雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  戦国の名付け親

2013-07-31 08:00:11 | 運命紀行
          運命紀行
                戦国の名付け親

戦国時代の始まりついては諸説あるが、応仁の乱の勃発を起点とする考え方が有力である。
応仁の乱は、応仁元年(1467)に勃発したことから付けられた名前であるが、その火種は数年前からくすぶっていた。足利将軍家の管領家を中心とした主導権争いや畠山家などの家督相続争いも絡んで、ついに、細川勝元を大将とする東軍と、山名宗全を大将とする西軍が、共に十数万の軍勢を集めての大乱へと拡大していったのである。
なお、この大乱は、関東から中国地方までの豪族を巻き込む規模に膨らんでいったが、東軍・西軍というのは、東日本の国・西日本の国という意味ではなく、両軍大将の京都における陣営の位置から名付けられたものであり、それぞれの勢力は東西入り乱れていた。

その主戦場が京都であったため、武家屋敷ばかりでなく、寺院仏閣や公家屋敷、さらには町屋も広範囲に被害を受け、都は壊滅状態になったのである。
文明五年(1473)に、両軍の大将である山名宗全・細川勝元が相次いで病死し、翌年には両家の和議が成立したが、その後も各地で断続的に戦乱は続き、終結をみるのは文明九年(1477)のことである。
この十一年にもわたる戦乱が、天皇を中心とした公家勢力や、足利将軍家の権威や影響力を奪っていくことになり、各地の有力豪族が台頭し戦国時代と呼ばれることになる世を導き出したのである。

応仁の乱が勃発したのは、第百三代後土御門天皇の御代であるが、朝廷の実権者は、天皇の父である後花園上皇であった。
そして、朝廷を補佐する公家の頂点に立つのは関白一条兼良(カネヨシ/カネラ)である。
京都における本格的な戦いが始まったのは、応仁元年五月二十六日のことであるが、一条兼良が実に十四年ぶりに関白職に復帰したのは五月十日のことであった。
戦乱は都全体に広がり、寺社や公卿たちの邸の多くが焼かれ、都内で無事な大きな建物は、内裏と将軍館である室町第、北野天満宮、東寺、六波羅蜜時など数えられるほどであった。

すでに、有力公家たちの荘園からの収入は途絶えがちとなり、朝廷の財政も枯渇状態に追い込まれていった。内裏は戦乱の被害を受けていなかったが、戦乱を逃れるために、天皇が足利義政の室町第に避難を余儀なくされ、それは十年間も続くことになる。
この苦難の時期に関白に就任した兼良は、この時六十六歳。当時としてはかなりの高齢といえる。すでに、太政大臣や摂政、あるいは関白職を何度も経験しており、関白としてでも三度目の就任であった。

前回の関白職を辞任した時が五十二歳の時で、その後は学問の道に精励しており、大学者としての地位を確立させていた兼良が、火中の栗を拾うとも言えるこの時期の関白職に就いたのは、何故だったのか。
まだまだ政治的野望を抱き続けていたのか、一条家繁栄の為の就任であったのか、あるいは純粋に、天下国家を憂いてのことなのか、現在残されている資料からは、そのうちのどれなのかは推し量れないが、一条兼良という人物が、類稀なる鋭才であり、それにも増して、逞しい生命力の持ち主であったことだけは間違いない。


     * * *

一条家は、公家社会の頂点に位置する摂関家の一つである。
本姓は、藤原北家九条流嫡流であり、一条実経を祖とする。
鎌倉時代、九条道家の三男実経が道家が創建した一条殿を受け継いだことが家名の由来である。
その家格は、近衛家に次ぎ、九条家とは同列、二条家・鷹司家より上位とされる。なお、九条家とは、九条流嫡流をめぐって争論があったが、後光厳天皇より、いずれも嫡流という綸旨が下されているという。

この時代の公家社会の家格の差は何とも凄まじいものである。
下級官人は、願わくば殿上人の資格が出来る五位以上を目指し、そのあたりまでくれば受領に任じられることを願い、殿上人となれば、公卿と呼ばれる三位を夢見たのである。実際は、下級の官人が三位になるなどまずあり得ないことであった。
ところが、一条兼良に限ったことではないが、摂関家の御曹司、しかも嫡男ともなればその出世のスピードは大変なものである。
少々くどいかもしれないが、兼良の官歴等を列記してみる。

応永九年(1402)五月七日、誕生。
応永十九年(1412)、十一歳。病弱であった兄の権大納言経輔の跡を受け元服して家督を継ぐ。
         十一月二十八日、正五位下に叙位。昇殿許される。
         十二月二十四日、右近衛少将就任。
応永二十年(1413)、十二歳。 一月五日、従四位上に昇叙。一月十四日、左近衛中将に昇任。
         四月十六日、従三位に昇叙。
応永二十一年(1414)、十三歳。 一月五日、正三位に昇叙。
         三月十六日、権中納言に任官。左近衛中将兼任
応永二十二年(1415)、十四歳。 一月六日、従二位に昇叙。
応永二十三年(1416)、十五歳。 一月六日、正二位に昇叙。十一月四日、権大納言に任官。
応永二十七年(1420)、十九歳。 閏一月十三日、右近衛大将を兼任。
         三月二十六日、左近衛大将兼任。
応永二十八年(1421)、二十歳。 七月五日、内大臣に任官。
応永三十一年(1424)、二十三歳。 四月二十日、右大臣に任官。
応永三十二年(1425)、二十四歳。 一月五日、従一位に昇叙。
正長二年(1429)、二十八歳。 八月四日、左大臣に任官。
永享四年(1432)、三十一歳。 八月十三日、摂政宣下。一座・内覧・藤原氏長者宣下。
         八月二十八日、左大臣辞任。
         十月二十七日、摂政・内覧辞任。一座・藤原氏長者去る。
文安三年(1446)、四十五歳。 一月二十九日、太政大臣・一座宣下。
文安四年(1447)、四十六歳。 六月十五日、関白・内覧・藤原氏長者宣下。太政大臣・一座も。
宝徳二年(1450)、四十九歳。 四月二十八日、太政大臣辞任。
享徳二年(1453)、五十二歳。 関白・内覧辞任。一座・藤原氏長者去る。
         六月二十六日、准三宮宣下。
応仁元年(1467)、六十六歳。 五月十日、関白・内覧・一座・藤原氏長者宣下。
文明二年(1470)、六十九歳。 七月十九日、関白・内覧辞任。一座・藤原氏長者去る。
文明五年(1473)、七十二歳。 六月二十五日、出家。
文明十三年(1481)、八十歳。 四月二日、死去。

一条兼良は、関白左大臣経嗣の六男(?)として誕生した。上記しているように兄が病弱のため家督を継いだが、その後の昇進ぶりは凄まじいものである。
実は、父経嗣は、兼良が二十五歳の頃まで存命で、しかも関白職にあった。重職にある父を持った摂関家の嫡男にとって、大納言も近衛大将も単なる通過点でしかないことがよく分かる。

父の死後も順調に昇進を続け、三十一歳にして摂政宣下を受けるに至っている。しかし、同時にこの時初めて、挫折を味わうことになるのである。
藤原氏長者でもあった父が死去した後は、その地位は、九条道家、二条持基と引き継がれていったが、実は十二歳年上で従兄弟でもある二条持基が兼良の頭を押さえる存在だったのである。
この時摂政の地位に就いたのも、持基が太政大臣に就任するのに合わせて宣下を受けたもので、これは個人的な推察であるが、一種の風除けに使われた可能性がある。そのためかどうかは分からないが、わずか二か月余りで、摂政・内覧・一座・藤原氏長者のすべての役を辞しているのである。
なお、内覧というのは、天皇に奉る文書を先に見る役目のことで、摂政・関白の他、左大臣などにも宣下されることがある。また、一座というのは、宮中での座席の最上位であることが宣下されたものである。

