雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  唯一人の大名

2013-11-28 08:00:23 | 運命紀行
          運命紀行
               唯一人の大名

慶長五年(1600)九月十五日、徳川家康率いる東軍と、石田三成が実質的な大将といえる西軍が激突した関ヶ原の戦いは、まさに天下分け目の戦いであった。
これにより、家康は天下の実権を手中にして、やがて幕府を開き江戸時代という長期政権を作り上げて行くのである。

わが国全土を二分した戦いは、東軍に与した大名たちには手厚い報償がなされたが、西軍に属して敗れた大名たちにはまことに厳しい処分がなされた。
ごく一部の例外を除けば、西軍に属し、あるいは日和見的な行動を取った大名たちは、改易によりすべての領地を失ったり、大幅な減封を強いられることに甘んじたのである。
それら西軍に属し改易された大名の中にも、後に旗本として存続したり、小さいながらも大名として復権を果たしている人物もいるにはいる。しかし、一旦改易された旧領に大名として復帰した人物は、たった一人いるだけである。
その人物が、立花宗茂である。

立花宗茂は、永禄十年(1567)大友氏の重臣である吉弘鎮理(後の高橋紹運)の長男として誕生した。幼名は千熊丸である。なお、この人は、生涯に何度も氏姓を変えているので、本稿では立花宗茂で統一する。
大友氏は、九州豊後国を本拠とする豪族で、その出自には諸説あるが、鎌倉時代から戦国時代にかけては、守護大名さらには戦国大名として北九州に勢力を伸ばしていた。
吉弘氏は、その大友氏の庶流にあたる。なお、後に登場する高橋氏、戸次氏、立花氏のいずれも、大友氏の庶流であり重臣を務める家柄であった。

なお、宗茂が誕生したちょうどその頃、父の吉弘鎮理は高橋氏の家督を継いでいるので、宗茂が吉弘氏として誕生したのか高橋氏として誕生したのか微妙なところである。
高橋氏も大友氏の重臣の家柄であるが、高橋鑑種が討伐され家督を剥奪されたが、その名跡を残すため次男であった宗茂の父が養子に入ったのである。

天正九年(1581)、男子がいなかった戸次道雪は、立花氏の跡継ぎとして宗茂を養嫡子として迎えようと高橋紹運(鎮理)に、願い出た。
このあたりの名跡もなかなか複雑であるが、立花氏も大友氏庶流の名門で、筑前の大友氏の重要拠点である立花山城を本拠としていたが、城主の立花鑑載が毛利元就の調略に応じ反旗を翻したため、十年余に渡って筑前の主将として戦い立花山城を奪回した功績により、立花氏の名跡を戸次道雪に与えられた。
しかし、道雪は、大友宗麟の命により戸次氏の家督を甥の鎮連に譲っていたが、さらに、その子の統連に立花氏の家督を譲るように言われたことに反発し、立花氏の家督を一人娘の闇千代に継がせていたのである。なお道雪は、立花道雪と紹介されることも多いが、生涯戸次姓を通したらしい。

高橋紹運は、宗茂がすでに大器の片鱗を見せていたことと嫡男であることから道雪の申し出を拒絶していたが、その熱心さに負けて、あるいは道雪の事情を慮ったためか、宗茂を養子に出したのである。
道雪の養子となった宗茂は戸次姓となるが、間もなく道雪の娘闇千代と結婚して立花氏の家督を継いだ。
この時、宗茂は十五歳、闇千代は十三歳の頃のことであるが、道雪が家督を継がせるほどのことがあって、この新妻はなかなかの女丈夫であったらしい。そのこともあってか、二人の仲は良くなかったらしく、子供がいなかったこともあって、道雪の死後間もなく別居に至ったという。

この頃、筑後国内及び周辺の攻防戦は激しさを増していた。
宗茂の初陣はこの年のことで、養父道雪と実父紹運と共に出陣した十五歳の若武者は、五十騎を率いて奮戦し、家臣とともに敵将を討ち取っている。
この後も戦乱は続き、父二人が出陣した後の立花山城の留守を預っていた宗茂は、一千程度の留守部隊を指揮して、秋月軍八千の攻撃隊を翻弄している。
立花・高橋軍は、竜造寺軍、島津軍を破って、筑後国の大半を奪回したが、天正十三年(1585)に道雪が病死すると情勢は一変し、大友軍の戦意は低下していった。

天正十四年(1586)、島津軍は五万の兵力で筑前国に侵攻した。
実父紹運は岩屋城を守って徹底抗戦するも叶わず、玉砕して果てた。
この時宗茂は立花山城にあって同じく徹底抗戦を続けていて、時には積極的な遊撃戦を行い、島津本陣への奇襲攻撃を成功させるなどして、ついに島津諸軍を撤退に追い込み、岩屋城などの奪回を果たしている。
この戦いの後、大友宗麟は豊臣秀吉に対して、「義を専ら一にし、忠義無二の者であれば、御家人となし賜るよう」と宗茂のことを要請したとされる。
立花宗茂、二十歳の頃のことである。

その後、秀吉の九州遠征では、西部戦線の先鋒隊として活躍、肥後国を制圧し、さらに島津軍を追い詰めて行った。
戦後、秀吉はその功を認め、筑後柳川十三万二千石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てたのである。
天正十五年、佐々成政が移封した肥後国で大規模な国人一揆が発生した。この時も宗茂は一千余の軍勢を率いて援軍として戦い、食糧補給や鎮圧に大きな成果を挙げている。

天正十六年には上洛し、従五位下侍従に叙任され、秀吉からは羽柴の名字と豊臣姓(本姓)を与えられている。軍功抜群であったとしても、まだ二十二歳の若武者に対してのこの待遇は、いかに秀吉が立花宗茂を大器として見ていたかが分かる出来事である。
さらに、天正十八年の小田原城攻めの折には、秀吉は諸大名の前で、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と宗茂の武将としての器量を最大限称えているが、この時、本多忠勝が四十三歳の徳川家中有数の歴戦の大将であるのに対して、宗茂は大名になっていたとはいえ、まだ二十四歳という若い武将だったのである。

