運命紀行
戦国の名付け親
戦国時代の始まりついては諸説あるが、応仁の乱の勃発を起点とする考え方が有力である。
応仁の乱は、応仁元年(1467)に勃発したことから付けられた名前であるが、その火種は数年前からくすぶっていた。足利将軍家の管領家を中心とした主導権争いや畠山家などの家督相続争いも絡んで、ついに、細川勝元を大将とする東軍と、山名宗全を大将とする西軍が、共に十数万の軍勢を集めての大乱へと拡大していったのである。
なお、この大乱は、関東から中国地方までの豪族を巻き込む規模に膨らんでいったが、東軍・西軍というのは、東日本の国・西日本の国という意味ではなく、両軍大将の京都における陣営の位置から名付けられたものであり、それぞれの勢力は東西入り乱れていた。
その主戦場が京都であったため、武家屋敷ばかりでなく、寺院仏閣や公家屋敷、さらには町屋も広範囲に被害を受け、都は壊滅状態になったのである。
文明五年(1473)に、両軍の大将である山名宗全・細川勝元が相次いで病死し、翌年には両家の和議が成立したが、その後も各地で断続的に戦乱は続き、終結をみるのは文明九年(1477)のことである。
この十一年にもわたる戦乱が、天皇を中心とした公家勢力や、足利将軍家の権威や影響力を奪っていくことになり、各地の有力豪族が台頭し戦国時代と呼ばれることになる世を導き出したのである。
応仁の乱が勃発したのは、第百三代後土御門天皇の御代であるが、朝廷の実権者は、天皇の父である後花園上皇であった。
そして、朝廷を補佐する公家の頂点に立つのは関白一条兼良(カネヨシ/カネラ)である。
京都における本格的な戦いが始まったのは、応仁元年五月二十六日のことであるが、一条兼良が実に十四年ぶりに関白職に復帰したのは五月十日のことであった。
戦乱は都全体に広がり、寺社や公卿たちの邸の多くが焼かれ、都内で無事な大きな建物は、内裏と将軍館である室町第、北野天満宮、東寺、六波羅蜜時など数えられるほどであった。
すでに、有力公家たちの荘園からの収入は途絶えがちとなり、朝廷の財政も枯渇状態に追い込まれていった。内裏は戦乱の被害を受けていなかったが、戦乱を逃れるために、天皇が足利義政の室町第に避難を余儀なくされ、それは十年間も続くことになる。
この苦難の時期に関白に就任した兼良は、この時六十六歳。当時としてはかなりの高齢といえる。すでに、太政大臣や摂政、あるいは関白職を何度も経験しており、関白としてでも三度目の就任であった。
前回の関白職を辞任した時が五十二歳の時で、その後は学問の道に精励しており、大学者としての地位を確立させていた兼良が、火中の栗を拾うとも言えるこの時期の関白職に就いたのは、何故だったのか。
まだまだ政治的野望を抱き続けていたのか、一条家繁栄の為の就任であったのか、あるいは純粋に、天下国家を憂いてのことなのか、現在残されている資料からは、そのうちのどれなのかは推し量れないが、一条兼良という人物が、類稀なる鋭才であり、それにも増して、逞しい生命力の持ち主であったことだけは間違いない。
* * *
一条家は、公家社会の頂点に位置する摂関家の一つである。
本姓は、藤原北家九条流嫡流であり、一条実経を祖とする。
鎌倉時代、九条道家の三男実経が道家が創建した一条殿を受け継いだことが家名の由来である。
その家格は、近衛家に次ぎ、九条家とは同列、二条家・鷹司家より上位とされる。なお、九条家とは、九条流嫡流をめぐって争論があったが、後光厳天皇より、いずれも嫡流という綸旨が下されているという。
この時代の公家社会の家格の差は何とも凄まじいものである。
下級官人は、願わくば殿上人の資格が出来る五位以上を目指し、そのあたりまでくれば受領に任じられることを願い、殿上人となれば、公卿と呼ばれる三位を夢見たのである。実際は、下級の官人が三位になるなどまずあり得ないことであった。
