雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

哀しき別れ

2017-08-24 08:37:24 | 麗しの枕草子物語
          麗しの枕草子物語

                哀しき別れ

御乳母の大輔の命婦が、定子皇后のもとを離れて、日向に下ることになりました。
皇后さまは、身重の御身体でもあられ、そのためもあって帝の御成りも絶えがちな折から、気丈に振舞ってはおられますが、親しいお方が離れて行くことは、やはり哀しいことでございます。

下賜される品々の中に、一面には、日がうらうらと差している田舎の風景、もう一面には、都の然るべき御屋敷に雨が激しく降っている絵が描かれている扇がございました。
そして、
『茜さす日に向かひても思ひ出でよ 都は晴れぬながめすらむと』
と、御自らの御手でお書きになられているのが、まことにいたわしい限りでございます。


(第二百二十三段・御乳母の・・、より)
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今昔物語拾い読み 『 その6 』 ご案内

2017-08-13 09:33:00 | 今昔物語拾い読み ・ その6
      今昔物語拾い読み 『 その6 』 ご案内   

『 その6 』には、「巻22」から「巻25」までを収録しています。

いずれも「本朝 世俗部」に位置付けられる部分です。収録順は、「巻25」から逆になっていますが、いずれの巻も全話載せています。  

          ☆   ☆   ☆
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今昔物語集 巻第二十五 表題

2017-08-13 09:30:04 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          今昔物語集 巻第二十五

本巻は全体の位置付けとしては、前巻に引き続き『本朝世俗部』に属しています。
内容は、平安武士の棟梁である源平二氏の活躍を中心とした物語が収録されています。
全部で十四話(欠話も含めて)と作品の数は少ないのですが、比較的長編の物が多くなっています。
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平将門 (1) ・ 今昔物語 ( 25 - 1 )

2017-08-13 09:23:51 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          平将門 (1) ・ 今昔物語 ( 25 - 1 )

今は昔、
朱雀天皇の御時に、東国に平将門(タイラノマサカド)という武者がいた。
この人は、柏原の天皇(桓武天皇)の御孫の高望親王(タカモチシンノウ)と申される人の子である鎮守府将軍良持という人の子である。
将門は、常陸・下総(ヒタチ・シモフサ)の国に住み、弓矢を以て身を立て、多くの勇猛な武士を集めて配下とし、合戦を行うのを本業としていた。

将門の父良持の弟である下総介良兼という者がいた。将門が父を亡くした後、その叔父良兼とささいな事から仲が悪くなった。また、父の故良持が領地の争いからついに合戦となったが、良兼は道心があり仏法を尊んでいたので、合戦を好まなかった。
その後、将門は事あるごとに親類一族とたえず合戦をしていた。そのため、多くの人の家を焼き払い、その近隣の国々の多くの民は田畠を作ることも出来ず、租税労役の勤めを果たすことも出来なかった。そういうことから、国々の民はこれを嘆き悲しみ、国解(コクゲ・国司が中央政庁に上申する公文書)をもって朝廷に報告したところ、天皇はこれを聞いて驚かれ、早速に将門を呼び寄せて喚問せよとの宣旨を下された。
将門は命に従って直ちに上京し、自分に過ちはないと申し立てたが、数度の審議の結果、「将門に罪は無い」との裁定があり、数日後に許されて本国に帰って行った。

その後もまた、いくらも経たないうちに、合戦をもっぱらとして、叔父の良兼や将門(将門となっているのは明らかな間違いで、「甥の良正」が正しいと考えられる。)、並びに源護(ミナモトノマモル)・扶(タスク)らと合戦を繰り広げた。
また、平貞盛は以前に父の国香を将門に討たれているので、その仇を討とうと思い、京で朝廷に仕え左馬允(サマノジョウ・左馬寮の三等官。但し、事実とは違うらしい。)であったが、その地位を棄てて急ぎ帰国したが、将門の威勢には敵対できそうもなく、本望を遂げることなく、国内に隠れていた。

