雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語 第十一部

2014-09-05 10:24:28 | 小さな小さな物語 第十一部
               小さな小さな物語 第十一部


                    第601回 から 第660回 まで収めています
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小さな小さな物語  目次

2014-09-05 10:22:19 | 小さな小さな物語 第十一部
          小さな小さな物語  目次 ( 601 ~ 620 ) 

     No.601  春の訪れ
        602  ハーフ・ハーフ
        603  寄り道
        604  期間限定
        605  ゴーストライター
       

        606  あるかなしか
        607  言いたい放題
        608  春分の日
        609  針の穴を通す
        610  チームワーク
        

        611  選挙の意味
        612  沖ノ鳥島
        613  食文化
        614  消費税攻防
        615  頑張れ STAP細胞
       

        616  小手先
        617  生産年齢
        618  大型客船の遭難
        619  品格を磨く
        620  同盟関係   
 
         
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春の訪れ ・ 小さな小さな物語 ( 601 )

2014-09-05 10:20:45 | 小さな小さな物語 第十一部
ソチ・オリンピックも、いくつもの感動を与えてくれながら、無事終了しました。
ロスソチという言葉もあるそうですが、深夜放送が多かったこともあり、熱心なファンには生活のリズムを狂わせた人もいるそうです。
各競技に出場された選手の方々には、お疲れさまと感謝を述べたいと思います。同時に、今回に限ったことではないのでしょうが、場外とでも言いますか、競技以外のところでの様々な発言やエピソードもこれまで以上に話題になっていたような気もします。

日頃あまり見たこともないような競技に一喜一憂しているうちに、国内では大雪に見舞われたりしましたが、気が付けば、はや二月も終わりの日を迎えています。
当地は昨日は雨でしたが、静かな、そして暖かい雨で、春の訪れを感じさせるものでした。しかし、当地からあまり離れていない地域では、竜巻情報が出されるなど、かなり荒れた天候だったようで、春という季節の気難しさの一端を見せていたようです。
春の訪れは、新年の挨拶に「初春の・・・」といった文言を使うことがありますように、初春というより極寒の季節に向かっている季節と思われる正月早々に、初春云々という挨拶文言を使っても、何の違和感も感じない感性を私たちは持っています。
立春ともなれば、「季節の上では・・・」という名文句が登場しますし、関西では、「お水取りが終わるまでは・・・」寒さが残るとされています。

この「お水取り」といいますのは、「お松明」ともいわれますが、奈良東大寺二月堂の修二会(シュニエ)のことを指します。
三月一日から二週間にわたり行われる修二会は、この行を勤める練行衆(レンギョウシュウ)の道明かりとして炊かれる大松明が評判で、連日観光客でにぎわいます。特に、その中心となる三月十二日の深夜(正しくは十三日の午前一時半頃)の「お水取り」の行事が行われる時は、身動きが取れないほどの人出となるようです。
その「お水取り」が終われば、関西は本格的な春の訪れとなります。

「一月いって、二月は逃げて・・・」と言われるように、時の流れの早さに驚いてしまいます。
三月も、今度はパラリンピックがありますし、梅も見たいし、「桜便り」も、それほど先のことではありません。入学や卒業などに関係のあるご家庭は、さらに慌ただしい毎日になることでしょう。
しかし、それだからこそ、日々色鮮やかになっていく草木や空や風の匂いに親しむだけの余裕を持ちたいものです。

( 2014.02.28 )

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ハーフ・ハーフ ・ 小さな小さな物語 ( 602 )

2014-09-05 10:19:35 | 小さな小さな物語 第十一部
オリンピックは終わりましたが、メダリストを中心にメディアへの登場はまだまだ続いています。
その中で、浅田真央さんの存在感の大きさというものが、際立っていることを再認識させられました。
浅田選手のオリンピックでの演技は、メダル云々を超越してしまうほどの感動を与えてくれるものでしたから、メダリスト並、あるいはそれ以上の話題性があるのも当然ということなのでしょうか。
さらに、今回のフリーの完璧な演技ばかりでなく、ショートプロクラムの演技をも通して、多くの人々がこれまでの浅田選手の様々な演技やエピソードを熟知していて、ショートからフリーに至る浅田選手の心境を自分の感情としてしまったように思われます。
『浅田選手の二十四時間』といったドキュメンタリー番組を、ぜひともどなたかが作ってほしいものです。