ところが、一条兼良に限ったことではないが、摂関家の御曹司、しかも嫡男ともなればその出世のスピードは大変なものである。
少々くどいかもしれないが、兼良の官歴等を列記してみる。
応永九年(1402)五月七日、誕生。
応永十九年(1412)、十一歳。病弱であった兄の権大納言経輔の跡を受け元服して家督を継ぐ。
十一月二十八日、正五位下に叙位。昇殿許される。
十二月二十四日、右近衛少将就任。
応永二十年(1413)、十二歳。 一月五日、従四位上に昇叙。一月十四日、左近衛中将に昇任。
四月十六日、従三位に昇叙。
応永二十一年(1414)、十三歳。 一月五日、正三位に昇叙。
三月十六日、権中納言に任官。左近衛中将兼任
応永二十二年(1415)、十四歳。 一月六日、従二位に昇叙。
応永二十三年(1416)、十五歳。 一月六日、正二位に昇叙。十一月四日、権大納言に任官。
応永二十七年(1420)、十九歳。 閏一月十三日、右近衛大将を兼任。
三月二十六日、左近衛大将兼任。
応永二十八年(1421)、二十歳。 七月五日、内大臣に任官。
応永三十一年(1424)、二十三歳。 四月二十日、右大臣に任官。
応永三十二年(1425)、二十四歳。 一月五日、従一位に昇叙。
正長二年(1429)、二十八歳。 八月四日、左大臣に任官。
永享四年(1432)、三十一歳。 八月十三日、摂政宣下。一座・内覧・藤原氏長者宣下。
八月二十八日、左大臣辞任。
十月二十七日、摂政・内覧辞任。一座・藤原氏長者去る。
文安三年(1446)、四十五歳。 一月二十九日、太政大臣・一座宣下。
文安四年(1447)、四十六歳。 六月十五日、関白・内覧・藤原氏長者宣下。太政大臣・一座も。
宝徳二年(1450)、四十九歳。 四月二十八日、太政大臣辞任。
享徳二年(1453)、五十二歳。 関白・内覧辞任。一座・藤原氏長者去る。
六月二十六日、准三宮宣下。
応仁元年(1467)、六十六歳。 五月十日、関白・内覧・一座・藤原氏長者宣下。
文明二年(1470)、六十九歳。 七月十九日、関白・内覧辞任。一座・藤原氏長者去る。
文明五年(1473)、七十二歳。 六月二十五日、出家。
文明十三年(1481)、八十歳。 四月二日、死去。
一条兼良は、関白左大臣経嗣の六男(?)として誕生した。上記しているように兄が病弱のため家督を継いだが、その後の昇進ぶりは凄まじいものである。
実は、父経嗣は、兼良が二十五歳の頃まで存命で、しかも関白職にあった。重職にある父を持った摂関家の嫡男にとって、大納言も近衛大将も単なる通過点でしかないことがよく分かる。
父の死後も順調に昇進を続け、三十一歳にして摂政宣下を受けるに至っている。しかし、同時にこの時初めて、挫折を味わうことになるのである。
藤原氏長者でもあった父が死去した後は、その地位は、九条道家、二条持基と引き継がれていったが、実は十二歳年上で従兄弟でもある二条持基が兼良の頭を押さえる存在だったのである。
この時摂政の地位に就いたのも、持基が太政大臣に就任するのに合わせて宣下を受けたもので、これは個人的な推察であるが、一種の風除けに使われた可能性がある。そのためかどうかは分からないが、わずか二か月余りで、摂政・内覧・一座・藤原氏長者のすべての役を辞しているのである。
なお、内覧というのは、天皇に奉る文書を先に見る役目のことで、摂政・関白の他、左大臣などにも宣下されることがある。また、一座というのは、宮中での座席の最上位であることが宣下されたものである。
この二条持基との関係については、血脈上の関係もあって、兼良には強く抗しきれない部分があったのかもしれない。
家格は二条家は藤原北家九条流支流なので、あきらかに一条家が上位にあるが、兼良の父継嗣は二条家から猶子として一条家に入っており、十二歳年上の従兄弟である持基はやり難い相手であったことは確かであろう。