文禄の役・慶長の役という朝鮮半島での戦いにおいても、宗茂の勇将ぶりは際立っていて、その果敢な攻撃で援けられた武将は少なくなかった。
小早川隆景はその活躍ぶりを「立花家の三千は、他家の一万に匹敵する」と称え、加藤清正は「日本軍第一の勇将」と賛辞を惜しまなかったという。
この戦においても、秀吉からは「日本無双の勇将たるべし」との感状が与えられている。
しかし、その一方で、一門の重臣である立花鑑貞など、多くの家臣を失うという損失を出している。それらの経験を経て、宗茂は家臣に対して極めて真摯な対応を心掛けたようで、この後の不遇の時期にも家臣たちの信頼は続いたのであろう。

何もかも順風満帆に見えた宗茂の生涯は、秀吉の死によって大きな転機を迎えることになる。
時代は徳川家康の天下へと大きく傾き、やがて関ヶ原の合戦へと移って行くのである。


     * * *

慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では、立花宗茂は西軍方に属した。
合戦が避けられない状況となった頃、宗茂は家康から法外ともいえる恩賞を約束され東軍方に与するよう誘われたが、「秀吉公の恩義を忘れて東軍方につくのなら、命を絶った方がよい」と拒絶した。
家中の重臣たちも秀吉恩顧の有力大名からの誘いを受けており、西軍には勝ち目はないと徳川方につくよう進言したが、「勝敗に拘らず」と受け入れず、重臣に留守を任せて自ら出陣していった。

立花軍は、まず伊勢方面に展開していたが、その後、大津城攻めに加わり、部隊は一番乗りを果たし、三の丸、二の丸までも攻め落としていったが、そこで関ヶ原での西軍壊滅を知った。
結局立花軍は、関ヶ原での戦いには直接関わることなく大坂城に引き返した。
大坂城に戻った宗茂は、総大将である毛利輝元に徹底抗戦を進言するも受け入れられず、輝元は家康に恭順することを決めたため、宗茂は立花軍を率いて自領柳川に向かった。

その途上、同じく自領に引き上げる島津義弘と同行することとなった。
島津軍は、僅かな兵力で関ヶ原の本戦に加わっていたが、西軍総崩れの中を堂々と中央突破を果たして大坂城に辿り着いたが、その戦力のほとんどを失っていた。
宗茂の実父高橋紹運は、島津の大軍の攻撃で玉砕しており、今こそ仇敵である島津義弘を討つべきだと家臣たちはいきり立ったが、宗茂はそれを許さず、「敗軍を討つは、武家の誉れにあらず」と言って、反対に島津勢の護衛を申し出て、義弘と友誼を結び、無事に自領に帰りつくことが出来たのである。

しかし、九州はまだ戦闘の最中であった。柳川は、九州の席巻を目指す黒田如水や加藤清正、鍋島直茂らの大軍の攻撃を受けていた。
城に入った宗茂は、すでに勝敗の帰趨を知って自ら出陣することはなかったが、大軍の攻撃に抵抗を続けた。戦いは十月末頃までも続いたが、朝鮮の役で懇意となっていた加藤清正らの熱心な説得を受けて、ついに降伏した。
島津義弘は無事に帰国を果たしていたが、柳川の戦況を知ると、薩摩から援軍を送ったが、到着したのは開城の三日後であったという。

開城後は改易となり、宗茂は浪人生活となる。三十四歳の頃である。
宗茂の器量を高く評価する武将は多く、加藤清正や前田利長などからは家臣に迎えるよう働き掛けがあったが謝絶している。しばらくは、加藤家に出仕するが、食客扱いという清正の好意を受け入れたものらしい。
やがて、なお宗茂のもとを離れない家臣を引き連れて、浪人の身でありながら京都に上った。
なお、正室の闇千代は、立花家改易後は肥後国玉名郡に移り住んでいたが、慶長七年(1602)十月に亡くなっている。享年三十四歳、この女性の生涯も、波乱に満ちたものであった。

慶長八年、江戸に下った宗茂は、本多忠勝の世話で、家臣らとともに高田にある寺院で蟄居生活を始め、翌年、忠勝の推挙で江戸城に召し出された。
これまでの宗茂の勇将ぶりは家康もよく承知していて、御書院番頭として五千石が与えられ、間もなく徳川秀忠の御伽衆に加えられ、陸奥国棚倉に一万石が与えられ、大名として復帰したのである。
宗茂三十八歳の頃のことで、その後、同地で加増され三万五千石に至っている。
実は、「立花宗茂」を名乗るのは、この頃からなのである。

大坂の陣では、家康は宗茂が豊臣方に与することを恐れ執拗に説得したといわれ、夏の陣では秀忠麾下で実戦にも加わっている。
元和六年(1620)、家康はすでに没していたが、幕府から立花家の旧領である筑後国柳川に十万九千二百石が与えられた。関ヶ原の戦いで西軍として参戦し、一度改易されてから旧領復帰を果たした唯一人の大名となったのである。
立花宗茂は五十四歳になっていた。改易されて二十年目の復帰であった。

しかし、柳川復帰後も、自藩の運営に直接当たることはあまりなかったようである。特に、寛永十四年(1637)の島原の乱で総大将松平信綱を補佐し勇将の姿を見せた翌年には、養子の忠茂に家督を譲っており、その後はほとんど江戸での生活であった。
その理由としては、戦国武将としては年齢が若く、伊達政宗などと共に家光に戦国の物語を語る相伴衆の役目にあり、秀忠、家光に近侍することも多く、諸大名屋敷などに出向く時に随伴するなど重用されていたためである。
それと、まったく個人的な意見であるが、柳川復帰直後の頃は、まだ世間には、西軍や豊臣氏に同情を寄せる勢力や浪人も多く、立花宗茂という稀有の勇将を野に放つことに幕府が懸念を抱いていた可能性があったかもしれない。

宗茂は、幕府の中枢を知り得る人物として、地方の外様大名たちに相談に乗ることもあったらしく、その清廉潔白な人柄は、多くの大名たちに頼られたらしい。
寛永十九年(1642)、宗茂は江戸柳原の藩邸で死去した。享年は、七十六歳であった。
生涯にわたって実子に恵まれておらず、直系の子孫はいない。

