運命紀行
唯一人の大名
慶長五年(1600)九月十五日、徳川家康率いる東軍と、石田三成が実質的な大将といえる西軍が激突した関ヶ原の戦いは、まさに天下分け目の戦いであった。
これにより、家康は天下の実権を手中にして、やがて幕府を開き江戸時代という長期政権を作り上げて行くのである。
わが国全土を二分した戦いは、東軍に与した大名たちには手厚い報償がなされたが、西軍に属して敗れた大名たちにはまことに厳しい処分がなされた。
ごく一部の例外を除けば、西軍に属し、あるいは日和見的な行動を取った大名たちは、改易によりすべての領地を失ったり、大幅な減封を強いられることに甘んじたのである。
それら西軍に属し改易された大名の中にも、後に旗本として存続したり、小さいながらも大名として復権を果たしている人物もいるにはいる。しかし、一旦改易された旧領に大名として復帰した人物は、たった一人いるだけである。
その人物が、立花宗茂である。
立花宗茂は、永禄十年(1567)大友氏の重臣である吉弘鎮理(後の高橋紹運)の長男として誕生した。幼名は千熊丸である。なお、この人は、生涯に何度も氏姓を変えているので、本稿では立花宗茂で統一する。
大友氏は、九州豊後国を本拠とする豪族で、その出自には諸説あるが、鎌倉時代から戦国時代にかけては、守護大名さらには戦国大名として北九州に勢力を伸ばしていた。
吉弘氏は、その大友氏の庶流にあたる。なお、後に登場する高橋氏、戸次氏、立花氏のいずれも、大友氏の庶流であり重臣を務める家柄であった。
なお、宗茂が誕生したちょうどその頃、父の吉弘鎮理は高橋氏の家督を継いでいるので、宗茂が吉弘氏として誕生したのか高橋氏として誕生したのか微妙なところである。
高橋氏も大友氏の重臣の家柄であるが、高橋鑑種が討伐され家督を剥奪されたが、その名跡を残すため次男であった宗茂の父が養子に入ったのである。
天正九年(1581)、男子がいなかった戸次道雪は、立花氏の跡継ぎとして宗茂を養嫡子として迎えようと高橋紹運(鎮理)に、願い出た。
このあたりの名跡もなかなか複雑であるが、立花氏も大友氏庶流の名門で、筑前の大友氏の重要拠点である立花山城を本拠としていたが、城主の立花鑑載が毛利元就の調略に応じ反旗を翻したため、十年余に渡って筑前の主将として戦い立花山城を奪回した功績により、立花氏の名跡を戸次道雪に与えられた。
しかし、道雪は、大友宗麟の命により戸次氏の家督を甥の鎮連に譲っていたが、さらに、その子の統連に立花氏の家督を譲るように言われたことに反発し、立花氏の家督を一人娘の闇千代に継がせていたのである。なお道雪は、立花道雪と紹介されることも多いが、生涯戸次姓を通したらしい。
高橋紹運は、宗茂がすでに大器の片鱗を見せていたことと嫡男であることから道雪の申し出を拒絶していたが、その熱心さに負けて、あるいは道雪の事情を慮ったためか、宗茂を養子に出したのである。
道雪の養子となった宗茂は戸次姓となるが、間もなく道雪の娘闇千代と結婚して立花氏の家督を継いだ。
この時、宗茂は十五歳、闇千代は十三歳の頃のことであるが、道雪が家督を継がせるほどのことがあって、この新妻はなかなかの女丈夫であったらしい。そのこともあってか、二人の仲は良くなかったらしく、子供がいなかったこともあって、道雪の死後間もなく別居に至ったという。
この頃、筑後国内及び周辺の攻防戦は激しさを増していた。
宗茂の初陣はこの年のことで、養父道雪と実父紹運と共に出陣した十五歳の若武者は、五十騎を率いて奮戦し、家臣とともに敵将を討ち取っている。
この後も戦乱は続き、父二人が出陣した後の立花山城の留守を預っていた宗茂は、一千程度の留守部隊を指揮して、秋月軍八千の攻撃隊を翻弄している。
立花・高橋軍は、竜造寺軍、島津軍を破って、筑後国の大半を奪回したが、天正十三年(1585)に道雪が病死すると情勢は一変し、大友軍の戦意は低下していった。
天正十四年(1586)、島津軍は五万の兵力で筑前国に侵攻した。
実父紹運は岩屋城を守って徹底抗戦するも叶わず、玉砕して果てた。
