『 言葉のティールーム 』 ご 案 内
言葉のティールームは、本文十二話とプロローグ・エピローグを加えた十四話から成り立っています。
それぞれが独立していて、心に残る言葉がテーマになっています。
ぜひ ご覧いただきたくご案内申し上げます。
『 言葉のティールーム 』 ご 案 内
言葉のティールームは、本文十二話とプロローグ・エピローグを加えた十四話から成り立っています。
それぞれが独立していて、心に残る言葉がテーマになっています。
ぜひ ご覧いただきたくご案内申し上げます。
目 次
プロローグ 光あれ
第一話 いまひとたびの
第二話 天上天下唯我独尊
第三話 犬も歩けば棒にあたる
第四話 権兵衛が種をまく
第五話 霧立ちのぼる
第六話 露の世
第七話 少欲知足
第八話 達磨さんが転んだ
第九話 天網恢恢粗にして漏らさず
第十話 飯と作すに足らざれば則ち粥と作す
第十一話 虎を描いて猫にも成らず
第十二話 拈華微笑
エピローグ 裏を見せ表を見せて散るもみじ
『 光あれ 』
初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵
の面にあり
神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。
「光あれ」
こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である。
これは旧約聖書の冒頭部分です。
新共同訳による聖書から引用させていただいたものですが、荘厳な言葉で天地の創造が語られ、造物主の毅然たる言葉で物語は始まります。
「光あれ」
ご承知の通り、旧約聖書はユダヤ教ならびにキリスト教の聖典であります。
古代イスラエルの人々は、神と人間との関わりについて、多くの物語や規律として伝承していましたが、それらを、ユダヤ教徒の人々が信仰のもととなる「聖なる書」としてまとめ上げたものが旧約聖書であります。
従って、ユダヤ教徒には「旧約」という観念はなく、聖書と言えば旧約聖書のことを指します。
キリスト教徒には、イエス降誕以降の新約聖書がありますが、旧約聖書もそれに先立つ大切な聖典として位置付けされております。
旧約、新約という「約」は、契約の「約」です。
旧約聖書は、神と人間との契約の書という意味であり、信仰の根幹をなすものと言えるでしょう。
そして、この膨大な書物は、単なる宗教上の指導書という範囲を超えて、神を信ずるということを知らない私などにも、多くの教えが示されております。
一方、わが国最古の歴史書は、古事記とされております。
もちろん古事記は聖典ではありませんが、神話的要素も色濃く、冒頭部分は、やはり国造りから始まります。
その成立過程には諸説があり、また描かれている多くの説話が歴史的事実か否かは別にして、実に興味深く示唆に富んだものが数多くあります。
私たちは毎日の生活のなかで、多くの言葉を見たり聞いたりします。
その殆どのものは、通り過ぎて行くだけで記憶に残るほどのこともないのですが、中には、いつまでも記憶に残り、何かの節々に浮かび上がってくるものもあります。
それは、美しい言葉であったり、力強い言葉であったり、進むべき方向を示唆してくれる言葉であったりします。
また、同じ言葉であっても、発信する人によって、あるいは受け取り手である人の心の状態によって、その意味の捉え方が大きく変わることは、よく経験するところです。
このように、言葉はまさしく生き物なのです。発信者と受信者との関係で意味さえ変わってしまうことがあるのです。
それは、書かれた言葉でも同じことが言えますし、目や耳を通しての言葉だけでなく、もっと違う形で伝えられるものであっても同じだと思うのです。
伝達手段としての言葉は、本来、発信する人と受信する人との特定の関係の間で、独自の意味を持っているものです。従って、第三者が一部の言葉を取り出して論じることは、誤解を生む危険が大いにあります。
古くから書物などで伝えられている言葉についても、同じことが言えると思います。
しかしながら、私たちが知ることのできる先人たちが残してくれた言葉の中には、限られた範囲の人々にだけではなく、現代に生きる私たちに感銘を与えてくれるものがあるのも事実です。
いわゆる名言といわれる言葉や文章などです。
それらは、優しさや、勇気や、安らぎを与えてくれ、さらに、決断や、進路や、断念を示唆してくれる力が含まれているように思うのです。
中国の大思想家である孔子は、その書の中で「巧言令色すくなし仁」と巧みな言葉に誠実さが少ないことを教えています。同時代の人で、思想的には孔子と対立する立場であった老子にも「信言は美ならず。美言は信ならず」と、同じように美言は信用できないと教えています。
偉大な二人が言われるからには、そのような面があるのでしょうし、詐欺師と呼ばれる人たちが巧みな言葉を操ることも事実でしょう。
しかし、たとえそうであるとしても、先人たちのすばらしい言葉を否定することにはならないと思うのです。
それに、巧言や美言が信用できないと諭している孔子や老子のこれらの言葉こそ、まさに私たちが大切にしたい名言だと思うのです。
私たちは、あわただしい生活の中でふと疲れのようなものを感じた時、喫茶店に立ち寄ることがあります。一杯のコーヒーが、ひとときの安らぎと気分転換の切っ掛けを与えてくれることがあります。
同じように、走り続けているような生活に小さな疑問を感じた時などには、先人たちの珠玉の言葉が、いくばくかの安らぎを与えてくれるのではないでしょうか。
コーヒーを遥かに凌ぐ香り高い言葉は、私たちに何かを語りかけてくれると思うのです。
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『 いまひとたびの 』
私は「いまひとたびの」という言葉を聞きますと、殆んど反射的に「みゆき待たなむ」という言葉を連想してしまうのです。
小倉山 峰のもみぢば 心あらば
いまひとたびの みゆき待たなむ
これは、小倉百人一首の中にある貞信公の和歌です。
私の思考が「いまひとたびの」という言葉と「みゆき待たなむ」とが結びついているのは、この和歌の影響なのです。
私が百人一首を玩具として遊び始めたのは、小学校に入学する前後のことだったと記憶しています。それはカルタとして遊ぶのではなくゲームとしての遊びでした。
まだ、太平洋戦争の敗戦直後のことで、子供が室内で遊ぶ玩具など殆んどなく、大人たちも優雅に百人一首を手にする時代が再びやってくるなど考えられなかった頃でしたから、高価なカルタを子供に玩具として与えたのだと思うのです。
私たちの仲間は、このカルタを使って色々な遊びを考え出しました。「坊主めくり」は定番みたいなものですが、他にもいくつかの遊びを教えられたり作り出したりしたのですが、殆んど忘れてしまいました。
ただ、その中に「銀行ゲーム」という何とも子供らしくない名前の遊びがあったのを覚えています。
正確な遊び方は覚えていないのですが、全部の札がお金になっていて、字札は全部一緒で一番安く、絵札にはそれぞれ値段付けがされていました。
絵札の中では坊主が一番安く、一番高いのが色のついた座敷に座っているお姫さまでした。
そして、さらにその上にオールマイティ役があって、それが「蝉丸」でした。
日本の国土は荒廃し、社会全体が荒みきった時代に、子供たちが「銀行ゲーム」などという遊びをしていたのには、どういう背景があったのでしょうか。
少し大きくなると、正月などに大人の中に入ってカルタを取ることもありました。
もちろん和歌など覚えていませんし、大人たちも下の句が読まれるまで取れない人が中心でしたから、子供たちでも得意の札を一、二枚作っているとそれだけは取れるのです。
私の得意札にこの札は入っていませんし、今では、正確な歌詞さえ記憶が怪しくなっているのです。
それなのに、小学生の頃に身についてしまった知識というものは恐いもので、「いまひとたびの」と「みゆき待たなむ」との連動はずっと続いているのです。
この和歌の正しい意味を学んだのは高校生になってからのことですが、私はそれまで、この中の「みゆき」というのが「行幸」を指しているということを知りませんでした。ずっと、「御幸」と書いて「幸せを美しくいった言葉」だと思い込んでいたのです。
この和歌の正しい意味は、「小倉山のもみじ葉よ、お前に心があるのなら、もう一度(天皇の)行幸があるまで散るのを待っておくれ」といった感じなのです。
しかし私は「小倉山の峰のもみじ葉よ、お前の力で今一度幸せにしてくれるまで待ち続けるよ」と受け取っていたのです。