この二条持基との関係については、血脈上の関係もあって、兼良には強く抗しきれない部分があったのかもしれない。
家格は二条家は藤原北家九条流支流なので、あきらかに一条家が上位にあるが、兼良の父継嗣は二条家から猶子として一条家に入っており、十二歳年上の従兄弟である持基はやり難い相手であったことは確かであろう。
辞任せざるを得ない状況に追い込まれたのか否かはともかく、三十一歳の若さですべての役職を離れた兼良は、政治、すなわち公卿としての出世競争を断念したものと考えられる。
しかし、その決断があったからこそ、かねてから評価を受けていた学問の道に専心することになるのである。

兼良の学者としての名声は高まり、足利将軍家の歌道などの指導にもあたっている。
おそらく兼良は、政治の世界で活躍するよりも、学問の道を究めたいというのが本心であったと思われるが、皮肉なことに当代一の学者となれば、朝廷は放っておくはずがなかった。
四十五歳の時十四年ぶりに政治の世界に復帰、太政大臣となり、翌年には関白の宣下を受けるなど朝廷政治の中心人物となる。
そして、五十二歳でこれらの職を辞し、准三宮(ジュサングウ)の宣下を受けている。この称号は、皇族関係の他、執政にあたった功臣に与えられる名誉で、おそらく周囲も本人も政界からの引退を考慮していたと考えられる。

しかし、それからさらに十四年後、兼良は再び関白職に復帰することになる。
応仁元年のことで、時代はまさに戦乱の時代へと動いていた。朝廷の財政は破綻に瀕し、将軍家とも親交があり誰もが認める大学者に再び朝廷のかじ取りを預けることになったのである。
しかし、就任間もなく京都は戦場と化していった。朝廷はこの戦乱において終始中立を貫いたが、内裏さえも安全を保つことが困難となり、足利将軍家の室町第に動座せざるを得ない状態となった。
さらに、一条室町の兼良邸が焼失、貴重な文献が集められていた桃林堂文庫も失われてしまった。

兼良は、応仁二年八月には奈良興福寺大乗院の門跡となっていた子の尋尊(ジンソン)を頼って身を寄せている。その後は斎藤氏の招きで美濃に移っている。
公卿首座の兼良がこの状態なので、朝廷政治がどのような状態であったかは想像に難くない。関白職は三年ほどで辞任しているが、失意などには程遠く、兼良の学問に対する意欲は衰えることはなく、この間に源氏物語の注釈書である「花鳥余情」や「ふぢ河の記」などを執筆している。

応仁の乱がようやく終息を見た文明九年(1477)、兼良は十二月に京都に戻った。
九代将軍足利義尚や将軍生母の日野富子の庇護を受けて、富子に源氏物語を講じ、義尚には政道の指南にあたった。「樵談治要(ショウダンチヨウ)」という書は、義尚のために政治指導者の心得を易しく記した物だという。         
また、公家や武士に対して分け隔てることなく、求める者に対して学問を教えたという。
その研究範囲は、有職故実に関するものから古典、和歌、連歌、能楽と幅広く、多くの人々に影響を与え著書を残している。

当時の人々からは、日本無双の才人と評され、自らも菅原道真以来の学者であると豪語したとも伝えられているから、自意識も相当高い人物であったらしい。
そして、歴史区分において、応仁の乱後の世情を、中国の春秋戦国期になぞらえて、「戦国」と記した最初のものは、関白近衛尚道の日記とされるが、兼良も「樵談治要」の中で同様の見方を記しているという。兼良を「戦国の名付け親」の一人として評価することに無理はないと思われる。

そして何よりも、一条兼良という人物の凄さは、その逞しさに満ち溢れた生命力にある。
波乱に満ちた時代に翻弄されながらも、その主要著書の多くは七十歳を過ぎてからなのである。また、儲けた子供の数は二十六人とも伝えられていて、七十歳を過ぎてからの子供も三人おり、最後の子供は七十五歳の時の子だという。

応仁の乱といえば、戦国時代の始まりと考えられることもあって、激しい戦い、つまり武士や豪族の台頭に注目しがちであるが、公家社会にも、一条兼良という何とも逞しい歴史上の重要人物がいたことも忘れてはなるまい。

                                     ( 完 )
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運命紀行  祇王哀れ

2013-07-19 08:00:24 | 運命紀行
          運命紀行
               祇王哀れ

『 入道相国、一天四海を、たなごころのうちににぎり給ひしあひだ、世のそしりをもはばからず、人の嘲(アザケリ)をもかへりみず、不思議の事をのみし給へり。たとへば其比(ソノコロ)、都に聞こえたる白拍子の上手、祇王、祇女とて、おとといあり・・・ 』

平家物語でよく知られている祇王の物語は、このような書き出しで始まる。
つまり、「入道相国(平清盛)は、天下を握ると世間の非難に耳も貸さず、不思議(わがまま放題)の事ばかりされた。例えば、その頃都で評判の白拍子の名手に、祇王、祇女という姉妹がいたが・・・」と、清盛の無頼な振舞いの例として、祇王の物語は紹介されているのである。
少し長くなるが、物語のあらましを追ってみよう。

とじという白拍子に、祇王、祇女という二人の娘がいた。姉妹共に白拍子の上手として都に知れ渡っていた。
ところで、この時代、「白拍子」という存在がよく登場してくる。源義経の恋人静御前も白拍子である。この言葉について少し調べてみよう。もともとは、「白・拍子」という意味で、雅楽などで無伴奏あるいは拍子だけで歌うことを指す。また、この時代に起こった歌舞を指すこともある。
一般的には、その歌舞を演じる遊女を指すことが多い。水干に立烏帽子、白鞘の刀を指して舞う男舞である。神仏の縁起・恋愛・慶賀などを内容とした今様を謡いながら舞うもので、清盛の時代の頃には、貴族層にも人気があった。

本題に戻る。
清盛は、姉の祇王を寵愛したが、それによって世間の人々は妹の祇女ももてはやすことひととおりでなかった。清盛は、母のとじに立派な家を造ってやり、毎月米百石、銭百貫が与えられ、一家は豊かなことこの上なかった。

都中の白拍子たちは祇王の幸運のすばらしさを、うらやむ者もあり、ねたむ者もあった。
うらやむ者たちは、「何とすばらしい祇王の幸運でしょう。あそび女となるからには、誰も皆があのようになりたいものだ。きっとこれは、『祇』という文字を名に付けているからなのだろう。そうだ、我らも『祇』という字を名前に付けよう」ということで、祇一とつけ、祇二とつけ、あるいは祇福・祇徳などと名乗る者もあった。
ねたむ者どもは、「どうして、名前によったり、文字によることがあろうか。幸運は前世からの約束事なのだ」と言って、そのような名前を付けない者もいる。

こうして、清盛の寵愛を受けて三年ばかり経った頃、また京都で評判の高い白拍子の名手が一人現れた。
加賀国の者で、名前を仏御前といった。年は十六歳ということである。
「昔から多くの白拍子がいたが、これほどすばらしい舞を見たことがない」と都中の人々がもてはやすこと、一通りでない。
仏御前が申すには、「我は天下に知られているが、今あれほどめでたく栄えておられる平家太政の入道殿に、召されないのが残念だ。あそび女の常として、こちらから押しかけて不都合などあるまい。いざ、推参してみよう」とて、ある時西八条邸に参上した。