立花宗茂という人物の生涯を手繰ってみると、その名前の複雑さに驚く。
出自が吉弘氏であることは確かであるが、すでに述べたように、誕生時点での父の姓が、吉弘か高橋かはっきりしない。一般的には高橋氏とされているようではある。
宗茂が用いた名前を列記してみる。なお、最初の二つは幼名である。
高橋姓・・千熊丸、彌七郎、統虎
戸次姓・・統虎
立花姓・・鎮虎、宗虎、正成、親成、尚政、政高、俊正、経正、信正、『宗茂』
である。
まさか気まぐれで名乗った名前などあるまいから、改名のいきさつを調べるだけでも何か大きな秘密が見つけ出せそうな誘惑に駆られる。

それはともあれ、戦国時代を生きた武将には魅力的な人物が多い。
しかし、立花宗茂ほど、手放しで称えられる記録が多い人物は少ないのではないだろうか。

                                  ( 完 )




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運命紀行  名将の姫

2013-11-16 08:00:58 | 運命紀行
          運命紀行
               名将の姫

小松姫は、天正元年(1573)徳川家中屈指の名将、本多平八郎忠勝の長女として誕生した。母は、側室の乙女である。
天正元年といえば、父の忠勝は二十六歳の頃で、すでに徳川家康の信頼は厚く、旗本部隊の指揮官として活躍していた。
しかし、同時に、三方ヶ原の戦いで徳川軍が武田軍に大敗を喫した直後のことで、三河を中心に東海地区の地盤を固めていたとはいえ、徳川家は大大名というほどの勢力ではなかった。

この頃の家康は、浜松城を居城としていたので、父忠勝も浜松に屋敷を構えていたと考えられ、小松姫も浜松城下で生まれ育ったと考えられる。
幼年期の記録を見つけることは出来なかったが、小松姫の誕生と同じ天正元年に武田信玄が没しているので、それ以降は浜松城下が敵軍に攻め込まれるようなことはなかったので、比較的平安な日々であったと考えられる。

しかし、父の忠勝はそうではなかった。主君の家康は、信玄没した後の武田家との戦いに明け暮れる日が続き、当然忠勝は常に側近くに仕え、ほとんどの戦いの陣頭に立っていた。
そして、小松姫が十歳になった天正十年(1582)には、本能寺の変が勃発し、家康と常に同盟関係にあった織田信長が横死する。この時父忠勝は家康と共に上方に居り、決死の伊賀越えを敢行して命からがら三河に逃げ帰っている。家康にとっても、父忠勝にとっても生涯で最も危険な逃避行であったと言われている。
信長が倒れた後の織田家は、嫡男信忠も同時に戦死したこともあり、急速に勢力を落としていった。
ほぼ信長が手中に収めていた領地は、有力大名の草刈り場となり、徳川家も甲斐・信濃を中心に勢力を広げて行った。
けれども、信長の跡を襲い天下人となったのは、清州会議を有利に進めた羽柴(豊臣)秀吉であった。

小松姫が真田信幸(のちに信之)と結婚した時期については諸説ある。十四歳の頃・十七歳・十八歳などである。
二人の結婚は、当時の常識として政略結婚であるが、その結婚に関する逸話として、徳川の勇将井伊直政が、信幸の戦場での見事な働きぶりを徳川家中に話したことから、忠勝がぜひにと家康に頼みこんで小松姫を嫁がせたというのである。
この逸話が事実だとすれば、井伊直政が信幸の戦場での雄姿を見た可能性が高いのは、天正十三年(1585)の第一次上田合戦と呼ばれるもので、沼田領をめぐる争いから大軍で進駐してきた徳川軍を、上杉家に臣従していた真田軍が少ない勢力で大いに悩ませたという戦いである。
その後、真田家は秀吉に臣従するようになり、その斡旋もあって、天正十七年(1589)に家康の与力大名になっている。

おそらく、徳川・真田両家が和睦し、真田が徳川の与力大名となる条件の一つとして、小松姫を真田昌幸の嫡男信幸に嫁がせることになったと考えられる。
従って、二人の結婚は、天正十三年から十七年の間くらいではないかと考えられる。小松姫が、十七歳の頃だったのではないだろうか。
婚姻にあたっては、小松姫は家康の養女(秀忠の養女という説もある)となり、徳川の姫として信幸に嫁いだ。信幸は、小松姫より七歳年長で、美男美女の似合いの夫婦であったらしい。
信幸の見事な武者振りはよく知られており、また、忠勝の孫である忠刻は千姫に見染められたという話もあるから、本多の家系も美男美女を輩出しているらしいので、小松姫が容姿端麗と伝えられているのも事実かと思われる。

真田氏は信濃の豪族であるが、この地は武田氏・上杉氏という強大勢力がぶつかり合う地域であり、さらには北条氏の台頭もあり、織田・徳川も介入してくるようになる。
真田氏に限らないが、今日は武田、明日は上杉に与するという生き残りのため苦しい選択を迫られてきたのである。
信幸も、父昌幸が武田氏に臣従するに際し、人質として甲斐に送られている。
天正七年(1579)、十四歳で武田勝頼と共に元服し、信幸を名乗ることになる。
そして、天正十年に武田氏が織田・徳川連合軍に滅ぼされると、信幸は父のもとに逃げ帰り、以後は共に行動することになる。
武田氏滅亡の後の信濃・甲斐の地は、列強による奪い合いとなり、真田氏は上田城・沼田城を死守すべく、徳川氏とも敵となり味方となって戦うことになる。
井伊直政が、信幸の武者振りを称えたというのも、この頃の戦いぶりを実見したのではないだろうか。

結婚当初、小松姫がどこに住んだかよく分からない。父昌幸の居城上田城内ではないかと思われるが、天正十八年(1590)に秀吉が北条氏を滅亡させると、その戦功として沼田領が真田氏の領地として確定された。それにより信幸は沼田城主となり小松姫も城主の奥方として移り住んだと考えられる。
やがて秀吉が没し、家康の台頭が著しくなり、時代は関ヶ原の合戦へと進んでゆく。