このように、度々合戦が行われていたが、ここに武蔵権守興世王(ムサシノゴンノカミ オキヨオウ・出自不祥)という者がいた。彼は将門と心を一つにする者であった。正式な国司に任ぜられたわけではなく、自分勝手に入国してきた。その国の郡司が、例のないことだと拒んだが、興世王は言うことを聞かず、逆に郡司を罰した。そのため郡司は身を隠してしまった。
そこで、その国の介(スケ・次官)である源経基(ミナモトノツネモト・清和天皇の孫にあたる。)という者が、この状況を見て、密かに京に上り朝廷に、「将門はすでに武蔵守興世王と共に謀反を興そうとしています」と訴え出た。
天皇はこれをお聞きになって驚かれ、事の実否を尋問されたが、将門は無実であることを申し上げ、常陸・下総・下野(シモツケ)・武蔵・上総(カズサ)の五ヶ国の国司が証明した国解を取り集めて朝廷に奉った。
天皇はこれを正しいものと聞き入れられて、将門はかえってお褒めにあずかった。

その後、また、常陸国に藤原玄明(ハルアキラ・出自未詳)という者がいた。その国の国司は藤原維幾(コレチカ)であった。玄明は何かにつけ国司に反抗して、租税を国司に納めなかった。国司は怒って罰しようとしたが、どうすることも出来なかった。その上、玄明は将門の配下となり、将門と力を合わせて、国司を庁舎から追い払ってしまった。
国司はそのままどこかに身を隠してしまった。

そこで、興世王は将門に相談を持ち掛けた。「一国を奪い取るだけでも、その罪は免れない。それならば、いっそ坂東(関東一円)を奪い取って、その成り行きを見ては如何か」と。
将門は、「わしの考えも全く同じだ。関東八か国より始めて、王城(京都)をも奪い取ろうと思っている。いやしくもこの将門は、柏原天皇(桓武天皇)の五世の孫である。まず、諸国の印鎰(インヤク・印と鍵。国司の統治権の象徴。)を奪い取って、受領(ズリョウ・長官)を京に追い返そうと思っている」と答えて、協議を終えると、大軍を率いて下野国に向かった。すぐさまその国の国庁に着き、天下へ号令する儀式を執り行った。

その時、国司藤原弘雅・前国司大中臣宗行らが国庁にいたが、かねてより将門が国を奪おうとしていることを感じており、進んで将門を拝し、ただちに印鎰を捧げ持って、地にひざまずいてそれを献上し、逃げ去っていった。
将門は、そこから上野国に向かった。瞬く間に上野介藤原尚範(タカノリ)から印鎰を奪い、使者をつけて京に追い上らせた。そして、国府を占領して庁舎に入り、陣を固めて諸国(勢力下の東国八か国)の受領を定める除目(ジモク)を行った。
その時、一人の男が神がかった状態で、「我は八幡大菩薩の御使いなり」と叫び、「我が位を蔭子(オンシ・父祖の功労により位階を受けるべき子。)平将門に授ける。速やかに音楽を奏してこれを迎え奉るべし」と続けた。
将門はこれを聞いて、二度礼拝した。いわんや、将門に従う大勢の兵士たちは皆歓声を上げた。
ここに将門は、自ら上奏文を作って、新皇(シンノウ)と称して、ただちに天皇にその旨を奏上した。

                                             ( 以下、(2)に続く )

     ☆   ☆   ☆

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平将門 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 1 )

2017-08-13 09:22:20 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          平将門 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 1 )

     ( (1) より続く )

さて、その当時、新皇(シンノウ・平将門)の弟に将平(マサヒラ)という者がいた。
その将平が新皇に、「帝皇の位に就くことは、天が与えるところなのです。この事をよくお考え下さい」と言った。
新皇は、「わしは弓矢の道に練達している。今の世は討ち勝つ者を君主とするのだ。何のはばかることがあろうか」と言った。そして、弟の進言を承知せず、ただちに諸国(東国の八国)の受領を任命した。
下野守に弟将頼、上野守に多治常明、常陸介に藤原玄茂、上総介に興世王、安房守に文屋好立、相模介に平将文、伊豆守に平将武、下総守に平将為などである。(将文・将武・将為の三人は、将門の弟。)
また、王城(都)を下総国の南の亭(所在地未詳)に建設することを決定した。また、磯津の橋を京の山崎の橋にみなし、相馬郡の大井の津を京の大津にみなした。(共に要衝の地。)
さらに、左右の大臣、大・中・少納言、参議、文武百官、六弁(左右の大・中・小弁)、八史(太政官の史(サカン)八名)など皆定めた。新皇の印、太政官の印を鋳造するための寸法・字体を定めた。但し、暦博士は力及ばず設けることが出来なかった。

