雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ちょっと一息 ・ 随筆という分類

2014-06-30 11:00:13 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
         枕草子  ちょっと一息

随筆という分類

一般的な辞書で「枕草子」を調べてみますと、最初に「平安中期の随筆」という説明がなされています。
学校などでも、そのように教えられているようですし、和歌でも詩でもなく、小説でもなく日記文学でもありませんから、やはり、随筆という位置付けにするのが正しいのでしょう。

但し、清少納言が活躍した時代には、まだ随筆という文学形態は存在しておらず、多くは日記や備忘録のような形で記録されたものが、文学としてとらまえる段階で随筆というものが一分野を持つようになってきたのではないでしょうか。
枕草子の成立過程については、多くの研究者が考察されておりますし、枕草子の跋文(バツブン・あとがき)にも、その真偽はともかく成立過程の一端が示されています。

それはともかく、研究者としてではなく、枕草子、清少納言の熱烈なファンの一人という立場としては、この作品を随筆という分類に押し込むのではなく、それぞれの章段の中に秘められている清少納言という比類ない感性と知性を持った平安女性の息吹のようなものを、少しでも感じ取りたいと思っています。
短編小説といってもよいと思われる様な章段、長編の小説にまで膨らませることが可能と思われる章段、日記文学そのものの様な章段、短歌とほとんど差のないような表現をしている章段、そして、何か謎がありげな短か過ぎる章段、等々、枕草子と清少納言を愛するファンは、言葉の意味を少しぐらい違えたとしてもそれぞれがそれぞれの感動を感じ取っていくのが、正しいような気がしています。
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細殿に便なき人

2014-06-29 11:00:09 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百二十一段  細殿に便なき人

「細殿に、便なき人なむ、暁に傘さして出でける」
と、いひ出でたるを、よくきけば、わがうへなりけり。
「地下などいひても目やすく、人にゆるさるばかりの人にもあらざなるを、あやしのことや」
と思ふほどに、上より御文持て来て、
「返りごと、ただ今」
と、仰せられたり。

「何ごとにか」
とて、見れば、大傘の絵(カタ)を書きて、人は見えず。ただ手のかぎりをとらへさせて、下に、
「『 山の端明けし朝(アシタ)より 』」
と、書かせたまへり。
なほ、はかなき言にても、ただめでたくのみおぼえさせたまふに、「恥づかしく心づきなき言は、いかでか、御覧ぜられじ」と思ふに、かかる虚言(ソラゴト)の出で来る、苦しけれど、をかしくて、異紙に、雨をいみじう降らせて、下に、
「『 ならぬ名の立ちにけるかな 』さてや、濡れ衣にはなりはべらむ」
と、啓したれば、右近の内侍などに語らせたまひて、笑はせたまひけり。


「細殿で、場違いの人がね、明け方に唐傘をさして出て行ったそうよ」
と、女房たちが噂し始めたのを、詳しく聞いてみると、私に関わりのあることだったのです。
「地下人だといっても、ちゃんとしていて、他人にとやかく言われるような人ではないのに、問題になるのは変な話だな」
と思っていますと、中宮さまからの御手紙を持ってきて、
「返事を、今すぐに」
と、仰せになられている。

「どのような仰せなのか」
と思いながら、見てみますと、大傘の絵が描かれていて、人の姿はありません。手だけが傘の柄を持っているところを描いていて、その下に、
「『 山の端明けし朝より 』」
と、お書きになっておられます。
やはり、ほんのちょっとしたお言葉でも、ともかくすばらしいと感心させられるばかりですのに、「みっともない間の抜けた歌は、絶対にお目にかけまい」と思っていますのに、このような作り言が出てくるのが、つらいのですが、いただいた御手紙の結構さに、別の紙に、うんと雨の降っているところを描いて、その下に、
「 『ならぬ名の立ちにけるかな 』さてや、濡れ衣にはなりはべらむ」
と、申し上げましたが、中宮さまは右近の内侍などにお話になり、お笑いになられたそうでございます。