私が「いまひとたびの」という言葉に強く惹かれるのは、間違った解釈から身についたというお粗末な話なのですが、「幸せを待つ」という切なさにつながることが大きな理由です。
それにしても、「いまひとたびの」という言葉は何とすばらしい言葉なのでしょう。
「もう一度こうありたい」と願う気持ちは、私たちにはよくあることです。
理解しやすく、そして切ないものです。その心根を「いまひとたびの」という言葉は見事に表現してくれていると思うのです。
この言葉の持つものと同じ心境を別の言葉で表現しようとすれば、何十字使っても果たせないと思うのです。
さらに、この言葉には現代的な感覚があると思うのです。
つい最近に作り出されたような、新鮮というか、垢ぬけたセンスというか、とても古典から学んだ言葉だとは思えない新しさが感じられるのです。
そして、小倉百人一首には、この言葉が使われている札がもう一枚あるのです。
そこで使われている「いまひとたびの」は、さらにすばらしいものなのです。
あらざらむ この世のほかの 思い出に
いまひとたびの 逢ふこともがな
こちらの方は、和泉式部の作です。
そして、「いまひとたびの」という言葉に、単なる切なさなどを遥かに超えて凄味のようなものまで持たせたのは、この和歌の影響ではないかと思っているのです。
この和歌は、もともと後拾遺和歌集にあるものですが、その詞書 (ことばがき )には「心地例ならず侍りけるころ人のもとにつかはしける」とあります。
「心地例ならず」とは重い病の状態にあることを指します。
「あらざらむ この世のほか」とは、死後の世界を表現しています。 そして、「もがな」は、受ける言葉に対する話し手の願望を表わす助詞です。
和歌の意味は「私が死んであの世に行ってしまった時のこの世の思い出とするために、もう一度だけお逢いしたいものです」という激しいものです。
平安朝を代表するというより、むしろわが国を代表するといっても過言ではない恋愛歌人の、重い病にあってもなお失わぬ情熱的な叫びが聞こえてくるような、面目躍如たる作品だと思うのです。
そして、この作品における「いまひとたびの」の持つ凄さは、後世の人に、この言葉は安易に使えないと思わせるほどの圧力を与える、迫力に満ちたものだと思うのです。
これほどすばらしい言葉なのに、この作品以降にこの言葉を詠み込んだ和歌は、現在に伝えられている著名な歌集を見る限り極めて少ないのです。
これは私の勝手な推量ですが、おそらく当時には、この言葉を詠み込んだ和歌が数多く作られたのでしょうが、和泉式部のこの和歌と比較されてしまい、後世に残れなかったのだと思っているのです。
(以後 後半へ)
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和泉式部は、平安時代を代表する歌人の一人です。
生没年は不詳ですが、西暦九百七十八年前後に誕生したという説が有力のようです。
大まかに言いますと、西暦一千年前後に活躍した人ということになります。
時は一条天皇の御代、藤原氏の最全盛期にあたります。
王朝文学が絢爛と咲き乱れる時代です。紫式部や清少納言といった、わが国の歴史全体を通しても代表される女流文学の才媛たちが競い合った時代でもあります。
和泉式部も、この時代を生きた女性でした。
後に、藤原氏の長者道長の長女である、一条天皇の中宮彰子に仕えることになりますが、ちなみに、紫式部も彰子に仕える女官の一人でしたし、清少納言は皇后の定子に仕えていました。
和泉式部は大江氏の出とされていますが、異説もあります。
出生地や晩年の消息にも諸説があり、秘密のヴェールに包まれた部分が少なくない謎多き歌人であります。
もっとも、当時の女性の伝記は男性に比べて圧倒的に少なく、彼女に限らず、平安朝の宮廷を彩った才女たちの殆んどが、正確な消息が伝えられていないのです。
和泉式部は二十歳の頃、橘道貞と結婚しました。夫は三十七歳くらいだったと考えられています。
二人にとって幸せな日々が続き、のちに小式部内侍と呼ばれる娘を設けます。
夫道貞は愛娘誕生間もない頃和泉守となり、彼女も和泉の国に下向したようですが、それほど長い期間ではなかったようです。
和泉式部という呼び名は、夫が和泉守であったことと、実父の役職からつけられたものです。
本文では和泉式部の名前で統一していますが、幼名は御許丸、女房名としても、最初は単に式部、その後に江式部、和泉式部といわれるのは和泉守になった後のことです。
それともう一つ、二人の円満な結婚生活の期間は、せいぜい四、五年に過ぎないのですが、和泉式部という名前が相当長い期間使われていたことをどう考えればよいのか、興味が尽きません。
道貞と結婚して四年ほど経った頃でしょうか、和泉式部は為尊(ためたか)親王の求愛を受けます。
為尊親王は冷泉天皇の第三皇子で、年齢は彼女と同年か少し上くらいと思われます。
文学や絵巻の世界にみられるような、宮廷を中心とした京の都の華やかな舞台の中で、為尊親王も高名な貴公子の一人であったことでしょう。
二人の出会いについては、夫の女性問題から不和となり沈んでいる時に親王が声をかけられたのだと、彼女の和歌などから推察されますが、夫がある身での恋であったことには違いありませんでした。
二人の仲は二年足らずで幕を閉じます。
親王が二十六歳の若さで病死したからです。
彼女は亡き親王を偲びつつ悲哀の日々を過ごします。
そして、十か月ばかり経った翌年の四月半ば頃に、亡き親王の弟宮、帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王の訪問を受けます。
帥宮は二十三歳、彼女より三歳ほど年下でした。
やがて二人の仲は深まり、噂は宮中じゅうに広がっていきました。
その年の十二月には、召人として帥宮邸に引き取られ、激怒した帥宮妃が実家に帰ってしまうというスキャンダルに発展します。
この時代の道徳観や貞操観念については、源氏物語などにも描かれているように現代とは同一視できませんが、当時としても大きな話題を提供するものでした。
二人は世間の非難に挑むように、大胆な行動を続けます。
そして、この、二人の出会いから翌年正月までの経過を綴ったものが「和泉式部日記」です。
二人の贈答歌を中心としたもので、女主人公を「女」という第三人称で書かれていますが、いわゆる日記というより激しい恋のドキュメンタリーといったものです。
この作品の作者を別人とする説もあるようですが、作中の贈答歌の過半が彼女の歌集に収められていることをみれば、やはりこれは、帥宮との激しくそして切ない恋愛の一端を私たちに残そうとした、彼女自身の心の叫びだと思うのです。
世間の非難と煩悩の苦しみを背負いながらも、和泉式部の最も激しい情熱の日々は、またも長くは続きませんでした。
帥宮との同棲生活は四年半ほどで儚くも終末をむかえるのです。
西暦千七年(寛弘四年)十月、帥宮が二人の間に一子を残して二十七歳の若さで病死したからです。
道ならぬ恋の償いだとしても、彼女の受けた衝撃はあまりにも大きなものでした。「和泉式部続集」に残されている亡き帥宮への挽歌が百二十首にも及んでいることは、その証左でもあります。
帥宮を喪って一年半ばかり経った頃、和泉式部は中宮彰子のもとに出仕することになります。
時の権力者藤原道長は、わが娘彰子のもとに才媛を集めていて、すでに歌人として名高い彼女を女房職に抜擢したのです。
道長は、彼女を「浮かれ女」と言ってからかったとの記録がありますが、歌人としての才能ばかりでなく、中宮に仕えるに足る女性としてその人柄を認めていたのだと思うのです。
絢爛華麗、平安王朝絶頂期の宮廷には、紫式部、清少納言、赤染衛門、伊勢大輔などの逸材が競い、さらに彼女の愛娘である小式部内侍が登場するなど、時代は女流文学の絶頂期でもありました。
やがて、和泉式部は藤原保昌と再婚します。
出仕の翌年くらいのことで、彼女が三十四歳の頃で、保昌は二十歳ほど年上でした。
保昌は家柄良く、道長の信任も厚く武勇に優れ、丹後守のあと大和守を三度務め、最後は摂津守になっています。
華やかな宮廷生活や地方長官の夫人としての生活はそれなりに充実したものであったのでしょうが、その一方で悲しい出来事が続きます。
西暦千十六年(長和五年)四月、前夫橘道貞が死去しました。
二人の離別には、おそらく複雑な原因があったのでしょう。その後激しい恋愛に生きた和泉式部でしたが、最初の夫とは、愛娘小式部内侍の養育や病気などについて相談を続けていたと思われ、埋み火のような愛情がうかがえる関係でした。