一方、諸国の国司たちはこの事を漏れ聞いて、慌てて全員が京に上っていった。
新皇は、武蔵国・相模国などまで軍勢を進め、その国の印役鎰を奪い取り、租税等の国事を勤めるよう留守番役の次官などに命じた。そして、自分が天皇の位に就くことを、京の太政官に伝えた。
この伝達を受け、天皇を始めとして、百官皆驚き、宮廷内は大騒ぎとなった。天皇は、「もはや仏の加護を仰ぎ、神の助けをこうむるしかない」と思われて、諸大寺に顕教・密教を問わず、あらゆる祈祷を行わせた。また、神社という神社には祈願をお願いしたが、まことにたいへんな事であった。

そうしている間に、新皇は相模国より下総国に帰り、馬も休ませないうちに、残りの敵を討ち滅ぼすために、大軍を率いて常陸国に向かった。すると、その国の藤原氏一族は、国境において盛大な饗宴を設けて新皇をもてなした。
新皇は、「藤原氏の者たち、平貞盛のいる場所を教えよ」と訊ねた。この問いに、「彼らは、聞くところによれば、浮き雲のよう居場所を変えていて定まっていないようです」と答えた。
やがて、貞盛、護、扶(タスク)らの妻が捕えられた。新皇はこれを聞いて、その女たちが辱めを受けないように命じたが、その命令が届く前に、兵士たちによって犯されてしまった。それでも、新皇はこの女たちを許して、家に帰してやった。
新皇はその場所に数日留まっていたが、敵の居場所を見つけることが出来なかった。その為、諸国から集めた兵士たちを皆帰国させた。残ったのは、僅かに二千人足らずであった。

こうした時、平貞盛並びに押領使(オウリョウシ・兇徒の鎮圧、逮捕にあたる令外の官。)藤原秀郷(ヒデサト・ムカデ退治の伝説がある俵藤太と同一人物。)らは、これを伝え聞いて、「朝廷の恥をすすごう」「身命を棄てて戦おう」と誓い合って、秀郷らが大軍を率いて向かったので、新皇は大いに驚いて、軍兵を率いて迎い打とうとした。やがて、秀郷軍と遭遇した。
秀郷は戦略に優れていて、新皇軍を撃破した。貞盛軍も秀郷軍の後に続いて逃げる新皇軍を追った。やがて追いつき合戦となったが、兵士の数が遥かに劣っている新皇軍は、「退却して、敵軍を引き寄せて逆襲しよう」と思って、辛島(サシマ)の北に隠れたが、その間に、貞盛は新皇の屋敷をはじめ、その一族郎党たちの家を片っ端から焼き払った。

さて、新皇は常に率いていた兵士八千余人がまだ集まらないので、僅か四百の軍兵で辛島の北で陣を張って待ち受けていた。貞盛・秀郷らは追って行き合戦となった。初めは新皇軍が優勢となり、貞盛・秀郷の軍勢は撃退されたが、次第に貞盛・秀郷軍が逆に優勢となった。互いに身命を惜しまず激戦となった。
新皇は駿馬を駆って自ら先頭に立って戦ったが、明らかに天罰が下り、馬も走らず手も思うように動かなくなり、遂に矢にあたって野の中に落ちて死んだ。貞盛・秀郷勢は喜び、屈強の兵士にその首を斬り落とさせた。
そして、ただちに下野国より解文(ゲブミ・国解(コクゲ)と同意で、国司が中央政庁に上申する公文書。)を添えて、その首を京に送った。
新皇が名を失い命を滅ぼすことになったのは、あの興世王の謀議にのった結果である。

朝廷はこの事を大変喜び、将門の兄弟並びに一族郎党らを追捕せよとの官命を、東海道・東山道の国々に下した。また、「この一族を殺した者には褒賞を与える」と公布した。そして、大将軍参議兼修理大夫右衛門督藤原忠文に将軍刑部大輔藤原忠舒(タダノブ)等を付けて、八ヶ国に派遣したので、将門の兄将俊ならびに玄茂らは相模の国で殺された。
興世王は上総国で殺された。坂上遂高、藤原玄明らは常陸国で斬られた。また、謀反に加担した者たちを探索し討伐したので、将門の弟七、八人のうちのある者は剃髪して深山に入り、ある者は妻子を棄てて山野を放浪した。

その後、経基、貞盛、秀郷らには褒賞が与えられた。経基を従五位下に、秀郷を従四位下に、貞盛を従五位上に叙された。
その後、将門がある人の夢に現れて、「我は生前、一善すら修めず、悪のみつくって、この業(ゴウ)によって、今一人で苦を受けること堪え難し」と告げた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆






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藤原純友 ・ 今昔物語 ( 25 - 2 )

2017-08-13 09:20:47 | 今昔物語拾い読み ・ その6
         藤原純友 ・ 今昔物語 ( 25 - 2 )

今は昔、
朱雀院(朱雀天皇)の御時に、伊予掾(イヨノジョウ・伊予国政庁の三等官)藤原純友(スミトモ)という者がいた。筑前守良範という人の子である。
純友は、伊予国にあって、多くの勇猛な武士を集めて配下として、弓矢を帯びて船に乗り、常に海に出て西の国々から京に上る船の荷物を奪い取り、人を殺すことを仕事のようにしていた。
その為、往き来の者は容易に船路が使えず、船に乗る者がいなくなった。

この為、西の国々より国解(コクゲ・国司が中央政庁に上申する公文書。)を奉り、「伊予掾純友は、悪行をもっぱらとし、略奪を好み、船に乗って常に海上にあって、国々の往来の船荷を奪い取って人を殺害しています。これは、朝廷・人民にとって、大いなる煩(ワズラ)いでございます」と訴え出た。
天皇はこれをお聞きになって驚かれ、散位(サンイ・位だけで官職のない者)橘遠保という者に、「その純友を速やかに誅罰せよ」と命じられた。
遠保は宣旨を承って、伊予国に下り、四国ならびに山陽道の国々の兵士を徴集して、純友の拠点に攻め寄った。純友も奮起して待ち構えて合戦となった。しかし、朝廷軍には勝てず、天罰をこうむって、遂に討ち取られてしまった。

また、純友の子供に十三歳になる童がいた。姿端麗にして、名を重田丸と言った。まだ幼少とはいえ、父と共に海に出て、海賊働きを好み、大人にも劣ることがなかった。
遠保軍は、その重田丸をも殺して首を斬り、父のものと二つの首をもって、天慶四年(941)七月七日、京に上り着いた。まず、右近の馬場において事の次第を奏上したが、京じゅうの上中下の人々が大騒ぎして見物した。車の置き場もなく、歩行者は立ち留まることも出来なかった。天皇はこれをお聞きになって、遠保をお褒めになった。

その次の日、左衛門の府生(フショウ・六衛府の下級職員)である掃守在上(カモリノアリカミ)という、物の形を少しも違うことなく写す高名な絵師がいたが、その者を内裏に召して、「かの純友ならびに重田丸の二つの首が、右近の馬場にある。速やかにそこへ行き、その二つの首を見て、写して持って参れ」と命じられた。
これは、かの首を天皇が御覧になろうと思われたが、内裏に持ち込むわけにもいかないので、このように絵師を向かわせて、その形を写して御覧に入れるためであった。
そこで絵師は右近の馬場に行き、その首を見て写し、内裏に持って参ったところ、天皇は殿上の間で御覧になった。首を描いた絵は、実物と少しも違わなかった。
しかし、二つの首を写して御覧になられたことは、世間の人はよく言わなかった。

さて、首は検非違使左衛門の府生の若江善邦という者を召して、左の獄舎に下げ渡した。(左右に獄舎があった。)
遠保には恩賞が与えられた。
この天皇の御代には、去る承平年間に平将門の謀反事件が発生して、世をあげての重大事であったが、程なくしてまたこの純友が討たれ、このような大事件が打ち続き発生したのは、世間では様々に語られた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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一騎打ち ・ 今昔物語 ( 25 - 3 )

2017-08-13 09:19:45 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          一騎打ち ・ 今昔物語 ( 25 - 3 )

今は昔、
東国に源充(ミナモトノミツル)、平良史(タイラノヨシフミ)という二人の武者がいた。充の通称は箕田源二(ミノタノゲンジ)といい、良史の通称は村岳五郎(ムラオカノゴロウ)と言った。

この二人の武者は、互いに武勇を競っていたが、次第に仲が悪くなっていった。
二人が言う言葉を中傷する郎等がそれぞれにいて、「充はあなたのことを、『あの尊(ミコト・本来は高貴な人に対する尊称であるが、揶揄する形で使われていて、良史を指している。)は、わしにかなうはずがない。何事につけ、わしに対抗できるものか。哀れなことだ』と言っていますよ」と良史に告げ口すると、良史はこれを聞いて、「わしに対してそんなことが言えるのか。武力も智力も、あの尊の程度はみな知っている。もし本気でそう思っているのなら、しかるべき野に出てこい」と言うと、郎等はその旨を今度は充に告げた。
もともとは、二人は豪胆で思慮のある武者であったが、郎等が腹を立たせけしかけたので、共に大いに怒って、「こんな言い合いばかりしていても仕方がない。それでは、日を決めて、然るべき広い野において優劣を決しよう」と果たし状を交わした。
その後は、それぞれ軍勢をととのえ、合戦の準備を進めた。