全体の話の内容は分かるのですが、歌の引用などはなかなか難しい内容になっています。

中宮からの手紙は、拾遺集の「あやしくもわれ濡衣を着たるかな 御笠の山を人に借られて」という歌を引用していて、このうちの「御笠の山」を大傘の絵で表し、「濡衣なのでしょう」と助け船を出すべく上の句を送ってきたもの。本来なら「御笠の山 山の端明けし 朝(アシタ)より」と書かれるはずなのです。
これを受けた少納言さまも、激しい雨の絵を代用して、「(雨)ならぬ名の 立ちにけるかな」と答えています。つまり、「雨ではなく噂が立ってしまいました」と中宮の好意に応えているのです。

この出来事も、少納言さまが出仕して間もない頃のことで、自分の文字や和歌を披露するのを極端に控えていたようですが、中宮の優しい助け船に、目一杯応えたのでしょう。
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三条の宮におはしますころ

2014-06-28 11:00:20 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百二十二段  三条の宮におはしますころ

三条の宮におはしますころ、五日の菖蒲の輿など持てまゐり、薬玉まゐらせなどす。若き人々、御匣殿など、薬玉して、姫宮・若宮に著(ツ)けたてまつらせたまふ。
いとをかしき薬玉ども、ほかよりまゐらせたるに、青ざしといふものを持て来たるを、青き薄様を、艶なる硯の蓋に敷きて、
「これ、笆(マセ)越しにさぶらふ」
とて、まゐらせたれば、
   みな人の花や蝶やといそぐ日も
           わが心をば君ぞ知りける
この紙の端をひき破らせたまひてかかせたまへる、いとめでたし。


皇后さまが(この年の二月に定子中宮は皇后になった)三条の宮においでになられました頃、五月五日の節供の菖蒲の輿(薬玉の材料や菖蒲などを運ぶ)を持って参って、薬玉を進上申し上げたりなどする。若い女房や、御匣殿(ミクシゲドノ・道隆四女、十八歳)など、薬玉を作って、姫宮(修子内親王、五歳)、若宮(敦康親王、二歳)にお付けになられる。
とても美しい薬玉を、他所から進上されたものなどに加えて、青ざし(青麦の芽を煎って作る菓子。青麦の穂、とも)というものを持ってきていましたので、青い薄様の紙を、しゃれた硯の蓋に敷いて乗せ、
「これは、柵越しの麦でございます」
(古今六帖にある「笆越しに麦喰む駒のはつはつに 及ばぬ恋もわれはするかな」の上の句を引用して、少しでも食事をするように勧めている。この時皇后は妊娠三か月で、体調がすぐれなかった)
と申し上げ、進上いたしますと、
 「 みな人の花や蝶やといそぐ日も わが心をば君ぞ知りける 」
(皇后は少納言が引用した和歌の下の句を踏まえて、天皇のもとを離れて寂しい思いでいる自分の気持ちを、そなたはよく知ってくれているのですね、と答えている)
と、私が差し出しました薄様の紙の端を引き破られてお書きになられましたのは、なんとすばらしいことでございましょう。



この章段も、定子皇后の晩年の頃の思い出であります。
父、関白道隆の死によって中関白家の衰運は明らかでありましたが、定子皇后の切ない御歌に対しても、少納言さまは「いとめでたし」と結んでいます。
枕草子全体を通して、敬愛する定子に対する、少納言さまの一貫した態度が如実に表れているところです。
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御乳母の大輔の命婦

2014-06-27 11:00:34 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百二十三段  御乳母の大輔の命婦

御乳母の大輔の命婦、日向へ下るに、賜はする扇どものなかに、片つかたは、日いとうららかにさしたる田舎の館など多くして、いま片つかたは、京のさるべきところにて、雨いみじう降りたるに、
   茜さす日に向かひても思ひ出でよ
           都は晴れぬながめすらむと
御手にて書かせたまへる、いみじうあはれなり。
さる君を見おきたてまつりてこそ、得ゆくまじけれ。