和泉式部研究の大家でもあった与謝野晶子は、「いまひとたびの 逢ふこともがな」という情熱的な訴えの相手は、初恋の相手であり最初の夫である橘道貞であろうと推定しているそうです。
もしそうだとすれば、この和歌が和泉式部の生涯にとってどのような位置を占めているのか、そしてまた、彼女の生涯というものがどういうものであったのかと、いとおしさを感じるのです。
西暦千二十五年(万寿二年)十一月、小式部内侍が死去します。
藤原公成との子供を出産した後の病のためですが、まだ二十八歳という若さでの旅立ちでありました。
恋歌の名人上手と噂され、派手な恋愛経験を持つ和泉式部ですが、小式部内侍こそが何物にも替えがたい珠玉の宝でした。
この二年後には、彼女にとっても夫保昌にとっても後見役ともいえる道長が世を去り、かつて仕えた彰子が出家しました。
和泉式部の活躍の記録が次第に消えてゆきます。
西暦千二十七年(万寿四年)九月、三条院妃の追善法会で和歌を詠進したというのが、彼女の最後の消息です。
五十歳になろうとしている頃のことでした。
夫の藤原保昌が摂津守として亡くなるのは、この九年後のことです。彼女は、それ以前に世を去ったとも、その後も生存したとも伝えられていますが、真偽のほどは不明であります。
和泉式部を語る時、まず奔放な恋愛遍歴と平安朝を代表する恋愛歌人との表現がついて回ります。本稿でもそのように紹介させていただきましたが、そのことが、彼女にとってマイナスイメージに働いているように思われます。
実際に、道長から「浮かれ女」とからかわれたり、紫式部がその著書の中で「けしからぬかたこそあれ・・・」と彼女の倫理面を責め、即興的な才能を認めながらも高く評価していないらしいことが伝えられていて、それらも彼女の人物評価に影響を与えているように思われます。
そして何より、同時代の歌人たちとの才能の優劣については意見が分かれるとしましても、彼女が類まれな美人であったことだけは確かなようです。
小野小町と並ぶ美貌の持ち主と伝えられているだけに、当時の一部の人たち、特に同世代の女性から厳しい評価が与えられるのは仕方のないことかもしれません。
しかし、後年、その内容はともかくとして、彼女を題材とした多くの物語が伝えられ、和歌においても、勅撰和歌集に合計二百四十七首採られていて、これが全女流歌人中の最高ということをみれば、実力人気とも一流であることは確かだと思うのです。
そして、伝えられる彼女に関する膨大な資料のごく一部を垣間見れば、情の深さが単に恋愛感情だけのものでないことが分かると思うのです。父や妹に対して、特に娘に対する熱い心を思えば、接するすべての人に対する深い愛情が感じられます。
私たちは、どうしても華やかな宮廷生活や恋愛遍歴に目が向いてしまいますが、悲しみ多い人生を背負っていたことを見落としては本当の彼女の姿を見失うのではないでしょうか。
しかしながら、その深い悲しみや道ならぬ恋に苦しむ時にこそ、彼女の姿が最も輝き千年の時を超えて私たちに感動を与えてくれるのも事実です。それは、美貌の天才歌人であるがゆえの宿命のようなものなのでしょうか。
最後に、華やかで情熱的な舞台を演じ切り、舞台の袖では悲しみや切なさを噛みしめていた和泉式部という大歌人の心境の一端を偲ぶよすがとして和歌三首を引用しました。
黒髪の 乱れも知らず うち伏せば
まづ掻きやりし 人ぞ恋しき
くらきより くらき道にぞ 入りぬべき
はるかに照らせ 山の端の月
とどめおきて たれを哀れと 思ひけん
子はまさるらん 子はまさりけれ
さて、私たちは「いまひとたびの」という願いを、どのような場面で使うのでしょうか。
実生活においてこの言葉を使う時、叶えられる可能性のある場面での使用と、絶対に叶えられない場面での使用が考えられます。
それぞれの場面によって、この言葉は大きく姿を変えます。
あなたにとっての「いまひとたびの」が、叶えられる場面であることを願うばかりです。
そして、和泉式部のこの絶唱にめぐりあってしまった以上「いまひとたびの」という言葉を、実生活であれ創作の場であれ軽々しく用いることに躊躇してしまうわけですが、いつか、誰かが、この和歌を超える場面でこの言葉を生かすことが、先人への恩返しだとも思うのです。
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『天上天下唯我独尊』
「てんじょうてんげ ゆいがどくそん」と読みます。
この言葉は、お釈迦さまがお生まれになった時、片方の手で天を指し、もう一方の手は地を指して、七歩進んでから四方を顧みて発したという言葉です。
事実か創作されたものかはともかくとしまして、お釈迦さまがこの世に生を受けて最初に発したとされる言葉ですから、私たちへの何か大切なメッセージが含まれているように思うのです。
日常の会話の中で、この言葉をそのまま使うことはあまりないと思いますが、「唯我独尊」という言葉は時々耳にすることがあります。
しかし、その場合、お釈迦さまの言葉に源を発しているなどという認識はなく、むしろ憎々しげに使うことが多いのではないでしょうか。
因みに「唯我独尊」という言葉を広辞苑で調べてみますと、天上天下唯我独尊の略ということの他に、「世の中で自分一人だけがすぐれているとすること」と「ひとりよがり」が記載されています。
私たちが日常生活で使う場合は「ひとりよがり」といった意味で使うのが殆んどではないでしょうか。
当然、ほめたり尊敬したりする場合に使われることは、まずありません。けなしたり、皮肉をこめて言う場合に使われるのが、殆んどだと思われます。
それにしても、赤ちゃんの第一声と言えば「オギャア」が通り相場だと思うのですが、いきなり「天上天下唯我独尊」などと言われたお釈迦さまの真意は何だったのでしょうか。
言葉そのものの意味は、全宇宙の中で自分だけが尊いのだ、ということでいいと思うのですが、宗教的な立場は別にして、現在の私たちからすれば、「お釈迦さまがおっしゃる分には文句をつけるわけにもいかないなあ」という感じですが、本人の口からは聞きたくない内容だと思われませんか。
しかも、若造という言葉さえ当てはまらない、生まれたばかりの赤ちゃんに「天上天下唯我独尊」などと言われたのでは、居合わせた人たちは、驚きはしたでしょうが、感心するより小癪な奴めという気持ちの方が強かったのではないか、と思ってしまうのです。
それでは、お釈迦さまは何故この言葉を誕生第一声とされたのでしょうか。
もちろん言葉の意味するところは凡人の及ばぬ次元のものなのでしょうが、解説書などによれば、この世の中に存在するものは全てが尊いものだ、といった意味のようです。そして、お釈迦さまは、尊い存在であるすべてのものを我が手で救おうと決意表明されたのだそうです。
つまり、お釈迦さまは、私たち一人一人も、その尊い存在の中に入っているのだと認めてくださったということであり、だから、それぞれが自分自身を大切にしなければならない、と教えられたということだと思うのです。
「自分自身を大切にしなさい」という教えは、私たちにとって何の拒絶反応も起きないものです。分かりやすく、よく耳にする教えです。
同時に、おそらく古くから伝えられている教えだからでしょうか、「よく聞く話の類」という感じがする教えでもあるようにも思うのです。
「親からもらった五体を大切にしなさい」とか、「もっと自分を大切にしなさい」などは、たいていの人が一度や二度は言ったり言われたりした言葉ではないでしょうか。
手紙の末尾に書く「時節柄ご自愛ください」などは定番みたいなものですし、何かのキャンぺーンで「あなたを護るのは、あなた自身です」と呼びかけるものがあったようにも記憶しています。この他にも、同意語と言いますか同じように自分自身を大切にするようにという言葉や教訓は少なくありまん。
しかし、どうでしょうか。この類の教えは、一流の部類に入っているのでしょうか。
教えに一流とか二流とかいうのも変ですが、例えば色紙などに書く時や、挨拶や訓話などに取り入れる場合のことを考えてみますと、どうもトップクラスに入るとは思えないのです。
これらの言葉を見たり聞いたりした時、私たちはどれほどの説得力や感動を受けるでしょうか。私には、むしろ陳腐な言葉の部類のような気さえするのです。
もっとも、この意見は何かのデーターに基づいているわけではなく、単なる個人的な感覚だけで言っているに過ぎません。それに、教訓などというものは極めて限定的な間でこそ輝きを増すものともいえますから、無責任に一流とか二流とか決めるのはとんでもないことだということも承知しています。
しかし、それでもなお私は「自分自身を大切にしなさい」という教えに、重みのようなものが感じられないのです。
