雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

慎ましくて激しくて ・ 心の花園 ( 41 )

2013-04-29 08:00:44 | 心の花園
          心の花園 ( 41 )

              慎ましくて激しくて


日頃目立たない人が、突然輝きを見せることがある。
意識的なのか、持って生まれた性格なのかは分からないけれど、その落差に驚き、そして、その魅力に引き込まれてしまう・・・。

心の花園に「ドウダンツツジ」が花をつけています。
ツツジ科の花ではありますが、花の姿は相当違います。花の姿はどちらかといえばスズランに似た実に清楚な姿です。白い花色とも合わせて、実に慎ましやかな風情の花です。
しかし、晩秋ともなれば、紅葉が見事で、激しく真っ赤に燃えあがります。実に魅力的な花木といえるでしょう。

「ドウダンツツジ」はわが国が原産で、本州以南の岩山に自生しますが、自生地は少なくなっているようです。
漢字で書けば、「灯台躑躅」あるいは「満天星」となります。
「ドウダンツツジ」の名前は、「とうだい」から転化したものと言われていますが、この「とうだい」についても、枝別れの仕方が、昔夜間の灯りに用いられた灯明台に似ているからと言われていますが、岬に立っている灯台に似ているからという説もあるようです。
漢字書きの「灯台躑躅」はこれらのことから生まれたものですが、「満天星」は中国名に由来していますが、一般の辞書には、こちらが載っているようです。

「ドウダンツツジ」の花言葉は、「上品」そして「節制」です。花の姿などからある程度連想できる花言葉だともいえます。
慎ましやかなばかりでは頼りなく、激しいばかりでは重たすぎる・・。私たちも心すべき教訓かもしれませんね。
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燃ゆる想い ・ 心の花園 ( 40 )

2013-04-23 08:00:15 | 心の花園
          心の花園 ( 40 )

                燃ゆる想い


過ぎ去った出来事は、いくら懐かしんだとしても、もう思い出に過ぎない。
そのようなことは、わざわざ指摘されなくとも、よく分かっている。
しかし、あの、煮えたぎるような心のときめきも、すべて過去という闇の中に消えてしまったというのか・・・。


心の花園に、真っ赤な「サルビア」が咲きそろっています。
真夏を思わせるような真っ赤な花の絨毯は、エネルギッシュで逞しさを感じさせてくれますが、同時に、なぜか遠い日の原色に輝いた思い出を、ほろ苦い味と共に浮かび上がらせてきます。

「サルビア」と私たちが呼んでいるものは、たいてい「サルビア・スプレンデンス」というブラジル原産のものです。真っ赤な情熱的な花色が一番の特徴ですが、改良された園芸種には、紫・ピンク・白など多彩な花色が生まれています。
「サルビア」はシソ科サルビア属の草木ですが、全世界には五百種とも千種ともいわれるほどの種類があるようです。
わが国でよく見られる園芸種でも、「ブルー・サルビア」と呼ばれる青色のものは「サルビア・フアリナセア」という北アメリカ原産の種類です。
また、花がややまばらで鮮やかな緋色がすばらしい「サルビア・コッキネア」という種類は、南アメリカが原産です。

「サルビア」には多くの花言葉が付けられています。「家族愛」「知恵」「エネルギー」などがありますが、真っ赤なサルビアには、やはり「燃ゆる想い」という花言葉が一番似合うように思われます。
しかし、時には「燃ゆる想い」に浸るのも悪くはありませんが、「家族愛」という花言葉があることも、くれぐれもお忘れになりませんように。
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運命紀行  葵を支える

2013-04-20 08:00:45 | 運命紀行
          運命紀行

              葵を支える


徳川家康が天下人となり、徳川幕府という長期政権を築き上げたのには、幾つもの要因が見事に積み重ねられた結果だと考えられる。
その要因の最大のものは、家康という人物の資質にあるということは否定できない。しかし同時に、個人の資質だけであの長期政権を成し得たのかといえば、少し違うと思われるのである。

個人の資質ということになれば、戦国末期にあたる時代、家康が圧倒的な能力の持ち主であったかといえば、賛否は分かれると思う。確かに第一人者であったことは確かだろうが、例えば家康に先立つ最高権力者であった織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、資質面で大きく劣るとは考えにくく、年齢差はあるとしても、現に彼らも天下の一端は掌握していたのである。
それでは、長期政権を実現させることが出来たのには、単に時代の要請であったとか、時期に恵まれていたなどということではなく、もっと具体的な要因があったはずである。例えば、大変忠実な家臣団に恵まれていたといったことである。
今回のテーマは、徳川家康を、そして徳川政権に少なからぬ影響を与えたと考えられる女性について考えてみたいのである。

家康の生涯において、最も大きな影響を与えた女性ということになれば、間違いなく生母である於代の方であろう。
家康には多くの妻妾がおり、その中には政治的に相当な働きをした女性もいる。娘や孫にも存在感のある女性もいる。しかし、家康の生涯を通して考えた場合、当然のことではあるが、生母である於代の方を超える女性はいないだろう。

於代の方は、尾張知多郡の豪族水野忠政の娘として誕生した。
水野忠政の所領は、尾張と三河にまたがっていたが、この一帯は織田氏と今川氏の勢力が接する辺りで、各豪族は両氏に臣従したり離反したりを繰り返しながら一族の勢力拡大の機会を狙っていた。
当時忠政は今川氏に属していたが、同じく今川氏に臣従している松平氏との紐帯を強めるため、於代の方を松平広忠のもとに嫁がせた。そして誕生したのが竹千代、後の徳川家康である。
天文十一年十二月(1543.1月)のことで、於代の方が十五歳の頃のことである。

しかし、実家の忠政が亡くなり、その跡を継いだ於代の方の兄信元が今川を離れ織田方に属するようになった。
松平と水野が直接争ったわけではないが、今川氏の意向を配慮した広忠は於代の方を離縁し、水野氏の三河刈谷城に返されたのである。天文十四年のことというから、竹千代はまだ三歳か四歳の頃である。
そして、天文十七年、兄信元の意向で知多郡阿古居城の城主久松俊勝のもとに再嫁する。
於代の方は、久松俊勝との間に三男三女を儲けている。

一方竹千代は、生母於代の方が松平家を去った後、苦難の日々を送ることになる。
今川氏の人質として駿府に送られる途中で織田氏に身柄を拘束され、織田氏の人質としての生活を強いられ、人質交換で返された後も今度は今川家で長い人質生活を送るのである。
竹千代、すなわち徳川家康が自立することが出来るのは、桶狭間の戦いで今川義元が討死した時のことである。永禄三年(1560)のことで家康は十九歳になっていた。
この間の織田・今川に拘束された生活の間、於代の方は陰に陽に息子に支援を続けていたのである。