家人が「今都で評判の仏御前が参っています」と清盛に取り次ぎますと、
「何ということだ。そのようなあそび女は、人の招きによって参るものだ。いきなり推参などということがあるか。それに、祇王の居る所へは、神であれ仏であれ参ることなど許されないぞ。さっさと退出させよ」と仰せになった。
仏御前は、そっけない清盛の言葉に、退出しようとしていたが、それを聞いた祇王は清盛に、
「あそび女の推参は、常のことでございます。その上まだ歳も若いことであり、たまたま思い立って参ったのでしょう。そっけなく言われて帰らされたのでは、あまりにかわいそうです。白拍子はわたしが生計を立てていた道でもあり、他人事とは思われません。たとえ舞をご覧になられず、歌をお聞きにならずとも、ご対面だけでもなされた上でお帰しになれば、この上ないお情けでございます。どうぞ道理を曲げて、呼び戻してお会い下さいませ」

清盛は、祇王の申し出を聞き入れて、仏御前を呼び戻した。
「今日会うつもりはなかったが、祇王の熱心な勧めがあったので会ったのだ。会ったからには、お前の声を聞かないわけにもいくまい。今様を一つ歌ってくれ」
と言われ、仏御前は今様を披露する。
『 君をはじめて見る折は 千代も経ぬべし姫小松 御前(オマエ)の池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ 』
と、繰り返し繰り返し、三度見事に歌い終わると、見聞の人々は驚きの声をあげる。清盛も、興味深く聞いておられて、「お前の今様は見事なものだ。この様子では、舞もさぞかし上手と見える。一番見たいものだ。鼓打ちを呼べ」と言われ、一番舞わせる。

仏御前は、髪の姿をはじめ、みめ麗しく、声がよく節廻しもうまく、舞姿も見事なものであった。
清盛は舞姿に感心し、仏御前に心を奪われてしまい、そのまま召し置くことにした。
「自分は推参の身で、祇王御前の取り成しで追い出されずに舞を披露させてもらったのです。このまま召し置かれたのでは、祇王御前のご好意に対して恥ずかしゅうございます。早々に退出させて下さいませ」
と、仏御前は訴えたが、「それはならぬ。但し、祇王が気になるのであれば、祇王の方を追い払おう」と言いだしたのである。

仏御前の再三の退出願いも受け付けようとはせず、反対に清盛は祇王を追い出してしまったのである。
祇王も、いずれはこのような日が来るものと覚悟はしていたものの、さすがにこれほど急なことになろうとは思いもよらず、再三の退出命令の中、部屋などを掃き清め、見苦しいものなどを片付けた上で退出した。
旅先で一樹のかげで同じ川の水を飲むほどの縁であっても、別れというものは悲しいのが世の常である。まして、この三年間住み慣れた邸を追われるのは、名残も惜しく悲しもあり、つい涙もこぼれてしまう。
しかし、いつまでもそうしていられるわけもなく、祇王はこれまでと退出しようと思い切ったが、居なくなった後の忘れ形見としてとでも思ったのか、襖に泣く泣く一首の歌を書きつけた。
『 萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき 』

祇王は自宅に戻り、泣き崩れる。母や妹はただ驚き、供の女から事情を教えられたが、どうすることも出来ない。そのうち、与えられていた米百石も銭百貫も止められてしまった。
今度は、仏御前のゆかりの人たちが栄華を誇った。
このことを知った都中の貴人も下人も、「祇王と遊ぼう」とて、文を寄こす者、使者を送ってくる者が続いたが、祇王にはそれに対応する気力もなかった。

こうしてこの年も暮れ、翌年の春の頃に、祇王のもとに清盛からの使者がきた。
「その後如何している。仏御前があまりに寂しそうなので、こちらへ参って、今様を歌い、舞など舞って仏を慰めてくれ」というものであった。
これに対して祇王は返事をしなかった。
清盛からは、「何故返事をしない。参らないつもりなら、取り計らうことがある」と脅迫めいた催促がくる。
祇王の母とじは、返事をすることを促すが、祇王は、
「参上する気がないのですから返事は無用です。返事がなければ仕置きをするとのことですが、都の外へ追放されるか、あるいは命を召されるとでもいうのでしょうか。追放されても嘆くことでもないし、命を召されても、それが惜しい我が身でもありません。一度嫌な者だとされた上は、再び入道殿に対面するつもりなどありません」と、きっぱりと拒絶する。

母は、なおも祇王に参上するように勧めた。
「天が下に住む上は、入道殿の仰せに背くことなど出来ないよ。
この世であてにならないのが男女の仲というものだ。千年万年も添い遂げようと契っても、間もなく別れる仲もある。ほんのかりそめと思って添いながら、そのまま生涯を送ることもある。それにお前は、この三年の間、入道殿のご寵愛を受けたのだから、特別のことなのだよ。
参上しないからといって命を失うことはあるまいが、都の外に追放されることになるだろう。追放されても、若いお前たちは暮らすことは容易かろうが、年老いた母には、なれない田舎暮らしを考えるだけでも悲しいことだ。何とかこの母を、都の中で一生住めるようにしておくれ。それが、現世、来世での親孝行だと思っておくれ」
と、かき口説かれて、祇王は泣き泣き西八条邸に参上することを承諾するのであった。

一人で参上するのは余りにも辛いので、妹の祇女も同行した。他にも白拍子二人も加わり四人で同じ牛車に乗って西八条邸に参上した。
すると、以前参上した時に案内されていた部屋には入れてもらえず、ずっと下手の所に、座席が設えられていた。
「これは一体どういうことなのか。わが身に過失がないのに捨てられて、この度は座席までもこのような扱いを受けるとは」と心の中で思いながらも、人には知られたくないと祇王はくやし涙を押さえていたが、その袖の間から涙がこぼれおちた。

その様子に気付いた仏御前は、
「これはどういうことなのでしょう。いつもお召しになられていたのですから、こちらにお呼びなさいませ。そうでなければ、わたしにお暇をください。わたしが出ていったお会いしましょう」と、申し出たが、清盛は、
「それはならぬ」と強く止められ、仏御前の方から祇王に会いに行くことは出来なかった。
それから清盛は、祇王の心情など察することもなく、
「その後どうしているのか。どうも仏御前が寂しげなので、今様の一つも歌ってくれ」と命じた。
祇王は煮えたぎる気持ちながらも、母の願いで参上したからには、清盛の仰せに背くまいと、涙を押さえて今様を一つ歌った。

『 仏も昔は凡夫なり 我等も終(ツヒ)には仏なり いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそかなしけれ 』
と、泣く泣く二へん歌ったので、その場にたくさん居並んでいた平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで、みな感動して涙を流した。
清盛も感動した様子で、
「なかなか殊勝な出来栄えだった。さらに舞も見たいものだが、今日は他に用事ができた。今後は召さなくとも、常に参って、今様をも歌い、舞など舞って、仏御前を慰めてくれ」と言う。
祇王は、何とも返事を返さず、涙を押さえて退出した。

「親の命令に背くまじと、辛い道に出掛けて行って再び悲しい目に合ってしまった。このようにこの世にある間は、また悲しい目に合うだろう。今はただ身を投げようと思う」
と祇王が言えば、妹の祇女も「わたしも一緒に身を投げます」と言う。
母のとじは、これを聞くと悲しくて、どうしたらよいか分からない。
「まことに、お前が恨めしく思うのも道理だ。そのようなことがあろうとも知らず、教訓して参上させたことが何とも辛い。但し、お前が身を投げれば、妹も一緒に身を投げるという。二人の娘に先立たれた後、年老いた母が、生きながらえても仕方がないから、わたしも共に身を投げようと思う。
しかしながら、いまだ死期に来ていない親に身を投げさせるのは、五逆罪(仏教での五種の重い罪)にあたるだろう。この世は仮の宿のようなものだ。恥をかいてもかかなくても何ということはない。ただ、未来永劫にわたり闇の世界を転々とする事こそ辛く情けない。この世ではともかく、次の世でさえお前が悪道に赴く事こそ悲しいことだ」
と、さめざめとかき口説けば、祇王は涙をこらえて、
「まことによく分かりました。わたしが五逆罪にあたることは疑いありません。それならば自害は思いとどまりました。しかしこうして都に居るならば、同じ辛い目に合うでしょう。今はただ、都の外へ行きましょう」