やがてその当日になると、双方軍勢を率いて、約束した野に、巳の時頃(午前十時頃)に退陣した。それぞれ五、六百人ほどの軍勢であった。皆、身を棄て命を惜しまず奮い立ち、一町(約109m)ばかり隔てて盾を突き並べた。
双方が兵士を出して開戦状を取り交わした。その兵士が引き返すと、仕来たり通り矢を射かけ始めるのである。その時、その兵士は馬を急がせず、後ろを振り返ることなく、静かに引き返すのが勇猛な兵士とされていた。
さて、その後、互いに盾を寄せ合って、今や矢合戦が始まろうとした時、良史の陣から充の陣に使者を立てて、「今日の合戦は、互いの軍勢で以って射合わせするのでは面白くない。貴殿とわしとで互いの腕前を比べようではないか。されば、両軍の射合わせはせずに、我ら二人だけ馬を走らせて、互いの技を尽くして射合わせしようと思うが如何か」と伝えた。

充はこれを聞いて、「わしもそう思う。早速出て参ろう」と伝えさせて、充は盾を離れてたった一騎で出て行き、雁股(カリマタ・先端が左右に開いたやじりをつけた矢。)をつがえて立った。
良史もこの返事を聞いて喜び、郎等を押し止めて、「わし一人で腕の限り尽くして射合わせするつもりだ。お前たちはわしに任せて見ておれ。もし、わしが射落とされたならば、その時は引き取って葬ってくれ」と言って、楯の内よりただ一騎ゆったりと進み出た。

さて、双方雁股をつがえて馬を駆けさせた。そして、互いにまず相手に射させようとした。次の矢で確実に射取ろうと思って、おのおの弓を引き絞って馬をすれ違いざまに矢を放った。各々走り過ぎたので、再び馬を返す。また弓を引き絞って矢を放つことなくすれ違う。各々走り過ぎたので、また馬を返す。そして、弓を引いて狙いをつける。
良史が充の真ん中に狙いをつけて矢を射ると、充は馬から落ちるようにして矢をかわすと、太刀の股寄(モモヨセ・太刀の鞘の部分の一部)に当たった。充はまた馬を返して、良史の真ん中に狙いをつけて射ると、良史は身をよじってかわしたが、腰当(コシアテ・太刀を差すために鎧の上から腰に巻く革帯。)に突き刺さった。

良史は、再び馬を返して矢をつがえて馬を走らせたが、その時、充に言った。「互いに放った矢は、皆はずれたわけではない。すべて真ん中を射た矢だ。されば、互いの腕前は十分わかった。共に大したものだ。そもそも、我らは父祖の時代からの敵ではない。もうこの辺りで止めようではないか。ただ腕を競い合ったまでの事だ。強いて相手を殺すまでもあるまい」と。
充もこれを聞いて、「わしも同感だ。まことに互いの腕前は示すことが出来た。ここで止めるのは、良いことだ。では、兵を引いて帰ろう」と言って、各々の軍勢を率いて、帰って行った。

双方の郎等たちは、それぞれの主人たちが馬を馳せ合い、射合ったのを見ていて、「今や射落とされるか、今度こそ射落とされるか」と、肝をつぶして心臓は激しく打ち、自分たちが射合って生死を懸けるよりも、堪え難く怖ろしく思っていたが、このように射合わせを止めて引き返してくるのを、初めは不思議に思ったが、事の次第を聞いて皆喜び合った。
昔の武者というものは、このようであったのだ。

それから後は、充も良史も互いに仲直りし、少しも争うことなく、厚誼を結んで過ごした、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆







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小侍の仇討 (1) ・ 今昔物語 ( 25 - 4 )

2017-08-13 09:17:15 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          小侍の仇討 (1) ・ 今昔物語 ( 25 - 4 )