帰国後すぐに行われた、外国人記者クラブ主催の浅田選手の会見は、実に興味深いものでした。
残念ながらテレビで報道される断片的なものしか見ておりませんが、その部分だけでも浅田選手の魅力は伝えられていて、素晴らしい記者会見だったようです。
記者会見を魅力的なものに出来た一つの要因は、各国の記者の質問が実にユニークで素晴らしかったということではないでしょうか。
普通ならスポーツ選手に対する質問としては不似合と思われる国際関係の質問も、浅田選手の対応の見事さとも相まって、微笑ましいものになっていました。
ある記者からは、自分の国の言葉なのでしょうか、「『アサダ』というのはメスライオンのことです」という、質問とは思えない薀蓄を述べておられましたが、笑ってしまいました。

各テレビ局がこの記者会見の中で最も大きく取り上げていたのは、某元首相の発言に対してのものでした。複数の記者からの質問に対して、浅田選手の軽妙な対応を見ていると、何か、人間には『器』というようなものがあるような気がしてしまいました。先天的なものなのか、研鑽によるものかは分かりませんが。
これも個人的な願望ですが、この記者会見の様子をノーカットで見てみたいと思うのです。きっと、並のドラマよりは魅力的な作品になると思うのですが、どこかのテレビ局が実現させてくれませんでしょうかねぇ。

やはり、記者会見の続きですが、今後についての質問に対して浅田選手は、50%と言いかけてから「ハーフ・ハーフ」と答えました。
50%ではなく、「ハーフ・ハーフ」という答えに、実に新鮮なものを感じました。
言葉のの上では、「ハーフ・ハーフ」も、50%も、五分五分も、大体同じようなものでしょうが、実は、何か大きな違いのようなものを感じたのです。
ある記者は、母国に「浅田選手は現役続行が濃厚」といったニュアンスを伝えています。この記者は「ハーフ・ハーフ」は現役続行の意思表示として受け取ったみたいなのです。きっと、何かオーラのようなものを感じ取ったのでしょうか。
考えてみますと、私などは、右か左かとうろうろ迷うことはいつもあるものの、本当の意味で決断を要する「ハーフ・ハーフ」などには、一度も経験していないよな気がするのです。
「ハーフ・ハーフ」という言葉も、発信者により重みに大きな差があるようです。

( 2014.03.03 )

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寄り道 ・ 小さな小さな物語 ( 603 )

2014-09-05 10:18:16 | 小さな小さな物語 第十一部
気が付くと、「寄り道していた」ということがありますか?
散歩だとか行楽の際の寄り道は、むしろ意識的なことが多く楽しみの一つですから、こういうものは別にして、ふと、どこかへ立ち寄るとか、何かをしているときに無意識のうちに他のことに興味が行ってしまっていて、自分は何をしているのだろうか、と考えてしまうほどの「寄り道」です。
以前は、ごくまれにはあったのですが、どうも最近は経験していないような気がするのです。

私は、何かの拍子に「寄り道」ということに考えがいった時、必ずと言っていいほど一つの話を思いだします。
もう、ずいぶん前にある人から聞いた話で、実は当ブログで既に紹介させていただいていますが、再度書かせていただきます。
「 その人が、まだ幼い頃の、そう、何十年も昔の思い出話です。
『 隣村の親せきの家まで用事に行かされた帰り道のこと、川の土手だと思うんだが、一面にきれいな花がいっぱいに咲いていた。
わたしは、用事の途中なのに、持っていた荷物を放り出して、お花畑の中を走り回り、手に持ちきれないほど摘んで長い時間遊んだのをよく覚えている。
あの道は、その後も何度か通ったはずだが、あの時以外一度もお花畑を見た記憶がないんだねぇ・・』
 そして、年取ったこの頃、あのお花畑のことをよく思い出す、と何度も何度も聞かされました」

考えてみると、最近は本当に寄り道をしていないような気がします。
「家を出て、予定の所に行って、予定の行動をして、まっすぐに家へ帰ってくる」という生活を繰り返しているわけではないので、家人などに言わせれば、しょっちゅう寄り道していると言うのでしょうが、自分としては、それは私が考えている寄り道とは違うと思うのです。
うまく説明できないのですが、無我夢中で、何もかも忘れて没頭してしまうような寄り道に、久しく出会っていない気がするのです。
それは、単に行動しているときの事ばかりでなく、何か考え事や調べ物をしているときでも同様なのです。例えば、当ブログの作品のために調べ物をしたりするとき、確かに全く関係ない事項に興味を覚えてそちらに没頭することもあるのですが、残念ながら、その関係ない事項も、自分の意識の中にある範疇にとどまってしまっているような気がするのです。