皇后の御乳母であられる、大輔の命婦が、日向へ行かれることになり、下賜される扇などの中に、一面には、日がとてもうららかにさしている田舎風の舘が沢山描かれていて、もう一面には、京の中のしかるべき邸宅で、雨がひどく降っている絵が描かれていて、
  茜さす日に向かひても思ひ出でよ 
          都は晴れぬながめすらむと
と、皇后さまはご自筆でお書きになられる、まことにお気の毒なことでございます。
そのようなわが君を、お見捨て申してなんて、とても行けるものではないでしょうに。



前段に続き、皇后定子の辛い頃のお話です。
常に側にいたであろう乳母が、皇后のもとを離れ日向に下るということは、乳母の家族の都合かと思われますが、定子を支えるべき中関白家の凋落が感じられる出来事でもあります。
少納言さまが、敬愛する定子に対して、悲哀の意味で「あはれ」という言葉を用いている唯一の例がこの文章なのです。
何とも辛い章段です。
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清水にこもりたりしに

2014-06-26 11:00:23 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百二十四段  清水にこもりたりしに

清水にこもりたりしに、わざと御使して賜はせたりし、唐の紙の赤みたるに、草(サウ)にて、
「『 山近き入相の鐘の声ごとに
      恋ふる心の数は知るらむ 』
ものを、こよなの長居や」
と書かせ給へる。
紙などの、なめげならぬも、とり忘れたる旅にて、紫なる蓮の花びらに、書きてまゐらす。


清水寺に参籠していました時、皇后さまからわざわざ御使いを差し向けて下さいましたお手紙は、唐製の紙の赤みがかったものに、草書書きで、
「『山近き入相の鐘の声ごとに 恋る心の数は知るらむ』(山に近い寺の夕方の鐘の一撞きごとに、そなたを恋うる私の思いの数は分かるだろう)
それなのに、随分と長い参籠なのね」
と、お書きになられています。
紙などは、失礼にあたらないようなものは、持ち合わせていない旅先なので、紫の蓮の花びら(法会の散華に用いる紙製のもの)に、返歌を書いて、ご返事申し上げました。



この頃は、少納言さまも古参の女房であり、年長であることもあって、定子皇后がいかに頼りにしていたかが分かる話です。実に切ない章段であります。
なお、少納言さまの返歌は、現在には伝えられていないようです。
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運命紀行  天下所司代

2014-06-26 08:00:49 | 運命紀行
          運命紀行
               天下所司代

「所司代」というと言葉は、室町幕府の職名として登場している。
都の治安警護の任務に携わる役所が「侍所」で、その長官は「所司(あるいは頭人)」であり、その代官が「所司代」というわけである。
もっとも、「侍所」という役所は鎌倉時代には登場していたが、その頃の長官は別当であった。その任務は、軍事・警察といったもので、京都の治安維持を主目的としたものではなかった。
室町幕府の「侍所」も、幕府の軍事・警察権を担っていて、その長官には、赤松・一色・京極・山名の有力四家が交代で就き、四職と呼ばれた。因みに、さらに上位にあたる管領職には、斯波・細川・畠山の三家が交代で就き、こちらは三管領と呼ばれた。

さて、この軍事・警察権を「侍所」の長官、すなわち所司は重臣を「所司代」として実務を指揮させた。
室町幕府が安定していた時には、「所司代」による京都の警察権は機能していたが、次第にその力を失い、応仁の乱後の混乱では全く機能しなくなり、京都の治安を守る「所司代」は任命もされなくなったらしい。
幕府を背景とした軍事力を遥かに上回る軍事力を有する豪族が輩出し、戦国の世となっていったからである。

