが国は、近隣諸国とは難しい関係を強いられているような気がしますが、古今東西を問わず、隣接した国家同士は仲が悪いというのと常識ともいえるのです。同盟を結ぼうとも、首脳同士がにこやかに握手をしようとも、国家同士には常に緊張関係があるものと考えるべきですし、そもそも、国家と簡単に言っても、一つの国家の中には、人種・宗教・風土・文化・教育・貧富などで意思が統一されているわけではありませんから、そうそう簡単なものではないのです。
個別の国家間、地域・世界全体の中の日本として、しっかりと存在し続けることは容易な事でないことが今更のように思われます。
まあ、国家間に関わらず、個人に関しても全く同様で、近隣社会、それどころか、家庭内であっても、一筋縄ではいかないことが数多くあることは、私たちが等しく経験していることではないでしょうか。
( 2019.06.02 )
私たちは、この世に生を受けて、たいていの人はその時の状態は記憶にないと思うのですが、記憶が残る年齢に達した頃には、人間であることを承知することになるのでしょうが、なぜ人間なのかなど意識することなどなく、当然のように成長していくのでしょうが、いつの頃か、自分が人間であることが意識されるようになり、それと同時に、あるいは前後して、かなり早い段階から様々な悩みや苦しみも認識するようになると思われます。
もっともこれは、科学的なデーターなどに基づくものではなく、まったく個人的な意見なのでご承知おきください。
その悩みや苦しみは多種多様で、単純な算式で解くことはもちろん、高度な因数分解を以てしても対処できるものではないようです。因数分解が高度な手段かどうかは個人的な感覚ですが、そうした悩みに対して百発百中といった特効薬はないことは確かなようです。
あるテレビ番組で、コメンテーターの方が、自身の子供の頃の引きこもりの経験をベースに、その当時に原因について討議されていたものは、自分にはどれも当てはまらなかったと話しておられました。
そして、どのようにして引きこもりから抜け出すことが出来たのかという質問に対して、それは自分の問題だと、他の人の参考にはならないといった意思を示されていたように感じました。
かつて、官僚として頂点を極めた人物が、44歳の長男を刺殺するという、何とも痛ましい事件が発生しました。
数日前の、引きこもり状態の男が起こした無差別殺人(?)が影響しているとの報道もありますが、息子を刺殺するしか手段がないと追い込まれた加害者の気持ちを思うと、暗澹たる気持ちになってしまいます。これは、人間なるが故の悲しい性なのか、単なる犯罪に過ぎないと感じるかは人それぞれでしょうが、伝えられている加害者となった人物の経歴から考えれば、この人にアドバイスできる人などいるのかと思ってしまいます。
引きこもりといわれる症状がもたらす問題については、相当以前から社会問題として提起されてきました。ただ、これまでは、若者の問題として取り上げられることがほとんどで、問題を捉える基礎となる調査も、39歳以下のものしかなかったようです。
最近になって、中高齢者の引きこもりの問題が深刻さを増してきて、40歳以上の実態調査が行われ、そのデーターが公表されていますが、その調査結果は、私などが漠然と考えていたものより遥かに深刻なもののようです。
たまたまなのでしょうが、川崎市と東京練馬区で起こった凄惨な事件は、まさにこの延長線上にあるような思われます。
こうした事件に、効果的な対処策などあるのでしょうか。人間の悲しい性の一現象だと考えてしまえばそれまでですが、たとえ僅かでも、発生を未然に押さえる方法があるような気もするのです。
令和という新しい時代、明るい希望を掲げて歩んでいきたいところですが、その一方で、こうした負の遺産に真正面から向き合わなければならない時代なのかもしれません。
( 2019.06.05 )
新聞やテレビなどで報道されるニュースに限ってみても、何ともやるせない思いにさせられる事件や出来事があります。
個々の事件に触れることは避けたいと思いますが、「どうしてここまで自分を追い込んでしまったのか」と思わせられるニュースが少なくありません。