知識を習得したり、物事を経験したりするのに年齢は関係ないと思っていますし、事実そうだと思うのです。
加齢により、記憶力や反射神経は鈍っていきますが、積み重ねてきた経験は、一つの事柄を多層的にみることができるはずです。
しかし、「鉄は熱いうちに打て」という言葉もありますように、無我夢中で物事を習得する年齢というのは、どうも限られているようながします。
私の考えているような「寄り道」は、その限られた期間でなければ経験することができないのかもしれません。若いお方には、精一杯背伸びをして、あちらこちらと「寄り道」して、懐を広げていただきたいと願うばかりです。
それで、私ですか?
まあ、人生そのものが「寄り道」みたいなものですから、見たり聞いたり頂戴してきたものを、好き勝手に書き続けるとしますか。
それにしても、自分自身が唖然としてしまうような「寄り道」、経験したいですねぇ。

( 2014.03.06 )
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期間限定 ・ 小さな小さな物語 ( 604 )

2014-09-05 10:16:57 | 小さな小さな物語 第十一部
「期間限定」という言葉を時々見たり聞いたりします。
賞味期限や消費期限とは全く違う位置付けで、商品の販売などで使われていることがよくあります。
季節の材料を使った菓子や料理などは、よく見かけますが、これなどはこの季節だけの「期間限定」製品だということで、販売戦略の一つだと思いながらも、ついつい求めてしまうことも少なくありません。そして、それは、決して騙されたとか、うまくやられたなどという気持ちはなく、一つのサイクル、大げさに言えば、社会の動きについて行っているように気分にもなり、悪いものではありません。

ただ、中には、少々やり過ぎではないかというものもあります。
テレビやラジオを通じての販売などにおいて、「只今だけの特別価格」とか「この期間だけの限定商品」などという言葉を耳にすることがありますが、これなどは間違いなく「期間限定」をセールスポイントに挙げていると思うのですが、同じようなコマーシャルが何か月も、時には一年中ではないかと思うほど流されるとあっては、あまり良心的とは言えないように思われます。
もっとも、ある大都市の商店で、年から年中「閉店大セール」を行っている所がありました。最近どうなっているかは知らないのですが、当時、少なくとも数年は続けられていたようです。まあ、そのくらい徹底して続けられてしまうと、騙されたと腹を立てるよりも、笑ってしまう人の方が多いようです。それに、決して嘘をついているわけではなく、いつかは閉店するというのは事実でしょうし、それが、ひと月先か五年先か百年先かという違いだけだともいえるわけですから。
それに、これは直接聞いたわけではないのですが、店主に言わせれば、「大特価セール」や「大感謝セール」などと同様に、「閉店大セール」も大売出しの一種だと胸を張っていたそうです。

当地では、三月に入ると、あちらこちらの家庭からイカナゴを煮る匂いが漂ってきます。「くぎ煮」を作っているのでしょう。
これなどは、正真正銘の「期間限定」の風物詩といえるでしょう。
また、期間は少々長くなりますが、関西の多くの駅頭を中心に、日本海側の旅館や温泉街などが「カニ料理」の案内が大々的に行われています。ぼつぼつ季節も終盤になってきていますが、特別列車やバスなども運行されたりしていてスケールの大きな「期間限定」といえるでしょう。

イカナゴにせよカニにせよ、あるいは、今買わなければ損をしますよとばかりに売られている商品も、少し時間を置けば、あるいは来年になれば、少々の値段の差があるとしても、二度と求められない物などそうそうあるものではありません。
しかし、私たちが生きていく上で、ただ一度の生涯というものを考えてみた場合、決して取り返しのできない「期間限定」というものはあるような気がするのです。
ある種の才能は、ごくごく限られた若い期間に鍛える必要があるようですし、スポーツなどでも、その競技によりピークに達する年齢はある程度決まっているように思われます。
「青春」などという言葉は、最近あまり一般受けしない言葉のような気がしますが、人生の中で、最も背伸びすることができ、またそれが許される時のような気がするのです。そして、まさしく「青春」は「期間限定」なのです。
「青春は年齢ではない」などと、何とかという詩人の言葉を持ち出す人もいますが、そのような言葉を持ち出すこと自体が、「青春」を遥か昔に失っている証拠といえます。
私たちは、人生における「期間限定」であるどの期間も、再び取り戻すことなどできません。中には、取り戻しているような発言をする人もいますが、単なる勘違いにすぎません。
人生の「期間限定」は、正真正銘の「期間限定」ばかりなのです。二度とその期間が戻ってくることなどありません。
ただ、私たちは何歳になっても、ある「期間限定」の中で生きているということも出来ます。そのかけがえのない与えられて時間を、精一杯に生きる工夫を考えることが大切なような気がするのです。