家康はこのあと苦難を乗り越えながら天下人への道を進んでゆくが、於代の方に対する愛情と感謝の気持ちは大きなものであった。
岡崎城主として、織田信長の勢力拡大の恩恵も受けながら身代を増やしていったが、その過程で於代の方の夫である久松俊勝や二人の間の子供たちを重用し一族として迎え入れているのである。
久松俊勝の長男信俊は於代の方の子供ではないが、久松家を継いでいる。
於代の方の生んだ三人の息子は、いずれも松平の姓を与えられ、家康の一族として遇せられている。
俊勝の次男にあたる康元は、下総国関宿二万石の藩主にまでなっいる。(後に四万石)
三男にあたる康俊は、今川家への人質なども経験しているが、その後駿河国久能城主になっているが、三十五歳で他界している。後は娘婿が継いでいる。
四男にあたる定勝が一番の出世頭ともいえる。久松松平家の創始者となり、桑名十一万石の藩主にまで上り、家康の臨終にあたっては、二代将軍秀忠の相談役となることを懇願されたとされている。

於代の方の三人の姫も、徳川体制の重要な人物のもとへ嫁いでいる。
松姫は、戸田松平家を興した康長に嫁ぎ、康長は信濃国松本七万石の藩主に就いている。
名前は不詳であるが天桂院として伝えられる女性は、竹谷松平家の嫡男家清に嫁ぎ、家清は三河国吉田藩主となっている。ただこの姫は、姫出産の時に若くして他界している。その前に男児を儲けていてその人物が康長の跡を継いでいる。
そして、もう一人の姫である多劫姫(タケヒメ)は、波乱に満ちた試練を与えられているが、それらを見事に乗り越えて、徳川を支えた女性の代表のようにさえ見えてくるのである。


     * * *

多劫姫は、久松俊勝と於代の方にとっては最初の姫である。
天文二十二年(1553)の生まれなので、於代の方が二十六歳の時の子供である。
異父兄にあたる家康は、十一歳年上であるので、この頃は今川氏のもとにあった。母を同じくした兄と妹とはいえ、その環境には大きな開きがあり、誕生時点では多劫姫が家康と深いかかわりを持つようになるとは考えられなかったはずである。

しかし、歴史は、桶狭間の戦いにより、家康に活躍の場を提供したのである。この歴史上名高い合戦は、織田信長という英雄を全国に知らしめた戦いとして位置付けられているが、実際その通りであるが、同時に徳川家康という大人物を歴史の表舞台へと押しやった合戦でもあったのである。
家康の台頭とともに家康の異母弟にあたる於代の方の息子たちは松平姓を与えられ、徳川体制の中で重要な役割を担うようになって行く。軍事的に特に優れた人物を輩出したわけではなく、また内政名で突出した才能を示したわけではないが、徳川一門であることの意味は、余人では替えられない働きを示しているのである。

多劫姫もまたその方針にそって、松平一族の一つ桜井松平家の第四代当主である松平忠正に嫁いだ。
桜井松平家は、かねてより松平宗家に対して敵対的であり、忠正も当初は三河一向一揆の乱では宗家と争っている。家康とも直接戦っているが、敗れた後は家康に臣従するようになっていた。
忠正は家康より一歳ほど年下であり、多劫姫とは十歳年上であった。
多劫姫が嫁いだ年齢ははっきりしないが、松平一族を束ねていくうえで重要な意味を持つ婚姻であった。

天正五年(1577)に多劫姫は嫡男家広を出産したが、間もなく夫忠正が亡くなってしまう。
多劫姫は二十五歳で未亡人となってしまったが、嫡男はまだ当歳であり、とても家督を継げる年齢ではなかった。そこで、当然これも家康の配慮というか計らいというかはともかく働きかけがあって、忠正の弟忠吉を婿に迎えて桜井松平家の第五代当主とした。
忠吉は多劫姫より六歳年下である。この結婚の日時も不詳であるが、忠正が亡くなってからそれほど月日が経っていない時のことと考えられる。
二十五歳で未亡人となった兄嫁のもとに、十九歳の弟が婿入りしたことになるが、家系を護って行くことが何よりも大切な当時としては、決して特異なことではなかった。

忠正が亡くなった三年後には二人の間に信吉が誕生し、さらに忠頼と二人の男児を儲けたが、天正十年六月、忠吉もまた二十四歳の若さで亡くなってしまうのである。
この時多劫姫は三十歳。再び未亡人となった多劫姫は幼い三人の子供抱えてどのような行動を取ったのであろうか。
忠吉が亡くなった天正十年という年は、歴史上の大事件が起きた年でもあった。
本能寺の変により権力の頂点にあった織田信長が討たれたのが六月二日のことであった。その時家康は、信長から饗応を受けた続きで堺にあった。信長倒れるという報に接した後は、家康の生涯で最も厳しかったとされる逃避行・伊賀越えを強行突破し、命からがら岡崎に辿り着いたのである。
この時の随行者は僅か三十四人だったといわれているが、その中には徳川四天王と呼ばれる重臣などが含まれていて、万一落武者狩りにでも討たれておれば、徳川は滅亡に向かっていたかもしれないのである。

家康は、信長自刃の報に一時は茫然自失の状態であったともいわれるが、岡崎に辿り着くと直ちに次の対策を打っており、信長の影響下にあった甲斐を手中に収めるべく行動しているのである。
多劫姫の夫忠吉が亡くなったのは六月二十四日、大混乱の家康や側近らの助力は請える状態ではなかったはずである。それなりの支援はあるとしても、おそらく、多劫姫を中心とした桜井松平家の重臣たちが善後策に苦慮したことであろう。
結局、先夫忠正の子供である五歳の家広が第六代当主となる。家広は、天正十八年(1590)に武蔵松山一万石(後に二万五千石)の城主に遇せられているが、二十五歳で亡くなっている。病死とも、家康の勘気を受け自刃したとも伝えられている。その後、義弟であり多劫姫の三人目の息子である忠頼が藩主を継いでいる。

多劫姫と忠吉のもう一人の息子信吉は、藤井松平家の養子となり同家の家督を継ぎ第三代藩主となっている。信吉は、土浦四万石、高崎五万石と出世を重ねている。子孫は、山城守家と伊賀守家の二流に分かれるが、伊賀守家は老中を多数輩出している。
多劫姫の子供たちは、桜井松平家と藤井松平家を護っているのである。

しかし、多劫姫の真価はこの後にさらに輝きを見せているのである。
天正十二年(1584)、二度目の夫忠吉が亡くなった二年後に、多劫姫に再び結婚話が持ち上がったのである。
三度目の夫となる人物は、多劫姫より十一歳年上の保科正直であった。
保科正直は甲斐武田氏に仕えていたが、高遠城を織田信忠に攻略された際に実弟を頼って上野国箕輪城に逃れ、本能寺の変の後は後北条氏に属し、高遠城を奪還している。
その後、甲斐における徳川勢力が強まる過程で家康方となった人物である。
年齢は家康とほぼ同年であるが、スケールはともかく家康同様に乱世を生き抜いてきており、多劫姫が結婚した先の二人とは異質の人物といえた。