辞任せざるを得ない状況に追い込まれたのか否かはともかく、三十一歳の若さですべての役職を離れた兼良は、政治、すなわち公卿としての出世競争を断念したものと考えられる。
しかし、その決断があったからこそ、かねてから評価を受けていた学問の道に専心することになるのである。
兼良の学者としての名声は高まり、足利将軍家の歌道などの指導にもあたっている。
おそらく兼良は、政治の世界で活躍するよりも、学問の道を究めたいというのが本心であったと思われるが、皮肉なことに当代一の学者となれば、朝廷は放っておくはずがなかった。
四十五歳の時十四年ぶりに政治の世界に復帰、太政大臣となり、翌年には関白の宣下を受けるなど朝廷政治の中心人物となる。
そして、五十二歳でこれらの職を辞し、准三宮(ジュサングウ)の宣下を受けている。この称号は、皇族関係の他、執政にあたった功臣に与えられる名誉で、おそらく周囲も本人も政界からの引退を考慮していたと考えられる。
しかし、それからさらに十四年後、兼良は再び関白職に復帰することになる。
応仁元年のことで、時代はまさに戦乱の時代へと動いていた。朝廷の財政は破綻に瀕し、将軍家とも親交があり誰もが認める大学者に再び朝廷のかじ取りを預けることになったのである。
しかし、就任間もなく京都は戦場と化していった。朝廷はこの戦乱において終始中立を貫いたが、内裏さえも安全を保つことが困難となり、足利将軍家の室町第に動座せざるを得ない状態となった。
さらに、一条室町の兼良邸が焼失、貴重な文献が集められていた桃林堂文庫も失われてしまった。
兼良は、応仁二年八月には奈良興福寺大乗院の門跡となっていた子の尋尊(ジンソン)を頼って身を寄せている。その後は斎藤氏の招きで美濃に移っている。
公卿首座の兼良がこの状態なので、朝廷政治がどのような状態であったかは想像に難くない。関白職は三年ほどで辞任しているが、失意などには程遠く、兼良の学問に対する意欲は衰えることはなく、この間に源氏物語の注釈書である「花鳥余情」や「ふぢ河の記」などを執筆している。
応仁の乱がようやく終息を見た文明九年(1477)、兼良は十二月に京都に戻った。
九代将軍足利義尚や将軍生母の日野富子の庇護を受けて、富子に源氏物語を講じ、義尚には政道の指南にあたった。「樵談治要(ショウダンチヨウ)」という書は、義尚のために政治指導者の心得を易しく記した物だという。
また、公家や武士に対して分け隔てることなく、求める者に対して学問を教えたという。
その研究範囲は、有職故実に関するものから古典、和歌、連歌、能楽と幅広く、多くの人々に影響を与え著書を残している。
当時の人々からは、日本無双の才人と評され、自らも菅原道真以来の学者であると豪語したとも伝えられているから、自意識も相当高い人物であったらしい。
そして、歴史区分において、応仁の乱後の世情を、中国の春秋戦国期になぞらえて、「戦国」と記した最初のものは、関白近衛尚道の日記とされるが、兼良も「樵談治要」の中で同様の見方を記しているという。兼良を「戦国の名付け親」の一人として評価することに無理はないと思われる。
そして何よりも、一条兼良という人物の凄さは、その逞しさに満ち溢れた生命力にある。
波乱に満ちた時代に翻弄されながらも、その主要著書の多くは七十歳を過ぎてからなのである。また、儲けた子供の数は二十六人とも伝えられていて、七十歳を過ぎてからの子供も三人おり、最後の子供は七十五歳の時の子だという。
応仁の乱といえば、戦国時代の始まりと考えられることもあって、激しい戦い、つまり武士や豪族の台頭に注目しがちであるが、公家社会にも、一条兼良という何とも逞しい歴史上の重要人物がいたことも忘れてはなるまい。