例えば、先に書きました「時節柄ご自愛ください」などは、単なる挨拶としての慣用語のようなもので、手紙の締めくくりとしてはまことに重宝するフレーズですが、真剣に相手の自愛を願って書くのはごく限られた条件の時だけだと思うのです。
どうも、くどくどと文句をつけてしまいましたが、決してこれらの言葉に恨みがあるわけではありませので、念のために。
お釈迦さまは、今からおよそ二千五百年前に誕生しました。
ソクラテスやプラトン、孔子や老子などと大体同じ時代の人です。わが国でいえば、聖徳太子より千年余り古い時代の人ということになります。
インドのヒマラヤ南麓にあるカピラ城で、釈迦族の王子として誕生しました。
本名は、姓がゴータマ、名がシッダールタといいます。
誕生一週間で母を亡くすという不幸にあいますが、裕福な王子として何不自由なく育ち、やがて妃を迎え子供にも恵まれました。
王様の後継者として一見幸福な日を過ごしていましたが、二十九歳の時に突然家を出ます。
その原因やその後の修業の様子などは私などの受け売りの知識を披露しても仕方がありませんので割愛させていただきますが、三十五歳の時に悟りを開いたとされています。
そして、八十歳で亡くなられるまで多くの人々に教えを伝えていきます。
現在まで伝えられている聖者の数だけでも少なくありませんが、お釈迦さまの説教には毎回千人を超える人々が集まったそうですから、四十五年の間に直接教えを受けた人の数は膨大なものと推定できます。
そして、お釈迦さまが亡くなられたあと、高弟たちが集まって各人が師匠から直伝されたものや大衆に対して説法された教えなどを持ち寄ったものを、整理し編集していったものが今日に伝えられる「お経」です。
現在、日本に伝えられているお経の数は、千四百余部という膨大なものだそうです。さらに、お釈迦さまの教えということになりますと、文字や言葉では表現できないものもありますでしょうし、それらも延々と伝えられているわけですから、すべて合わせると気が遠くなるような量になります。
その中には誤って伝えられているものも少なくないと思われます。単純なミスからくる間違いもあれば、故意に作られた偽物もあるでしょう。言語の壁や風土や文化や民族性などによる微妙なずれも考えられます。
また、お釈迦さまの教えを正しく伝えられる人物となれば、いくら高弟だといっても全員がそれだけの能力を有していたかどうか疑問です。
善意、悪意が入り混じって、お釈迦さまの教えが歪んで伝えられている部分がある可能性は十分にあります。
その一方で、お釈迦さまほどの方ですから、間違った教えや偽物が二千五百年後の私たちに伝えられることぐらいは承知されていて、それらに何らかの対策を忍ばせてくれているようにも思うのです。
ともあれ、お釈迦さまが私たちに残された教えは限りなく膨大で、私たちは単に宗教的な立場に限ることなく恩恵を受けているはずです。
そして、その限りない教えの中で、私たちに最初に示されたメッセージが「天上天下唯我独尊」だということなのです。
この教えは、誕生の時に単に産声のように発せられたわけではなく、その後の多くの説法の中でも説かれているのです。
お釈迦さまは機会あるごと、
「あなたがこの世で最も尊い存在であるのと同じように、すべての存在があなたと同じように、かけがえのない大切な存在なのですよ」
と続けられているのです。
私たちは、自分自身が尊い存在だとはなかなか実感できないのですが、せっかく巡り合ったお釈迦さまの最初の教えをよく噛みしめて、自分自身や周りの人たちをもう少し大切にする必要があるように思うのです。
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『 犬も歩けば棒にあたる 』
最近の子供たちは「いろはカルタ」で遊ぶことなどあるのでしょうか。
コンピューターゲームが年々高度化され、大人がとてもついていけないレベルのものを小学生が軽々と挑戦しています。
ゲームとしてのスリルや複雑さは「いろはカルタ」など足もとにも及びません。それでも、幼い子供の場合はお正月などに少しは触れているのでしょうか。
もっとも、何十年も前に幼年期を終えた私などでも「いろはカルタ」で遊んだという記憶はそれほど残っていません。たいていの家には一組ぐらいは持っていたようですし、雑誌の付録などにもあったような記憶があります。
おそらく、子供といっても、「いろはカルタ」で遊ぶのは、親とか兄や姉に遊んでもらう年代のようです。
私のおぼろげな記憶でも、子供たちだけで遊ぶようになると、もう「いろはカルタ」は卒業していたように思うのです。
ところが、誰かに遊んでもらっていた頃の私は、ひらがなが満足に書けなかったと思うのです。小学校に入学した時、何とか自分の名前だけは書ける程度だったのですが、私が特別劣っていたということではなく、その頃はそれで平均程度だったのです。
もちろん、書けることと読めることとは時間差がありますから、「いろはカルタ」で遊ぶ程度には読めていたのかもしれません。
それにしても、その程度の力で覚えたカルタの内容を、今でもかなり克明に覚えているのですから、幼年期の記憶力というものは凄いものだと思います。
い・・・犬も歩けば 棒にあたる
ろ・・・論より証拠
は・・・花よりだんご
に・・・憎まれっ子 世にはばかる
ほ・・・骨折り損の くたびれ儲け
と・・・年寄りの冷や水
このように、今でも少し考えるだけで次々と浮かんできます。
それも言葉だけでなく、絵札に書かれていた構図がおぼろげにですが思い出されるものが少なくありません。
札に書かれている言葉は、地方によって少しずつ違うようですが、いずれも「ことわざ」と呼ばれるような内容のものばかりです。
「いろはカルタ」が、どのような過程を経て幼い子供たちの遊び道具になったのか調べたことがないのですが、どう考えても最初はもっと年齢の高い人のためのものだったのが、内容を変えないまま幼い子供用になったように思われるのです。
それにしても、せいぜい小学校の低学年くらいまでの子供が遊ぶにしては、難しい内容だとは思いませんか。
先に書きました七句をみましても、子供には荷の重い内容です。
例えば、「論より証拠」などという言葉を子供たちはどのように受け取っているのでしょうか。
「憎まれっ子 世にはばかる」などは川柳にしたいような皮肉を感じますし、「骨折り損の くたびれ儲け」となれば、子供たちにはあまり覚えてもらいたくないような教訓だと思うのです。
さらに「年寄りの冷や水」となれば、今では大人でも意味がよく分かりません。
この他のものを思い浮かべましても、味わい深いというか、意味深長というか、いずれも言葉が持つ表面的な意味だけで理解してはいけないようなものばかりなのです。
もう少し例をあげてみましょう。
「われ鍋に とじ蓋」というのがありますが、最近はあまり使われなくなったことわざだと思います。どんな人にも釣り合う配偶者はいるものだ、あるいは、配偶者は釣り合いのとれる人がよい、といった意味ですが、これなどは、人生の酸いも甘いも知りつくした人だけが言える言葉のように思うのです。
「頭隠して 尻隠さず」なども面白い句ですが、実生活のいろいろな場面に当てはめて考えますと、可笑しいという句ではないと思えてくるのです。
私たちは生きてゆくうえで、頭だけを隠して難局を凌いだ経験が誰にでも一度や二度はあるのではないでしょうか。
私自身のことを考えてみましても、これまでの生活の中で意識的であったものだけでも、嘘をついたり隠しごとをすることでピンチを逃れたことが何度もありました。そのたびに、嘘も方便とか、社会生活上の必要悪だとか、潤滑油として必要なのだとか、いろいろ理由をつけて自分自身を納得させてきました。
さらに、自己認識さえないままに小細工したこととなりますと、数え切れないほどになるように思うのです。生きてゆくことに精一杯だったとしても、今になって考えてみますと、その多くが「頭隠して 尻隠さず」であったように思うのです。
賢く立ち回ったように思っていたことが、心ある人からみれば、頭だけ隠して事足れりと、こそこそ動き回っている姿に見えていたのだと思えてなりません。いまさら修正することなどできませんが、ほろ苦い塊となって心の奥に澱んでいます。
さて、前置きが長くなりましたが本題に戻りましょう。
「犬も歩けば 棒にあたる」という掲題の句は、「いろは」の最初にあたることや親しみやすい題材であることから、「いろはカルタ」の中で一番知られているものではないでしょうか。