最近何かと話題になる、高齢者による自動車事故などは、様々な原因はあるとしても、直接的な原因は事故であって、集中力や運動機能、心身両面の病気、といったものに起因するものもあるのでしょうが、長年抱えてきた問題に起因することは少ないと考えられます。
その一方で、犯罪とされるような事件の多くには、そこに至る何らかの原因が、その関与の程度はともかく、存在しているように思われます。
「この世の事は、この世で解決できる」「この世の事で、この世で解決できない事などない」といった言葉を、いつだったか読んだ記憶があります。
絶望を感じている、あるいは、苦しみ悩んでいる人へのアドバイスの文章の中の一部だったと記憶していますが、歳を重ねて、今、思うことは、「本当にそうだろうか」ということです。
苦しんでいる人を励ます一手段としては全否定することは出来ませんが、この世の出来事で解決できないものなど山ほどあるのではないでしょうか。
古来、私たちの先人たちは、辛い人生の脱出方法として、「来世では報われる」と祈り、理不尽な苦しみに対しては、「前世の報いを受けている」と観念しました。
現在でも、前世や来世について語ることや、問題解決の手段に登場してくることは少なくありません。
当ブログで、「今昔物語拾い読み」という連載を延々と続けさせていただいていますが、今昔物語を読む上では、前世や来世はあるものとして考えないことには、物語そのものが成り立たなくなってしまいます。だからといって、それを信じているのかといわれますと、明確に答えることが出来ませんが、前世も来世もあると考えた方が気が楽なような気がしないでもありません。
私たちの日常生活には、思うようにならないことが数多くあります。右から左へとスッパスッパと問題を処理する人もいますが、どうにも対処できないような悩みは、ほとんどの人が抱えているのではないでしょうか。
胸が潰されるような事件の背景には、解決できない事の苦しみに押し潰されたり、むりやり逃れようとしたことに起因しているものがあるように思えてならないのです。
苦しみや悩みは誰でも抱えています。その解決を来世の自分にお任せするのも一つの方法ですが、解決できないことをもって解決とする考え方を提案したいと思います。
残念ながら、この世には、どうにもならないことはあるはずです。無責任に投げ出すことを善しとするわけではありませんが、解決できないことを認めてしまう、つまり、「未解決という解決」という手段を身につけない限り、自分を忘れてしまうような大事を引き起こす懸念を抱き続けることになるのではないでしょうか。
( 2019.06.08 )
大阪市はG20開催に向けて大わらわのようです。
多くの国家や地域の首脳を迎えるわけですから、会合の効果もさることながら、大過なく日程をこなすだけでも大変な事だと思います。
G20首脳会合といっても、20人の首脳が集まって、和気あいあいに話し合うといった簡単なものでないことは当然のことで、それぞれには随行員や警備関係者、あるいは同行してくる報道関係や経済をはじめとした派生的な業務の人などを加えると、気が遠くなるほどの数になります。ある報道では、3万人を越えるというのもあります。
トランプ米大統領を国賓としてお迎えするだけであれだけの騒ぎだったのですから、何とか無事に開催できることを願うばかりです。
それに、集まって、お話して、機嫌よく帰って頂ければそれで良し、というわけではないのは当然のことです。
G20(ジートゥエンティ/主要20カ国・地域)は、当然のことながらG7より多くの国が参加していますが、その数もさることながら、国情や経済規模、主義主張の開きがより大きくなるでしょうから、議長国日本の責任は重大になってきます。
因みに参加の国・地域を挙げてみますと、日本・アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・カナダ・ロシア・中国・インド・ブラジル・メキシコ・南アフリカ・オーストラリア・韓国・インドネシア・サウジアラビア・トルコ・アルゼンチン・EUの20の国と地域です。