と、決意した祇王は二十一歳で尼になり、嵯峨の奥の山里に粗末な庵を結び、念仏を唱えて過ごすことにした。
妹の祇女も十九歳で尼となり、姉と共に籠って、後世の安寧を願う姿は哀れであった。
母のとじも、二人の娘の姿を見て、「若い娘たちでさえ尼となっているのに、年老いて衰えた母が、白髪を付けて残っていても仕方がない」と、四十五歳で髪を剃り、二人の娘と共に、念仏に専心して、ただひたすらに後生を願う生活に入ったのである。


     * * *

物語は続く。
かくて、春も過ぎ、夏も盛りを過ぎ、初秋の頃となった。
夕日が西の山の端に隠れるのを見て、「日の入り給う所は、西方浄土だそうな。いつかは我等もあそこに生まれて思い悩むことなく過ごせるようになるだろう」と母娘三人は願いながらも、思い出すのは辛かった日々のことで、ただ涙を流しあったりしていた。

たそがれ時も過ぎると、竹の網戸を閉め、小さな灯りを頼りに親娘三人で念仏を唱えていると、竹の網戸をとんとんと叩く音がした。
尼たちは肝をつぶして、
「これは、意気地のない我等が念仏しているのを邪魔しようとて、魔縁が来たのだろう。昼でさえ訪れる者のない山里に、こんな夜更けに誰が訪れよう。わずかな竹の網戸なので、こちらで開けなくても押し破るのは簡単なことなので、いっそこちらから開けて入れよう。それなのに相手が情けをかけずに命を取るのなら、いつもお頼み申し上げている弥陀の本願を強く信じて、南無阿弥陀仏の名号を唱え続けましょう。その声を尋ねて迎えに来て下さる仏菩薩がたの来迎に預かれば、きっと浄土にお連れ下さるだろう。決して念仏を怠らないようにな」
と、互いに心を戒めあって竹の網戸を開けてみると、魔縁ではなかった。
仏御前が入ってきたのである。

驚く祇王に、仏御前は切々と訴える。
「こんなことを申しますとわざとらしいのですが、申さねば人情をわきまえぬ身となってしまいますので申します」と前置きして語り出した。
祇王御前のお取り成しで入道殿と対面できた身なのに、自分だけが残されることになったことは心外のことで、とても辛いことでした。
さらに、いつぞやあなたが入道殿に召され、今様を謡われました時の姿に感じるものがありました。また、襖に書き残されていた『 萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき 』という筆の跡を見て、ああ、いずれはわが身だと思ったのです。
その後、皆さまの消息が分かりませんでしたが、このようにお姿を変え一所でお暮らしとお聞きしてからは、とてもうらやましく、お暇を申し出ていましたがお許しが出ませんでした。
しかし、考えをめぐらす程に、ひと時の栄華に得意になって、死後の世界を知らないでいることに堪えられなくなって、今朝、邸を忍び出て、こうなって参りました。

被っていた衣を払いのけると、尼の姿になっていたのです。
「お許しいただけるなら、一緒に念仏を唱えて、極楽浄土の同じ蓮の上に生まれ変わりたいと願っています」と、涙ながらに訴えると、
「あなたがそれほどまでお苦しみとは夢にも思いませんでした。我が身の不運を思うべきなのに、ややもするとあなたのことが恨めしくて、現世も来世も中途半端で、とても極楽往生など遂げられないところでした」
と、祇王も自らの心情を反省し仏御前を迎え入れることになった。

僅か十七歳で尼となった仏御前を加えた四人は、共に、朝夕は仏前に花や香を供え、一心に往生を願う日々を送り、死期に遅い早いの差こそあれ、四人の尼たちは皆往生の本願を遂げたという。
それゆえに、後白河法皇の長講堂の過去帳にも、「祇王、祇女、仏、とじらが尊霊」と四人一緒に書き入れたのです・・・。

さて、祇王らが生きたとされる時代から八百余年を経た今日、嵯峨野の地に祇王寺という寺院がある。
祇王寺は、明治時代、当時の府知事北垣國道氏が祇王らを偲び嵯峨の別荘にあった庵を寄進し、これを本堂として多くの方々の支援により再建されたものだそうである。
もともとこの地には、祇王ゆかりの寺院とされる往生院があったが、江戸末期の頃に荒廃してしまったらしい。それを復興させるべく再建された祇王寺本堂には、祇王、祇女、仏、刀自(トジ)の木造があり、また、祇王らの墓や清盛の供養塔もあって、祇王の哀しくも雄々しい生涯を思い浮かべる世界を護り続けてくれている。

                                  ( 完 )














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運命紀行  滋藤の弓

2013-07-13 08:00:41 | 運命紀行
          運命紀行
               滋藤の弓


『 おきの方より尋常にかざったる少舟一艘、みぎはへむいてこぎ寄せけり。磯へ七八段ばかりになりしかば、舟を横様になす。
「あれはいかに」と見る程に、舟のうちよりよはひ十八九ばかりなる女房の、まことに優にうつくしきが、柳の五衣(イツツギヌ)に紅の袴着て、みな紅の扇の日いだしたるを、舟のせがいにはさみたてて、陸(クガ)へむいてぞまねいたる。

判官(ホウガン・源義経)、後藤兵衛実基を召して、
「あれはいかに」
と宣(ノタマ)へば、
「射よとにこそ候めれ。ただし大将軍、矢おもてにすすんで傾城を御覧ぜば、手たれにねらうて射おとせとのはかり事とおぼえ候。さも候へ、扇をば射させらるべうや候らん」
と申す。
「射つべき仁(ジン)はみかたに誰かある」
と宣へば、
「上手どもいくらも候なかに、下野国(シモツケノクニ)の住人、那須太郎資高(ナスノタロウスケタカ)が子に与一宗高こそ小兵で候へども手ききで候へ」
「証拠はいかに」
と宣へば、
「かけ鳥なんどをあらがうて、三つに二つは必ず射おとす者で候」
「さらば召せ」
とて召されたり。

与一其此(ソノコロ)は廿ばかりの男子(ヲノコ)なり。かちに、赤地の錦をもっておほくび、はた袖いろへたる直垂(ヒタタレ)に、萌黄縅(モエギオドシ)の鎧着て、足白の太刀をはき、切斑(キリフ・白黒の矢羽)の矢の、其日のいくさに射て少々のこったりけるを、頭高に負ひなし、うす切斑に鷹の羽はぎまぜたるぬた目の鏑(カブラ・鏑矢)をぞさしそへたる。
滋藤(シゲトウ)の弓脇にはさみ、甲をばぬぎ高紐にかけ、判官の前に畏(カシコマ)る。 』

以上は、平家物語からの抜粋である。
那須与一が、平家方が小舟に掲げた扇を矢で射落とすという、有名な場面である。

須磨一の谷の合戦に敗れた平家方は、海路四国に渡り、讃岐国屋島に陣を敷いた。
しかし、源義経率いる源氏軍の追撃は厳しく、平家方は再び海上に逃れる。
那須与一の登場は、その激しい戦いの最中の、両軍がほっと一息ついた時のエピソードともいえる。
平家物語は、いわゆる公的な歴史書ではなく軍記物語であることはその通りであるが、この時代の歴史の流れを見る上では捨て難い資料である。
この那須与一が登場するあたりは、最も物語的要素が大きい部分であるが、同時に、どこまでを事実として捉まえるかによって違ってくるが、世相であるとか、人々の考え方の一端がみえてくる部分である。