慶長五年(1600)、家康は上杉氏討伐のため大坂を離れる。秀吉恩顧といわれる大名たちの多くが家康に従った。真田氏も、当主の昌幸、長男信幸、次男信繁(のちの幸村)ともども従軍していた。
果たして、この機会を狙っていた石田三成は、大坂で家康討伐を決起する。一説によれば、このことは当然家康は承知していたが、毛利一族など三成に呼応する勢力が予想外に多かったことに危機感を抱いたという。
この情報を知った家康は、史上名高い小山会議を開き、従軍していた徳川恩顧の大名たちを味方に付けることに成功すると、大軍を西に返し、やがて関ヶ原合戦へと突入していくのである。

真田親子は、三成決起の情報を、家康と同時か、あるいはそれより先に掴んだ可能性がある。
親子は直ちに対策を練り、長男信幸はこのまま家康に従うこととし、昌幸と次男信繁は大坂方に与することとし直ちに陣営を離れ西に向かった。
この決定の理由としては、信幸の正室は家康の養女小松姫であるのに対し、昌幸の妻が三成の妻と姉妹であり、信繁の妻が三成と親しい大谷吉継の娘であることが影響している可能性は強い。同時に、真田の家を残すために、両陣営に別れた可能性も否定できない。

徳川陣営を離れた昌幸・信繁の軍勢は、居城の上田に向かった。
その途上、敵味方となった孫たちの顔を一目見ておきたいと思った昌幸は、沼田城に立ち寄った。
沼田城の留守を守る小松姫のもとには、父たちと袂を分かつことになったいきさつは伝えられていた。
「孫の顔を見たい」と城門近くまで来た昌幸に対して、小松姫は甲冑姿で現れ、「いかに義父上とはいえ、敵味方となった上は城内にお入れするわけにはいきません」と拒絶したという。
追い払われた昌幸・信繁の軍勢が近くの寺院で小休止していると、小松姫が子供を連れて訪ねてきて、昌幸らに会わせたという。
この行動に、昌幸・信繁親子や近臣たちは、「さすが名将の姫よ」と感嘆したといわれる。

容姿端麗、しかも文武共に秀でていたといわれる小松姫は、関ヶ原に敗れ九度山に追放された義父や義弟に対して、食糧品や日用品を送るなど、陰ながら支援したとされ、心根もまた優しい武将の妻であったと思われる。


     * * *

父・弟と敵味方となる道を選んだ信幸は、徳川軍の主力部隊ともいえる秀忠軍に属して西に進んだ。
徳川軍の戦力配置は、大きく分ければ、東海道を西進する家康率いる本隊と、中山道を進む秀忠率いる別働隊、そして、上杉氏や佐竹氏に備える部隊や江戸城を守る守備隊の三つと考えられる。
東海道を行く主力部隊は、秀吉恩顧といわれる武断派の有力大名を中心とした大軍勢であるが、家康率いる徳川隊は三万余とされるが、旗本中心の弱小部隊ともいえるものであった。常に徳川の先陣を争う井伊直政と本多忠勝は属していたが、直政は直前に発病し本隊から遅れているし、忠勝率いる本多隊は足軽を含めて五百程で、本多家の主力は嫡男忠政に率いられ秀忠軍に属していた。

徳川譜代の大名たちを中心とした秀忠軍に父と袂を分かった真田信幸が加えられたのは、中山道に明るかったためと思われる。また、秀忠軍の主目的は、上方で直接敵軍と戦うことよりも、中山道を制圧することにあったともいわれ、この地域の情報や豪族たちを味方につける働きを期待されていたかもしれない。
秀忠軍は、昌幸・信繁が籠る上田城を攻撃するにあたっても、信幸が義弟にあたる本多忠政と共に説得にあたっているが失敗したといわれている。
その後は、三万八千の大軍を擁する秀忠軍が二千で守る上田城攻略戦で手痛い損失を蒙ることになる。
秀忠軍はこのため関ヶ原の本戦に遅延して家康の叱責を受けているが、個人的には、このあたりのことは疑問に思えてならない。

二千で守る城一つに、徳川軍だけで三万八千の戦力を有しており、全軍がそこに釘付けにされたということには、どうも納得がいかない。真田氏の戦略上手を伝える格好の話ではあるが、もともと秀忠軍は、西進を急ぐよりも中山道沿いの各豪族を味方につけることを主目的にしていたように思われるのである。
結果論かもしれないが、結局、徳川の主力部隊は、ほとんど無傷で関ヶ原の合戦を終えているのである。
関ヶ原での戦いが東軍の大勝利となったから、秀忠は家康から面会さえ拒絶されたとされるが、万が一、東軍が敗れるか、痛み分けの形で長期戦となった場合、無傷の秀忠軍は東軍を立て直す働きを果たせたはずである。

それはともかく、戦後の論功行賞で信幸は、沼田領と昌幸の旧領と他に三万石が加増され上田城主となったが、上田城は破却を命じられ、沼田を居城とした。
これは、先の第一次上田合戦といわれる戦いで秀忠は苦戦を経験しており、今回の上田城攻撃では大きな損害を得ており、上田城を嫌い、真田氏を嫌っていた節が見られるのである。
今回の論功行賞でも、ほとんどの外様大名が大盤振る舞いを受けているなかで、信幸への加増は極めて小さいものである。父や弟の助命と相殺された可能性はあるが、信幸が名乗りを信之に変えたのもこの頃のことで、父たちとの決別を表す必要があったものと思われる。
徳川体制が固まって行くにしたがい、意にそわない外様大名に対する軋轢は厳しさを増していくが、真田家が安泰を続けることが出来た陰には、本多氏の存在、そして何よりも家康の養女でもある小松姫の存在が大きな役割を果たしていると思われる。

面白い逸話が残されている。
加賀前田家の大名行列が江戸に向かう途上、何か無礼な出来事があったらしく、小松姫は家来に命じて将軍家への献上物を取り上げてしまった。報告を受けた幕府は真田家を叱責したが、小松姫は、「親の物は子供の物である。何の差し障りがあるか」と相手にしなかったという。
大名行列と言っても、藩主が加わった大行列ではなく、献上物を運ぶような行列であったと思われるが、天下第一の大大名に対しても、「われは将軍家の娘なり」という誇りに満ち溢れた逸話のように思われる。
この事件からほどなく、真田家は四万石程加増されて松代に転封となった。
これは、今後も何か起こることを懸念して小松姫を北国街道から外すためだともいわれている。