この結婚には、家康の思惑が強く働いていることは間違いない。家康には、次々と主を替えてきた歴戦の武将をしっかりと味方につけておきたいという思いがあり、正直には家康と縁続きになる有利さを求めたはずである。
この時三十二歳の多劫姫は、異父兄でもある家康の勧めるままに嫁いだのであろうが、二人の仲は睦まじいものであったらしい。多劫姫は、保科家においても二男四女を儲けているのである。
上の男子正貞は、正直の跡を継ぎ高遠藩主となっていた異母兄正光の養子となるが、その後波乱の生涯を過ごすことになる。
二番目の男子氏重は、後北条一門の氏勝の養子となり下総国岩富一万石を継ぐ。その後、遠江国掛川三万石に加増されるが、五人の子供が全て女子であったため改易となり、跡目は氏勝の弟が旗本として家系を繋いでいる。また、女の子の子供には、名奉行として名高い大岡忠相がおり、氏重は外祖父にあたるわけである。
また、四人の女の子は、それぞれ大名家に嫁いでおり、多劫姫の存在感を高めている。

さて、保科正直の嫡男は跡部氏の娘を母とした正光であるが、なかなかの人物であったらしい。父の跡を継ぎ高遠藩主となっていたが、実子がいなかったため家康の命で異母弟正貞を嫡子として迎えた。
ところが、その後、もう一人とてつもない人物を養子に迎えることになるのである。
秀忠の隠し子である幸松丸は、秀忠の正妻お江から身を守るため武田信玄の娘である見性院に養育されていたが、その将来を武田旧臣の子として信頼していた保科正光に託したのである。
当然引き受けたとなれば、幸松丸の処遇が問題となり、嫡子として迎えていた正貞の立場が難しくなった。

正貞は、義父正光との仲が悪く廃嫡となり、保科家を出奔し諸国を放浪している。おそらくは、正光の苦悩を察しての振る舞いと考えられるが、切ない話である。
その後、桑名藩主となっていた松平定勝(久松氏)のもとに身を寄せている。その後、幕臣となって三千石が与えられ、さらに大坂城や二条城の在番を務めるなど功績を重ね、上総国飯野一万七千石の藩主になっている。
また、幸松丸は保科家を継ぎ保科正之となるが、三代将軍家光に見出され、その信頼は厚く、会津藩主として江戸初期の名君の一人と称されるようになる。
そして、正之に松平の姓が与えられることになる。正之自身は生涯松平の姓を遠慮したとされるが、保科家伝来の文物などを正貞に引き継いでおり、実質的な保科家の家督を正貞に託しているのである。

家康と秀吉と比較する時、一族や譜代の家臣たちの層が圧倒的に家康の方が優れていたといわれることが多い。
しかし、ごく身近な人物、つまり父母を同じにする兄弟に限っていえば、秀吉には秀長(異父弟という説もあるが)という実に優れた人物がいた。しかし家康には、父母を同じにする兄弟はいなかったのである。そして、その差を埋める役割を果たしたのは、於代の方のもとに生まれた異父弟妹たちであったのである。
多劫姫の生涯は、私たちが物語として眺めるよりは遥かに悲しみの多い生涯であったように思われるが、徳川という長期政権の一角を担っていたことも事実だと思うのである。

                                          ( 完 )
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清楚な姿 ・ 心の花園 ( 39 )

2013-04-17 08:00:59 | 心の花園
          心の花園 ( 39 )

             清楚な姿


心の花園の「オダマキ」が花を付け始めました。なかなか清楚な姿でしょう?

「オダマキ」はヨーロッパやアメリカ原産のものなど、たくさんの種類があります。
わが国原産のものとしては、ミヤマオダマキとヤマオダマキの二種類があって、山地から高山にかけて自生しています。現在でも山野草として愛好家は多いそうですが、私たちが園芸店などで見るものは、アメリカ原産のものを交配改良したものがほとんどのようです。

「オダマキ」の花言葉は「愚か」です。
この清楚な花に対して、どうしてこのような花言葉が付けられたのか不思議に思い調べてみますと、「イギリスではコロンバインという名前で呼ばれているが、ヨーロッパの道化芝居に登場する娘の名前で、その娘が持っている杯の形がこの花の姿に似ている」ことから生まれた花言葉だそうです。
ゆわれはともかく、「愚か」というのはどうもしっくりときません。

わが国の「オダマキ」という名前は、漢字で書けば「苧環」となりますが、これは、機織りの際に使われる麻糸を巻く中が空洞になっている糸巻のことで、その形が花の姿と似ていることからきています。
こちらの方はたんに似ているだけで、特別に秘められた物語などないようですが、連想される物語はあるのです。

その昔、吉野で義経と別れた静御前は捕らえられ、鎌倉に送られました。
踊りの名手として知られた静御前の舞を一目見んものと、頼朝に再三所望され、ついに堪えられず静御前は舞を披露することとなります。
この時静御前は義経の子を身籠っていましたが、悲しみに堪えながら義経を偲びながら渾身の舞を見せるのです。
 『 しづやしづ しづのをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな 』
これは、花のオダマキを詠ったものではなく、糸巻の苧環に想いを託したものですが、この花には日本の「オダマキ」という名前は実に良い名前だと思われませんか。
なお、花言葉の中には、赤い花は「素直」紫の花は「断固として勝つ」というのもあるようです。
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運命紀行  歴史の黒子役

2013-04-14 08:00:29 | 運命紀行
          運命紀行

               歴史の黒子役


徳川家康が大坂城から出陣したのは、慶長十五年(1600)六月十五日のことであった。
まさに、わが国の歴史を大きく動かせることになる戦いへの出陣であった。

栄華を誇った豊臣政権も、慶長三年(1598)八月十八日、秀吉が波乱の生涯を終えると急速に衰えていった。秀頼という後継者がおり、五大老や五奉行といった体制を固めてはいたが、徳川家康の実力は抜きん出ていて、五大老筆頭という豊臣政権の重鎮という位置にあるにもかかわらず、次期天下人は徳川殿という声は高まりつつあった。

さらに、豊臣体制を支えてきた大名たちの間にも、文禄・慶長の役を廻る怨讐を中心に武断派と文治派といわれる勢力の対立が激しさを増していった。
その間隙を突くように、家康は自らの勢力基盤を固めていったが、それでも豊臣政権の大老職の一人としての地位を去ることはなく、諸大名の対立も何とか暴発しない状態が守られていたのには、家康の対抗馬ともいえる前田利家の存在があった。
前田家は、当時はまだ百万石に及ばない領地であったが、秀吉の信頼が厚く、秀頼の守役であったことからも諸大名の信望が高く、家康の野望を辛くも押さえこんでいたのである。

しかし、秀吉没後半年余りの慶長四年(1599)閏三月三日、利家もまたこの世を去った。
豊臣政権内は、秀頼を支える重鎮を失い混乱を増した。
加藤清正・福島正則・黒田長政といった豊臣政権下の大大名が石田三成を襲撃し、家康が仲裁に入るという事件もあって、石田三成は居城である近江佐和山に謹慎することになり、さらには、家康暗殺計画なるものが露見したとされ、五奉行の筆頭である浅野長政を隠居させ、利家の後継者前田利長には利家未亡人である芳春院まつを人質として江戸に送らせたのである。