この時宗茂は立花山城にあって同じく徹底抗戦を続けていて、時には積極的な遊撃戦を行い、島津本陣への奇襲攻撃を成功させるなどして、ついに島津諸軍を撤退に追い込み、岩屋城などの奪回を果たしている。
この戦いの後、大友宗麟は豊臣秀吉に対して、「義を専ら一にし、忠義無二の者であれば、御家人となし賜るよう」と宗茂のことを要請したとされる。
立花宗茂、二十歳の頃のことである。
その後、秀吉の九州遠征では、西部戦線の先鋒隊として活躍、肥後国を制圧し、さらに島津軍を追い詰めて行った。
戦後、秀吉はその功を認め、筑後柳川十三万二千石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てたのである。
天正十五年、佐々成政が移封した肥後国で大規模な国人一揆が発生した。この時も宗茂は一千余の軍勢を率いて援軍として戦い、食糧補給や鎮圧に大きな成果を挙げている。
天正十六年には上洛し、従五位下侍従に叙任され、秀吉からは羽柴の名字と豊臣姓(本姓)を与えられている。軍功抜群であったとしても、まだ二十二歳の若武者に対してのこの待遇は、いかに秀吉が立花宗茂を大器として見ていたかが分かる出来事である。
さらに、天正十八年の小田原城攻めの折には、秀吉は諸大名の前で、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と宗茂の武将としての器量を最大限称えているが、この時、本多忠勝が四十三歳の徳川家中有数の歴戦の大将であるのに対して、宗茂は大名になっていたとはいえ、まだ二十四歳という若い武将だったのである。
文禄の役・慶長の役という朝鮮半島での戦いにおいても、宗茂の勇将ぶりは際立っていて、その果敢な攻撃で援けられた武将は少なくなかった。
小早川隆景はその活躍ぶりを「立花家の三千は、他家の一万に匹敵する」と称え、加藤清正は「日本軍第一の勇将」と賛辞を惜しまなかったという。
この戦においても、秀吉からは「日本無双の勇将たるべし」との感状が与えられている。
しかし、その一方で、一門の重臣である立花鑑貞など、多くの家臣を失うという損失を出している。それらの経験を経て、宗茂は家臣に対して極めて真摯な対応を心掛けたようで、この後の不遇の時期にも家臣たちの信頼は続いたのであろう。
何もかも順風満帆に見えた宗茂の生涯は、秀吉の死によって大きな転機を迎えることになる。
時代は徳川家康の天下へと大きく傾き、やがて関ヶ原の合戦へと移って行くのである。
* * *
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では、立花宗茂は西軍方に属した。
合戦が避けられない状況となった頃、宗茂は家康から法外ともいえる恩賞を約束され東軍方に与するよう誘われたが、「秀吉公の恩義を忘れて東軍方につくのなら、命を絶った方がよい」と拒絶した。
家中の重臣たちも秀吉恩顧の有力大名からの誘いを受けており、西軍には勝ち目はないと徳川方につくよう進言したが、「勝敗に拘らず」と受け入れず、重臣に留守を任せて自ら出陣していった。
立花軍は、まず伊勢方面に展開していたが、その後、大津城攻めに加わり、部隊は一番乗りを果たし、三の丸、二の丸までも攻め落としていったが、そこで関ヶ原での西軍壊滅を知った。
結局立花軍は、関ヶ原での戦いには直接関わることなく大坂城に引き返した。
大坂城に戻った宗茂は、総大将である毛利輝元に徹底抗戦を進言するも受け入れられず、輝元は家康に恭順することを決めたため、宗茂は立花軍を率いて自領柳川に向かった。
その途上、同じく自領に引き上げる島津義弘と同行することとなった。
島津軍は、僅かな兵力で関ヶ原の本戦に加わっていたが、西軍総崩れの中を堂々と中央突破を果たして大坂城に辿り着いたが、その戦力のほとんどを失っていた。
宗茂の実父高橋紹運は、島津の大軍の攻撃で玉砕しており、今こそ仇敵である島津義弘を討つべきだと家臣たちはいきり立ったが、宗茂はそれを許さず、「敗軍を討つは、武家の誉れにあらず」と言って、反対に島津勢の護衛を申し出て、義弘と友誼を結び、無事に自領に帰りつくことが出来たのである。