元和六年(1620)、病にかかっていた小松姫は、療養のため江戸から草津温泉に向かう途上で没した。享年四十八歳であった。
報せを聞いた信之は、「我が家から光が消えた」と落胆したという。
しかし、小松姫の輝きは後々までも消えることなく、真田家の安泰を幕末まで見護り続けたのである。

                                  ( 完 )
 
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運命紀行  花も実もある武将

2013-11-10 08:00:09 | 運命紀行
          運命紀行
               花も実もある武将

『 家康に過ぎたるものが二つあり、唐のかしらに本多平八 』
これは、一言坂の戦いの時、本多平八郎忠勝の天晴れな武者振りを称えて詠まれたものだという。

本多忠勝は、天文十七年(1548)二月、三河国額田郡で本多忠高の長男として生まれた。幼名は鍋之助、通称は平八郎である。
本多氏は、家康を輩出した安祥松平家の家臣で、いわゆる安祥譜代と呼ばれる最古参の家臣団の一つである。
忠勝が誕生した時、徳川家康は七歳になっていて、すでに人質生活を余儀なくされるなど厳しい生涯に立ち向かっていた。

そして、忠勝もまた、誕生の翌年には父が戦死し、叔父の忠真のもとで育てられるている。
家康には、幼い頃から仕えたようで、家康がまだ今川氏のもとにある頃に、大高城に兵糧を運び込むという任務を与えられたのに従軍したのが忠勝の初陣である。忠勝十三歳の頃で、この時同時に元服している。
この大高城へ兵糧を運び込む任務は、今川義元が三河・尾張の境界線辺りの勢力圏を固めるための出陣の前哨戦ともいえる軍事行動であった。
かつては、この義元の出陣を上洛を狙ったものとされることもあったが、尾張から京都までの間に多くの有力大名が存在していたことからも、自陣営の引き締めと、せいぜい尾張の一部を手に入れる程度の作戦であったと思われる。

しかし、今川軍の侵略を看過出来なかった織田信長は、義元の大軍に奇襲攻撃をかけ、義元を討ち取ったのである。
永禄三年(1560)のことで、桶狭間の戦いといわれる有名な合戦である。
この戦いでの勝利は、信長の名を全国に知らしめたものであり、天下布武への第一歩となった戦いといえるが、同時に、徳川家康という英雄を、今川氏のもとから解放し、戦国大名として飛躍するための重要な意味を持つ戦いでもあったのである。

忠勝の初手柄は十五歳の時であるが、このような逸話が残されている。
その合戦は、今川氏真の武将小原備前と戦ったものであるが、忠勝を後見していた叔父の忠真が、自分が討ちとった敵将の首を忠勝に与えて武功を挙げさせようとしたが、忠勝は「何ぞ人の力を借りて、武功を挙げんや」と言って、単身で敵陣に駆け入って敵の首を挙げたという。
叔父をはじめ武者たちは、「この若者は只者ではない」と称えたといわれている。
忠勝は少年の頃から、勇猛な武者であったらしい。

永禄六年(1563)に発生した三河一向一揆は、まだ若い家康には大きな試練であった。家臣の多くが一向宗(浄土真宗)であり、大挙して一揆側に加担したからである。本多一族もその多くが一揆側についたが、忠勝は浄土宗に改宗して家康側に残り、家康の危機突破に尽力している。
永禄九年(1566)、忠勝は十九歳にして同年齢の榊原康政などと共に旗本先手役に抜擢され、与力五十騎を部下として与えられた。
この後忠勝は、常に家康の居城近くに住み、旗本部隊の将として家康の側近くで活躍して行くのである。

元亀元年(1570)の姉川の合戦は、織田信長が浅井・朝倉軍と戦った史上名高い合戦であるが、徳川軍は織田軍を支援する形で三河から馳せ参じたが、この時も、家康本陣に迫る朝倉の大軍に対して、忠勝は単騎で立ち向かい、この忠勝を救おうとする家康軍の突入が朝倉軍を大きく崩し、この合戦を織田・徳川連合軍の勝利に導く端緒となった。

冒頭にある一言坂の戦いは、武田信玄に徳川家康が大惨敗をしたことで知られる三方ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる戦いであるが、この時も忠勝は苦戦となり撤退する徳川軍の殿(シンガリ)を務め、その勇猛ぶりが称えられたものである。
天正三年(1575)の長篠の戦いは、押しまくられていた武田軍に対して家康が雪辱を懸けた戦いであるが、この時は信長の全面的な支援を受け、織田・徳川軍は三万八千、信玄の跡を継いでいた武田勝頼軍が一万五千という大軍が激突した戦いであるが、激戦の末武田軍は惨敗を喫し、滅亡へと向かうのである。
この時も、忠勝の勇猛ぶりは、敵味方双方から称されたと伝えられており、家康からは「まことに我が家の良将なり」と称えられ、『 蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角の凄まじさ、鬼か人か、しかとわからぬ兜なり 』と詠われたと伝えられている。

この蜻蛉というのは、忠勝愛用の大身の槍のことで、刃先に止まった蜻蛉(トンボ)が真っ二つに切れたことから名付けられたという「蜻蛉切」という槍は、天下三名槍の一つとされている。
また、忠勝が愛用した兜は、牡鹿の大きな角を高く掲げた「鹿角脇立兜」と呼ばれるもので、戦場でひときわ目立つものであった。
なお、天下三名槍とされているものは、結城家に伝えられていた「御手杵(オテギネ)」と、黒田節に歌われている「日本号」、それに忠勝の「蜻蛉切」である。

