『 魚を食べましょう ③ 』
処理水放出に関して
風評被害に 苦しんでいる人々がいます
私たちに 何が出来るか
みんなで 『魚を食べましょう』
多くの人が いつもより 週に1尾たくさん食べると
様子が変るかも知れない
まあ 1尾と言っても
チリメンジャコでは駄目だし マグロはとても無理
一週に一皿ではどうでしょうか
ぜひとも みんなで 『魚を食べましょう』
☆☆☆
『 魚を食べましょう② 』
原発事故は わが国の失策と言われても
仕方がないが
何としても 廃炉に持っていかなくてはならない
処理水の放出は 避けられない道だ
厳しい対応の国に対する 外交努力は当然必要だが
売れなくなった魚は 私たちが食べましょうよ
天然の水産資源は 確実に減少しており
20年もすれば 超高級品になるかも知れませんよ
わが国の漁業を 守るためにも
いつもより ほんの少し多く『魚を食べましょう』
政府は そのシステムを構築するために
思い切った 予算の投入を!!
☆☆☆
『 魚を食べましょう 』
処理水放出に関する 問題発生は
予想通り 様々な障害が起っているようだ
でも この程度のことは 予想されたことで
驚くほどのことでもなく むしろ 放出前に
政府の対応が策定されていなかったことに 驚く
水産物については 今こそ国民挙げて
『魚を食べましょう』運動を 始めましょうよ
高級品は 海外でより高く売る のを控えて
政府は 相当値下がりする程度の 補助金を出せば
水産資源は 減少傾向なので
資源保護も合わせれば 対策はあるような気がする
さあ みんなで いつもより 1~2割多く
『魚を食べましょう』
☆☆☆
『 助かる命と逝く命 ・ 望月の宴 ( 88 ) 』
さて、大殿(道長)は相方の君(スケカタのキミ・源相方。宇多天皇の孫に当たる源重信の息子。道長の正室倫子のいとこにあたる。)の邸にいらっしゃる時に、たいそう重い病にかかられた。当面の一大事と世間では思われていた。
御物の怪の恐ろしいのは当然のことで、大殿ご自身も正気を失うほどで、世間で効験あるとされる事などをすべてお尽くしになる。中宮(彰子)が里邸にお下がりになるなど、まったく大変な騒ぎである。女院(一条天皇生母詮子)におかれても、たいそう心を痛められている。
それらの御願の験(シルシ)であろうか、仏神の御験があらわれたのであろうか、あるいは、お住まいをお変えになれば回復なさるとの陰陽師たちの占いに合わせて探されると、尚侍(ナイシノカミ・東宮居貞親王妃の綏子)が住んでおられた土御門が方角が良いと申すので、お移りになった。
夏のことなので、元気な人であっても暑さに耐えがたい頃なので、いかにいかにと御容態を心配申し上げているうちに、たいそう長くお苦しみであったが平癒なさった。
まったく予想も出来ないほどの回復だったので、誰もがお喜びである。まことにめでたいことであった。
殿の上(道長の正室倫子)の御妹である中の御方に、道綱大将(道長の兄で従二位大納言・右大将・東宮大夫を兼ねている。)がお通いになっていたが、昨年から普通でないお体になっていらっしゃったが、このごろ臨月に当たっておられた。一条殿(故源雅信の一条第。)は方角が悪いので、他所にお移りになるよう陰陽師たちが申すので、吉方ということで、中川(京極川の二条以北)の某阿闍梨(伝不詳)という人の別宅にお移りになって、出産なさった。
男子でいらっしゃったので、嬉しく思っていらっしゃるうちに、中の御方はそのまま後産の事がなくてお亡くなりになってしまった。
大上(オオウエ・貴人の母を敬っていう語。おおきたのかた。ここでは、中の御方の母穆子。)は残り少ない老いの御身でもあり、悲しみに深く沈んでいらっしゃる。
殿(道長)も、心からいたわしいことと嘆いておいでだが、特に上(北の方、倫子。)は、御はらからとして男兄弟はたくさんいらっしゃるが、あまり親しくなく、この中の御方とは同腹でいらっしゃるので、何事につけてお世話されていたし、また、この大将殿(道綱)との事も、殿も上も心を合わせてお膳立てしてきておいでなだけに、あまりにも情けなく虚しいこととお嘆きになる。
大将殿も、妻の死を悲しむ気持ちは当然ではあるが、ご夫婦仲はたいそうご円満で、この北の方のご縁故によって世間の信用も格別であっただけに、あれこれとお考えになって嘆かれるのも道理と思われる。