抜粋部分の続きを、もう少し追ってみよう。
大将軍である源判官九郎義経の前に畏まった那須与一に対して、義経は、「あの扇の真ん中を射抜いて、平家どもに見せてやれ」と命じる。
これに対して、有力御家人とも思えない那須資高の息子に過ぎない与一は、こう答えているのである。
「うまく当てることがどうか分かりません。射損なえば、長く源氏方の傷となりましょう。確実に当てられる人に命じられるのがよろしいでしょう」と、堂々と反論しているのである。

これに対して義経はたいそう怒って、「鎌倉をたって西国に向かう武者たちは、義経の命令に背いてはならない。少しでも文句を言いたい者は、さっさと此処から帰るべきだ」
与一は、重ねて辞退するのはよくないだろうと考えて、「外れるかどうかは分かりませんが、御命令でございますから、致してみましょう」と答えて、御前を下がる。

与一は、太くて逞しい黒い馬に乗り、弓を持ち直し、手綱を操りながら水際まで馬を進める。味方の武者たちはその後ろ姿を見送りながら、「この若武者はきっとうまくやり遂げると思われます」と申し上げると、義経も頼もしげに見つめている。
矢を射るには少し遠かったので、海に一段(距離の単位。六間で、11m弱くらいか)ばかり乗り入れたが、まだ扇との間隔は七段ばかりありそうに見えた。波も高く、舟は揺れており、的の扇も固定されておらずひらひらとひらめいている。

与一は目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、わが国の神は、日光権現、宇都宮大明神、那須の温泉(ユゼン)大明神、どうぞあの扇の真ん中を射させ給え。これを射損ずれば、弓を切り折って自害して、人に二度と顔を合わせるつもりはない。今一度本国へ迎えてやろうと思し召しならば、この矢外させ給うな」
と、心の中で祈念して、目を見開くと、風も少し弱まり、扇も射よと言っているようになっている。

与一は鏑矢を取って弓につがえ、十分引きしぼって放つ。小兵ということで普通の矢より少し長いだけだが、弓は強弓である。鏑矢は浦一帯に響くほど長く鳴りわたり、誤ることなく扇の要の一寸ばかり上を射抜いた。
鏑矢は海に落ち、扇は空に舞い上がった。しばらくは大空にひらめいていたが、春風に一もみ二もみされて、海へさっと散っていった。

夕日が輝いているなかに、金の日輪を描いた紅の扇が白波の上に漂い、浮きつ沈みつ揺られていたので、沖では平家の人々が船端をたたいて感心し、陸では源氏武者たちが箙(エビラ・矢を入れて背負う武具)をたたいてどよめいていた・・・。


     * * *

以上は全て平家物語の場面の紹介であるが、幾つかの面白い様子が窺える。

まず、総大将に対して、一介の武者である与一が堂々意見を述べている点である。描かれている様子が事実そのものというわけではないとしても、当時は大将と武者の間は案外近い関係だったのかもしれない。
同時に、それに対する義経の言葉に見られるように、軍団を組んだ上は大将の命令は絶対である、ということである。当時は、そのような約束事の上で参陣していたのであろう。そして、守れないのなら帰れ、ということで成敗するとまではしなかったのかもしれない。

次に、急襲を受けて、命からがら海上に脱出したと考えられる平家軍の舟から、このような挑発が本当にあったのだろうか、ということである。事実だとすれば、負け惜しみからなのか、何らかの軍事的あるいは呪詛的な意味合いでもあったのか、それともこのような戦況下にあっても、雅な心を持ち続けていたのだろうか。
与一が扇を打ち落とした後の平家方が称賛する姿も、命のやり取りをしているなかで、このような振舞いこそが勇者であるといった美意識が定着していたのだろうか。

そして、これは全く私の個人的な関心であるが、矢を射る前に与一が神々に念じる部分であるが、当時のわが国は仏教思想が広く浸透していたと考えられているが、この場面を見る限り、わが国は八百万の神々のおわす国なのだと可笑しくなり、嬉しいような気もしてしまうのである。

さて、本稿の主人公である那須与一の生年には諸説あるが、平家物語に従えば、仁安元年(1166)前後のことになる。
父の名は那須資隆(スケタカ・平家物語では資高)、与一の本名も宗隆(平家物語では宗高)であるが家督相続後は資隆を名乗ったようである。なお、与一というのは通称名で、「十に一余る」という意味で、十一男であることを指している。与一という通称名は珍しいものではなかったらしい。

那須氏が下野国に領地を持つ豪族であることは平家物語から推察できるが、与一の父資隆が初代のようであるから、古くからの豪族ということではないらしい。
実際に、平家物語に一場面の主役として活躍している与一であるが、鎌倉幕府の公的記録書ともいえる吾妻鏡には登場していないため、実在を疑う研究者もいるようである。
しかし、華々しい活躍があったか否かはともかく、一の谷から屋島へ、さらには壇ノ浦へと転戦した東国武者の数はおびただしいもので、後に幕府の中枢で活躍した者を除けば、吾妻鏡に記録されている人物の数などごく一部に過ぎないはずである。
従って、吾妻鏡に限らないが、記録が乏しいことをもって実在を疑うことはないが、それほど有力な御家人というほどのことはなかったらしい。

治承四年(1180)というから、屋島の合戦の五年ほど前のことになるが、那須温泉神社に必勝祈願のために訪れた義経に父の資隆が出会う機会があり、この時に、十男の十郎為隆と十一男の与一宗隆を源氏方に従軍させることを約束したという。
ところが、あとの兄たち九人は平家方として戦ったため、平家滅亡後は四散してしまい、十郎為隆も罪を犯したことから、十一男である与一宗隆が家督を継ぎ那須家二代目当主となった。
与一は、源平合戦の後、戦功により丹波・信濃・若狭・武蔵・備中の五カ国に荘園が与えられた。おそらく、平家方の一門や貴族などから召し上げた膨大な数の荘園が、源氏の武者たちには恩賞として与えられたのであろう。

これらの荘園から、どれほどの恩恵を手にすることが出来たのか分からないが、那須家の二代目当主となった与一は、逃亡していた兄たちの赦免を受けて呼び戻し、全員に分地している。
長男の太郎光隆から十男の十郎為隆までの十人に、本家周辺の領地を分け与え、那須家の地盤を築いていったのである。
ただ、本家を継いだ与一は、若くして亡くなっている。没年は、文治五年(1189)とも建久元年(1190)とも伝えられている。いずれにしても、二十五歳前後という若さである。
亡くなった場所も、山城国とされているが、京都での任務にあたっていたのかもしれない。

与一の妻は、新田義重の娘とも伝えられているが、子孫はいなかったとされている。与一の死後は、五番目の兄、五郎之隆が継いでいる。
また、那須地方を中心に代々繁栄を続けた他、拝領した荘園の関係からか、越後国や備中国でも一族が土着したようである。

那須与一宗隆、源平合戦の最中に華麗に咲き誇った若武者は、若くして亡くなったため、後の世に記録されるものは少ないが、滋藤の弓から発せられた強烈な鏑矢の鳴り響く音は、なお今日でも多くの人々に感銘を与えているはずである。

                                      ( 完 )


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ゆったりと逞しく ・ 心の花園 ( 45 )