( 2014.03.09 )
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ゴーストライター ・ 小さな小さな物語 ( 605 )

2014-09-05 10:15:33 | 小さな小さな物語 第十一部
脚光を浴びていた作曲家が実はとんでもない人物だったらしい、ということが話題になっています。
ゴーストライターの存在は、どの世界でもそれほど珍しいことではないようですから、どうってことはないのですが、今回話題の人物については、報道されているものがある程度事実だとすれば、そして本人が弁明している部分が相当部分事実だとしても、かなり悪質というか、かなりレベルの高い仕掛け人のような気がしています。
不愉快な問題なので、出来るだけ触れないでおこうと思っていたのですが、ゴーストライターだけの問題でもないようなので、テレビと週刊誌の報道をベースに意見を述べさせていただきます。

この問題が表面化した時、実は私はこの人物を全く知らなかったものですから、ゴーストライターの存在が明らかになったと報道されても、「たぶんお金の問題でトラぶったんだろうな」という程度の興味しかありませんでした。
その後、広島や東北の被災地との関わりについて報道されるようになって、「ああ、そんな話を聞いたことがあるな」という漠然とした記憶から興味がわき、最近は、テレビ報道をむさぼるように見ていました。

今回の騒動の当人たちにどれだけの罪があるのか知らないのですが、法律上・道義上の両面で無実ということはない気がします。然るべき対処がなされると思いますが、道義面については、当人がその気にならなければ、周囲でいくら騒いでもどうにもならないことでしょう。
それともう一つは、当人たち以外の問題があります。
そもそも、今回のような腹立たしい状況を生み出したのには、報道機関の責任は小さくないと思われます。彼らの曲を本当に素晴らしいと感じたのか、眉に唾しながら構成を練ったのかは知りませんが、結局は、寄ってたかって壮大なドラマを作り上げてしまったのですから、その責任は当人たちよりも大きいかもしれません。
これまでに、彼らの片棒を担いだような形になっている報道機関や評論家と称する人たちは、かつての報道や発言について、その真意を公表する義務があるように思うのです。

いずれにしても、「ゴーストライター云々」そのものは、大したことでもありますまい。ありふれた、ごく低俗なレベルの問題だと思うのです。
ただ今回の場合は、被災とか障害だとか、人間の心理の弱みのようなところに付け込んでいる辺りが、極めて不愉快なのです。
一見して詐欺師に見える詐欺師などいないわけですし、ゴーストライターが依頼主より優れた才能であるのは当然のことです。
古今東西、音楽・文学・絵画はもちろん、「何々の壺」とか「誰々作」などとされているものの中に、贋作が数多く混入しているらしいことは、その道の専門家から見れば常識らしいのです。「虎徹」とされる刀剣など、まず贋作だと思って鑑定にあたらなければならないのだと、何かの記事で見た記憶があります。
まあ、映画であれ、ドラマであれ、小説であれ、人間心理の弱みに付け込んで「ウケ」を狙っている部分は否定できないのですから、今回の騒動も、「ドキュメント」と名付けられた「ウケ」狙いだったのだと、苦笑いでもするのが大人の対応かもしれませんなぁ。

( 2014.03.12 )
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あるかなしか ・ 小さな小さな物語 ( 606 )

2014-09-05 10:13:56 | 小さな小さな物語 第十一部
あるテレビ報道の中で、幼い子供さんがまだ咲き始めたばかりの梅の花に近づいて、「ママ、いい匂いがするよ」と言って親のもとに駆け戻りました。「そお」とばかりに笑顔で答えた母親に対して、その子供さんはさらに言葉を続けました。「梅干しの味がする・・」
これは、ニュース番組の中だったと思うのですが、季節の話題を紹介する形で報道されたものですが、私は、思わず笑ってしまいました。同時に、何だか嬉しくて、春の香りをお相伴させてもらったような気持になりました。