しかし、九州はまだ戦闘の最中であった。柳川は、九州の席巻を目指す黒田如水や加藤清正、鍋島直茂らの大軍の攻撃を受けていた。
城に入った宗茂は、すでに勝敗の帰趨を知って自ら出陣することはなかったが、大軍の攻撃に抵抗を続けた。戦いは十月末頃までも続いたが、朝鮮の役で懇意となっていた加藤清正らの熱心な説得を受けて、ついに降伏した。
島津義弘は無事に帰国を果たしていたが、柳川の戦況を知ると、薩摩から援軍を送ったが、到着したのは開城の三日後であったという。
開城後は改易となり、宗茂は浪人生活となる。三十四歳の頃である。
宗茂の器量を高く評価する武将は多く、加藤清正や前田利長などからは家臣に迎えるよう働き掛けがあったが謝絶している。しばらくは、加藤家に出仕するが、食客扱いという清正の好意を受け入れたものらしい。
やがて、なお宗茂のもとを離れない家臣を引き連れて、浪人の身でありながら京都に上った。
なお、正室の闇千代は、立花家改易後は肥後国玉名郡に移り住んでいたが、慶長七年(1602)十月に亡くなっている。享年三十四歳、この女性の生涯も、波乱に満ちたものであった。
慶長八年、江戸に下った宗茂は、本多忠勝の世話で、家臣らとともに高田にある寺院で蟄居生活を始め、翌年、忠勝の推挙で江戸城に召し出された。
これまでの宗茂の勇将ぶりは家康もよく承知していて、御書院番頭として五千石が与えられ、間もなく徳川秀忠の御伽衆に加えられ、陸奥国棚倉に一万石が与えられ、大名として復帰したのである。
宗茂三十八歳の頃のことで、その後、同地で加増され三万五千石に至っている。
実は、「立花宗茂」を名乗るのは、この頃からなのである。
大坂の陣では、家康は宗茂が豊臣方に与することを恐れ執拗に説得したといわれ、夏の陣では秀忠麾下で実戦にも加わっている。
元和六年(1620)、家康はすでに没していたが、幕府から立花家の旧領である筑後国柳川に十万九千二百石が与えられた。関ヶ原の戦いで西軍として参戦し、一度改易されてから旧領復帰を果たした唯一人の大名となったのである。
立花宗茂は五十四歳になっていた。改易されて二十年目の復帰であった。
しかし、柳川復帰後も、自藩の運営に直接当たることはあまりなかったようである。特に、寛永十四年(1637)の島原の乱で総大将松平信綱を補佐し勇将の姿を見せた翌年には、養子の忠茂に家督を譲っており、その後はほとんど江戸での生活であった。
その理由としては、戦国武将としては年齢が若く、伊達政宗などと共に家光に戦国の物語を語る相伴衆の役目にあり、秀忠、家光に近侍することも多く、諸大名屋敷などに出向く時に随伴するなど重用されていたためである。
それと、まったく個人的な意見であるが、柳川復帰直後の頃は、まだ世間には、西軍や豊臣氏に同情を寄せる勢力や浪人も多く、立花宗茂という稀有の勇将を野に放つことに幕府が懸念を抱いていた可能性があったかもしれない。
宗茂は、幕府の中枢を知り得る人物として、地方の外様大名たちに相談に乗ることもあったらしく、その清廉潔白な人柄は、多くの大名たちに頼られたらしい。
寛永十九年(1642)、宗茂は江戸柳原の藩邸で死去した。享年は、七十六歳であった。
生涯にわたって実子に恵まれておらず、直系の子孫はいない。
立花宗茂という人物の生涯を手繰ってみると、その名前の複雑さに驚く。
出自が吉弘氏であることは確かであるが、すでに述べたように、誕生時点での父の姓が、吉弘か高橋かはっきりしない。一般的には高橋氏とされているようではある。
宗茂が用いた名前を列記してみる。なお、最初の二つは幼名である。
高橋姓・・千熊丸、彌七郎、統虎
戸次姓・・統虎
立花姓・・鎮虎、宗虎、正成、親成、尚政、政高、俊正、経正、信正、『宗茂』
である。
まさか気まぐれで名乗った名前などあるまいから、改名のいきさつを調べるだけでも何か大きな秘密が見つけ出せそうな誘惑に駆られる。
それはともあれ、戦国時代を生きた武将には魅力的な人物が多い。
しかし、立花宗茂ほど、手放しで称えられる記録が多い人物は少ないのではないだろうか。