2013-07-10 08:00:40 | 心の花園
          心の花園 ( 45 )
               ゆったりと逞しく

苦労していた懸案事項が解決すると、突然目の前が開けたような気がするものです。
ずっと時間が経てば、なぜあの程度のことに苦労していたのかと思うこともありますが、解決直後は、何か自信が湧いてくるような気がするものです。

そのような時にも、ちょっと一息入れて、心の花園を覗いてみてください。
ほら、「ゼラニウム」が力強く花を咲かせていますよ。

「ゼラニウム」は、熱帯アフリカやシリア、オーストラリアなどを原産とする実に逞しい草木です。
その種類は二百八十種にも及ぶそうですが、一年草、多年草、低木と性格も様々で、特に園芸種として交配も進められ、花色や葉の形や色も実にバラエティーに富んでいます。
独特の匂いを持っているため、その匂いを嫌う人もいるようですが、実に丈夫で栽培しやすく、真夏や真冬の一時期を除き、次々と花をつけ、特に園芸初心者には有り難い花といえます。
この花には「テンジクアオイ」という別名もありますが、実は植物学的にはゼラニウム属には属しておらずペラルゴニウム属(テンジクアオイ属)に属しています。もともとはゼラニウム属だったのですが、分割されゲンノショウコなどのゼラニウム属から分かれたのですが、一般的には、テンジクアオイと呼ばれる種類の物は「ゼラニウム」と呼ばれているのです。

「ゼラニウム」の花言葉は、「愛情」「尊敬」「信頼」「慰め」など多くのものが紹介されていますが、いずれも、暖かく力強いものばかりです。
今の自信に満ちた気持ちの時に、「ゼラニウム」を一鉢、二鉢買ってみてはいかがですか。


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運命紀行  想夫恋

2013-07-07 08:00:57 | 運命紀行
          運命紀行
               想夫恋


『 亀山のあたりちかく、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞきこえける。
峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめてゆくほどに、片折戸したる内に琴をぞひきすまされたる。
ひかえて是をききければ、すこしもまがふべうもなき、小督殿の爪音なり。楽はなんぞとききければ、夫を想うて恋ふとよむ、想夫恋といふ楽なり。
さればこそ、君の御事思ひ出で参らせて、楽こそおほけれ、此楽をひき給ひけるやさしさよ。ありがたうおぼえて、腰より横笛ぬきいだし、ちッとならいて、門をほとほととたたけば、やがてひきやみ給ひぬ。
高声(コウショウ)に、「是は内裏より、仲国が御使に参って候。あけさせ給へ」とて、たたけどもたたけどもとがむる人もなかりけり 』

以上は、平家物語からの抜粋である。
高倉帝と小督(コゴウ)との哀しくも美しい物語は、平家物語の中でも秀逸と言っても過言ではないだろう。
特に、一部を抜粋した嵯峨野に仲国が小督を捜しに行くあたりは、「能」の舞台でも演じられ、また、民謡黒田節の二番にも詠われ、今日に伝えられている。

中納言・藤原成範の娘小督は、類稀な美貌の持ち主であり、筝(ソウ・琴)の名手として貴族たちに広く知られていた。
やがて、大納言・冷泉隆房が小督のもとに通いつめていた。隆房にはすでに正妻がいたが、美しい小督に強く魅かれ、小督もその愛情を受け入れて二人は結ばれる。
それから間もなく、その小督に宮中からのお召があったのである。

高倉帝はもともと体が弱かったようであるが、この頃には皇位や摂関家、あるいは平家との軋轢が絶えることなく、精神的にも追い込まれていた。
その帝を慰めるべく、筝の名手と噂の高い小督に声がかかったのである。
しかし、高倉帝は、演奏の素晴らしさにも増して小督の美しさに魅かれ、たちまちのうちに第一番の寵妃となってしまったのである。当時、天皇ばかりでなく、貴族たちの殆どが何人もの妻を持つことは当然であり、高倉帝にも何人もの妃がいたので、本来難しい問題になることではなかった。

だが、小督に対して大変な憎しみを示す人物が登場するのである。時の実力者平清盛であった。
高倉帝の中宮は清盛の娘であるが、小督の前の想い人である冷泉隆房の正妻も清盛の娘だったのである。
二人の娘の夫の寵愛を奪い取ってゆく小督はけしからん、というわけである。
身の危険を感じた小督は密かに御所を脱出して、嵯峨野のあたりに身を隠したのである。

小督が宮中からいなくなると、高倉帝の病状は悪化し、その原因を知っている側近たちは小督を捜し始める。そして、ついに、嵯峨のあたりの、片折戸(カタオリド・片開きの扉)のある家に隠れ住んでいるとの情報を掴んだのである。
帝の近臣である源仲国は、片折戸と筝の音色を頼りに嵯峨のあたりを捜しまわり、ついにその家を見つけたのが、冒頭の場面である。

再び宮中に戻った小督に対する帝の寵愛はさらに増し、清盛の憎しみもさらに増していった。
そして、治承元年(1177)十一月、小督が高倉天皇の第二皇女を出産すると、清盛は小督を強引に御所から追放し、清閑寺において出家させられてしまうのである。
その後二人は二度と逢うことはなく、失意の高倉帝は治承五年(1181)一月、二十一歳という短い生涯を終える。
さらに、それから間もない閏二月には、清盛も亡くなっているが、単なる偶然に過ぎないのだろうか。

出家後の小督の消息は、ほとんど伝えられていないようである。
わずかに、元久二年(1205)に、藤原定家が小督の病床を見舞ったとの記録が、その日記に残されているばかりで、哀しくも華やかな宮中での生活はあまりにも短く、強制的に選ばされた出家後の生活は少なくとも三十年に近く、その一端を知りたいものである。


     * * *

高倉帝と小督の美しい物語は大切にするとして、僅かな資料をもとにしてであるが、小督の本当の生涯がどのようなものであったかさぐってみよう。

小督は保元二年(1157)に誕生した。父は中納言・藤原成範である。また、この頃政治の中枢で活躍していた信西(藤原通憲)は、祖父にあたる。
もっとも、信西は小督が四歳の頃には、平治の乱の混乱の中殺害されているが、平清盛との関係は悪くなかった。
従って、わが娘のことを心配してのこととはいえ、清盛が小督の身に危険が及ぶほどの迫害を加えたというのは、少々大げさのようにも思える。

小督が見目麗しく笙の名手であったことは事実らしい。当時のことであるから、多くの公達たちからの誘いがあったものと思われるが、大納言・冷泉隆房の愛を受け入れる。
隆房には、すでに清盛の娘が正妻になっていたし、他にも通う女性はいたはずである。ただ、当時は通い婚であり、貴族が複数の妻を持つのは普通であった。また、女性も夫あるいは想い人を替えていくのも珍しいことではなかった。純愛とか貞操とかといった観念は、江戸時代の武家社会と同一視することは出来ない。

やがて、高倉天皇のもとに参内することになるが、この切っ掛けを作ったのは、清盛の娘である中宮徳子であった。高倉帝の寵愛していた葵前が身分が低いため離されることになり、気落ちしていた高倉帝を慰めるために小督を宮中に迎えたらしい。
おそらく小督が十九歳くらいの時と思われるが、そうすると高倉帝は十五歳、徳子は二十一歳くらいである。
中宮徳子が小督を参内させたのは、単に笙の名手としてなのか、天皇の寵愛を受けることを前提にしていたのかは分からないが、美貌の持ち主として知られていたというから、天皇の御手付きになることは覚悟していたと思われる。ただ、予想以上に高倉帝は小督にのめり込んでしまったらしい。