そして、家康の次なる狙いは会津の上杉景勝であった。
景勝は豊臣政権下の五大老の一人であるが、上杉家は戦国時代の名門であり、直江兼続という名将が家老として仕えていた。
この当時の家康が警戒を抱いていた大勢力としては、九州の島津、中国の毛利などあったが、何といっても江戸の背後にある上杉百二十万石の存在は脅威であった。さらには、同盟関係と考えられる佐竹五十四万石と合わせれば、とても無視できる勢力ではなかった。
この勢力に対しては、かねてからよしみを深めている伊達政宗を対抗勢力として考えてはいるが、政宗自身もなかなかの野心家であり、そうそう安心できるものでもなかったのである。

家康は、景勝が上洛命令に応じないことを理由に会津討伐を決断する。
家康はあくまでも豊臣政権下の筆頭大老として、政権の命令に応じない上杉を討つため秀頼の命令により出陣することとしたのである。実際に、秀頼からは軍資金として金二万両、兵糧米二万石の下賜を受けての出陣であり、豊臣政権下の有力大名の多くが行動を共にすることになる。

大坂城を出立した家康は、その日は伏見城に入り、鳥居元忠らに後を託している。反家康勢力が大坂で挙兵した場合、最初の攻撃目標となるのは伏見城であり、その場合はとても勝つあてのない戦いになることは明らかであった。徳川からの援軍は望めず全滅を避ける方法などなかった。同時に、反徳川軍の主力部隊を一日でも長く進軍を遅らせることが、徳川の勝利につながることは家康にも元忠にも当然分かっていた。
鳥居元忠は、家康の人質時代からの側近で、主従はおそらく今生の別れとなる一夜をどのように過ごしたのであろうか。

家康とそれに従う諸大名の軍勢が大坂を離れると、反家康陣営の動きは激しさを増した。
七月一日には、西軍の主力部隊となった宇喜多秀家が出陣式を行い、十一日には、石田三成が東軍に加わることになっていた大谷吉継に打倒家康の決意を述べ味方に引き入れることに成功している。
大谷吉継は、越前敦賀五万石の大名に過ぎないが、かつて秀吉が「百万の軍勢を率いさせたい」と語ったといわれる智将であった。晩年は業病を患い、白い頭巾を付けていて人との交際もままならなかったが、三成は変わらぬ厚誼を続けており、その熱意を拒絶することが出来なかったのである。

その頃家康は江戸城にあったが、当然のこととして、大坂の動きについては様々な筋から情報が伝えられていたはずである。家康からも、たくさんの指示や依頼や勧誘の文書が発せられている。
この頃家康に伝えられた情報の殆どは、大坂を離れるにあたって想定していた範囲のものであったらしく、七月二十一日には江戸城を出発している。
そして、七月二十四日に下野小山に到着したところで、三成が挙兵し、伏見城が攻撃されていることを、鳥居元忠の使者によって伝えられたのである。

家康は思案を重ねた上で、翌日軍議を開くことを決定した。世にいう「小山評定」である。
秀吉恩顧とされる諸大名を中心とした軍議において、家康は伝えられた情報をかくすことなく披露し、「妻子を大坂に残されていることもあり、進退は各自の自由である」と一世一代ともいえる名言を伝えさせたといわれている。
当時の有力大名であれば、元忠が伝えてきたような情報は手にする手配をしているものであった。下手な隠し立てをするよりも、ありのままを伝え各大名の本心を引きだすことの方が得策と判断したものと思われる。当然その裏では、家康に心酔している黒田長政らを中心に軍議が有利に進む対策は練られていたはずである。

予想通り、福島正則らの三成を討つとの表明などがあって、徳川支援を誓い合う軍議となった。
結局、東軍から離れることとなったのは、信濃上田城主真田昌幸と美濃岩村城主田丸寿昌だけであった。
その上、山内一豊は居城である掛川城を提供することを申し入れ、福島正則は秀吉より預っていた非常用の兵糧米二十万石を提供することも申し入れている。
これらの背景には、家康率いる会津討伐軍は、あくまで秀頼の命により行動しているのであって、その留守に挙兵した石田三成たちは秀頼の命令に背く反乱軍だという図式が構築されていたからであろう。
会津討伐軍は、一部の守備隊を残して反転して大坂に向かうことになった。
やがて、九月十五日に大軍が激突する関ヶ原の戦いへと動いて行くのである。

ところで、この「小山評定」に大きな影響を与えたのではないかと考えられる人物がいる。
それは、備中川辺に一万三百石の領地を持つ伊東長実(イトウナガザネ)という小大名である。
この頃彼は大坂に居たと思われ、三成挙兵の様子をいち早く家康に伝えたとされ、家康はその功を高く評価していたというのである。
しかし、「小山評定」は、鳥居元忠の使者からの情報をもとに開かれたようなのである。当然家康のもとには、元忠からばかりではなく、多くのルートから情報がもたらされていたはずである。その中の、最も公式といえるものを中心にしたのであって、伊東長実からの情報もその他の情報の一つだったのかもしれない。

しかし、家康は、伊東長実からの情報を高く評価していたというのである。
何らかの特別な理由があったように思われるのである。


     * * *

伊東長実は、永禄三年(1560)尾張国岩倉の国人伊東長久の長男として生まれた。
伊東氏は、藤原不比等にまでさかのぼる名門伊東氏の一族と称しているが、この頃は尾張の地侍として一定の勢力を持っていたようである。
父の長久は織田氏に槍衆として仕え「鑓三本」と称せられる豪の者であったらしい。

長実も、天正元年(1573)の小谷城攻めから織田信長に仕え、羽柴秀吉の配下に付けられ、大母衣衆に抜擢されている。
秀吉の別所氏攻めでは功績を挙げ、その後も秀吉配下として各地を転戦、黄母衣衆二十四人の一人に加えられている。この黄母衣衆というのは、信長の黒母衣衆・赤母衣衆に倣ったといわれる親衛隊である。

天正十八年(1590)の小田原征伐にも従軍しており、小田原城の支城である山中城攻略の一番乗りを果たす功績を挙げている。この功もあって、翌年の天正十九年には、備中川辺に一万石余の領地を与えられ大名となったのである。
秀吉没後の政権混乱期に、長実がどのような立場を取っていたのか詳しく伝えられているものはないようである。大名とはいえ、一万石の領主の動向は、よほどのこと以外は歴史の表舞台に登場しないのは当然のことではあるが。

時代は少し下るが、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣では豊臣方として大坂城に入城し、大坂七手組頭の一人として戦っているのである。
そして、翌年の夏の陣においては、落城と共に高野山に逃れ、そこで秀頼自刃を知ると自らも切腹しようとするが、徳川の使者が到着し「小山評定」前の情報提供の功績に免じ、領地を安堵する旨伝えられたという。長実の自刃の決意は固かったが、家来たちの説得もあって思いとどまったという話が残っている。
何だか、出来過ぎた話である。

同時に、少し違う話も伝えられているようだ。
長実が大坂城を離れたのはもっと前のことで、少なくとも夏の陣では戦っていないというものである。
また、長実が豊臣方に加わったのは、家康に情報を流すためのもので、高野山で切腹云々というのは、単に徳川の使者を待っていただけだというものもある。
どれが真実か分からないが、この人物に対して分からない部分が幾つかある。