この句、というよりことわざという方が適切だと思うのですが、このことわざは二つの意味を持っているようです。
一つは、出しゃばると禍に合う、物事を行う人は時には禍に合うことがある、といった意味です。もう一つは、動けば思わぬ幸運に合うこともある、といった意味です。
中には、行動すると禍に合うこともあるし幸いに合うこともある、というように両方の意味を持たせて説明している本もありました。
広辞苑には、禍にあうという方が本来の意味と思われるが、幸運にあうという意味の方の解釈が広く行われる、とあります。
あなたは、このことわざに対して直観的にどちらだと感じますか。
いえ、その答えによって性格占いができるわけではありません。
歩いている犬の様子や、見ている人の心理状態によってこの言葉の意味が変わるのではないかと思うのですが、殆どの人は最初に覚えたものが身についてしまっているようです。
ことわざに限らず、幼い頃に覚えたことはいつまでも残るもののようです。
実は、私たちがこのことわざから学ばねばならないことは、「禍に出合う」と「幸運に出合う」という正反対の意味を持っているということだと思うのです。
「犬が歩く」というありふれた光景に対して、私たちは、人ごとに全く異なる意味を感じ取っているのです。
私たちの日常には、自分の思いや苦労がうまく伝わらないことの繰り返しのように思う時があります。努力や誠意が報われないことに苛立つことも少なくありません。
しかし、私たちは、一人一人が異なった価値観を持って生きているのだとすれば、思いや願いがストレートに伝わらないのが普通だということではないでしょうか。
犬が歩いている姿を見ても、受け取り方が二分されるのが人間というものなのですから。
どうやら「いろはカルタ」は、人生の過半を生き、何度かの失意や絶望を経験し、裏切ったり裏切られたりの泥を被ったあとで、しみじみと味わってみるもののようです。
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『権兵衛が種をまく 』
�♪�� ゴンベが 種まきゃ からすが ほじくる・・・
あなたは、このような唄を聞いたことがありませんか。
少し前のことになりますが、私は突然のように、この唄、というよりこの言葉の部分が思い浮かんで、無意識のうちに口ずさんでいることがよくありました。
声に出すというほどのことはないのですが、気がつくと、緊張すべき状況なのに周囲の雰囲気とは不似合なこの唄を心の中で口ずさんでいるのです。
その頃は、精神的に少々苦しい時でしたので、自分の気持ちを安定させるために本能的な何かが働いて、荒んだ気持ちを和らげてくれているのだと思っていました。
確かに、崩れそうな精神面を安定させてくれる働きのようなものがあったようにも思うのですが、それが、なぜ「ゴンベが 種まきゃ・・・」なのかということが気にかかっていました。
この唄について特別な思い出もありませんし、正式な形で歌った記憶もないのです。
そのような状態がしばらく続き、ある期間この唄に助けられていたのだと思うのですが、この唄が登場してきた謎は今も解けておりません。
やがて、いつの間にか「ゴンベが 種まきゃ」を口ずさむようなことはなくなりましたが、この唄のことは気になっていました。
そこで、少し調べてみようと思い二か所の図書館で参考になる本を探したのですが、作者や出典について書かれている資料を見つけることができませんでした。
断片的に書かれているものから推定しますと、どうやら、古くから俗謡のような形で伝えられたものらしいのです。
私はそれらしい節も分かっていますし、ラジオかテレビで歌われているのを聞いたことがあるような記憶もあるのです。ですから、もしかすると作者がはっきりしているのかもしれませんが、ここでは「読み人知らず」ということで紹介させていただきます。
ところで、この唄の次の文句をご存知ですか。
私は何人かの知人に同じ質問をしてみました。結果は一人も知りませんでした。中年以上の方の多くは聞いたことのある唄だと思うのですが、殆どの人が次の句を知らないようです。
私も二十年ほど前に何かの小冊子で読む機会があって知ったのです。
次の文句は、「三度に一度は 追わねばなるまい」と続くのです。
これは大分前のことになりますが、父親のイメージを漢字一字で表わすと、「優」とか「働」とかが上位にくるという新聞記事がありました。
ある保険会社の調査だったと覚えているのですが、頑固の「頑」や雷親父の「雷」などは、あまり上位にはこないようです。
これらの文字が日常生活で使われる機会が少ないためかもしれませんが、やはり、よく言われるように、父親像というか、男の持つイメージが昭和初期頃までとは変化しているのも確かなのでしょう。
そして、その傾向は現在も続いているように思われます。
選ばれた文字のうち、「優」は優秀という意味ではなく優しいという意味として選ばれているようですが、それは額面通り優しいということではなく、柔弱というイメージであり優柔不断ということに連動されているように思うのです。
中国の思想家である老子は柔弱であることが最も大切だと説いていますが、私たちの日常生活ではあまり良い意味では使われません。
それでは「働」は、どのような姿としてイメージされているのでしょうか。
どうも、額に汗して働く姿というイメージではないような気がします。
若干個人的なひがみがあるかもしれませんが、「馬車馬のように働く」とか「理不尽なことにも必死に耐え忍ぶ会社人間」などといった姿を表現しているように思えてならないのです。
しかし、どうでしょうか、父親のイメージ、「優」とか「働」でいいじゃないですか。
いえ、決して投げやりな意味ではなく、もっと積極的な意味で、これらの言葉を親父を表現する言葉として受け止めていいのではないでしょうか。
私はサラリーマンとしての生活が長く、極めて限定的な経験でしかお話しできませんが、平均的なサラリーマンの「働」がそれほど楽なものでないことだけは断言できると思います。
決して辛いことばかりではありませんが、組織の中での苦労も少なくなく、耐えたり、乗り越えたり、挫折してしまったり、それでもなお家族の生活を背負っていこうと頑張っている姿を思い浮かべます。
会社を通じて得ることができる人間関係が、かつての戦友につながるものなのかどうかは分かりませんが、苦しい時に職場を同じくした人のことはいつまでも心に残り、交際が長く続くことも多いようです。その一方で、組織を離れれば絶対に会いたくないという人物がいることも事実のようです。
裏切られた、足を引っ張られた、成果を横取りされた、などという恨みの一つや二つは誰でも持っているのではないでしょうか。
さて、そこで、権兵衛さんの登場です。
♪ ゴンベが 種まきゃ からすが ほじくる
三度に一度は 追わねばなるまい
この唄といいますか、この言葉をテーマに選びましたのは、この言葉が実に見事にサラリーマンの不満や悩みに対して答えてくれていると興味を持ったからです。
ある時期、私の心に浮かんでいた権兵衛さんが、このような教えを伝えようとしてくれていたのかどうかは分からないままなのですが・・・。
「権兵衛が 種まきゃ からすが ほじくる」という言葉は広辞苑にも載っていて、「愚かしい無駄骨折りをするたとえ」と説明されています。また、ことわざ辞典のようなものには「人のやったことを、あとからぶち壊しにするたとえ」とか「ばかばかしい無駄骨仕事のたとえ」などと説明されていました。
この言葉は、唄というよりことわざの範疇に入るのかもしれません。ただ、私が調べた範囲では下の句の「三度に一度は 追わねばなるまい」について説明されているものは見つけられませんでした。
ここに登場してくる権兵衛さんというのは、お百姓さんのことです。
と言っても、単に農民ということではなく、働く者の代表という意味です。この言葉が作られた頃の働く者の代表が農民であり、権兵衛さんだったのです。
すなわち、現在でいえばサラリーマンということになります。
種をまくというのは、仕事をするということです。
それも単純な労働というより、将来の成果を考えて仕事を進めるということ、プロジェクトとまではいかなくとも、ある程度の計画や段取りを考えて進める仕事ということになります。
そして、からすです。
からすとは、ライパル会社であったり、同僚であったり、調子だけ良い上司だったりします。
彼らは、権兵衛さんが丁寧に耕し、種をまき、水や肥料をやり、収穫を楽しみに畑を離れるのを待って、ほじくり返します。
畑は荒らされ、種は食べられてしまいます。
それどころか、種をせっせと自分の山へ運んでいくからすもいます。