ほんの少しばかりの、咲き始めたばかりの、それこそ「あるかなしか」の梅の香りを感じ取って、自分の最もなじみのある香りに結び付けたお嬢ちゃんの感性に拍手を送りたいような気持になりました。
「隠し味」という言葉があります。おそらく料理から生まれた言葉だと思うのですが、 ほんの少しばかりの、「あるかなしか」のスパイスなどを加えることによって、料理全体を美味なものに仕上げる働きをするものを指すのでしょうが、この言葉はほかの場面でも引用されることが時々あります。
一つの組織や、一つの作業などには、「あるかなしか」の工夫や人柄が微妙な働きをしていることはよくあることです。

強烈なリーダーシップや、価値が明確なものや、真偽がはっきりしているものなどは、だれでもその良し悪しを判断できます。
しかし、私たちの日常生活は、そのような白黒がはっきりしていることばかりで成り立っているわけではありません。ある人にとって良いことは、ある人にとって都合の悪いことであることは、よく経験することです。商品やサービスの良し悪しも、それぞれに大きな差があることなどはむしろ珍しくて、「あるかなしか」の微妙な差によって大きく選別されることが極めて多いものです。

世紀の大発見とされた「STAP細胞」がピンチのようです。
発表論文にいくつかの問題があるようで、論文撤回という話さえ出てきているようです。
大いに期待を寄せていただけに残念な気持ちが強いのですが、報道を見ている限り、もう少し問題を整理する必要があるようにも思われます。
論文の一部に問題があることは事実のようですから、訂正あるいは撤回は必要なのでしょうが、そのことと「STAP細胞」の存在有無についての問題は、区別して判断すべきだと思うのです。
実際に存在しているのか、混入などの判断ミスがあったのか、全く存在していないのか、研究スタッフには明らかにする責任があるでしょうが、「論文通りにやっても再現できない」だけを理由に騒ぎ立てるのは控えてほしいものです。
まるで「せんべいでも焼くように」ごく簡単に生み出すことができるような発表の仕方にも問題があったのでしょうが、「あるかなしか」のわずかな可能性にかけて積み重ねてきた研究成果を、誰もがそうそう簡単に再現できないのは、むしろ当然のように思われます。
予想されたように、弱みが表面化してきた人や事柄に対して、棒を持って追い回すような現象が表面化してきていますが、ここは、研究スタッフの再現確認を待ってから、素人は再評価すればいいのではないでしょうか。
「『STAP細胞』がんばれ」

( 2014.03.15 )
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言いたい放題 ・ 小さな小さな物語 ( 607 )

2014-09-05 10:12:40 | 小さな小さな物語 第十一部
人間が言語を話すようになった切っ掛けは、何だったのでしょうか。
もちろん、私のことですから、専門的な知識を得ようという高邁なことではなく、単なる好奇心だけなのですが。
人間が言語を持つという知能の発達は、単にその部分だけが発達したわけではなく、その他の肉体的、精神的、あるいは知能の発達などが総合的に進化したとは思うのですが、ごく原始的な言葉を持つようになったのには、それなりの必要性と切っ掛けがあったと思われるのです。

ある程度進化したほとんどの動物は、音声を発することができます。彼ら同士の間では、人間と同様か、もしかするとそれ以上に高度な伝達手段の機能を持っている可能性があります。ただ、ごく普通に考えて、人間が交し合っているほど複雑な言語を持っている動物は少ないと思うのです。人間の方が高度か否かは別にしてです。
それでは、そのきっかけは何だったのでしょうか? 
まず考えられるのは、危険を伝えることが考えられます。群や仲間やごく限られた大切な人に、危険を伝えることは生存していく上で極めて重要なことです。
しかし、危険の伝達は、群で生活している動物のすべてが、相当高度な手段を持っており、音声でも伝えています。それに、複雑な言語を持っている人間でも、突発的な危険の伝達には、言語というよりも音声と言った方が正しいような言葉で危険を伝えます。そう考えれば、危険の伝達は人間が言語を必要とした切っ掛けの重要な要素ではないような気がします。
喜怒哀楽という言葉がありますが、喜にしろ怒にしろ哀にしろ楽にしろ、これらの感情の伝達も同様で、切羽詰まった状態では、複雑な言語など、むしろ邪魔なくらいです。
言語の発生のメカニズムは、そうそう単純なものではなさそうです。