天正十年(1582)、天下統一を果たしたかと見えた織田信長は、明智光秀の謀反により本能寺で討たれた。
この時家康は、信長の招待を受け、安土から京都大坂を経て堺にあった。予定の旅程を終え後は京都に戻り、信長に御礼言上する運びになっていたが、その途上で事変を知った。
家康は絶望に陥り、それでも気を取り直すと、「直ちに京都にに向かい、叶わぬまでも弔い合戦を挑む」と僅かな随行者に決意を述べたと伝えられている。
この時も随行していた忠勝は、その無謀さを戒め、何としても領国まで逃げ伸びて捲土重来を期すべきと説いたといわれている。
冷静さを取り戻した家康は、その意見を受け入れ、家康の生涯で最も苦難の逃避行であったとされる「伊賀越え」を決行し、危機を脱することが出来たのである。

本多平八郎忠勝という武将が、槍一筋の猛将であるだけでなく、冷静沈着な情勢判断の出来る良将であったことがよく分かる出来事であり、「花も実もある武将」と評するに十分な人物であったことが分かる。


     * * *

本多平八郎忠勝を称える言葉が数多く残されている。
戦国の世の最後の勝利者である家康の重臣であったことにも影響されているかもしれないが、相当魅力的な人物であったことは確からしい。
すでにいくつかの言葉を紹介したが、信長は、「花実兼備の勇士」と称え、秀吉は、「日本第一、古今独歩の勇士」とべた褒めしている。
秀吉は、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と述べたとも伝えられている。これは、立花宗茂の勇猛さを称えるための言葉であるが、本多忠勝が多くの人に知られた大将であったことがよく分かる話でもある。

天正十八年(1590)、家康が関東に移ると、上総国夷隅郡大喜多に十万石を与えられた。
これは、井伊直政の十二万石に次ぐものである。若くから共に出世を競ってきた同年の榊原康政も同じ十万石が与えられているが、この二人はとても仲が良かったらしい。二人とも家康の側近くに仕え、徳川の重鎮に育ってきていたのである。忠勝が四十三歳の頃のことである。

慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では、榊原康政が二代将軍秀忠に随行したが、忠勝は家康本陣に従軍し、吉川広家などを東軍に味方させるべく活動している。
戦後の慶長六年には、伊勢国桑名藩十万石(十二万石とも十五万石とも諸説ある)に移ったが、旧領のうち五万石は次男の忠朝に別家として与えられている。
桑名では、城郭整備だけでなく、町割りなど民政面でも非凡なところを発揮し、名君と仰がれたという。

しかし、徳川の体制が安定さを増すにつれ、忠勝は中央政治から離れることになり、本多正純などの若手の文治面に秀でた人物が家康・秀忠の側近として抜擢されるようなり、忠勝ばかりではなく、槍一筋に戦場を駆け巡ってきた武将たちの活躍の場は少なくなっていった。
慶長十四年六月、家督を嫡男忠政に譲って隠居、翌慶長十五年(1610)十月、桑名城でその生涯を終えた。享年六十三歳であった。

常に家康の側近くにあり、窮地となると大軍に対しても先頭になって飛び込んでいったという勇将は、生涯に加わった合戦の数は大小合わせて五十七回といわれているが、そのいずれにおいても、かすり傷一つ負わなかったと伝えられている。
徳川の体制が盤石になるに従って、忠勝の晩年はやや不遇であったと伝えられる向きもあるが、本多氏は、大名十三家、旗本四十五家を輩出している。そして、徳川宗家と分家以外で、本多氏は唯一葵紋を許されているのである。
その中でも、忠勝に対する家康の信頼は極めて厚く、嫡男忠政の正室は家康の孫娘熊姫であり、孫にあたる忠刻は、あの千姫を妻に迎えているのである。
千姫が本多忠刻に再嫁するについては、千姫が忠刻を見染めたためという逸話もあるが、家康が本多平八郎忠勝の家こそが、傷心の千姫を託すに足る家と見込んだ上のことであったように思われるのである。

現代の私たちが興味本位で戦国時代を見る限り、本多平八郎忠勝という人物は真にさわやかで小気味の良い人物に見える。しかし、戦国武将である限り、勇将であればあるほど殺生の数も数知れなかったはずである。
そのことは何よりも本人が承知していたらしく、戦場には大きな数珠を首にかけて臨んでいたと伝えられている。
最後に、この名将の遺書の一部と辞世の句と伝えられているものを紹介しておく。

『 侍は、首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守ることを侍という 』
『 死にともない嗚呼(アア)死にともない死にともない 深きご恩の君を思えば 』

                                      ( 完 )



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芳しき香り ・ 心の花園 ( 50 )

2013-11-07 08:00:52 | 心の花園
          心の花園 ( 50 )
               芳しき香り

長かった夏もようやく終わり、急ぎ足の秋の気配が漂っています。
夏の疲れもようやく癒えて、秋の冷涼な季節感を楽しみたいものです。

心の花園には、菊の花がほころび始め様々な花色が目立ち始めています。
そして何よりも、その芳しい香りは、古くから人々に愛されてきた魅力の一つではないでしょうか。

「菊」の原産地はアジア東部といわれ、わが国へは中国から入ってきたようですが、わが国にも自生している野菊の仲間は三百五十種ほどもあるとされていますから、中国からの物はいわゆる園芸種にあたるものではないのでしょうか。

わが国では、「菊」は古い時代から人々に愛されていて、古今集には幾つもの歌に詠まれています。
『 心あてに折らばやおらむ初霜の をきまどわせる白菊の花 』
これは、古今集にある凡河内躬恒の和歌で、百人一首にもあるのでよく知られています。
わが国最古の歌集とされる万葉集には「菊」は登場していないとされていますが、「百代草(モモヨクサ)」という植物が歌われていて、これはどうやら「菊」らしいのです。

「菊」は花色も種類も多く、また愛好家も多く様々な形で栽培され各地で盛んに品評会なども催されています。
また、私たちの生活の中では仏花や献花として定着しており、一方で、皇室の象徴として敬愛されています。
わが国の国花は、桜と「菊」とされるのが一般的ですが、実は法的に定められているものではなく、桜は国民一般に親しまれていること、「菊」は皇室の象徴であることから定着してきているようです。

「菊」には様々な花言葉が作られています。色や種類によっても違う花言葉も紹介されていますが、ここでは、「高潔」と「思慮深い」を紹介させていただきます。
深まる秋を、紅葉と共に、芳しい菊の香りに、穏やかな時間を求めたいものです。
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運命紀行  英雄の娘