参加の地域を見渡してみますと、おそらく世界人口の70%を超えているでしょうし、経済規模などはそれ以上でしょうから、これらの国・地域が本当に連帯して事を運ぶことが出来れば、世界の紛争の多くが解決しそうな気がしないでもありません。
しかし、その一方で、現在表面化している世界の紛争地域や国家の中には、片方しか参加していなかったり、当事国や地域が全く参加していない方が多いくらいです。
それに、特に今回は、参加している国・地域どうしで、厳しいせめぎ合いがなされている状況ですから、意見の集約はそうそう簡単な事ではないでしょう。
会合の後で発表される声明が、どのようなものになるのか、興味深いというより心配の方が強く、果たして、共同声明といった形のものを発信できるのかどうかが心配されます。
まあ、G20の意見の集約を私が心配したところで仕方のないことですが、およそ、2人以上の人や団体が集まった場合の意見の集約は、簡単な事ではないようです。
「足して2で割る」というのは古来からの生活の知恵の一つですが、20ともなれば、「足して20で割る」という理論が成り立つものなのでしょうか。
いずれにしても、安倍首相を中心とした方々の努力にお願いするしかないのでしょうが、私たちに出来ることとしては、世界中の広い地域から来日される方々が、少しでも気持ち良く日本での日々を過ごしていただけるように、交通面など少々の生活の不便は辛抱するとしますか。
( 2019.06.11 )
『老後資金 2000万円』という言葉が、大手を振って走り回っています。
詳しい経緯を承知しているわけではないのですが、金融庁の金融審議会の市場ワーキンググループの報告書に盛り込まれていたらしい、「65歳から30年間生きるとした場合、年金の他に2000万円が必要」といった内容が、どういう経緯で漏れたのか、審議会のチェック前に広がってしまい、しかも、老後資金が2000万円不足という部分が一人歩きしてしまったようです。
その報告書たらは見ていませんので、あまり無責任な意見は控えたいと思うのですが、テレビなどで報道されている内容から推定すれば、いわゆるモデルケースとして示されたものが、「2000万円不足」という部分が切り取られて、報告書の本意とは違う形で報じられることになってしまったようです。
モデルケースというのは、平均でもなければ、具体的な階層を指しているわけではないので、多くの国民にとっては、ほとんど直接的には役に立たない資料なのです。審議会の要請を受けて作成されたものでしょうから、いわゆる有識者と称される方々によってまとめられたのでしょうが、その程度の内容は、ちょっとした雑誌や書物には溢れるほど示されているものです。現に今回示されているというモデルケースは、厚生省が2月に公表したものとほとんど同じですから、専門家と自称してる人が何を大騒ぎしているのかと首をひねってしまいます。
本来ならば、お上が大見え切って公表し、下々は冗談じゃないよ、と受け流してしまう種類の報告書のはずが、担当大臣や官邸や与党までがオタオタしているように見えるのは、実態を承知してきていなかった為なのでしょうか。
同時に、野党側は、まるで鬼の首でも取ったように大はしゃぎしているのも、どうかと思ってしまいます。年金制度云々と混同させてしまっている面も見えますが、与党側も野党側も選挙を控えているためとも報道されていますが、この程度のことで選挙民が右往左往すると見られているとすれば、私たち国民も軽く見られているものですねぇ。
年金が少ない、介護施設が少ない、保育所が少ない、すくない、すくない、・・・。
わが国の社会は、それほど不足だらけの社会なのでしょうか。
自分自身の生活を見つめている限り、不足多い生活だとも思うのですが、テレビなどで報じられる発展途上国や紛争地域の庶民の状態を考えれば、わが国の国民の多くは、公的支援+自助努力で生活設計は可能なのではないでしょうか。
「2000万円不足」といっても、何も調達するしか手段がないわけではなく、方法はあるはずでしょうし、もし無いとしても、すべての国民が全て公的支援で老後を生活することなど不可能なのですから、知恵を働かせるしか仕方ないのではないでしょうか。