その混乱の戦国時代にあって、やがて織田信長が登場し、天下統一へと向かって各豪族の戦いは激しさを増していく。
永禄十一年(1568)、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、天下人への先頭に立った。
その後、義昭との関係は互いの利害でこじれ続けるが、ついに元亀四年(1573)七月、信長は義昭を追放し、辛うじて存続していたとされる室町幕府は消滅する。
この直後に元号は天正と改められ、信長は本格的に京都の基盤を整えることになった。その施策の第一歩は、途絶している「所司代」の復活であった。
信長に「所司代」を復活させるという意識があったか否かは未詳であるが、鎌倉時代や室町時代の「所司代」とは、その権限において全く違うものであった。これまでの所司代は、軍事や警察権に限定された職務であったが、信長が定めた「所司代」は、警察権や裁判権に限らず、諸色全般、つまり、京都に於ける政(マツリゴト)すべての権限を与えるものであった。しかも、その職名は「天下所司代」という大げさなものであった。
そして、その京都の運営すべてを任せる任務に指名したのが、村井貞勝であった。

織田信長という強烈な個性を持った武将が、天下統一の実現に向かって邁進することが出来たのには、当然いくつかの要因が考えられる。
信長固有の能力はもちろんであるが、天の配剤と思われるような幸運もあるだろう。例えば、武田信玄や上杉謙信の死没などもそう考えられないこともない。
しかし、やはり一番大きな要因は優れた家臣に恵まれたことであろう。恐怖政治を行った信長に本当に真髄する家臣は少なかったという意見も根強いが、生涯同盟関係にあった徳川家康、柴田勝家らの譜代の武将、天才的な働きを見せた羽柴秀吉、最後に裏切られたとはいえ明智光秀の貢献も小さくないはずである。そして、ややもすれば、戦働きに優れた武将たちに目が向きがちであるが、それを支えた内政を担う人物の存在も小さくないはずである。
村井貞勝とは、まさしく信長を支えた重要な人物だったのである。


     ☆   ☆   ☆

村井貞勝の前半生については、よく分からない部分が多い。
生年は、永正十七年(1520)とも、あるいはそれ以前だとも伝えられている。仮に永正十七年とすれば、信長より十四歳年上ということになる。共に仕事をすることも多かった明智光秀は八歳年下、秀吉となれば十七歳年下ということになる。

生地もはっきりしないが、近江国の出身というのがほぼ定着しているようである。従って、織田家の譜代の家臣ということではないが、信長にはかなり早い時期から仕えていたようである。
信長の弟である信勝が反旗を翻した弘治二年(1556)にはすでに信長に仕えており、両者の実母である土田御前の依頼を受けて、信勝や柴田勝家らとの和睦交渉に信長の家臣としてあたっている。この時信長はまだ二十三歳であるが、すでに重要な交渉役を任される地位にあったと考えられる。
信長が家督を継承したのは十九歳の頃であるが、その前後の頃に仕えるようになったらしい。

もちろん村井貞勝も、最初から文官として仕えたわけではなく、武者働きに奔走したものと考えられる。信長に従って多くの合戦に加わっていると考えられるが、信長の所帯が大きくなるにつれて、織田家の家政だけではない内政に優れた人物が必要になっていったのは当然の流れである。最初から文官として仕えている人物も数多くいるが、信長の侍大将たちと戦歴などにおいて引けを取らず、しかも内政面に才能を発揮した村井貞勝は、信長政権の中でかけがえのない人物になっていったのである。

信長が上洛を果たすに至る一連の合戦の多くにも参加しており、上洛後、足利義昭の将軍宣下を見届けると信長は京都を離れ岐阜に戻っている。
この時、京都の治安維持のために信長は五人の家臣を残している。村井貞勝・佐久間信盛・丹羽長秀・明院良政・木下秀吉の五人である。
このうち明院良政は信長の右筆であるが、他は一軍の将たちといえる人選であるが、信長が村井貞勝に期待したのは内政面での才覚であり、年齢から見ても貞勝が筆頭格であったと考えられる。