2013-11-04 08:00:27 | 運命紀行
          運命紀行
               英雄の娘

戦国時代は、戦乱相次ぐ激しい時代であったが、それだけに名将という人物は数多く出現し、最終的に勝者であれ敗者であれ、現代の私たちに多くの感動を与えてくれる。
それは、単に武将に限ったことではなく、一介の武者であれ、武士以外の抑圧されることの多かった階層の人物の中にも、残されている資料は極めて少ないが、魅力あふれる人物も少なくない。同じことは女性にとってもいえることである。

しかし、戦国時代にあって、歴史の流れに少なからぬ影響を与えた人物は少なくないが、英雄と呼ばれるほどの人物となれば、そうそう多くはないように思われる。
英雄の定義は簡単にできるものではないが、こと戦国時代に限っていえば、織田信長と徳川家康は相当厳しい条件で英雄を選ぶとしても、必ず選ばれると思われる。
今回の主人公は、織田信長という英雄の娘として生まれ、徳川家康という英雄の嫡男のもとに嫁いだ女性である。

徳姫は、永禄二年(1559)に織田信長の長女として誕生した。幼名は五徳である。
五徳というのは、火鉢なのでやかんなどを掛けるために用いる三本ないし四本足の金属または陶器製の道具であるが、その命名の由来に、信長が、二人の兄と共に織田家を支えるような女性になって欲しいとの願いから命名したという話もあるが、これは後世の作り話と思われる。
どういうわけか分からないが、五徳に限らず、信長は自分のどの子供にも一風変わった名前をつけているのである。

母は、側室吉乃である。吉乃は、生駒家宗の長女であるが、生年なども含め分からない部分が多い。
これは、吉乃に限らないが、信長や信長周辺の人物について、古くからさまざまな記録や研究がなされ、あるいは芸術作品にも描かれてきている。そのお陰て、足跡が幅広く知ることが出来るようになっているが、同時に、文学などに取り上げられたものが、事実かのように歩きだしてしまっていることも少なくないのである。
吉乃という名前も同様で、本名は「類」という可能性が高いが、本稿でも「吉乃」を用いる。

吉乃の生家である生駒家は、藤原北家良房流の流れとされているが、吉乃の父家宗は、尾張国の生駒氏としての三代目当主にあたる。
生駒氏は土豪としてかなりの勢力を伸ばしていたが、その源泉は、灰や油を取り扱う武家商人として、また馬借(運送業)として経済力を高め、情報や軍事面でも力を蓄えていったことにある。そして、尾張国丹羽郡小折に小折城と呼ばれるほどの屋敷を構えるようになっていた。

吉乃は、最初土田弥平次に嫁いだが、弥平次が戦死したため実家に戻っていたが、そこで、再々生駒屋敷を訪れていた信長に見染められたらしい。
もちろん、信長が生駒屋敷を訪れていたのは、吉乃が目的ではなく、生駒氏の経済力と情報力に着目していたためであろう。
二人の出会いがいつの頃なのか定かではないが、最初の子供である信忠の誕生が弘治三年(1577)なので、その前年あたりで、弥平次が戦死してからさほど年月を経ていないと推定される。
なお、弥平次の土田氏であるが、生駒氏が土豪として相当の勢力を有していたと考えられるので、それに近い家柄であったと考えられる。
その場合、美濃可児郡の土豪土田(ドタ)氏と、尾張清州の土田(ツチダ)氏あたりが有力であるが確定されていない。なお、美濃の土田氏となれば、信長生母の土田御前と同族と考えられる。

信忠誕生の翌年、信雄が誕生、そしてその次の年である永禄二年に徳姫が誕生したのである。
吉乃は、永禄九年(1566)に亡くなっている。徳姫誕生後体調を崩していたともいわれるが、徳姫がまだ八歳の頃のことである。
吉乃の享年は三十九歳とも伝えられているが、信長より四歳下ともいわれているので、その場合は二十九歳ということになる。これも、どちらとも断定できない。

永禄十年(1567)五月、九歳の徳姫は、家康の嫡男信康に嫁いだ。信康とは同年の生まれである。
織田と徳川(当時は松平)との同盟が結ばれてから五年を経ており、この頃には家康は三河を平定し、徳川へと改姓するのもこの頃のことである。この結婚は、家康の台頭を見て、徳川との同盟をより強固なものにするためのものであったと考えられる。もちろん、家康にとっても願ってもない結婚であったと思われる。

両家の期待を担っての幼い夫婦も、やがて九年後の天正四年(1576)に登久姫が誕生し、翌年には熊姫(ユウヒメ)が誕生して、仲睦まじい夫婦に育っていっていたかに見えた。
しかし、二人をめぐって悲劇が生まれる。
天正七年(1579)、信長のもとに届けられた徳姫からの手紙が、両家の間に緊張を生み、特に徳川家にとっては大きな傷を残すことになるのである。

徳姫の手紙には、夫の信康との不和といった泣き事もあったようだが、姑の築山殿が武田氏と内通しているなどの信長としても看過できないような内容が綿々と綴られていたのである。
信長、家康が当面の最大の敵として武田氏と厳しく対立している時だけに、信長は家康に説明を求めた。
家康の使者として安土城を訪れた酒井忠次も、大筋において徳姫の手紙の内容を認めたという。
この結果、家康の正妻築山殿は家臣によって斬殺され、嫡男信康を自刃させるに至ってしまったのである。

この事件には、幾つかの謎があり、幾つもの説が伝えられている。
まず、徳姫が父信長に送った手紙の真意は、二人の姫を儲けたとはいえ嫡男を得ていない徳姫に対して何かと非難がなされ、築山殿が武田氏家臣の娘を信康の側室にしたことに対する不満をぶちまけることであって、築山殿が武田氏と繋がっているとか、信康の不行跡を、噂を事実のごとく、あるいは過大に報告したものだという説は根強い。
あるいは、信康の器の大きさを危惧した信長が、この問題を利用したという意見もあるようだ。