それでは、「言いたい放題」の方には、発生過程において何等かの必要性なり必然性などがあったのでしょうか。
わが国に残されている古典や古文書などにも、明らかに「言いたい放題」だと考えられる記述は散見されるようですから、その発生起源は、わが国に文字が伝えられるよりも遥か昔だったと思われます。私個人の意見としましては、「言いたい放題」の発生起源は、人間が言語を持つよりも早かったのではないかと思っています。 
そして、人間が言語を必要とした切っ掛けを探究することはかなり難しいようですが、人間が「言いたい放題」を必要とした切っ掛けは極めて明確と思われます。それは、「ストレス解消」なのです。

国会において、かみ合うことのない意見をとうとうと述べています。どうかと思うような雄叫びをあげて悦に入っている人もいます。
テレビなどを見ていますと、次から次へとご高説が流れてきます。多くのことは、ある種の人たちに大変参考になっているのでしょうが、極々たまには、「言いたい放題」と思われるものも見受けられます。
それらの「言いたい放題」は、その人の「ストレス解消」に大変役立っているのですから、まことに結構と言いたいところですが、多くの人が聞く可能性のある場所では慎んでいただきたいと思うのです。
なぜなら、「言いたい放題」は「ストレス解消」に役立つと書きましたが、実は、それは正しくなくて、「ストレス移転」に役立つということだったのです。つまり、「言いたい放題」の本人のストレスは解消するのですが、不幸にもその場に居合わせた人は、そのストレスをまともに背負わされてしまうものなのです。
「言いたい放題」は、立場や場所を考えてほしいと自信をもって言えるのですが、残念ながら「お前の文章はどうなのか?」という質問に対する名案が、まだ見つかっていないのですよ。

( 2014.03.18 )
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春分の日 ・ 小さな小さな物語 ( 608 )

2014-09-05 10:11:21 | 小さな小さな物語 第十一部
本日三月二十一日は、春分の日に当たります。
国民の祝日にもなっていますが、昼と夜の長さが同じとなり(厳密には若干差異がありますが)、これからは、一日ごとに昼の時間が長くなっていくわけです。
わが国では、彼岸ともいわれて仏教的に意味合いを感じることもありますが、世界的にも、多くの国で何らかの行事などがなされるようです。たとえば、キリスト教では、復活祭の日を定めるのは春分の日を起点とするそうですし、この日を春の始まりとする国もあるそうです。

二十四節気でいう春分は、本日から次の清明(今年は四月五日)の前日までの期間を言います。
二十四節気をそれぞれ三等分したものを七十二候と言いますが、春分の期間の三つを見てみますと、初侯は、「雀が巣を構え始める」とされ、次候は、「桜の花が咲き始める」とされ、末候は、「遠くで雷の音がし始める」頃とされています。
つまり、春の真ん真ん中というわけです。

仏教でいう彼岸の期間は、春分の日の前後三日間の、合計七日間を指します。
彼岸会は、この期間に行われる仏教行事ですが、地域によっては様々な行事があるのかもしれませんが、一般的には、お墓参りが中心のようで、お盆などよりは小規模な気がします。
かつては、多くの家庭で「餡でくるんだり、きな粉をまぶした餅」を墓前などに祭ったようです。「ぼたもち」とか「おはぎ」と呼ばれるものがそれです。「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもので、春に供える物は牡丹に因んで「牡丹餅」と呼ばれ、秋に供える物は萩に因んで「御萩」と呼ばれるようになったとも言われています。もっとも、それぞれの呼び名や由来には、たくさんの説があるようです。

大家族が普通の時代には、彼岸会も単なる宗教儀式ということだけではなく、一族の結束を図る重要な行事だったと思われます。
子供たちがそれぞれ独立した家庭を持つことが多くなった現代では、特別に彼岸会の行事を行うことは少なくなってきているようです。近くにお墓がある人は、日頃のご無沙汰をお詫びかたがた墓参される方も居られるでしょうが、最近では、お墓自体がないという方も珍しくありません。
第一、わが国の全員が仏教徒というわけではありませんから、春分の日はあっても、彼岸など関係ない人も多いはずです。
しかし、宗教などには関係なく、せっかくこの国で生活しているのですから、お墓参りはしなくても、春分のこの日にたとえ一分間でも、御先祖の方々に思いを寄せてみるのもいいのではないでしょうか。

( 2014.03.21 )
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