( 完 )
戦国の名付け親
戦国時代の始まりついては諸説あるが、応仁の乱の勃発を起点とする考え方が有力である。
応仁の乱は、応仁元年(1467)に勃発したことから付けられた名前であるが、その火種は数年前からくすぶっていた。足利将軍家の管領家を中心とした主導権争いや畠山家などの家督相続争いも絡んで、ついに、細川勝元を大将とする東軍と、山名宗全を大将とする西軍が、共に十数万の軍勢を集めての大乱へと拡大していったのである。
なお、この大乱は、関東から中国地方までの豪族を巻き込む規模に膨らんでいったが、東軍・西軍というのは、東日本の国・西日本の国という意味ではなく、両軍大将の京都における陣営の位置から名付けられたものであり、それぞれの勢力は東西入り乱れていた。
その主戦場が京都であったため、武家屋敷ばかりでなく、寺院仏閣や公家屋敷、さらには町屋も広範囲に被害を受け、都は壊滅状態になったのである。
文明五年(1473)に、両軍の大将である山名宗全・細川勝元が相次いで病死し、翌年には両家の和議が成立したが、その後も各地で断続的に戦乱は続き、終結をみるのは文明九年(1477)のことである。
この十一年にもわたる戦乱が、天皇を中心とした公家勢力や、足利将軍家の権威や影響力を奪っていくことになり、各地の有力豪族が台頭し戦国時代と呼ばれることになる世を導き出したのである。
応仁の乱が勃発したのは、第百三代後土御門天皇の御代であるが、朝廷の実権者は、天皇の父である後花園上皇であった。
そして、朝廷を補佐する公家の頂点に立つのは関白一条兼良(カネヨシ/カネラ)である。
京都における本格的な戦いが始まったのは、応仁元年五月二十六日のことであるが、一条兼良が実に十四年ぶりに関白職に復帰したのは五月十日のことであった。
戦乱は都全体に広がり、寺社や公卿たちの邸の多くが焼かれ、都内で無事な大きな建物は、内裏と将軍館である室町第、北野天満宮、東寺、六波羅蜜時など数えられるほどであった。
すでに、有力公家たちの荘園からの収入は途絶えがちとなり、朝廷の財政も枯渇状態に追い込まれていった。内裏は戦乱の被害を受けていなかったが、戦乱を逃れるために、天皇が足利義政の室町第に避難を余儀なくされ、それは十年間も続くことになる。
この苦難の時期に関白に就任した兼良は、この時六十六歳。当時としてはかなりの高齢といえる。すでに、太政大臣や摂政、あるいは関白職を何度も経験しており、関白としてでも三度目の就任であった。
前回の関白職を辞任した時が五十二歳の時で、その後は学問の道に精励しており、大学者としての地位を確立させていた兼良が、火中の栗を拾うとも言えるこの時期の関白職に就いたのは、何故だったのか。
まだまだ政治的野望を抱き続けていたのか、一条家繁栄の為の就任であったのか、あるいは純粋に、天下国家を憂いてのことなのか、現在残されている資料からは、そのうちのどれなのかは推し量れないが、一条兼良という人物が、類稀なる鋭才であり、それにも増して、逞しい生命力の持ち主であったことだけは間違いない。
* * *
一条家は、公家社会の頂点に位置する摂関家の一つである。
本姓は、藤原北家九条流嫡流であり、一条実経を祖とする。
鎌倉時代、九条道家の三男実経が道家が創建した一条殿を受け継いだことが家名の由来である。
その家格は、近衛家に次ぎ、九条家とは同列、二条家・鷹司家より上位とされる。なお、九条家とは、九条流嫡流をめぐって争論があったが、後光厳天皇より、いずれも嫡流という綸旨が下されているという。
この時代の公家社会の家格の差は何とも凄まじいものである。
下級官人は、願わくば殿上人の資格が出来る五位以上を目指し、そのあたりまでくれば受領に任じられることを願い、殿上人となれば、公卿と呼ばれる三位を夢見たのである。実際は、下級の官人が三位になるなどまずあり得ないことであった。