今は昔、
上総守平兼忠という者がいた。この者は平貞盛という武者の弟の繁茂の子である。
その兼忠が上総守でその国に住んでいた時のこと、余五(ヨゴ・十余り五、の意味で第十五子の呼称)将軍維茂(コレモチ)という者は、この兼忠の子であるが陸奥国(ムツノクニ)に住んでいたので、上総国に住んでいる父の兼忠に、「久しくお目にかかっておりませんが、父上が上総守としてお下りになりましたので、お祝いかたがた参上いたします」と言って寄こした。
兼忠も喜んで、その準備をして、「今か、今か」と待っていると、屋敷の者が、「はやご到着なさいました」と言ってざわめきだした。ちょうどその時、兼忠は風邪(現在の風邪よりは広範囲の病状に使われていた。)を患っていて、外出は出来ず簾の内で横になっていて、近くで使っていた小侍(コザムライ・少年の侍)に腰をたたかせていたが、そこに維茂がやって来た。前の広縁に坐り、これまでの事などを話をしていたが、維茂の郎等の主だった者四、五人ばかりが弓矢を背に負って、前の庭に居並んでいた。

その第一に坐っている者は、通称を太郎介という。五十歳余りの男で、身体は大きく太っていて髭が長く、威厳があり恐ろしげで、見るからに頼もしい武者に見える。
兼忠はこれを見て、腰をたたいている小侍に、「あの者を見知っているか」と訊ねると、知らないと答えた。
兼忠は、「あの男は、お前の父を先年殺した者だ。その時は、お前はまだ幼かったから知らないのは当然だ」というと、腰をたたいていた小侍は、「『父は人に殺された』と人は申しますが、誰が殺したのか知りませんでした。こうして顔が分かりましたからには」と、言葉を詰まらせ、目に涙を浮かべて立ち去った。

維茂は食事などし、日も暮れたので、寝所となっている別室に移った。太郎介も主人を送り届けて自分の宿所に行った。そこにも彼の世話をする者たちがいて、様々な食物、果物、酒、まぐさ、干し草などを持ちこんで大騒ぎをしていた。
九月の末のことで月はなく、庭が暗いので所々に松明が立てられている。
太郎介は食事を終え、高枕で寝てしまった。枕元には、打出の太刀(ウチイデのタチ・新しく造られた太刀という意味か?)が置かれていた。その側には、胡録(ヤナグイ・矢を入れ背に負う武具)、鎧、兜などが置かれてる。
庭では郎等たちが弓矢を背にしてあちらこちらを見回り主人を守っている。
太郎介が寝ている所には、布の大幕を二重に張り巡らしているので、矢などが通りそうもない。庭に立てた松明の光は昼のように明るい。郎等たちは油断なく見回っているので、少しの危険もない。
太郎介は長い道中に疲れ果てていたうえ、酒をしたたかな飲んで気を許して寝てしまっていた。

さて、兼忠に「お前の親はあの男が殺した」と教えられた小侍は、目に涙を浮かべて立ち去ったので、兼忠は、「ただ、立ち去っただけであろう」と思っていたが、小侍は台所の方に行き、腰刀(コシガタナ・腰に差す短い刀)の切っ先を繰り返し念入りに研ぎ、それを懐中に隠し持って、暗くなる頃、あの太郎介が泊まっている所に行き、大胆にも様子を窺っていたが、食べ物などを持ち運ぶ忙しさに紛れて、何食わぬ顔で折敷(オシキ・食器などをのせる木製の四角い盆。)を取って食物を差し上げるように見せかけて、張り巡らせている幕と壁の間に身を隠した。そして、「親の仇を討つことは、天が許し給うことです。私が今夜親孝行のために企てたことなので、なにとぞ望みを成就させてください」と心の中で祈念して、うずくまっていたが誰も気づかなかった。やがて夜が更けて、太郎介が寝ているのを知った小侍は、そっと忍び寄り、喉笛を掻き切り、闇に紛れて逃げ出したが、誰も気が付かなかった。

夜が明けて、朝になっても太郎介がなかなか起きてこないので、郎等が粥の用意が出来たことを告げに部屋に行くと、血みどろになって死んでいた。これを見て「これはどうしたことか」と言って叫ぶと、郎等たちは、ある者は矢をつがえ、ある者は太刀を抜いて走り騒ぐも、どうすることもできない。
いずれにせよ、誰が殺したのか分からず、郎等以外に近寄った者はいないので、「郎等の中に身に覚えがある者がいるのではないか」と互いに疑い合うも、何の解決にもならない。
「あさましい死に方をされたものだ。どうして声を立てることもなく殺されてしまったのか。『このような口惜しい死に方をする』などとは思いもよらず、長年お側でご用を勤めてこられたのだ。運が尽きなさったのだとはいいながら、情けない最期を遂げられたものだ」と、田舎訛りの声でわめき合い大騒ぎすること限りなかった。