少なくとも、「2000万円必要だ、2000万円必要だ」と大騒ぎするような愚は避けたいものです。
( 2019.06.14 )
ホルムズ海峡付近で発生したタンカー攻撃事件は、懸念された通り、この地域の緊張に油を注ぐことになりそうです。
アメリカとイランの対立など誰もが望んでいないことで、及ばずながらわが国首相が一肌脱ぐことで、たとえ半歩でも緊張緩和に役立てればとの期待があり、たとえ効果がなかったとしても無駄足以上の悪い結果はないと思っていたのですが、どうやらそれは、平和ボケの考えることだったのかもしれません。
事件発生とほとんど同時に「犯人捜し」が始まっています。
アメリカは、早々にイラン革命防衛隊の関与と発表しており、それも、然るべき情報筋などというレベルではなく、大統領自ら発言しているようです。当然、イランは否定し、アメリカ側の関与を主張しているようです。
ごく常識的に考えて、わが国とイランとの関係は悪いとは思われず、両首脳が会談している最中に事を起こすとは考えにくいと思われます。やはり常識的に考えれば、わが国とイランとの関係が強まることに反対している勢力と考えるべきだと思うのですが、そのいう勢力は、イラン側にもいるでしょうし、反イラン側にはもっといることでしょう。
但し、この推定は、狙われたタンカーがわが国に関係している船など承知していること、あるいはわが国とイランとの首脳会談に合わせて実行されたという前提に立っています。
この前提が崩れると、何が何だか分からないという結論に至ってしまいます。
今回の事件と、各地で報じられている紛争やテロといわれるものなどと同種のものと考えていいのかどうか判断がつかないのですが、同種と考えた場合には、明らかに犯行声明が出されるものと、偽の犯行声明も含めて、実行者が絶対に姿を見せないものとに分けられるような気がします。
そして、本当の実行者が声明を出さない事件は、まず、「犯人捜し」は未解決のままに終わるようです。それこそ常識的に考えて100%犯人だとして証拠を山ほど突き付けても、絶対に認めないという事件はたくさんあります。どんなルールがあろうが、それが条約であれ国際的な公約であれ、世界の平和などといったものは、そんなヤワなものでは実現できないみたいです。
まあ、天下の大事件を語るのは、当コラムでは荷が重すぎますが、スケールをもう少し小さくしてみますと、私たちの日常生活において、結構類似した問題があるようにも思います。
近隣のトラブルが、犯罪にまで発展してしまった例も少なくありませんし、泣き寝入りや、転居で解決したという人もいます。
サスペンスドラマなどは、相当残酷なものでも、1時間ないし2時間たてば解決するものですが、日常生活はそれほど残酷ではない代わりに、解決はなかなか難しい場合が多いようです。
いずれにしても、日常生活では、「犯人捜し」だけでは解決できない事が多いことを承知すべきのようです。そして、もしかすると、国家間のトラブルにも、同じ理論が存在しているかもしれません。
( 2019.06.17 )
昨日・今日の事ではないと思うのですが、最近、辛い事件が多発しているのではないのかと感じています。
あらゆる犠牲を払ってでも守るべき子供を、両親が虐待し、殺してしまうといった犯罪が、あまりにも日常化しているような気がします。他にも、幼い子供が犠牲になる事故や事件も、大きなニュースとなって、耳を塞ぎたくなるほどに飛び込んできます。
そして、この度は、警察官を襲撃して拳銃を奪うという事件が発生しました。この種の事件が前代未聞というほど特別なわけではありませんが、重体となっている警察官の親族の方々や、今回の場合、犯人は自分の息子ではないかと連絡した父親の心情を思いますと、何とも辛い気持ちになってしまいます。
私たちの社会から犯罪や事故を無くすことなど出来ません。犯罪と事故を一緒ににするのはどうかと思いますが、当然避けられるような事を守らずに起こった事故は、限りなく犯罪に近いように思います。
一つ重大犯罪が発生すると、それが一応の決着を見ても、当時者はもちろんですが、被害者の家族や関係者も、加害者の家族や関係者も大きな影響を受けます。時には、その後の人生を大きく歪めてしまうことも珍しくないようです。