ところが、一条兼良に限ったことではないが、摂関家の御曹司、しかも嫡男ともなればその出世のスピードは大変なものである。
少々くどいかもしれないが、兼良の官歴等を列記してみる。
応永九年(1402)五月七日、誕生。
応永十九年(1412)、十一歳。病弱であった兄の権大納言経輔の跡を受け元服して家督を継ぐ。
十一月二十八日、正五位下に叙位。昇殿許される。
十二月二十四日、右近衛少将就任。
応永二十年(1413)、十二歳。 一月五日、従四位上に昇叙。一月十四日、左近衛中将に昇任。
四月十六日、従三位に昇叙。
応永二十一年(1414)、十三歳。 一月五日、正三位に昇叙。
三月十六日、権中納言に任官。左近衛中将兼任
応永二十二年(1415)、十四歳。 一月六日、従二位に昇叙。
応永二十三年(1416)、十五歳。 一月六日、正二位に昇叙。十一月四日、権大納言に任官。
応永二十七年(1420)、十九歳。 閏一月十三日、右近衛大将を兼任。
三月二十六日、左近衛大将兼任。
応永二十八年(1421)、二十歳。 七月五日、内大臣に任官。
応永三十一年(1424)、二十三歳。 四月二十日、右大臣に任官。
応永三十二年(1425)、二十四歳。 一月五日、従一位に昇叙。
正長二年(1429)、二十八歳。 八月四日、左大臣に任官。
永享四年(1432)、三十一歳。 八月十三日、摂政宣下。一座・内覧・藤原氏長者宣下。
八月二十八日、左大臣辞任。
十月二十七日、摂政・内覧辞任。一座・藤原氏長者去る。
文安三年(1446)、四十五歳。 一月二十九日、太政大臣・一座宣下。
文安四年(1447)、四十六歳。 六月十五日、関白・内覧・藤原氏長者宣下。太政大臣・一座も。
宝徳二年(1450)、四十九歳。 四月二十八日、太政大臣辞任。
享徳二年(1453)、五十二歳。 関白・内覧辞任。一座・藤原氏長者去る。
六月二十六日、准三宮宣下。
応仁元年(1467)、六十六歳。 五月十日、関白・内覧・一座・藤原氏長者宣下。
文明二年(1470)、六十九歳。 七月十九日、関白・内覧辞任。一座・藤原氏長者去る。
文明五年(1473)、七十二歳。 六月二十五日、出家。
文明十三年(1481)、八十歳。 四月二日、死去。
一条兼良は、関白左大臣経嗣の六男(?)として誕生した。上記しているように兄が病弱のため家督を継いだが、その後の昇進ぶりは凄まじいものである。
実は、父経嗣は、兼良が二十五歳の頃まで存命で、しかも関白職にあった。重職にある父を持った摂関家の嫡男にとって、大納言も近衛大将も単なる通過点でしかないことがよく分かる。
父の死後も順調に昇進を続け、三十一歳にして摂政宣下を受けるに至っている。しかし、同時にこの時初めて、挫折を味わうことになるのである。
藤原氏長者でもあった父が死去した後は、その地位は、九条道家、二条持基と引き継がれていったが、実は十二歳年上で従兄弟でもある二条持基が兼良の頭を押さえる存在だったのである。
この時摂政の地位に就いたのも、持基が太政大臣に就任するのに合わせて宣下を受けたもので、これは個人的な推察であるが、一種の風除けに使われた可能性がある。そのためかどうかは分からないが、わずか二か月余りで、摂政・内覧・一座・藤原氏長者のすべての役を辞しているのである。
なお、内覧というのは、天皇に奉る文書を先に見る役目のことで、摂政・関白の他、左大臣などにも宣下されることがある。また、一座というのは、宮中での座席の最上位であることが宣下されたものである。
この二条持基との関係については、血脈上の関係もあって、兼良には強く抗しきれない部分があったのかもしれない。
家格は二条家は藤原北家九条流支流なので、あきらかに一条家が上位にあるが、兼良の父継嗣は二条家から猶子として一条家に入っており、十二歳年上の従兄弟である持基はやり難い相手であったことは確かであろう。