                                ( 以下(2)に続く )

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小侍の仇討 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 4 )

2017-08-13 09:15:55 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          小侍の仇討 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 4 )

     ( (1) より続く )


さて、維茂もこのことを聞いて、大変驚き騒ぎ、「これはわしの恥である。わしに遠慮がある者なら、太郎介を殺すようなことはするまい。露ほどもはばかる心がないから、このようなことが出来るのだ。特に、時期と場所が全く気に入らない。わしの領国で起きたのならまだしも、このように知らぬ国に来て、このような目に遭うとは何とも悔しい限りだ。そもそも、この太郎介は先年人を殺したことがある男だ。その殺された者の子が小侍としてここの殿に仕えているということだ。そのような者が殺したに違いあるまい」などと言って、屋敷に出かけて行った。

守(カミ・父の兼忠を指す)の前に行って、維茂が言った。「私の供として従っていた某を、昨夜誰かが殺しました。このような旅先においてこのような目に遭いましたのは、維茂の大変な恥辱でございます。これは余人のしわざではありますまい。先年、思いかけずも、馬のままで前を横切った者を咎めて射殺したましたが、その年少の男の子が父上のもとに仕えているはずです。きっと、その者のしわざでございましょう。『その者を呼んで問い質そう』と思うのです」と。

守はこれを聞いて、「おそらく、その男のしたことであろう。昨日そなたの供をしてあの男が庭におったが、その時、腰が痛くてその小侍に腰をたたかせていたので、『あの男を知っているか』と訊ねると、知らないと答えたので、『お前の父はあの男に殺されたのだ。そういう者の顔は見知っておくがよい。あの男はお前を何とも思っていまいが、親の仇の顔を知らないのも情けないことだ』と言ってやると、伏し目になり、そっと立って行ったがその後今だに顔を見せない。わしの側を離れず夜も昼も仕えている奴が昨日の夕暮れから姿が見えず、怪しいことだ。さらに疑わしいことは、昨夜、台所において刀を熱心に研いでおった。それも今朝下男どもが怪しんで話しているのを聞いたのだ。
そもそも、そなたが『呼んで問い質そう』と言うのは、本当にその小侍のしわざであれば、そいつを殺すつもりなのか。それを聞いたうえで、その者をお引渡しいたそう。この兼忠は卑しい者ではあるが、賢明であられるそなたの父である。
そこで、もしこの兼忠を殺した者を、そなたのご家来衆がこのように殺した場合、それをこのように咎める者があれば、それを良い事と思われますかな。親の敵を討つのは天道のお許しになることではないのかな。そなたが立派な武者なればこそ、この兼忠を殺した者は、『安穏ではいられない』と思っていたはずだ。それを、親の敵を討った者をこの兼忠に差し出せと申されるのは、わしが死んでも仇討はしてくださらないらしい」と、大声で言い放って座を立ったので、維茂は、「まずいことを言った」と思って、恐縮してそっと立ち去った。
そして、「仕方がないことだ」と思って、本国の陸奥国に帰って行った。あの太郎介の遺骸は、その郎等たちが始末した。

その後、あの太郎介を殺した小侍は、三日ばかり経ってから、黒い喪服を着て姿を現した。守の前に人目を忍んで恐る恐る出て来たので、その姿を見て、守を始め同僚たちは皆涙を流した。
それ以後、この小侍は、人に一目置かれ、しっかり者と思われるようになったが、程なく病にかかり死んでしまったので、守もたいそう不憫に思った。

されば、親の仇を討つことは、勇猛の武者といえども、成し遂げがたいことである。それを、この小侍は、こともあろうにたった一人で、あれほど多くの郎等が油断なく警護していた者を、望み通りに討つことが出来たのは、まことに天のお許しがあったからだろうと、人々は褒め称えた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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余五将軍合戦記 (1) ・ 今昔物語 ( 25 - 5 )

2017-08-13 09:04:40 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          余五将軍合戦記 (1) ・ 今昔物語 ( 25 - 5 )