その最大のものは、家康が大変恩に着ていたという情報は、特別のものであったのだろうか。
これは、全く個人的な推測にすぎないが、きっと特別なものであったと思うのである。
実は、石田三成を中心とした西軍方の勝利の絶対条件は、毛利輝元が総大将となって大坂城に入り秀頼を後見する体制を組むことであった。毛利本家は百二十万石であるが、小早川家など一族を加えれば二百万石近くになり安国寺恵瓊というとてつもない軍師も付いていた。
石田三成が大将ではとても家康の敵ではないが、輝元が大将として秀頼を後見するとなれば形勢が逆転する可能性は大きい。

おそらく家康は、輝元の大坂入城はないと考えていたのではないだろうか。
それが、安国寺恵瓊の建議を受けて輝元は重い腰を上げて大坂に入り西軍総大将を引き受けたのである。
もしかすると、長実からはこのことが伝えられていたのではないだろうか。
家康が、鳥居元忠からの情報をそのまま公開し、諸大名が毛利の動向を掴まないうちに「小山評定」をうまく誘導すると、直ちに決戦へと大軍を戻し、しかも自らは江戸城に入ってなかなか動かず、秀吉恩顧の大名たちに戦いを急がせているのである。

こういう考え方に立てば、二代将軍となる秀忠が徳川主力軍を率いていながら、信濃真田軍に翻弄されて関ヶ原での合戦に遅参しているのも、何だか分かるような気がしてくる。真田軍の戦上手ばかりが伝えられがちであるが、秀忠一人ではなく歴戦の徳川の勇将たちが付いていながら、籠城している相手にいつまでも時間を取られていることなど、とても考えられないのである。
家康は、毛利輝元が西軍の先頭に立ち、秀頼までが出陣することを懸念していたのではないか。その状況を確認するまで、徳川本隊の戦力を温存しようとしたと思われて来るのである。

しかし、この個人的な推測が当たっているとした場合、長実に対する恩賞は余りに小さいのである。他の外様大名への大盤振る舞いから見れば十万石程度は得てもよいと思われるが、残されている記録からは本領を安堵されているだけなのである。
大坂の陣においてでも同様であるが、本当に関東方のスパイであれば、戦後に恩賞があってしかるべきであるが、やはり本領安堵だけなのである。
事の内容から、公表することが出来ないとも考えられ、当然表だった恩賞も望めなかったのかもしれない。
それでは、伊東長実は何を得たのだろうか。

結局、乏しい調査などで浮き上がってくるものは何もなく、単なる想像だけに終わってしまった。
しかし、長実は、黒子役としてかもしれないが、歴史を動かせた人物の一人といえると思うのである。
そして、長実の領地は、備中岡田藩として明治の世まで繁栄を続けるのである。

                                         ( 完 )

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旅情 ・ 心の花園 ( 38 )

2013-04-11 08:00:32 | 心の花園
          心の花園 ( 38 )

                 旅 情

旅へのあこがれ、どなたも持っているのでしょうね。
演歌などでは、旅する人はおおむね北を目指すようですが、実際に旅する人は、必ずしもそういうことではないようです。
北国への旅が、どちらかといえば孤独や寂しさを連想させるようですが、では南への旅が、反対に明るく陽気なものを連想させるかといえば、必ずしもそうではないようです。
むしろ、同行者の有無や、そのメンバーにより旅の雰囲気は変わってくるようです。

心の花園に「ハイビスカス」が咲いています。
大らかな花は、南への旅を誘ってくれるような気がします。グループでの旅ならより楽しい雰囲気を醸し出してくれるでしょうし、一人の旅なら、その華やかさがより旅情を高めてくれるのではないでしょうか。

「ハイビスカス」の花の大らかさは南国を連想させてくれますが、実際に、原産地はインド洋や太平洋の島々のようで、ハワイから各地に広がったようです。現在もハワイ州の州花とされています。
他にも、マレーシアやスーダンも国花としているようですが、山岳の国のネパールでも聖なる花として大切にされているようです。

南国のイメージが大変強い「ハイビスカス」ですが、わが国には中国から伝えられたようで、「仏桑華(ブッソウゲ)」と呼ばれたそうですが、ネパールで大切にされているというのも、その名前を聞けば納得できるような気がします。

「ハイビスカス」の花言葉は、「勇ましさ」「華やかさ」そして、「常に新しい美しさ」です。
最後のものは、この花が一日花で次々と新しい花を咲かせることからきているのでしょう。
どうですか、ハワイは無理としても、春も深まる折から、少し南の地に旅してみるのもいいのではないでしょうか。
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運命紀行  一人娘  

2013-04-08 08:00:21 | 運命紀行
          運命紀行

              一人娘


戦国時代を中心とした物語など見ると、女性がかなり重要な役割で登場してくることは少なくない。
公的な歴史書や記録文書に女性が登場するのが少ないのに比べれば、在野の伝記や物語は女性に対して優しい。
しかし、登場してくる女性の多くは、悲劇的な背景を背負っている人物がほとんどである。きりりとした姿で描かれているものや、絢爛豪華な生活と共に描かれているものも少なくないが、やはり、どこかに悲劇的な要素が垣間見られる。
徳川将軍家の姫、千姫もそのような女性の代表格ではないだろうか。

この時代の女性としては、もっとも著名な人物であるが、将軍家の姫といえども、公式に記録されているものは決して多くなく、私たちが知っている千姫像の多くは、後の時代の物語などで描かれたものがベースになっているものも少なくない。著名であり、その生涯の背景が大きいだけに、誇張された部分が多くなるのも避けることが出来ないのかもしれない。

千姫は、慶長二年(1597)の誕生である。父は徳川二代将軍となる秀忠であり、母はお市の方が残した三姉妹の末娘お江である。
豊臣秀吉が亡くなったのがその翌年であり、関ヶ原の戦いが三年後であるから、まさに戦国時代が終焉を迎えた頃であり、政権が豊臣から徳川へと移ろうとする時であった。
七歳で秀吉の後継者豊臣秀頼と結婚する。すでに天下は徳川の時代へと移っていたので、この結婚については様々な憶測がなされている。単純に考えれば、この段階では、家康には豊臣を亡ぼす意思は無かったと思われる。豊臣に同情的な大名や公家衆は多く、大坂城という巨大な城と無尽蔵といえるほどの富は、徳川政権下に組み込むことが出来るものならそうしたいと考えていたと思われるのである。

しかし、元和元年(1615)大坂城は落ち、豊臣家は滅亡する。
千姫は助け出されたが、秀頼が助け出されなかったことで父秀忠や祖父家康にしばらくは心を開かなかったとも伝えられている。
しかしその一方で、父や祖父からは、政略のため苦労させた千姫をとても大切に扱ったともいわれ、三代将軍となる弟の家光にも大切にされていたようである。