辞任せざるを得ない状況に追い込まれたのか否かはともかく、三十一歳の若さですべての役職を離れた兼良は、政治、すなわち公卿としての出世競争を断念したものと考えられる。
しかし、その決断があったからこそ、かねてから評価を受けていた学問の道に専心することになるのである。
兼良の学者としての名声は高まり、足利将軍家の歌道などの指導にもあたっている。
おそらく兼良は、政治の世界で活躍するよりも、学問の道を究めたいというのが本心であったと思われるが、皮肉なことに当代一の学者となれば、朝廷は放っておくはずがなかった。
四十五歳の時十四年ぶりに政治の世界に復帰、太政大臣となり、翌年には関白の宣下を受けるなど朝廷政治の中心人物となる。
そして、五十二歳でこれらの職を辞し、准三宮(ジュサングウ)の宣下を受けている。この称号は、皇族関係の他、執政にあたった功臣に与えられる名誉で、おそらく周囲も本人も政界からの引退を考慮していたと考えられる。
しかし、それからさらに十四年後、兼良は再び関白職に復帰することになる。
応仁元年のことで、時代はまさに戦乱の時代へと動いていた。朝廷の財政は破綻に瀕し、将軍家とも親交があり誰もが認める大学者に再び朝廷のかじ取りを預けることになったのである。
しかし、就任間もなく京都は戦場と化していった。朝廷はこの戦乱において終始中立を貫いたが、内裏さえも安全を保つことが困難となり、足利将軍家の室町第に動座せざるを得ない状態となった。
さらに、一条室町の兼良邸が焼失、貴重な文献が集められていた桃林堂文庫も失われてしまった。
兼良は、応仁二年八月には奈良興福寺大乗院の門跡となっていた子の尋尊(ジンソン)を頼って身を寄せている。その後は斎藤氏の招きで美濃に移っている。
公卿首座の兼良がこの状態なので、朝廷政治がどのような状態であったかは想像に難くない。関白職は三年ほどで辞任しているが、失意などには程遠く、兼良の学問に対する意欲は衰えることはなく、この間に源氏物語の注釈書である「花鳥余情」や「ふぢ河の記」などを執筆している。
応仁の乱がようやく終息を見た文明九年(1477)、兼良は十二月に京都に戻った。
九代将軍足利義尚や将軍生母の日野富子の庇護を受けて、富子に源氏物語を講じ、義尚には政道の指南にあたった。「樵談治要(ショウダンチヨウ)」という書は、義尚のために政治指導者の心得を易しく記した物だという。
また、公家や武士に対して分け隔てることなく、求める者に対して学問を教えたという。
その研究範囲は、有職故実に関するものから古典、和歌、連歌、能楽と幅広く、多くの人々に影響を与え著書を残している。
当時の人々からは、日本無双の才人と評され、自らも菅原道真以来の学者であると豪語したとも伝えられているから、自意識も相当高い人物であったらしい。
そして、歴史区分において、応仁の乱後の世情を、中国の春秋戦国期になぞらえて、「戦国」と記した最初のものは、関白近衛尚道の日記とされるが、兼良も「樵談治要」の中で同様の見方を記しているという。兼良を「戦国の名付け親」の一人として評価することに無理はないと思われる。
そして何よりも、一条兼良という人物の凄さは、その逞しさに満ち溢れた生命力にある。
波乱に満ちた時代に翻弄されながらも、その主要著書の多くは七十歳を過ぎてからなのである。また、儲けた子供の数は二十六人とも伝えられていて、七十歳を過ぎてからの子供も三人おり、最後の子供は七十五歳の時の子だという。
応仁の乱といえば、戦国時代の始まりと考えられることもあって、激しい戦い、つまり武士や豪族の台頭に注目しがちであるが、公家社会にも、一条兼良という何とも逞しい歴史上の重要人物がいたことも忘れてはなるまい。
( 完 )