( 完 )
唯一人の大名
慶長五年(1600)九月十五日、徳川家康率いる東軍と、石田三成が実質的な大将といえる西軍が激突した関ヶ原の戦いは、まさに天下分け目の戦いであった。
これにより、家康は天下の実権を手中にして、やがて幕府を開き江戸時代という長期政権を作り上げて行くのである。
わが国全土を二分した戦いは、東軍に与した大名たちには手厚い報償がなされたが、西軍に属して敗れた大名たちにはまことに厳しい処分がなされた。
ごく一部の例外を除けば、西軍に属し、あるいは日和見的な行動を取った大名たちは、改易によりすべての領地を失ったり、大幅な減封を強いられることに甘んじたのである。
それら西軍に属し改易された大名の中にも、後に旗本として存続したり、小さいながらも大名として復権を果たしている人物もいるにはいる。しかし、一旦改易された旧領に大名として復帰した人物は、たった一人いるだけである。
その人物が、立花宗茂である。
立花宗茂は、永禄十年(1567)大友氏の重臣である吉弘鎮理(後の高橋紹運)の長男として誕生した。幼名は千熊丸である。なお、この人は、生涯に何度も氏姓を変えているので、本稿では立花宗茂で統一する。
大友氏は、九州豊後国を本拠とする豪族で、その出自には諸説あるが、鎌倉時代から戦国時代にかけては、守護大名さらには戦国大名として北九州に勢力を伸ばしていた。
吉弘氏は、その大友氏の庶流にあたる。なお、後に登場する高橋氏、戸次氏、立花氏のいずれも、大友氏の庶流であり重臣を務める家柄であった。
なお、宗茂が誕生したちょうどその頃、父の吉弘鎮理は高橋氏の家督を継いでいるので、宗茂が吉弘氏として誕生したのか高橋氏として誕生したのか微妙なところである。
高橋氏も大友氏の重臣の家柄であるが、高橋鑑種が討伐され家督を剥奪されたが、その名跡を残すため次男であった宗茂の父が養子に入ったのである。
天正九年(1581)、男子がいなかった戸次道雪は、立花氏の跡継ぎとして宗茂を養嫡子として迎えようと高橋紹運(鎮理)に、願い出た。
このあたりの名跡もなかなか複雑であるが、立花氏も大友氏庶流の名門で、筑前の大友氏の重要拠点である立花山城を本拠としていたが、城主の立花鑑載が毛利元就の調略に応じ反旗を翻したため、十年余に渡って筑前の主将として戦い立花山城を奪回した功績により、立花氏の名跡を戸次道雪に与えられた。
しかし、道雪は、大友宗麟の命により戸次氏の家督を甥の鎮連に譲っていたが、さらに、その子の統連に立花氏の家督を譲るように言われたことに反発し、立花氏の家督を一人娘の闇千代に継がせていたのである。なお道雪は、立花道雪と紹介されることも多いが、生涯戸次姓を通したらしい。
高橋紹運は、宗茂がすでに大器の片鱗を見せていたことと嫡男であることから道雪の申し出を拒絶していたが、その熱心さに負けて、あるいは道雪の事情を慮ったためか、宗茂を養子に出したのである。
道雪の養子となった宗茂は戸次姓となるが、間もなく道雪の娘闇千代と結婚して立花氏の家督を継いだ。
この時、宗茂は十五歳、闇千代は十三歳の頃のことであるが、道雪が家督を継がせるほどのことがあって、この新妻はなかなかの女丈夫であったらしい。そのこともあってか、二人の仲は良くなかったらしく、子供がいなかったこともあって、道雪の死後間もなく別居に至ったという。
この頃、筑後国内及び周辺の攻防戦は激しさを増していた。
宗茂の初陣はこの年のことで、養父道雪と実父紹運と共に出陣した十五歳の若武者は、五十騎を率いて奮戦し、家臣とともに敵将を討ち取っている。
この後も戦乱は続き、父二人が出陣した後の立花山城の留守を預っていた宗茂は、一千程度の留守部隊を指揮して、秋月軍八千の攻撃隊を翻弄している。
立花・高橋軍は、竜造寺軍、島津軍を破って、筑後国の大半を奪回したが、天正十三年(1585)に道雪が病死すると情勢は一変し、大友軍の戦意は低下していった。
天正十四年(1586)、島津軍は五万の兵力で筑前国に侵攻した。
実父紹運は岩屋城を守って徹底抗戦するも叶わず、玉砕して果てた。