村井貞勝が信長から「天下所司代」に任じられるのは、この五年後のことであるが、その権限と責任は、室町幕府の「所司代」とは比べ物にならないほど大きなものであった。
この「天下」というのは、京都を指すが、京都内のすべての仕切りを任せられることになったのである。軍事・警察権を主体とした治安の維持はもちろんのことであるが、まだ根強い影響力を有していた公家や寺社との交渉や権益の安堵、あるいは禁裏との折衝事も含まれていた。
当然、これらの任務遂行には貞勝の手勢だけで事足りるはずはなく、信長旗下の諸将の協力があり、特に明智光秀とは緊密に相談しあっていたようであり、連署で文書が発給されたりもしている。
しかし、「天下所司代」という役職を与えられていたのは、村井貞勝ただ一人であった。

村井貞勝の仕事には、これらの他に、二条城の建設があった。足利義昭が使っていたものとは別に建設にあたったのである。
また、天正八年(1580)には、信長の京都での宿舎を本能寺に移すことになり貞勝がその普請の指揮をとっている。
天正九年、貞勝は出家して家督を子の貞成に譲っている。もしかすると、この年あたりが還暦だったのかもしれない。

天正十年六月二日未明、信長の宿舎・本能寺は、明智光秀軍の襲撃を受けた。
村井貞勝は、本能寺門前の自邸にいたが、騒ぎに気付いたときにはすでに手の施しようがない状態であったらしい。
貞勝は本能寺への突入を諦め、貞成と専次の二人の息子や郎党とともに、信長の嫡男・信忠の宿舎妙覚寺に向かった。
信忠も異変を察知していて、本能寺に向かおうとしているところであったという。明智光秀ほどの人物が起こした謀反であるが、本能寺を万全の体制で囲んでいながら、信忠の宿舎には軍勢を指し向けていなかったようである。

結果としては、信忠が京都を脱出し、さらには安土、あるいは岐阜に向かうことも可能であったと考えられるが、信忠は父・信長を残して京都を離れようとしなかったらしい。
貞勝は、本能寺に向かうことの困難を訴え、隣接の二条御所へ移ることを進言した。
二条御所は、皇太子誠仁親王の住まいであるが、もとは信長の京都での屋敷として建造されたものなので、頑強な造りになっていたからである。
信忠は貞勝の進言に従い、二条御所に入った。分宿している信忠の従者たちも次々と駆け付けたが、その数はおそらく千にも及ばない数だったと思われる。
結局信忠は自刃、村井貞勝も二人の息子とともに信長・信忠に殉ずる形で散っていった。

貞勝には、三人の娘がいた。三人は、佐々成政、前田玄以、福島高時 ( 福島正則の弟 ) に嫁いでいる。
考えてみれば、嫁いだ先の三人はそれぞれに一流の武将であるが、戦国の世にあって、難題を背負うことになった人物ばかりである。

戦国時代の一つの頂点ともいえる織田信長という人物の活躍を考えるとき、それを支えた人物といえば、羽柴秀吉や柴田勝家や前田利家を思い浮かべてしまう。あるいは徳川家康や明智光秀という人物の存在に思いをはせることもある。
しかし、荒々しくも世の中に大きな変化を与えた信長の業績を考えるとき、村井貞勝という人物をもっともっと重視するべきだと思われてならない。

                                                        ( 完 )








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駅は梨原

2014-06-25 11:00:08 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百二十五段  駅は梨原

駅は、梨原、望月の駅。 
山の駅は、あはれなりしことをききおきたりしに、またもあはれなることのありしかばなほ取り集めて、あはれなり。


駅(ムマヤ・街道に設けられた乗継用の馬を置く駅舎)は、梨原。望月の駅。(共に和歌に歌われているもののようであるが、必ずしも特定できない)
山の駅(播磨の備前との国境近くの野磨駅という所らしい)は、心打たれる話を聞いていましたが、その上に、お気の毒な出来事がありましたので、一層あれこれと重なり、感慨無量でございます。