源仲国の努力により宮中に戻った小督は、再び高倉帝の寵愛を受け、治承元年(1177)十一月に皇女を生む。
この時点では、中宮徳子には子供はなく、清盛が小督をひどく憎んだというのは、徳子より先に他の妃に皇子が誕生することを恐れたからだと考えられる。小督は、このあと清盛の迫害を受け、出家させられるが、もし皇女ではなく皇子を生んでいれば、さらに悲惨な結果を招いていたかもしれない。

小督が出家させられた清閑寺は、当時は清水寺と並ぶほどの大寺であったらしい。
この後、小督の消息は極端に少なくなる。同時に、幾つもの伝承があるようだ。
まず、高倉帝が葬られた御陵にも近い、清閑寺の近くの庵で、帝の後生を弔いながら四十四歳くらいで亡くなったと伝承されている。
また、黒田節の中に「峰の嵐か松風か・・・」と詠われているのは、小督が九州に下ったからで、二十数歳の若さで世を去ったという伝承もあるらしい。
あるいは、長年嵯峨あたりで隠遁生活をしたあと、大原に移り、八十歳で往生したとするものもある。

その中で、歴史的資料として信頼性が高いと思われるものは、藤原定家の日記にある「嵯峨で小督の病床を見舞った」というものと考えられる。また、時期ははっきりしないが、定家の同母姉にあたる人物が「嵯峨で二十余年ぶりに出会い、その変りように驚いた」といった記事を書き残している。
二つの情報は同じものかもしれないが、これらを合わせれば、少なくとも元久二年(1205)、つまり小督は四十九歳の頃までは健在であったと思われる。
ただ、定家の姉の記事の内容から、零落した小督の晩年を想像しがちになってしまう。

しかし、本当にそうであったのだろうか。少なくとも私は、出家後の小督の生活は、世捨て人のようなものであったかもしれないが、それなりに充実した月日を送ったと思うのである。
そのヒントは、小督が高倉帝との間に設けた皇女にある。

その女の子は、母が出家した後は、中納言藤原光隆の七条坊門の邸で育てられた。
同時に、母は清盛に追放されたとされているが、その娘である中宮徳子の猶子とされ、翌年には内親王宣下を受け範子(ハンシ/ノリコ)内親王と命名されている。正式な皇女として認知されたわけである。
内親王宣下と共に賀茂斎院に卜定され、慣例に従い二年後に紫野院(斎院御所)に入った。但し此処での生活は、高倉上皇の崩御により一年ほどで終わる。

その後は、再び七条坊門の邸で育てられ、生活したと思われるが、時代は源平が激突する激しい戦乱の時へと移っていった。戦乱を避けるため、再三、五辻第に避難したようである。この邸は、鳥羽天皇の第七皇女頌子(ショウシ/ノブコ)内親王の邸であるが、やがて譲り受けて住居としている。頌子内親王も賀茂斎院を勤めており、範子内親王に好意的であったのかもしれない。
やがて、平氏は滅亡し、範子内親王を取り巻く環境は変わっていった。

建久六年(1195)には、准三后の待遇を受け、建久九年(1198)に土御門天皇が即位すると准母となり、やがて皇后待遇を与えられている。建永元年(1206)には院号が宣下され、坊門院が与えられている。
そして、承元四年(1210)、三十四歳で病気のため一条室町第で亡くなっている。
結婚や子をなすことはなかったが、第一級の皇族女性としての生涯を送ったのである。

時代が鎌倉時代へと移っていく中で、准三后や皇后、あるいは女院(門院)に対する経済的な恩恵は少なくなっていると考えられるが、並の貴族などに引けを取らない待遇は与えられていたはずである。
そうだとすれば、東山にしろ嵯峨野にしろ都近くにいる母親を少なくとも経済的には零落させるようなことはなかったはずである。
定家の姉が、「二十余年前とは変わり果てた姿」と小督の様子を伝えているが、それは決して零落した姿ということではなく、宮中にあった艶やかな姿に対して墨染の衣に身を包んだ姿を指したのではないだろうか。

宮中を去った後の小督は、身は墨染に包まれながらも、精神的には豊かな時を送ったものと思うのである。おそらく、娘の成長を遠く離れてはいても楽しみにしながら、経済的には決して困窮することなどなく、慎ましやかな日々を送ったはずである。
そして、嵯峨野から大原に移ったという伝承があるようだが、もしかすると、案外事実だったのかもしれないと思うのである。いや、思いたいのである。
大原の地には、壇ノ浦の悲劇を抱きながら念仏三昧の日々を送っている建礼門院(中宮徳子)がいたからである。もしかすると二人は、時には共に白湯など飲みながら、人の世の無常などを語り合ったのかもしれない、と思うのである。

                                       ( 完 )



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運命紀行  青葉の笛

2013-07-01 08:00:55 | 運命紀行
          運命紀行
               青葉の笛


『 「あはれ大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」
と扇をあげてまねきければ、招かれてとってかえす。
汀にうちあがらんとするところに、おしならべてむずとくんでどうどおち、とっておさへて、頸(クビ)をかかんと甲をおしあふのけてみければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧して、かね黒なり。我子の小次郎がよはひ程にて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。

「抑(ソモソモ)いかなる人にてましまし候ぞ。名のらせ給へ。たすけ参らせん」
と申せば、
「汝はたそ」
と問ひ給ふ。
「物その者で候はねども、武蔵国住人、熊谷次郎直実」
と名のり申す。
「さては、なんぢにあうてはなのるまじいぞ。なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をとって人に問へ。見知らうずるぞ」
とぞ宣(ノタマ)ひける。

熊谷、「あっぱれ大将軍や。此人一人うち奉ったりとも、まくべきいくさに勝つべきやうもなし。又うち奉らずとも、勝つべきいくさにまくる事もよもあらじ。小次郎がうす手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、此殿の父、うたれぬと聞いて、いか計(バカリ)かなげき給はんずらん。あはれたすけ奉らばや」
と思ひて、うしろをきっと見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりでつづいたり。

熊谷涙を押さへて申しけるは、
「たすけ参らせんとは存じ候へども、御方(ミカタ)の軍兵雲霞(ウンカ)のごとく候。よものがれさせ給はじ。人手にかけ参らせんより、同じくは直実が手にかけ参らせて、後の御孝養をこそ仕(ツカマツ)り候はめ」
と申しければ、
「ただとくとく頸をとれ」
とぞ宣ひける。 』

以上は平家物語からの抜粋である。
少し長くなったが、平家が西国へ落ちていく途上、須磨一の谷の合戦の名場面である。

時は、寿永三年(1184)二月、鎌倉方の御家人、熊谷次郎直実(クマガイジロウナオザネ)は、源義経の軍勢に加わっていた。
鎌倉軍の主力部隊は、源範頼が率いていて、海岸線からの正面攻撃を目指していた。
一方の義経軍は、奇襲部隊として丹波路から内陸部を進み、平家軍の背後を襲う奇襲部隊であった。
そして、険しい山中を進み、平家陣営の背後から鵯越えの逆落しと呼ばれる急襲をかけた。一の谷での激しい戦いで、熊谷直実は、息子の小次郎直家と郎党と共に一番乗りで突入する武功を上げている。しかし、平家の軍兵に囲まれて、同僚の平山季重らと共に討死しかけている。息子の直家はこの時傷を受けたらしい。

戦いは鎌倉方の勝利が明らかになってゆき、平家軍は舟で海上に逃れ始めた。おびただしい軍船を備えている平家軍は、逃れてくる武者たちを収容しながら沖へと漕ぎ出ていった。
直実は、傷を負った直家の敵を討つべく、軍船に逃れようとする大将格の武者を捜し求めていた。
そこへ、平家の公達、平敦盛が現れ、冒頭の場面となるのである。