元和二年(1616)九月、千姫は本多忠刻(タダトキ)と再婚する。
この年の四月には家康が死去しており、豊臣が滅び秀頼が自刃してからでも一年余りしか経っていない中での再婚であった。
この結婚には、今度こそ幸せな結婚をさせたいという家康や秀忠の意向が強く働いていたと考えられるが、実は再婚相手の忠刻は千姫の意中の人物であったという逸話も残されている。

千姫が大坂城を脱出した後、失意のうちに江戸に戻る時、桑名の七里の渡しの船中で護衛にあたっていた忠刻を見染めたというのである。この時千姫は十九歳、忠刻は二十歳の頃であり、忠刻は眉目秀麗たいへんな美丈夫であったと伝えられているので、そのような出会いが本当にあったのかもしれない。
事実はともかくとして、徳川と豊臣との軋轢の中に放り込まれていた千姫にとって、ぜひ事実であって欲しいと思われる逸話である。

この結婚には、家康がたいへん乗り気であったらしく、臨終間近な時にも、忠刻本人や実母の熊姫に千姫との婚姻を命じていたとも伝えられている。
この熊姫という女性は、家康の長男である悲劇の武将徳川信康の長女である。母は織田信長の娘であり、忠刻は美男美女の血統である織田の血を引いており、美丈夫であったということは事実らしい。
千姫もまた、戦国美人の代表ともされるお市の方の孫娘であり、美男美女の縁組であった。

本多家もまた徳川家屈指の譜代の家柄である。
忠刻の父忠政はこの頃桑名藩主であったが、祖父は徳川四天王、あるいは徳川三傑の一人とされる本多忠勝である。この六年ばかり前に没しているが、天下人家康を実現させるための殆どの戦いに出陣している勇者であり功臣であった。
本多家はもちろん徳川家にとっても、まことに望ましい婚姻だったのである。

元和三年(1617)本多忠政は姫路十五万石藩主となり、忠刻と千姫も共に姫路に移った。
前姫路藩は四十二万石の大藩であったが、父の跡を継いだ池田光政はまだ九歳であり、要衝の地の守りは無理との理由で鳥取に移されたのである。その後は領地が分割され桑名十万石から加増されたものである。さらに、父の所領とは別に、千姫の化粧料として十万石が与えられており、将軍秀忠の好意が示されている。
忠刻は、文武両面に秀でた若武者であったが、特に剣術を好み、兵法者宮本武蔵を迎えて師事していて、武蔵の養子三木之助を小姓として出仕させている。この宮本三木之助は、忠刻が亡くなった時二十三歳で殉死している。
千姫と忠刻の二人の間には、元和四年(1618)に長女勝姫、翌五年には長男幸千代が誕生し、本多姫路範は盤石のように見えた。
しかし、嫡男幸千代は三歳で他界、夫の忠刻も寛永三年(1626)五月に三十一歳で病死した。
さらに、六月には姑である熊姫、九月には実母であるお江が次々と亡くなり、十一月には千姫は姫路を去ることになる。出立の時、忠刻の父である藩主忠政が見送ったと伝えられているが、彼にしても無念な見送りであったことだろう。

姫路城には、現在も千姫ゆかりの建物などが残されているが、夫を亡くし、嫡男を失った女性は、将軍家の娘といえどその思い出深い地を去らなくてはならなかったようである。この後姫路藩主の座は、忠刻の弟政朝が継ぐことになる。
千姫は、一人娘の勝姫を連れて姫路城を去り、江戸城に戻った。
江戸城に戻った後は出家して天樹院と号した。この後は、竹橋の屋敷で娘と二人で暮らすことになる。

二回の結婚生活は、千姫にとって多くの幸せを与えたのかもしれないが、それ以上に不幸せな面が感じられてならないのである。


     * * *

江戸城内竹橋屋敷で暮らすことになった千姫にとって、最大の、そして唯一ともいえる宝は一人娘の勝姫であった。
この勝姫は、戦国時代を走り抜けた英雄たちの血統を実に多彩に受け継いでいる女性であった。
母の千姫は、徳川・織田・浅井の血を引いており、父の忠刻は、家康を幼い頃から支えてきた勇者本多平八郎忠勝の嫡孫であり、母の熊姫には徳川・今川・織田の血が流れているのである。
武人の娘としては、将軍家にも近いこれ以上は望めない程の血統の持ち主だったのである。

勝姫は、元和九年(1623)に外祖父にあたる秀忠の養女として鳥取藩主池田光政と婚約している。
まだ勝姫の父忠刻も健在の頃のことであるが、幼少を理由として姫路藩から鳥取藩に減移封された光政が元服したのを機に将軍家の姫として婚約を成立させたものである。この婚約は、おそらく本多家の意向というより将軍家の意向が強く働いたものと推定されるが、なかなか判断の難しい要素を含んでいる。

光政の祖父は、勇将として名高い池田輝政である。
輝政は父の代から織田信長の重臣として活躍していた名門であり、信長が倒れた後は秀吉に接近し、後に豊臣の姓を許されるまでになっている。
秀吉没後は、いわゆる武断派として福島正則・加藤清正らと共に七将の一人として石田三成らと対立、関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒として福島正則らと共に岐阜城攻めで武勲を示している。
戦後にはその功績により播磨姫路五十二万石が与えられ、備前岡山・因幡鳥取・淡路洲本など一族を合わせた領地は百万石に近いものであった。
やがて、将軍家からは松平の姓も与えられ、「播磨宰相」「姫路宰相」「西国将軍」などと渾名(アダナ)される大大名となった。

輝政は秀吉の斡旋で家康の娘督姫を娶っており、外様とはいえ家門に近い扱いを受け、それに見合う領地も与えられていた。
しかし、慶長十八年(1613)、輝政は五十歳で急死する。病死であったが秀吉の呪いだと噂が流れるなど、豊臣の色も消え切っていなかったことがうかがえる。
さらに、元和二年(1616)に後を継いだ利隆も死去、光政は八歳で家督を継ぐことになった。この時の姫路藩は四十二万石であったが、翌年に、要衝の地である姫路を守るのは無理として因幡鳥取藩三十二万五千石に減封されている。

光政が五歳の頃、祖父の輝政死去の後父利隆と共に家康と謁見した時の逸話が残されている。
家康は、光政を側近くに呼び寄せ、「三佐衛門(輝政)の孫よ、早く立派に成長されよ」と言葉をかけ、脇差を与えた。すると光政は、家康の前でその脇差を抜き放って、じっと見詰めながら、「これは本物じゃ」と言った。家康は笑いながら、「危ない、危ない」と自ら鞘に収めたという。
光政らが退出した後、「眼光の凄まじさ、ただ者ではない」と感嘆した様子を側近に伝えている。
さらに、光政の祖母が家康の娘であることはすでに書いたが、母も秀忠の養女(榊原康政の娘)であり、一門に近い存在であったことは確かである。

その一方で、豊臣が滅び、家康も他界すると、二代将軍秀忠は徳川体制の盤石化を強引に進めていった。
加藤・福島らが没落していったように豊臣恩顧の大大名に対する風当たりは強くなり、一門に対しても容赦のない改易が実行されていった。
光政の因幡鳥取藩への移封も、その匂いが感じられないこともないのである。
その光政が、鳥取藩主として無事元服を果たし、勝姫との婚約を結ぶことが出来たことは、池田家にとって大変意味のあったことと考えられる。