山の駅の部分は、今昔物語の中に野磨駅の梁上に住む毒蛇が法華経の功徳で人に転生したという話があり、貴族の間などでは知られた話だったらしい。そして、定子の兄伊周が太宰権帥に左遷させられて下向の途中留め置かれたのが、野磨駅であったとか、あるいは母の訃報を聞いた所だった、と推察されています。
少納言さまにとっては、定子一族没落の道標のように感じての「あはれなり」だったのではないでしょうか。
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社は布留の社

2014-06-24 11:00:12 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百二十六段  社は布留の社

社は、
布留の社。生田の社。丹比の御社。花淵の社。
すぎの御社は、「印(シルシ)やあらむ」と、をかし。
言のままの明神、いと頼もし。「『さのみききけむ』とや、いはれたまはむ」と思ふぞ、いとほしき。
     (以下割愛)


社(ヤシロ・神社)は、
ふるの社(大和)。いくたの社(摂津)。たびのみやしろ(河内)。はなふちの社(陸奥)。
すぎの御社は、「印の杉があるのかしら」と興味がわきます。
(すぎの社は、陸奥、但馬などにあり、どれを指すのかはっきりしないが、大和の大神神社の三輪山伝説に、{印の杉}というものがあり、それと同様のものがあるのか、興味を感じている様子)
言(コト)のままの明神(遠江)、大変頼もしい。「『むやみに聞いてばかりいる』ということですから、嘆きの社になるとでも噂されるだろう」と思うと、お気の毒なことです。
(古今集の「ねぎ言をさのみ聞きけむ社こそ 果ては嘆きの杜となるらめ」を引いている)

蟻通しの明神(和泉)。貫之の馬が病気になったので、「この明神様がたたりをなさる」というので、和歌を詠んで奉納したというのが、とても面白い。(「貫之集」からの引用)

「この『蟻通し』と名付けた理由というのは、本当の出来事だったのだろうか、昔おいでなられた帝が、若い人ばかりを取り立てられて、四十歳になった年寄りを殺してしまわれたので、遠い他国へ逃げ隠れなどして、全く都の中には、年寄りはいなくなったのだが、中将であった人で、たいそう帝に気に入られていて、思慮もしっかりしていた人が、七十近い親二人を持っていたところ、
『このように四十歳でさえお咎めになられる、七十近い私たちは、まして恐ろしいことだ』
と、怖気騒ぐが、この中将という人はたいそう親孝行の人で、
『遠い所に住まわせることなど出来ない。一日に一度は会わないでいることなど出来ない』
と思って、密かに屋敷内の土を掘って、その穴の中に家を建てて、隠れていさせて、ちょいちょい訪れて会った。他の人や宮中の人たちにも、どこかに姿を隠してしまったと、報告していた。

どうして、家に引きこもっているような人まで、問題になさらなくてもいいでしょうに。嫌な世の中だったのですねぇ。
この親は、上達部などではなかったのでしょうが、中将ほどの人物を息子に持っていたんですよ。ですから、とても思慮深く、何でも知っている物知りだったから、この中将も、若くても、大層評判がよく、思慮が極めて優れていて、帝は欠かせない人物として信頼されていたのですよ。

唐土(モロコシ)の帝が、
『この国の帝を何とか計略にかけて、この国を討ち取ろう』
と思って、常に知恵を試したり、紛争を起こして、脅迫なさったそうだが、ある時、つやつやと丸く美しく削った木の、二尺ばかりの長さのものを、
『この木の本と末は、どちらがどっちだ』
と、問題として差し出されたが、誰も見分ける方法を知らなかったので、帝が困り果てているのを、中将はお気の毒に思って、親のもとに行って、
『こうこう、このようなことがあるのです』
と尋ねますと、
『ともかく、流れの早そうな川の岸に立ったままで、丸太を真横にして投げ入れると、ぴょこんと立って流れる方を末と記して、送り返しなさい』
と教えてくれた。中将は参内して、自分が考え出したような顔をして、
『そのように、試してみましょう』
ということで、他の人と一緒に出掛けて、川に投げ入れますと、頭をもたげて流れる方に末と印を付けて送ったところ、まことに、その通りだったそうですよ。