この時宗茂は立花山城にあって同じく徹底抗戦を続けていて、時には積極的な遊撃戦を行い、島津本陣への奇襲攻撃を成功させるなどして、ついに島津諸軍を撤退に追い込み、岩屋城などの奪回を果たしている。
この戦いの後、大友宗麟は豊臣秀吉に対して、「義を専ら一にし、忠義無二の者であれば、御家人となし賜るよう」と宗茂のことを要請したとされる。
立花宗茂、二十歳の頃のことである。
その後、秀吉の九州遠征では、西部戦線の先鋒隊として活躍、肥後国を制圧し、さらに島津軍を追い詰めて行った。
戦後、秀吉はその功を認め、筑後柳川十三万二千石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てたのである。
天正十五年、佐々成政が移封した肥後国で大規模な国人一揆が発生した。この時も宗茂は一千余の軍勢を率いて援軍として戦い、食糧補給や鎮圧に大きな成果を挙げている。
天正十六年には上洛し、従五位下侍従に叙任され、秀吉からは羽柴の名字と豊臣姓(本姓)を与えられている。軍功抜群であったとしても、まだ二十二歳の若武者に対してのこの待遇は、いかに秀吉が立花宗茂を大器として見ていたかが分かる出来事である。
さらに、天正十八年の小田原城攻めの折には、秀吉は諸大名の前で、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と宗茂の武将としての器量を最大限称えているが、この時、本多忠勝が四十三歳の徳川家中有数の歴戦の大将であるのに対して、宗茂は大名になっていたとはいえ、まだ二十四歳という若い武将だったのである。
文禄の役・慶長の役という朝鮮半島での戦いにおいても、宗茂の勇将ぶりは際立っていて、その果敢な攻撃で援けられた武将は少なくなかった。
小早川隆景はその活躍ぶりを「立花家の三千は、他家の一万に匹敵する」と称え、加藤清正は「日本軍第一の勇将」と賛辞を惜しまなかったという。
この戦においても、秀吉からは「日本無双の勇将たるべし」との感状が与えられている。
しかし、その一方で、一門の重臣である立花鑑貞など、多くの家臣を失うという損失を出している。それらの経験を経て、宗茂は家臣に対して極めて真摯な対応を心掛けたようで、この後の不遇の時期にも家臣たちの信頼は続いたのであろう。
何もかも順風満帆に見えた宗茂の生涯は、秀吉の死によって大きな転機を迎えることになる。
時代は徳川家康の天下へと大きく傾き、やがて関ヶ原の合戦へと移って行くのである。
* * *
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では、立花宗茂は西軍方に属した。
合戦が避けられない状況となった頃、宗茂は家康から法外ともいえる恩賞を約束され東軍方に与するよう誘われたが、「秀吉公の恩義を忘れて東軍方につくのなら、命を絶った方がよい」と拒絶した。
家中の重臣たちも秀吉恩顧の有力大名からの誘いを受けており、西軍には勝ち目はないと徳川方につくよう進言したが、「勝敗に拘らず」と受け入れず、重臣に留守を任せて自ら出陣していった。
立花軍は、まず伊勢方面に展開していたが、その後、大津城攻めに加わり、部隊は一番乗りを果たし、三の丸、二の丸までも攻め落としていったが、そこで関ヶ原での西軍壊滅を知った。
結局立花軍は、関ヶ原での戦いには直接関わることなく大坂城に引き返した。
大坂城に戻った宗茂は、総大将である毛利輝元に徹底抗戦を進言するも受け入れられず、輝元は家康に恭順することを決めたため、宗茂は立花軍を率いて自領柳川に向かった。
その途上、同じく自領に引き上げる島津義弘と同行することとなった。
島津軍は、僅かな兵力で関ヶ原の本戦に加わっていたが、西軍総崩れの中を堂々と中央突破を果たして大坂城に辿り着いたが、その戦力のほとんどを失っていた。
宗茂の実父高橋紹運は、島津の大軍の攻撃で玉砕しており、今こそ仇敵である島津義弘を討つべきだと家臣たちはいきり立ったが、宗茂はそれを許さず、「敗軍を討つは、武家の誉れにあらず」と言って、反対に島津勢の護衛を申し出て、義弘と友誼を結び、無事に自領に帰りつくことが出来たのである。
