歴史散策
古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 1 )
大伴の誉を後の世に伝えよ
『 大伴の 遠つ神祖の 奥つ城は 著く標立て 人の知るべく 』
( おおともの とおつかむおやの おくつきは しるくしめたて ひとのしるべく )
これは、万葉集に載せられている大伴家持の短歌(反歌)である。(第4096番)
歌意は、「大伴一族の 遠い祖先の 御霊を祀る墓所には はっきりと標(シルシ)を立てて 人々に伝えよ 」といったものであろう。かつての輝きを失いつつある中で、大伴一族を率いる立場にある家持の懸命の呼びかけではないだろうか。
この歌が詠まれたのは、聖武天皇の御代のことである。
第四十五代聖武天皇の父は文武天皇であり、母は藤原不比等の娘宮子である。また、皇后も不比等の娘である光明子である。
父の文武天皇は、持統天皇が後継者として期待していながら若くして世を去った草壁皇子の忘れ形見であり、持統天皇の執念ともいえる熱望によって誕生した天皇である。当時として異例の若さの十五歳で即位したが、在位十年にして、父の草壁皇子よりもまだ若い二十五歳で亡くなってしまったのである。
この時には、持統天皇はすでに亡くなっていたが、草壁皇子の未亡人である阿閇皇女(アヘノヒメミコ)は、まるで持統天皇の執念を引き継いだかのように、文武天皇が残した首皇子(オビトノミコ)の即位を決意したと思われる。
阿閇皇女は我が子の後継者として元明天皇として即位するが、この時代の皇位継承の流れを考える時、この天皇の存在は大きな意味を持っているように見える。
元明天皇の父は天智天皇であるので、持統天皇の異母妹にあたる。自らが天皇位に就き、まだ幼い首皇子に皇統を繋ごうとしたのは、持統天皇の執念を引き継いだものなのか、亡き夫の果てせなかった夢、さらには我が子の無念さを背負ったものなのか、もっと大きく言えば、天武天皇(あるいは持統天皇)の血統を後の世まで伝えるためであったのか、そして、もしかすると、自らを通して天智天皇の血統を復活させるものであったのか・・・。
元明天皇の本心がいずれにあったのかの選択によって、この時代の見方が変わるような気がするのである。そして、興味深いことは、この天皇が即位するにあたって、天智天皇が定めたという「不改常典」なる物が初めて登場しているのである。
ともあれ、父が亡くなった時まだ七歳であった首皇子は、祖母の元明天皇、父の姉である元正天皇とによって皇統が守られ、二十四歳にして聖武天皇として即位したのである。
この間、二人の女性天皇が如何に血統面で勝り、如何に有能であったとしても、強力な後ろ盾を必要としたことは当然といえる。その強力な後見者とは、不比等を頂点とする藤原氏一族であった。
現に、すでに述べたように、聖武天皇は血族的にも権力基盤面においても、藤原氏の手厚い庇護のもとに存在しえた天皇ともいえるのである。
巨星ともいえる藤原不比等は聖武天皇が即位する四年前、720年(養老4年)に没しているが、彼の子供たちによる勢力基盤は強固にきずかれていた。
すなわち、以後綿々と続く藤原氏による貴族政治の出発点は、藤原四兄弟といわれる武智麻呂(南家の開祖)・房前(フササキ・北家の開祖)・宇合(ウマカイ・式家の開祖)・麻呂(京家の開祖)の不比等の息子たちにあったのである。さらには、彼の娘のうち宮子は文武天皇の皇后であり聖武天皇の生母にあたり、光明子は聖武天皇の皇后であるから、聖武王朝は、藤原氏による安定王朝ともいえるし、がんじがらめにされた王朝とも考えられる。
しかし、盤石と見えた藤原氏一族であるが、政敵長屋王を自害に追い込んだ後絶頂期を迎えていた藤原四兄弟は、737年4月に房前が病死すると、7月に麻呂と武智麻呂が、そして8月には宇合と次々と死んでいったのである。いずれも病没で、天然痘であったとされているが、長屋王の怨霊によるものだとの風評も広く噂されたらしい。
聖武天皇が即位して十三年ほどが経っており、年齢も三十七歳の頃で、帝王として充実期にあったと考えられるが、これにより政権は大きく揺らいだ。折から、朝鮮半島の情勢も深刻さを増していることなどもあって、天皇の仏教への帰依は深まっていったようだ。
藤原四兄弟の相次ぐ死去により藤原氏の勢力の勢いは止まったとはいえ、蓄積されている力はなお大きく、それを取りまとめた中心人物は、おそらく光明皇后であったと考えられる。そして、表の政治は聖武天皇の重臣である橘諸兄(タチバナノモロエ・葛城王)が頂点にあったが、この人物は、光明皇后の母(県犬養橘三千代)が不比等と結ばれる以前の夫(美怒王)との間に生まれており、光明皇后とは異父兄妹にあたるのである。つまり、聖武王朝の政治権力は光明皇后を中心に運営されていたと考えられるのである。
そうした中で、聖武天皇の仏教への傾倒はさらに強まり、741年(天平13年)には、国ごとに国分寺・国分尼寺の造立を命じ、東大寺を大和国の国分寺とするとともに日本の総国分寺と位置付けたのである。
そして、その象徴として、あるいは総仕上げとして大仏の建立を描いたと考えられる。
大仏建立の発願は、745年であるが、その後順調に工事は進んで行ったが、やがて大きな難題に直面する。あの巨大な大仏像全身に鍍金する黄金の入手の目途が立たなかったのである。
745年(天平21年、後に天平感宝元年・天平勝宝元年)、聖武天皇の許に陸奥国より黄金が献上されるという朗報が届いた。驚喜した聖武天皇は、広く陸奥国出金の詔書を発した。
冒頭の大伴家持の歌は、これを寿ぐために詠まれた長歌とその反歌三首の中の一首なのである。
この時、家持は三十二歳、従五位下越中守として北陸の地にあった。
越中守であるから、れっきとした貴族ではあるが、名門大伴氏を率いる立場としては、鬱屈したものがあっただろうことは想像に難くない。
聖武天皇の詔を賀しながらも、誇り高き大伴の存在を叫ばずにはいられなかったのであろう。
☆ ☆ ☆