さらに驚くことには、さんざ畑をほじくり返したうえで、これだけほじくり返したのだから、この畑は自分の畑だと言い張るからすさえいます。
権兵衛さんの苦労がよく分かります。
権兵衛さんの無念さは、サラリーマンがたびたび味わう無念さと同じだと思われてなりません。
しかし、私たちが学ばねばならない大切な教訓は、下の句ではないでしょうか。
そうです、権兵衛さんは「三度に一度は 追わねばなるまい」と言っているのです。
人の良い権兵衛さんですが、いつもいつもからすの勝手にさせておくわけにはいきません。三度に一度は追い払ったのです。
私たち平均的なサラリーマンも、いつもいつもお人好しでいるのではなく、三度に一度は自己主張すべきなのです。
しかし、権兵衛さんがからすを追い払うのは、三度に一度なのです。
すなわち、あとの二度は、自分の努力はからすたちに取られるものだと達観しているのです。
サラリーマンの相手は、からすではなく人間です。
困ったことに、人間は自分に優しく他人に厳しい動物です。
最初から人の成果を掠め取ろうと考えている人は多くはないでしょうが、結果として、他人が得るべき成果を自分の手中にして何食わぬ顔をしている例は少なくありません。
また、私たち自身が、掠め取る立場に立っていることも少なくないはずです。さらに困ったことに、自分自身にその認識さえ無いことが多いということです。
私たちは、自分が努力をした結果に生まれてくるものは、三つのうちの二つまでは他人のもとへ行くものだと考えておくことが必要なのではないでしょうか。
確かに悔しい思いは避けられないでしょうが、自己主張するのは三度に一度くらいがいいところと覚悟していれば、腹が立つことも少なくなります。
それが、優しさというものではないでしょうか。
世の親父諸兄殿。「優」と「働」で結構、この二つをもっと強くイメージさせる男になろうではありませんか。
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『 霧立ちのぼる 』
むらさめの つゆもまだひぬ 槇の葉に
霧立ちのぼる 秋の夕暮
今回のテーマ「霧立ちのぼる」は、この和歌から引用したものです。
第一話に続き小倉百人一首からの引用ですが、新古今集に登場しているなじみ深い作品です。
作者の寂蓮法師は、鎌倉初期に活躍した歌人です。
生年は未詳ですが西暦千百三十九年という説があります。没年は千二百二年ということですから、平安末期から鎌倉初期の人ということになります。
父は醍醐寺の僧阿闍梨俊海、母は未詳、俗名は藤原定長といいました。
叔父にあたる藤原俊成の養子となり、その後出家しました。
新古今集の撰者にも選ばれていましたが、編纂が進む前に死去しました。このことからも、当時すでに一流の歌人として認められていたことが分かります。
また、義父となった藤原俊成の実子には定家がおります。新古今集の撰者であり小倉百人一首の選者とされている、あの藤原定家です。
従って、寂蓮と定家は血筋としては従兄にあたり、社会的には義理の兄弟ということになります。
今回のテーマ「霧立ちのぼる」という言葉は、情景を素朴に表現しているといえますが、この和歌全体をゆったりとした大きなものにしているのは、この言葉の力だと思われます。
私は短歌を勉強しておりませんし、古典といわれる和歌集を見るのも気まぐれに眺める程度です。
それでも、若い頃の影響や先入観というものは恐いもので、私の場合も高校時代に学んだある先生の影響を受けていて、「和歌の本当のすばらしさを勉強するのなら絶対に万葉集だ」という一言がずっと残っているのです。
その先生とは、ごく短い期間国語の授業を受けただけの関係で、それ以上に親しくしていただいたわけでもないですし特別に尊敬するものを感じたわけでもありません。
それでいて、その先生が言われた「万葉集が一番で、古今集はずっと見劣りする。新古今集などさらに駄目だ」という話が頭のどこかに残っていて、古典の勉強のまねごとをするようになっても、万葉集が一番良いという先入観をずっと引きずっているようでした。
このような潜在意識を持ち続けていた私は、ある資料を調べる過程で新古今集を少々詳しく見る機会がありました。
そして、その時、目的の資料は見つけることができなかったのですが、言葉の持つ美しさとか強さといったものに興味を感じ、いつの間にかそのような言葉を探すのに熱中してしまいました。
言葉や文章は、その組み合わせや使われる場所などによって、ある一つの光景や感動となって私たちの心に伝わってきます。
しかし、そのような意味や理屈ではなく、言葉そのものが持つ表情のようなものが、伝達手段としての文字の持つ意味とは違う形で私たちに語りかけてくることがある、と気付きました。
例えば、枕詞などはその最たるものだと思うのです。
「あおによし」というのは、奈良にかかる枕詞ですが、辞書を引いてみますと、「奈良で顔料などに用いる青丹(あおに)が産出されたことから生まれた枕詞」と説明されています。しかし、私たちがこの言葉を見たり聞いたりする時、そのような説明は全く必要ないように思われるのです。
本来の意味など知らなくても、「あおによし」という言葉の響きそのものが一つの表情を持って伝わってくるのではないでしょうか。
もちろん、長い年月と多くの人々によって磨きあげられてきたからだと思うのですが、言葉そのものにオーラのようなものが備わっているように感じられるのです。
枕詞とされている言葉はたくさんありますが、もともとは枕詞として登場したということではなく、次の言葉を強調する役目として使われたのだと思うのです。その時には、言葉の本来の意味も重視されていたと思うのです。
そして、説明役あるいは引立て役として登場した言葉のうち、自らオーラのようなものを持つ力強いものだけが、枕詞として定着したのではないでしょうか。
そして、そういう感覚で新古今集を読んでいきますと、輝いているような言葉を持っている和歌がたくさんあるのです。
それらは、本来の意味を伝えるだけにとどまらず、ある種の光を放っているようにも感じるのです。
今回のテーマ「霧立ちのぼる」も、まさにそのような力を持った言葉だと思うのです。
和歌の意味は、あまり余分な推察をしないで、雨上がりの秋の夕暮のやわらかな自然を詠んだもの、ということでいいと思います。
「霧立ちのぼる」という言葉も、その言葉通り墨絵を連想させるような状況を表す重要な役目を担っています。
しかし、どうでしょうか。この和歌の内容がそれほど多くの人を感動させるものなのでしょうか。ゆったりとした光景が見事に描写されていることは認めるとしましても、それ以上の何物でもないような気がするのです。
しかし、古来、この和歌に対する評価は極めて高いようなのです。
その秘密は「霧立ちのぼる」という言葉の力にあると思えてならないのです。
もし、この部分に別の言葉が用いられていたら、おそらく平凡な和歌として消えていっていたのではないでしょうか。
私は「霧立ちのぼる」という言葉が、他の和歌ではどのように使われているのか調べてみたくなりました。
言葉は使われる場所や方法によってさまざまな姿を見せますが、すばらしい使われ方をされることで輝きを増し、輝きを増すことでその言葉に魅せられる人の数が増え、多くの人々がさらにすばらしい使い方を模索するのではないでしょうか。
言葉というものは、このような過程を経て成長して行くのだと思うのですが、反対に、使われない言葉は輝きを失い、やがて消えてしまうか、消えないまでも単なる伝達手段以上には登場する機会はなくなってしまいます。
私は「霧立ちのぼる」という言葉が、自然の表現を超えるような場所で使えるものなのか、あるいは、この和歌を超えるような自然描写の使い方などあるのだろうか、などと思いながら何冊かの和歌集や解説書などを読みました。
そして、その結果分かったことは、この言葉が制詞とされていて他には利用されていないらしいということでした。
制詞(せいし・せいのことば)というものをこの時まで私は知らなかったのですが、使ってはならない言葉が定められていたようなのです。
もともとは、表現が見苦しいとか意味を間違えて使われている、といったようなものを禁制の詞としたようです。
その後、大変すぐれた表現として使われた言葉を、言葉の創設者を尊重して模倣を禁じたものが加えられました。
そのような秀逸の言葉は、主ある詞(ぬしあることば)ともいわれて、使用しないというルールが定められました。
制詞は、俊成・定家・為家ら代々の和歌の宗匠たちが個別に定めていましたが、明確に規制した最初のものは藤原為家の歌論書「詠歌一体」で、かなりの制詞が示されているそうです。