また、二尺ばかりの蛇(クチナハ・へびのこと)の、全く同じ長さのものを、
『これは、いずれが雄か雌か』
と、唐土の帝が問題を出してきた。これもまた、全く知っている者がいない。例のごとく、中将が父親のもとに来て尋ねると、
『二つを並べて、尾の方に、細い木の枝を近づけると、尾の動かない方が雌と判断せよ』
と言ったそうです。
すぐさま、教えられたように、内裏の中で試したところ、ほんとうに一つは動かず、一つは動かしたので、今度も、そのように印を付けて、送ったそうですよ。

その後しばらくたってから、七曲(ナナワタ・七まがり)にくねくねと屈曲している玉の、しかもその中に穴が通っていて、左右に小さな口が開いている物を送ってきて、
『これに、緒を通していただきたい。わが国では、誰でもすることが出来ることだ』
といって、問い掛けてきたが、
『どんな器用な人でも、手におえない』
と、集まっている上達部、殿上人、世間のあらゆる人が言うので、中将は、またまた父のもとに行き、
『こんな難題です』
と尋ねると、父親は、
『大きな蟻を捕まえて、二匹ほどの腰に細い糸を付けて、その糸の先に、もう少し太い緒をつないで、向こう側の口に蜜を塗ってみよ』
と教えてくれたので、そのように申し上げて、蟻をこちらの穴に入れると、蜜の香りを嗅いで、まことに素早く、蟻は向こう側の口から抜け出したそうです。そして、その糸の貫かれた玉を返してから後というものは、
『やはり、日の本の国は、優秀なものだ』
と、この後には、そのような脅迫もしなくなったそうですよ。

帝は、この中将を、かけがえのない人物だとお思いになって、
『何を持って報い、いかなる官位を与えようか』
と仰せになられると、中将は、
『決して、官も冠も(ツカサもカウブリも・官職も位階も)いただきますまい。ただ、老いたる父母が、逃亡しておりますのを、探し出して、都に住まわせることを、お許しください』
と申し上げますと、
『いともたやすいことだ』
と、お許しが出たので、世間の親たちは、これを聞いて、喜ぶことは大変なものでした。中将は、上達部から大臣へと、とんとん拍子で出世なされたのです。

さて、その人が、蟻通しの明神にになったのでしょうか。その神の御もとに詣でた人に、夜夢枕に立って、仰せられたことには、
  『七曲(ナナワタ)にまがれる玉の緒を貫きて 蟻通しとは知らずやあるらむ』
と、おっしゃったんですって」

と、誰かが話してくれたことなんですよ。



とても面白い章段です。
どの話も仏典などにあるそうですが、少納言さまの時代には、ある程度流布していたのでしょうか。
もう少しうまく現代訳出来れば、少納言さまに喜んでいただけると思うのですが・・・。
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一条の院をば

2014-06-23 11:00:38 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百二十七段  一条の院をば

一条の院をば、「新内裏」とぞいふ。
おはします殿(デン)は、清涼殿にて、その北なる殿に、おはします。西・東は、渡殿にて、渡らせたまひ、まうのぼらせたまふ道にて、前は、壺なれば、前栽植ゑ、笆(マセ)結ひて、いとをかし。
     (以下割愛)


一条の院を、「新内裏(イマダイリ)」というのです。(火災のため移られた)
天皇がおいでになる殿は、清涼殿ということですから、その北側の殿に中宮さまはおいでになられます。西と東は渡殿になっていて、天皇がお渡りになり、中宮さまが参上なさいます道になっていて、中宮さまの殿の前は、中庭なので、前栽が植えられ、竹垣を編んで、大変結構な様子です。