寛永五年(1628)一月、勝姫は江戸城から池田家上屋敷に輿入れした。
千姫母娘が江戸に戻って一年余り経った頃のことである。勝姫が十一歳、光政が二十歳の頃であるが、二人が共に生活するようになるのは大分後のことである。
初め二人が不仲であったという伝聞もあるようだが、それは二人の間に最初の姫が誕生するのが六年後のことであったためらしい。それというのも、理由は今一つはっきりしないが、二人が初めて顔を合わせたのは輿入れ後五年も後のことで、それも三代将軍家光の計らいによるものだという話もある。
このあたりの真実は今一つはっきりしないが、この後には嫡男綱政を儲けており、他にも姫を三人は出産しており、全部で五人程度の子を成しているのであるから、少なくとも長女を儲けた後の仲は睦まじいものであったらしい。

幼くして池田家当主となった光政は、相当厳しい試練にさらされたらしい。
姫路藩から鳥取藩に移された時、領地は三十二万五千石へと十万石ほども減らされたのである。しかも、瀬戸内海に面した温暖な姫路から山陰の鳥取では表高以上に農産物の収穫は少なかった。その上、家臣などはそのまま抱えていたので、家臣の俸禄を六割に減らし、下級武士は半農半士といった生活を強いられたらしい。さらに、因幡国は徳川が天下を治める前は毛利家の影響下にあったが、長年尼子と毛利が戦乱を繰り返した地で、小豪族の力が強く治世は困難を極めたようである。

寛永九年(1632)、光政は備前岡山三十一万五千石への移封を命じられる。
これは、岡山藩主であった池田忠雄(光政の叔父)が死去し嫡男の光仲が家督を継いだが、三歳という年齢のため山陽の要衝の守備は困難との理由からの幕命であった。
表高は若干の減封となるが、実高は相当上回る転封であったようだ。
しかし、鳥取時代の困窮に加え、岡山でも水害などの災害に襲われ窮地に追い込まれている。
この頃、勝姫は岡山城に入ったらいが、寛永十五年(1638)の嫡男綱政の誕生は江戸屋敷なので、何度か江戸と岡山を行き来しているらしい。
そして、この頃のことと思われるが、千姫から黄金五万枚、銀二万枚の支援を受けている。

窮地を脱した光政は、幼少の頃あの家康が看破した通りの非凡さを発揮してゆくのである。干拓や治水を進め、産業振興にも努め成果を上げていった。
文化面においては、全国初となる藩校花畠牧場を開校し、後にはわが国最古の庶民の学校として閑谷学校(備前市、講堂は国宝指定)を開校させている。
教育の充実と質素倹約を旨とする政治姿勢を確立し「備前風」と称せられた。
その治世能力は広く天下に知られ、水戸の徳川光圀、会津の保科正之と共に江戸初期における三名君と呼ばれるまでになるのである。

勝姫を嫁がせ一人となった千姫は、その後弟である三代将軍家光の側室お夏の方を妊娠と同時に預り、後の綱吉を養育することになった。そのことと、家光の信頼が厚いことから大奥で重要な地位を得ていったのである。
その頃の大奥は、春日の局が牛耳っていたが、城内に賜っていた屋敷は千姫の方が二倍ほどの広さがあったという。おそらく、母お江の屋敷を受け継いだものと推察されるが、格の違いを見せていたのである。
そして、春日の局が没した後は、権勢を振るったわけではないが、その存在感は大奥第一となって行ったのである。

戦国の世を織田・豊臣・徳川の時代を大大名として生き抜いた名門池田を、次の時代までも続く基盤を固めた名君池田光政。
彼の非凡さを称えるとともに、その陰には波乱の時代を生き抜いた千姫と勝姫という二人の女性がいたことも記憶に留めたいと思うのである。

                                       ( 完 )
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風格 ・ 心の花園 ( 37 )

2013-04-05 08:00:23 | 心の花園
          心の花園 ( 37 )

               風 格


自信が滲み出てくるような人って、いますよね。
男性でいえば、堂々としていている、とでも表現するのでしょうか。

でも、自信に満ち溢れて堂々としている姿というのも、一つ間違えると、高慢で、鼻持ちならない姿に見えてしまいます。
女性の場合は少し表現の仕方は違ってくるのでしょうが、美しさや知識をこれ見よがしに振舞う姿は、やはり、どうもいただけません。

本当に知性があり、自分自身にしっかりとした自信を持っている人の振舞いは、決して相手に威圧するようなものを与えるものではなく、自ずから滲み出てくるようなものではないでしょうか。

心の花園の「牡丹」をご覧ください。実に鮮やかなものでしょう。
原産は中国で、現在でも同国の国花に指定されているはずです。
わが国でも、奈良時代にはすでにその美しさが称えられていたようです。一説には、弘法大師が持ち帰ったともいわれているそうですが、もともとは薬用に栽培されたようです。

「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とは、美人を表現する言葉だそうですが、芍薬と牡丹はちょっと見ただけでは見分けにくいですよね。
どちらも、牡丹科牡丹属に属する植物なので当然ともいえますが、牡丹は「木」ですが、芍薬は「草」に分類されます。
古来この威風堂々とした花の姿に多くの人が魅せられ、多くの別名が付けられています。例えば、「百花王」「富貴花」「名取草」「花王」「花神」等々、まだまだあるようです。

「牡丹」の花言葉は「風格」です。
知識や人格も、この花ほどの圧倒的な美しさを備えれば、下手な主張や振る舞いなどしなくても、自然に滲み出てくるものがあるはずです。
それを「風格」というのでしょうね。
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運命紀行 ・ 小大名なれど  

2013-04-02 08:00:12 | 運命紀行
          運命紀行

             小大名なれど


慶長九年(1604)といえば、徳川家康が征夷大将軍に就き江戸幕府が開かれたとされる年の翌年にあたる。
天下分け目と称される関ヶ原の合戦からでも、まだ四年しか経っていない頃のことである。
常陸国麻生に新しい藩が創設された。僅か三万石という小藩であるが、藩主の名は新庄直頼という人物である。

新庄直頼は、関ヶ原の戦いにおいては西軍に属し、関ヶ原における本戦には加わっていないが、東軍側の伊賀上野城を攻め抜群の働きをしているのである。
戦後、当然の帰結として領地は没収され、その身は会津蒲生家に幽閉されることになる。敗者にとって戦後の仕置きは極めて厳しいもので、新庄直頼の場合は、むしろ命が救われたことが不思議なほどなのである。
そして、四年を経ずして、小大名とはいえ藩主として復活を果たしているのである。