私はその内容を知らないのですが、都を中心とした歌人たちの間では概ね厳守されたようなのです。
「霧立ちのぼる」も前例のないすばらしい表現として、主ある詞とされました。従って、制詞というものが守られていたとすれば、少なくとも中世後半の名のある歌人には、この言葉を使った作品はないということになります。
言ってみれば、プロ野球などにおける背番号の永久欠番みたいなものです。
私は少々向きになって「霧立ちのぼる」という言葉を使った和歌を探してみました。
もっとも私が調査すると言いましても、図書館にある有名な和歌集をざっと調べる程度ですので、その点は承知していただきたいのですが・・・。
その頼りない調査の過程で、何んとも虚しい気がしました。
やはり、この言葉が使われている和歌は見当たらず、制詞というものが当時かなり厳格に守られていたようなのです。
そのため、折角のこのすばらしい言葉は使用制限をかけられてしまったのです。
それでも、万葉集の中に次のような歌がありました。
あまのかわ 霧立ちのぼる 織女(たなばた)の
雲衣(くものころも)の 飄(かへ)る袖かも
巻十・作者不明の七夕歌の一つです。
歌の意味は、「天の川に霧が立ちのぼっている。あれは織姫が着ている雲の衣の袖が、ひるがえっているのだろうか」といった感じです。
この歌の中の「霧立ちのぼる」も、力強い使われ方をしています。
寂蓮法師とは違う、スケールの大きな場面での登場です。私の期待以上のすばらしい使われ方です。
紛れもなく「霧立ちのぼる」と雄大に詠んでいるこの歌は、寂蓮法師より遥かに古い時代に作られているのです。
この言葉そのものは、何も寂蓮法師の発明品ではなかったのです。
彼が他の追随を許さないほどすばらしい場面で使ったことは確かでしょうが、その遥か古い時代に、生き生きとした姿を見せていたのです。
この言葉を束縛してはいけなかったのです。
そして、さらに続きがあるのです。
第十番目の勅撰集である「続後撰和歌集」の巻第五・秋歌上に人麿の歌として、次の和歌が入っているのです。
天の河 霧たちわたる たなばたの
くもの衣の かへるそでかも
これは、明らかに改作されたものです。
作者名を人麿としたことは置くとしまして、「霧立ちのぼる」を「霧たちわたる」としたのは、悪意の改作としか考えられません。
万葉集で使われている万葉仮名で比べてみますと、
「霧立ちのぼる」は「霧立上」であり、
「霧たちわたる」は「霧立度」なのです。
そして、「霧立度」は、複数使われているありふれた表現なのです。
天皇とか上皇とかの命令で成される勅撰集の中で、これほど単純で、しかも重大な間違いを犯すなど考えられません。明らかに撰者が「制詞」に縛られて、意識的に改作したのです。
改作により、スケールの大きな七夕歌を台無しにしてしまったのです。
しかも、この勅撰集の下命者は後嵯峨院ですが、撰者は藤原為家なのです。
現在でも、著作権とか特許権とか商標権など、発案者の権利を守る制度がたくさんあります。最近でいえば、メールアドレスなどでも登録者をめぐる問題が話題になりました。
それぞれに大きな利得が結びつくのでしょうし、長年の努力や研究の結果に対する保護が大切なことは当然のことでしょう。
しかし、立派な発案や研究の成果であればあるほど、一般に公開され多くの人に磨かれることで一層の輝きを増すということも、あるのではないでしょうか。
私は「霧立ちのぼる」という言葉の魅力に強く惹かれるとともに、この言葉の不運を感じてならないのです。
理不尽な束縛を受けたことに、寂蓮法師に責任があるわけではありませんし、いわんや「霧立ちのぼる」という言葉に罪があるわけがありません。
ただ、さらに大きく飛躍し輝きを増したかもしれないチャンスを制限されたことが、残念でならないのです。
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『 露の世 』
露の世は 露の世ながら さりながら
この句は、小林一茶の作品です。
一茶は俳人として極めて著名な存在ですが、あなたは、小林一茶という人物に対してどのようなイメージを持っていますでしょうか。
一茶は類い稀な多作家で、現在に伝えられている俳句だけでも二万句に及ぶそうです。
その中から代表作を数句選ぶというのは至難なことですが、私が描いていた一茶像を表現するという基準で選んでみますと、次のようになりました。
我と来て 遊べや親の ない雀
雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る
是がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺
やれ打な 蠅が手をすり 足をする
名月を 取てくれろと なく子哉
目出度さも ちう位也 おらが春
どうでしょうか。あなたが描いている一茶像を表現しているでしょうか。
代表作を選ぶという観点から見れば多々異論があるでしょうが、よく知られているということでは、どの句も上位にランクされるものだと思います。
そして、これらの句に込められているようなイメージが、一般に知られている一茶の人柄というか、人物像といったものを浮かび上がらせているのではないでしょうか。
私が一茶について調べてみたいと思った切っ掛けは、一茶の作品の中には、少しばかりふざけ過ぎだと思われるものや、下品過ぎると思われるものがみられるのが不思議に思えたことからです。
それまでの一茶に対する私のイメージは、雪深い田舎の貧しい生活の中で、小動物に対してもいたわりの心で接する優しい人物、として受け取っていました。
もっとも、その根拠になる知識は、子供の頃教科書か何かで知った幾つかの俳句やその解説などで、それらをもとに自分の中で勝手に育てていたものですが。
それが、最近になって一茶の作品集を見る機会があったのですが、その中の幾つかの句が、素朴というより下品と感じられるものでした。
一茶は何故このような作品を残したのか気にかかり、少しばかり勉強しました。そして分かったことは、一茶という人物が、私が勝手に描いていたイメージとは違う凄まじい人生を送っていて、僅かな勉強を通じてですが、その生きざまの一端を感じ取ることができたように思い、ここに紹介させていただきました。
当時の俳諧師と呼ばれる人たちが、どのような生活をしていたのかあまり勉強していないのですが、俳諧師に限らず、江戸時代中期、芸術に生きた人々の生活が経済的に厳しいものだったことは十分想像できることです。
一茶の人生もまた、経済的に苦しく、そして重く悲しいものだったのです。
小林一茶は、西暦千七百六十三年(宝暦十三年)北信濃の柏原で生まれました。本名は弥太郎、現在の長野県にあたる北国街道の宿場町での誕生でした。
父弥五兵衛は農民です。農地を所有する本百姓であり宿場の役もしていましたので、生活程度は中の上か、もう少し裕福であったと考えられます。
母くには、近郷の庄屋の娘でした。母方の実家もそれほど貧しい家ではなかったと思われます。
弥太郎は、この両親のもとに誕生したのですが、経済面でみる限り、当時の庶民としては恵まれた家庭環境だったと考えられます。
弥太郎、後の一茶にとって、不遇の人生の始まりは母の死でありました。
弥太郎三歳、母の死の意味さえも理解することができない、早い別れでした。
その後、弥太郎が八歳の時に父が後妻を迎え、その二年後に、後年父の遺産を争うことになる義理の弟が誕生しました。
継母は性格のきつい人だったようですが、一茶が強く訴える継子の悲哀は、相続問題が表面化してからより激しくなっているようなので、一方的に継母側に非があるというのは公平でないように思われます。
しかし、そうだとしても、三歳で実母を亡くし、さらに継母に男子が生まれたとなっては、幼年期から少年期にかけての弥太郎が辛い立場にあったことは、十分推察できます。
このあたりの関係の緩衝役になって幼い弥太郎を庇護したのが祖母でしたが、この祖母も弥太郎が十四歳の年に亡くなります。そして、その翌年、十五歳の弥太郎は江戸に奉公に出ますが、祖母の死去が少なからぬ影響を与えたのだと思われます。
一茶は、十五歳から五十歳までを江戸で生活することになります。
信州を代表する俳人の一人として考えられる一茶ですが、実は、青年期から壮年期にかけては江戸と諸国行脚の生活だったのです。
江戸に出てからの奉公生活についての資料は少ないようです。
一茶が生活を支えることができるような職を手に付けていたというような資料が無いようですので、長期の年季奉公を勤め上げたのではなく、身過ぎ世過ぎの十年ばかりを送ったと思われます。