二月二十日ばかりの、うらうらとのどやかに日が照っている頃に、渡殿の西の廂にて、天皇が、御笛をお吹きになられました。高遠の兵部卿が、御笛のご指南役でいらっしゃいますが、御笛二つでもって、「高砂」を繰り返してお吹きになられるのは、
「なんと、とてもすばらしい」
と女房たちが言うのも、月並みになってしまいます。
兵部卿が御笛のことなどを、天皇にお話し申し上げておられるのが、とてもすばらしい。
御簾のもとに私たちが集まり出でて、拝見させていただいているときは、「芹摘みし」などと、不満に思うことなど全くございませんのです。
(「芹摘みし昔の人もわがごとや 心にものの叶はざりけむ」という古歌を引用している。彰子の台頭により、定子に影が差しはじめていた)

為済(スケタダ・人物特定できない)は、木工寮の役人でしてね、蔵人になったのですよ。随分がさつで、変わった人ですから、殿上人や女房たちは、「裸ん坊さん」とあだ名で呼んでいるのを、歌にして、
「さうなしの主、尾張うどの種にぞありける」(野放図な主よ、道理で、尾張ウドの種だったんだ)
と謡うのは、尾張の兼時(正六位上左近将監、人長舞の名手)の娘が生んだ子供だったからです。
この歌を、天皇が御笛でお吹きになられのを、お側に控えている私たちは、
「もっと、高くお吹きなさいませ。為済はとても聞きつけることが出来ませんでしょうから」
と申しますと、
「どうかな。そうはいっても、聞きつけることだろう」
と、いつも、そっとお吹きになられますのに、今日は、ご自分の方からこちらにお越しになって、
「あの者はいないようだな。今こそ思いきり吹こう」
と仰せられて、高くお吹きになられるのは、ほんとうにすばらしいことでした。



この章段も、中宮に凋落の兆しが見えてきた頃の思い出です。
すけただ(為済)という人物については、少納言さまに記憶相違の部分もあるらしく、今一つはっきりしないようです。女房たちが天皇に言った「もっと、高くお吹きなさいませ・・・」以下の辺りも、個人的には、あまりしっくりと来ていません。
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身を変へて天人

2014-06-22 11:00:58 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百二十八段  身を変へて天人

「『身を変へて天人』などは、かうやあらむ」と見ゆるものは、ただの女房にてさぶらふ人の、御乳母になりたる。
唐衣も着ず、裳をだにも、よういはば着ぬさまにて、御前に添ひ臥し、御帳のうちをゐどころにして、女房どもを呼び使ひ、局にものをいひやり、文を取り次がせなどしてあるさま、いひ尽くすべくもあらず。

雑色の、蔵人になりたる、めでたし。
去年の霜月の臨時の祭に、御琴持たりしは、人とも見えざりしに、君達と連れ立ちて歩くは、「いづこなる人ぞ」とおぼゆれ。ほかよりなりたるなどは、いとさしもおぼえず。


「『生まれ変わって天人になった』などというのは、このようなことであろう」と見えるものは、上臈女房でもなく、普通の女房として宮仕えしている女性が、皇子の御乳母になったのなどは、それにあたります。
女房の正装である唐衣も着ず、裳だって、どうかすると着ないような格好で、御前に添い寝し、御帳台の内を定位置にして、女房どもを呼びつけて使い、自分の部屋へ用を伝えに行かせたり、手紙を取り次がせたりしている様子は、何とも言いようのないほどの権勢です。

雑色(ザフシキ・蔵人所などで、雑役をつとめる無位の役人。一定の服色が定められていなかったことからこう呼ばれた)が、六位蔵人になったのは、すばらしいことです。
去年の霜月の臨時の祭りに、御琴を支えていた雑色は、人間とさえ見られていなかったのに、六位蔵人となった今は、君達(キンダチ)と連れ立って歩いているのは、「一体どこの人か」と思われることですわ。同じ六位蔵人でも、他の身分からなったのなどは、それほど大したこととは思いません。



なかなか厳しい論調ですが、少納言さま、身近で経験することがあったのでしょうね。
でも、このような話、現代でも時々目にしたり耳にしたりすることですよね。少納言さまと同じ思いに駆られた人も少なくないのではないでしょうか。
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