しかし、九州はまだ戦闘の最中であった。柳川は、九州の席巻を目指す黒田如水や加藤清正、鍋島直茂らの大軍の攻撃を受けていた。
城に入った宗茂は、すでに勝敗の帰趨を知って自ら出陣することはなかったが、大軍の攻撃に抵抗を続けた。戦いは十月末頃までも続いたが、朝鮮の役で懇意となっていた加藤清正らの熱心な説得を受けて、ついに降伏した。
島津義弘は無事に帰国を果たしていたが、柳川の戦況を知ると、薩摩から援軍を送ったが、到着したのは開城の三日後であったという。
開城後は改易となり、宗茂は浪人生活となる。三十四歳の頃である。
宗茂の器量を高く評価する武将は多く、加藤清正や前田利長などからは家臣に迎えるよう働き掛けがあったが謝絶している。しばらくは、加藤家に出仕するが、食客扱いという清正の好意を受け入れたものらしい。
やがて、なお宗茂のもとを離れない家臣を引き連れて、浪人の身でありながら京都に上った。
なお、正室の闇千代は、立花家改易後は肥後国玉名郡に移り住んでいたが、慶長七年(1602)十月に亡くなっている。享年三十四歳、この女性の生涯も、波乱に満ちたものであった。
慶長八年、江戸に下った宗茂は、本多忠勝の世話で、家臣らとともに高田にある寺院で蟄居生活を始め、翌年、忠勝の推挙で江戸城に召し出された。
これまでの宗茂の勇将ぶりは家康もよく承知していて、御書院番頭として五千石が与えられ、間もなく徳川秀忠の御伽衆に加えられ、陸奥国棚倉に一万石が与えられ、大名として復帰したのである。
宗茂三十八歳の頃のことで、その後、同地で加増され三万五千石に至っている。
実は、「立花宗茂」を名乗るのは、この頃からなのである。
大坂の陣では、家康は宗茂が豊臣方に与することを恐れ執拗に説得したといわれ、夏の陣では秀忠麾下で実戦にも加わっている。
元和六年(1620)、家康はすでに没していたが、幕府から立花家の旧領である筑後国柳川に十万九千二百石が与えられた。関ヶ原の戦いで西軍として参戦し、一度改易されてから旧領復帰を果たした唯一人の大名となったのである。
立花宗茂は五十四歳になっていた。改易されて二十年目の復帰であった。
しかし、柳川復帰後も、自藩の運営に直接当たることはあまりなかったようである。特に、寛永十四年(1637)の島原の乱で総大将松平信綱を補佐し勇将の姿を見せた翌年には、養子の忠茂に家督を譲っており、その後はほとんど江戸での生活であった。
その理由としては、戦国武将としては年齢が若く、伊達政宗などと共に家光に戦国の物語を語る相伴衆の役目にあり、秀忠、家光に近侍することも多く、諸大名屋敷などに出向く時に随伴するなど重用されていたためである。
それと、まったく個人的な意見であるが、柳川復帰直後の頃は、まだ世間には、西軍や豊臣氏に同情を寄せる勢力や浪人も多く、立花宗茂という稀有の勇将を野に放つことに幕府が懸念を抱いていた可能性があったかもしれない。
宗茂は、幕府の中枢を知り得る人物として、地方の外様大名たちに相談に乗ることもあったらしく、その清廉潔白な人柄は、多くの大名たちに頼られたらしい。
寛永十九年(1642)、宗茂は江戸柳原の藩邸で死去した。享年は、七十六歳であった。
生涯にわたって実子に恵まれておらず、直系の子孫はいない。
立花宗茂という人物の生涯を手繰ってみると、その名前の複雑さに驚く。
出自が吉弘氏であることは確かであるが、すでに述べたように、誕生時点での父の姓が、吉弘か高橋かはっきりしない。一般的には高橋氏とされているようではある。
宗茂が用いた名前を列記してみる。なお、最初の二つは幼名である。
高橋姓・・千熊丸、彌七郎、統虎
戸次姓・・統虎
立花姓・・鎮虎、宗虎、正成、親成、尚政、政高、俊正、経正、信正、『宗茂』
である。
まさか気まぐれで名乗った名前などあるまいから、改名のいきさつを調べるだけでも何か大きな秘密が見つけ出せそうな誘惑に駆られる。
それはともあれ、戦国時代を生きた武将には魅力的な人物が多い。
しかし、立花宗茂ほど、手放しで称えられる記録が多い人物は少ないのではないだろうか。
( 完 )