今は昔、
実方(サネカタ・藤原氏)中将という人が陸奥守になって、その任国に下ったが、その人は高貴な家柄の貴族であったので、国内の然るべき武者たちは、皆、これまでの守に対するのとは違い、この守をもてなし、夜昼かまわず国司の屋敷への出仕に努めた。

ところで、この国に平維茂(タイラノコレモチ・前話にも登場。前話では兼忠の子となっているが、繁盛の子とも。貞盛の養子となり余五将軍と号した。)という者がいた。これは、丹波守平貞盛という武者の弟である武蔵権守重成(正しくは繁盛)という者の子の上総守兼忠の長男である。
曾祖伯父の貞盛は、甥や甥の子などをみな引き取って養子にしたが、この維茂は甥であるが年が若かったので、第十五子として養子にしたので、通称を余五君(ヨゴノキミ)というのである。
また、その当時、藤原諸任(フジワラノモロトウ・出自未詳)という者がいた。これは、俵藤太秀郷(タワラノトウタヒデサト・藤原秀郷の通称)という武者の孫である。通称を沢胯四郎(サワマタノシロウ)といった。

この二人は、ささいな所領争いから、各々自分の正当を主張して、守(カミ・実方中将)に訴え出たが、いずれにも道理がある上、二人とも国の有力者なので、守としても裁定を下すことが出来ないでいるうちに、三年目に守が死んでしまった。
そのため、その後も共に訴訟をめぐる怒りがおさまらず、互いに不快に思って過ごしていたが、それぞれに、この事に関して不都合な中傷をする者どもがいて、よからぬように告げ口などをしたので、もとは極めて仲が良かった二人が、どんどん仲が悪くなり、互いに、「わしのことをそのように言っていたのか。そうは言わせないぞ」と言うようなことがたび重なっていき、遂には、はっきりと公言するようになり、大事へと発展してしまった。

そこで、とうとう双方ともに軍備を整え、合戦すべき状況になってしまった。そして、決戦状を取り交わして日を定め、「どこそこの野で戦おう」と約束した。
維茂方には兵士三千人ばかりあり、諸任方は兵士千余人であったので、兵士の数ははなはだしく劣っていた。
そこで諸任は「この戦いは止めよう」と言って、常陸国に退いてしまった。維茂はこれを聞いて、「そうであろう。わしに手向かうことなど出来るわけがない」などと、数日間息巻いていたが、集まって来ていた兵士たちもしばらくは気炎を上げていたが、滞陣が長引いてきたので、それぞれ「所要あり」などと理由をつけて、皆本国に引きあげてしまった。

また、告げ口をしていた者たちも、「沢胯の君(諸任)は、つまらない者の告げ口によって無益な戦をすることは望まないでしょうし、軍兵の数も勝負になりません。またこの所領争いもつまらないことです。沢胯の君は、『常陸と下野の辺りを行き来しよう』と言っているらしです」などと、調子の良いことを言うし、「無事に自分の国に帰ろう」と思っている連中も口々に余五(維茂)に言い聞かせたので、余五も、「そうであろう」と思って、軍平を皆帰し、気を緩めていた。
すると、十月一日の頃に、丑時(ウシノトキ・午前二時頃)のころに、家の前の大きな池に集まっていた水鳥が、にわかに騒がしく飛び立つ音がしたので、余五ははっと目を覚まし、郎等たちを呼んで、「敵が攻めてきたに違いない。鳥がばかに騒いでいる。男どもよ、起きて戦仕度をせよ。馬に鞍を置け。櫓に登れ」など命じて、郎等の一人を馬に乗せ、「馳せ向かって様子を見てこい」と言って行かせた。

郎等はすぐさま返ってきて、「この南の野にどのくらいかは分かりませんが、おびただしい数の軍勢が真っ黒に散っていて、四、五町ほどの間に満ち溢れています」と報告した。
余五は報告を聞いて、「それほどの軍勢に襲われては、もはや最期だろう。とはいえ、ひと戦せねばなるまい」と言って、軍勢が押し寄せてくる道々に、それぞれ四、五騎ばかり盾を突いて待ち構えさせた。家の中で戦仕度の者といえば、上下合わせても二十人ほどに過ぎなかった。
「すっかり油断しているのを知られ、詳しく通報されて襲われたからには、もはや生きのびる道はない」と思って、妻や幾人かの侍女、幼い子供などを後ろの山に逃した。この幼児というのは、幼い頃の左衛門大夫滋定(シゲサダ)である。

                               ( 以下、(2) に続く )

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