大将殿は、生れたばかりのちご君(後の兼経)をしっかりと抱いて、亡くなった妻の代わりと思ってお育てなさるにつけても、すぐに妻の罪深き(当時、御産で亡くなることは罪深いことと考えられていたらしい。)ことに思い至り、それは自分の罪が深いが為であろうから、こうした事から何とか逃れて、ひたすらに阿弥陀仏を念じ奉らんと思いながらも、思案にくれていらっしゃる。
そして、然るべき葬送をお済ませになって、御喪に服している間も、悲しみにふけっておいでである。ただ、このちご君のお世話に、深い悲しみも紛れることもあるのだろう。
御乳母には、われもわれもと望む人がたくさんいるが、弁の君(ベンノキミ・出自ははっきりしない。)といって素性のしっかりした者を、亡き上なども大切な人として目を掛けていらっしゃったので、この女房もそのご恩を忘れがたく思っていたうえに、「もし安産であれば、必ずそなたを乳母に命じましょう」などと仰せになった御約束の言葉も忘れがたくて、すぐにこの弁の君が万事心得てお世話申し上げることになったので、殿の上(倫子)は何よりのことと安心なさっている。
☆ ☆ ☆
『 ネス湖の大捜索 終了 』
ネッシーを求めての 大捜索が終了した
多くの目撃情報!?も あったらしいが
ネッシーその物は 確認できなかったようだ
ただ 捜索に関して 多くのデーターが取れたようで
次の機会に 役立てることが出来るそうだ
捜索結果は 残念と言うより
「良かった」というのが 個人的な感想だ
これで しばらくは
静かに暮らせますよ ネッシー!!
☆☆☆
『 ネッシー 大捜索! 』
イギリス・スコットランドの ネス湖で
ネッシーの 大規模な捜索が始まった
第1日目は 悪天候もあり 成果がなかったが
2日目に向けて 主宰する団体は 意気軒昂
きっと 元気に生存していると 思うのだが
見つけて欲しいような そっとしていて欲しいような
そのあたりが 微妙・・・
☆☆☆
『 北口榛花選手 金メダル!! 』
北口榛花選手 見事 金メダル獲得
世界陸上 やり投げで
最終投てきで 劇的な優勝を果たし
わが日本選手団に 貴重な貴重な
金メダルを もたらしてくれた
大会前から 金メダルを期待されていただけに
プレッシャーは 大変だっただろう
大きな大きな拍手を 贈りまァーす!!
☆☆☆
『 こほれる涙 』
雪のうちに 春は来にけり 鶯の
こほれる涙 今やとくらむ
作者 二条の后
( 巻第一 春歌上 NO.4 )
ゆきのうちに はるはきにけり うぐひすの
こほれるなみだ いまやとくらむ
* 歌意は、「 雪がまだ積もっているうちに 春がやって来た 春を待っていた鶯の 凍っていた涙も 今こそ解けて 鳴き声を聞かせてくれるだろう 」と、春の訪れを喜んだ和歌と、素直に受け取りたいと思います。
* この和歌の前書き(詞書)には、「 二条の后の春のはじめの御歌 」とあります。古今集では、天皇・皇后の御歌については、作者名は書かず、このように題の中に示すことになっているようです。
この二条の后とは、清和天皇のニ女御・中宮となった、藤原高子のことです。
父は、藤原長良、母は藤原乙春です。長良は、藤原北家の勢力を高めた藤原冬嗣の長男ですから、高子は北家嫡流の姫ということになります。また、長良には、良房・良相・順子という同母の弟・妹がおりますが、高子にとって叔父・叔母に当たるこれらの人たちは、いずれも重要な後援者であったようです。
* 高子の生年は 842 年です。
最初は、叔母に当たる順子の邸に出仕したようです。時期は不明ですが、順子は高子より三十三歳年上ですが、仁明天皇の皇太子時代に出仕し寵愛を受け、827 年に道康親王(のちの文徳天皇)を儲け、833 年に天皇に即位すると女御になっています。
仁明天皇が崩御し、文徳天皇が即位するのは、850 年のことですから、高子が出仕したのは、順子が皇太后となった 854 年の頃かもしれません。
* 858 年 8 月、文徳天皇が崩御しました。行年三十二歳でした。順子は五十歳になった頃で、夫に続き我が子にまで先立たれたのは、いくらやんごとない世界のことだとはいえ、その失意の気持ちに変わりはなかったことでしょう。
ただ、その後継に立ったのは、まだ九歳の文徳天皇の皇子でした。幼帝清和天皇の誕生ですが、そこに至るには激しい政争が垣間見られ、藤原北家の影響力が際立っていたと考えられます。
そうした中、高子は、清和天皇即位に伴う大嘗祭において、五節の舞姫を勤めています。高子が十七歳の頃ですが、公卿の娘が五節の舞姫を勤めるということは、将来の妃候補と考えられていました。ただ、この時、高子の父長良は二年ほど前に亡くなっていて、厳密には公卿の娘ではない状況にありましたが、おそらく、兄の基経と同様に、叔父の良房の養女になっていたと考えられます。また、清和天皇の祖母に当たる順子の強い支援があったかもしれません。