一茶が俳諧の舞台に登場するのは、二十五歳の頃です。
それ以前に俳諧の世界で活動している形跡もあるようですが、プロの俳諧師として活躍し始めたのはこの前後だと推定されています。
そして、二十代の後半から三十代にかけては、諸国を巡る生活を送っています。
この諸国遍歴は、俳諧の修業を積むためのものとされている説が多いようです。
確かに、修業を積むということもあったでしょうが、本当はもっと切実なもので、生活の糧を求めての必死の選択であったと思われます。
行き倒れとなる危険を背負いながらの旅から旅の日々が、一茶の作品に大きな影響と成長をもたらしたことは間違いないことでしょう。しかし、そのような生活を選択した主たる動機は、芸術的能力の研鑽のためではなく、生きるための手段だったと思われてならないのです。
それは、当時の世相が、他に生業を持っていない駆け出しの俳諧師が生活できる環境ではなかった、と考えるのが極めて自然な推定だと思うからです。
そのような厳しい環境は、何も駆け出し時代だけでなく、諸国修業を経て少しは世間に知られるようになり、やがて宗匠としての身分を得たあとも、一茶の生活は経済的には安穏なものではなかったと思われるのです。
一茶の生存中には、彼個人の作品集は一冊も発行されることがありませんでした。
作品そのものは、いろいろな出版物に掲載されていますし、宗匠として指導料のような収入もあったのでしょうが、生活費の主体はスポンサーからの援助のようなもので成り立っていたと推定されるのです。
従って、諸国修業といってもその本当の狙いは、江戸でのスポンサーだけでは生活が成り立たず、故人となった師匠のスポンサーを当てにした旅だったというのが事実に近いようです。
諸国修業などの苦労を重ねて、一茶は三十代の半ば頃には相当名の知れた宗匠になっていました。しかし、依然江戸をベースに旅の多い生活が続いていました。
その旅も、芭蕉などにならった部分もあるのでしょうが、やはり生活のための部分が少なくなかったと思われる節が多いのです。
一茶三十九歳の年、故郷に立ち寄っていた時父が急逝しました。
これにより、遺産相続をめぐって継母・異母弟と十年に渡って争うことになるのです。
一茶は長子でしたから相続権を主張するのは当然ともいえますが、継母や義弟たちの側からいえば、今さら何だという気持ちもあったことでしょう。長らく家を離れているうえ俳諧師として高名な宗匠になっている一茶が、自分たちが守ってきた資産の割譲を求めることに不条理を感じたことでしょう。
この相続争いは相当激しいものでした。
一族や土地の有力者なども巻き込み長期に渡るものでした。この激しい争い方をみれば、一茶が長子としての権利を求めたというより、
どうしても父の遺産を得なければ、生活がままならない状態にあったのが大きな理由だったのではないでしょうか。この時点でも、俳諧の宗匠というだけでは生活が成り立たなかったのでしょう。
結局この争いは、遺産を折半するということで解決をみました。一茶は解決と共に、自分の取り分を義弟たちが使っていた期間の使用料を請求し獲得しています。
経済理論からすれば当然の請求なのでしょうが、何だかヴェニスの商人を連想してしまいます。
一茶は、江戸での生活を清算します。
相続で得た住居と田畑を生活の基盤とすべく、故郷に向かいます。
一茶、五十一歳。少年の日に、おそらく追われるような思いで生家を離れてから、三十五年という歳月が過ぎていました。
故郷に戻った一茶は、翌年結婚します。五十二歳で経験する初めての結婚でした。経済的にも精神的にもゆとりができたことで、結婚生活に踏み出せたのでしょう。
妻に迎えた二十八歳のきくとは、仲も良く幸せな結婚生活のようでした。相続で得た田畑は、殆んどを小作に出したのでしょうが、それでも収入は村の平均的な百姓より多く、経済的にも安定したものでした。
一茶の人生の中で、経済的にも精神的にも最も豊かな期間は、この頃の一、二年だったのではないでしょうか。
しかし、この幸せも長くは続きませんでした。
遅い結婚でしたが、二人の間には四人の子供が誕生しました。けれども、どの子もどの子も幸薄く夭折してしまいました。
長男は一か月、長女は一年、次男は三か月というはかなさでした。
さらに、妻も三十七歳で先立ち、妻の死の前後に人手に預けた三男は、十分な世話を受けられず妻と同じ年に亡くなりました。
一茶もいつか老境にさしかかり、自身も中風で倒れ寝たきりになる期間もありました。
その後、二人目の妻を迎えますがうまくいかず、二か月ほどで離縁しています。
さらに三人目の妻を娶り、この妻との間に女の子を授かり、この女の子だけが順調に成長して行くのですが、この子の誕生をみる前に一茶は生涯を終えています。
一茶六十五歳の六月、村に大火が起こり一茶の家も被害を受けました。その後は、焼け残った土蔵での生活となり、同年十一月、その波乱に満ちた人生を終えたのです。
一茶は、実に多くの作品を残しています。
伝えられている俳句だけでも二万句に及ぶということですが、芭蕉が一千句、蕪村が三千句程度という数字と比べますと、その多さが計れると思います。
その原因の一つは、一茶が克明に記録し残していたということにあります。作品を中心とした日記を記録していたからです。そしてもう一つは、生きてゆくために来る日も来る日も作品を作り続けなくてはならなかったのではないか、と私は推定しました。
あたかも、大海を奔放に駆け巡る鮫が、実は泳ぎ続けなければ生きておれないように、獰猛なまでに荒々しく作品を作り続けなければ、一茶も生きてゆけなかったのではないでしょうか。
私が一茶に興味を持つ切っ掛けとなった、乱暴といえるような作品が残されているのも、このあたりの事情からくるのだと思うのです。
一茶は、作品を作り続けなくてはならなかったのです。
芭蕉や蕪村を超える豊かな天分が、あの膨大な数の作品を生み出したのではなく、江戸での日々や旅先で、あるいは故郷に落ち着いたあとでも、身を削るようにして句作を続けなければ生きてゆけなかったのではないでしょうか。
一茶は多くの作品を残しましたが、生前に発行された句集や作品集は一つもありません。いずれも後世の人によって、日記などをもとに編纂されたものなのです。
そのため、一茶が生活に追われるようにして作ったうめき声のようなものまでが、本人の意思に関係なく玉石混淆のままに発表されていったのでしょう。それが、一茶の俳人としての評価にどのように影響しているのか、人間一茶を語る上でどのような役割を担っているのか、興味深いところであります。
最初に掲げました句は、長女さとの死に臨んで旧作を一部手直ししたものだと言われています。一茶の代表作とされる「おらが春」に収められているものです。
「おらが春」は、一茶五十七歳の時の俳句を中心とした記録でありますが、一歳の可愛い盛りで死んでいった長女への断ち難い思いを、同時代の俳人たちの句をも借りて表現している部分は、悲しみに打ちひしがれた老いた父親の、血を吐くような姿を彷彿とさせるものであります。
並べられた悲しみの句の一つ一つは、人は生きてゆくなかで何故これほど悲しい別れを経験しなくてはならないのかと、私たちの胸に迫ってきます。
そして、この激しい一茶の生きざまを考えれば、私が原因を探したいと考えた作品一句一句の巧拙など、全くたいしたことがないように思えてきています。
最後に、「おらが春」の中から、最初に掲げました「露の世」の句とその前後十句を引用させていただいて、結びにしたいと思います。
小夜しぐれ なくは子のない 鹿にがな (一茶)
子をかくす 藪の廻りや 鳴く雲雀 � (一茶)
露の世は 露の世ながら さいながら (一茶)
子におくれたるころ
似た顔も あらば出て見ん 一踊 (落梧・岐阜の人)
母におくれたる子の哀れさに
をさな子や ひとり飯くふ 秋の暮 � (尚白・大津の人)
娘を葬りける夜
夜の鶴 土に蒲団も 着せられず (其角・江戸の人)
孫娘におくれて三月三日野外に遊ぶ
宿に出て 雛忘るれば 桃の花 (猿雖・伊賀上野の人)
娘身まかりけるに
十六夜や 我が身にしれと 月のかけ �� �(杉風・江戸の人)
猶子母に放れしころ
柄をなめて 母尋ぬるや ぬり団扇 �� (来山・大坂の人)
愛子をうしなひて
春の夢 気の違はぬが うらめしい � �(来山・大坂の人)
子をうしなひて
蜻蛉釣り けふはどこ迄 行た事か (かが千代・加賀の人)
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