悪質な犯罪も、悪質な事故も、無くなることなどないでしょう。しかし、たとえ少しでも、数字に表れないほど僅かだとしても、減少させる手段はないのでしょうか。
社会の仕組みや、教育の在り方など、何とか人類の英知をこの面にも投入してほしいと祈りますが、私たち個々も、今少し、勇気を育てることが必要なように思うのです。「立ち止まる勇気」です。
どうにも堪えられない時、どうしても許せなくなった時、何もかもどうでもよくなった時、等々・・・、理性を抑えきれなくなった時に、とりあえず一度「立ち止まる勇気」を、何とか身につける努力をしたいと思うのです。
冷静な時、他人の事件を眺めている時、そのような時であれば、別に勇気などなくても、それなりの判断ができるものです。他人の事であれば、たいていの人は立派なことを言えます。
必要なのは、自分自身が窮地に立った時の「立ち止まる勇気」です。簡単な事ではないことは十分承知です。お前はどうだ、と訊ねられると答えることさえできません。
しかし、それでもなお、私たちには、「立ち止まる勇気」こそ、品格の重要な一要素であることを訴えたいと思うのです。
( 2019.06.20 )
八村塁選手の米プロバスケットボールNBAのドラフト会議での1巡目指名は、テレビや新聞などで大きく取り扱われていますが、米国ではさらに大きなニュースになっているようです。
八村塁選手は、父が西アフリカのベナン出身、母親が日本人で富山県で育った八村少年は、小学生の時にはすでに野球で抜群の素質を現わしていたそうです。中学からバスケットに転じ、高校は宮城県、そしてアメリカの大学に進み、今回の快挙に繋がりました。
新聞の記事を参考に紹介させていただきましたが、八村塁選手の21年余りの経歴は、「NBA 日本人初の快挙」などと騒ぐのは、少々的外れのような気がしないでもありません。八村塁選手は、すでに日本人などという枠で考える時期は飛び越えてしまっているように思うのです。
スポーツ界には、すでに世界を舞台に大活躍をしている選手がたくさんいます。野球界では、米大リーグでトップクラスの選手として活躍している人が何人もいます。サッカー界では、ヨーロッパの国々をはじめ世界中に羽ばたくのはすでに珍しいことではないほどです。
プロ選手としてではなくても、柔道やバレーボール、野球などでも指導者として、その競技の後進国の指導に尽力されている人も少なくありません。
そうした方々の目的は様々なのでしょうが、結果として、「世界の中の日本」という立場に光を当ててくれているのではないでしょうか。
それは何もスポーツ界に限ったことではなく、音楽などの芸術界などでも同じことが言えるでしょうし、研究者となれば、海外に出て活躍されている方も少なくないのでしょが、海外の方が研究環境が優れているという理由が多いという声が聞こえてくるのが残念ですが、そういう場合も含めて、「世界の中の日本」に貢献してくれているのでしょう。
また、海外など全く縁がないという人であっても、たまたま出会った外国人の人に、ちょっとした親切、ちょっとした心遣いが、意外に大きく「世界の中の日本」を輝かせているかもしれません。
もっとも、そうまでして「日本、日本」と主張する必要があるのかという声があります。
しかし、わが国は、アジアの片隅に位置しているという立地から逃れることは出来ません。近隣国との軋轢は絶えませんし、今のところ直接関係していないとしても世界中で紛争が多発しています。先進国とされる国々でも、国内での価値観の対立が激しくなってきています。ここ数年、わが国を訪れる外国人の数は急増しています。それは、外国という存在を無視してわが国が存在することの難しさが増しているということでもあります。
先日行われた国会における党首会談の内容を見ていますと、「2000万円、2000万円」と叫ぶのも結構ですが、外交についてももう少し勉強してほしいと感じました。
折から、大阪でG20が開催されます。会合の成果もさることながら、わが国も「世界の中の日本」としてしか存在して行くことが出来ないことを、勉強したいと思うのです。
( 2019.06.23 )