* 高子が正式に入内したのは、清和天皇の元服二年後の 866 年のことで、高子は二十五歳になっていて、かなり遅い入内でした。清和天皇はこの年で十七歳ですから、かなりの姉さん女房でした。
入内が遅れた理由としては、清和天皇がまだ幼少であったためということもあったかもしれませんが、高子の父のもう一人の同母弟である良相の娘は 864 年に入内していますので、後述するような素行面の理由があったのかもしれません。
* 高子は、遅い入内でしたが、869 年に貞明親王を儲け、876 年に陽成天皇として即位し、皇太夫人となり、後には、従一位そして皇太后の尊称を与えられるなど、最高位にまで上り詰めました。
しかし、その一方で、時の権力者である同母兄の摂政藤原基経とはそりが合わず、事ごとに対立したようです。
884 年、陽成天皇が在位八年、まだ十六歳でありながら退位に追い込まれました。乳母子を殺害したことで帝德に欠けるとされたようですが、粗暴な振る舞いもあったようですが政争に敗れたのでしょう。
後継の天皇も、陽成天皇の同母弟の貞保親王がおりましたが、宮廷は陽成・高子の排除に動き、仁明天皇の皇子である五十五歳の時康親王を光孝天皇として即位させ、三年後に崩御すると臣籍降下していたその御子を皇室に戻してまで即位させました。宇多天皇の誕生で、皇統は大きく動いたことになります。
* この後の高子の情報は極端に少なくなります。
896 年、すでに宇多天皇の御代になってましたが、高子自ら建立していた東光寺の座主との密通が疑われて、皇太后の尊称を廃されています。高子五十五歳の頃の事です。果たしてどれほどの大事であったのかはよく分らないのですが、復位されるのは、高子の死後三十余年後の 943 年のことで、朱雀天皇によってでした。
* 高子は、皇太后の尊称を剥奪された十四年後の 910 年に崩御しました。行年六十九歳でした。
高子という女性については、古来、「伊勢物語」などを通じて、在原業平との熱愛が様々に語られてきているようです。入内が遅れた原因に、この事があるともいわれていたようです。さらには、晩年においても密通事件があり、高子という女性が、ややもすると、色好みの女性として語られることが少なくないようです。
現代に至っても、調べてはいませんが、高子を題材にした小説などはかなりあるはずです。
高子の叔母に当たる順子について、「容姿が美しい穏やかな女性」と伝えられていますので、高子もとても魅力的な女性であったことは想像に難くありません。
* 高子は、わが国の歴史上の人物としては、注目度の高い女性といえるでしょう。
しかし、ややもすると、在原業平との関係が中心になりがちなことが残念です。現代伝えられている資料からは、その部分を軽視することは出来ませんが、高子は、平安時代初頭の皇位をめぐる激しい時代を、五十年ほどに渡ってその中心近くで栄枯盛衰を体験しているとも言えるのです。
例えば、藤原北家が宮廷政治の頂点に昇っていく過程にあって、北家嫡流の娘として生れ天皇のもとに嫁ぎ後継天皇を儲けながら、北家勢力により没落させられていく経緯などは、まだまだ語られて良いのではないでしょうか。
いずれにしても、二条の后藤原高子という女性は、歴史ファンにとっては超一流の存在ではないでしょうか。
☆ ☆ ☆
『 処理水の放出開始 』
福島第1原発の 処理水放出が始まった
避けられない道とはいえ 頭の痛い問題だ
科学的には安全だとしても
科学の力では 風評被害は防止できない
予想通り 政治問題化してくる国もあり
漁業関係者は 苦難の時期に入る
政府は外交努力を という声もあるが
それよりも 水産物は すべて国内消費させる
というのはどうか?
第2のコロナだと思って国費で 補助金を出して
水産物の価格を 大幅に引き下げるという案はいかが?
ただ 実行する段階で 補助金が大漏れするのでしょうナァ・・
☆☆☆
『 プリゴジン氏 死亡か 』
ロシアで 自家用ジェット機が墜落
乗員・乗客10人は 全員死亡との報道
乗客には ワグネル創始者のプリゴジン氏が
含まれているらしい
プーチン大統領との 確執もあり
単なる事故とは 考えづらい
ただ おそらく そうそう簡単には
真相は 明らかにならないだろうが
ロシア国内や ウクライナ情勢に
変化が有るのか無いのか 注目される
☆☆☆