しかし、今川氏出身の築山殿は、たとえ武田氏からの働きかけがあったとしても、徳川に打撃を与えるような働きが出来るとは考えにくいし、側室に関しても、この時代大名家の嫡男に側室がいないことの方が不自然な時代である。現に、父である信長には子供を儲けているだけでも七人ほどの側室がいたのである。
徳姫と信康の仲があまりよくなかったことは事実らしい。岡崎城の二人のもとを、浜松城から家康が訪れたり、信長が立ち寄ったりして、取りなそうとしていたようなのである。

こう考えてくると、徳姫が親の威光を背景に我儘を言っただけのようにも感じられるが、それもすっきりとこない。それに、徳姫が徳川の秘密に当たるような情報を信長に伝えていたとすれば、それは驚くほどのことではないのである。
当時の大名間の結婚は、花嫁は実質的な人質であり、同時に重要情報を実家に伝える役目を担っていたのである。例えば、お市の方が夫を含めた浅井家が朝倉氏と連携して信長を討とうとしていることを伝えたという有名なエピソードも残されている。

これらの幾つもの理解し難いことなどを積み重ねて行くと、もしかすると家康と信康の間がうまくいっておらず、家康がこの事件を利用した可能性も浮かんでくるのである。
その対立は、単に親子間の不仲ということではなく、信康を取り巻く岡崎衆と、家康を取り巻く浜松衆といった対立があった可能性も考えられるのである。
家康の正妻が武田家と内通という情報は、信長にすれば見過ごすことが出来ない重大事だとしても、同盟者としてこれから先も協力し合う家康の嫡男を自刃させることを、信長が強く望んだということはなかなか理解しにくいのである。

いずれにしても、徳姫の父への密書は、家康の正妻と嫡男を死に追いやるという結末を見たのである。
信康自刃からおよそ五か月後の天正八年(1580)二月、徳姫は家康に見送られて岡崎城を出立した。
二人の姫は徳川家に残して、実家へと向かったのである。
旧暦二月は、すでに春の訪れを感じさせる季節であるが、十三年過ごした岡崎城を旅立つ徳姫の心境はどのようなものであったのだろうか。
徳姫、二十二歳の時のことである。


     * * *

徳川家を離れた徳姫は、父信長のもとには向かわず、長兄である信忠の居城岐阜城に身を寄せた。
その理由は明確でないが、信忠は同母兄であることや、徳姫が育った地に近いことが理由だったと思われるが、徳姫から信長への手紙が徳川に大きな混乱を与えたことを考慮していたのかもしれない。
この頃には、信忠は信長後継者としての地位を固めていたし、岐阜城周辺を中心としたあたりは完全に織田家の権威が行き渡っていて、最も安全な地でもあった。
婚家を後味の悪い思いで去り、二人の姫を残してきた徳姫にとっては、静かな環境の中に身を置くのにもっとも適した場所であったと思われる。

しかし、その平安も長くは続かなかった。
徳姫が岐阜城に入って二年余りが過ぎた天正十年(1582)六月二日未明、信長が討たれるという事変が発生した。本能寺の変である。しかも、後継者である信忠も共に戦死してしまったものであるから、岐阜城は大混乱に陥った。
この事変は、羽柴秀吉らの素早い行動で短時日で終息されたが、天下の形勢は大きく変わった。それまで予想もされなかった秀吉の台頭と、これも、想像を遥かに超える織田家の没落であった。

その後徳姫は、次兄信雄の保護を受けたが、小牧・長久手の戦いの後、信雄と秀吉の間の講和の条件として、人質として京都に移されることになった。
この後天下は、家康を臣従させたことにより秀吉の体制が固まって行った。
徳姫は依然秀吉の監視下にあったらしく、一時は亡き母の故郷である尾張小折の生駒家に身を寄せているが短期間のことで、すぐに京都に戻っている。

徳姫が秀吉の監視下にあるといっても、特別拘束されるようなことはなく、むしろ保護を受けていたという方が正しく、手厚く遇せられていたと思われる。何といっても信長の長女であり、いくら天下人となっても秀吉が徳姫を粗略に扱うことなど考えられないからである。
その一方で、徳姫はまだ三十歳を過ぎたばかりの頃のことで、織田の血筋は美人が多く、しかも信長の娘ということになれば、秀吉の触手も動くであろうし、政略結婚の有力な持ち玉にもなったはずである。しかし、伝えられている資料からは、お市の方の三姉妹と違って、そのような話は伝わっていない。
その理由として考えらる一つは、徳川嫡男の嫁であったことに対して秀吉に遠慮があり、もしかすると、家康からの援助も続けられていた可能性も考えられるのである。全くの想像ではあるが。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後は、天下は徳川のものとなって行った。
徳姫は、清州城主となった松平忠吉(家康四男)から所領が与えられ、母の故郷か清州城下に移っているが、間もなく京都に隠棲している。徳姫に所領が与えられるについては、当然家康の意向によるものと考えられ、嫡男信康を死に追いやった原因を作ったのが徳姫だとは考えていなかったように思われてならない。
なお、徳姫の母吉乃の兄である生駒家長は、信長・信雄・秀吉と主君を変えていたが、松平忠吉が清州五十二万石の城主として尾張入府の際に案内を任され、そのまま尾張国内に留まって家臣となり、子孫も尾張藩士として幕末に至っている。

その後は、徳姫は穏やかな晩年を過ごしたようである。
徳川に残した二人の姫は、長女の登久姫は初代松本藩主小笠原秀政に嫁ぎ六男二女の母となり、次女の熊姫は名門本多家に嫁ぎ、嫡子の忠刻はあの千姫を妻に迎えている。
また、阿波徳島藩の三代当主となる千松丸(蜂須賀光隆)の乳母選定に助言をしたという記録が残っているが、千松丸の父蜂須賀忠英の母は登久姫であり、母の正室繁姫は熊姫の娘なのである。

徳姫は、二人の姫たちや孫たち、さらには曾孫たちの姿を眺めながら穏やかな日々を送り、寛永十三年(1636)二月に静かに世を去った。享年七十八歳であった。
戦国時代の最後の激しい時代を、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という英雄たちと関わりながら、世が静まるのと並行するように、穏やかな生涯を送ることが出来た女性だったといえよう。

                                      ( 完 )


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