新庄直頼は、天文七年(1538)に近江国朝妻城主新庄直昌の嫡男として誕生した。弟に直忠がいるが、この人もなかなかの人物であったらしい。
天文十八年(1549)、父の直昌は江口の戦いにおいて戦死した。
この江口の戦いは摂津江口城を中心に三好長慶と同族の三好政長とが争ったものであるが、これに勝利した長慶は戦国大名として飛躍していくことになる。ただ、戦いの背景には室町幕府有力者の思惑も絡んでいて、政長陣営に与していた直昌は遥々摂津まで赴いて戦死してしまったのである。

このためまだ十二歳の直頼が家督を継ぎ朝妻城主となった。なお、弟の直忠も新庄城主となっている。
その後は浅井氏に仕え、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が激戦を交わした姉川の合戦にも参戦している。
浅井氏滅亡後は織田信長に属し、その死後は豊臣秀吉に仕えている。
秀吉が天下人への地盤を固めた賤ヶ岳の合戦では、近江坂本城の守備にあたっている。

天正十九年(1591)には、近江国大津城一万二千石の城主となり、文禄三年(1594)には大和国宇多城主、翌四年には摂津国高槻三万石の城主へと順調に身代を増やしていった。
朝鮮の役では、肥前国名護屋に駐屯したとも、朝鮮へ渡ったとも伝えられている。
身代は決して大きくはなかったが、摂津の要衝の地の城主として存在感は決して小さくなかった。

やがて秀吉が死去すると、時代は再び戦乱の世へと移って行った。
新庄直頼と徳川家康の接点についてはよく分からないが、互いに認め合う所があったらしい。
関ヶ原の合戦に象徴される、大坂方と関東方との東西両陣営の戦いにおいて、直頼は心情的には家康に与したかったようである。しかし、何分高槻という土地は余りにも大坂城に近く、周りはほとんどが西軍に属していて高槻城だけが反旗を翻すことなど出来なかった。
両軍の衝突が始まると、新庄軍は東軍側の筒井定次が守備する伊賀国上野城を攻め占拠している。

しかし、関ヶ原での西軍の惨敗が伝わると全国の戦況は一変し、西軍側の戦意は一気にしぼんでしまった。ごく散発的な抵抗はあるとしても、それは逃亡する西軍勢力を東軍勢力が追討しているものがほとんどであった。
新庄軍は敗走するようなことはなかったようであるが、戦後処理において領地は没収され、直頼自身は会津蒲生藩に幽閉されることになった。

幽閉時の動向については余り資料が無いようであるが、三年あまり後の慶長九年(1604)には赦免され、冒頭にあるように、常陸国麻生三万石の藩主として蘇るのである。
父が与した三好政長は敗れ、その後属した浅井長政は滅び、その後仕えた織田信長は横死し、秀吉死後は心ならずも家康に反旗を翻すことになった新庄直頼。
小大名といえどもその復活は驚嘆に値する出来事ではなかったのか。


     * * *

新庄氏は藤原北家秀郷流の末裔を名乗っている。藤原秀郷、つまり、かの有名な俵籐太の子孫ということである。
直頼が誕生した頃は、近江に二つばかりの城をもつ豪族であった。もちろん城といっても、当時の城の大半は今日各地に天守閣が残されたり復元されているような城とはほど遠く、少し大規模な住居群を水濠か空堀程度で囲っているか、あるいは小高い丘や山頂に築かれた砦のようなものであった。

新庄氏もそのような城をもつ豪族として、近隣の豪族と連携したりしのぎを削ったりしながら勢力を伸ばし、有力者に与したり庇護を受けたりもしながら窮地をしのいでいたものと思われる。
直頼自身も、その仕えた先を列記すれば、浅井・織田・豊臣・徳川と移っており、この面だけを見れば、いかにもうまく世を渡っているように見える。
しかし、実情は少し違う。例えば、直頼は浅井に属して姉川の合戦を戦っているが、浅井長政と直頼の関係は、いわゆる主従関係とは少しニュアンスが違うように思われる。浅井方の戦力として懸命の戦いを展開したことは確かであろうが、敗戦となれば、浅井と共に滅び去る行動など考えなかったことであろう。

それが、当時の小豪族の多くの立場だったと考えられるのである。新庄軍が織田・徳川軍と戦ったのは、信長や家康が憎いためではなく、わが領地を守るため、そして、あわよくば恩賞などを期待してのことであった。
そのことを承知しているからこそ、戦いの後、新庄氏は信長の配下につくことが出来たのである。
次々と主を替えていることをもって、世渡り上手と決めつけるのは正しくない。同時に、世渡り上手といえば、今日では決して褒め言葉ではないが、戦国の時代、一族郎党を率いている領主にとっては、どのように生き延びてゆくかは重要な才覚であったということもできる。

ところで、先に述べた直頼の復活をみると、よほど家康に気に入られていたらしい。
しかし、少なくとも、直頼が家康のために華々しい活躍を見せたという記録は見当たらないのである。
姉川の合戦が行われたのは、直頼は三十三歳、家康は二十九歳、信長は三十七歳、秀吉は三十五歳の頃のことである。
直頼も一族郎党を率いた小隊長程度の地位にあったと考えられるので、その名前や動向が家康の耳に達していた可能性はある。あるいは、何らかの接触があったとしても不思議はない。

その後の秀吉全盛の時代、直頼は小大名の地位にあったから、その人物や動向について家康も少しは知っていたはずである。後々の家康の直頼に対する厚遇ぶりを考えると、この頃のどこかでかなり親しい接触があったと考えられてならないのである。それも、直頼の方が四歳ほど年長であることを考えれば、家康が直頼を可愛がったという状況には無理があり、それなりの評価、それなりの尊敬があったと考える方が自然に思われるのである。
しかし、いざ関ヶ原の戦いとなった時、直頼はわが身や一族郎党を犠牲にしてまで家康に味方する程の関係とは考えていなかったのである。もしかすれば、何か特別な密約でもあったのではと考えてしまうのであるが、拙い調査では全く浮かんでこないのである。

直頼が復活を果たした後、弟の直忠も家康の厚遇を受けている。
直忠も、父の死後兄と同じように父の遺産を分割相続し新庄城主となっている。その後、足利十二代将軍義晴に仕えたともいわれるが、それほど長い期間ではなく兄と同じように行動していたようである。秀吉の時代、朝鮮の役にも参加しており、一万四千余石の所領も得ており、やはり小大名の地位を掴んでいたのである。

秀吉が死去すると、病気と称して隠棲生活のような状態にあったが、東西の対立が鮮明になると西軍側に属し、戦後は兄と同様所領を没収され、本当の隠棲生活に入ったらしい。
しかし、家康はこの弟も気に入っていたらしく、兄に続いて直忠にも近江国坂田郡に所領を与えているのである。
直忠は、枯死した近江の唐崎の松を植え替え景勝の保存に尽力した人物として知られており、文武に優れた人物として語り継がれているという。

麻生藩の新庄氏は、その後所領を減らすなどの危機を乗り越えて明治維新まで藩主の地位を守っており、弟の末裔も徳川旗本として身代を伝えている。
新庄直頼・直忠の兄弟は、戦国の最終勝利者ともいえる徳川家康がたとえ敵対されても敬愛の念を捨てることが出来なかった、何とも言いがたい魅力の持ち主だったのかもしれない。

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