直実は、涙ながらに敦盛の頸(首)を取る。そして、若武者が錦の袋に入れた笛を腰に差しているのに気付いた。
さては、この日の明け方、敵陣から聞こえてきた笛の音はこの人が奏でていたのか。味方の東国武士は何万騎もいるだろうが、戦陣に笛を持ってきているものなどいるまい・・・。
直実が、この若武者が修理大夫経盛の子息敦盛であることを知るのは、頸を御大将源義経に披露した時だが、まだ十七歳(実際は十六歳)の若武者の頸を取ったことに悔いる気持ちは膨らんでいった。

敦盛が身につけていた笛は、敦盛の祖父平忠盛が鳥羽院から与えられたもので、父経盛を経て相伝した物であった。
笛の名は、平家物語によれば「小枝(サエダ)」という。ただ、敦盛の物語は謡曲でも伝えられており、こちらでは「青葉の笛」となっている。
謡曲「敦盛」は、織田信長が「人間五十年 下天のうちにくらぶれば 夢幻のごとくなり・・」と事あるごとに詠ったことでも知られていて、一の谷の悲劇は今に伝えられているのである。


     * * *

「平家物語」の名場面であり、さらに謡曲「敦盛」も加わって、一の谷の合戦の一エピソードは史実を超えて、一つの物語として完成しているかに見える。
そして、その物語の主人公は、敦盛であり、熊谷直実という人物は脇役に甘んじているように思われる。
しかし、直実の生涯の一端を覗いてみると、当時の東国武士の意気地が色濃く出ているように思われるのである。

熊谷直実は、永治元年(1141)、武蔵国大里郡熊谷郷(現在の熊谷市)で誕生した。
幼名は弓矢丸と名付けられたが、長じて後も弓の名手であり豪の者であったらしい。
熊谷氏は、桓武平氏・平貞盛のの孫維時の子孫と称していたが、武蔵七党と呼ばれる豪族の流れともいわれる。
父・直定の時代から大里郡熊谷郷の領主となり熊谷氏を名乗った。従って、地方領主の息子ということになる。

しかし、父が早くに亡くなったため、母方の伯父・久下直光に養われている。このあたりの経緯が今一つはっきりしないが、どうやら領地ごと久下氏の庇護を受けることになったらしい。
久下氏も、熊谷郷と隣接する久下郷を領有する豪族であり、親しい関係にあったのだろう。
保元元年(1156)の保元の乱では源義朝の指揮下で働き、平治の乱では源義平に属していたようだ。まだ十代の頃のことであるが、さしたる戦功は伝えられておらず、むしろ、生き延びられたことが幸運ともいえる。
その後、久下直光の代理人として京都に上ったが、久下氏の家人扱いで一人前の武士として扱われないことに不満を抱き、久下氏のもとを離れ自立することを決意し、平知盛(清盛の四男)に仕えた。
この時には、熊谷郷は直実の管轄下にあったようであるが、直光にすれば、直実は自分の代官か家来という立場と考えていて、熊谷郷も管理させてるつもりだったと思われる。
このため、熊谷郷の所有をめぐって両者は対立を続けることになる。

源頼朝が挙兵する直前に、直実は大庭景親に従って東国に下った。当然平家軍の一員としてである。
治承四年(1180)の石橋山の戦いを機に頼朝に臣従して御家人の一人となっている。常陸国の佐野氏との戦いで戦績をあげ、熊谷郷の支配権を安堵された。
これにより、直実は歴とした熊谷郷の領主となったはずだが、久下直光にすれば、だまし取られたような気持ちだったのかもしれない。

その後、源平の戦いでは各地を転戦し相当の武勲も上げている。
謡曲「敦盛」では、一の谷の合戦で嫡男直家が戦死したことになっているが、実際は負傷を負っただけである。直家も武勇に優れた人物だったようで、直実が出家した後は家督を継いでいる。

建久三年(1192)のことであるから、頼朝が征夷大将軍について鎌倉幕府が本格稼働し始めた頃のことである。
不仲が続いていた直実と久下直光とは、かねてからの領地の境界を巡る争いが激しさを増し、ついに頼朝の面前で決着させることになった。
武勇に優れているが口下手な直実は、頼朝の質問にうまく応答することが出来なかった。応答の拙さに加え、有力御家人の梶原景時が直光びいきであったらしく、直実に質問が集中し、詰問されるような状態になった。ついに堪忍袋の緒が切れてしまった直実は、
「景時めが直光を贔屓にして、都合の良いことばかりをお耳に入れたらしい。直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は、何を申し上げても無駄なことだ」
と大声をあげ、証拠書類を投げ捨てて座を立ってしまった。そして、刀を抜くと、髻(モトドリ)を切り、自宅にも帰らず、逐電してしまったという。
頼朝は、あまりのことにただ唖然としていたと伝えられている。

この後、ほどなくして直実は出家したようであるが、家督を没収されたということはなく、嫡男直家が熊谷郷を相続している。
このあたりまでの熊谷直実という人物の行動を見ていると、東国武士の心意気が感じられる。
まず、武士にとって、領地が何よりも大切だということがよく分かる。「いっしょうけんめい」という言葉があるが、現在では「一生懸命」と書くのが普通だが、もともとは「一所懸命(イッショケンメイ)」の意味とした使われていたのである。つまり、わが領地を命を懸けて守るということである。それは、直実ばかりでなく、直光にとっても譲れない意地であったのだと思われる。

さらに、直実は、主君を次々と替えている。まず、主君とも親代わりともいえる久下直光を捨て、平知盛の旗下に移っている。理由は、自分を生かすことのできる主人を選ぶことに罪悪感などなかったと思われる。主君を平氏から頼朝に替えるのも同じ心境と思えるし、その頼朝に対しても、わが領地のためであれば、いくら口下手であっても不満であることを堂々と意思表示しているのである。
そして、もう一つ、見事なまでの身の振り方である。出家に至るには、敦盛の一件が少なからずあったのかもしれないが、我が意叶わずとなれば、見事なまでに決断することが出来たのである。それが、東国武士の心意気なのか、熊谷次郎直実という人物なればこその行動なのかは分からないが。

頼朝のもとを去った翌建久四年(1193)の頃、直実は法然の弟子として出家している。法名は法力房蓮生という。
出家の時期や経緯などについては幾つかの伝承がある。

敦盛を討ったことへの想いからも出家を考えていたが、その方法が分からず、直実は法然のもとを訪ねる。強引に面会を求めた直実は、「後生」について、真剣に訪ねたという。
法然は、「罪の軽重はいはず、ただ念仏だにも申せば往生するなり。別の様なし」と答えたという。
その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本も斬り落とそうかと思っていた直実は、涙にむせんだという。

出家後も、衣の下に鎧を着けていたり、後に頼朝と面会した時には、武士に復帰することを勧められたともいう。出家後も、武士の雰囲気を滲ませていたのかもしれない。
出家後の直実がどのような僧侶であったのか、幾つかの資料を読んでみても今一つよく分からない。
ただ、次々と寺を創建しているのである。開山した寺院は十を越える。
どうやら直実は、城を築くような気持ちで寺院を創建していったのではないだろうか。

敦盛を始め、これまで討ち取ってきた人の命は数知れず、あるいは父母や近親者に対する弔いの気持ちは小さくなかったことであろう。
しかし、熊谷次郎直実という男には、たとえ頭を丸め墨染めの衣をまとっていても、念仏三昧の生活は似合わないように思えてならない。悔恨の気持ちがどれほど大きくとも、もっと積極的な形で亡くなった人たちの霊を慰めようとしたように思うのである。
その行動の一つが、次から次へと寺院を創建することであったのではないか。そう思うのである。

                                   ( 完 )

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